2017年12月13日水曜日

我が子の発達、成長に再現性は必要なし

エビデンスのある療育をやっているはずなのに効果が見られないというのは、よっぽど腕が悪いのだと思います。
エビデンスというのは科学的根拠があるということであり、科学というからには再現できることが重要だからです。
効果を再現させることができないとしたら、その人の腕か、そもそもエビデンスが得られたという研究自体に問題があるのでしょう。


専門家と言われる人達は、「何度も研修を受けて、しっかり知識と技能を習得できなければ、きちんとした効果が出ない」と言います。
これが真実だとしたら、専門家がいなくなってしまいます。
効果を出していない人ばかりなのですから。
また別の言い方をすれば、そこら辺の支援者がせっせとその療育をしても、親御さんが家庭で療育をしようとしても「無駄だ」と言っていることになります。
多くの人達が、効果を再現することのできない療育とは、本当に価値のある手段だと言えるのでしょうか。


その療育の免許を持っているような専門家ですら、ほとんどの人が発達障害の人達のことを根本から発達、成長させ、自立させることができていない現状があります。
エビデンスのある療育と言っても、効果は時間も、場所も、スキルも、限定的なのです。
それに効果を出すためには、エビデンスが得られたという研究がそうだったように、当事者の人達を研究用のマウスのような統制され環境の中、条件をコントロールする必要があるのです。
「効果を再現するには、実験室のような条件と環境が必要」というのなら、それこそ、家庭や学校では行うことができません。


私は、この世にエビデンスのある療育など無いと思っています。
何故なら、同じ人間は存在しないからです。
例え同じ人間であったとしても、同じ状態でいることはできません。
受精した瞬間から人は発達を始め、死ぬ瞬間まで変化し続けます。
ですから、エビデンスの元になった対象者だって、その瞬間は効果が得られたとしても、次の瞬間、また同様の方法で効果が得られるとは限らないのです。
刻一刻と変化を続けるヒトに対してエビデンスを得ることは不可能だといえます。
どこまでいっても再現したことにならないからです。


エビデンスがある、つまり、どこかの知らない人で得られた効果を、我が子に再現させることにこだわることはないと思いますし、ほとんどの場合、できるはずがありません。
その人と我が子は同じではないのですから。
それよりも、目の前にいる我が子に効果がある方法を見つけ、考えれば良いのだと思います。
親御さんも、この手間暇を省いてラクしようと、エビデンスというインスタントな方法に飛びつくから、うまくいかないのです。


我が子の成長に、再現性は必要ありません。
そのとき、そのときで考えた方法で、発達と成長を後押しできたら良いのです。
おのおのが試行錯誤するからこそ、効果が生まれるのだと、私は考えています。

2017年12月12日火曜日

試行錯誤を生じさせない診断

「子どもが、診断を受けに行くことを拒んでいる」
「子どもが、自閉症と認めない」
このような話は、ずっと前からあって、今も時々、耳にします。


診断を受けるかどうか、診断名を受け入れるかどうかは、例え親であっても、他人がとやかくいう話ではありません。
本人がより良く生きるために、自分の意思で受けるものであり、受け入れるものだと思います。
それなのに、他人が本人の主体性を奪おうとするからトラブルが生じるのです。


今の世の中、ネットで調べれば、すぐに診断基準が出てきて、自分でも確認することができます。
極端なことを言えば、わざわざ病院に行って診断を受ける必要性はありません。
診断基準だって、脳波を取るとか、血液を採取するとかではなく、ぼやっとした性格占いみたいなものなのですから、自分で「自閉っぽいな」「ADHDっぽな」で良いのです、自分自身を知るだけなら。


結局、病院に行く、診断を受ける、というのは、公的なサービスを使うために必要なだけだといえます。
この公的なサービスも、本人が「この部分でサポートを受けたい」という意思があるのなら、トラブルは起きないでしょう。
本人と家族間でトラブルが起きる場合のほとんどは、家族が公的なサービスを受けさせたいと思っている。
もっと言えば、この子の子育ての主導権を、責任を自分たち以外に渡してしまいたい、という想いが滲み出てしまっている。
それを感じて、本人が「診断を受けること=諦めること」と捉える…。


「診断を受けたくない」という本人の言葉は、「自分の人生、諦めたくない」という言葉に聞こえることがあります。
診断を受けたあと、サポートを受けながら、より良い成長と生活が描けるのなら、このようなトラブルは少なくなるはずです。
しかし、不幸の垂れ流しを続けてきた一部の当事者と大部分のギョーカイのおかげも加わって、自閉症や発達障害が未来を遮断する言葉になってしまっています。
本来なら、自分の特性を知ることは、より良い未来を築くことへとつながっている。
自分を知るからこそ、より良い成長と明日に向かって選択ができます。
現在、病院で診断を受けることの第一の目的が、公的なサービスを受けるため、となっているのがおかしいのだと思います。


明日につながらない診断なら受けない方が良いと思います。
本人の中に試行錯誤が生まれないとしたら、それは未来の遮断、最期通告だといえます。
子どもが「病院に行かない」「障害を認めない」というのなら、本人は諦めを促されていると受け取っている可能性があります。


障害をその名の通り障害にしてしまっているのは、誰なのでしょうか?
障害ゆえの工夫、障害ゆえの試行錯誤。
これこそが、より良く生きるための診断だと考えます。
診断書がギョーカイへの通行手形、日本医師会の既得権益、そして子育ての免除になってはならないと、診断受ける受けないの話を耳にするたびに、私は思うのです。

2017年11月29日水曜日

社会の中で学級会は行われません

学校のクラスの中でトラブルが起きれば、学級会などで話し合いの機会が設けられる。
最初から「クラスの仲間と仲良くする」というゴールが設定されていて、その終着地点に向かって、あーすれば良い、こーすれば良いと進んでいく。
そういった様子を見て、「クダラナイ」と傍観している子がいれば、「〇〇くんは、どうしたら良いと思う?」などと指名されたりする。
ゴールは決まっているし、「全員でそのゴールまで向かう」というルールも決まっている。
全員一致で、「みんな仲良く!はい、おしまい、ジャンジャン」が学校の文化。


小学校の低学年くらいは、本気で「クラスのみんなと仲良くするにはどうしたらよいだろうか?」と考えますが、学年が上がるにつれて、自分たちが求められているゴールが決まっていることに気が付いてきます。
だから、高学年子たちは、早くゴールまで到達しようと阿吽の呼吸で、みんなが模範解答を述べるようになります。
同時に、めんどくさくなりそうな子とは、最初から距離を置こうと思うし、上辺だけ仲良いふりをし始めます。
これが学校という文化の中で適応する方法だから。
私はというと、同級生よりは早い段階で、この学校ルールに気が付いていました。
何故、そう言えるのかというと、学級会が始まった時点で答えが決まっているのに、「どうしてみんなはクドクドと回り道する発言をするのだろうか」と思っていたからです。
ズバッと模範解答を言って、早く終わらせようとしてばかりいる子でした。


社会人になって、すぐに福祉施設で働き始めました。
職員に人権のない職場ではありましたが、職員同士仲が良く、職員間で悪口を言うようなことはなかったです。
しかし退職して、学校で働き始めると、同僚の悪口ばかりで、その違いに驚きました。
でも、一緒に授業をしたり、会議をしたりする場では、そんなそぶりは見せず、むしろお互い信頼しきっている仲間のように振る舞っているのです。
学校の文化なんて、とうの昔に必要がなくなり、忘れていたことだけれども、まさか30になって思い出すとは思いもよらなかったです。
そして、あのとき、学校の先生が教えていた文化は、クラス内でうまく立ち振る舞うためのルールではなく、職員室でのルール、職場での適応の仕方を教えていたのだと思いました。


「嫌いな人とも仲良くする(振る舞う)」は、組織の中で必要なことなのかもしれません。
特に、自らの主体性を発揮しづらいような職場は。
小学校のクラスの担任が管理職に変わり、同級生が同僚に変わった感じです。


多くの方達が指摘されているように、自閉症の人達と学校の文化は相性が悪いといえます。
学校のルールと社会のルールが同じではないことに気が付かないことがあります。
学校で教わった文化を、年を重ねていっても引きずっている人が多いです。


学校の中では「みんな仲良く」が求められますが、社会の中ではそんなことは求められていません。
この部分で求められていることがあるとすれば、自分が嫌いな人の存在を否定しないこと。
好きな人と嫌いな人が同じくらいいて、その他圧倒的多数は自分が知らない人であり、好きでも嫌いでもない人。


久しぶりに啓発ネタを昨日、一昨日と書きましたら、普段の倍ほどアクセス数が上がりました。
もしかしたら、啓発熱心系の人達が、攻撃されないクローズのSNS上で慰め合っているのかもしれませんが、意外にも、私が書いたような事実を支援者から、家族から教えてもらっていない人、また気が付いていない人が多いのかもしれません。


その気が付いていない当事者の人が、気が付いていても敢えて伝えていない支援者が、もしくは学校の文化「みんな仲良く」が社会にも適応すると思ってしまっている支援者が、啓発活動に傾倒していくのだと思います。
ですから、啓発活動が実を結ばなくて、良く分からない方向へと向かってしまう。
良く見る啓発活動は、圧倒的多数の無関心な人達に向かって展開されています。
その中から好意的に思ってくれる人が出てくる確率は、宝くじにあたるようなものです。
世の中の圧倒的多数の人は、発達障害に特別の興味も、関心も、好意というか感情も持たないのです。
建物が青くなっていても「今日は何の日だろう?」と思う人はほとんどいなくて、せいぜい「青いな」「普段と違うかな」「いつもは何色だっけ」くらいしか思わないのです。


そして最悪なのが、嫌っている人にも近づいていこうとすること。
これは「話し合えば、最後には分かり合う」というようなお決まりの学級会パターンを引きずっている証拠。
嫌いな人はどこまでいっても嫌いであり、興味関心のない人は、いつまで経っても好意を向けてくれない。


社会の中には、いろんな人がいる。
自分と意見の合わない人、感情的に嫌いな人もいるけれども、その人の存在を否定しないでいる。
それが社会のルール。
こういった社会のルールを知っていれば、啓発活動というのは、発達障害に興味関心のある人、好意的な感情を持っている人に向けて行うのが良いのだといえます。
興味関心のある人に、よりよく知ってもらう。
好意的な感情を持つ人に、応援者になってもらう…。
まさに今、私は上杉謙信の心情です。
まあ、すぐに塩は捨てられそうですけどー。


もし当事者の方で、このブログをご覧になっていたとしたら、学校のルールが社会に当てはまらないこと、違いがあることを知っていただきたいと思います。
また、こういった真実を教えていない親御さんがいらっしゃいましたら、子どもさんにも明確に伝えられた方が良いと思います。
学校文化に引きずられて、それが足かせとなり、うまく社会に出ていけない、適応していけない成人の方たちがいますので。
支援者は担任の先生ではありません。

2017年11月28日火曜日

啓発が進めば、分断が進む

ある啓発活動に熱心な当事者の人に、「一般の人の理解が進めば進むほど、発達障害の人と関わろうとする人と、関わりたくないと思う人とがはっきり分かれてくる」というお話をしました。
理解が広がっていくからこそ、分断される。
これは当然のことです。
「理解する」と「受け入れる」はイコールではありません。
理解したからこそ、近づきたくないと思う人もいるのです。


よく「自分たちが子どもの頃も、発達障害の人はいた。今振り返れば、クラスのあの子がそうかもしれない」という話をする人がいます。
そして決まって、「その頃は、そういう子も一緒に遊んでいたし、受け入れられていた」と続き、「今の社会は、寛容さがなくなっている」などと展開されます。
で、オチが「少数派の人たちが生きやすくなるような社会を目指す」…。
こういったお決まりの話が、発達障害の人達の誤学習の元になるのでしょう。


啓発活動に熱心な当事者の人の多くは、「理解=受け入れられる」という誤学習をしているように感じます。
ですから、なおのこと、その人の周りで一緒に活動している支援者に嫌悪感を抱きます。
何故、真実を教えないのだろうか、と。


特に自閉症の人は、見えないものを想像することが苦手であり、物事を一つの側面でしか捉えられないことがあります。
だからこそ、支援者という仕事があって、その見えない部分、見落としている側面を伝えるのが役割のはずです。
それなのに、「理解=受け入れる」とは限らない、という定型発達の人がすぐに気がつくであろう真実を伝えずにいる。
私には、敢えて真実を伝えていないようにも見えます。
「新規の顧客開拓には、当事者を使うのが一番だ」
そんな薄汚い考えが透けて見えることもあるのです。


啓発活動の壇上に上がる当事者の人で、「仕事は充実してるし、お金もあって、恋人もいて、今度の正月休みは海外旅行に行きます!人生サイコーだぜ~~~」みたいな人はいません。
というか、そういう人にはオファーはいきません。
みんな生きづらい人ばかり。
というか、生きづらいからこそ、理解が進めば、受け入れられると信じているのだといえます。


そう、生きづらいからこそ、今の生活が充実していないからこそ、啓発活動に傾倒していくのです。
だからこそ、再三言うようですが、この誤学習を解くために、理解が進むからこそ、離れていく人もいるし、嫌だと思う人もいる、という真実を伝える必要があると思います。
そして、今、その人が置かれている状況、啓発活動にしかエネルギーを向けられない状況を改善すべく最優先で支援していかなければならないのです。
今、生きづらい人には、啓発活動ではなく、その生きづらさを改善する直接的な支援が必要です。


学校や職場の中でトラブルが起きたり、自分が注意されたりすると、「勘違いされた」「ちゃんと理解してくれなかった」と憤る当事者の人もいます。
そして啓発活動の人と同じように、「もっと理解してもらわなきゃ」と言います。
確かに、知識の面で理解が足りない場合もあると思います。
しかし、知識があるから好きになるわけでも、優しく接してくれるわけでもありません。
好意的に思っている人は、おのずと知識を得ようとします。
ですから、障害を知ったうえで、あなたのことが好きではないのかもしれませんし、周囲の知識量以前の問題として、単純にその場で求められている基準に達していないのかもしれません。
こういった場合、いくら支援者が入り、特性や配慮事項の説明をしたとしても、溝は埋まるばかりか、却って離れていくのです。


好意的な人もいれば、嫌悪感を懐く人もいる。
そして、避けていく人、無関心の人もいる。
これが真の多様性のある社会の姿です。
どうも啓発活動を頑張れば、好意的な人ばかりの社会になる、またそうなることを願っているように見えます。
もし、本気でそう思っている、そう信じている人がいるとしたら、それは誤解です。
一緒に啓発活動をしている支援者が言わないのなら、私が言います。
啓発活動をするからこそ、避ける人も増えていくのです。


理解しない人、無関心な人が悪いのではなく、それが自然な成り行きなのです。
「理解しない人がまだいるから、もっと啓発活動を頑張らなきゃ」は、負のサイクルの兆候。
それでも啓発活動を頑張りたいというのなら、それはその人の人生です。
ただ私は、生きづらさを他人が、社会が解決してくれるとは思いません。
自分の生きづらさを解決するのは、その人自身だと考えています。

2017年11月27日月曜日

見えない障害を敢えて周囲から見えるようにしたいのは誰?

自分の障害をクローズで、仕事の面接に行く人は少なくありません。
そして受かり、そのまま仕事を続け、社会の中で生活している人達がいます。
一方、自分の障害を相手先に伝え、支援者が入り、配慮事項を確認したうえで面接を受ける人もいます。
で、そういう人は、クローズの人とは異なり、ほぼ100%障害者枠が決まっており、障害者として雇われます。
それなのに、なかなか仕事が続きません。
「支援があれば」といって、支援を増やしてきたのに。
「理解があれば」といって、啓発活動をしてきたのに。
あとは、何が足りないというのでしょうか??


成人の方達から多く訊かれるのが、この障害をオープンにするか、クローズにするか、ということです。
私は、オープンにした場合とクローズにした場合、どのようなことが起こりうるかを一緒に考えます。
すると、ほとんどの方が「クローズで面接を受ける」と言われます。
そのような様子を見て、みなさん、働きたいのであって、障害者として生きたいのではないと感じます。


自閉症やLD、ADHDなど、発達障害の人達は、「見えない障害」と言われています。
そんな「見えない障害」の人達のことを見えるようにしようとするのが、啓発活動に熱心な人達だと思います。
この熱心な人達を見ていますと、見えない障害を敢えて見えるようにすることのニーズは、どこにあるのだろうか、といつも疑問に思うのです。
本当に、発達障害の人達は、周囲から見えていない自分の障害を見えるようにしてほしいと願っているのでしょうか?
私にはそう思えないのです。


もし私に障害があったとして、周囲が気づいていないとしたら、そのまま気づかないままで良いですし、敢えて気づいてもらおうなどとは思いません。
周囲とのズレや困難があったとしても、周囲に気づいてもらうよりも、その困難を解決したい、それが一番の望みになるはずです。
困難があれば、その困難が解決できるのが一番ですし、就職できていなければ、就職できるよう努力したいし、努力の後押しをしてもらいたい。
これは、私が関わらせてもらった成人の方達の想いと同じだと思います。


つまり、就職するのにオープンにした方が良いと考える人は、オープンにしなければ、周囲の配慮がなければ、自分は就職できないし、この人は就職できないと考えているのでしょう。
自分の、また本人の可能性、成長する力を信じられていない人だといえます。
また、なにかあったとき、「障害があるから許してね」と言いたい人なんだと思います。
私が相談を受けた人達の中で、オープンにこだわる人は逃げ道を求める傾向が強かったといえます。
障害を一つの逃げ道のように使おうとする人は、どっちにしろ、仕事は続きません。


ギョーカイが行う啓発活動は、新規のお客様を開拓しているだけです。
本当に、本人たちのことを考えれば、そんな啓発活動をしている暇はなく、一人ひとりの困難を解決し、自立できるよう成長と発達を後押しするのに忙しいはずですから。
また、啓発活動に熱心な当事者の人というのは、障害者として見られたい人であり、障害も、困難も、現状も、すべてひっくるめて受け止めて欲しい人のように見えます。


自分の障害に気が付いていない人が、発達障害という存在を知り、自分を理解し、より良い未来へと歩んでいけるきっかけになるような啓発なら意味のあることだと思います。
しかし、ほとんどの啓発活動が、社会に向けて「発達障害の人をそのまま受け入れてほしい」という流れです。
そのまま受け入れて欲しいと考えているのは、ギョーカイと一部の当事者の人だと思います。
当事者の人の多くは、困難を解決したいのが一番であり、働けるのなら一般の人と同じように働きたいと望んでいると思います。
好き好んで、有期限で、低賃金、出世もなくて、責任ある仕事を任されない障害者枠で働きたいとは誰も思いません。
「障害者枠ではなくて、一般枠で働きたい」
「障害者枠で働く現状が悩みです」
「責任ある仕事がしたいです」
そのような悩みをおっしゃる方が多いですから。


見えない障害を敢えて周囲から見えるようにしたいのは誰でしょうか?
「障害がある」と周囲に見せたあと、治る道を進み、治ってしまうと、「偽物」「治ってはいない」「そんなはずはない」と言われる。
だったら、見えない障害と呼ばれる障害だからこそ、そのまま周囲に気づかれることなく、治る道を目指していけば良いのだと私は思います。
啓発活動は、障害が見えて欲しい人が中心になって行うものであって、すべての人の想いを代弁しているのではないのです。

2017年11月24日金曜日

関わってきた人の数が多くなれば、言葉が重くなる

学生時代、大学院の先輩が「私達は障害児教育のエリートなんだ」と言っていました。
障害児教育という専攻の課があり、そこで学べて、その免許、しかも1種免許が取れる大学で学んでいる。
だから、私達は障害児教育におけるエリートであり、リードしていかなければならないんだ。


「社会人経験がなく、狭い世界に籠っていると、人は妄想の中で都合の良い世界を作り上げるものなんだな~」
そのとき、私は思いました。
こういった生活は4年間で十分で、一日も早く社会に出たかった私は、他人とは違った職場を選び、そこでしかない実践と経験をしようと考えました。


相談支援をやっている人で、「なんか具体性がないな」「的のずれた発言しかできないな」と思うと、直接的な支援をやったことがない人だったり、限られた経験しかない人だったりします。
どんなに良いことを言っていたとしても、実践経験のなさは、その言葉の軽さとなって伝わってきます。


学生時代の院生のように、あたかも自分が特別支援を背負っているみたいな上から発言する人には、「今まで、何名くらいの方の支援、教育に携わってきましたか?」と言って、伸びた御鼻を折らせて頂くこともあります。
学校の先生だったとしても、担任し、直接関わる子どもの人数は、1年間で数名程度です。
ですから、20名、30名に対する教育の経験のみで、発言されている場合があります。
とても高い位置からご発言されているなと思った先生に訊いてみると、「普通級で3名の子の担任をしたことがある」という方に驚いたこともあります。


素晴らしい実践家の方は、やはりその数が違います。
特に発達障害と言われている方たちといいますか、人と関わる仕事をしている人は、どれだけ多くの方達と関わったかが問われます。
特別支援教育の先生は、仕事の性質上、何百人もの子ども達と直接関わることは難しいですが、その中でも重みを感じる発言ができる先生というのは、学校以外の場所でも、障害を持った人と関わっている場合が多いと感じます。
学校の中のみであるとか、施設の中のみであるとか、限られた場所で、限られた人としか関わっていない人からは、なかなか素晴らしい実践家は生まれないと思います。


親御さんに「どういった支援者が良い支援者と言えるか?」と質問されることがあります。
良い支援者を一言で表現することは難しく、本人によっても違いますので、なんとも言えませんが、次のようなお話はします。
「10名の手術をしたことのある医師と、100名の手術をしたことのある医師、どちらに手術してほしいでしょうか?」
その支援者のセンス、腕、考え方というのもありますが、関わった人の数が少ない支援者というのは、引き出しが少ない。
1名しか関わったことがなければ、その1名がその人の中の発達障害者になり、特別支援になる。
親御さんもそうですが、1名を深く知ることができますが、それだけでは職業人としての支援者にはなれません。


親御さんは、我が子1名を誰よりも深く知ることができれば、良いのだと思います。
しかし、我が子が将来、どのような成長を遂げ、大人になるか、人生を歩むかは、実際にそのときにならなければわかりません。
ですから、いろんな人と関わったことのある支援者を上手に利用する。
そのためにも、より多くの人と関わったことのある支援者を求めるのが良いのです。


私は、下は幼稚園に入る前のお子さんから、上は50代の方まで、幅広い人達と直接かかわる機会がありました。
そういった関わりの中で常に大事にしてきたことは、その人の“物語”をしっかり見て、記憶していくことです。
どれだけ自分の中にその人の物語を入れられるか、それが次に出会う人のためになる。
そう信じてきました。
私が直接関わる人同士がつながることはありませんが、その人の辿ってきた物語が誰かの物語とつながることはあります。


本人やご家族に、私が過去に出会ってきた方のお話をすることがあります。
そして、その物語が、本人の成長や意欲、家族の希望や目標としてつながっていくことがあります。
ですから、どれだけの人と関わってきたのかは重要だと思います。


優れた実践家は、圧倒的に関わってきた人の数が違います。
各地域に、素晴らしい実践家と呼ばれている人達がいると思いますが、その人がどういった仕事をしてきたのか、それこそ、その支援者の物語を知ることが、良い支援者、耳を傾けるべき支援者かどうかを教えてくれると思います。
お勉強すれば、誰でも素晴らしいアドバイスの一つや二つはできます。
でも、その言葉の重みが違うのです。
その重みを感じられるようになることが大事なのです。


ちなみに私は、1000名の方と直接関われて、やっと一人前になれると思っています。
まだ道半ばです(;´∀`)

2017年11月23日木曜日

「その当時、そんな道はなかった」

親御さんの多くは、「支援を受けることが、この子の成長と自立と生活のためにつながる」というところから出発されるように感じます。
親御さんご自身が経験してこなかった世界です。
知識を集めるところから始めなければなりません。
子ども時代にはなかった概念、サービス、選択肢なのですから、自分以外の“専門家”が必要で、どうにかしてくれる、助けてくれると思うのが自然だといえます。


この出発点は、皆さん、同じですが、徐々にそれぞれの道へと分かれていかれます。


まずは、そのまま突き進まれる方。
私はよく「支援の量と、お子さんの成長と自立と生活の質は比例するわけではない」と言っていますが、「いろんな支援を、より多く受けさせることが、この子の幸せになる」と思い、信じ続けられている方たちがいます。
今日は療育機関に行って、明日は病院に行き、支援ミーティングをやって、夜は余暇活動の準備で、週末は親の会、学習会…。
「我が子のためになんでもやりたい」という想いとエネルギーに共感いたしますが、家族全体が疲れて見えることが少なくありません。


また、お子さんが親御さんの想いほど伸びていない、むしろ、こんがらがっているということもあります。
その理由は、端的に言えば、子どもが見えていないから。
子どもの成長と状態を見て、その時々で取捨選択をしなければならないのにも関わらず、あれもこれもと集めることに終始ししてしまった結果、必要のあるものもないものもごちゃまぜ状態になり、子ども自身がこんがらがってしまっている。
支援者は、親御さんはお客様であり、いっぱい利用してくれることが有難いですから、「頑張ってますね、お母さん」「その想い、行動力に、私達の方が頭が下がります」なんておべんちゃらを言いますが、親御さんにそれを真に受けてしまう状況があり、真に受けて育て直す発達のヌケをお持ちなのだと思われます。
いつしか、我が子のために頑張っている親御さんが、頑張っている自分のためにいる親御さんに変わっているなんてこともあります。


支援に対し、疑問が芽生えてくると、分かれ道が出てきます。
このまま支援を受け続けても、希望していた将来に近づいていけない。
または、もう無理かもしれない、そもそもが無理だったかもしれない。
疑問が無念な思いと結びついてしまうと、その無念さが別の果てしない夢へと誘います。
「変わるのは、子ども達ではなく、社会の方なんだ」
発達の遅れ、障害を指摘されて一番に啓発活動に向かう親御さんは、ほとんどいません。
一生懸命、良い支援を、より良い成長を、と頑張ってこられた親御さんが、途中から啓発活動へとのめりこみ始める姿も見てきました。
どう考えても、社会を変えるより、我が子を変える方が確実な方法です。


支援の限界を悟ったとき、啓発には向かわず、「ありのまま」への道に進む方もいます。
「障害なんだから仕方ないんだろ」
特性も、誤学習も、未学習も、不適切な養育も、すべてみんな障害のせい。
そう考えることで、消化できない無念さを宙に浮かしているように見えることもあります。
最初から、親御さん自身に人として問題や課題のある方もいます。
しかし、「障害なんだから」という親としては投げやりな態度に、無念さの反動を感じることがあります。


「とにかく支援を受けることが必要だ」から、そのまま、特別支援の世界に突き進むか、途中で疑問に感じるかが分かれ道。
そして、特別支援に対する疑問から、啓発へと進むか、ありのままへと進むかが分かれ道。
以前は、大雑把に言って「特別支援に染まる」「啓発という現実逃避に向かう」「ありのままを求める」の3つの道で落ち着かれる方がほとんどだったように感じます。
でも、ここ数年で、この3つ以外の新たな道へと進む方が増えてきたと思います。
それが「治す道」です。


すでに成人されている方の親御さんとお話ししたとき、3つの道以外に、今は治る道があることを伝えました。
すると、「そんな道があることを知っていたら、絶対に治る道を選んでました。治る道が一番良いに決まっています」と、ぼろぼろと涙を流されました。
この親御さんは、特別支援の世界に対する疑問を持ちながらも、そのまま突き進んでいかれた方でした。


現在、社会の中で資質を活かし、自分らしく生きている発達のヌケや遅れがあった方達。
その当時、道はなかったけれど、自分の信念の元に子どもを育て、歩まれてきた親御さん達。
そして、全国で優れた実践を行われてきたプロフェッショナルの方達。
そういった方達が一歩ずつ足を下ろしてきた後に、新たな道ができたのだといえます。


狭い特別支援のムラの中のみに居場所を作るのではなく、
社会を変えるという果てしない夢を追うのではなく、
「ありのまま」を自分にも、他人にも、社会にも強要するのではなく、
発達のヌケや遅れを育て直し、治しやすいところから治していく道。
新しくできた道の存在を知り、そのあとを歩く人が増えていけば、道は固くなり、広くなっていくはずです。
私は、治る道を進もうとする人とともに、歩んでいこうと思いますし、子育てが始まったばかりの親御さん達に、純粋な親心のままで良い道があることを伝えていきたいと考えています。