2017年11月23日木曜日

「その当時、そんな道はなかった」

親御さんの多くは、「支援を受けることが、この子の成長と自立と生活のためにつながる」というところから出発されるように感じます。
親御さんご自身が経験してこなかった世界です。
知識を集めるところから始めなければなりません。
子ども時代にはなかった概念、サービス、選択肢なのですから、自分以外の“専門家”が必要で、どうにかしてくれる、助けてくれると思うのが自然だといえます。


この出発点は、皆さん、同じですが、徐々にそれぞれの道へと分かれていかれます。


まずは、そのまま突き進まれる方。
私はよく「支援の量と、お子さんの成長と自立と生活の質は比例するわけではない」と言っていますが、「いろんな支援を、より多く受けさせることが、この子の幸せになる」と思い、信じ続けられている方たちがいます。
今日は療育機関に行って、明日は病院に行き、支援ミーティングをやって、夜は余暇活動の準備で、週末は親の会、学習会…。
「我が子のためになんでもやりたい」という想いとエネルギーに共感いたしますが、家族全体が疲れて見えることが少なくありません。


また、お子さんが親御さんの想いほど伸びていない、むしろ、こんがらがっているということもあります。
その理由は、端的に言えば、子どもが見えていないから。
子どもの成長と状態を見て、その時々で取捨選択をしなければならないのにも関わらず、あれもこれもと集めることに終始ししてしまった結果、必要のあるものもないものもごちゃまぜ状態になり、子ども自身がこんがらがってしまっている。
支援者は、親御さんはお客様であり、いっぱい利用してくれることが有難いですから、「頑張ってますね、お母さん」「その想い、行動力に、私達の方が頭が下がります」なんておべんちゃらを言いますが、親御さんにそれを真に受けてしまう状況があり、真に受けて育て直す発達のヌケをお持ちなのだと思われます。
いつしか、我が子のために頑張っている親御さんが、頑張っている自分のためにいる親御さんに変わっているなんてこともあります。


支援に対し、疑問が芽生えてくると、分かれ道が出てきます。
このまま支援を受け続けても、希望していた将来に近づいていけない。
または、もう無理かもしれない、そもそもが無理だったかもしれない。
疑問が無念な思いと結びついてしまうと、その無念さが別の果てしない夢へと誘います。
「変わるのは、子ども達ではなく、社会の方なんだ」
発達の遅れ、障害を指摘されて一番に啓発活動に向かう親御さんは、ほとんどいません。
一生懸命、良い支援を、より良い成長を、と頑張ってこられた親御さんが、途中から啓発活動へとのめりこみ始める姿も見てきました。
どう考えても、社会を変えるより、我が子を変える方が確実な方法です。


支援の限界を悟ったとき、啓発には向かわず、「ありのまま」への道に進む方もいます。
「障害なんだから仕方ないんだろ」
特性も、誤学習も、未学習も、不適切な養育も、すべてみんな障害のせい。
そう考えることで、消化できない無念さを宙に浮かしているように見えることもあります。
最初から、親御さん自身に人として問題や課題のある方もいます。
しかし、「障害なんだから」という親としては投げやりな態度に、無念さの反動を感じることがあります。


「とにかく支援を受けることが必要だ」から、そのまま、特別支援の世界に突き進むか、途中で疑問に感じるかが分かれ道。
そして、特別支援に対する疑問から、啓発へと進むか、ありのままへと進むかが分かれ道。
以前は、大雑把に言って「特別支援に染まる」「啓発という現実逃避に向かう」「ありのままを求める」の3つの道で落ち着かれる方がほとんどだったように感じます。
でも、ここ数年で、この3つ以外の新たな道へと進む方が増えてきたと思います。
それが「治す道」です。


すでに成人されている方の親御さんとお話ししたとき、3つの道以外に、今は治る道があることを伝えました。
すると、「そんな道があることを知っていたら、絶対に治る道を選んでました。治る道が一番良いに決まっています」と、ぼろぼろと涙を流されました。
この親御さんは、特別支援の世界に対する疑問を持ちながらも、そのまま突き進んでいかれた方でした。


現在、社会の中で資質を活かし、自分らしく生きている発達のヌケや遅れがあった方達。
その当時、道はなかったけれど、自分の信念の元に子どもを育て、歩まれてきた親御さん達。
そして、全国で優れた実践を行われてきたプロフェッショナルの方達。
そういった方達が一歩ずつ足を下ろしてきた後に、新たな道ができたのだといえます。


狭い特別支援のムラの中のみに居場所を作るのではなく、
社会を変えるという果てしない夢を追うのではなく、
「ありのまま」を自分にも、他人にも、社会にも強要するのではなく、
発達のヌケや遅れを育て直し、治しやすいところから治していく道。
新しくできた道の存在を知り、そのあとを歩く人が増えていけば、道は固くなり、広くなっていくはずです。
私は、治る道を進もうとする人とともに、歩んでいこうと思いますし、子育てが始まったばかりの親御さん達に、純粋な親心のままで良い道があることを伝えていきたいと考えています。

2017年11月22日水曜日

突然の指摘に、迫りくる選択と手続きの中で

先月くらいから、以前、就学時健康診断について書いたブログのアクセスが増えています。
特に今月は、ほぼ毎日、誰かしらが読まれています。
この時期は、全国各地で行われているのでしょう。
先日、息子も就学時健康診断を受けてきました。
生まれてから同じ月日を過ごした子ども達ではありますが、この6年間をどう過ごしてきたのかが随所に表れていたように感じました。


私のブログに辿りつくということは、発達の遅れが指摘された子の親御さんが多いものと想像します。
実際に相談に来られる方たちの中にも、「就学時健康診断で指摘されて」という親御さんがいらっしゃいます。
どの親御さんも、我が子の障害を受け入れるかどうか以前に、初めて障害の存在を知り、そうかと思えば、選択を迫られています。
「支援学級を希望されますか?通常級を希望されますか?」
「お子さんの場合は、支援学級での教育が適していえます。つきましては、なるべく早く診断を受けに行ってください。医療機関で診断を受けたあとは…」
同じように、驚きと戸惑いと不安がごちゃ混ぜになった感情の中、ネット上に情報を求められた親御さんが、今日もどこかにいるのだと思います。


「障害についてわからない」
「どんな教育が良いのかわからない」
「障害を持った人の大人の姿がわからない」
みなさん、「わからないことだらけです」とおっしゃいますが、それは当然のことです。
翌年の4月から特別支援を受けるなら、すぐに動き出さなければなりませんから。
親御さんご自身の気持ちと向き合う暇はなく、やらねばならないこと、選択しなければならないことをこなしていくだけで、すぐに年が明け、入学の時期になってしまうのですから。


「障害を持った子は、放課後、児童デイに通うらしい」
そんな情報を得た親御さんは、いろいろと見学に行かなきゃ、申し込みをしなきゃ、とさらに自分の気持ちと向き合う時間を後ろにやり、翌年の4月に向けて突き進まれます。
当然、福祉の仕組み、特別支援の実態などを知る由もなく、支援を受けることが普通であり、良い支援を受けさせることが、この子にとって良いことになる、そんな思考を作り上げてしまいます。


突然の指摘に、迫りくる選択と手続き。
そんな中で、ゆっくり自分の気持ちと向き合う時間がないかもしれません。
でも、 ご自身の内側から湧き出てくる自然な感情と向き合うことが重要だと思います。
すると、親としてどうしたいのかが見えてくるはずです。
そして、与えられた選択肢以外の選択肢が見えてきます。


「障害を指摘されて、子どもが私の手から別のところに離れていった気がしました」
そんな風におっしゃった親御さんがいました。
これこそ危険なことなのです。
障害という未知のものと出会い、我が子が自分の経験した世界とは別の未知の世界へと歩みだすような感覚。
しかし、障害を指摘された前後で変わったのは親御さんの心情であって、その子自身ではありません。
「こんな風に成長してほしい」
「こんな大人になってほしい」
その気持ちのままで、子育てを続けられればよいのです。


障害があるから特別支援教育を受ける、支援サービスを受ける。
今は、それ以外の選択肢もあります。
発達に遅れがあるから、それに応じた教育、支援を受ける、だけではなく、発達に遅れがあるから、その遅れを育て直す、という選択肢もあるのです。
育て直しは、今日から、親御さんが家庭の中でできるものなのです。


「就学時健康診断で障害を指摘されました…」という親御さんに、「だったら、その発達のヌケ、遅れを育て直しましょう」とお話しすると、大変驚かれます。
そして、多くの親御さんが涙を流されます。
本当は、ご自身の自然な気持ちに添った選択肢がないものか探し、求めていたのだと思います。
突然の指摘に、迫りくる選択と手続きのときだからこそ、一度立ち止まって、本当に求めているものを選んでいただきたいです。
そのために私は、「治す」「治る」という選択肢があることをもっと発信していきたいと考えています。

2017年11月12日日曜日

障害者をメンドリに仕立てる土壌の正体

福祉施設で働いていたときも、支援学校で働いていたときも、同僚の人達は一生懸命で、「利用者、生徒のために頑張りたい」という人ばかりでした。
現場の職員の中に、「この子の障害は重いままで良い」「問題はそのままで、成長しない方が良い」と考えている人はいませんでした。
それは当たり前のことで、支援者は問題がなくて、自立的に生活できる人の方がラクですし、教員は子どもの成長を願う人が就く仕事ですから。


しかし、このように障害を持った人をメンドリにしようとは思っていない現場の職員たちも、知らず知らずのうちにメンドリ化の土壌を育みます。
それは、障害を持った人と関わる仕事を求める人の中には、身内に障害を持った人がいる人が多いこと、愛着障害を持った人が多いことが関係しています。
障害を持った身内(その多くは兄弟児)がいる職員と一緒に仕事をしていますと、どうしても手を貸し過ぎる傾向があります。
そういった様子からは、子ども時代、手を貸すことを求められ、また手を貸すことで家族から有難がられていた姿が見えます。
口では「自立」と言うものの、先に、先にと自然に動き過ぎることがあるため、結局、その人を自立から遠ざけてしまう、介護慣れさせてしまいます。


同様に、愛着障害を持った職員は、自分を頼ってくれる人がいることで自分の存在価値を感じようとする傾向がありますので、その子が自分の手から離れようとすると、急に気分が落ち込んだり、そうさせまいとしたりします。
ですから、これまた無意識のうちに自分の側にい続けてくれることを求め、結果的にメンドリとして籠の中に閉じ込めてしまうのです。


他にも、特に教員は、子どもが障害を持っているから自分が先生であり、その子が生徒になりますので、支援級から普通級へ転籍するのを嫌がったり、自分の力量不足や課題の多いクラスを受け持った場合には、一人ひとりに合わせて伸ばしていくよりも、その日一日を無事に終えられるよう学級適応を目指した指導になってしまったりすることもあります。
福祉の場合は、志を持って就職した人よりも、「仕事がなくて」や転職組が多いですから、もともと知識を持っていない、障害=介護だと思っている、問題なく静かにしててくれればよいと思っているなど、結果的に大人しいメンドリを求めて仕事をしてしまいます。


このように直接かかわる現場の職員は誰も最初から障害を持った人をメンドリにしようとは思っていませんが、結果的にメンドリを求めてしまう土壌があります。
一方で直接かかわらない管理職や相談職の人達は、意識の中にメンドリがあるように感じます。
それは個人の問題もありますが、それよりも制度の影響が大きいといえます。
より重い人により多くのお金が、利用回数に応じてお金が増えていく制度になっています。
成果は問われていませんし、数値として出る障害ではありませんので、支援者側のさじ加減で重くも、軽くもできてしまいます。
管理職は、ある意味、ブラック企業みたいな職場を任されていますので、どんどん自立させて、どんどん新しい人を受け入れるよりも、同じ人で、できるだけ大変じゃない人に長く利用してもらいたい。
だから、軽い人は重いように評価し、自立できそうな人は「もう少し支援が必要」と評価する。
同様に、相談職の人達も、猫も杓子も発達障害の時代で、一人が抱えている担当者数が多すぎる状況ですから、新規は受けたくないですし、一方で回数は稼がないといけませんので、同じ人を継続支援にしてしまう。


管理職や相談職の人というのは、もちろん、身内に障害を持った人がいる人も、愛着障害の人も、仕事がなくて&転職組も多いですが、それよりも制度からの影響で、メンドリ化しているように感じます。
猫も杓子も「発達障害」と診断するのも、「早期療育!」と言って早くから唾をつけておこうとするのも、治せないし良くならないから啓発活動、ライセンス活動に傾倒していくのも、愛着障害と制度が混ざりあった姿なのかもしれません。


特別支援の世界に入って15年くらいですが、最初から障害を持った人のことを「お金」としてしか見ていない職員はいませんでした。
むしろ、ほとんどの職員は良い人で、熱心な人ばかりでした。
しかし、良い人だからこそ、といいますか、良いだけの人が多いために、「障害者の楽園」みたいな方向に進みがちですし、都市部以外のところに支援校や福祉施設があることが多いので、村社会で、公共事業みたいになってしまう。
成果は評価に入らない制度が、「自立しない方が良い、お得」という価値観の形成を後押しし、愛着障害を持つ職員と合いなって多くのメンドリを育てる方へ向かうこととなります。


このことに気づかず、どっぷり支援の中に浸かってしまう親御さんは、いつの間にか、自立よりも、しっかり支援を受けられることを目指してしまいます。
結果として、支援者にとって良いメンドリになることが、良い人生につながると錯覚してしまうのです。
また、ずっと利用してもらいたい支援者側と、責任を持ちたくない、もうすべて任せてしまいたい親御さんが、同意の上でメンドリにしてしまうこともあります。


メンドリとして育った人は、他の誰かが食する卵を産むことはできますが、自らの羽で飛べることを忘れ、それができなくなってしまうのです。
ですから、特別支援の世界にはメンドリを育てる土壌があることを知ったうえで、本人、家族自らできることは行い、そして足りない部分、できない部分を教育、支援で育んでいくのがメンドリではなく、社会に羽ばたく人を育てることにつながると思います。


2017年11月10日金曜日

親御さんは、治ってほしいから早期療育に行く

幼い子の親御さんは、みなさん、「治る」を求めていらっしゃいます。
最初から「一生涯の支援」なんて求めてはいないのです。
改善ではなくて、治るが希望です。


「治したい」というのは親として当然の想いです。
そんな当然の想いをもって、早い時期から療育を求めていきます。
ですから、早期療育というのは、治したいという想いを持った親御さんが受けに行くものです。
しかし、早期療育をおこなう方は、親御さんと同じ想いを持ち併せてはいません。
むしろ、親御さんの希望とは正反対の方を向いているのです。


私のところにいらっしゃる親御さん同様、発達障害を治したいと思い、また治ることを期待して早期療育を受けに行きます。
幼い我が子を抱きかかえ、いろんな時間と引き換えに療育機関に行く。
そして辿りついた先が、期待していたもの、希望したものではなく、一生涯の支援コース。
障害があるのだから、より多く支援を受けることこそが、親にできることであり、この子の幸せにつながる…。
そんな風に囁き、特殊な価値観に誘導していくのです。


一生涯の支援が決まっているのなら、年端もいかない子を抱きかかえ、いろんなものを投げ打って、早期療育とやらに行くでしょうか?
親御さんは早期から療育を受ければ、症状は治っていくし、将来の自立につながると思っています。
それなのに、何をやるかと思えば、絵カードの使い方の練習、ごく限られた場所でしか意味をなさないSST…。
これって支援者が支援しやすいような“植え付け”を行っているだけでしょ。
早期から支援を入れておけば、あとあと支援がラクっていうのでしょ。
早い時期からメンドリにしておこうっていうのでしょ。


早期療育というのは、治す方を向いていないといけません。
支援導入期ではなくて、この子が生を受けたそのときから今までにやり残してきた発達のヌケを育て直す時期だと思います。
早期から発達のヌケを育てなおしてきた。
それでも埋まらないものがあれば、そこは上手に支援を受けながらより良く成長と生活の充実を目指していく。
それが自然な姿、流れだと思うのです。


幼い子の親御さんは、いろんな面で余裕がありません。
そんなとき、親なら誰でも思うし、願う「治る」だけをもって早期療育の扉を開けてしまいます。
扉を開けた瞬間から走りだし、気が付いて振り返ったときには、すでに扉が見えなくなっていた…そんな家族の姿も多く見てきました。
ですから私は、幼い子の親御さんとお会いすると、情報提供をしています。
福祉は慈善活動ではないことを。
支援者はマザーテレサではなく、普通の人間であり、労働者であることを。
そして、早期療育の中に「治す」という選択肢は用意されていないことを。
診断の扉を開けても、療育の扉を開けても、相談の扉を開けても、就労の扉を開けても、結局、建物の中ですべてつながっている。


現在、早期療育を受けてこなかった人の方が自立した人生を送っている、そんな状況が生まれているのです。
早期療育とは、早期から支援しやすい人、支援を受け続けてくれる人を作るために行われているものと言われても仕方がない状況です。
わざわざ余裕がない時期に受けに行くものではないのです、早期療育とは。
だって、療育する人間が一生涯支援が必要だって言っているのですから。
幼いときだからこそ、家でできる育て直し方があるのです。


一年前に書いたブログ→『そろそろ「早期療育」の結果が出る頃では?』

2017年11月1日水曜日

一回目の個別相談会を行いました

今日は一回目の個別相談会でした。
朝から断続的に雨が降り、自分の日頃の行いの悪さを恨んでいましたが、5組のご家族の方達に来ていただきました。
年代も、悩まれていることも、育てたいところも、皆さん、それぞれでしたが、「我が子のためにできることをしたい」「自分たちでしっかり育てたい」という強い想いを感じました。
このような強い想いを持ち続けていれば、子どもさんはより良く成長できると思いますし、このような親御さん達が増えていくことが、地域と社会を変えていくことにつながると思いました。


この相談会には、私のスケベ心があります。
相談にいらした方達の中から、実際の発達援助の利用につながれば良いと思い、またそれを目的としています。
個人事業主は、ボーと指をくわえて待っていれば仕事がやってくるわけはありませんので、いろいろな手段で、お客さんを獲得していかなければなりません。
そうやって試行錯誤しながら5年間、過ごしてきました。


しかし、この相談会にはビジネスの側面だけではない目的もあります。
それは土を耕すということです。
私は、この地域に「本人と家族主体の発達援助」という土壌を作っていきたいと考えています。
「福祉がどうにかしてくれる」「専門家に任せておけば安心」というような長年に渡って培われてきた土壌を変えたいのです。


もちろん、私一人にできることは限られていますし、一変させるような実力はありません。
相談会でも、親御さんのお話を聞いて、100%の答えをお返しすることはできません。
ですから、家庭でできる発達援助を“一緒に考える”というスタンスになります。
相談にいらした方が、診断された瞬間から延びる特別支援のエスカレーター以外の道があることを知ってもらえれば、一番の目的は達成だと考えています。


「そうか、発達の遅れやヌケは、家庭でも育てていけるんだ」
「発達障害は治しやすいところから治していく、治るものなんだ」
そのような事実を知ると、「治ってほしい」と自然な親心が、子どもの発達を後押しする力になると思います。
「発達障害は治らない」「一生支援を受け続ける必要がある」「怒ったり、頑張らせてはならない」「社会の理解があれば、生きやすくなる」そんな情報しかない状況が、本人と家族を迷わせ、誤った選択へと導くのです。


「ネットで見て、来ました」という方達がいました。
私の事業のホームページは、「函館 発達障害」でも、「函館 発達相談」でも、函館のあとに発達障害に関連するワードをいれれば、1ページ目に出るようになっています。
検索画面1ページ目に並ぶのは、10の選択肢。
どこを利用したいのか、どこを選ぶのかは、一人ひとりの考えと意思になります。


大事なのは、「治ってほしい」という自然な親心に、「治りたいんだ、治したいんだ」という自然な想いに沿った選択肢が存在すること。
そのために相談会を通して「本人と家族主体の発達援助」という土壌を作っていきたいと思っています。
そして、いつの日か、家庭で当たり前のように発達の遅れやヌケを育て直すようになり、それによって治っていく子ども達、若者たちが、地域の中で資質を活かしながら、より良い人生と社会のために生きていく。
そんなことを目指し、夢見ながら、本業の収穫だけではないことも行っていくつもりです。
次回は、11月15日(水)!


2017年10月31日火曜日

支援を選べるけれど、捨てられない

選挙後、排除発言が話題になりましたが、どうしてそんなに騒ぐのか、私にはわかりませんでした。
あの発言があろうがなかろうが、勝つところは勝つし、負けるところは負けます。
ですから、「排除する」という言葉を強く受け取ってしまう人達が多くいて、排除自体を好まない文化があるのだと思いました。


排除といいますか、捨てるということは、子どもを育てることにおいても大切なことです。
子育てに正解はないのですから、特定の人や方法にこだわる必要はありません。
我が子に必要なもの、合っていると思うものをその時々で選び、カスタマイズしていけばいい。
良いとこどりが基本であり、必要なくなったものは捨てていく、選ばないというのの繰り返しです。


子どもの発達を後押しするのが上手な親御さんというのは、その時々で何を選ぶのか、何を捨てるのかが上手だと感じます。
その一方で、どうも後押しがうまくいっていない親御さんは、選んでいるけれど、捨てることができない、そんな風に感じます。


一度、良いと言われた方法があれば、それをやり続ける。
エビデンスがある、有名な支援者がやっているからといって続けるのも同じです。
「我が子に良いかも」と思った方法をあちらこちらから持ってくる。
だけれども、方法だらけになって、結局、何を育てたいのか、何を育てているのか、本人も、家族もわからなくなってしまう状態に陥ってしまう。


選べるけれど、捨てられない、止められない、という方を見ていますと、自ら選んでいるようで、本当は選べていないようにも感じます。
つまり、その取捨選択に主体性がない。
もし、主体的に選べているのなら、きっと「我が子のここを育てたくて、この方法を選ぶ」というように子ども発信で、具体的な目的があるはずです。
それだと、子どもが育ち、具体的な目的が達成されれば、その方法を捨てることができます。
ですから、選んでいるのも、自分の主体性からではなく、「良いと言われているから」「みんなやっているから」というような他者だったりするのです。


子どもは常に変化し、発達成長しますので、同じ方法で良いということはありません。
以前は良い影響を与えていたものが、却って妨げになるということもあります。
ですから、その時々で、子どもの変化を見ながら、必要だと思うものを選択し、そうではなくなったものを捨てていかなければなりません。
それには主体性が必要です。


排除発言にびっくりする人というのは、誰かに選んでほしいという思いを持った人ではないか、と感じました。
捨てられない人は、選べない人でもあります。
自分の中に基準があるから、具体的な何かがあるから、自分の意思を持って選べますし、捨てられる。
幼少期からずっと同じ支援方法のままで、子どもに成長ではなく、その支援適応が見られてしまっている方。
良いと思う方法をどんどん足すだけ足していって、何をやっているのかわからなくなってしまっている方。
こういった方達を見ますと、取捨選択のできる主体性が親御さんの中にもあるのか、育っているのかが重要だと感じるのです。


主体的に取捨選択できている親御さんは、その時々で子どもに必要な後押しができているように感じます。

2017年10月25日水曜日

問題を起こすのは障害くん!?

問題が起きたとき、問題を起こしたとき、障害が擬人化されることがあります。
「この子には障害があって…」
「本当は、問題を起こそうと思っていなかったんだけど…」
中には、迷惑をかけられた方に向かって、「あなたの〇〇という言動が、本人に誤って伝わったかもしれない」などと言うことも。
あたかも、障害という本人ではない何者かが、そうさせているような雰囲気を出します。


問題を起こす主体を本人から切り離すこと。
本人ではなくて、障害が問題を起こさせているとすること。
これを支援者がやるのなら、それは接待であり、本人や家族がやるのなら、それは責任転嫁です。
特別支援の世界では、あくまで本人、そして家族は、お客様です。
ですから、加害者側だったとしても、「一番困っているのは、一番苦しんでいるのは、本人なのです」と言います。
いやいや、一番困っているのも、一番苦しんでいるのも、被害を受けた人。
自己肯定感がどうのこうのと言っていますが、結局のところは、お客様の気分を害さないようにしているのです、加害者を障害くんのせいにすることによって。


今までにも、問題を障害のせいにする本人や家族と関わってきました。
そういう人たちに共通しているのは、問題がいつまで経っても直らないこと。
問題を自分から切り離すこと、問題を起こさせているのが自分以外であること。
そう思うことにより、今、ラクでいられることを選んでいるように見えます。
また同時に、「問題を誰かが解決してくれる」というような受け身の姿勢も見られます。
話をしていて、自分の問題なのに、どこか他人事のような雰囲気を醸し出すというのは、主体性が育っていない人であり、接待慣れしている人なのだと思います。


世の中の切り取り方の違い、想像のズレ、衝動性などが、問題とつながることもあります。
しかし、そうだとしても、問題を起こすのは、その人なのです。
問題を本人から切り離してしまうと、問題のきっかけになるようなことを排除する、刺激にならないように配慮するというように、周囲が気を使う対処療法が中心になってしまいます。
対処療法では、問題は解決しないといいますか、もともと問題を根本から解決しようとしていない、できないのです。
ですから、本人や家族が今、ラクのために、自分から問題を切り離したとしても、対処を求めるばかりで、いつまで経ってもラクにはなりません。


障害があろうとなかろうと、問題を起こしてしまったら、それを自覚し、責任を取り、二度と同じ過ちをしないように直していくこと。
これは、本人が主体的に行動しなければならないことです。
問題の芽は、自分の内側に存在しているのですから、自分の手で摘むしかないのです。


施設や教育現場で、障害を持った人の問題行動に心身共に傷ついている職員達がいます。
そういった職員達を苦しめているのは、経営者側、現場ではない講演や執筆、相談で仕事をしている側の「問題を起こしているのは、本人ではなく、障害である」「問題を起こす本人が一番苦しんでいる」というセールストークだといえます。
これを信じてしまう職員は、自分の腕のなさを嘆き、自分が我慢することこそ支援だというように捉えてしまいます。
それを呑みこめない職員、つまり、問題を起こす人を嫌だと思う、嫌いだと思う職員は、障害を持った人を嫌っている自分は、この仕事に向いていないと去っていくのです。


問題行動を直すには覚悟がいります。
一番は本人が、そして携わる人間も。
今までにも、現在進行形でも、問題を持った人と関わっています。
問題を本人の内側にあるとした時点で、支援する側の腕が問われます。
また責任も生じます。
ですから、覚悟がいる。
でも、本人とともに、携わる人間も覚悟がなければ、問題は直ってはいきません。
一般の人であっても、家族であっても、学校の先生や施設の職員であっても、傷つく人が出て欲しくない。
そう思いながら、本人には覚悟を持つように伝え、自分自身も覚悟をもって関わっています。