2017年9月19日火曜日

できない理由は、できるまでやっていないから

近頃、下の子は、掴んだモノを床に落とします。
身近にあるモノを掴んでは落とし、掴んでは落としの繰り返し。
以前は落としたら、落としっぱなしで見ることはなかったけれども、必ず落ちたモノを確認するようになりました。
まだ生まれて9か月しか経っていない彼は、重力なんて知らないけれど、こうやって「物は地面に落ちる」ということを体験的に学んでいるのだと感じました。
ですから、止めることはしないで、本人が満たされるまで、とことん落とさせています。


上の子は、今週末に運動会があり、障害物競走では逆上がりをしなくてはなりません。
保育園で練習しただけではできなかった息子は、保育園から帰る途中や休日に公園へ行き、ひたすら鉄棒で逆上がりの練習をしました。
何度失敗しても、悔しくて泣いたり、怒ったりしても、私ができることはただ一つ。
とことん付き合うこと。
心の中では早く切り上げて帰りたい日もあったけれど、「できるまで付き合う」と決めたからには、本人が納得するまで見守りました。
決して運動神経が良いとは言えない子だけれども、3連休の間にできるようになりました。


私は子育てでも、仕事でも、とことん付き合うことを大事にしています。
本人が納得するまで付き合う、コツを掴みそうになったら継続できるよう後押しする。
例え約束の時間が過ぎたとしても、例え次の予定があったとしても、一度掴めたら放さない時期を生きる子ども達には、できるだけ付き合います。


こういった私の姿勢は、批判を受けることもあります。
「やりたいことばかりさせていたら、我がままになる」
「時間を守ることも大切だ」
「途中で止めれることも大切だ」
確かに、そういう力、姿勢を身に付けることも大事でしょう。
しかし、神経を育てるのに最適な時期があり、発達には順序があります。
我が身をコントロールするには、まず我が身という土台が育っていなければならないのです。


土台が育っていな子に、大脳皮質から押さえ付け、我が身をコントロールせざるを得ない状況を作るアプローチだったり、「見通し見通し」と言って、本人の主体性の入る余地のない他人が決めたスケジュールで予定を区切ったり…。
私の「とことん付き合う」という姿勢は、大脳皮質系のアプローチから見れば、専門性のない、それこそ、誰にでもできる方法なのかもしれませんが、人の発達を援助する姿勢で大切なことを守っていると考えています。
それは、本人の持つ主体性を奪わないこと、本人の持つ自分の発達のヌケに気が付く力と育て治す力を阻害しないこと。
その子自身で、伸びやかに発達するのを援助することこそ、発達援助だと考えています。


幼少期からスケジュールを守る、スケジュール通りに動けることを目指す必要なんてないと思います。
施設で働いているとき、「もっと遊びたいよな」「休憩したいよな」「ゆっくりお風呂に入りたいよな」なんて言いながら、その子のスケジュールを組み立てていました。
ギョーカイ真っ只中にいた頃は、まだ治るという方法を知らなかった頃は、幼少期からスケジュールに従える姿勢、他人からの指示に従える姿勢を育てることが、将来の適応力につながると信じていましたが、今思えば、あれは管理する側、支援者側の都合でしかないのです。
しっかり身体という土台が育ち、発達のヌケが埋まれば、自然と自らの意思で時間が守れる人になる、自分で選択し、行動できる人になる、というのは、発達援助を通して関わる子ども達から教えてもらっていることです。


このブログを書こうと思ったのは、週末に読んだ本がきっかけでした。
西川司氏の著書『向日葵のかっちゃん(講談社文庫)』です。
支援学級に通っていた少年と、転校先で出会った先生との成長の物語です。
少年を一変させた先生の姿勢は、まさに発達援助の姿勢。
実話を元に書かれた物語であり、発達の遅れやヌケが治った話ですので、子どもと関わる大人には大きなヒントを与えてくれる本だと思います。


下の子は、まだ言葉でのやりとりも、理解もしていない時期です。
でも、誰に教わったわけではなく、モノを掴み、指を放す動作を行う。
そして、モノは下に吸い寄せられていくことを体験的に知ろうとしている。
彼は、親が発達援助という仕事をしているからではなく、自分で自分を育てているのです。
上の子も、まだ文字を主にして学び、理解する段階ではありません。
彼も、下の子と同様に、体験的に学び、神経を育てています。


発達障害の子ども達は、受精から幼少期の間に、発達のヌケがあります。
ですから、言葉、文字を獲得する前、子ども達がどのように神経を育て、成長していくのか?
そこに発達援助の原形があり、本来の姿があるのだと思います。
発達が専門知識を持った人にしかできなければ、ヒトはとうの昔に絶滅していたはず。
日本において、早期療育が身を結ばず、どんどん自立から遠のき、ますます支援が必要な人として育っていくのは、ギョーカイの思惑にプラスして、文字を獲得した以降のアプローチ、大脳皮質に働きかけるアプローチに偏っているのも原因の一つだと考えています。


2017年9月18日月曜日

世の中で、唯一、働かないことを推奨してくる大人が側にいるのだから

「忙しいよ~」「辛いよ~」「休みたいよ~」と言う人に限って、あまり働いていない(ブ)
本当に忙しく働いている人は、そんなことは言わず、言う暇もなく、黙々と働いているものです。
「忙しいなう」「休みたいなう」と呟くくらいなら、その時間を休めばよいと思いますね。


このような人は、いくら仕事の量が少なくとも、「忙しい」とか、「休みたい」とか言うでしょう。
きっと彼らは、仕事のことをただお金を得るための手段としか考えていなく、中には仕事をすることが罰のように捉えている人もいます。
だから、「少ない労働で、多くの賃金」を目指している。


「仕事は、お金を得るために行うものである」というのは、真実だと思います。
しかし、それは表面的な捉え方。
仕事を通して成長し、より良い人生と社会のために自分の持っているものを活かす。
それこそが、本来の仕事の意味だと考えています。


成人した方達とお話をしていると、仕事は「お金を得るための手段」という面でしか捉えていない人も少なくありません。
また成人したら「仕事はするもの、すべきもの」という捉えでしかない人もいます。
こういう人は、総じて労働意欲が乏しい。


医師も、支援者も、成人した発達障害の人に対しては、働くことを勧めません。
自立してもらっては困るからです。
そのため、「二次障害ガー」と脅す一方で、「一生涯の支援が必要だ」と説き、働かなくても生きていける方法を教えます。
支援サービスの受け方、障害者年金の額と貰い方、そして、「最後は生活保護を申請すればいいんだから」と言うのです。
結局、生活保護を受けて生きることを勧めるのなら、就労支援はいらないし、早期診断、早期療育もいらない。
そういったサービスを作るんだったら、そういった心持ちで支援者がいるのなら、支援者、支援機関はいらなくて、初めから国が手当てを出し、丸抱えしていくシステムにすれば良いのです。


本人が持つ想像に関する特性と、労働を勧めない支援システム、労働意欲の乏しい支援者が折り重なると、「仕事はお金を得る手段」「仕事は罰のようなもの、できればやらない方が良い」という労働観が本人の中にできあがります。
こうなってしまうと、親御さんがいくら焦っても、就職しようとしませんし、就いたとしても続きません。


仲間集団を作ることが苦手な自閉症の人にとっては、仕事が大事な集団の場になるといえます。
人と関わることで気が付くこともありますし、集団で協働することにより、学ぶことも多くあります。
また何よりも、仕事が社会との接点となり、人生を豊かにすると思います。
友だちはいなくても構いませんが、人と関わる場面は生活の中に必要です。
ですから、仕事とは「お金を得るための手段」という表面的な理解だけではなく、こういった意味、意義があることを伝えていかなければならない、と考えています。


就労のための教育というと、体力や忍耐力、職業スキルやコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルが注目され、重点的に行われますが、その子の中の労働観を養っていくことも大事だと思います。
労働観が確立していなければ、医師や支援者が働かない道へと手をこまねく間をまっすぐ歩くことができません。
世の中で、唯一、働かないことを推奨してくる大人が側にいる“特別”な道なのですから。


私は、子どもたちとの関わりの中でも、労働観を養ってもらおうと考えています。
ですから、学校へ通う意義、勉強する意義から一緒に考えるようにしています。
答えは一つではないと思いますが、学校に行くのも、勉強するのも、同級生と活動するのも、自分のためであり、自分以外の誰かのため、という意義に気が付いてほしいと思っています。


支援級の子が、交流学習や通常級への転籍となると、「支援級の方がラクでいい」「勉強したくない」「一日、遊んでいたい」と言うことがあります。
これは支援という名の接待につかってしまっている証拠でもあり、将来の「働かなくていいよ」という手招きに乗っかってしまう危険性あり、というサインです。


本来、子どもは好奇心の塊であり、まだ見ぬ世界への憧れ、自分自身が成長する喜びをより強く感じる時期にいるのです。
なので、その自然な動きが見られないのなら、周りにいる大人の責任です。
ここで周りにいる大人が改めなければ、働くことに意欲が持てない大人を育てることになる。
働く大人になるか、ならないかは、高等部になってからではなく、小学校に通い始めるくらいの頃から続いているのだと思います。


年少の子の若い親御さんに、私がお話ししていることでした。

2017年9月13日水曜日

支援者は公園一つに勝てない

ある成人の方が言っていました。
「雑談にはノッてくれるんですけれど、相談には乗ってくれないんです」と。
何かチャレンジしようとすると、「無理しないで」と言われ、ストップをかけられる。


「私は、何のために相談機関に通っているのでしょう?わからなくなりました」と言われたので、「それは、〇〇さんのためではなく、支援者のために行っているんですよ」と、私は言いました。
「一生治りません」という前提から出発したシステムでは、「相談して解決できた」という結果はど~でもよくて、とにかく「〇月〇日、〇時~〇時まで相談した」という事実のみが必要。
もちろん、誰にとって必要かといえば、相談に行った本人、家族ではなく、支援者側にとって。


支援機関というのは、無料で、対象者なら誰でも相談できる、という場所のことを指し、効果がある、問題が解決することをウリにしているわけでも、保証しているわけでもありません。
ましてや、支援者側も「一生治りません」と言い、その前提で仕事をしているのですから、何か効果を目的として通われるのでしたら、それは通う方にも、勉強不足という問題があります。


先ほどの成人の方に、私は言いました。
「“無理しないで”という言葉なら、医師免許も、教員免許も、資格も必要ないですよね。どうせだったら、よく知らない人間から言われるより、よく行くコンビニの店員さんから“無理しないで”と言われた方が、よっぽど心地が良いはずです」と。
それを聞いて、成人の方は笑っていました。


医師免許や教員免許、資格などを取得した人は、いくら私が「意味がない」と言っても認められないでしょう。
でも、実際、治らないと思っているんだし、治そうとは思っていないのですから、「じゃあ、なにをしているの?」という疑問が浮かぶのは自然です。
「無理しないで」という言葉に、専門性があるというのなら、どんな専門性があるのか訊いてみたいです。
支援者の「無理しないで」と、家族の「無理しないで」、友人の「無理しないで」、ご近所さんの「無理しないで」の違い(ブ)


私は、日々、発達援助という仕事をしていて思うんです。
私が行っている発達援助は、公園には勝てない、と。
公園には遊具があって、思いっきり走ったり、跳んだりできる空間があって、子どもたちや虫たちがいる。
セッションの中でも、一緒に公園に行くこともありますが、自分に足りない刺激、抜かした発達段階はわかっているんです。
自分に必要な遊び、動きを行い、自ら育て直しを行う。
だから、私はいつも「公園には勝てない」と思うのです。


私は教員免許を持っていますし、実際に勉強を教えたりもしますが、現場で指導をやられている先生方には勝てないと思っています。
他にも、スポーツにしても、趣味にしても、遊びにしても、地域にはそれを専門に指導されている方達には、到底勝つことはできません。
ですから、私の役割は、そういった学校での時間、地域にある習い事や公共機関、資源をより良く活用できる段階までの援助が仕事であり、そのために発達のヌケを育て直すお手伝いをしているのだと考えています。


私は、自分の仕事を「発達援助」と言っていますが、子ども達の発達を促し、育て直すことのできる人間は、地域にたくさんいる、と思っています。
発達援助は、免許や資格を持っている者だけが行えるのではなく、それこそ、本人と関わるすべての人ができると考えています。
そのため、発達のヌケが埋まってきた子には、どんどん地域の資源を利用してもらうよう伝えています。
最初は、私と一緒に勉強していた子が、民間の教育機関を利用できるようになったり、公園で遊ぶのもやっとだった子が、スポーツ教室に通い始めたり。
そうやって、その子が、そのとき、必要なものを、必要な場所で学び、成長していけば良いのだと考えています。


ギョーカイも、私と同じように、「地域資源を使おう」ということがあります。
でも、ギョーカイは、少しでも利用実績が稼げる場所を探しているので、本人を治して、地域の資源が利用できるようにするのではなく、本人は治らないまま、ありのままで、「私がプロデュースするから」と言って、その民間企業に入りこもうとする。
で、民間の習い事教室やスポーツクラブから鬱陶しがられる、というのが関の山です。


相談機関、支援機関に、半ば強制的に、またルーティンみたいに、ただ日課のように通っている人がいます。
「治りません」「治しません」と言っている場所に、何を求めていかれるのでしょう。
地域には、どっかの知らない他人よりも、温かい「無理しないでね」と声を掛けてくれる人がいます。
また地域には、免許や資格がなくても、あなたご自身の発達を援助してくれる人達がいます。


私も含め、支援者というのは、公園一つに勝てないのです。
「俺は医師免許持っているんだぞ」「有名支援者が認定している資格を持っているんだぞ」と、ふんぞり返っていても、学校の先生ほど、学力や姿勢、身体を育ててあげられませんし、習い事の先生ほど、技術や動きを身に付けさせてあげることはできません。
支援者なんて、ほんとちっぽけな存在で、支援において、発達援助において万能ではない。
だからこそ、支援者というのは、入り口の存在であり、困ったときの存在だと私は思うのです。


「ずっと支援、一生涯支援」というのは、何も問題が、課題が解決していないということじゃないですかね。
そんな支援を受け続けたいですか?

2017年9月12日火曜日

人は反射のみで生きているのではないのだから

行動に注目し、行動を変えることを中心に置く支援者というのは、支援者自身の評判がすこぶる悪いことがある。
それは、きっと彼らが“心”を対象から外すからだろう。


その人の気持ち、感情は、外から見ることはできない。
だから、目に見える、外から確認できる行動のみを支援の土台にあげよう。
そういった姿勢が、彼らが冷たい人間で、それこそ、心のない人間のように映してしまう。


彼らが支援のテーブルの上から外すものは、“心”以外にもある。
それは“身体”である。
心を支援の対象から外したのと同じように、身体も、彼らにとっては伺い知れぬものとなるため、除外の対象となる。


彼らは、目に見える“動き”が大好物である。
しかし、 その動きの土台となる身体を大切にしない、または、ないがしろにすることが、行動変容というアプローチの限界を生みだしている、と個人的には思う。
人間性は置いておいて、行動変容を中心にしつつ、効果のある支援ができる人というのは、“動き”とその土台である“身体”を引き離さない、という特徴があるように感じている。


「何か偉そうだ」「上から目線だ」「平気で失礼な態度をする」
そんな風に言われる支援者というのは、行動変容系に多い気がする。
それは、心を外し、身体を外した結果なのだろう。
心と身体性が乏しければ、相手との心地良い交流を生むことも、距離を取ることもできない。
また何よりも、アプローチする際、心が使えない分、相手の身体性が掴めない分、上下関係を作るしか指導を成り立たせるものがなくなってしまう。


行動する主体は、本人である。
本人が変えるから、行動は変わる。
だが、本人がしたい行動と、変えさせたい行動が、いつも一致しているとは限らない。
「なんで、あんたの言う通りに、私の行動を変えなければならないんだ」
というのは、本人の持つ主体性に、無礼な手が触れた瞬間に起きる。
そんなとき、無礼な手を無礼じゃないように見せる方法は、ただ一つ。
「私が上で、あなたが下」という文句。
触れても問題ないでしょ、言うこと聞きなよ、行動変えな、というような態度でくるから、主体性のある本人や家族は、こういった当たり前のように上下を作ろうとする様子に、不快感を示す。


刺激に対し、反射のみで生きる生物にとっては、心を排除し、身体性を排除し、行動のみにアプローチしたとしても、うまくいくのかもしれない。
しかし、人間は反射から無意識の動き、意識する動きへと発達していく。
人間は主体的に動くことを目指し、発達、成長していく生き物である。
だからこそ、人工的な上下関係を築き、一方的に行動の変容を迫るアプローチというのは、不自然であり、限定的であり、違和感をもたらす。


「行動変容こそが、唯一無二の支援である」と主張する人に、心を感じず、不健康で、上から目線の人が多いのは、このアプローチの持つ特徴と相性の良い人物だからかもしれない。
主体性を持つ、意識的な動きの段階まで育った本人、主体性を育てたい親と支援者が、行動変容系から距離を置くのも、よくわかる。
個人的には、発達の視点が乏しいアプローチは好みではない。

2017年9月6日水曜日

支援を商売にするためのテクニック

このブログは、支援を商売としている方達にも見て頂いています。
ですから、今日は、その方達のために、私が5年間、商売をやってみて分かったテクニックをお教えしようと思います。


支援というのは、実態があるものではありませんので、どう親御さんに、と言いますか、親御さんの頭の中に支援をイメージさせるかがポイントになります。
そもそも、その子に良い変化が見られたとしても、それが支援の効果なのか、それともいろんな経験をしたからなのか、自然な成長、発達の結果なのか、たまたまなのか、もともと調子がよくなかったのが良くなったからなのか、はわかりません。
つまり、支援というのは、他人からの働きかけの一つに過ぎないのです。


名人と呼ばれるような人でしたら、その名人の働きかけ一つで、流れを良い方向へと一気に変えられるかもしれませんが、ほとんどの支援者にはそんなことできません。
まあ、働きかけの一つとして良い刺激、きっかけになることもありますが、それだけではなく、ほとんど意味がないこともあれば、逆にマイナスに作用することだってあります。


前置きが長くなりましたが、このように実態が掴めない支援というものを、特に親御さんに良い感じでイメージしてもらい、利用し続けてもらうには、テクニックが必要になってきます。


まず簡単なテクニックが、『支援している様子を見せない』ということです。
親御さんは、我が子の発達には直感が働きますので、これは意味がある、ないを瞬時に判断することができます。
そのため、セッション後に、口頭や紙面で仰々しく支援について伝えれば、何か素晴らしいものを受けられたというイメージを懐いてもらいやすくなります。
日頃から持っている資格の話をしたり、専門用語を使ったり、自分の功績などをアピールしていれば、さらに信じてもらいやすくなるでしょう。


他にも簡単なテクニックとしては、『支援グッズを持ちこむ』ことです。
間違えても、家にあるものでセッションをしてはいけません。
「私にもできるかも」と思われてしまうからです。
自作の支援グッズ、一般のお店では売っていない道具などを使えば、それだけで「特別なもの」感が出てきます。
「自分に持っていなものを持っている」というのは、支援というものも特別なものに見せるテクニックです。
オリジナルの支援グッズを使う→支援する→持って帰る、というのを繰り返せば、それだけで支援の時間は特別な時間になります、もちろん、効果のあるなしに関わらず。
あと、やたらと発達検査、アセスメントするのも同様の効果があります。


あとは、ギョーカイの先生方もよく使われている方法で、みなさん、ご存じの方も多いとは思いますが、『家庭での支援に制限を加える』というテクニックです。
「失敗させてはいけません」「二次障害ガー」「(私の)支援の効果がわからなくなるので」「お母さんも同時に支援しちゃんと、本人が混乱してしまうので(?)」という文句で、家庭での子育ての足止めをします。
そして、家庭で行う子育てや支援に、一つ一つアドバイスという難癖をつけ、ああでもない、こうでもないとやるのです。
よく「スケジュールを作ってみたのですが、これで良いでしょうか?」などと訊いてくる親御さんに、「ここを直した方が良い」というやつです。
スケジュールなんて、本人がわかれば良いのですから、それを支援者に訊くのは…以下略。


このようにテクニックを並べてみますと、親御さんからどう主体性を奪うのか、また支援者自身が主導権を取り、先導するかがポイントだといえます。
ちなみに私は商売ベタですので、本人が嫌がらなければ、毎回、セッションの様子を親御さんに見て頂きます(もちろん、毎回、報告書も提出します)。
「私は、ここを確認していました」「こんなことをポイントに援助しています」と伝えますし、私の働きかけで良くなかったものは、「こんな点が失敗でした」と伝えるようにしています。
また家にあるもの、家の周りの環境を使って取り組みを行うようにしています。
そして、私がいないとき、日頃の生活の中で発達援助をしてもらうようにお願いしています。
そのため、毎月のように「もう大丈夫です」「私達で頑張っていけそうです」と言って、私のセッションを必要としない方が出てきます。


年々、卒業までの期間が短くなり、年単位で利用継続している方がどんどん少なくなっています。
だから、商売としてはうまくありませんね。
でも、発達の主体は本人ですし、発達援助をするのは親御さん、発達とは特別な時間があるのではなく、日々の生活の中に自然に存在するもの、という考えが変えられませんので、どうしても本人も、親御さんも、一日でも早く卒業してもらいたいと思ってしまうのです。
私はきっと商売人に向かないのでしょう。


あくまで支援を商売にしている方達に向けて書いた情報提供です。
間違っても、自立させない支援者、治さない支援者、当事者の人達をメンドリに仕立てる支援者を見抜くために使わないでくださいね(笑)

2017年9月5日火曜日

治らない教

「治ります」と言うと、「インチキだ」「オカルトだ」「宗教だ」と返ってくる。
だから私は、そういった治らないを信じてやまない人達のことを「治らない教」の人々と呼ぶようになりました。
どうせ信じるのなら、治らないよりも、治るという方が良いと思うのですが…。
まあ、何を信じるかは自由です。


「治らない教」と呼ぶのは、ただの当てつけのようでもありますが、そう感じるようになったのには理由があります。


私のところに来る方たちのほとんどが、治らないことを前提とした支援を浴びてからいらしています。
ですから、自然な姿、力を見るためには、その支援を一度洗い流す必要があるのです。
洗い流してキレイさっぱりになると、その人の自然な姿が表れます。
それと同時に、動きが出てきます。


動きというのは、やり残していた課題への挑戦であったり、ヌケている発達段階を育て直したりする動きです。
私が促したわけではなく、誘導したわけではなく、その人自身で自然と動き出す、といった感じです。
そういった動き出しを見て私は、「そうか、この子には、こういったやり残しがあったのか」「こういったヌケがあったのか」と知ることができます。
ある子のセッションでは、この動き出しが確認できましたので、それを親御さんに伝え、「危険がない限り、〇〇の動きを止めないでくださいね」「2週間くらいしたら、変化が感じられると思いますよ」と言って終了になったケースもあります。


つまり、もともと本人の内側には、治る力があり、治ることを目指す動きがある。
その本来の動きが、治らないという前提と信念によって縛られている、というのが、私の実感するところです。
「障害だから治らない」のではなくて、治らないと思うから、治らないのであり、治せないと信じるから治せない、のだと思います。


「治らない教」の人達は、治すことを悪だと捉えていて、なおかつ、戒律のように治さないように、治らないように、と行動に気を付け、制限しているようにも見えます。
「余計なことをしなければ、自然と治る方向へ進んでいくのに」と思うことが少なくありません。
「敢えて治らないように支援しているんでしょ」と思うことだってあります。
構造化にせよ、ABAにせよ、SSTにせよ、それを教える誰かの考えと意思によって、向かう方向とゴールが決められます。
本人の内側には、治るというゴールに向かって進もうとする力がある。
でも、それとは別の意思が働き、制限や転換が求められている。
それこそが、治さない支援であり、「治らない教」の実態だといえます。


治すべき課題やヌケは、本人が教えてくれます。
そして、実際に治していくのは本人であり、親御さんです。
そうなると、私の仕事は、治らない前提の支援を一度取っ払い、治るという視点から見てみましょう、と本人、親御さんにお話しすること。
それと、動き出しから確認できた課題とヌケを言語化すること。
たったこれだけです。
あとは、発達状況の確認と、治す方法の調整くらいなものです。


「大久保さんのおかげで治りました」と言われることもありますが、このように私はまったく治していないのです。
だから、「治る」を信じる人達は、本人の内側にある治る力を感じ、大切にできる人達。
「治る」を信じる人から、教祖様のような支援者が現れないのは、そのためです。
一方で「治らない教」の人達が、支援者や「障害は治りません」という他者の言葉を信じているのを見ると、それこそ、自分以外のものを崇め奉り、その人の意思によって行動が決められている一種の新興宗教のように見えてしまうのです。

2017年9月2日土曜日

症状の集合体が『障害』になる

私は、治るを信じ、治すことが使命だと思い仕事をしていますが、私が直接かかわっている人の中にも、「本当に治るのだろうか」と思っている人はいます。
例え友達の紹介で話を聞いていたとしても、HPやブログを読んでいたとしても、「治らないから障害なのだ」という摺りこみから離れられない人がいても不思議ではありません。
ですから、お子さんを治すための発達援助を行うのと同時に、私が言う「治す」「治る」という意味をきちんと伝えるのも責務の一つだと考えています。


「障害」と聞くと、何か固定されたものがあるような印象を受けます。
しかし、診断基準を見てもらえば分かるように、症状がある一定以上集まったとき、その人に「障害がある」としているのです。
身体障害の人とは異なり、発達障害には具体的な症状があるわけではありませんので、一言に自閉症、発達障害と言っても、一人ひとりが全然違うのです。
治らないと思っている方には、症状の集合体が自閉症であり、発達障害であるというお話をします。


症状の集合体が"障害"なのですから、症状が減れば、"障害"には当てはまらなくなるということになります。
ですから、支援の考え方はとってもシンプルなもので、この症状の中で治りやすいものから治していく、というものになります。
例えば、聴覚過敏があって学校や生活に支障があるのでしたら、聴覚過敏の根っこを掴み、そこから育てなおしていく。
聴覚過敏が治れば、集中して勉強ができるかもしれない、学校に行くのがそこまで疲れなくなるかもしれない。
以前よりも余裕ができた分、また新たな取り組みや学びができるかもしれません。
そうやって芋づる式に、症状が治っていけば、いつの間には診断名が付かない状態まで治っているようになります。


発達障害を治すというのは、このように障害と呼ばれる症状の集合体の中から治しやすいところを見つけ、そこから一つずつ治していくことを言います。
なにか「発達障害を治す」というと魔法をかけたり、信仰的に聞こえたりするかもしれませんが、障害という塊で見るのではなく、症状の集合体と見てアプローチするということです。
治すための発達援助をしていて面白いのは、最初は治しやすいところを見つけ、一つずつ治していくのですが、一つ治ると別の症状も連なって治ることが多々あるのです。
こういった様子を見ると、成長はスモールステップではなく、始まったら一気に階段を駆け上がるようなものだといえます。


自閉症、発達障害は、スペクトラムです。
別の異次元に存在している人達ではなく、定型発達と呼ばれる私達と同じ連続体の中にいます。
私達だって症状を持っていますので、違いがあるとすれば、その症状の数と濃さです。
素晴らしい実践家の方たちによって、個別の症状を治す方法が明らかになっていますので、自分にある症状、我が子にある症状を一つずつ治していけば良いのです。
そして、その一つずつ治していく積み重ねが、障害と呼べない状態にまで成長、発達することであり、そこまで来れば、本人も生きやすく、より豊かな自分の人生を歩めるようになると思います。


治すというのは、障害を一気に治すという意味ではなく、症状を一つずつ治していった結果として障害が治っている、という意味です。
治るのを信じる人と信じない人の違いは、根本である自閉症、発達障害とはどういった障害であるか、という点での認識の違いがあるように感じています。