2018年1月21日日曜日

「元刑事が見た発達障害」(花風社)を読んで

できることなら、14年前の自分に渡したい本だと思いました。
14年前の今頃、配属先が決まり、私は社会人の第一歩を入所施設の支援員として踏みだすのです。


私が働いた7年間は、障害者福祉の転換期だったと思います。
戦後から長らく続いていた措置制度から支援費制度への転換。
ノーマライゼーション、障害者の権利擁護、サービス利用者と提供者の対等な関係…。
急激な変化の波にのみこまれ、どうにか海面から顔を出そう、みんながもがいていたように見えました。
それまでずっと愛称で呼んでいた入所者の人達が、「利用者さん」という呼び名に変わりました。
とにかく利用者さんには、「怪我をさせてはいけない」「身体に触れるのは必要最小限にし、誤解を招かないようにしなければならない」「言葉使いも丁寧な言葉にするように」と、何度も、何度も言われました。


強度行動障害を持った人達がいた施設でしたので、「利用者さんを怪我させないで、自傷、他害、パニックを制止する方法」などという研修会もありました。
しかし、それを主催する管理職が本を片手に、しどろもどろに説明する姿を見ていると、社会の変化に福祉が追い付くのは、まだまだ先だと感じました。
私が働いた7年間は、旧来の福祉と新しい福祉が同居し、混ざり合おうとするけれども、混ざり合えない、そんな風に見えました。


現場に「ケガせず、ケガさせず」の方法を教えられる人も、実践できる人もいませんでした。
上司からは、「とにかく利用者に何かがあってはいけない」と言われます。
その言動から「支援者がどうなろうとも」という音のない言葉が、いつも聞こえてきました。


職員一人で15名、20名の利用者をみなければいけない環境。
そんな中で、上司からは「利用者だけは怪我させてはいけない」とプレッシャーを掛けられる毎日。
職員はただでも厳しい労働環境の上に神経をとがらせ続けないといけなくなる。
そして著者の榎本氏の言葉をお借りすれば、施設全体で「エネルギー戦争」に突入していたのだと思います。


職員が慢性的なエネルギー不足になり、利用者からエネルギーを奪う。
奪われた利用者は、自傷、他害という自己治療を始める。
その場にいた職員は、上司から責任を問われ、注意を受け、さらなるプレッシャーを掛けられる。
だから、「ケガせず、ケガさせず」の知識も、技能も、視点もない職員は、とにかく自傷、他害という自己治療を止め続ける。
その結果、能力的にも、環境的にも、自己治療できない人は、自滅を選んでいく…。
「誰も幸せにしない」
そう感じたのが、施設職員を辞めようと思った始まりでした。


某有名支援者がノリノリだった時期とも重なって、『鬼手仏心』の鬼手ばかりを求められ、自傷、他害、パニックを止めるのも、自傷、他害、パニックを起こさせるのも、すべてWHATとHOWだと言われました。
だから、必死に「目に見えるもの」を高めようと突き進んだ。
でも、榎本氏がおっしゃるように、仏心があっての鬼手。
「身体、非言語、情のアプローチなど措置制度時代の古くて、牧歌的な支援だ」
そんな風に切り捨てられたことも影響したのでしょう。
あの当時の私が、この本を読んでいれば、もっとお互いが幸せて、自由という雰囲気の中で交流できたかもしれないと思ったのでした。


私もこの本を読むまで、テレビのイメージと狭い知識の中でしか司法を捉えることができていませんでした。
「警察が何を守っているか」を知れば、社会の中でよりよく生きていくための学びへとつながる。
「何をすればおまわりさんに捕まるか」を知れば、自由に生きることへとつながる。
私達が発達を後押ししている子ども達の「共存」を真剣に考えるとき、土台となる知識とヒントを与えてくれる本だと思いました。
子ども達が伸びやかな生活、人生を送られるようにするために、我々大人がきちんとした共存のためのルールを知り、遵法教育をしていくことが大切だと改めて教えていただきました。
貴重な知識と経験をお話ししてくださった著者の榎本氏と、この本を世に送りだしてくださった花風社さんに感謝です。


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2018年1月20日土曜日

動きを生む言葉

セッションの報告書、引き継ぎ資料を作成する際、「受け取った人に自然と動きが出るようなものを書こう!」と強く意識したのは、2016年に出版された花風社さんの『人間脳を育てる』という本を読んだからなんです。
いや、厳密に言えば、2つの言葉に出会ったから。
その言葉とは、「発達のヌケ」「回数券を使い切っていない子」です。


この言葉を目にしたとき、私は動きを感じました。
そして、この言葉は、本人や親御さん達に動きを生みだすと思ったのです。
それから、ずっとこの言葉を好んで使うようにしています。


自閉症や発達障害は、「先天性の障害」「風邪のように治らない」「一生涯の支援」などという無機質な言葉で表現されることがあります。
また、その言葉をそのまま丸飲みにしている本人、家族は多いです。
こういった方達は、皆さん、動きが失われています。


でも、「発達のヌケ」「回数券を使い切っていない子」という言葉を見聞きした瞬間、私が感じたのと同じように、自然と身体が動き始めるのです。
「発達のヌケ」と聞けば、「じゃあ、ヌケを育て直そう」と動きが出ます。
「回数券を使い切っていない子」と聞けば、「じゃあ、使い切れるよう後押ししよう」と動きが出ます。
私がこの言葉をお伝えすると、ぱっと顔が明るくなり、動き出そうとする親御さん、動きたくて仕方がなくなる本人たちの姿をたくさん見ました。
言葉には、動きを持った言葉が、人を動かす力を持った言葉があるのだと思います。


花風社さんは、自閉症、発達障害に関する書籍を多数出版されています。
「治す」という道を探り、求め、進まれていること。
次々に魅力的な人達を見つけ、その方達の知見を世に送りだしていること。
これが他の出版社さんとの違いであり、花風社さんの特徴だと思います。
しかし、一番の魅力であり、私が花風社さんから出版される本を買い続けている理由は、上記のような「動きのある言葉」「自然と動きの出る言葉」を多数届けてくれるからだと思っています。


花風社さんの本を読んで気がつくのは、つくづくギョーカイの届ける言葉というのは、自分たちを着飾る言葉であり、まったく動きを生まない言葉だということ。
「先天性の障害です」
「風邪のように治りませんから」
「一生涯支援が必要なんですよ」
これらの言葉は、「だから、私達の言うことを聞け」「だから、私達がやっていることは専門的なことなんだ」という支援者の心のうちを現します。
また、これらの言葉を聞いた人達には動きが出てこないのです。
そして、我が子のために動きたい親心がどこにもいけなくなり、親御さん達の中に行き場のなくなった悶々とした感情が現れるのです。


ギョーカイは、動きを止める言葉ばかりを使っています。
何故なら、本人たちにも、親御さん達にも、動かれては困るから。
自分たちの元を離れるための動き、自分たちの力を必要としない動きを恐れているからです。
だからこそ、私は花風社さんの生みだす「自然と動きの出る言葉」に魅力を感じ、また自分自身もそのような動きだそうとする言葉を使いたいと思っています。


受け取った人に自然と動きが出るような言葉、「よし、やってみよう!」と前向きになれる言葉。
そして、その人の中に着想や試行錯誤を生むような言葉。
また同じように、言葉を通してだけではなく、私自身の態度、関わり方、心持ちでも、そういった動きが生まれるようにしていきたいと思っていますし、それが私の目標になっています。

2018年1月19日金曜日

封筒に想いを乗せて

元日のブログ更新からだいぶ時間が経ってしまいました。
「おっ、とうとうネタ切れか」とほくそ笑まれた方もいらっしゃるかとは思いますが、別のことを優先して行っていたのでした。


私は、あるお子さんに向けて、あるご家族に向けて、レポートを書いていました。
これから家族が中心となって進めていく発達援助を後押しするためのレポートです。
私はこのレポートを書く際、2つのことを心に決め、作成していきました。
それは「ご家族が試行錯誤できる文章にすること」と「心を込めて文章を書くこと」です。


日頃から、受け取った人に自然と動きが出てくるような報告書を書こうと思っています。
文章を読んでいて、その人の頭の中に着想や試行錯誤が生まれない報告書は意味がないとも考えています。
定期的にお会いできない方ですし、今回が最初で最後の直接的な発達援助になる可能性が高いですから、なおのこと、私の書いたレポートがバイブルにならないように、私の書いたレポートがご家族のアイディアの範囲を決める枠にならないように気を付けました。
枠ではなく、自由で活発な試行錯誤を生むための踏み台というイメージです。


最初にこのご家族から依頼が来たとき、私はお断りしようと考えていました。
しかし、やりとりを行わせていただいている中、その言葉からご両親の想いが伝わってきたのです。
「我が子には、自分の人生を自分自身で選び、決めて、歩んでいく人になってほしい」
「そのためには、親ができることは何でもしたい」
そういった我が子を想う純粋な親心を見ました。


このご家族の元に伺う前日、私は花風社さんが主宰する栗本さんのコンディショニング講座『自発性・やる気は育ちますか?』に参加しました。
栗本さんの講演と実技、会場の方達の言葉と反応を感じている中で、私はこのご家族によって心も、身体も動かされたのだと思いました。
距離は離れていても、面と向かってお話ができなくても、想いは伝わるし、その想いは人を動かすことができる。
振り返れば、年末の私は、自らの意思で学び、やる気に溢れていました。
このご家族の想いが、私の自発性とやる気を引き出し、成長させてくれたのです。


当日は長い時間のセッションとなりましたが、私の感覚ではあっという間の一日だったように感じました。
そして何度も、自分の頭の中になかった言葉が、発想が出てくるのに気がつきました。
きっと本人とご家族の「一つでも多くのことを吸収したい」「より良い成長と、より良い人生のために頑張りたい」という想いが、私自身が気づいていなかった言葉や能力を引き出したのだと思います。
帰りの飛行機の中、私は心地良い疲れでいっぱいでした。


栗本さんのコンディショニング講座を挟み、ご両親からの依頼、実際のセッションがありました。
だからこそ、私は「心を込めてレポートを書こう」と思ったのです。


これからの子育ての中で、また環境の変化の中で、本人も、ご両親も悩まれることが多々あると思います。
また専門家と呼ばれる人や学校の先生、支援者、同級生の親御さんなど、様々な人が様々なことを言ってくるはずです。
でも、このご家族なら共に成長し、困難も乗り越えられます。
どんな専門家、支援者、学校の先生よりも、我が子の成長と幸せを心から願い、我が子の発達を後押しできるのが、お父さんとお母さんです。
発達のヌケは埋まり、伸びやかに成長していくはずです。
将来、自分の資質を他人とより良い社会のために活かせる大人に成長できます。
きっと治ります!治っていきます!


栗本さんは「物を手渡す」ことを通して、私達に大事なことを教えてくださいました。
だから私は、このような想いを込めて文章を書き、そしてこのような想いがレポートを通してご家族に届くようにと気持ちを込めました。
レポートの内容もそうですが、封筒に込めた思いが、お子さんの発達とご家族の発達援助の後押しになれば、これ以上、嬉しいことはありません。


2018年1月1日月曜日

2018年も一人ひとりの命と真剣に向き合う発達援助!

私は、どの親御さんにも、お子さんがお腹にいたころの様子、出産時の様子を必ずお聞きします。
この時期の話の内容は、とてもプライベートなことです。


親御さんによっては話すことに抵抗があったり、「もしかしたら自分のせいで」と傷つかれることも多々あると思います。
でも、私は敢えてお尋ねします。
それは親御さんを責めるわけではなく、発達に遅れが出た原因を探したいわけでもありません。
目的はただ一つ。
発達のヌケを育てなおすためです。


ギョーカイの支援者にとって、妊娠中の話、出産の話に触れることはタブーとなっています。
それは「発達障害は親のせいではありません」という戒律があるからです。
発達障害は生まれつきの障害であり、親の育て方でなるものではない。
古くは、親の愛情不足が自閉症の原因だと言われ、親御さんが責められていた時代がありましたので、その揺り戻しとして決して親御さんを責めるようなことは触れてはいけないと頑なになっているのです。
また職業支援者は、親御さんがお客様ですので、少しでも気分を害されるようなことには触れないのです。


目の前の子と真剣に向き合おうとしたら、生を受けた瞬間から今までのその子の物語を見る必要があります。
生を受けた瞬間とは、出産時ではなく、受精したその瞬間のことです。
その子の生きてきた物語の流れを知らずして、今の発達援助も、未来の予測もできるはずがありません。
ある一部分を切り取ったら、それは流れのない、生を感じない支援になるのです。
ですから、ギョーカイの支援とは、過去と未来とのつながりのないその場限りのものになっています。


定型発達と呼ばれている子ども達だって、順風満帆な順序通りの発達をしているわけではありません。
発達の凸凹は誰にだってある。
だからこそ、一人ひとりの発達の物語を見て、どこから、何から育てなおすかを知る必要があります。


医療が進歩し、以前だと生まれてくることができなかった子ども達がこの世に飛び出すことができるようになっています。
医療の進歩の歴史と人類の進化の歴史を比べると、とてつもない時間の差があります。
ですから、遺伝子レベルで変化に追いつけていないこともあるでしょう。
しかし、この世に生まれてきたことは素晴らしいことであり、一人ひとりがこの社会、未来を築いていく大切な子ども達です。
変化に適応できず、その結果として発達に何らかの影響があるとしたら、それを育てなおしていく。
それこそが、人間の知恵であり、一人ひとりの人間を大切にすることだと考えています。


私は初日の出を見ながらランニングをしてきました。
おせちをお腹いっぱい食べました。
家族みんなで元旦を過ごしました。
当たり前のように新年を迎えたように思えますが、それもこれも元気な身体があり、生きているから味わえたことなのです。


商売を重視すれば、ギョーカイ支援者と同じように、妊娠、出産の話題に触れない方が良いのかもしれません。
でも、それはその子の生命と真剣に向き合っていないことだと思います。
真剣にその子の命と向き合うからこそ、真剣にその子の発達のヌケを育てなおしたいからこそ、その子の歩んできた物語を切り取ってはならないと思うのです。


発達のヌケは、言語以前の段階で生じる。
だからこそ、受精からの出産、生後数年の話が重要です。
私は、今年も一人ひとりの命と真剣に向き合う発達援助を行っていきたいと思います。
どうぞ本年も宜しくお願いいたします。


2017年12月31日日曜日

2017年は新たな縁が生まれた一年でした

2017年を振り返りますと、新しい縁に恵まれた一年だったと思います。
特に函館以外の方たちからの電話やメールが多かったです。
そして就学前、小学校低学年の子が多かったです。


みなさん、地元の支援者から繰り返される、すでに我が子の将来が決まったかのような言葉に、態度に、雰囲気に、疑問を感じ、傷つき、悩まれていました。
「専門家が言うことだから」といって、自分の内側から湧き出る感情を必死に抑えようとしている親御さん達も大勢いました。


しかし、「本当に自分が感じることは間違っているのだろうか」「本当に子どもが発達、成長する方法はないのだろうか」という親御さん想いが行動となって表れ、ネットを通じて縁を生んだのだと思います。
地元の支援者は無理だというけれども、それは知らないだけか、自分にはできないと言っているだけ。
別の地域に目をむければ、子どもの発達を信じ、後押しする親御さんがいて、実践家もいるのです。


幼い子の親御さんからの相談が増えるたびに、そしていろいろな地域の方からくるたびに、発達障害を持つ子ども達の未来は明るいと思います。
今までは、地元の支援者が子どもを、若者を、大人たちをグルグル巻きしておけましたが、もうそうはできません。
いくら「一生涯支援が必要です」と言っても、発達のヌケを育てなおし、発達の遅れを取り戻している子がいて、親御さんがいます。
発達障害が治り、自分の持っている資質を自分のため、社会のために活かし前向きに生きている大人たちがいます。
そういった姿が、地元では見えなくても、ネットを通して感じることができる今、親御さんの内側から湧き出る我が子への想いを「それは間違っていない」と後押ししているのです。


世の中で偉そうに、また子どもの未来が自分にはわかるかのように語る支援者は、普通に大晦日を過ごし、明日以降、正月休みを過ごします。
でも、その間も、親御さんは我が子の発達を後押しすることができる。
子どもの発達にお正月休みはありません。
今日、この瞬間も、よりよく発達、成長しようという動きが、その子自身の内側にはあるのです。
ですから、信じるべき指針は、その子自身の中と、一番そばにいる親御さんの中にあります。


時代は変わり、若い世代の親御さん達は、支援が当たり前に存在する中で子育てをされます。
なかった、足りなかった時代の方たちと比べて、1つ1つの支援、1人ひとりの支援者をよく見て考えられているように感じます。
そして自分の想いに沿うような支援が身近になければ、他から探すという積極的な姿勢も見られます。
金太郎飴のようなどこを切っても結局は同じ支援で、同じゴールでは満たされません。
別の地域に行ったり、ネットで検索し、注文したりするのが当たり前の時代です。


2018年も、こういった地元の支援の枠を飛び出した親御さん達が我が子の発達を後押しし、全国にいる親御さん達を励ますのだと思います。
私もこういった親御さん達と共に歩んでまいります。
新しい縁があった皆様、本当にありがとうございました。
是非、今度はそれぞれの地元で、それぞれの方たちが新しい縁を結び、その地域をかえていってもらいたいと思います。
そういった動きが全国でどんどん生まれてくれば、これから生まれてくる発達障害を持った子ども達の未来が明るくなるはずです!
親心を諦めさせる支援ならいりません!
みなさま、良いお年をお迎えください。

2017年12月27日水曜日

福祉と保険は似ている

「保険をかける」と言うと、最初からうまくいかないことを想定しているようで、自分が傷つかないように逃げ道を作るみたいに使われたり、捉えられたりすることがあります。
でも、本来は「うまくいかなかったときに備えて、別の手段を用意する」という意味で、私は積極的な言葉として捉えています。
万が一が起きたとしても保険があるから安心できる。
別の手段があるから、目標に向かって思い切って行動することができる。
保険とは、人に安心感をもたらし、積極性を生むものだと考えています。


私は、福祉も保険のような存在だと思っています。
福祉があることで、本人も、家族も、安心して生活することができる。
安心が得られるからこそ、積極的に挑戦してみようと思うことができる。
それは同時に失敗を味わえること、存分に試行錯誤できることにもなる。
福祉の世界で働いていたとき、自分たちの存在意義は、いかに安心してもらえるかだと考えていました。
あのときはまだ措置制度でしたので、子どもを預けていく親御さんの寂しさの中に安堵した感情をみつけますと、そこに自分たちが頑張らなければ、という想いが湧き上がってきたものでした。


福祉に関する予算が減ったり、福祉施設に対する風当たりが強かったりします。
しかし、ただ単純に提供されているサービスだけではなく、見えないところで安心を得ることに、そして積極的な姿勢を生むことにもつながっていると思います。
福祉は、安心して生活するために、行動するために必要な存在です。
ただ間違ってはいけないのが、福祉は備えであって、目的ではないということです。


私自身、何かあれば、福祉が必要になるかもしれませんし、将来、年を取ったら福祉を利用する確率は高いと言えます。
でも、将来的に福祉を利用するからといって、最初から福祉を利用することを考えて生きているわけではありません。
これは発達障害の子ども達も同じではないかと思うのです。


学生時代、学校の先生が言う「どうせ卒業後は福祉だし」と、親御さんが言う「福祉の中でかわいがられる子にしたい」という言葉に、いつも嫌悪感を懐いていました。
どうして福祉が目的地になっているのだろうか。
どうして本人ではない人間が、福祉という道を選んでいるのだろうか。
そして施設職員だったときも、施設に入れて親としての役目は終わったというような種類の安堵感には反発心を持っていました。


「福祉に入ってゴール」という姿勢は、その子の可能性、選択肢を消しているように見えました。
本当にこの子は福祉がゴールなのか?
別の選択肢はなかったのか?
将来的に利用するだろうけれども、今じゃないのではないか、早すぎるのではないか?
そう思うこともしばしばありました。
そういった経験が「福祉は目的にはならない」という想いにつながっています。


福祉を目指した教育、福祉を意識した子育ては違うと思います。
症状が強く、困難が多い子の場合、福祉以外の選択肢が描けないこともあると思います。
でも、最初から福祉をゴールに設定してしまったら、どんどん積極性が失われていきます。
結果が見えているのなら挑戦や試行錯誤することよりも、「今楽しければいい」「今ラクな方がいい」に気持ちが流れていくのは自然なことなのかもしれません。


教育も、子育ても、その子の資質を伸ばし、磨いていくことが中心なはずです。
それには挑戦することや積極的に行動することが大事です。
そのために、安心という福祉の存在がある。
だけれども、今の特別支援は、福祉に安心ではなく、ゴールを求めている。
だから、積極性がどんどん失われていき、挙句の果てには、子どもに消化試合のような時間を過ごさせてしまっている。


保険を使うことが目的になってしまったら、保険の持つ本来の意味、役割が果たせなくなってしまいます。
「掛け捨ては持ったいない」
「もらえるものは貰いたい」
「だから、どうにかして保険金を貰おう」
そんな姿勢からは、人間の持つ力強さ、可能性が出てきません。
どんどん卑屈になり、どんどん卑怯になるばかりです。
そのようなことが特別支援の世界でも起っているように感じてなりません。


保険金をもらうために保険に入らないように、福祉に入るために教育、子育ては行わないはずです。
実態よりも、より重く、より困難に見せるのは、保険金詐欺と一緒です。

2017年12月26日火曜日

特別支援学校の波と、その正体

「特別支援学校化」なんて書くと、「特別支援学校がダメだと言うのか!」「そこが必要な子もいるんです!」という声がやってきます。
当然、特別支援学校という学びの場が必要な子がいて、そこで成長していく子もいるでしょう。
そして、その陰には、児童、生徒のために一生懸命教育をされている先生たちがいるはずです。


今となっては、仕事で関わらせてもらう方達は知的障害がない人やあっても軽度の人ばかりになりましたが、もともとは知的障害も、特性も、重い子ども達の支援を行っていましたし、強度行動障害と言われる行動障害の中でも特に症状が深刻な人達の支援を行ってきました。
日々の学びの場としての支援学校の重要性と必要性は、子どもや先生との関わりにより見てきたつもりです。


子ども達が学ぶことのできる学校には、普通学級、支援学級、特別支援学校の3つがあります。
それぞれの場に特徴があり、それぞれの場に目的、意義があります。
同じ支援学級でも、学校によって、それこそ、担任によっても大きく異なりますが、普通学級で学ぶか、支援学級で学ぶか、特別支援学校で学ぶか、はより大きな違いがあると感じています。
大きな違いというのは、その子の人生に大きな影響を及ぼすという意味です。
ですから、それぞれが独立しており、それぞれの場所で、それぞれの強みを活かした教育がなされるべきだと考えています。


私が懸念していることは、特別支援学校の波が支援学級、普通学級へ押し寄せていることです。
私が見てきた中では、支援学級は完全に支援学校化しています。
支援学校の縮小版が支援学級みたいな感じです。
当然、特別支援学校の良い部分は取り入れるべきでしょうが、通ってくる子ども達のニーズは特別支援学校とは違います。
支援学級だから学べること、支援学級だから育つこと、それを目的に子どもも、親も通っているのだと思います。


特別支援学校の波は、支援学級を飲みこみ、普通学級まで来ているような印象を受けます。
どの場でも、その子に合った教育は大切でしょう。
しかし、その子に合わせて周囲の環境が変えられてしまうこと、その子に合わせて周囲の子ども達が我慢や譲ることを続けるのは違うと思います。
その子にとっては苦手な環境でも、別の子にとっては適した環境ということもあります。
その子が快適な学校生活が送れたとしても、別の子にとって苦痛になってはなりません。
お互いが歩み寄り、妥協点を見つけていくことは基本であって、大事なことですが、「ASDの子にとっては、これくらいしなきゃダメなんです!」という具合に特別支援学校基準で迫っていくのは、普通学級で学ぶ子ども達、誰にとっても良くないことだと思います。


全国には、「私の地域は違う!」というところもあるでしょう。
でも、敢えて私の印象を書きます。
特別支援の考え方、そこで培われてきたものは、どんな場所でも活かすべきだと思います。
でも、あまりにも「特別支援」が前面に出過ぎて、支援学級も、普通学級も、その特徴や目的、意義を見失うくらい波に飲みこまれてきている。
今、特別支援学校も、支援学級も、大きな違いがなくなってきてるように感じます。
具体的な教育の内容もそうですが、進路、それこそ、卒業後の生活においてです。


本当は、支援学級で学んだ子ども達が大人になったとき、もっと障害者雇用枠で働く人がいて、もっと一般就労する人がいて良いはずです。
しかし現実は、福祉事業所だったり、無職だったりします。
普通学級というか、大学にまで進学した人までもが、そういったところを利用している。


私は、普通学級、支援学級、特別支援学校、それぞれで学ぶことが違うように、進路も違ってくるのが自然だと考えています。
それぞれの場で、より良く学び、成長することが最も重要なことだと思います。
でも、それぞれの場の特色が消されてくると、障害を持っている子は皆、「特別支援」という一括りにされてしまう。
卒業後に違いが表れてこないとしたら、それぞれの学びの場の特徴が十分に活かされていないと言えます。


正直、卒業後の違いは、学校の違いではなく、家庭、親御さんの違いだと私は思います。
支援学校卒業で、今、一般就労している人は、幼少期から親御さんが頑張っていました。
大学まで行ったけれども、仕事に就いていない人、福祉事業所に通っている人は、やっぱり家庭でも特別支援でした。
学校の影響が小さくなるということは特色が失われつつある。
支援学校卒業の子達と進路が被ってくるとしたら、支援学校の波が浸食している…。


特別支援学校の波の正体は、福祉の波です。
かつては支援学校も、教育の場だった。
でも、完全に福祉の波に飲みこまれた。
「福祉でかわいがられる子をどう育てるか」「どうせ卒業後は福祉だし」
この波を支援学級、普通学級に及ばせてはなりません。
これが私がもっとも伝えたい「特別支援学校化」の意味なのです。