2013年8月28日水曜日

メガネ論争の終焉

「社会に出たら、構造化された支援なんてないのだから、このような支援は外していく」と言う人がいる。
それに対し、「構造化された支援は、目が悪い人にとってもメガネのようなもの。だから、外して生活しろ、というのはおかしい」と反論する人がいる。
このような主張の違いは、私が学生だったときから存在していた。
10年経った今でも、同じような主張が繰り返されている。

では、私はどのように考えているかというと、「それが本人にとって必要な手立てなら、取り上げてしまうことは間違っている」という意見である。
つまり、メガネ必要派の立場だ。

そもそも本人のものである構造化された支援を他者が取り上げるという意味が私にはわからない。
必要かどうかを決めるのは、本人である。
もし本人がうまくコミュニケーションが取れなかったとしても、構造化された支援があるのと、ないのとを比べ、あることで落ち着いたり、周囲から求められている内容がわかったり、学習の効果が上がったりするなら、本人にとって必要な手立てだ、と言える。

確かに社会に出たら、本人のための構造化された支援はほとんどない。
しかし、だからと言って、構造化された支援を使わなくていい、という話にはならない。
ときに、「社会に近い環境にし、慣れさせる」と言う人がいる。
でも、社会に近い環境の中で過ごして慣れられるなら、そもそも構造化された支援という発想自体が必要なくなる。
"慣れ"でどうにかなるなら、初めから普通学校で定型発達の子どもたちと学べば良い。
自閉症の特性は、"慣れ"などでは乗り越えられないので、構造化された支援が存在している。

また、メガネを外す派の人たちは、構造化された支援の本質を捉えていない場合もある。
「将来、使うか、使わないか」について議論することはあまり意味がない。
構造化された支援は、簡単に言うと、自閉症の人たちの学習の効果を最大限に高めるための手だてである。
構造化することが目的ではなく、構造化することによって、自閉症の人たちがよりよく学べることが目的である。
支援者が自閉症の人たちに学ぶことの最適な環境を準備することに対し、否定する人はいないはずである。

しかし、最後にメガネ必要派の人たちも頭に入れておかなければならないことを言いたい。
それは、構造化された支援をよりコンパクトで、機能的で、自然な形に変化させていくことを忘れてはいけない、ということである。
現実問題として、大きい衝立や特殊なものを使った構造化された支援は、他の場所で使うことができない場合もある。
構造化された支援を引き継ぎたくても、引き継げない状況を作ることはなるべく避けなければならない。
可能である限り、コンパクトで、機能的で、自然な形に変化させることの必要性も心に留めてほしい。

もうそろそろ「いるか、いらないか」などの話は止めにし、どうしたら生涯を通して、構造化された支援を継続して使い続けることができるか、という話に変わっていっても良いのでは、と私は思っている。

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