2014年7月31日木曜日

自閉症の子ども達にどのようにして「命の教育」を行えばよいのか?

佐世保の事件を受けて「命の教育」が大きな話題になっています。
教育関係者の中では、「命の大切さをもっと教えていくべきだ」という意見の方も多くいます。
しかし、この意見には自閉症の子ども達の視点が抜けているように感じます。
「命の大切さを教える=自分や他人を傷つけない」ということにはなりません。
命の大切さを教えるのでしたら、自分や他人を傷つけてはならないことも教える必要があります。
「命の大切さが分かったなら、自分や他人を傷つけてはいけないことぐらい分かるだろう」というのは、定型発達の人たちの視点です。

以前にこういうことがありました。
ある少年は、命が大切なものであることを理解していました。
でも、他人の命を奪ってはならないということに対して、ピンときていませんでした。
それはそうだと思います。
だって、命は見えないですし、自分の命が奪われた経験がないのですから。

ですから私は、「命を奪うってことは、〇〇くんの大事な△△のカード(プレミアムなトレーディングカード)を取られて、ビリビリに破かれるようなことだよ」と伝えました。
そうすると、その少年は真っ青な顔になり、「命を奪うってことは、絶対にいけないことだね。僕は絶対に他人を傷つけたり、殺したりしない」と言っていました。
彼は命がなくなったら修復できないことも知っていましたので、彼が具体化し、実感できるような表現に置き換えて伝えました。

自閉症の子ども達に命の大切さを教えるときにも、やはり個別化が重要になります。
私たちが「それくらい当たり前だろう」と思うことに気が付いていなかったり、自然に物事を関連付けることの苦手さから"命の大切さ"と"傷つけてはならないこと"などが結びついていなかったりすることがありますので、それぞれ子どもに合わせて療育を進めていく必要があります。

「ゲームの中では死んでも生き返るが、実際の世界では人は死んだら生き返らない」
このようなことは、ある年齢に達した子どもなら誰もが知っている、と思われがちですが、ゲームの画面に「ゲームの中では生き返りますが、実際の世界では生き返りません」などの表示が出るわけではありませんので、人は死んでも生き返るものだと思っている子どももいます。
このように、その子がどんなことに気が付いていないか、わかっていないか、を確認することはとても重要なことになります。

一斉授業で「命の教育」が行われるだけでは不十分だと思います。
なぜなら、自閉症の子ども達は「当たり前」と思われるようなことに気が付いていない場合があるからです。
「当たり前」を前提に進む一斉授業では、自閉症の子ども達の真の理解にはつながらない。
定型発達の子ども達が教わっていなくても直感的に学ぶことも、体系的かつ経験に基づいて1つ1つ丁寧に学んでいく必要があるのです。
ですから、命の教育に関しても、一人ひとりの認知や経験に基づき、個別化された療育が必要になると考えています。

2014年7月29日火曜日

「うちの旦那も・・・」

最近、お子さんとあわせて、旦那さんのことを相談されることが増えました。
自分の子どもについて勉強していくほど、「うちの旦那も!?」というように思えてきたなんて話があります。

「自閉症の脳は男性脳である」という専門家もいるくらいですし、親子ですので似ている特徴を持っていることも不思議ではありません。
ですから、お父さんも自閉症かどうかは置いておいて、夫について疑問に思う言動などについて、自閉症支援の観点からお話ししています。

お話ししてくれる皆さん、本当に悩んでいたり、諦めていたり・・・。
でも、相手に悪気がないことが分かったり、どうすれば伝わりやすいかがわかったりすると、本当に喜んでいかれるお母さんたちがいらっしゃいます。
お子さんの相談できたつもりが、いつの間にか夫の話になる。
そんな場合も喜んでお話ししています。
夫婦関係や職場でのトラブルなど、お悩みの方がいらっしゃいましたら、お子さんと一緒にご利用ください!

自閉症支援は面倒くさい!?

最近、立て続けに「自閉症支援って面倒くさいですね」と言われました(笑)
確かに、自閉症支援をきちんとやろうとしたら、とても多くの労力がかかります。

例えば、手を洗うことを教える場合、手を洗うということはどういう意味があるのか、どんなときに
行えばよいのか、どんな手順があるのか、手洗いの概念を具体的に示し、かつ手洗いの順番を教えていく必要があります。
人によっては、石鹸について、ばい菌についてなども学んでいく必要があります。

定型発達の子どもでしたら、「手洗いしなさい!」で済む話ですが、自閉症の人の場合は、他人の手洗いを見て模倣することが苦手だったり、石鹸やばい菌の概念を直感的に学習することが苦手だったりするため、上記のような過程が必要になります。
自閉症の人たちは、意味が理解できないことには注意が向きづらい特徴があります。

自閉症支援が上辺だけで、本質的な部分まで伝わっていかないこと。
支援者が育っていかないこと。
これらの理由には、自閉症支援の持つ深さが関係していると考えています。

ちょっとやそっと勉強したからといって、自閉症支援はできません。
また、ちょっとやそっとの労力で自閉症支援はできません。
自閉症支援は、本人を育てるのも、支援者を育てるのも、インスタントではなく、1つ1つ丹精込めた手作りが必要なのです。

2014年7月21日月曜日

自閉症の子ども達をいじめから守る!

今まで幅広い年代の自閉症の方たちと多く接してきましたが、みなさんいじめられた経験を持っていました。
言動に特徴があったり、集団行動が苦手だったり、いわゆる空気を読むことが苦手だったり・・・。
学校等の集団の中で目立ってしまって、反対に大人し過ぎるために、いじめのターゲットになりやすい。
それでいて相手の意図を想像することが苦手で、自分を客観的に見ることも苦手。
だから、いじめられていることに気が付いていない場合も多くあります。
それと、コミュニケーションに苦手さを持っていることで、適切な表現で、適切な人にいじめられていることを伝えられないことがある。
結果として、いじめが長期化しやすく、周囲から気づかれる頃には、心身ともにボロボロの状態になっていることが少なくありません。

子ども時代にいじめられたことが、後々の人生に大きな影響を及ぼしている人も多くいます。
ですから、絶対にいじめから彼らを守らなくてはなりません。

自閉症の子ども達は、いじめのターゲットになる可能性が高い。
だったら、「いじめられる前からいじめ対策チームを作り、いじめの予防に努めるべきだ」と私は考えています。
常にその子がいじめに遭っていないか、大人たちが注意している。
そして、もし何か変わったことがあれば、すぐに対応する。
これくらい徹底しないと、自閉症の子ども達をいじめから守ることはできないと思います。

ある学校の校長は、「自分の学校にはいじめがない!きちんと対策がとれている」と豪語していました。
しかし、その学校の子どもが私のところに来て療育を受けています。
その子はいじめから学校に行けなくなっているからです。

いじめという辛い経験は、その後の人生に大きな影響を与えていると実感することばかりです。
彼らは、いじめという辛い経験によって、認知(考え方)が歪められてしまっている。
その彼らの認知を修正することは、支援される側も、支援する側も大変な労力がいることです。
だからこそ、学校、大人たちが本気になって「いじめを見つけだす」という意識で立ち向かう必要があるのです。
「いじめが起きない」という前提を捨て去るべきです。

いじめが起きてからでは遅い!
いじめが起きる前に、対策を!!

みんなきれいな花を咲かせる種を持っている

2014年7月19日土曜日

そのIEPの目標、"測定"できますか?

仕事柄、学校や支援機関、児童デイなどで作成された個別支援計画を見せてもらうことが多くあります。
IEPミーティングなどにも呼ばれて参加させてもらうことがあるのですが、いつも疑問に思うことが「この目標はどうやって評価するのかな?」ということです。

「公共のバスに乗って通学する」
「自分の気持ちを適切に表現できるようにする」
「読む力を高めることを目指していく」

みなさんも、このような目標を目にすることが多いと思いますが、疑問を持つ方は少ないと思います。
何故なら、目標自体は本人のニーズに合っているものであり、保護者の方の希望とも合致している場合が多いからです。

では、何が問題なのか?
それは達成基準が具体的に示されていないからです。
公共のバスに乗って通学するというのは、親御さんが一緒にバスに乗って通学しても目標達成となります。

1人でバスに乗ることができたとしても、車内で騒いでしまうなど、マナーの面で未学習の部分があっても、
たまたま1回、バスに乗って通学できたとしても、
先生が側でず~と見守っていても、
行き先が違うバスに乗って、違うバス停で降り、そこから歩いて学校に行ったとしても、
降りるバス停の1つ前のバス停から乗り、次のバス停で降りても、
お金を払わずに降りていったとしても、
「公共のバスに乗って通学できました」ということができてしまいます。
でも、本当にこれでいいのでしょうか。

アメリカのIDEA(障害者教育法)には、IEP(個別の教育プログラム)は測定可能な年間目標に関する記述を書くように、と明記されています。
ですから、「公共のバスに乗って通学する」ではだめで、「家の近くの〇〇というバス停から、××行というバスに乗り、△△というバス停で降りる。これが車内でも問題なく、一週間連続してできる」というように、測定可能な目標にしなければなりません。

このように測定可能な目標にすることにより、保護者も、教師も、子どもが進歩しているのか、退行しているのか、同じ段階に留まっているのかを確認することができます。
逆に言うと、測定可能な目標が立てられていなかったとしたら、書き方、表現の仕方で何とでも評価してしまうことができてしまうのです。

もうすぐ1学期が終わり、評価が返ってくる時期だと思います。
お子さんの評価は、数えられたり、観察したり、記述したりできる内容で、具体的に評価されていますでしょうか?
評価者の作文になっていないでしょうか?

2014年7月8日火曜日

"かにかま"の支援を見抜くには?

以前の職場で尊敬できる先輩が、「大久保くん、"かにかま"みたいな人が増えているからこそ、本物の"蟹"にならなくてはならないよ」と話してくれていました。
つまり本物の専門家を目指せ、ということを"かにかま"の例えで教えてくれていました。
この先輩は、自閉症の専門家ではありませんが、その道では素晴らしい技術と発想を持って縦横無尽に活動されている人です。

自閉症支援においても、"かにかま"の支援だと感じることがあります。
その"かにかま"の支援に共通していることは、支援の根拠が"経験のみ"であることです。
「過去の〇〇くんの支援でうまくいったから」などと、経験を元に支援を組み立てている。

支援の根拠を経験のみに頼ってしまうと、その支援者しか支援ができなくなってしまい、一貫した支援を継続して受けられなくなってしまいます。
支援者が変わるたびに、支援の方法や考え方が変わってしまったら、本人と保護者が振り回され、結局中途半端な支援、スキルしか身につかない危険性があります。

また、支援の基本は「アセスメントから始める」と「個別化」です。
本人の支援は、本人からのアセスメントを基にし、個別化する必要があります。
他の人にうまくいった支援は、その人に合う支援であって、他の人に合うとは限りません。

支援の根拠は、「自閉症に関する知識」と「実証された理論」です。
常に自閉症の特性を踏まえ、実証された理論を根拠にし、支援を組み立てていきます。
そうでなければ、思い付きの支援になってしまいます。
自ら修正することが苦手な自閉症の人たちは、思い付きの支援をそのままの形で受け取ってしまい、あとからの修正に苦しむこともあります。

"かにかま"の支援を見抜くことが、日本の自閉症支援の質の向上へとつながっていく、と考えています。
"かにかま"を本物の蟹だと思って食べていれば、いつまで経っても"かにかま"を食べ続けるしかありませんし、どんどん"かにかま"ばかりがはびこってしまいます。

ここで簡単に"かにかま"の支援を見抜く方法をお伝えします。
支援が目の前に来たら、「この支援(アドバイス)の根拠はなんですか?」と尋ねることです。
本物の蟹でしたら、「北海道近海の海で取れた」とか、「〇〇という蟹の種類で・・・」など、きちんと分かりやすく説明してくれます。
もし本物の蟹でなければ、「日本海側で取れたと思います」「けっこうおいしかったですよ」などと、しっくりこない返事がくると思います(笑)
また繕っていても詳しく聞いていくと、だんだん言っていることが矛盾してきます。

現実には「根拠はなんですか?」などと直接的な質問はできないと思いますので、「私も勉強したいので、どうしてそのような支援になったのか教えてください」とか、まろやかに尋ねてみてください。
本物の蟹を提供している人は、きちんと分かりやすく説明してくれます。
安全で、安心できる美味しい蟹を子ども達に届けるためには、保護者の方たちの力が必要です。
支援者に良い意味で緊張感を与えることも、今の日本の自閉症支援には欠かせないと感じています。
蟹は荒波の中を、何年もかけて成長するから、身の詰まった美味しい蟹になるのです。

2014年7月5日土曜日

療育は理想主義ではなく、現実主義で

私は、社会に対してはいろいろと理想を持っています。
いつか自閉症の人たちが、自分が自閉症であることをオープンにすることが自然にできる社会になってほしい!
そのためには、てらっこ塾の活動を通して、療育の有効性や自閉症の人たちの強み等、発信していくことが大事だと思っています。

しかし、社会や未来については理想主義である私も、実際に療育で個人と向き合うときは、かなりの現実主義になります。
療育の目標にすることは、今、その本人が困っていること、身に付けたら良いことに取り組みます。
いつ目標のゴールになるか分からないようなことは、目標にすら挙げません。

何故なら、今まで中途半端な取り組みをされた結果、ぐちゃぐちゃになってしまった自閉症の人たちを多く見てきたからです。
定型発達の人であったのなら、取り組みが中途半端になっても、そのあとは自ら学び、進んでいくこともできます。
しかし、自閉症の人たちの場合、自ら計画を立て、実行していくことが苦手だったり、学ぶことの意図が読みづらく、そのために動機づけが難しかったりするため、中途半端に終わったものは、そのまま停滞するか、自分なりの解釈で学習を進めてしまうことがあります。
結果として、取り組んできたことが身につかないだけではなく、適さない行動や考え方を身に付けたり、頭の中が中途半端な教えばかりになり、整理が付かない混乱状態になってしまうことがあります。

支援や療育に関わる人間が、個人の考え方や経験に頼ることなく、一定の専門性を持っているのなら、取り組みが継続され、中途半端に終わることはないと思います。
しかし、今の日本ではすべての支援者に標準化された研修や方法はなく、独自で勉強するか、経験でなんとなく支援するか、というのが現実です。
ですから、始めから継続した取り組みは難しいと考え、自分が担当しているときに、自立まで完結するような療育を行うことが良いのだと考えています。

今、子どもが7歳で、どうやって18歳のときの目標が立てられるのでしょうか?
思春期の様子や環境の変化、本人の成長、ニーズなど、そのときにならなければ誰もわかりません。
一気にときが進むことはないのです。
将来は、今日1日の積み重ねから成り立ちます。

短いスパンで、今、本人が必要なことを、今、取り組みます。
できる、できるが増えていき、将来の自立的な生活へとつながっていく。
今、生きづらさを感じているのなら、将来、生きやすくなっているわけがありません。
「未来を考える暇があるのなら、今、その本人が生きやすく、自分の生活が豊かになるような療育を!」と考え、てらっこ塾の活動を行っています。

2014年7月4日金曜日

"見守り"も支援していることになりますよ

"見守り"が手助けの一種だということに気が付いていない支援者は意外と多い。
「見てくださいよ。ほら〇〇くん、一人でカレーが作れるんですよ」
本人の様子を見てみると、側に支援者が立っており、その支援者自体がヒントになってしまっている。
ときどき、小さく指さししたり、顔の表情を変えてヒントを与えている場合も(笑)
「自立してます」という支援者に限って、自分が大きなヒントを出していることに気が付いていないことが多い。

本人が「自立した」と評価できるのは、支援者が誰もいない状態で、一人でその活動が行えることを言う。
誰も台所にいない状態でカレーが作れれば、自立であり、側で支援者が見守っていれば、それを自立とは言わない。

「側で見守っていないと危ないじゃないですか」と言うなら、そもそもその活動を目標に挙げ、自立させようとすることに無理がある。
自分で危険を回避できることも活動の中に含まれるし、療育すべき点である。

成人したとき、ずっと側に支援者がいるわけではない。
支援者とセットの活動は、支援者がいないと"できない"ということになる。
だからこそ、支援者の見守りがなくても、一人で活動ができるようになることが目標となる。

「見守っているだけだから支援していない」ではなく、「見守っていることも支援に入る」という認識を持ってほしい。
それは自閉症の人の目から見ると、支援者も環境の1つであり、その活動の一部として捉えてしまうからである。
自閉症の特性を踏まえると、どうしても見守りも支援、ヒントの1つと言わざるを得ない。

誰が白いキャンパスに絵を描くの?

教育は、しばしば「子ども達の白いキャンパスに絵を描くこと」という例えがなされる。
じゃあ、その白いキャンパスに誰が絵を描くのか?
それは子ども自身。

時々、子どもの手から筆を取り、絵を描き始める支援者がいる。
これは大きな間違い。
時々、子どもと一緒に筆を握り、絵を描き始める支援者がいる。
これも間違い。
子どもが描く絵は、子ども自身の人生。
それを他人が手を出してはいけない。

「自閉症の子ども達は、自分で上手な絵が描けないのだから、手を貸すことは当たり前だろう」という支援者もいるかもしれない。
でも、よく考えて欲しい。
みんなが同じきれいな絵を描く必要はない。

いびつな形の絵だっていい。
奇抜な色を使ってもいい。
想いもよらない組み合わせだっていい。
それが完成したとき、その子どもの味となり、主体的な人生の歩みとなる。

本当の支援者とは、絵を描く子どもの側で、その姿を温かく見守る人のこと。
ときに、絵の素晴らしいところを述べ、困ったことがあれば、解決までの選択肢を提供する。
決して指示したり、書き直しを命じる者ではない。

私が考える素晴らしい支援者とは、子どもが集中して絵が描けるような環境を整え、絵が好きになり、自分らしい絵がのびのびと描けるように導くことのできる人のことだと思う。

2014年7月3日木曜日

自閉症療育の評価は"実践の場面"で!

自閉症療育の評価は、ズバリ「実践の場面」で評価されます。
例えば、買い物の学習をしたのなら、実際にスーパーやコンビニで買い物ができて、初めて「療育の効果があった」ということができます。
つまり、反対の言い方をすると、いくら療育場面でできていたとはいえ、実践の場面でできなければ、それは「療育自体に誤りがあった」「効果がなかった」といえます。

自閉症の特性として、般化が苦手だということがあります。
1つの場面でできていたことが、他の場面になるとできない。
ですから、般化も念頭にした、般化も含めたものが療育となります。

「学校(施設)だとできるんですが・・・」という言葉をよく耳にします。
学校や施設内でしかできないということは、それは療育をしているのではなく、学校適応、施設適応者を作っているだけです。
また、もし"般化"について考えられなかったのなら、自閉症療育に携わる者としては失格になると思います。
それくらい"般化"について考慮することは大事であり、実践の場面でできることが最も大切なことです。

学校や施設でできるからといって、そこで評価してはいけません。
実践の場面での評価が真実です。
ですから、いくら学校や施設で失敗しても良い。
実践の場面でできるようになったのなら。

「〇〇理論を実践!」という広告を見たら、気をつけて!

「〇〇理論を実践」「開発〇〇メソッド」「〇〇アプローチやってます」などという言葉や文字をよく目にします。
もちろん、それぞれはしっかり研究され、実践されてきたものですので、素晴らしいのだと思っています。
でも、そのナントカ理論やメソッドが全面に出てくると、私は違和感をもちます。

あくまで自閉症療育の目的は、本人たちの生活の質の向上であり、幸せです。
生活の質の向上や幸せが得られるのなら、特定の理論や方法でなくても構いません。
誰もがこのことを分かっているはずなのに、特定の理論や方法が全面に出て、強調されるということは別の意図を勘ぐりたくなります。
ときどき、特定の組織が独自の理論や方法を作りだすこともありますが、その組織内でしか通用しない方法や言語を作りだすことは、特定の組織から出られなくなる、出られなくすることになるのでは、と疑問に思います。

どんなに素晴らしい専門家が考えた理論や方法であっても、すべての人に適することは決してありません。
それは、自閉症療育の核は、一人ひとりに合わせた"個別化"であり、すべては本人への"アセスメントから始まる"ということです。
自閉症療育は、唯一無二の完全オーダーメイドです。

TEACCHプログラムの素晴らしいところは、他の理論や方法であっても、TEACCHの考える自閉症療育の方向性と同じであるのなら、取り入れるところです。
つまり目的は、個人の成長と幸せということがはっきりしている。
だから、素晴らしい理論や方法があるのなら、それが別の組織だろうが、別の国だろうが柔軟に取り入れていきます。

いろいろな理論や方法を学ぶことは、一人ひとりに合わせた柔軟な療育へとつながっていきます。
でも、その理論や方法が本人たちよりも前面に出てはなりません。
理論や方法は、目的ではなく、手段なのだから。
目的は、その人が幸せな人生を送れること。