2015年12月31日木曜日

2015年は、結構切りましたね(笑)

日本列島は縦に長いんだと、改めて実感しますね。
雪の降る氷点下の北の大地から、飛行機に乗って90分。
あっという間に、暖かい東京に着きました。
まるで春のような陽気です。

東京で電車に乗っていると、本当にいろいろな人がいるんだな、と感じます。
外国の人も多いですし、個性的な人もたくさんいます。
函館にいたら、かなり視線を集めるだろうな、と思う人も。
東京っていうのは、いろいろな人がごちゃまぜの場所ですね。
でも、それが多様性を持った真の社会の姿だと思います。

2015年も、残すところ、あと6時間ほどになりました。
今年を振り返ると、本当に長かったという感じです。
いろいろな出来事、出会いがありました。
仕事の件数も、500件以上、メールや電話等の相談もいれたら、もっと増えますね。
でも、この数よりも、私の支援がいらなくなった人が多く出たことのほうが嬉しかったです。
自分で成長する方法を掴んだ人。
希望の進学、就職が叶った人。
自立への一歩を踏み出した人。
新たな人生へ歩みだした人。
「大久保さん、もう一人で大丈夫です!」という言葉のために、仕事をやっているようなものです。
たくさんの子供たち、若者たちの成長に立ち会えたことが、何よりの喜びでした。

個人的には、揺らぎがなくなりましたね。
余計なもの、わずらわしいもの、信じられないものは、一気に切り捨てるようにしました。
とにかく自分が信じた道以外は、人でも、ものでも、仕事でも。
仕事が安定しないときには、「なんでもかんでも」でしたが、本人の成長と自立のため以外のことはやめにしようと思ったのです。
本人にも、ご家族にも、ときに支援者にも、厳しい発言をしてきました。
それもすべて未来のために。
「嫌われたらどうしよう」とか、「仕事の依頼がなくなったらどうしよう」などと、今思えば、自分本位のくだらないことだったように感じます。
でも、今までできなかった"切る"を行ったら、私が進むべき道が見えてきた。
私が行うべき支援と役割が見えてきたから、思い切って切れたのかもしれませんね。

「支援者がいらなくなる支援」
これこそが進むべき道だと考えています。
支援者と呼ばれる人間ができることなんて限られています。
その人を一番成長させられるのは、その人自身だと思います。
その人が自分を成長させられるようになれば、どんどん社会の中に出ていくことができます。
社会は多様な人間がいます。
その多様な社会の中で生きることが、更なる成長につながると思います。
そうやって社会の中で成長し、社会の中でその人自身の資質を活かし、役割を果たすことが、豊かな人生を作っていくのだと信じています。
障害のあるなしにかかわらず、社会の中で果たすべき役割は、みなさん、持っているのだと思います。

2016年も、ぶれずに、こびずに、本人第一に、頑張っていきたいと思います。
そして、地域のしっかりとした選択肢になれるよう精進していきたいと考えています。
一人でも多くの人が、支援者から卒業し、自分の人生を自分の足で歩んでいけるようになることを目指していきます。
今年も、たくさんの励まし、応援をいただき、ありがとうございました。
みなさま、よいお年をお迎えください!

2015年12月30日水曜日

脳の声を聴こう

10月の発達援助イベントに参加してから、脳についてもう一度、勉強し直しています。
そして、
「脳のどの部分に不具合があるのか(鍛える弱み)」
「反対に脳の不具合の部分を補っている部分はどこか(活かす強み)」
「その不具合の部分をどう発達させるのか」
という視点を大事にしながら、以前よりも日頃の仕事を行うようになっています。

ある男の子は、常に自分の視点のみで行動していたため、他人に不利益を与えてしまうことが多々ありました。
そして、当然叱られますが、何故、いけないのかがわからなかったのです。
そこで、他者の視点を想像する脳の部分に不具合があるのだと仮定し、アセスメントを行いました。
でも、他人の視点を想像することができないわけではなかったのです。
つまり、他者の視点を想像する脳の箇所に不具合があるわけではない。
ということは、自分の視点と他者の視点の行き来がうまくいっていない。
自分の視点をもとに想像する脳の箇所に優位性があり、かつ他者の視点をもとに想像する脳の箇所とのつながりが弱い。
定型発達の人なら自然に、意識せず、一瞬で自分の視点と他者の視点を入れ替えられるのですが、そこを敢えてマニュアル的に「自分の視点」「他者の視点」を入れ替える学習をし、情報伝達を意図的に交流させました。
この男の子の場合、情報の交流が脳を発達させると判断したのです。

また、ある女の子は、国語でも、算数でも、文章問題が苦手。
漢字や計算などは、バッチリなのに。
そこで、彼女は文字として、文字のまま捉えているから、文章問題になると勘違いや間違いが多くなるのだと仮説を立てました。
私の見立ては合っていたようで、文章問題も計算問題のようにやっていたのでした。
普通、文章問題を読んでいるとき、頭の中にイメージが湧きますね。
「太郎さんが飴を3個持っていました」とあれば、頭の中に太郎さんと3つの飴のイメージが自然と浮かびます。
でも、その子はそのイメージが浮かんでいませんでした。
ですから、その子の趣味は絵を描くことで、マンガを描くことでしたので、文章問題が出てきたら、絵を描いてから解くようにしました。
私たちが頭の中でやっていることを実際に絵を描くことで行ったのです。
そうすると、あれだけ苦手だった文章問題がきちんとできるようになったのです。
つまり、文字とか、計算の部分だけではなく、イメージする脳の部分も意図的に使うようにしたのです。
こうやってイメージ脳も動員することを脳が覚えれば、自然と絵を描かずとも、文章問題ができるようになると思います。

直接、脳を見ることはできないので、脳の特徴を行動から読み解く技術の向上が、今後の私の課題です。
その人の発達すべき脳の箇所が見えるようになれば、それを本人、家族に伝えることができます。
私が週に1回伺ってセッションを行ったとしても、脳の変化は起きません。
脳は刺激を与え続けることが大切ですので、日々の生活に活かせてもらえるようなセッションができれば、理想的だと思います。
そのためにも、私が勉強しなければなりません。
お正月休みは、集中して脳の本を読んで、しっかり勉強したいと思います。
今まで学んできた自閉症療育に、脳科学の武器もプラスできるよう頑張ります!
「ここを発達させて」という脳の声が聞こえるようになるのが、目標です(*´▽`*)

冬休みの課題図書♪

2015年12月29日火曜日

家族の中心は自閉症の子なのか!?

今月、3件のお宅で同じ話が出ました。
これは「ここに書けってことかな」と思い、今年中に書いておきますね。
どんな話かといったら、「家族の中心は自閉症の子なのか!?」ということです。

ある親御さんは、定型発達の兄弟児に時間を割こうとしたら、某支援者から怒られたとのこと。
また、ある親御さんは、「介護や他の家族のこともあるから、この子の支援だけをやっていられない」と言ったら、「だから、お子さんは落ち着かないんです。このままでは犯罪者になりますよ」と批判され、さらに別の親御さんは、「そんなこと、普通の家ではできませんよ」というような環境的にも、労力的にも、現実とはかけ離れたアドバイスをされたとのこと。

まあ、よくあるんですよね。
こういう空想上のアドバイス。
兄弟児がいれば、兄弟児のことだってある。
また、介護もあれば、親御さん自身のこともある。
朝起きれば、学校まで送りだすだけでも一苦労。
そして、家庭のこともやり、仕事もあれば、それも行わなければならない。
自分だって休憩や息抜きをしなければ、壊れてしまう。
学校から帰ってきてからも目まぐるしく時間は過ぎていき、休日は休日で大変なこともある。
そんな家庭での営みの中で、可能な範囲で子育て、支援を行っていくのが、現実的なお話ですね。

「あなたが言うようなアドバイスをそのままやっていたら、誰が他の兄弟の面倒を見るんですか!?誰が買い物に行って、ご飯を作るんですか!?」っていうような支援者の助言。
支援者って、障害者中心の世界で生きているから、机上の空論というか、現実世界とは別の次元で話をしてしまうんですよね。
あなた達の支援の中心は、障害を持った人かもしれないが、家庭にしてみたら、家族の一人。
確かに、他の家族よりも、いろんな面で手が必要かもしれないが、決してその人中心に家族が成り立っているわけではないし、常に中心である必要もない。

ある親御さんは、素晴らしいことを言っていましたよ。
「社会は自閉症中心に成り立っているわけではないので、家庭の中も自閉症中心の世界にしてはいけないと思うんです。この子が勘違いしてしまって、将来、困るのはこの子だから」
こういったしっかりとした考えを持って、子育てされている親御さんは立派だと思います。
本当におっしゃる通りです。
社会は自閉症中心ではありません。
そして、今後も、自閉症中心の世の中になるなんてことはありません。

社会の中で生きていくなら、社会と同じ感覚で生活していく必要がありますね。
社会は多様な人間が、それぞれの役割を果たし、成り立っています。
発達障害の人たちからしたら、「定型発達中心の社会じゃないか」と言うかもしれませんが、定型発達の人だって多様ですよね。
国籍や肌の色、性別、趣味嗜好、財産だって、どんなカテゴリーで分けても多数派と少数派に分かれます。
結局、「自分たちはマイノリティーだ」と主張する人だって、分け方によっては多数派になりますね。
つまり、主義主張を通すための一つの材料にすぎないと思いますよ。

家庭の中だって、小さいかもしれませんが、そこも社会の一つです。
そこで、うまく生活できない人は、社会で自立して生活できるわけがありません。
ましてや、何でも自閉症の子中心に、などということは、本人の誤学習を助長し、自立を妨げますし、家族のバランスが崩れてしまいますね。
もちろん、「障害を持ったお子さんの支援、療育を頑張らなくてもいい」なんて言っているのではありませんが、他の家族も同じように大切なわけですし、やらないといけないこともありますので、一般的な家庭と同じ考えで良いと思います。

家族旅行を計画していたら、「まだ早い」とストップがかけられた、なんていう話も聞きます。
これって他人が口をはさむことですかね。
支援者と呼ばれる仕事をしているのなら、「どうやったらうまくいくか」が大事だと思いますが。

自閉症中心の家庭を求める支援者は、啓発でも自閉症中心の社会、地域を主張しますね。
そんな非現実的なことを主張しているから、一般の人たちからそっぽを向かれるんですね。
そろそろ気が付いた方がいいです。
社会は自閉症中心に成り立っているわけではないですし、社会の側も望んではいない。
社会には多様性があり、自閉症の人たちも、その多様性の中の一つとして生きていける方を目指すべきだと思いますがね。
多様性の社会に向かって、「"自閉症"の理解を」「"自閉症"に住みやすい社会を」なんてやるから、受け入れられないのです。

支援者を見る側も「この人は家族の中の一人として障害を持った子を見ているか。それとも、障害を持った子のみを見ているか」を見極める視点が大切ですね。
もし障害しか目に入っていない支援者だったら、その人は仕事として障害を持った人を見ている人。
社会の中で生きていけるような方向へと導くことのできない人なので、別の道を探すことをお勧めします。
ちなみに、3名の皆さんは、心の中のモヤモヤが晴れたようで、「家族の一人として子育てを頑張ります」と言っていましたね。
家庭も小さな社会です!

2015年12月27日日曜日

提示された選択肢は、それがすべてですか?

相談業務の人間が、自分たちに対して

ぺこぺこしてくれる
持ち上げてくれる
言うことを聞いてくれる
介入させてくれる(しやすい)
影響力を持たせてくれる(持ちやすい)
(第三者から見たら)評価が高くなる

というような仲良し入所&就労施設、児童デイ、学校しか勧めなくなったら、もう終わりが近いですね。

まあ、相談業務だってボランティアではありません。
仕事ですし、その仕事を行っているのは、人間です。
だから、感情と利害関係が左右させるのもわからなくはない。
仲良し関係の方が、何かと有利に動きやすいでしょう。
これは、どの仕事、業界でも、同じこと。

でも、何だか福祉の相談業務って、性善説でみんな動いているように思っちゃっている人が多いんですよね。
より良い選択ができるように相談に行っているのに、そもそもの選択肢に偏りがある。
これって、ちょっと想像力を働かせればわかること。
「大久保さん、なんで〇〇ばかり勧めてくるんだと思いますか?」
などという疑問を持たれる当事者の方、保護者の方が多いんですよね。
まあ、尋ねられたら、きちんと情報提供はしますが。

ほら、だって、本人は「今の給料では生活ができない」「もっと働きたい」と訴えているのに、作業所から一般就労させることを止めたり、障害者枠から離れて就職活動をすることを止めたりすることってありますよね。
進学先を変えたら、怒られた、「もう支援しない」と言われたなんて、良くあること。
でも、ちょっと考えてみたら、今の日本で(江戸時代とか、他の国なら分かりませんが)、自由に就職先が決めらないのは、おかしくないですか!?
進学先だって、普通、本人主体で、そして家族で決めませんか!?

「希望しても、難しい」と言うなら、わかりますよ。
「こういったメリット、デメリットが考えられる」と言うなら、わかりますよ。
きちんと"根拠"を挙げて。
それが仕事ですから。
しかし、ただ「ダメだ」とか、脅しのようなことを言うのはおかしいですよね。
本人や家族が選択した結果、失敗しようが、うまくいこうがそれは別の話であって、そもそも選択すらさせない、個人的な選択に他人が首を突っ込むのはあり得ないこと。
「じゃあ、あんたは責任が取れるのか」
「じゃあ、あんたは霊能力者か」
というツッコミが必要です。

理想としては、偏りのない選択肢の中から、本人にとってベストなアドバイスをしてほしいと思います。
そして、相談に来る人は、相談するくらい困っている人ですから
また自閉症の人たちはこういった見えない裏を想像することが苦手な人も多いですから
つまり相談者側がインセンティブをとってコントロールしやすいのですから
できるだけ選択肢を多く提示し、当事者の方たちが自らの意思で未来を手にできるようにしてもらいたいと願っています。
でも、本来、そうすることが当然なことだと思いますがね・・・。
残念ですが、実際は異なることが多いので、きちんと当事者側も情報を持っておく必要があると思います。

それにしても、締め付けが強くなったような気がしますね。
以前と比べて。
余裕がないというか。
国としても効果、結果が見えないことに予算は割けません。
見直しの時期に来ていることも影響しているかもしれません。
また自分たちと当事者の人たちの間に合った情報の差が縮まってきたことが関係しているかもしれませんね。

役割が果たせなくなったら消え去るのみ。
それは私のような民間も、公的な機関も同じこと。
まあ、私は身軽なのでアメーバのように社会の変化に合わせながら、形を変えていきたいと思いますけどね。
その分、大所帯は方向転換が難しい。
あと、プライドと中途半端な経験も、それを邪魔しますね(ブ)

私の読みでは、「終わりの始まり」
だからこそ、時がきたとき、私が選択肢になり得るかが勝負になりますね。
それが来年になるか、その先になるか、は分かりませんが、いつでも勝負できるよう準備をしておくだけです。
そういったことも想定しながら、起業してますから。

やりません宣言は、やれません宣言

「私は子どもの支援(教育)しかしない」
などと、意味不明な宣言をする人がいるんですよね~。
大学にもたくさんいましたよ。
「成人!?ムリムリムリ。やっぱりかわいいから子どもの方がいい」
というような学生も。
まあ、教育大学なので、子どもが好きな人が多いでしょうし、子どもを育てる仕事がしたいから、進学したんでしょうし。
施設で働いていたときも、「絶対、子ども」という配属希望の人も多かったですね。
中には「絶対、成人」という人もいましたけど。

いやぁ、別に希望することを否定しているわけじゃないんですよ。
そりゃあ、子どもの支援(教育)がしたい人もいれば、成人の支援(教育)をしたい人もますよね。
それは当然のこと。
でも、それって、どちらも経験して言っているのかな、という疑問があるんです。
ちょっと見たり、聞いたりしただけで、やりません宣言は、や"れ"ません宣言にも聞こえるんですね。
特に、すでに支援者として、教育者として働いている人間に対しては。

私は施設で働いていたとき、子どもも、成人も、支援させてもらいましたが、やっぱり子どもの方がぐんぐん成長しますし、問題行動があったとしても治しやすいですし、身辺面の手助けも負担が少ないですよ。
成人の人たちの問題行動は結構しんどいですし、身辺面だって…。
でも、どちらも経験したから、見えてくるものがあるんですよ。
子どもも、成人も、独立して存在しているわけではないですから。

人はつながっています。
今、目の前にいる人にも、過去と未来がある。
子どもだって、いずれは成人するのですから。
というか、成人後の豊かな生活、人生のための支援、教育であり、社会の一端を担えるような人材に育てていくのが、役割だと思うんですけどね。
その人の成長をどうサポートしていくのか、でしょ。
「生涯に渡る支援」は、成長の支援のはず。

何だか、離職者が多いみたいで、相談業務に現場経験のないスタッフが増えてますよね。
新人を育てることは悪いことではないですけれど、卒業後、すぐに相談業務っていうのはね・・・。
相談されても何も答えられないでしょうし、家族の方が経験が多いでしょ。
せめて現場で働いてから、相談業務にあたってほしいですよね。
結局、現場経験のない相談畑の人間が、いらないプライドだけたくさん持ってて、頓珍漢なことを言うんですよね(ブ)
あっ、数名の顔を思い浮かべてしまって、話が横道にそれちゃった(笑)
何が言いたかったといったら、成人と関わったことがない人間が、子どもの支援(教育)を偉そうに語るんじゃない!、ということ。
(反対に、相談業務したことがないヤツが偉そうに語るんじゃない、と言われそうですがww)
成人の生活、成長と課題を知らずして、真の子どもの支援(教育)はできない、と私は考えています。

子どもの支援(教育)は、子ども達の未来を創る仕事でもあるのですから、未来を知らずして将来につながるような学びはできないはずです。
私は、子どもでも、もちろん、成人でも、その人の未来を想像し、常に頭に置きながら支援(教育)をしています。
私が支援に関わらせていただいた方は分かると思いますが、話でも、計画でも、報告でも、未来の要素が入っています、というか、未来がない支援はあり得ないですよね。

成人後の障害者の生活、実態を知らない人間が、入居施設やグループホーム、作業所、障害者就労などをバカにすることって、あちこちで見聞きしますね。
まあ、だいたい「子どもの支援(教育)しかしません」宣言しているヤツか、したことがないヤツって相場が決まっています。
バカにする暇があるなら、一日でも良いから働いてみなって思いますね。
成人支援は、就労でも、生活でも、どこもかしこも人手が足りなくて困っていますから、仕事がお休みの日にボランティアでもやってみたらいいですね。
きっと一日も持ちませんよ。
資格も、学歴も、助けてはくれませんから。
あるのは人と人、問われるのは「何ができるか」という腕のみです。

だから、結局、やりません宣言は、やれません宣言なんです。
私も多くの支援者、親御さんと接してきましたが、センスの良い人は、子どもでも、成人でも、きちんと支援できるし、成長のサポートができる。
子どもの支援(教育)ができない人は、成人も無理ですし、逆もまた然り。
子どもの支援(教育)がうまい人は、成人もばっちりです。
若い親御さんでも、「あっ、この人、センスいいな」と感じる方は、子どもがいくつになっても成長していきますもんね。
子どもだけ、成人だけ、ではなく、"人"成長をサポートできる人間が本物です。
人生をぶつ切りにしかできない支援者、教育者と、現場経験のない相談員には、人をトータルで成長させることはできませんよ。

2015年12月25日金曜日

問題行動は治すべき対象です!

不自由さのない大久保です。
好き勝手に発言できていますから(笑)
変なギョーカイやバックが側にいないということは、すべて自己責任という大変さもありますが、身軽さもありますね。
まあ、問題発言をしているつもりはありませんがね。

問題と言えば、今年も問題行動をメインにした依頼が多くありました。
だいたい支援者会議でも、メインは問題行動です。
問題行動がなければ、わざわざ会議まで開きませんよね。

親御さんとお話ししていても、ときに支援者と話をしていても、違和感を感じることが多いです。
それは、問題行動と障害特性の曖昧さ。
問題行動への取り組みの際、出てくる氷山モデルが混乱させているのかもしれませんね。
確かに問題行動の根底には、障害特性が関係する部分があります。
でも、だからと言って、問題行動=障害特性ではありません。

問題行動は、問題行動です。
障害特性ではありません。
ですから、見逃しも、許容も、ないのです。
あるのは、周囲への悪影響と、その人の責任、あとは改善、消去という選択肢のみです。

問題行動は、障害特性だと誤って解釈しているのか、それとも問題行動はどうにもならないと思っているのか、それはわかりませんが、結構勘違いしている人が多いですね。
足の不自由な人が杖を振り回して、他人をケガさせたら、それは問題行動だと捉えますよね。
足が不自由なのは、障害かもしれませんが、暴力を振るうのは別問題です。
同じように、目が不自由な人が暴言を吐いたら、咎められて当然のこと。
もし支援を受けていたら、どうにかそういった行動を止めさせるはずです。

でも、発達障害の人が暴力を振るったり、ネット上で悪口を書き込んだりしても、御咎めなしなのはおかしなこと。
社会性の違いや、適切に想像することの苦手さという特性が関係しているかもしれませんが、だからといって問題として扱われないのはおかしいですね。
ましてや支援する立場の人間が、見て見ぬふりというのは、職責放棄としか言えません。

支援者と呼ばれる者なら、全力で問題行動を治さなければなりません。
そして治すために、氷山モデルの水面下の部分、つまり特性と関わる部分へのアプローチを行うのです。
あれは、問題行動=障害特性ということを表しているではなく、水面下の部分へのアプローチが結果として問題行動の改善につながることを表しているのです。

ちょこっと勉強して、知ったつもりでいる支援者が多すぎます。
だから、そういう支援者には
「問題行動は、障害特性ですかね?」
「診断基準に、問題行動の記述ってありましたっけ?」
と尋ねるようにしています。
そうすると、相手からは、大久保が社会性のなくて、問題行動をしているように見られる。
そして、こういった誤った解釈をするような人間には、障害を持った人たちの問題行動を治すことも、私の問題行動を治すこともできません(笑)

自分の持っているもので勝負!

「組み立てが必要なおもちゃは、一人でできるようになってからのプレゼントにして下さい」と、心の中でサンタさんにお願いした今朝(涙)
5時からおもちゃを組み立てたので、いつもより濃いコーヒーを飲んで仕事してました(笑)
息子が朝早くから起き、目を輝かせて遊ぶ様子を見ていて、子どもにとっては特別なイベントなのだと思いますね。

クリスマスが終われば、一気に街は新年モードに変わりますね。
学校も冬休みが始まり、「休み期間中に、集中して〇〇に取り組んでほしい」というような依頼もきているので、年末を感じます。
雪がないので、変な感じがしますが、今年も残り一週間ですね。
今年もギリギリまで予約が入っていますので、仕事納めはまだですが、振り返れば、長い一年だったように感じます。

年をとれば、新しいことが少なくなるので、単調な生活になりやすい。
そうすると、時間っていうのは、早く感じるそうです。
子どものときの一年と、大人になっての一年は、時間の感覚に違いがありますよね。
私も、大人になってから時間が早く感じていて、毎年、「えっ、もう年末!?」って思っていたのですけれど、今年は特に長く感じました。
事業を始めた当初は、あまり仕事がなかったので、早く感じていましたが、今年はおかげさまで仕事も多くいただき、バラエティーに富んだ依頼や相談が多かったため、単調さがあまりなかったからでしょうね。

私はコツコツ数を積み重ねていくのも好きなのですが、それよりも新規性、不規則性がある方が好きです。
決められた場所に行って、決められた仕事をするのも、過去にやっていたので、できなくはないと思いますが、やっぱり「今日、何が起こるか分からない」「自分で予定を決めて進んでいく」というような仕事の方が、私の性分、資質には合っているようです。
まあ、家族に合っているとは言えませんが(笑)
掘り下げれば、自分で決められないのが嫌で、自分の手の中に選択肢があるのが、心身の健康と、自分を成長させるには合っているように思います。
ですから、仕事をすればするほど、元気になっていき、またアイディアも溢れてくるような気がします。

このように自分の性分、資質に合った生活を送ることが大事なのかもしれません。
今年も多くの方たちとお会いしましたが、調子が悪い人は、ご自身の性分、資質に合っていないことを行っているような気がしました。
本当は外に向かっていくタイプの人なのに、不登校だとか、ひきこもり状態だとか。
反対に、うちにこもりたいタイプの人なのに、外で交流しまくっているとか。
勉強だって、聴覚から学ぶ子が、視覚から学んでいたり、身体を全体を使って学びたい子が、指先や頭だけを使って学んでいたり。
学び方が合っていないだけでも、成績が下がるのはもちろんのこと、気持ちの面でも、だんだん元気がなくなっていっているように感じますね。

勉強や就労、生活というよりも、人生全般にわたって言えることが、自分の持っているもので勝負するということ。
自分にない物を持ってくるのではなく、自分の持っているものをどう活かしていくか、が大事だと思います。
資質を活かすためには、磨く必要があります。
また、長所だけではなく、自分が持っている弱点も克服していく必要があります。
弱点を弱点のままにしていると、長所の足を引っ張ったり、そもそもの機会が得られなかったりしますから。
こうした変化が、負のスパイラルを正のスパイラルへと変えていくのだと思います。
いったん流れが変われば、芋づる式に心身が元気になり、生活も好転していきますね。
そういった方たちをこの目で見てきましたから、言い切ることができるのです。

2015年12月24日木曜日

新たな一歩は、散歩の一歩から

つい先日、今年の目標にしていたランニング1,000㎞走破しました♪
11月が終わった時点で、まだ870㎞だったので、達成できるか微妙なラインでしたが、今年は暖冬の影響もあり、雪がぜんぜん積もっていなかったので、順調に距離を重ねることができました。
4月から始めたランニング。
高校以来、運動らしい運動をしていなかったので、続くかどうか心配でしたが、目標達成まで続けられました。

時間は作るものですし、他人様の成長をサポートしている人間が、成長できずに途中で辛いからといって諦めてしまうのはおかしなこと。
身体も絞れて調子が良く、一年間、病気をしませんでしたね。
代謝も良くなったので、汗も沢山かくようになり、冬でも薄着で大丈夫。
仕事の面でも、カンが冴えていたように感じますね。
走っている途中に感じる「気持ちいい」を大事にしました。
身体を動かすことは、本当に気持ちが良いものだと再確認できた一年でした。
あと身体を整える大切さも。

今朝の新聞に、スポーツを楽しむ障害者が少ないという記事が載っていましたね。
国の調査では、週に1回以上、スポーツをする成人の割合が、健常者で約4割なのに対し、障害者は2割弱とのこと。
運動は心身の健康と成長につながるのに、それができていないことに残念さを感じました。

今年も多くの成人の方たちと接しましたが、皆さん、定期的なスポーツ、簡単な運動すら行っていない人ばかりでしたね。
ですから、運動の大切さと、効果を伝え、一緒に散歩したりしながら、どうにか日課の中に運動を入れてもらいました。

長年、ひきこもりを続けていた成人の人も、運動するようになって変わっていきましたね。
どうしても、頭重視、視覚重視の生活を送っているので、カウンセリングやSSTのようなことをやっても、あまり効果がないという実感があります。
でも、一緒に散歩しながら、汗をかき、聴こえてくる音に耳を傾け、足で地面を感じているうちに、表情が明るくなっていきますね。
そうやって表情が変わったときに、いろいろな話をすると、本当の気持ちや前向きな希望を話してくれることが多いです。
(しかし、ただ「散歩をしよう」「運動をしよう」と言っても拒否ですので、頭重視の人には頭に知識として運動の効果と意義を伝え、納得してもらうことがミソです)
新たな一歩は、まさに散歩で一歩踏み出すことかもしれないと思っています。

学校生活では体育の時間がありますが、成人後に活きていない。
私が五稜郭公園を走っていると、特別支援学校の高等部生が走っていますが、みんな辛そうに走っていますね。
アスリートを目指しているわかではないだろうから、もっと生徒の中にある「気持ちいい」を大切にしても良いのにね。
高等部生は、就労に耐えうるための体力作りということで、走っているのでしょうけれど、あれじゃあ、就職後、絶対に自分で走ろうとはしないな、と思いますよ。
苦しいことを続けて行うには、相当な気力が必要ですもの。
ましてや、働くこと、生活することで精一杯の若者たちに、走ったり、運動したりする余裕はないですよね。
だから、もっと成人後も楽しめるような運動を教えてあげれれば良いのに、と思いますよ。
学校教育の中にいるうちに。

今の学校の体育は、スポーツの要素が強い。
また、高等部になると、急に就労のための体力作りにシフトされる。
これでは、生涯に渡って運動を楽しめる人間を育むことができませんよね。
一般論では、今朝の新聞のまとめのように「障害者がスポーツを楽しめないのは、環境が整っていないから」という論調になってしまいますが、実際は、運動が楽しくないからなのにね。
もちろん、環境も要因の一つかもしれませんが、それよりも運動を楽しむ経験不足。
対人面の苦手さや、そもそもの身体の動かし方、バランスの悪さを持っている子たちなのに、スポーツの要素が強い体育ばかり。
大事なことは、スポーツができることでも、記録を伸ばすことでも、勝負に勝つことでもなく、身体を動かすことが楽しめること。
身体を通して、「やった、できた」を子どものときから経験させること。
だったら、道具だって、ルールだって、柔軟に変えてしまえばよいのに。
きちんとスポーツ、運動、身体を動かすことの意義と、効果を教えてあげればよいのに・・・。
なんて思いますよ。
体育の先生は、学生時代、スポーツができた人が多いはずだから、そういった観点から取り組んじゃうのかな。
運動が苦手な体育の先生はいないですよね。
だから、運動が苦手、そもそも身体を動かすことに困難な子の指導は・・・以下略

サッカーや野球など、チームスポーツができるようになることで、対人面の成長や喜びが望めるなら、それを活用すれば良いですね。
でも、それとは別に生涯に渡って楽しめるような運動の勉強も大切だと思います。
電車が好きな子は、線路沿いを歩いて駅まで行くような運動だったら、大人になってもやると思いますよ。
車の好きな子は、街中を歩き回っても良いですし、植物や虫が好きな子は、図鑑を持って登山なんていうのもいい。
とにかくこういった「この子が大人になっても、続けられるな」というような運動を子どものときから身に付けて欲しいですね。
そうでなければ、身体を動かすという楽しさ、心地良さのない成人後の日々になりますね。
成人後、運動を始めようとすれば、環境も、精神力も、相当必要になりますよ。
4月に走り始めた頃の心身の辛さは相当ハードでしたから。

4月22日から始め、12月19日達成!


2015年12月22日火曜日

信頼関係を築くことが目的になるのか

「まずは信頼関係を築くことから始めましょう」
「信頼感を持ってもらえれば、こちら側の話を聞いてくれると思います」
「信頼関係が構築できたら、好転していきますよ」

「信頼」という言葉をあちこちで耳にします。
ボーと聞いていれば、本当に「そうだな」なんて思ってしまう便利な言葉です。
対人関係で、「信頼なんていらない」とは言えませんもんね。
だから、聞いている方も、スッと受け入れてしまう。
でも、「信頼」って何でしょうかね?

つい最近、「もう家族だけでは限界です」という相談がありました。
家庭内暴力もあり、もうどうしようもなくなっている、と。
で、最初に相談した支援機関の人が何と言ったか。
「まずは本人に話を聞いてもらうためにも、担当者と"信頼関係"を築けることを目指していきましょう」と。
いやいや、もう限界だからSOSを出しているのです。
そんな悠長なことを言っていたら、家族みんな総倒れになりますよね。
第一、どうなったら「信頼関係が築けた」と言えるのでしょうか?
「〇回、面談したら」とか、具体的な期間を示せるでしょうか?
いつになるかわからない"信頼関係"を待つことをこの状況の家族ができると思いますか?

軽々しく「信頼」という言葉を使う人は、ただ具体的な戦略、方略を持っていないだけです。
だから、便利な「信頼」という言葉を使うのです。
大事なことは、瞬時にゴールまでの支援のストーリーを創造し、今できるベストの選択を行うことです。
できることからまず行う。
解決が早いところから手をつける。
治しやすいところから治す。
これが基本です。
こういった積み重ねが、本人をラクにし、結果として信頼関係につながるのだと考えています。
何も手が打てないのに、「信頼関係」なんて築けるわけがありません。

上記の相談があった方は、支援機関の方針を聞いて、すぐに信用できないと判断しました。
それで、伝手をたどって私のところまでいらしたのでした。
別に私の自慢をしているのではありません。
結局、口だけの人間が多すぎるのです。
私のところに来る前に、その支援機関が行動を起こせていたら、もっと早く本人、または家族がラクになれたかもしれません。
ラクにならないまでも、伝手をたどって、の部分は省略できたのです。
それだけでも、家族にしたら大きな負担ですから。

人と接する仕事をしている人間は、言葉が大事です。
でも、その言葉は行動が伴って初めて意味があるのです。
きれいな言葉は、誰にでも言えます。
「愛」とか、「夢」とか、「絆」とか、「友情」とか言っているところに限って、愛・夢・絆・友情がなかったりします。
「一緒に頑張っていきましょう」とか、「協力しますから、何でも言ってください」とか言う人に限って、実際は役に立たなかったりします。

言葉に輪郭を持たせるのは行動のみ。
流ちょうな話術でも、豊かな表現力でもありません。
言葉で勝負している人間の言葉が、ただの音になっていることが残念で仕方がありません。
こういったことを「信頼」という言葉を聞くたびに、感じてしまいます。

2015年12月21日月曜日

引き継ぎが日本語でできるとは限らない

近い将来、外国人労働者の力に頼らなければ、この国の福祉が成り立たなくなるのは目に見えています。
現に介護の分野では、外国の方が働いています。
当然、障害者福祉だって、外国の方が働くようになるでしょう。

来年度から小中学校の教職員の削減方針が決まりましたし、学校現場にも、どんどん入ってくるかもしれません。
通常級や特学の補助が外国人という時代も。
そうなったら、「うちの子には、外国人ではなく、日本人の補助員をつけてください」なんていうような要求も出てくるかもしれませんね。
今は当たり前のように、日本人の先生が補助や指導にあたっていて、「できるだけ、専門的な知識を持った先生を」なんて言っていますが、そんなのは夢のまた夢という時代が来ると思いますよ。
引き継ぎが日本語でできることだけでも、恵まれた時代だと言われるかもしれませんね。

近い将来、福祉施設での監督者は日本人。
そして、実際に利用者と関わるのが外国人。
学校でも、担任は日本人で、あとは外国人となるでしょう。
今のアメリカのように。

特別支援のニーズは、どんどん増えていく一方、それに応える人間が減っていきます。
当然、働く方としては、より恵まれた環境の仕事を選ぶはずです。
福祉施設のような不規則で、重労働の仕事。
問題行動があっても、受け入れざるを得ない学校の先生などは敬遠されることが多いでしょう。

こういった見通しは、すぐに想像ができます。
ですから、こういった近い将来を頭に入れながら行動していく必要があります。
今のように「教育や福祉がどうにかしてくれるはず」というのが、お花畑になる時代が来ます。
幼いときから、自分たちでできることをやり、将来に向けて一人ひとりが準備しなければならなくなります。
だって、教育の世界も、福祉の世界も、もしかしたら日本語で充分なコミュニケーションがとれない人、賃金を得るためのアルバイト感覚の人が増えていく可能性が高いのですから。

「きめ細やかな教育」「専門的な支援」を要求する以前に、日本語がうまく通じないかもしれませんよ。
契約された時間になったら、子どもを置いて、帰宅するかもしれませんよ。
アメリカでは、利用者の方が働いている横で、スマホをいじったり、雑誌読んでたりなんて普通の光景でした。
補助職員や支援員は、賃金が安いので、誰も就きたがらない。
やるのは、主婦や移民が多いって教えてもらいましたよ。
これが現実です。

既に福祉の世界ではなり手がいなく、元利用者さん、以前は支援を受ける側の人が働いています。
もう福祉の担い手がいなくなっているのです。
学校だって、特別支援のニーズが増える一方です。
しかし、教職員は減らされていく。
じゃあ、どうするかといったら、外国の労働力に頼るしかないのです。

特別支援のニーズを訴え、理解とサポートを拡充させていった結果、競争の中に入ることになりました。
人材も、予算も、じり貧の日本では奪い合いになります。
他が減らされているのに、特別支援だけ現状維持、ましてや拡充なんてあり得ません。
今まで以上に、人材、予算を掛けたら、「これだけ見返り、メリットがあります」と証明できなければなりません。
ですから、自分たちでできることを自分たちの手で行う。
これが、これから先を生きていく人たちの基本になるのです。

2015年12月17日木曜日

頭を使うと、姿勢が崩れる男の子

「大久保さん、どうして僕がマジメに考えていないこと、わかったの!?」と驚く男の子。
「〇〇くんのことならお見通しだよ。だから、しっかり自分の頭で考えて、答えを出さなきゃね」と私。
どんな理由にせよ、しっかり脳みそを使って考えてもらえれば良いのですからね。
ネタばらしは、別の機会に取っておこうと思いました(笑)

どうして私が、彼の頭の中を覗くことができたのか。
それは簡単です。
彼は考えることに集中しだすと、姿勢が崩れるのです。
反対に、あまり考えずに、というか、クイズに答えるように反射的な場合、姿勢が崩れません。
考えれば、考える程、姿勢はどんどん崩れていきます。

自閉症の人は、身体面でも不具合を抱えていることが多いです。
私たちがほとんど意識しなくてもできるようなことでも、意識したり、注意を集中させたりしないとできないことがあります。
彼で言うと、姿勢の保持が難しい。
知的な遅れはありませんが、身体面での発達の遅れが見て取れます。
ですから、姿勢を保つことは自然にできることではなく、意識を集中させ、エネルギーを使うのです。

よく「勉強中の姿勢が悪い」という相談を受けます。
でも、身体面の発達が遅れている子の場合、あまり姿勢、姿勢と言わない方が良いと考えています。
それは姿勢に対する配分が多くなってしまうと、その分、勉強の力が下がってしまうから。
姿勢が崩れるということは、それだけ考えるということにエネルギーを使っているとも言えるのです。

勉強の目的は、学ぶことです。
姿勢を保つことではありません。
もし姿勢が保てないのなら、それはそれだけ別の機会に学び、トレーニングする方が良いと思います。
勉強はしっかりしてほしい。
さらに姿勢もきちんと、と言ったら、それは難しい場合がありますね。

冒頭の男の子の場合、勉強と並行して、身体面のトレーニングも行っています。
ですから、勉強中、姿勢が崩れてもOKなのです。
逆に、姿勢が崩れないのは、あまり考えていないということなので、こちらの方が問題ですね。
最初は、姿勢にもこだわっていた親御さんでしたが、背景を説明したら、今は理解し、納得してくれました。
どうしても、勉強の姿勢は気になりますよね。
私たちが子どもの頃は、家庭でも、学校でも、注意されましたからね。
でも、それは定型発達の子どもの話であり、姿勢が保てるような段階まで発達している身体を持っている人の場合です。
身体面の発達の遅れがある子の場合は、こういった固定観念を捨て、彼らの身体を想像することが大事だと思います。

2015年12月16日水曜日

各地域でよく呼ばれる当事者の方は誰?

全国、それぞれの地域に講演会に良く呼ばれる当事者の方がいます。
その当事者の方の主義主張を聞けば、だいたいその地域にいる支援機関の考え方がわかりますね。
だから、私は各地での雰囲気を掴むために、当事者の方が何を言っているかを知ろうとします。

その地域で、どうしてその当事者の方が呼ばれるのか、についてはいろいろな理由があると想像できます。
でも、呼ぶ方としては、自分たちの主義主張に近い当事者の人にお願いするだろうし、まったくお互い知らない人同士で、こういった話は生まれづらい。
ということは、やっぱり日頃から関係がある、支援者と支援される側の関係の中で話が出るのが多いでしょう。

地域によっては、「仕事もして、生活も安定し、バリバリ自立してます」という方を呼ぶところもあれば、「(今は自立してないけど)こういった支援があれば、生きやすくなります」という方を呼ぶところもあります。
でも、どちらの方を呼ぶにしても、「生まれてから何の苦労もなく、自立できました」とか、「支援機関に頼らず、独自の道で頑張りました」とかいう人には、お声がかからないようです。
今、自立していようが、いまいが、苦労→支援→生きやすくなる、という経験を持つ人のニーズが高い。
それは当然ですよね。
だって、意図があって、講演会だろうと、研修だろうとも、支援機関が主催側で当事者の方を呼ぶのですから。

支援機関側だって、自分たちにプラスになるような講演会を開きたいはず。
ボランティアではないですからね。
自分たちの宣伝だったり、イメージアップだったり。
こういったのは、定型発達の人ならすぐに想像でき、「講演する側にもメリット(報酬、宣伝など)」というように計算し、労力やデメリットと天秤にかけ、引き受けたり、断ったりしていますね。
でも、自閉症の人たちは、こういった主催者側の視点に気が付きづらいこともあるので、しっかり教えることも大事です。

これは例外中の例外なのでしょうけれど、支援や治療の一環として特定の当事者の人に依頼する場合があるように感じます。
社会の中に居場所がない人に、講演するという居場所を作っているような。
また、講演することによって自己肯定感でも高めようとしているような。
まあ、お膳立てされた中で、うまくいっても自己肯定感は高まらないと思いますがね。

講演内容を事前にチェックされるところもあるそうですね。
そして、アドバイス、提案という形で、主催者側の意図を汲んだ表現、内容に変えられることも。
こういったときに、先ほどの主催者側の意図を知るか、知らないかが大きくなります。
もし主催者側の意図がわからず、「はいはい」と受けていたら・・・。
いつの間にか、支援機関の広報になってしまっていることも。
結構、こういう話は、あちこちから聞きますね。
でも、よく考えて欲しいのが、それをやることによって、その当事者の人の生活が豊かになるのか。
将来の自立につながるのか。
地域のために、これから大人になる子どものために、そしてその親御さんのためになるのか。
これらについて、しっかり考えて欲しいと思っています。

世の中、講演だけで食べていける人なんて、ほとんどいません。
そういったたくさん講演している人だって、何か成功を収め、十分な財産を持っている人ばかりです。
ここも自閉症の人には想像しづらい点ですね。
どうしても、講演している姿ばかりが見えますから。
しかし、それでも講演したい、という当事者の方がいれば、主催者側の意図をきちんと勉強することです。
私のように「何を言うか分からない」「主催者側にとって分が悪いことを言う」人はたくさん呼ばれませんよ(笑)
今年は数件、来年もいくつかお話をする機会をいただきましたが、いずれもギョーカイとは距離を置いているところばかりですから。
まあ、こういったマニアックなニーズもちょっとはありますがね♪
ちなみに当事者の方の成長を支援する生業なので、基本的には"お断り"の方針です。

2015年12月15日火曜日

中途半端な優しさが誤学習の元

ネタはあるけれど、ここに書けないネタが多いので、困ってしまいますね(笑)
まあ、てらっこ塾を利用して頂いている方には、サービスとしてお話ししていますが♪
ネタと言葉を選んで表現するのも勉強です。
スパイスだけだったら、ただの"辛い"にしかなりませんが、そこにまろやかさを足して美味しくしなければなりません。

スパイスだらけで、うま味のない手料理を出されたら、きちんと「辛いだけ」「うまくない」と言わないといけませんね。
それじゃないと、料理を作った相手は、また同じ味の料理を作るかもしれませんし、腕も上達しません。
美味しくない料理が出されて、「うまい、うまい」と言うのは、相手を誤った方向へと進ませることにもなりますよ。
特に、「気を遣って敢えて「美味しい」と言ってくれたんだ」というように相手の視点を想像することが苦手な方に対しては。

自閉症の人が社会から離れていく背景に、こういった周囲の優しさが誤学習につながってしまっていることがあります。
「うまい」と言われれば、そのままの言葉として、そのままの評価として受け取る人がいます。
他者が「気遣っている」という視点
一人の評価は世の中の評価全体を表しているわけではないという視点
評価が決定事項ではないという視点
を想像することが苦手なのです。
そうなると、本来なら否定され、修正されるべき話も、どんどん強化され、突き進んでいくことになります。
周囲が自閉症の理解がある人だけなら良いかもしれませんが、おかしな言動は一般の人からしたらおかしな言動にしかなりません。
そういったときに、結局、傷つくのは本人なのです。

自閉症の人と関わっている人で、こういった中途半端な優しさを振りまいている人は多いです。
どんなことでも、「いいよ、いいよ」「上手、上手」と言う人たち。
こういった人は、上記のような自閉症の人の視点を説明しても受け入れようとはしません。
だって、心から自閉症の人、というか、目の前の人のためになると思ってやっているので。
つまり、温かく受け入れること、称賛することが、本人のためになると思っている。
でも、そこには定型発達の視点のみがあり、自閉症の人の視点が抜けていますよね。

また、こういった周囲の人の中で過ごしていると、当事者の人も、自分に都合の悪い指摘、話に耳を貸さなくなる場合があります。
他の言い方をすれば、良い内容ばかりを選択することになる。
実際に、誤学習が雪だるまになってしまっていて
「私には才能がある」
「私は天才だ」
「私は間違っていない」
「この社会が間違っているんだ」
など、一般社会の考えとはかけ離れた思考を持っている人がいます。

就労経験がないのに、「私が働けないのは社会の仕組みが間違っているからだ」と言っている人もいて、「いやいや、働けるスキルも、その準備もしていないから、働けないのです」と言っても、聞き入ってくれませんでした。
この方は、周囲から称賛ばかりされていた人です。
周囲の人間としては、不憫さもあったのでしょう。
優しさもあったのでしょう。
でも、それが現実とかけ離れた思考を作ってしまい、却って社会に出る可能性を狭めてしまっていたのです。
ちなみにこの方は、発達障害を持っていたと呼ばれる偉人ばかりの情報を集め、自分も同じだと考えていました。

まあ、こういったケースは稀なのかもしれませんが、周囲の優しさが誤学習の元になっている場合は少なくありません。
自閉症の人の自立を妨げているのは、その特性ゆえというよりも、こういった積み重ねの誤学習の方が多いような気がします。
「この誤学習さえなければ…」なんて思うことはしょっちゅうあります。
SNSの「いいね」は、結構、誤学習につながっていると思いますよ。
「いいね」は、いいねですからね。
とにかく受け入れるにしても、称賛するにしても、きちんと自閉症の視点を入れて行わなければなりません。
中途半端な優しさは、最後に彼らを傷つけてしまうこともあるのですから。

2015年12月11日金曜日

障害者として生きるか、普通の人として生きるか

今年を振り返ると、「障害者として生きるか、普通の人として生きるか」という話をさせてもらうことが多かったと思います。
(もちろん、"普通の人"というのは、「普通の人になれ」という意味ではないですよ)
高校生や大学生、20代の若者と、このような話を度々しました。
それは、彼らが進路を選択する時期に関わっていた場合が多かったからかもしれません。

若者たちは、みんな悩んでいました。
周囲は診断を受けること、障害者として生きることを勧める。
でも、自分の心の中には、障害者として生きていきたくない、という思いがある。
だから、みんな揺らいでいたのです。

周囲の言いたいことも良く分かります。
自分たちの実績を増やしたいギョーカイは置いといて、家族なら得られるサポートがあれば、受けて欲しいと思うだろうし、将来、自分たちがいなくなったことを考えれば、金銭面でも、人材面でも、つながっておきたいと思うのでしょう。
でも、それは親御さんの安心であって、本人の安心にはつながっていない場合もあります。

「障害者として生きるか、普通の人として生きるか」という問いかけに、私は考えを述べることも、どちらかを勧めることはしませんでした。
ただ情報提供は、きちんとしようと思いました。
だから、障害者として生きるのなら、こういった制度、サポートが受けられること。
でも、その反面、本当の意味での自立は難しいこと。
就職先、進路の幅が限られて行くこと。
周囲からは、"障害者"として見られて生きていくこと。
周囲は、できない理由を障害のせいにし、また、自分自身も気が付かないうちに、障害を逃げ道にしてしまうようになる可能性があること・・・。

一方、障害者として生きない、という選択をした場合、他の人以上に、努力しなければならないこと。
障害のせいにできないということは、すべての責任を自分という人間が請け負うということ。
障害者として生きるよりも、選択肢は広がる分、困難も増えること・・・。

こういった話をそれぞれの若者に合わせてさせてもらいました。
情報提供の際、気を付けたことは、それぞれの選択肢のメリット、デメリットに、数的な差をつけないようにしたこと。
情報量の偏りが出ると、そちらの方に引っ張られる可能性があり、意図せず、誘導してしまうことがあるからです。
それだけ注意はしたが、なんとみなさん、「普通の人として生きる」という選択をしました。

「普通の人として生きる」ということは、人一番努力が求められることだと言えます。
また障害を言い訳にできないことでもあります。
しかし、若者たちの選択の背景には、「変わりたい」「自分の足で人生を歩みたい」という強い思いがあると感じました。
どちらの選択をしたら幸せになるかはわかりません。
でも、私は若者たちが選んだ道を応援していきたいと思います。

社会の中には、変わった人はたくさんいます。
でも、学校よりも、社会は変わった人を受け入れる度量があります。
社会は友だちがいなくても、変わった趣味を持っていても、ずれた動きや受け答えをしても、それを否定はしません。
自分で働き、自立した生活ができ、他人に迷惑をかけない人なら、受け入れてくれます。
また、社会は努力する人間に対しては温かい、ということも覚えておくべきことでしょう。

障害者として生きるのも、変わった人として生きるのも、本人の人生です。
他人がとやかく言うことではありません。
ただどちらの選択をしたとしても、本人の意思で選択することが大事です。
そして、どちらを選択したとしても、自分自身で努力しなければ、幸せな人生など訪れませんし、社会も受け入れてはくれません。
人生とは、選択の連続。
定型発達の人なら想像することで見える選択肢を、自閉症の人に見える形で表し、情報提供することが本当の支援だと考えています。

2015年12月9日水曜日

違和感に対する私の答え

家に帰ると、スケジュールを確認し、淡々と日課を行う。
そして、余暇エリアに行き、自分の時間を過ごす子どもの姿。
また、その子どもの様子を遠くから見ていて、必要があるとき以外は、ほとんど声をかけることがない親御さんの姿。
その姿を見て、私は違和感を感じていた。

それは、私が小学校の先生を目指していたからかもしれない。
特別支援に携わって生きるなんて、これぽっちも思っていなかった。
私がイメージできる子どもの姿は、定型発達の子どもの姿。
でも、TEACCHの考え方を積極的に取り入れている地域だったから、これが自閉症の子ども達にとって最良の環境だと思っていた。

一人で日課を行い、余暇の時間を過ごせることは将来の自立のために必要なこと。
親御さんが必要以上に声をかけないのも、余計なストレスや混乱を与えないためであって、子どものことを思ってのこと。
私はそのように受け止めていた。

自閉症児施設に就職したあとも、私は自立を目指すための仕事だと思っていた。
自分でできることを増やし、支援者からの手助けを減らしていく。
そして、将来、より自由度の高い生活の場へと移行していけるようにする。
しかし、福祉が求めるものは違った。

福祉も自立を目指していた。
でも、それは自分たちの手の中での自立。
つまり、自分たちの手がかからないようにすること。
何でも一人でできるようになっては困るのだ。
自分たちの施設から出ていってもらっては困るのだ。
福祉は支援し続けることで、安定する仕事だから。
これは施設職員のときの違和感。

そして、もう一つの違和感。
それは親御さんが親になる機会、瞬間を奪っているのではないか、というもの。
児童施設という性質もあって、幼児期から高等部の子ども達が生活していた(成人の方もいたが)。
それも地元の子どもだけではなく、全道、全国から来ていた。

毎週、必ず会いに来てくれる親御さんもいる一方で、一年に1回も会いに来ない親御さんもいた。
こういった親御さんの子どもの場合、私たち支援員が親代わりのような存在になる。
でも、それは同時に、親としての大変さだけではなく、成長の喜びも、私たち他人が手にしているような気がしていた。
入所当初は、毎日のように電話があり、距離に関わらず会いに来ていてくれた親御さんが、だんだんと電話がなくなり、足が遠のいていく。
そして、久しぶりに会うたびに、よそよそしさが増していく姿。
親御さんも、子どもも。

この3つの違和感に対する答えが、私の事業の中にある。
親御さんを親御さんのままでいられる手助けをしたい。
つまり、親御さんを支援者にしないこと。
自閉症への関わり方よりも、我が子への関わり方を優先し、味わってほしいと思う。
感情的に怒ってしまうこともあれば、思わず抱きしめたくなることもある。
それが自閉症支援の適切な方法ではなかったとしても。
「構造化がうまくいった」「適切な対応ができた」ではなく、親として子の成長を純粋に喜び、自分を信じて子育てをしてほしいと思う。
親と子の間の育ち合いを邪魔せず、求められればアイディアを提供できる存在でいたい。

そして、本当の意味での自立ができるような手伝いをしたい。
動物はみな、我が子に餌の取り方を教える。
何故、餌の取り方を教えるかといえば、我が子が自分一人で生きていけるようにするため。
この地球上に動物が誕生してから今まで脈々と続けられてきた行為。
それは学習ではなく、動物というDNAの中に組み込まれているものだろう。

特別支援が登場し、動物としての自立ではない自立が生まれた。
親としては自立させたい。
そのための子育てがしたい。
でも、それに待ったを掛けるようなメッセージが人間の脳に届けられる。
だから、哺乳類の脳と、人間の脳の間で葛藤が生まれ、親御さんを苦しめているのだと思う。

私は、動物的な自立の手伝いをしたい。
親は子よりも、先に死ぬ。
当然、私も一生支援し続けることなどできない。
だからこそ、その人が自立するために必要な学びのお手伝いをし、自立した後も、自立し続けられる方法を伝えていく。

これが違和感への私の答え。
やっと言葉にすることができた。
それは、この本を読んだから。

人口的な支援、療育を頼らず、親が持つ自然なものを大切にし、二人のお子さんを立派に育て上げた記録。
今、まさに子育て中の親御さん達に、観察のポイント、教え方のアイディアだけではなく、「私が主体となって子育てをしていくんだ!」という勇気も与えてくれる本だと思います。
本来、子どもが持っている"成長する力"と、親御さんの中にある"子どもを育てる力"が、最大限発揮できるような支援を続けていきたい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4907725957/kumanabi-22/
支援者なくとも、自閉っ子は育つ 親子でラクになる!34のヒント
こより著 栗本啓司、浅見淳子(編集)


2015年12月7日月曜日

人間と動物の間で生じる葛藤

我が子がひきこもり状態の親御さんに

支援者は

「温かく見守りましょう」

「成長を待ちましょう」

そして

「受け入れましょう」と言う

でも

親御さんは受け入れられるはずがない

だって

一人で生きていけるようにするため

子育てをしてきたのだから

すべての動物は

我が子が自分の足で生きていけるように子育てを行う

だから

支援者の言葉が親御さんの中に葛藤を生じさせる

人間と動物の部分で揺れ動く

本当の支援者は

その人が持つ成長する力

親御さんが持つ養育する力

その2つを支援する

2015年12月2日水曜日

「自閉症は視覚優位」という常識(?)を疑え!

「自閉症は視覚優位」という言葉は、かなりクセモノ。
だって、自閉症の人、全員が視覚優位に思えてしまうから。
だって、視覚優位ってことは、聴覚がダメっぽく感じちゃうから(聴覚過敏の人もいるしね)。
だって、理解すること、記憶すること、表現すること、すべてが視覚を使った方が良いと思っちゃうから。
そして、一番の問題は、視覚優位が前提で始めちゃうから、ちゃんとアセスメントしなくなっちゃうから(視覚優位が念頭にあるだけで、視覚優位になるように、その人を見てしまう危険性があるよね)。

よく考えたら分かるはずだけど、自閉症スペクトラム症の診断基準に、「視覚優位であること」って書いていない。
つまり、「自閉症≠視覚優位」ってことだし、自閉症の人の中には、聴覚優位の人も、視覚と聴覚に優位さがない人もいるってこと。
テンプル・グランディン博士が「絵で考える」という言葉を使って、自閉症の認知、思考について説明されているけれど、すべての自閉症の人がテンプルさんであるわけはない。

もちろん、いろいろな研究からも、日々の実践からも、「視覚」がキーワードになるとは思います。
でも、だからといって、私はアセスメントするとき、「視覚優位」という先入観を持ちません。
ましてや、すぐに視覚的支援を行おうなんてナンセンスなことはしませんね。

視覚も、聴覚も、また他の感覚と同様、どのような受け取り方をするか、どのようなメリット、デメリットがあるかを細かく観ていきます。
例えば、物事を理解するときは、どんな感覚を使うのが有効か。
そして、有効な感覚の場合、どうしてそれを使うことが本人にとって有効なのか(エネルギーを節約できる、自分のペースで噛み砕くことができる、単純に慣れているから、など)。
つい先日も、「視覚優位です」「視覚的支援が有効です」と事前に情報を貰っていた子のアセスメントを行いましたが、記憶に関しては視覚よりも、聴覚からの方が得意でした。
また、理解に関しては視覚からの方が有効だと言えましたが、なんでもかんでも視覚化すれば理解できるということではなく、あまり情報が多くなってしまうと難しい、そして残像が残りやすく疲れやすくもある、というデメリットもみられました。

常識ほど、疑わなくてはいけませんね。
だから、私は「自閉症は視覚優位」という言葉を疑いますし、より丁寧に、細かく観ていく必要があると考えています。
このブログを書きながら思いだしてしまいましたが、検査結果で「視覚、聴覚の有意差なし」と出たのに、「これは間違っている」「この検査のときは、調子が悪かったはずだ」と言って、とにかく視覚支援ばかりしていた特別支援の学校の先生がいましたね。
あの先生は、良いだけ視覚支援をしまくり、別の学校へと行ってしまいました・・・。
視覚支援と自閉症を表裏一体のようにくっつけてはいけません。

2015年12月1日火曜日

自閉症の部分だけではなく、知的障害の部分もきちんと向き合ってほしい

遅めのお昼ご飯を食べながらテレビを観ていると、中国でPM2.5が大量に発生している映像が流れていました。
日本にも流れてくる可能性があるようですね。
日本の妊婦さん、お腹の中の赤ちゃんにも影響が出ないか、心配になります。

この頃、心配になることと言えば、知的障害がない自閉症の方たちに行うような療育を知的障害もある人が受けていることです。
もちろん、一概に知的障害の有無で療育の方法がスパッと分けられるわけではありません。
でも、「いやいや、それは合っていないでしょう」というツッコミが入るものがあります。
療育をする方としては期待があるのかもしれませんが、受ける方としてはかなりしんどいと思います。

確かに、知的障害を持っていたとしても、文字を読んだり、絵の意味を理解したり、簡単な受け答えができたりする人はいます。
しかし、「知的障害がある」ということは、読み書きそろばんの遅れだけではなく、理解したもの同士をつなげたり、実際の行動に応用させたりする過程に困難さを持っているのです。
たとえ、文字を読むことができても、その文字が表している概念を掴むことが難しい。
計算ができたとしても、買い物の計算へとつながっていかない。
テストの点数に表れるような表面的な力だけではなく、もっと深い思考のプロセスに関する力に注目すべきだと思います。
また、「理解した」「実際の場面でできた」としても、知的障害のない人が簡単にできるようなことであっても、相当なエネルギーを使って"なんとか"できている、という場合があることも大切な視点だと思います。

高機能の方たちが行っているような療育を受け、「あの人たちみたいになってほしい」
「文字も読めるし、言っていることもわかるから、理解でき、学んでいけるはず」
というような希望や期待があるのかもしれません。
でも、高機能の方たちが受けている療育を受けたからといって、知的障害がなくなるわけではありません。
第一、療育はIQを上げるためのものではありません。
それよりも大事なのは、その子の持つ資質を伸ばすことであり、社会的な適応能力を向上させること、つまり自立度を上げ、生活の質を向上させることです。
ですから、その子の課題に合わせて、その子がわかりやすい方法を用い、成長を促していくのです。
結果として、IQが上がることはあるかもしれませんが、それが一番の目的ではありません。

自閉症という障害だけでなく、知的障害もあって・・・というような気持ちもわかります。
ある親御さんは、私が「知的障害」という言葉を使うたびに、刺さるような視線を向けていました。
知的な遅れがあることを認めたくはないかもしれませんが、それを理解したうえで療育、支援を勧めていかなければ、その子自身が成長できないこともあるのです。
いくら立派な視覚的な構造化があっても、SSTがあっても、本人が理解していなければ、それはただの紙でしかありません。
「この子は、この方法が合っているんです」と言われ、本人の様子を確認すると、理解しているのではなく、ルーティンや他のことを手掛かりに動いている、録音したテープのように言葉だけ再現できている、ということもあります。
それでは本当に理解したことにはなりませんし、特定の場面だけでしかできないスキルになってしまいます。
「長年、この方法で支援してきました。でも、うまくいきません。どうしましょう」という相談は少なくありません。
もっと早い段階で、その子に合った方法ができていれば、もっと成長できたのに、と思うこともあります。

内容の難易度ではなく、本人の「わかった」を大切にしてほしいと思います。
「わかった」が積み重なっていくと、心身の成長を促します。
そして、前向きな気持ちで自立へと歩んでいけるのだと考えています。

2015年11月28日土曜日

成人後も成長の機会を得るための18年間

私はチャンスを広げるために、学生時代があるのだと考えています。
特別支援学校だったら18歳で、4年生の大学に行ったとしても22歳で、社会に出るわけです。
定型発達と言われている若者たちでも、その約20年くらいの期間で、生きていくことに必要な最低限のスキルをすべて身に付けておくことは大変なのです。
それだったら、発達障害があったり、知的障害があったりする若者は、さらに大変だと言えますし、当然20年間では足りない人も多いはずです。
未熟な段階で社会に出ていかなければならないので、社会に出てからも成長できる、成長し続ける機会が得られることが大事になります。

そのような機会を得るためには、やはり学校に通っている間に多くのことを学び、力をつけておく必要があります。
成人になってからでは、遅い場合もあります。
それは今、成人している障害を持った方たちの現実から見えてくる部分です。
「いきなり一般就労は難しいから、作業所で支援を受けながら・・・」と言っても、その作業所で行う仕事が、今後の仕事の幅を広げるものなのか、自立するための練習になっているものなのか、を見極めないと、希望通りのステップは踏んでいけないことにもなりかねません。

昨日、お話ししたお母さんが、「人生の本番を迎える前の18年間、できることは何でもしようと思ってきた」と言っていました。
先を見通した素晴らしい考え方で、子育てをされてきたことがわかります。
当然、その子は成長をし続け、成長につながるための就労を得ることができました。
その就労先で一生なんては考えていませんでしたし、私もその考え方に同意します。
その就労先で、まだ未熟な部分を学び、成長し続けることで、より良い機会を選びにいっても良いと思います。

40年間、同じ場所で働き続ける時代ではありません。
それは障害を持った人でも同じこと。
学校の卒業がゴールではありません。
それはスタートの始まり。
成長につながる機会を広げるためにも、約20年の歩みが大切になってくるのです。

時代に左右されない力

一つ前のブログにも書きましたが、国の考えを見通す力が大事だと思います。
これから就労支援の補助金が減っていきます。
たぶん次は、児童デイでしょう。
最初はたくさんの予算をつけておいて、一定数事業所ができれば、補助金を減らしていく。
予算を握っている方からしたら、当然の戦略ですよね。
そうやって数を確保しつつ、あとは徐々に補助金を減らしていき、ぎりぎりのところで事業者の努力に委ねる(利用者がいたら、やすやすと撤退はできないですよね)。
予算は無限にはないので、福祉と特別支援教育の充実は、現実からどんどん夢の方へ変わっていくでしょう。

じゃあ、みなさん、日本から出ていき、福祉や教育がより充実している国へ行きますか。
それとも、日本で夢を追い続けますか。
私は、日本で、しかもこの時代に生まれたので、現実的な道を選択します。
それは国の考えや制度に左右されない部分を充実させること。
つまり、その人が持つ能力を発揮させ、成長をサポートすること。
どんな時代、どんな政権、どんな制度ができようとも、本人に力があれば、より良い未来へと進んでいけると思います。
時代も、国も、個人の能力まで手が出せませんから。

この10年間は、蛇口を開き、水がジョボジョボと注がれ続けてきた時間でした。
これからは、蛇口が反対側にひねられて行く時間です。
また、溜まった水は、他に必要な人のところに運ばれていきます。
蛇口を閉める手を制止するには、それに伴うだけの余程のメリットが示せなければなりません。
他に運ばれている先の人よりも、必要性があり、それだけではなく、有効利用できるだけの事実が必要なのです。

草の根運動を否定するわけではありません。
でも、この瞬間にも、本人も、親御さんも、年をとっているのです。
私は、これからも時代に左右されない力をつける意義と、そのお手伝いを続けていこうと考えています。

自分たちで作業所を作れば…

他害がある思春期真っ只中の男の子。
その子の親御さんが「将来、自分で作業所を作るから良いんです」と言って、学校と距離をとったという話を聞きました。
親御さんには、問題行動が良くならないことに対する苛立ちと、それによる余裕のなさがあるのだと思います。
学校側の至らないところもあったのでしょう。
でも、学校と距離をとることは、本当に本人のためになるのでしょうか。
そして、働く場を親御さんが作り、そこで働くことは本人にとって幸せか、また一生働くことができるのでしょうか。

学校って、問題行動をなくす場所ではありません。
将来の自立に向けた学びの場所です。
児童デイや療育機関に通っているから、それで良いやってことにはなりません。
学校という環境だからできる学びがあるはずです。
そこをすっぽり抜かすということは、それに代わるだけの学びを用意する必要があります。
ホームティーチングという方法もありますが、それは一定以上の学ぶ力を持っている子どもの話だと思います。
発達障害、特に知的障害がある子ども達は、知識を身に付けるような学習だけではなく、脳の根本的な部分から発達を促していく必要があります。
それを家庭の力だけで行おうとしたら、相当難しいと言えます。

就労支援に対する補助金は減っていく流れになっています。
その次は、児童デイへの補助金カット。
国の人口構成から考えても、障害者福祉の予算が減っていくのは明らかです。
こういった流れの中、大きな法人以外の、しかも個人が作業所を作ることは相当なリスクがあることです。
お金に余裕があるご家庭なら大丈夫なのかもしれませんが、人を雇うにはある程度のお金がいります。
補助金の中だけでやろうとしたら、パートでしか雇えないでしょう。
また給料が安いところに、即戦力、専門性を持った人はこないはず。
障害者支援、自閉症支援が進んでいると思われている欧米でも、支援者として働いている人の多くは、パートタイムの人ばかりです。
主婦が空いている時間に仕事しています、というのが一般的なのです。
(私が研修で見た事業所は、利用者の人たちが働いている隣で携帯電話をいじっている支援者さんでしたよ)
当然、日本もそのような状況になってくるでしょう。
そういった状況で我が子だけでなく、他の利用者の方たちにも、長い期間、それなりの支援を提供し続けるのは、金銭的にも、人材&環境的にも相当難しくなるはずです。

あと、これは個人的な感想なのかもしれませんが、家でも親と一緒、職場も親と一緒って、その子にとって本当に幸せなのかな、とも思います。
親御さんとしては、大事な我が子ですし、自分でみた方が安心というのもあるかもしれませんが、子どもからしたら、24時間365日ずっと見られているわけです。
言葉には出さないかもしれませんが、息苦しさという心理的なプレッシャーと、発展性がない環境というネガティブな側面があるのだと思います。
そして何より、親は子より先に死にます。
そういった親の目の届く世界でしか生きてこなかった子どもが、あるとき、急に親が側からいなくなるのです。
子どもの年齢も高くなっている頃でしょうから、そのときからガラッと生活が変わるというのに耐えられるでしょうか。

障害が重い人ほど、誰かに頼って生きていかなければなりません。
その頼ってきた人が、親御さんしかいなかったら・・・。
そう考えると、親御さんが元気なうちに頼れる人、場所を増やしておくことの方が、お子さんのためになると思います。
大事なのは、完ぺきな支援よりも、幅広い支援を見つけていく作業ですね。

2015年11月26日木曜日

子も、親も、成長できるのを支援することが"協働"じゃないかな

雨脚が強くなってきましたね。
ちょうど午後からの予定がキャンセルになったので、外に出ず、仕事ができています。
朝早い時間に走っといて良かった♪
遅くなるほど荒れるようだから、今日は早めに保育園に迎えに行こうかな。

「いつも丁寧に教えてくださり、感謝しています」と言われました。
お金を払って利用して頂いているのですから、どんな意図で、どんな支援を行っているかを丁寧に説明するのは当然なこと。
また、実際のセッション以外でも、電話やメールでの相談をいただきますが、それに関しても、親御さんがお子さんのことをより深く知り、成長につながる引き出しを増やすのは望ましいことです。
私のイメージでは、依頼を受けたお子さんの成長はもちろんのこと、親御さんも含めて一緒に成長してもらう感じです。
ですから、セッションを通して知り得た情報や、お子さんに合った支援方法があれば、どんどんお伝えしています。
それで「大久保の支援はもういらないわ」となってもいいのです。
ヤブ医者になって小銭を稼ぐよりも、どんどん成長してもらえる方がずっと気持ちが良いものです。

私が当然だと思っているこのような対応も、公的な機関では難しいのは当たり前。
公的な機関では、結果よりも、数の方でお金が決まってくるのですから。
特に税金からお金を貰っているところは、より多くの人にサービスが行き渡ることが大切です。
ですから、「〇〇では、どんな療育を行っているか教えてくれない」とか、「結果が伴っていない」とか、「同じ支援がうちではできない」とか、言っても仕方のないことです。
そもそもの仕組みが違いますから。
「お金がかからず、何でも教えてくれて、しかも結果が伴う」なんていうのを期待していてはだめですよ。
それができていたら、もっと多くの人たちが自立した生活を送られています。
もし公的な機関の人で、自分に時間も、労力も割いてくれているのなら、それはその人のプライベートな時間か、他の誰かが利用できていたかもしれない時間を貰っていると考えた方が良いと思います。

公的な機関のみを利用されている方は、親御さん自身で勉強する必要があるということです。
ただ利用されているだけでは、お子さんは変わっていくかもしれませんが、親御さんは変わっていきません。
結構、公的な機関を長年使われていた方が私のところにも来ますが、上記のように私のサービスに対して感動される方がいる一方、「私、なんでも知ってます」という方もいらっしゃいます。
でも、そういう方に限って、よく理解されていない場合が多いです。
背景には、公的な機関を利用していること自体に満足感があるような気がします。
反対に、公的な機関は使わず、親御さんご自身で考え、ずっと試行錯誤されてきた方の方が、よくお子さんのことも、知識とは知らなくても支援のことも、理解できていることの方が多いです。
こういった親御さんの場合、支援を整理するお手伝いと、違った視点のアイディアを提供することで、お子さんだけでなく、親御さん自身もどんどん成長していきます。

民間の支援機関と、公的な支援機関は、仕組みが違うこと。
仕組みが違うから、サービスも違ってきます。
そして、支援者よりも接する時間が圧倒的に多いので、親御さん自身が理解を深め、成長することが、お子さんを成長させることにもつながってくること。
もちろん、センスの部分もありますが、やっぱり努力しないと成長はできないこと。
成長するためには、ご自身で勉強されるか、たとえ有料だったとしても親御さんも一緒に成長させてくれる民間に頼むという方法もあること。
つまり、お金がかかったとしても、お子さんも、親御さんも、理解が深まり、成長できる方がお得でしょ、というセールスでした(笑)

2015年11月25日水曜日

「良い支援」と「悪い支援」

「私の支援が悪くて・・・」と仰る親御さんって少なくないです。
先週の相談時も、同じようなことを言っていました。
そのとき、私は尋ねました。
「悪い支援って、どのような支援のことだと思っていらっしゃいますか?」と。

悪い支援って、お子さんが理解できなかったり、混乱したり、成長できなかったりする支援のこと。
これは私も同じように考えます。
ただ私は商売として支援をしていますので、もっとツッコんで結果が出ない支援は悪い支援だと考えています。
しかし、親御さんがどうして悪い支援になってしまうかと言ったら、「私がちゃんと勉強していない」とか、「構造化の仕方が悪かった」とか、「感情的になって一貫性のある支援ができていない」とかが多いです。
つまり、視覚的構造化でも、ABAでも、ソーシャルストーリーでも、その療法をきちんと理解していない、決められた手順を踏むことができていない、応用することができていないので、お子さんにポジティブな変化が見られず、結果として"悪い支援"と考えているようです。

確かにどんな療法にも、中核となる考え方、決められた方法と手順、評価基準などがあります。
でも、これは専門家、職業として支援している人たちの間での話です。
きちんと理論を学び、技法を身に付けるためには型が必要です。
型がなければ、教えることが難しい、習得できたか判断できない、看板だけ掲げて勝手に実践してしまえる・・・。
つまり、お墨付きを与えるために型があるのです。

でも、実際の場面で、目の前にお子さんがいるとき、ナントカ療法の型どおりか違うか、なんてどうでも良いと思いませんか?
目の前にいる人にポジティブな変化があれば、それでOKじゃないでしょうか。
私もトレーニングに行ったとき、「それは違う方法だ」とか言われましたよ。
でもね、それは研修の場だから。
実際は、理解でき、成長できたら、それは良い支援でしょ。
職業にしている人が勝手なアレンジをして「〇〇療法です」と言ったら問題になるけれど、親御さんが我が子の支援を行うのに正しい方じゃなければならないということはありませんよね。
良いとこどりでも、つぎはぎでも、ごった煮でも、なんでもいいんですよ。

それが良い支援か、悪い支援か、の答えは、お子さんの中にあります。
答えを外に求めてしまっているのは注意信号です。
「ナントカ療法を正しく行えることが良い支援につながる」と、答えを外に求めているのでは、いつになっても答えは見つかりません。
ナントカ療法を型どおり実践できたとしても、合わない子は合わない。
ほら、ナントカ療法をたくさん勉強し、習得した人でも、うまく支援できない人、成長させられない人は大勢いますよね。

ナントカ療法に合わせようとしても、合わない場合がある。
子どもも一人ひとり違えば、支援者も一人ひとり違う。
結局は、子どもに合わせてナントカ療法を切り取れば良いのですよ。
不格好でも、何でも良くて、お子さんに良いものをどんどん取り入れる。
そっちの方が、ナントカ療法を極めるよりも、ずっと早く効果が表れます。
どうしますか、ナントカ療法を極めてみたけれど、お子さんに合っていなかったら。
効果が見られた方法を集め、その子オリジナルの支援を作っていくことの方が、ずっと効率的で、成長し続けられると思いますよ。

2015年11月19日木曜日

スモールステップとは、情報整理の手段の一つ

今朝、とても嬉しい報告がありました!
目標だった試験に合格したとのことでした!!
その方との付き合いは、もう2年以上になります。
でも、ここ半年くらい敢えて連絡をとらないようにしていました。
それまで小さなステップを一緒に超えてきましたが、本人の口から「コツを掴んだような気がします。ここからは自分の力で頑張ります」という言葉が聞けたからです。
時間がかかるのは分かっていましたが、それでも支援を受けることなく、「自分自身の足で乗り越えることができた」という経験をしてもらうことが、彼の人生を一変させると考え、判断しました。
挫折を繰り返し、何をしても途中で止めてしまっていた人生でしたから、まず1つ自分の力で乗り越えて欲しい、その喜びを感じて欲しい、というのが、その試験でした。
早速、次の目標へと意識が向いているようです。
1つの山を越えたから、次の山を見ることができる。
そうやって歩いているうちに、気が付いたら人は成長しているのかもしれません。
今回も、社会に飛び立っていくときの"踏み台"として役目を果たすことができて嬉しかったです。

このように一気に目標を目指すのではなく、段階を分けて最終目標を目指していくというのを「スモールステップ」というのでしょう。
特別支援界隈で良く聞く言葉です。
でも、私は「ステップを細かく分けて、確実に目標を達成する方法」というような捉え方はしていません。
それよりも「スモールステップ」とは、情報整理の手段の一つだと考えています。

目標が遠すぎると、偏った想像をしてしまったり、反対に情報が多すぎて圧倒されてしまったりする。
だから、その人に合わせて情報を区切る。
そうすることで、向かうべき道が明確になり、"脳"力を存分に使うことができる、というように考えています。

よく感じるのが、ただ「とにかくステップを細かくすることが良い」と捉えているのではないか、と思ってしまうような療育が多いということ。
「こんなに細かく分ける必要があるの?」
「なんでみんな同じステップなの?」
「そもそも分ける必要があるほどのものなの?」
という疑問が湧いてきます。
人によっては、一気に目標を目指した方がわかりやすく、身につきやすい場合もあります。
また、そんなちっちゃなステップだと
「達成感が感じられない」
「いつになったらゴールになるのかわからず、不安」
という場合もあります。
大事なことは、その人に合わせたステップを設定することであり、ここに支援者の専門性とセンスが問われるのです。

私の意識としては、「その人が達成感を十分に味わえるギリギリの線を攻める」という感じです。
このステップが高すぎると、圧倒されてしまい、立ちすくんでしまいかねません。
しかし、ステップが低すぎると簡単に超えてしまい、達成感が感じられなかったり、反対に「バカにされた」と思われてしまう危険性があり、成長につながりません。
ですから、超えられるギリギリの線を見極めます。
その超えられるギリギリの線も、スキルアップやトレーニング、支援グッツやコンディショニングによって上げられるのなら、そちらの面のアプローチを行います。

遠い目標までの道のりには、多くの情報があります。
その情報の量に圧倒されることもあれば、妥当ではない想像が入り込む隙もあります。
ですから、その人に合わせて情報を区切り、脳力を発揮できる環境を整える。
それと同時に、本人に「これなら頑張れば乗り越えられそうだ」というような意欲を高めてもらう。
それがスモールステップと呼ばれるものであり、成長につながるのだと考えています。

今朝、嬉しい報告を貰った方は、私が想像していたよりも時間がかかっていたので、「ちょっとギリギリの線を攻めすぎたかな」という思いもありました。
しかし、彼は途中立ち止まりながらも、着実に歩を進め、ついに山を越えることができました。
私の力ではなく、彼自身の力で。
彼は今、充実感、達成感で胸がいっぱいだと思います。
ですから、それを存分に味わってもらうために、そっとしておくのが良いと思います。
ちょっと時間をおいてから、一緒にお祝をしようと思っています。

ちなみに今回のブログで401号。
400を超え、また一歩進みました。
もともとは施設や学校で働いていたとき、その日、気が付いたことをノートに書いていたのですが、てらっこ塾を知ってもらうことと、他人の目に触れるという意識を持つことで、表現能力を鍛えようと思い、始めたものでした。
私のスモールステップは、100単位。
次は500を目指して頑張ります!

2015年11月18日水曜日

親御さんの"揺らぎ"

最近、ある親御さんからの依頼を断ることがありました。
以前にも、他の親御さんですが、断ったことがあります。
別に依頼の内容が突拍子もないことでも、目標達成の可能性がないことでもありません。
お引き受けすることもできた依頼です。

私はボランティア活動ではなく、商売として支援、療育を行っていますので、本来なら受けるべき依頼なのだと思います。
学校や支援機関では断られることが多い依頼にも、積極的に引き受けてきました。
事業開始当初より、「NO」と言わないてらっこ塾で売っています。
それなのに引き受けなかった理由とは・・・。

それは親御さんに"揺らぎ"を感じたからです。
この"揺らぎ"とは、悩んでいるとは別の意味です。
そもそも悩んでいない親御さんはいませんし。
揺らいでいる親御さんは、ご自身の中に選択肢も、方向性もお持ちではない、といった印象を受けます。

何かしなければならないことは分かっているけれど・・・
「何が問題だか分からない」
「何から手をつけていけばいいか分からない」
「どんな方向に向かえばよいか分からない」
「自分自身、何が困っているか分からない」
その結果、(表現は適切ではないかもしれませんが)手あたり次第、いろいろな支援機関を訪ねたり、書籍やネット、親御さん同士の交流から情報を得ようとしたりする。
そして、私が意見を述べたり、質問したりすると、言っていることがコロコロ変わる。
こういった雰囲気を感じると、私は親御さんの中に"揺らぎ"を見ます。

別に、揺らぐことがいけないとか、間違いだとか言っているわけではありません。
ただ、この揺らぎの幅が大きいときに、支援者が介入することに危険性を感じているのです。
親御さんが定まっていないときには、支援者に依存してしまう危険性があります。
親と子の間に支援者が入り、親子の距離を広げてしまう危険性があります。
親御さんの養育力を高める機会を奪い、親御さんの手の中から我が子の支援を奪ってしまう危険性があります。
そして、最も懸念されることが、親御さんの揺らぎが支援の揺らぎになり、結果としてお子さんの揺らぎ、成長の揺らぎが起きることです。
土台がしっかりしていない子の場合、その揺らぎが積み上げてきたものを一気に壊してしまう危険性があるのです。

私も、この道に進んで10年以上が経ちます。
その歩みの中で出会ってきた親御さんで揺らぎが少ない人のお子さんは、成長していることが見て分かります。
しかし、揺らいでいる親御さんのお子さんには、成長を見ることができないことが多いです。
反対に、持っている力から考えると、「成長できずにいるな」と感じる子の親御さんを見ると、揺らいでいることが多かったです。

冒頭の揺らぎを感じた親御さんに対しては、頭の中を整理するお手伝いをしました。
そして、情報を提供し、「お母さんの中で"揺らぎ"がなくなったら、進むべき方向性が見えてきたら、またお電話ください」と伝えました。
親御さんの迷いや揺らぎを小さくするために、支援者がリードすることはありだと思っています。
しかし、お子さんの支援自体をリードすることは間違っていると思っています。
支援者は第三者であり、一生の支援はしません。
本人を中心とし、本人の成長と豊かな人生に向けて、家族が一番側にいる。
そして、その家族の外側に支援者がいるのだと思います。

お断りした親御さんではありませんが、時々、「とにかく大久保さんにお任せします」と言われることがあります。
そんなときは、決まって「それはできません」と返事をしています。
そして、何を任せるのか、どの部分を任せるのか、ということを一緒に考えるお手伝いをします。
主導権は、本人と家族に持っていてもらいたいです。
そして、自分たちの意思で支援者を利用してもらいたい。
そうすることで、本人も、家族も、未来に向かって前向きに、自分の足で歩いているという実感を持ちながら進んでいけるのだと思います。
本人だけでなく、家族の方、一人ひとりにも、そして家族という集合体においても、成長してもらいたいと願っています。

2015年11月17日火曜日

知識を与えられれば、できるようになるわけではない

自分で「忙しい」と言っちゃうのは、恰好が悪いと思っているので言わないけれど、最近というか、11月に入って1日中、動き回っていることが続いています。
だから、ブログもゆっくり書けない。
このブログも書いていたら、電話が鳴っています(本日、3度目)。
だから、最近では余計に、私の支援から卒業してもらうこと、自立してもらうことに意識が向いていますね。
ちなみに今月だけで、3名の方が卒業されました!
私を踏み台にして羽ばたいていただければ、大いに結構なことです!!

私は言いたいことがあったら、すぐに吐き出したいタイプなので、便秘状態。
ネタは貯まるけど、表出できずにモヤっとした感じです。
こうして考えると、いつの間にか、自分の健康のためにブログを書いていたのが分かります。
健康と言えば、ランニングはまだ続いていますよ。

まあ、どうでもいい文章はこれくらいにして、最近、ビックリしたのが、「知識の量=できる量」だと思っている人が案外多いということ。
「知識が増えれば、できることが増える」
「できることが増えるように、知識をたくさん与えよう」
というような考えで支援している人たちがいる。
でもね。
知っているからって、できるようになる方たちではなかったっけ。
知識を実際の場面に応用させることが苦手だと思うんですけどね。

本人がなかなかできずにいると
「教え方が悪かったのでは」
「視覚的な手立ての作り方がまずかったのでは」
と思われる方がいます。
もちろん、教え方や手だての問題もあります。
でも、できない理由はそれだけではありません。

知識はあるけど、実際の場面でどうやったら良いかわからなくてできない場合もあります。
つまり応用、般化の問題。
他にも、実際の場面では環境からくる刺激に圧倒されてしまってできない。
体調が悪くてできない。
そのとき、求められていることがわからなくてできない。
知識以外の面で、発達していない部分があり、実行できる準備ができていない。
そもそも「やりたくない」というのもあります。

「知識があれば、できる」というのは、定型発達の人の視点ですね。
自分たちがそうだから。
「刺激に圧倒されてできない」「脳みそが疲れてるからできない」とかあまりないですし。
でも、定型発達の人は、身体面での発達も、対人面での発達も、"定型"で発達している一方、自閉症の人は、発達のアンバランスさを持っています。
ですから、「このくらいの年齢なら、これくらいのことは知りさえすればできるだろう」というものに関しても、認知の面ではOKでも、身体面でまだ発達していなかったりすることもあります。
そうしたら、当然できません。

また知識に関しても、文字を読んで理解することができても、概念がわからなかったり、国語はバッチリでも、数学的な面では苦手さがあったりすると、できません。
そして、情報の切り取り方、受け取り方、捉え方の違いもありますので、やっぱり知識と実技、実際の場面を結び付ける過程に課題があったりしますと、これまたできなくなります。

できない理由を、定型発達の視点の範囲内で考えていたら、答えが見つからないことが多々あります。
知識や手だてなど、支援する方も頭ばかりを使っていてはいけませんね。
特に、知的障害も併せて持っている方に対して、苦手な知的な面でのアプローチばかり行っていては、理解も難しかったり、理解するだけで疲れちゃったりしますね。
文字を読むことはできるけれど、それにかなりのパワーがいる子に対して、ずっと文字を書いて教えていた、という支援者がいましたが、う~んって感じです。

知的な面からだけの原因追求と、アプローチは、どちらも「粗い」と言わざるを得ません。
もっと広い視野で、丁寧に目の前にいる人のことを見て欲しいな、と思います。

2015年11月14日土曜日

これ以上、傷ついてほしくないのなら、きちんと指摘する

当事者の人が失敗したり、問題を起こしたりしたとき
「本人がかわいそう」
「これ以上、傷つけたくない」
と周囲が感じることがあります。

失敗や問題の原因が、本人の勘違いや未学習などの場合が多く、"意図的に"とか、"わざと"ではないことがわかると、なおさら、このような感情になります。
本人の気持ちを察し、寄り添うことが支援者というか、誰だって大切なことですよね。
ここまでは良いんです。
でも、「これ以上、傷つけたくない」と思った先の行動に過ちがある支援者が多い。

本人が失敗や問題を起こしたとき、それを指摘しなかったり、何となく曖昧にした表現を使ったり。
これって大問題だと思います。
きちんと指摘しなかったらどうなるか?

本人が失敗する
→支援者「本人がかわいそう」
→支援者「これ以上、傷つけたくない」
→支援者「間違いの指摘なし」
→支援者「不適切な情報提供」(*ここポイント)
→本人「誤った認識」
→本人「再び失敗」
→本人「傷つく」
→支援者「本人がかわいそう」
→支援者「これ以上、傷つけたくない」
→・・・以下略

このような負のスパイラルが出来上がってしまいます。
実際、多いですよ、抜け出せていない人。

定型発達の人だったら、間違いの指摘をされなくても、文脈や状況から想像し、「やってはいけないことをしたな」とか、「敢えて指摘しないでおいてくれてるんだな」とか、「今度は、こうしたらうまくいくだろう」とか自然に理解したりできます。
しかし、自閉症の人はこのような思考に至らない場合があります。
それよりも、「間違いの指摘がない=やってもいい&間違いではない」という受け取り方をする場合が多いです。
間違いの指摘がされないと、改善へとつながるのも難しくなります。

負のスパイラルの中にいる人は、周囲から不適切な情報提供をされたり、そもそも情報が受け取れていなかったりすることが多いです。
その結果、「私は悪くない」「〇〇が悪いんだ」「社会が私を恨んでいる」とか、歪んだ認知が形成されてしまうこともあります。
このように一旦歪んだ認知が形成されたら、それを整えていくのは本当に難しく、労力もいります。
ですから、失敗や過ちを犯したときは、きちんと「失敗は失敗であること」「過ちは過ちであること」を伝える必要があります。
そして、今後、どうしていけば良いのか、改善策を一緒に考えることが大事です。

学校をサボる子がいて、ズル休みや遅刻は当たり前。
でも、ズル休みも、遅刻も、誰も指摘しない。
それでいて、遅刻してでも学校に来れたときには、「よく来れたね」「頑張ったね」なんて言っちゃう。
もうお分かりですよね。
指摘しないことで、「ズル休み&遅刻は悪くないよ」というメッセージになり、時間に関係なく学校に来ただけで褒められて、好きな時間に登校することが強化される。

嘘みたいな現実の話があちこちで聞かれます。
自閉症の人たちは「情報不足で困っている人たち」とも言えます。
良い情報だけではなく、悪い情報も不足しています。
この両方の情報をきちんと具体的に、はっきり伝えることが支援者の役割です。
本人がこれ以上、傷ついてほしくないと思うのなら、失敗や過ちをきちんと指摘し、情報提供をするのです。

2015年11月11日水曜日

ズバッと言えない支援者ってどうなの??

ご家族や支援に携わっている人に、私は自分の支援、指導、接し方を見てもらうようにしています。
やっぱり実際に見てもらう方が、感じるもの、伝わるものがはるかに多いと思うからです。

私の支援を見てもらったあと、多くの方たちから頂く感想が「ズバッと表現している」ということ。
別に性格、言い方がきつい人間だから、私がこのような表現をしているのではないです。
ズバッという言い方は、自閉脳の人に合わせたものだからです。

情報の取りこぼしがあったり、情報の一部分を強く捕まえたりする特徴を持つ脳の方たちですよ。
相手を傷つけないようにしてかの親切心かもしれませんが、オブラートに包んだ表現、気づいてほしいなというような遠回しの表現、くどくどした説明は、はっきり言って迷惑。
自閉脳を余分に疲れさせるだけでなく、誤った認識、世界観、誤学習へとつながっていきます。
情報の取りこぼしがなるべくないように、そして的確に情報を受け取ってもらうためにも、直接的な表現で、端的に伝えるのです。
情報不足で困っているのが、自閉症の方たちです。
きちんと情報を伝えるのが支援者の役割です。
社会一般的な的確な評価を伝えるのが支援者の役割です。

ズバッと言うことに対して躊躇してしまう人の多くは、「相手を傷つけてしまうのではないか」という恐怖心だと思います。
(でも、情報不足&誤った情報の取り方をしてしまい、結果的に現実世界で失敗してしまう方が傷つきますよ!)
心と心の繋がり合いを大切にする福祉関係者は特に抵抗があるようです。
しかし、ズバッと言うのと、心に寄り添うのが共存できないと思っていること自体が誤りです。
私がズバッと言うのは、言動に対してです。
人格や心は否定するのではありません。
誤った言動をしてしまったら、きちんと「誤っている」と言います。
一般社会から考えて高すぎる自己評価には「高すぎる」と言い、低すぎる自己評価には「低すぎる」と言う。
つまり、これは情報提供です。
ズバッと言うのは、自閉脳の人たちに分かりやすいように情報提供しているだけです。

ズバッと言う私だって、自閉症の人たちと一緒にご飯に行ったり、遊んだり、悩みを聞いたり、共感したりします。
感情や気持ちなどのパーソナルな部分に対しては、人間同士の付き合いをしています。
これって当たり前のことでしょ。
どうも自閉脳の部分と、パーソナルな部分が曖昧のまま、彼らと接している人が多いように感じます。

自閉症の人と接するからといって、冗談を言うのにスケジュールで予告しますか!?
プライベートでご飯食べに行くのに、衝立を持っていきますか!?
趣味の話をして盛り上がるときに、紙に棒人間と吹き出し、ソーシャルな文章を書きますか!?

私は主に自閉症、発達障害の人たちの支援を行っています。
でも、私の中では「その人」を支援している、と思っています。
その人に困ったことがある、わからないことがある、成長するために力を貸してほしい、ということに対して応えているだけです。
その具体的な方法として、その人の特徴、つまり自閉症の特性に対するノウハウが必要で使っているだけです。
ですから、ズバッという表現は支援方法の一部にすぎませんし、実際の場面で失敗を繰り返さないようにするため、傷つかないようにするために行っているのです。
「自閉症の人が傷つかないように・・・」と思ってやっていることが、結果的に彼らを傷つけることにもつながりますので、自閉脳に合った情報提供の仕方と、パーソナルな部分への寄り添いの両方を行ってほしいと思います。

自分の力でネガティブな記憶を塗り替えた!

昨日は嬉しいことがありました。
自分の足で大きな山を越える姿が見れたのです。

偶然にもちょうど一年前、彼はプレゼンの発表の際、パニックを起こしました。
前日の夜遅くまで準備をしたこと。
発表に対する不安と緊張。
それに想定外の質問がきたのをきっかけとし、感情を爆発させてしまいました。
そのため、プレゼンの発表はネガティブな出来事として彼の頭の中に強く記録されました。

昨日、彼と会うと、表情がこわばっており、全身にも力が入っていることがわかりました。
翌日に大事な予定が入っているときは、体調を整えることを優先し、ベストコンディションを目指すこと。
それは「やりました」と。
プレゼンの英語のスピーチも、スライドも、準備は「大丈夫」
そして、私のサポートは「いりません。自分で頑張ります」とはっきり言ってくれました。
彼は自分一人の力で乗り越える決心をしたのです。

彼とは一年以上の付き合いです。
それまでの成育歴を考えると、糸が絡まり、課題も山積みというのが当初の印象です。
でも、彼は良く学び、一年前とはまったく違った姿を見せてくれました。
堂々とした発表。
そして、聴衆からの質問に対して的確に答えることができたそうです。
「彼が今日のベストプレゼンターであり、素晴らしい準備ができていたことがわかった」という評価を発表会後、担当教官から聞くことができました。
彼は自分自身の力でネガティブな記憶からポジティブな記憶へと上書きすることができたのです。

彼が「自分で頑張ります」と言ったとき、一瞬迷いました。
もし昨年同様なことになってしまったら、ネガティブな記憶がさらに強化されるからです。
でも、私は彼の言葉を信じようと思いました。
彼は一年前とは大きく変わりました。
自分でコンディションを整えること、感情をコントロールすることを学びました。
そして何よりも、私が部分的にでも手を出してしまったら、それはサポート付きの"できた"になってしまいます。
それでは、サポートがあったから"できた"であり、サポートがなかったら"できなかった"になります。
結果として、一年前のネガティブな記憶が塗り替えられることにならないのです。

担当教官からの評価は、彼には伝えませんでした。
というか、伝える必要がないと思いました。
だって、発表を終え、会場から出てきた彼の顔が達成感で溢れていたから。
ここで二流、三流の支援者なら「素晴らしい発表だったよ」とか、「担当教官が〇〇と言ってたよ」なんて言うのでしょうが、私は言いません。
自己肯定感は、誰かに与えられるものではなく、自分の身体を通して自分自身で得るものだから。
昨日の出来事は、彼にとって大きな経験であり、さらに良い方向へと変わっていくきっかけになる、と直感しました。

これからは、私の支援が「いらない」と言えるかどうかが、大事なポイントになります。
私も含め支援者が教えられることなんか、本当にちっちゃなものです。
それよりも社会の中の方が、より多くの学び、生きた学びをさせてくれます。
人を一番成長させるのは、社会です。
知的な面での課題がないのなら、障害者として生きる必要はないのです。
世の中には、変わった人はたくさんいます。
その変わった人の一人として人生を歩んでいけば良いのです。
そのためには、自分で稼ぎ、生活ができること。
他人の迷惑になるような行いはしないこと、しないように自分でコントロールできること。
これができるようになればいい。

彼への支援は、次の段階へと進んでいきます。
これからは、「障害者として生きない人生」を彼と一緒に考えていきたいと思います。

2015年11月10日火曜日

取り組みを始める前には、「目的」と「ゴール」を伝える

取り組みを始める前に、目的を伝えることは大事です。
「何のため、この取り組みを行うのか?」
「どんな苦手さがあり、それを改善することで、どんなポジティブな結果が待っているか?」
をきちんと理解してもらいます。
何のためにこの取り組みを行っているのかがわからなければ、当然意欲も湧きませんし、持続しません。
また「意識が向いていないと学習効率が悪くなる」とマイナス点もありますので。

この目的を伝えることと同じくらい大事なことが、もう一つあって、それは「ゴール」を具体的に伝えることです。
例えば、「5回連続して、一人で登校できたら目標達成」とか、「家を出て、グループホームに入居できたら終わり」とか。
とにかく“終わり”を明確に伝えることが大事です。
それでなければ、「いつ終わるのか」が分からなくて不安にさせてしまったり、次々、新しい取り組みをやっていたら、彼らが苦手な変化のボディーブロー状態にしてしまいます。
「いつになったら終わるんだ!」
「いつになったら変化がなくなるんだ!」
というような叫びを聞くことがあります。

そして何よりも、「支援が一生続く」と思ってほしくないのです。
支援の目的は自立度を上げることです。
完全に自立できる人は自立してもらい、完全な自立が難しい人は少しでも自立度を上げて、支援を減らしていく。
そうすることで、本当に支援が必要な人に、"人"と"お金"と"資源"を使ってもらう。
支援は椅子取りゲーム状態なので、一人の人が椅子に座り続けている限り、他の人が座ることができなのです。
だからこそ、支援には期限があること。
支援者から自立するために支援があることをしっかり理解してもらいたいのです。
(ここが曖昧だと、支援を受けること自体が普通になってしまい、必要のない支援を減らすことでさえ、「支援が減る=不安」になってしまう人もいるので要注意です。つまり支援が自立を妨げることもあるのです)

特に発達障害の人たちは、発達"しない"人たちではありません。
取り組みによっては、どんどん発達していけるのです。
発達していける部分と発達することが難しい部分。
支援には、この2つの側面に対するアプローチがあることを忘れてはいけません。
発達していける部分には支援を受けながら、どんどん自立していくことを目指す。
そして、どうしても変わることが難しい部分には継続的な支援を求める。
これが正しい支援のあり方です。

本当は成長できる、変わっていける部分なのに、同じ支援を受け続けている場合が多いようにも感じます。
それは支援者の手の中だけの人生になってしまう危険性があります。
どんな人であっても「完全な自立を目指せ」とは言いませんが、少しでも自立できる部分があれば、その部分においては主体的な人生を手に入れることができるのです。
自立するために支援を利用してほしいと思います。
「支援があって初めて自分の生活がある」という順番があべこべな人生は歩んでほしくありません。

2015年11月6日金曜日

身体先行型の人に「おやっ!?」という仕掛けを

時々、身体先行型の人を見かけます。
慣れている活動は、パターンで次々とこなしていく。
とにかく動きが多く、まるで刺激に対し反応を繰り返しているような感じ。
こういった方たちを見ると、「頭と身体のつながりがどうなのかな」と思ってしまいます。

衝動的に行動することもありますが、多くの人たちは考えて行動したり、考えながら行動したり、行動したあと、考えたりします。
しかし、身体先行型の人は、このような“考える”が抜けているようにも見えます。
“考える”のプロセスがないと、変化に対応できなかったり、他の場面に応用できなかったり、失敗を繰り返してしまったりすることにつながります。
ですから、“思考”と“行動”のつながりを良くすることが大事です。

私は「あまり考えて行動していないな」「パターンだけで動いているな」と感じたら、「おやっ!?」という場面を意識して作るようにしています。
いつもなら考えずにパターンでできちゃう活動の中に、仕掛けを入れます。
例えば、手洗いのときに使うタオルを無くしておいたり、いつも行う勉強の教科の順番を変えてみたり、「おはようございます」という挨拶に「さようなら」と言ってみたり。
本人が「おやっ!?」と立ち止まってくれたら成功です。
その瞬間だけかもしれませんが、頭と身体がくっつきます。
行動→行動→行動の中に“考える”が入れば、思考と行動の間に交流が生まれます。
そういった機会を増やしていくことで、思考と行動のつながりが良くなることを目指していきます。

もちろん、ルーティンで行うことがダメだと言っているのではありません。
脳みそを無駄遣いしないためにも、ルーティン化できるところはした方が良いです。
ここで挙げた「おやっ!?」の取り組みは、身体先行型で、日常生活の中であまり考えて行動していないと思われる方に対してのものです。
また、ここでは身体先行型の人についてを中心に書きましたが、頭先行型の人で頭と身体のつながりが良くないと思われる場合には身体を動かす機会を設ける取り組みを行います。
考える→考える→考えるの中に“行動”を入れることで、思考と行動の間に交流を起こしていきます。

「徐々に支援を減らしていく」と相性の悪い子もいる

「徐々に支援を減らしていく」って、子どもによっては相性の悪い方法だと思う。
どういう子どもにとって良くないかと言ったら、ルーティン化で学んでいくタイプの子。
あとは、物事の概念や意味の理解が難しく、それよりも形で覚えちゃう子も。
ルーティンで学んでいく子なら、最初に受けた支援も活動の一部になってしまう。
また、物事の概念に気が付かないのなら、自分でやる部分と支援の区別がわからなくなってしまう。

こういった子どもにとっては、自分が受けた支援もひっくるめて1つの活動にパッケージングしてしまう。
そのため、支援の回数や方法が変わってしまうと、まるで別の活動になったかの如く混乱したり、できなくなったりしてしまう。
支援者がこういう子どもの特性や様子に気が付いていないと…
「支援を減らしたら、またできなくなった」=「まだ支援が必要だ」
なんていうズレが生じてしまい、導入段階の支援を続けてしまう。
そして、いくら経っても自立できず、支援もどんどん活動の一部として固まっていく。

この前、見せてもらった支援計画書に「徐々に支援を減らしていく」と書いてあったので、「今、どれくらい減ったのですか?」と尋ねると、最初のままだと言う。
徐々に支援を減らし、最終的には自分の力だけで、と考えていたのだろうけれど、半年間、取り組みをやって支援が減らせないのなら、上記のような要因が考えられる。
それか、そもそも支援のやり方自体が合っていなかったか、その目標をやること自体、まだ早かったのか。
とにかく半年も支援して自立しないのなら、見直すべきだろう。

ルーティン化で学ぶ子、物事の概念の理解が難しい子の場合は、指導の場面と実践の場面を明確に分ける必要がある。
そうすることで、本人に「今は教わっている」「今は自分でやる」という違いを意識してもらう。
また、実践しながら指導をしないようにするため、実践するために必要なスキルはすべて自立してできるようにしておく。
そうすることで実践の場面では、活動の順番を学ぶことだけに集中できるように導く。

1つの活動を行うためには、「知識」と「動作(身体の動かし方)」と「順番」の理解と獲得が必要である。
例えば、靴ひもの結び方だと、靴の結ぶ意味や完成形がわかり(知識)、紐を結ぶのに必要な指先の動きができ(動作)、靴を履いてから結ぶ、まず紐の両端を指で摘み・・・というような順番がわからなければならない。
このうち、どれかが欠けていても靴ひもを結ぶことはできない。
ですから、ルーティンで学ぶタイプの子、動作で学ぶタイプの子の場合、「順番」が強く入ってしまうので、実践の前にその他の「知識」と「動作」は完璧にしておくことが重要になる。

私は「徐々に支援を減らしていく」という方法を選択することがほとんどない。
まあ、指導と実践の区別がきちんとできている人の場合は行うけど。
でも、そのときでも、きちんと最終目標は具体的に本人に伝えるようにする。
「最初は支援に入るけど、だんだん回数を減らしていき、最終的には支援がない状態で、一人で活動できることがゴールだから」というように。
本人にゴールの姿をイメージしておいてもらうことは大事な支援。
それがなければ、支援が減るのも、別の形態になるのも、本人にとっては"変化"だから。
未来を適切に想像することが苦手な人たちに、いつ終わるか分からない変化を与え続けるのは適切な支援とは言えないですからね。

2015年10月30日金曜日

引き算で理解する人たち

自閉症の人たちは「"引き算"で理解する人だな」と、改めて感じることがありました。

最近、特に寒くなったので、お母さんが湯たんぽを布団の中に入れてくれたとのこと。
そうしたら、「とてもあったかくて気持ちが良かった」と喜んでいた男の子。
そして「今まで寒かったのが、初めて分かった」と言っていました。

私たちは、布団が寒ければ、「寒い」と感じることができます。
でも、その子は温かい状態を知ってから、「あっ、今までは寒かったんだ」と感じることができたのです。
これは感覚面の違いというのが背景にあるのだと思います。
「寒い」というのは感覚ですので、身体面からの情報がうまく伝わらない、キャッチできないのかもしれません。
また、それだけではなく、「見えないものは、ない」人たちなので、経験してみないとわからないということがあるのかもしれません。
初めて湯たんぽを使い、温かいという状態を知ったため、比べることができた。
湯たんぽがある状態とない状態だと、ある方が温かい。
だから、湯たんぽを使っていなかった今までは「寒かったんだ」とわかることができた。
こういった流れを見ていると、定型発達の人とは「寒い」を認識する過程に違いがあることがわかります。

私たち、定型発達の人は、いろいろな情報を掴み、統合し、想像することが瞬時に行えます。
そのため、足し算で物事を捉えることができます。
でも、自閉症の人は、想像するという過程がマニュアルなので、どうしても足し算で物事を捉えることが苦手のように感じます。
例え、足し算していても、途中式が長く、その間で間違う可能性が高いようなイメージです。
ですから、引き算で物事を捉える方が途中式が少なく、分かりやすいような気がします。

寒くない状況を知って、初めて今までが寒かったことがわかる。
これは自閉症の人たちの視点を表したエピソードだったと思いました。
「見えないものは、ない」という捉え方は、自閉症の人たちを理解する上で大事なキーワードであることを改めて気付かせてもらいました。

2015年10月29日木曜日

長い支援ミーティングはお断り

企業の側からすると、正直、支援機関がウザいらしい。
営業時間に1時間。
長い人だと2時間くらい支援ミーティングが続き、時間がとられていく。
通常の仕事がある一方、関係がある職員はミーティングに参加しなければならない。
「時代の流れとして、障害を持った人たちにも働いてもらう意義はわかるけど、企業側のことも考えて欲しい」というのが本音。
「時間を使うということは、他人の時間を使うということがわかっていない」というご意見も、私はごもっともだと思う。
だいたい私も呼ばれる支援ミーティングは長い。
「この人達は長い時間をかけることが良い話し合いだと思っているの!?」
「他人の時間を消費しているというのが、わかっていないの!?」
と感じるようなことは多々ある。
最初の支援機関のアプローチで、「ウザい」「面倒くさい」と思われたら、かなりの躓きだと思う。

「作ったサポートブックに意見が欲しい」という依頼も結構ある。
私はビジネスとしてやっているから全部見ますが、正直、しんどいと思うことがある。
将来を見据えて、一生懸命作られているのはよくわかるが、だいたい熱心な方ほど、分量が多い。
文字だけではなく、絵や写真もふんだんに使い・・・。
企業に置いてあるようなでっかいファイルをどんと置かれたときには、ビックリした。

サポートブックは、家族が見るものではなく、支援する人が見るもの。
だから、他人が見てくれるものであるのが大前提。
何十ページもある膨大な資料を端から端まで読んでくれる人はどれくらいいるだろうか。
施設で働いていたときも、同様にサポートブックを渡されることがあったが、だいたい見ない。
すべて読んでいる時間があったら、実際に子どもを見た方が早いから。
見ることがあっても、わからないことをポイントで見るだけ。

支援者がしんどいなと思うものは、一般の人はかなりしんどい。
ときどき、一般の就職先に渡そうとする方もいますが、渡された方が困ってしまう。
一般の人はサポートブックを見ただけでプレッシャーになるし、「読んでる暇がないよ」という気持ちが先行するのが当然。
障害を持った人と働くことは選択したかもしれないが、「障害を持った人の支援者になろう」とは多くの人は思っていない。

サポートブック自体は否定しないし、自分で伝えられない人は双方をつなぐ重要なものだと思う。
でも、自分で説明できる可能性がある人は、それを目指した方が良いと思う。
私が支援に携わっている大学生たちは、みんな「どういった配慮が必要なのか」が説明でき、交渉できることを目指している。
教授に対して、「こういった配慮をお願いしたい」「こういった配慮があれば、よりよく活動ができる」と説明し、交渉してもらうトレーニングをしている。
大学の先生に対してうまく説明できなければ、一般企業で配慮を得ることは難しいといえる。
企業に就職し、「サポートブックに僕の苦手なこと、配慮してほしいことが書いてあるから見てください」と言っても相手にされないだろう。
それよりは、「自分にはこういった配慮があれば、これだけパフォーマンスが上がります」と自分で説明できる方がうまくいく可能性が高いと考える。

支援機関は支援している時間がお金になる。
しかし、その他大勢の人たちは支援以外のことでお金を得ている。
「自分のために割いてくれた時間は、相手の時間を消費したこと」という原理原則もきちんと教えていくためにも、支援者の方も相手の立場に立って支援ができるようになる必要があると思います。

正しい姿勢を「〇」「×」で教える!?

外出先で、「すぐに椅子や床に寝そべってしまって困ってます」というご依頼。
公共の場所での望ましい振る舞い方や、他人の迷惑になってしまうことを絵や文字で説明したり、良い姿勢と悪い姿勢を「〇」「×」つけたカードを作ったり、といろいろやったらしい。
それでも全然うまくいかずに、「私の支援が悪いんです」と親御さん。

その子に会ったら、一瞬で原因がわかった。
いくら構造化しても意味はない。
だって、その子、座位の姿勢が保てないんだもん。
背もたれのある椅子でも、すぐに姿勢がだらんとしてしまう。
だったら、よく公共の場所にある背もたれのない椅子なんか、座ってられないでしょうに。
特に身体面での発達の遅れもある子だったら、外出しただけで疲れちゃう。
だから、たくさん疲れるし、そもそも座位の姿勢が保てないんだから、椅子や床に寝そべってしまうのもよくわかる。
それを視覚的に見せたからってできるようになるわけないし、怒って寝そべるのをやめさせても、またすぐに元通り。

ちょっと自閉症支援をかじった人なら、絵や文字で視覚的に示せば、うまくいくと考えがち。
だから、視覚的に表してうまくいかなければ、その視覚化のやり方がわるいはずだと思ってしまう。
そもそも発達障害は、認知面だけの凸凹を言うのではない。
身体面での発達にも凹凸がある。
それなのに、なんでもかんでも構造化、視覚化。
いくら目に見えるようにしても、いくら正しいマナーが分かったとしても、望ましいように身体が動かせなければ、できっこない。

「発達障害は身体障害じゃないか」という方もいる。
私もその通りだと思うし、もっと身体面に注目して良いと思う。
以前、箸が正しく持てない子の指導で、正しい箸の持ち方の写真と悪い箸の持ち方の写真を見せるということをやっている学校があった。
落ち着いて考えて欲しい。
いくら正しい箸の持ち方が分かっても、その通りに手が動かせなかったら無理でしょ。
しかも、箸の持ち方は、実際に箸を持って練習するのが自然でしょうに。
その子は成長した今でも、正しい箸の持ち方、悪い箸の持ち方は知っているが、正しく箸が持てないまま。

食事の姿勢、勉強の姿勢が悪いと、注意したり、マナー講座をしたり、視覚化したりして指導する。
でも、そんなことしても知識が増えるだけで、実際にはできない。
だって、その姿勢ができないという理由が身体面にあるはずだから。
だったら、まずは姿勢が保てるような体幹、感覚面を発達させるトレーニングをすべき。
きちんと体幹、感覚面が育てば、望ましい姿勢になるはずです。
支援者も、頭でっかちになって頭だけ使うのではなく、身体ももっと使うべきだと思いますね。

2015年10月27日火曜日

問題の原因は、その前後の出来事"だけ"ではないはず

問題行動を前後の出来事や環境だけで原因を分析し、対処方法を導き出そうとしたら、なかなか答えが出てこない。
だって、人の行動に影響を与えるのは、その行動の前に起きたこと"だけ"ではないから。
「ある出来事→問題行動」という単線ではない。
ある出来事がきっかけには違いないかもしれないが。
でも、そのきっかけだって、本当に支援者が注目している出来事なのかはわからない。
直前の出来事がある人の声だったとしても、本人は声以外の情報に注視していたかもしれないから。

問題行動だけではなく、行動全般はさまざまな影響を受けている。
そのときの気分や体調、音や匂いなどの五感からの情報、過去の経験や学習というのもある。
また、その行動を意図的に行ったのか、たまたま行ったのか、というような違いもある。
とにかく、人の行動に影響を与える要素は1つだけということはなく、それよりも複雑な要素が重なり合っていると考える方が自然だといえる。
熱い鍋を触って、さっと手を引っ込めるような反射だったら、1つかもしれないが。
光に集まる習性を持つ昆虫とは違う生き物ですので。

そうは言っても「じゃあ、どこから手をつければいいんですか」とツッコミが入りそう。
でも、それは簡単なこと。
始めは動物的な部分に注目し、そこが整っていなければ、改善していけばいい。
快食、快眠、快便が動物の健康の基本。
そして、身体面での病気や不調、疲れ等がないかをチェックする。
身体が整っていなければ、ちょっとしたことで怒ってしまったり、衝動的な行動をとりやすくなってしまう。

問題の行動の原因が
「身体面」
「直前の出来事」
「過去の経験」
「身体面+直前の出来事」
「身体面+直前の出来事+過去の経験」
「身体面+過去の経験」
「直前の出来事+過去の経験」
というように、「身体面」「直前の出来事」「過去の経験」とたった3つの原因であると仮定しても、これだけパターンが出てくる。
実際はもっと複雑なパターンが考えられる。
だから、原因を1つでも少なくするために潰していく作業が答えへの近道である。
そこで何から潰していくかと言ったら、やっぱりすべてに影響を与える「身体面」ということになる。

昨晩、寝れなかった。
朝食もほとんど食べていない。
うんちも出てない。
虫歯がある。
風邪気味・・・
で、何の問題もなく、落ち着いて学校で勉強している方が不思議。
そりゃあ、ちょっとしたきっかけで物を投げてしまいたくなる。
それなのに、「声がけのタイミングが悪かったのでは」「課題が難しかったのでは」「クラスの子の音がうるさかったのでは」というように原因探しを始めだすと、迷路の中に入ってしまう。

快食、快眠、快便で、しかも身体面も問題なく、元気いっぱいだったのに、急に問題の行動が・・・というのなら、前後の出来事を分析したら答えが出てくるかもしれない。
(でも、ちっちゃなイライラが積もってというのもあるか)
まあ、前後の出来事だけではなく、もっと広い視野で分析することが大事ってこと。
あとは、整えられる部分があれば、そっちの方の改善を目指すことも大事です。
ですから、問題行動が起きる場所だけの問題ってこともないし、そこだけで解決しようとしても無理な場合もある。
24時間生活全般を見て、行動の改善に努めていくことが大切だと思います。

2015年10月26日月曜日

特別支援学校&学級の子ども達が行っているSSTを見て…

久しく知的障害を持った方からの新規依頼はなかったのですが、ある新規の子が始まってから、その親御さん伝えに知的障害を持った方たちの依頼が来るようになりました。
2年目以降、知的障害を持っていない方たちばかりだったのですが、久しぶりにいろいろな方と接するようになりますと、以前とは違った見え方がします。

知的障害を持っている子ども達ですので、特別支援学校&学級に通っています。
以前はあまり思わなかったのですが、「学校や家で高度なことをやっているな」と思うのです。
通常学級に在籍している子でも、「こんなレベルはやっていない」「理解できるかな」というものもあります。
教科学習の面では違いがありますが、特にソーシャルスキルに関することでは差がない、もしくは特別支援の子の方が高度なことをやっていると感じます。

こういった見え方をするようになったのは、先日行った発達援助イベントの影響が大きいのだと思います。
知的障害を持った子たちの新規が増えたタイミングで、この研修に参加できたのも、何かのメッセージがあるように自分では思っています。

正直なところ、知的障害を持った子ども達がこのような高度なSSTをやって身につくのだろうか、そもそも何を伝えられているのかわかっているのだろうか、と疑問に思うのです。
そもそも勉強していて楽しいのかな、とも。
知的障害のない子ども達でもSSTがうまくいかないことばかりです。
いくら知識として学んでも、場面が変われば応用できない、または理解しているようでも、根本の部分ではわかっていない、ということが多々あります。
どちらかというと、理解しているのではなく、形としてその場に適した言動を行っている人が多いのです。
こういったSSTは、脳の表面に働きかける学習なのだと思います。

先日の発達援助イベントでは、脳の深部に働きかけるSSTというお話がありました。
確かに、脳の発達過程から自閉症の人たちを見ると、仰っている理論がよくわかります。
脳の深部を刺激し、発達を促すことで、全体的な成長を目指していく。

「〇〇は×」の"×"は抽象的な表現です。
その子はどのくらい抽象的な概念が理解できるのでしょうか。
「こういった場合は〇〇します」の"こういった場合"を構成している情報をすべてキャッチできる力があるのでしょうか。
また、他の場合との比較するために、頭の中に複数の場面を置いておけるのでしょうか。
他人と交流する場合、他人と自分の境目がわかっているのでしょうか。
そもそも自分という存在がわかっているのでしょうか。
そして根本的な話として、知識として得たものを実際の行動として変換することができるのでしょうか。
知的障害を持っていない人たちでも、得た知識を実際の場面で行うことに困難さを持っています。
ですから、知識からのSSTではなく、実践を通して、もっと言えば、頭ではなく、身体を通して学んでいます。

知的障害を持っている自閉症の人たちこそ、情報を受け取りやすい部分から刺激すること。
そして、脳の深部に働きかける学びの方が適しているのだと思います。
「×」とか、「手伝って」とか、振る舞いとか、他の場面への般化とか、抽象的な概念を理解できる力が求められますので、かなり高度な脳力が必要となってきます。
もし般化ができない、できているように見えるがパターンとして覚えているだけ、という場合には、脳の表面からのみではなく、脳の深部から学びを始めた方が身につくかもしれません。
これからは知的障害の有無に関わらず、発達障害の人たちに対する発達援助支援はこのような流れが主流になってくると思います。
身体を使った学びは理解しやすく、子ども達にとっては「楽しい」と感じやすいですからね。

構造化で頑張らない

「この構造化、どうですか?」と、意見を求められることがある。
一生懸命勉強され、工夫し、何度も作り直している感じが伝わってくるものばかり。
家のこと、家族のこと、自分のことなど、いろいろあるはずなのに、時間を削って作った支援グッズ。
その頑張りに頭が下がる思い・・・でも、嘘をつくわけにはいかない。
もし私が「Good!」と言ったら、本人に合っていなくても使い続けるかもしれない。
また、親御さんをさらに頑張らせてしまうかもしれない。
もちろん、親御さんが頑張ることは大事だが、支援グッズを作ること重視になるのがあまりよろしくない。

親御さんの頑張りと、構造化の良し悪しは分ける必要がある。
私がよく感じるのは、「脳みそに負担のかかる構造化」ということ。
一生懸命な親御さん、または支援者ほど、脳を使う構造化、支援グッズを作る傾向がある。

自閉症支援における構造化のポイントは、学習能力を引き出すこと。
どうやって引き出すかと言ったら、分かりやすくすること。
分かりやすくすることで、脳みその負担を減らし、その分学習や活動に脳みそを使えるようにする。
何かを学ぼう、活動をしようとしても、伝えられていることが分からなかったら、それが何か読み解くだけで脳みそをたくさん使ってしまう。
そうすると、本来の学習、活動までに脳みそ疲労&余裕がなくなってしまう。

常々申し上げているが、構造化は頑張ることではない。
それは本人も、親御さんも。
本人にとっては、それがあることで、ないよりも脳みそを使う必要がなくなることが大事。
つまり、その構造化があることで、脳みそに余裕ができるのが良い構造化のポイント。

親御さんにとって自分で支援グッズを作るということは、「私は頑張ってる」というのが分かりやすいが、その頑張りがより高度な支援グッズが使えることに向かいやすくなってしまうのも事実。
ときに、お子さんを支援グッズで頑張らせてしまうことがある。
お子さんが支援グッズで頑張ってしまうと、学習や活動まで行きつかない、または本来の力が発揮できなくなってしまう。
ですから、親御さんも構造化で頑張りすぎないことが大事。

親御さんが支援グッズ作りに没頭してしまう気持ちもわかります。
毎日、子どもの成長を感じられるわけではありませんし、できたり、できなかったりを繰り返すことは良くあることですから。
だから、目に見える形で親御さんにとっても「頑張ってる」が分かるものが欲しくなるのは自然なこと。

だいたい私に支援グッズの良し悪しを尋ねられる方たちは、ダメだしされることがわかっている人たちばかり。
「褒めて欲しいな~」と思っているときは、別の人のところに行きますから(笑)
私はきちんとダメ出ししますし、その方が親御さんにとってもレベルアップにつながると思います。
また、1日の時間は限られていますし、お子さんのことだけに労力は避けません。
ですから、効率よく、正しい方向性で頑張れるように、とお話しさせていただいています。

本人の心身を安定させる手立て、より良く成長できる手立ては、支援グッズだけではありません。
脳の表面ばかりではなく、もっと脳の深部に注目することが大切だと考えています。

支援グッズ<活動のおもしろさ

週末、支援グッズをたくさん持った親子を見かけました。
イヤーマフをしていましたし、雰囲気からも自閉っ子かな。
グッズを見せながら話をしていたので、スケジュールの説明をしていたのでしょう。
男の子は落ち着かないようで、身体も、視線も、あっちこっちでしたが、お母さんが一生懸命コミュニケーションを取ろうとしているのがわかりました。

この親子の姿を目にし、学生時代のサマースクールのことがふと思い出されました。
私が学生だったのは、2000年代前半。
ちょうど高機能ブームのとき。
自閉症支援に注目が集まっていた時期で、サマースクールも「構造化しなきゃならない!」と社会人ボランティアの人たちからプレッシャーを掛けられた時期でもあります。
ほとんど勉強していない学生主体のサマースクールですから、当然のごとく自閉症支援の波にのまれていき、年々、教室の構造化、一人ひとりのスケジュール、手順書・・・と、その準備にウエイトが大きくなっていきました。
そして、その分、活動の内容がやせ細っていきました。
そりゃそうですね。
参加人数もピークのときで、100人を超えていましたから。
100人分の支援グッズ×5日分ですからね。

私はこの様子を見ていて、ずっと違和感を感じていました。
メインは支援グッズではなく、活動の充実ではないか、と。
せっかく学生ボランティアもたくさんいるんだから、一緒に目一杯遊べばいいんじゃないか、と。
そこで自分が実行委員の中心になったとき、サマースクールが始まった当初のように、活動の充実にウエイトを置くよう方向転換しました。
支援グッズは、活動をより良く楽しむための補助ですから。
そのとき、参加してくれていた子ども達は、今でも「そのときのサマスクが一番楽しかった」と言ってくれます。

休日に視覚的な手立てをたくさん持って出掛けている親子の姿はよく見かけます。
より良く楽しめるように、と思ってのことでしょう。
でも、もう少し肩の力を抜いて、せっかくの休日ですから一緒に活動を楽しむことを重視しても良いと思います。
大事なことは、支援グッズを使って余暇を楽しむことではなく、余暇を楽しむためのアイディアの1つとして支援グッズがある、ということです。
あくまで支援グッズは補助ですし、本人が自分自身で容易に利用できることがポイントです。
支援グッズを使うのに支援者の労力がたくさんいるということは、その支援グッズ自体に?がつきますし、一人で使えるように教えたいのなら実践の場面以外で身につけ、それからでしょう。
せっかくボーリングに来た、カラオケに来た、というのに、そこで「将来のために勉強しなさい」と言われたら、どんな気持ちがするでしょうか。
手帳をささっと見るくらいならいいですが(でも、手帳を自分で持ってなくて他人から見せられるならイヤ)、私なら勉強は嫌ですね。
余暇と勉強は分けた方が、脳みその負担は少ないですから。
外出から家に帰ってきたとき、疲労感よりも、充実感の方が大きい方が良いですね。

2015年10月22日木曜日

具体的な手立てを持っていない人が言うセリフ

学生時代の専攻は、障害児教育ではなく、教育心理学。
心理学というと、人の気持ちや考えなど、「相手の心の中を見る」みたいな印象を持たれるかもしれませんが、実際は心を見ようとするのではなく、行動(身体、脳を含む)を見ます。
行動を見ることによって、その人が何を考え、思っているかを予測します。
そもそも"心"って実体のないものですから、自分以外の人間は、その人の身体(脳や行動)を見るしかできませんよね。

これって自閉症支援でも同じだと思うんです。
他人からは心の中を見ることができない。
自閉症の人の中には、自分の心の中を掴むのが難しい人、表現することが難しい人もいる。
ですから、自閉症支援も"人"を支援するっていうことですから、身体から考え、身体から支援していくのが基本だといえます。

「こんなこと当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、実際の場面で遭遇するのは、心を中心に捉えている多くの支援者たち。
障害者支援は福祉との結びつきが強いからかもしれません。
また、現在の日本のオピニオンリーダーたちは、ご家族に障害を持たれた方が多いので、口では「治療、教育」と言っていても、どうしても家族としての心情が全面に出てしまうのかもしれません。
とにかく、これだけ自閉症の脳を中心とした研究が進んでいるのにもかかわらず、未だに「心を育てる」「心に寄り添う」のような講演や書籍が多いのが、"心"中心の支援を物語っていると感じます。

別に「自閉症の人、子どもの心や気持ちなんてどうでも良い」と言っているのではありません。
ただ自閉症支援はサイエンスです。
分析と仮説と根拠と結果と再評価がなくてはなりません。
「心に寄り添う」だけでは、自閉症の人たちを成長させ、自立させることはできません。
他人の心を掴むことはできませんので、支援者がいくら「心に寄り添った」と言っても、それは心に寄り添った"つもり"にしかならないのです。
支援者は抽象的な支援ではなく、具体的で客観性のある、そして一番大事な"結果が出る"支援ができなければなりません。
楽しい思い出を作るのは、支援者ではなく、家族の役割です。

私がトレーニングを受けたときも、「ストレスという見えないものを根拠にするな」と教わりましたよ。
とにかく見えるもの、確認できるもので支援を展開していけ、と。
「ストレスや心を出発点にしていたら、一生、問題行動を無くすことはできない」とも言ってました。
当たり前と言えば、当たり前のことなのですが、日本の多数派とは違うように私には見えます。

自閉症の人が学校や職場でトラブルを起こすと、「ストレスが原因だ」→「ストレスを取り除こう」という流れになります。
でも、本当にストレスが原因なのか、どのくらいの程度のストレスなのか、そもそも本当にストレスになっているのか、が確認できない・・・。
それにストレスなどの刺激がまったくない学校や職場はないのですから、ストレスを云々かんぬんではなく、本人の心身を整える方法、ストレス等に耐えられる&切り抜けられる力を身に付ける方が現実的と言えます。
ストレスのモグラたたきをしていたら、通える学校も、職場もなくなってしまいます。

不登校やひきこもり、非行も、「いじめによる心の傷」「心の闇を抱えている」などと言われますが、それは支援の手立てを持っていない人のセリフです。
きっかけがいじめや失敗、挫折かもしれませんが、それ以前に身体面のしんどさを抱えていたということも考えられます。
自閉症の人たちは、定型発達の人とは異なる脳、感覚、身体を持っているのですから。
身体的なトレーニングで変わった人や、快食&快眠&快便で変わった人もいます。

見ることのできない、確認することのできない"心"を中心とした支援は、家族や周囲の人を安心させるかもしれませんが、本人の成長、自立を確実に促すものではありません。
そして、何よりもお金を貰って支援している第三者が"何となく"支援していてはいけません。

自閉症の人たちと接していて感じるのは、定型発達の人も、自閉症の人も、みんな"心"は変わらないということです。
自閉症の人たちは心に闇を抱えているわけではありませんし、もちろん心を閉ざしているわけでもありません。
違うとすれば、身体面と思考の違い。
ですから、ここにアプローチするというのが、自閉症支援の基本だと考えています。

2015年10月20日火曜日

親子の息遣いを感じる

親御さんとお子さんが「同じ息遣いだ」って感じることがあります。
本人が落ち着きのない子だったら、親御さんも息遣いが早く、本人がおっとりの子だったら、親御さんもマイペースな方だったり、と。
親子ですので、性格が似るということもあるかとは思いますが、どちらかと言うと、お子さんに合わせて親御さんの息遣いが変わった、というのが、事実のような気がします。
顔かたちが似ていないのに、お子さんを見たら「あの方が親御さんじゃないかな」、親御さんを見たら「あの子が息子さんじゃないかな」と直感で分かることがありますね。

先日の発達援助イベントで話されていたのですが、「親御さんが固いと、子どもも固い」「親御さんに余裕がないと、子どもも余裕がない」というような気が私もします。
お子さんに指導しようとしても、なかなか受け入れず、頑なな場合、親御さんの思考や身体も固いということがあります。
親御さんとお話をしていても、緊張が強いことが手に取るように分かり、そういった方に限って、なかなか新しいことにチャレンジしてみようという気が起きにくいように感じます。

反対に、親御さんに余裕があり、「失敗するかもしれないけど、やってみましょう」というような感じでしたら、結構、お子さんも新しいことに挑戦しようとし、変わっていく場合が多くあります。
お子さんが柔軟で、何でも挑戦してみようとする場合は、親御さん自体も柔軟な考え方、前向きな姿勢が見られます。

「親御さんをどう支援していくのか」
もっと具体的に言えば
「どうすれば余裕が生まれるのか」
「どうすれば身体の緊張が取れるのか」
が今後の支援の方向性として重要で必要なことではないか、と先日の発達援助イベントで教えていただきました。

実はいろいろな依頼を受ける中で、本人の支援というよりは、親御さんの支援の方が重要ではないか、親御さんが落ちつけたら、本人も落ち着くんじゃないか、というケースは少なくありません。
実際、このような雰囲気を感じたときは、親御さんの悩みや課題の解決を優先的に行い、結果としてお子さんが落ちついた、元気になったというケースもあります。
ですから、本人や家族の息遣いを感じることが支援の入り口になる場合もあるのです。

2015年10月19日月曜日

自分の学習形態に合わせて変換できる力を養う

お昼ご飯を食べながら「1つ前のブログだけだと、誤学習させちゃう危険性アリ」と思ったので、もう少し書きます。

1つ前のブログでも書いたように、その子に合った学習形態で学ぶことは大事なポイントです。
でも、「自分に合った学習形態で勉強できないこともある!」ということは押さえておかなければなりません。
たまに、通常学級に在籍している子で「この子は〇〇という学び方が合ってるのだから、授業の形態も合わせてください」などと要求する方がいます。
確かに発達障害の子ども達は学び方が合っていないと、かなり学習効率が下がります。
しかし、通常学級にはその子以外の子ども達も在籍しています。
その子に合っていない授業形態かもしれませんが、他の子にとっては合っている授業形態かもしれませんし、環境上、発達障害の子が求める授業形態にできないという可能性もあります。

「授業形態を変えてくれないのは、学校側の問題である」
「もう通常学級ではだめだから、特別支援学級に転籍する」
というのは、安易な発想だと言えます。
自分に合わせて環境側をどうにかしようというのでは、可能性を狭めるばかりです。
ですから、私の支援では「自分の学習形態に合わせて変換できる力を養う」ということを目標の1つにしています。
例えば、文字で説明されてもわからないときは、自分で絵を描いてみる。
抽象的な思考が難しければ、具体的な物を使って考えてみる。
聴覚情報だけで理解するのが難しければ、動作をつけてみる。
一気に情報を見せられると掴みにくいならば、自分で情報を細切れにしてみる。
など、その子と一緒にどうすれば、今よりも学びやすくなるかを"変換"というキーワードを基に考えていきます。
そして、どんな授業形態であっても学び続けられることを目指していきます。

もちろん、すべての授業形態において自分に適した形態に変換できるとは限りません。
そのときは、それで良いのです。
その分、自分で勉強して補っていけば良いのです。
自分一人で勉強するなら、得意な学び方を使ってどんどん進んでいけますから。

学校でも、自分に合った学習形態で教えてくれるなら、これに越したことはないでしょう。
でも、現実は難しい。
「自分に合った学習形態に授業を変えてください」と先生に頼めますか?
そして、どれくらいの確率で応じてもらえると思いますか?
小学校、中学校、高校、大学、そして職場でも・・・。

自分の脳みそに合った学習形態を知ることが一番大事。
そして、自分に合っていない形態のときは、どうやって得意な形態に変換するかを考え、実践することと、自分自身で自分に合った形態でどんどん学習していくこと。
この3つのポイントを押さえ、子どもの頃から身に付けていくことが、将来の可能性を広げ、障害に渡って学び続けられる人間を作っていくのです。

*もちろん感覚面に対する配慮を求め、交渉していくことは大切です。

個別指導は、ただ1対1で学ぶことを指すのではない

「個別指導」をただ"指導者と子どもが1対1で学習する"ことだと思っている人がいるようですね。
「個別指導やってます」というので見てみると、「それって見張ってるだけじゃない」というのもあるし、ただ集団ではなく、ただ一斉授業ではなく、個別に勉強しているだけというのもある。
そこら辺の学習塾の個別指導と同じような感覚の人が多いのかな。

自閉症支援における「個別指導」って、もっと奥が深く、個別という意味が「集団で一斉に勉強するのが苦手だから一人で勉強します」っていうのとは違います。
確かに環境面から考えると、刺激に注意や学習効率が左右される人たちなので、刺激の少ない環境が望ましいでしょう。
でも、個別化は環境だけの配慮ではなく、学習形態についても個別化する必要があります。

定型発達の子どもなら、自分に合った学習の仕方(教わり方)では"なくても"理解でき、身に付けていくことができます。
例えば、図で指導された方が分かりやすい子でも、言葉によって説明や指導がされれば、それに合わせて理解し、学んでいくことができます。
しかし、発達障害の子どもの場合は、自分に適した学び方、教わり方ではないと、学習効率ががくっと下がります。
見て理解する学習形態の子が、通常学級で言葉ばかりで説明されているため、ついていけないということはよくあります。
私が勉強を教えている子もまさにそのタイプで、指導の仕方を変えれば、すぐに理解でき、学校の成績もトップレベルまでいった子もいます。

個別指導では、その子の学習形態を見極めることが必須です。
もっと言えば、脳のタイプを掴むこと。
計算問題は得意なのに、文章問題になるとできなくなるなんていうのは、脳のタイプを読み解くには重要な情報です。
他には漢字の読みと書きではどちらが得意か、記憶する問題と考えて答えを導き出す問題のどちらが得意か、九九を覚えるのと暗算はどちらが得意かなど、それぞれ比較すれば、見えてくる脳のタイプがあります。

また、脳の表面ばかり注目するのではなく、もっと深い部分を見ていくことも重要です。
ある子は、九九の中の4と7が出てくる部分だけ覚えられないということがありました。
そこで見えてきたのが、4(シ)と7(シチ)という発音との関係性。
その子は小さいとき、さ行がうまくいえませんでした。
小学校に上がった現在は言えるようにはなりましたが、やっぱり言いづらそうです。
ということは、うまく舌を動かせない→その部分の脳に何らかのバグがある→舌をスムーズに動かせる練習が必要ということがわかります。
この子は動作を伴って学んでいくタイプでしたので、声に出して覚えるのは一旦止め(本当は声も運動なので適した学習法はいるのですが)、九九は手で書いて覚えました。
そして、これとは別に舌をスムーズに動かせることを目指したトレーニングも行いました。
さ行と結びつく勉強があったとき、バグのせいで学ぶ力が落ちるのを避けるためです。

このように個別指導とは、その子の学習形態、脳のタイプに合わせて指導することです。
環境面の配慮も、この脳のタイプに付随することだと言えます。
ただ1対1で指導し、「個別指導をしたら成績が上がりました」というのは、もともとその子に学ぶ力があっただけです。
誰かいないと、勉強する意欲、または集中ができなかっただけ。
それまで勉強できなかった環境側によっぽど問題があったのでしょう。

集団での一斉授業についていけなかったのは、その子の学び方と合っていなかったのかもしれません。
個別指導しても成績が上がらないのは、指導側がその子の脳のタイプをきちんと分析していないからかもしれません。
学習形態に合っていないと、極端に学ぶ力が落ちるのが発達障害の子ども達です。
荒いアセスメントはいけません。
細かく細かく情報を集め、その子の脳のタイプに合った学習環境を用意するのが本物の支援です。
個別指導とは、個別に学ぶことを指すのではなく、個別の脳に合わせて学ぶことを言います。
個別の脳に合わせた指導が受けられないのなら、教科を教えるプロの一般的な学習塾に通われることをお勧めします!!

2015年10月17日土曜日

「計画→実行→反省→調整」のどの部分のサポートか?

相談に行ったら…
「それを変えるのは難しいですね」
「もう無理だと思います」
「あとは経験を積むくらいしかないですね」
と言われたらしい。
その親御さんは「相談に行っても何も変わらないし、匙投げられちゃったから、もう行かない」と言っていました。

「相談に行っても、ほとんど意味がないんですね」
と言うので、「いま、気が付いたんですか!?」と軽くツッコミを入れておきました。
相談しただけで、困った行動が無くなり、就職できるなら、こんなに困っている発達障害の人たちはいないはず。
精神疾患の人がカウンセリングを受けるのではないのですから。
だって、"発達"障害の人たちですよ。
いくら愚痴を聞いてもらっても、良い方法を聞いたとしても、脳を発達させなければ意味がありませんね。
脳を発達させるには、行動しなければなりません。
そして、その行動も習慣化する必要があります。

自閉症の人たちは、「計画→実行→反省→調整」の過程の一部、もしくは全部に困難さを持っていると言われてますよね。
だから、相談することによって、「計画のサポートを受けてます!」というなら理に適っていると思います。
でも、この場合でも実行は自分でしなければなりませんね。
実行しなければ、反省もできませんし、調整もできません。
よく「相談に行っても意味がない」とおっしゃる方がいますが、それはその通りです。
相談された方は、計画の部分の手伝いはできますが、それ以降は自分で実行しなければ、「様子を見ましょう」というしかできないのですから。
相談される方も、アドバイスしたから良くなるとは思っていないですよ。

行動することによって得られる変化や実感が、人を成長させます。
頭で考えていても何も得られませんし、何も変わりません。
社会の中で得られるフィードバックが、その人を成長させるのです。
「計画→実行→反省→調整」の一連の流れがあって初めて変化が表れます。

あなたは、どの部分が苦手で、どの部分にサポートが必要なのですか?
あなたが受けている支援は、その苦手な部分を補ってくれていますか?

2015年10月16日金曜日

「スモールステップ」という言葉にとらわれ過ぎかも

早割りチケットをとれば、新幹線の片道分の料金で、飛行機で東京~函館を往復できる。
函館から新幹線で東京に向かえば、岩手辺りで羽田空港に着き、私の場合なら仙台駅に着いた頃には、実家でくつろいでいるはず。
第一、新函館北斗駅までが遠い。
函館は市内に空港があるのだから、駅に行く、空港に行くだけで、大きな差がある。
いくら料金が安くなっても時間の差は埋められないのだから、東北に行く以外は新幹線を選択しないはず。
何故、函館に新幹線を通すことを優先したのか。
道内を結ぶ新幹線の方がニーズがあるはず。
雪が降るんだし、自動車だと時間がかかるから。

新幹線でも、療育でも、ニーズを見極めないと、時間とお金がかかって遠回りってことも出てくる。
どうせ多くのニーズがある北の最終目的地は「札幌」です。
だったら、最初から札幌を通せばいいのにね。
この前、相談があった方から個別支援計画を見せてもらいましたよ。
ツッコミどころは満載なのですが、タイムリーなのが、「靴の蝶々結びができるようになる」という目標。
だから、蝶々結びの練習をしているのかと思えば、半年間、ずっと固結びの練習を続けているとのこと。
えっ、蝶々結びが最終ゴールでしょ。
何故、固結びをやり続けるの?

最初から蝶々結びの仕方を教えてあげた方が、脳の無駄使いにならず、しかも最短の目標達成につながる。
もし、「いきなり蝶々結びをやるには指先が上手に使えていない」というのなら、それは目標に挙げること自体が早すぎるし、感覚を養うのなら、中途半端な結び方の手順を教えたいのか、指の使い方を教えたいのかが曖昧な取り組みなどせず、感覚面に働きかける取り組みをやった方が良いと思う。

いろいろな療育を見ていると、「スモールステップ」という言葉にとらわれ過ぎているように感じます。
もちろん、ステップを分けた方が、本人が理解しやすく、身につきやすいものもある。
でも、「そのプロセスはいらないんじゃない」「それって遠回りじゃない」「脳みその無駄使いじゃない」というのが目立ちます。
最終目標は何ですか?
そのプロセスを身に付けることは、本人にとってニーズがありますか?

最終目的地がはっきりしているのなら、そこに直結させる最短の道を考えましょう。
その目的地に行く前に、どうしても通らない場所があるときだけ、その場所を通るようにした方が良いです。
個別支援計画の目標だけでなく、自閉症支援全体を見ても、「遠回り」「脳みその無駄遣い」という言葉がふと浮かぶことがありますよ。
自閉症の当事者として有名になることが、その人の本当の幸せなのか。
自閉症のことを社会の人たちに知ってもらうことが、その人の本当の幸せなのか。
人生は一度きり、時間も限られています。
いつになるかわからない札幌延線を夢見ている時間があるのなら、私は車を使い、札幌に行きますし、東京には迷うことなく飛行機を使っちゃいますね。

2015年10月13日火曜日

研修報告~発達援助イベント「生きやすさを獲得する時代へ」in新横浜

昨日、函館空港を出ると、「やっぱりここは北ね」という気持ちになりました。
迎えに来てくれた妻の話では、道内では明日(つまり今日!)、雪が降るところもあるとか。
東京は朝から良い天気で、とても温かく、北海道の夏休み明けって感じでした。
飛行機で1時間半も経たないで行き来することができますが、全然気候が違いますね。

予定の変更をお願いした方たちにはお伝えしていたのですが、今回の三連休は新横浜で開催された発達援助イベントに参加してきました。
イベント名は「生きやすさを獲得する時代へ」
自閉症の人たちの身体の違いに着目したことから始まり、常に時代の一歩も、二歩も先を走る実践的な書籍を多数出版されている花風社さんが主催されたイベントです。
全国から当事者の方、親御さん、支援者が多数参加されていました。
プログラムは
①トークセッション
②コンディショニングの実技
③講演
の3部構成でした。

内容は、と申しますと、詳しく書くことはできませんね。
それぞれプロフェッショナルな方たちが持っている知識をお話や実践を通して伝えてくれたのですから。
ただどのプログラムも一貫しているのは、「脳に余裕を作ること」
胎生期の脳の発達過程(爬虫類脳→哺乳類脳→人間脳)から考える自閉脳と、脳に働きかける療育とは?
脳の余裕のなさはどのような弊害につながり、どういった部分に表れるのか?
また、どのようなアプローチをすれば、脳に余裕を生むことができるか?
などです。
個人的には、大脳皮質から上に働きかけるSSTではなく、もっと奥深くの部分に働きかけるSSTのお話と実践が特に興味深いものでした。
あと背中のお話も☆
こういったブログ等には載せることができませんが、てらっこ塾を利用されている方たちには日々の実践の中で、今回学ばせてもらったことを表現していきたいと考えています。

イベントのあとは、本格中華のお店で二次会。
部屋を二つ貸しきって、いろいろな方たちと交流させていただきました。
ツイッター上で知り合いの方たちが多く参加されており、「ああ、〇〇(ツイッター名)さんですか」という会話があちこちで聞かれました。
私は本名でやっているので、「大久保です」というと、みなさん、すぐに分かってもらいました。
ただツイッターに載せている顔が、実物よりも年齢が高く見えるらしく、名前を言った方が気がついてもらえました(笑)

当事者の方も、親御さんも、講演者も、まざっての懇親会でしたが、みんなフラットな雰囲気で、おのおのの楽しみ方をされていたのが印象的でした。
全国で活躍されている各分野のプロフェッショナルの方たちともお話しさせていただきましたが、みなさん、とにかく熱い!
そして、常に主語が自閉症の人たち。
その人たちのために、自分が何をしているのか、どうしたいのか、どうなってほしいのか、などをみなさん、熱く語っていました。
やはり人を援助する仕事をしている人間は、熱い人でなければなりませんね。
高い専門性と実績にプラスして情熱的な人たち。
疲れた顔で、死んだ目をしている支援者はいませんでした!
活き活きした目で輝いている方たちと交流でき、専門的な知識だけではなく、熱までいただいたような気がします。
私にとって素晴らしい出会いの場でした。

今回、参加できたことは、新たなステージへと進むために必要な機会だったと感じています。
より脳の深いところに働きかける療育。
そういった方向性が、よりリアルな輪郭を持ったような気がします。
まだまだ自分の専門性と実績&結果を残すことが必要だと感じた今回の研修でした。
予定の変更に応じていただいた利用者の皆さま、そして協力してくれた家族に感謝したいと思います。
本当にありがとうございました。
「是非、また参加したい」と心から思う発達援助イベントでした!
生きた言葉は、その場に行って捕まえる必要があり、新しい言葉が増えるということは視野と思考を広げます!!

イベントのお手伝いとしていらしていた方の書籍です。
文学作品としてだけではなく、幼少期の子どもの世界の見え方、捉え方がわかる良書です!

2015年10月7日水曜日

同じ文言を入れなきゃいけないの!?検査所見

どうして検査所見って、こんなに面白くないんだろう。
いろいろな方に、受けたいろいろな検査の結果と所見を見せてもらいますが、どれを見ても同じ文言が並んでいます。

第1位「視覚的な手立てが有効だと言えます」
第2位「日々の生活の中で、見通しを持たせてあげられると、落ち着いて活動できると考えられます」
第3位「マッチングが得意なので、学習に活かしていくと良いでしょう」
あとは、ジグに、手順書に、ルーティンに、環境調整に、興味関心を活かしてって感じ。

字数も限られているし、日々の業務で忙しいのもわかります。
(たま~に「どっかで見たな」という文章も見ます。上書き?参考?定型文?)
でもね、これって自閉症関係の本なら、どこにでも出てくる文言でしょ。
視覚的な手立てが有効なのは分かるから、理解するのに有効なのか、発信するのに有効なのか、学習するのに有効なのか、思い出すのに有効なのか、覚えたことを変更するのに有効なのか・・・っていうように、その人特有の"我が子感"がわかる所見じゃなきゃならないと思うんです。
だって、私、そんな当たり前のことが書いてある所見を見せられても、アセスメントが荒いから結局、細部について確かめるという作業やってますよ。
もし必要な情報がきちんと書かれていたら、すぐに指導に入れます。
これは私の仕事だけではなく、医療や教育、福祉の機関でも。
せっかく長い期間待って、せっかく長い時間と労力をかけて、すぐに活かせるような資料ができなければ、検査を受けたこと自体が"満足"になってしまいます。

検査所見が荒くても、短くても、簡易な文章でも、本当は構わないんです。
ただし保護者の方、もしくは当人がきちんと記述されていない細部まで理解できていれば。
しかし、残念なことに細部まで具体的に理解できている方は少なく、しかも書かれていることがどういう意味かまでわかっていない方も少なくありません。
これは検査者側の問題だと言われても仕方がありませんね。

はっきり言って検査するだけでは何も変わりません。
改めて検査することを通して見えてきた情報、確認できた情報をまとめ、それを実生活に活かして初めて意義が出てくるのです。
ですから、荒い情報ではなく、すぐに活かせるような輪郭を持った情報が欲しいのです。
ワクワクするような検査所見は読んでいて、会ったこともないその人が見えてくる文章です。
保護者の方や本人が説明できるのでも良いので、そんな活きの良い情報待ってます。

2015年10月6日火曜日

犠牲の上で成り立っている活動は長続きしない

日曜日は、息子の保育園の運動会があり、朝からお手伝い。
保育士さんたちは、日頃の保育だけでも大変なのに、勤務が終わってからも準備を頑張ってくれていました。
当日も早朝から集まって準備し、運動会後の片付けも遅くまでやり、次の日は朝から通常勤務の保育。
保育士さん、一人ひとりにも家族がいて、プライベートがある。
保育士さんたちには、本当に頭が下がると同時に、誰かの我慢や犠牲の元に成り立っている現状に疑問を感じます。

私もボランティアではなく、ビジネスとして自閉症支援を行っています。
ですから、労働に見合う報酬を受け取るのは当然ですし、仕事を続けていくにはお金が必要です。
でも、時折、料金の支払いをしないのではなく、渋る方がいます。
「できるだけ安い金額で」ということを言われる方もいます。

お金に余裕がないけれど、「藁をもすがる思いで」という方なら上記のような発言はわかります。
しかし、渋る方のほとんどは一般的な暮らしができている方です。
お話を伺うと、お子さんがたくさんゲームを持っていたり、パソコンを持っていたり、DVDを買ってあげたり、お小遣いをあげていたり・・・。
ということは、お金に余裕がないからではなく、支援や療育にお金を払うことに対して抵抗があるのだと推測できます。

診察、相談、療育を受けても、ほとんどお金はかかりません。
それはあくまで利用者側が。
何割か支払いをしていたとしても、大部分は税金で賄われています。
平日、児童デイを利用して月に数千円支払いをしたとしても、それ以上の何倍もの大金が税金の中から事業所に支払われているのです。
一回利用するのに、本当は一万円かかるのですよ。
私たちが一年間に払っている税金の総額はいくら??

子どもがスポーツクラブに通えば、月謝に、道具代、遠征費がかかるのは当然なことです。
塾に通えば、授業料、教材費を支払います。
じゃあ、自閉症支援や療育にお金を支払うことをためらう背景は・・・。
そのような方の中には、障害者支援は福祉が、国が担うべきことと思っている人がいるのではないでしょうか。

もちろん、この社会に生まれた人たちは、障害の有無に関わらず、平等な機会が得られるべきであり、助けが必要な人には余裕がある人から手を差し伸べる必要があるのだと思います。
しかし、支援者の力量不足、理解不足でぐちゃぐちゃになった糸をほどくのに何故、税金が使われる必要があるのでしょうか。
障害を持った人たちのより良い生活のために、早期から医療、福祉、教育が携わり、多くのお金と人員、環境をかけているのです。
そういった資源を利用している中で、ぐちゃぐちゃになったこと、身につかなかったことは、自分でお金を払ったとしてもクリアにしていかなければなりません。

定型発達の子どもが「学力を上げたい」「サッカークラブに入りたい」「ピアノを習いに行きたい」となったら、「じゃあ、税金で何とかしてもらおう」とは思わないはずです。
より高いスキルを、新しいスキルを身に付けようとしたら、私財を投じるのが世の中の常識です。
お金が払えないのなら諦めるか、現状でできる可能性を探す努力をします。
「すべてを税金で」っていうのは考え方が甘すぎますし、一般的な人たちとはかけ離れた考え方です。

多くの方に利用してもらっていますが、そのほとんどの方が当然のこととしてお金を払ってくださいます。
中には、「こんなにいろいろなことをやってくれるのに、利用料が安すぎて申し訳ない」という方も多くいます。
(例えご厚意であったとしても、決められた金額以上に利用料をいただくわけにはいかないと言うと、お菓子や飲み物、生活用品などをくれる方たちがいます←ちなみに利用料のみの方への催促ではありませんよ(笑))
上記のような渋る方はごく一部の人です。
民間はダラダラ支援を引き延ばせば、そのときはお金がたくさん入りますが、「腕が悪い」「通っても効果がない」と言われ評判を落とし、お客さんが離れていくのです。
だから、短い期間で、見える形で結果を出さなければ、結局潰れてしまいます。

民間と公的機関は仕組みが違います。
結果を出さなくても税金で助けてもらえるわけではないのです。
ですから、気持ちよくお金をお支払いください(笑)
支払った金額に見合わないサービスだったら利用しなければ良いのです。
そのために相談等は無料にし、しっかり納得し、合意してからでなければ、お金はいただいていないのです。
「お金はかからないけれど、選択肢がない」というのは、当事者の人たちのためにはならないと思っています。
犠牲の上で成り立っている活動は長続きしないというのが、私の意見です。

2015年10月5日月曜日

情報クレクレ詐欺

同じ地域で支援に携わっていると、依頼のあった子を担当しているのが私の知り合いということも出てきます。
別の機会で出会っていた人や、前の仕事での知り合い、学生時代の先輩、後輩、中には友人もいます。

プライベートでいくら仲良くても、以前にお世話になった人であっても、私は仕事の上ではプロとして接するようにしています(当たり前か)。
良いものは良いと言い、間違っているものは間違っているとはっきり言います。
お金を貰って仕事をしている以上、なあなあで仕事はできません。
当事者にとっては、私とその人が仲良かろうとも、お世話になった間柄だろうとも関係ないからです。
必要なのは、当事者の方にとってより良い未来のお手伝いをすること。

「別にそこまでビビらなくても良いのに」と思うくらい、大久保に支援を依頼したと言われると、構えてしまう人がいるそうです(笑)
「大久保さんが支援するようになってから、ピー(自粛)が一生懸命話を聞いてくれたり、取り組みをやってくれるようになりました」
なんて言う報告もいただきます。
できるんだったら、最初からやれよ!(笑)

あと、根掘り葉掘り、どういった取り組み、支援を行っているのかを尋ねてくる支援者もいるそうです。
私は、支援グッツ、教材、手だて、内容、評価など、保護者の方にお渡ししたもの、提供した情報はすべて伝えてもらって構いませんと言っています。
というか、どんどんしゃべってくださいと言います。
せっかくお金を出してまで、支援を受けているのだから、そこで得たものは活かさなければもったいないです。
良いと思ったものは、どんどんパクってもらえば良いですし、間違っていたら言ってもらえた方が助かります。
だって、そっちの方が当人のためになるから。
同じ支援者という立場であっても、立場や環境が違えば、意見が異なるのも当然です。
ですから、意見をぶつけ合ってより良い支援を組み立ててくプロセスが大事になってくるのにね。
情報をくれくれという割には、情報はくれないし、見学もNGっていうのは何故??
個人的には、知り合いの立場を利用し情報を得ようとするので「クレクレ詐欺」と呼んでます(笑)

学生時代、ぜんぜん勉強してなかったのに、障害を持った人のボランティア活動もやる気がなかったのに、おうおう偉そうなこと、いっちょまえに言ってるじゃんってこともあります。
そういったときは、その知り合いに「素晴らしい考えだと思いました」と褒めるようにしています。
そうすると、次の日から一生懸命頑張ってくれるので助かります。
こういうときのために、学生時代はしっかり勉強し、ボランティア活動も頑張ってきてよかったと思います(笑)

せっかく同じ地域で、同じような支援をしているのですから、お互いが学び合い、高め合えば良いと思うんですけどね。
なかなかうまくいかないです。
教えるのは好きだけど、自分が教わるのは嫌いな人が多いみたいです。
あと、せっかく海外まで行って勉強してきたのにもかかわらず、自分の思い描く支援とその仕組みでしかやりたくない、認めないというのももったいないですよね。
障害を持った人たちの多様性は大切にするのに、支援者の多様性は・・・(以下自粛)

それぞれの支援者が、それぞれ担当している場だけうまくいけば良いやみたいな雰囲気を感じてしまう私たちの地域。
これは全国的に言えることなのかな。
今度の日曜日、全国の修行系当事者&支援者が集まる場があるので、聞いてこようと思ってます。

2015年10月3日土曜日

ボーリング場に着いたら、ただ投げるだけ

ボーリング場に着くと
自分の足のサイズに合った靴が渡され
すでに自分の名前が登録されているレーンに移動し
用意されているボールを手にし
とにかく投げる
すべて投げ終えたあとは
ボールと靴を片づけ、帰る

これって「ボーリングをやった」と言えるのだろうか?
これって将来、余暇としてボーリングを楽しめることにつながるのだろうか?

普通、ボーリング場に行ったら、申し込みや支払をしなくてはならないし、混んでいたら待たなくてはならない。
それなのに、何でもかんでも事前に済ませておいて、子ども達は何もしない。
ストレスフリーかもしれないが、これでは将来に活きた学習にはならない。
ただ球を投げるだけだったら、別にボーリング場に行かなくても良い。

中には、すべての行程を一人で行うことが難しい子どももいるだろう。
でも、お金を渡す、シートに名前を書く、靴のサイズを伝える、静かに待つなど、何かできないだろうか。
何かできるようになる可能性がないだろうか。
一人ひとり目標があるはずなのに、セレブのような"すべて周りがお膳立て"っておかしいと思う。

別の子の話だが、修学旅行で本州に行くとのこと。
その子のしおりを見せてもらった。
なんとつまらないしおりだろうか。
学年にはいろいろな子がいるのに、みんな同じしおり。
それも「何時にどこそこ」「バス」「飛行機」という文字と絵だけ。
せっかく旅行に行くのだから、乗るバスの時刻や行き先、料金だって自分たちで調べさせればよいのに。

どこで食べるかだって決められるくらいの空白があって良いんじゃない。
食べる場所が決まっているのは仕方がないとしても、もうすでに注文するメニューが決まっているってどういうことだろうか。
ホテルや見学する場所などの住所を地図で調べたら、初めていく土地のより具体的なイメージがもてるし、将来、旅行を計画する力を養う機会になるんじゃないだろうか。

上記の2人には、改めて勉強しなおしましたよ。
せっかく機会があるのに、そこで学べないのだから、別の機会にやるしかない。
私が言うのもおかしな話だが、やるべきところがやらずに、わざわざお金を払って改めて勉強するのってどうだろう。

支援者の言い分も分かる。
何かあったら困るし、とにかく無事に効率よく終えたいという気持ちが全面に出てしまうのだろう。
でもね、こういった支援を目にするたびに、私は「どうせ将来、一人でできることなんて無理だ」という諦めに近いような気持ちがあるのだと思ってしまう。
ある学校の教員が「どうせ、この子たちは一生誰かの世話にならなくてはならないんです」と言ったのを覚えている。
少なからず、自分に能力のない支援者はこのような考え方の人が多いのだと思う。

しかし、ただ経験すればできるようになるという人たちではない。
自然に、自分たちで適切に学び、スキルを身に付けることができない子ども達かもしれないが、1つ1つ学べば、成長できる可能性を持った子ども達である。
それには普通の子どもよりも、さらに多くの労力がいる。
でも、それを満たすために、少ない人数に職員が配置できるようにしているのではないか。
それが特別支援教育ではないのか。

至れり尽くせりは、子ども達のためにはならない。
それは、ただ決められたことをこなしているに過ぎないから。
それでは勉強にならないし、将来に活きてこない。
子ども達がより良く学べるように支援者がいるのだ。
自分たちの仕事がより効率的にこなせるように、子ども達がいるわけではない。

2015年9月30日水曜日

自然な姿への変化は支援の転換期

ふと、「あっ、ナチュラルになったな」と思う瞬間がある。
昨日もそんな感じだった。
1年くらい支援に携わっている学生さんだが、昨日はどこにでもいるフツーの若者に見えた。
1年前は、ガチガチの自閉症の人って感じで、身体の動きもぎこちなかった。
初対面のとき、遠目からパッと見て、すぐに自閉症の人だとわかったくらい。

ちなみに私は姿を一瞬、見るだけで、自閉症の人を見分けるのが得意です。
履歴書の特技の欄に書きたいくらい(笑)
結構の確率で当たる。
こちらも「科学的な根拠はない!」と言われるかもしれないが、自閉度の重さもだいたいわかる。
学生時代から、とにかく一人でも多くの自閉症の人と関わることを目標にし、幅広い世代の人たちに出会ってきた。
あと、「脳が違うのだから、その違いは身体に必ず現れる!」という信念のもと、若いときから姿を見るだけで、どうにかアセスメントできないかと訓練してきたのもある。
私の仕事は、短い時間でより多くの情報を得るのが必須だから、そういった意味では無駄ではない訓練だったと思っている。

話が横道に逸れてしまったが、「ナチュラルになった」というのは、その人にとっての大きな転換期だと捉えている。
硬さが取れるというのは、脳みその硬さが取れるということ。
脳に余裕ができると、どんどん新しいことを吸収できるようになるし、他人の意見や環境からの刺激など受け入れられるものの幅も広がっていく。
こうなれば、支援がなくても、本来その人が持っている成長するパワーが目覚め、勝手に成長していく。
自閉症は発達障害なのだから、発達を阻害しているものを取れば良いでしょっていうのが、私の支援に対するイメージ。
阻害しているものが取れれば、あとは自然に成長していくだけ。

「ナチュラルになった」からと言って、自閉脳でなくなることはないだろう。
でも、自閉脳ゆえの硬さが取れれば、生きやすさと成長につながっていくと思う。
だから、この状態になることを1つ大きな支援の目標とする。
別に「定型発達の人と同じように普通を目指しなさい」という意味ではない。
自閉脳のままで、どう硬さを取るか、また脳を柔らかくし、どのように余裕を作っていくか。

昨日の学生さんも、これからどんどん学び、成長していくだろう。
それは学問だけではなく、社会で生きていく上で必要なことも。
そうしていくうちに、脳自体も変化していき、将来的には社会の中で障害者としてではなく、一人の人間として生きていくのだと思う。
これは支援を転換させるときが来たという合図。
そろそろおじさんの出番はおしまいかな。

2015年9月29日火曜日

教科書が土台となる

教科を教えることが増えたので、今、子ども達が使っている教科書を見る機会が増えた。
今の教科書は、ただ覚えるのではなく、子ども達に"考える"ことをしてもらいたいのだというのがわかる。
私は教科書を熱心に読んだ記憶はないし、宿題以外は教科書を開いた記憶はない。
家庭学習は通信教材と塾がほとんどだったから、あまり教科書の大切さは感じていなかった。
でも、今、子ども達の教科書を見せてもらうと、将来の勉強につながる基礎基本が凝縮されたものが、学校の教科書であることに気が付く。

子ども達の教科学習も行っているが、そのとき、大事にしているのが、教科書の内容を理解できるようにすること。
もちろん、依頼があるのだから、学校の授業についていけない子ばかり。
でも、教科書が理解できないと、いくら将来頑張っても積みあがっていかなくなる。
これは進学の可能性が低くなるということだけではなく、自立して生活することも難しくなることにつながる。
読み書きそろばんができないと、いくら人柄が良くても、特技があっても、自立的な生活を営むことはできない。
今の社会は、"基本的な読み書きそろばんができる"という前提で構成されている。
だから、応用問題や難しい問題ができなかったとしても、社会で自立して生きていく上で大事な基礎を教えてくれる教科書の内容が理解できることが大きな目標になる。

よく「漢字が読めなくても、パソコンやスマホを使えば、調べられて困ることはない」とか、「計算ができなくても電卓を使えばよい」などと言う支援者もいる。
私が受けたトレーニングでも、代替手段の有効活用について教わった。
言葉が出ない人、うまく表現出来ない人に対しては、絵カードや電子機器を使い、コミュニケーションの指導、支援を行っていくことを学んだ。
しかし、トレーナーの人たちが重視し、強調して教えてくれたことは、「代替手段を使うことが大事なのではなく、前提となる"人とのやりとりがしたい"という気持ちを養う」ということである。
「コミュニケーションマインド」をどう育てていくかである。
つまり、コミュニケーションとは相互交流であり、その相互交流を行う気持ちを育てていないのに、情報のやりとりの仕方を教えても、それは機械的に行動しているだけになってしまう。

パソコンやスマホ、その他の電子機器、その人の生活の質を向上させるものであったら、どんどん使っていけば良いと思う。
でも、前提となる基礎基本の部分の学習ができている必要があり、これを抜きにいくら代替手段が使えるようになっても、それは動作を身に付けたという他ならない。
買い物に行ったとき、計算機を使って合計金額がわかったとしても、何故、合計金額を求める必要があるのか、そもそも何故、引くではなく、足すなのか、どういう計算をすれば良いのかが分かる必要がある。
ボタンを押して機械が代わりに言葉を発してくれたとしても、コミュニケーションとは相手との相互交流であること、つまり一方通行ではないこと、相手にも気持ちがあることを知らなければならないし、一番大事なことはその人自身がコミュニケーションをしたいという気持ちを持っていなければならない。

いくら代替手段が豊富になり、便利なものが増えたとしても、基礎基本は学んでおく必要がある。
重い知的障害を持っている人の場合は、行動でも良いから代替手段を使って、少しでも生活の質を向上させるということは、本人にとって有益な支援の方向性だといえる。
しかし、そういった人ではない場合、安易に「代替手段を使えばよい」というアドバイスは、結果的にその人の生活の質を向上させることにはつながらず、学びの機会を減らしてしまう危険性もあるので、この点はしっかり押させていく必要があるだろう。

2015年9月27日日曜日

できない理由が「自閉症だから」なのか?

自閉症の人が"できないこと"って何だろう?
空気が読めないことかな。
でも、気遣いができる自閉症の人もたくさんいるし、定型発達の人よりも礼儀正しく、場を穏やかにしてくれる人もいる。

じゃあ、うまくコミュニケーションがとれないこと。
もちろん、"ことばの遅れ"が診断基準にも入っているくらいだから、苦手な人は多いし、言葉がでない人もいる。
でも、経験を重ね、練習を続けていけば、他人とコミュニケーションがとれる人もいるし、言葉がなくても、代替手段を使って意思の疎通を行える人もいる。
"うまく"コミュニケーションがとれない人はいても、まったくコミュニケーションがとれない人はほとんどいないと思う。
もしいるとしたら、それは知的障害などの他の障害が背景にあると考えられる。

ある事柄ができない理由を「自閉症だから」というように、あたかも自閉症がある上にできない、というような発言に抵抗を覚えてしまう。
自閉症だからできない!?
自閉脳だからできないことって、どれくらいあるのだろうか?

感覚の過敏性や鈍麻、こだわりやパターン化を好むという特徴は、"できないこと"とは違う。
自閉脳ゆえに、定型発達の人よりも極端に強く見られる傾向。
聴覚過敏なために、騒がしい人混みの中にいるのが辛いということはあるが、耳栓等の方法で対応できたり、心身が安定しているときなら聴覚過敏が穏やかになり、そのような中で過ごすことができる人もいる。

計画を立て、実行することが難しかったり、"瞬時に"状況判断することが難しかったりする人も多い。
自閉脳は複数の情報を同時進行で処理することが苦手なので、このような場面で困難さを持っている人も多いが、補助する機器や工夫、トレーニングによって可能になってくる人もたくさんいる。
だから、定型脳のように複数の情報を同時に、かつ瞬時に処理することができなくても、行動自体はできる可能性があるといえる。

このようにグダグダ書いてきたが、私が言いたいのは「自閉症だからできない」という発言は、往々にして"正しくない"ということ。
そういった発言をする人は、自閉症の知識が乏しかったり、間違って覚えていたり。
また、エクスキューズとして言っている場合もある。
代替手段や工夫、トレーニングをした上で、本当に「できない」と言っているのか、はしっかり見極める必要がある。

私は「自閉症だからできない」のではなく、「自閉症だからプラスαの困難がある」という方が実態に合っていると思う。
感覚の違いから、常に緊張状態で疲れてしまう。
複数の情報を同時進行で、瞬時に処理できないから、その分理解し、処理するまでに余分なエネルギーを使ってしまう。
また処理する過程の中でエラーが生じやすくなってしまうために、誤学習や未学習へとつながってしまう。
自閉症だからこそ、余分なエネルギーを使い、また誤学習や未学習の可能性を高めてしまう。
だからこそ、心身の安定、脳を楽にする方法、きちんと誤学習を正し、未学習の部分は改めて学習することが大事だといえる。
「自閉症だからできません」という言葉は、周囲に誤解を生んでしまう危険性があり、また支援の方向性を誤らせてしまう可能性があると感じている。

2015年9月26日土曜日

会話の中で省略されている言葉

会話の中に省略されている言葉って結構ある。
「なんで?」
「どうして?」
「何を?」
「やっといて」
「お願いします」
「よろしく」
などなど。

定型発達の人だったら、過去の経験や状況、ノンバーバルコミュニケーションから瞬時に省略されている言葉を想像し、判断することができる。
しかし、自閉症の人が同じように行うのは難しい。

昨日、このような課題を持つ人と一緒に勉強をした。
「言っている意味がわからないことがよくあるんです」と言う。
だから、私は定型発達の人がどのように対応しているのかを、上記のように頭の中で行っている処理方法について教えた。
そのあと、オートマチックにできないのだったら、マニュアルで対応していく方向性でいこう、と話し合った。

相手が言っている意味が分からなかったら、その省略されている言葉を自分で補えばいい。
「"なんで"っていうのは、ここまで移動してきた手段のことですか?それとも、来た理由ですか?」などと尋ねるのも1つの手段。
そうして経験を積んでいくうちに、省略されている言葉のパターンがつかめてくる。

別に、定型発達の人のようにオートマチックで行うことを目指す必要はない。
定型発達の人が同時進行で行う処理を1つ1つ分解して潰していくのも構わない。
相手が今、何をしているのか?
直前に、どんな会話をしていたか?
顔の表情は?
過去のやりとりでは、どんなパターンが多かった?

ただ昨日も、例外として勉強したのが、自分が過ちを犯してしまった場合の「なんで?」は、そのやってしまった理由を尋ねているのではなく、謝罪が求められているということ。
相手が怒って「なんで?」と言われて、その理由や犯行の一部始終を話せば、火に油を注ぐ結果となる。
たとえ、理由を尋ねられていると思っても、怒られているときは、最初に「すみません」「ごめんなさい」から始めるのがルールということも学んだ。

定型発達の人と同じようにできないのだから、配慮してほしいというのもわかる。
でも、それはいろいろな対応方法を試してみてからでも良いと思う。
行うべき作業を1つ1つ分解してみると、案外、自閉症の人でもできることはある。
昨日も勉強したあと、「明日から実践してみます」と言っていた。
「配慮、配慮!」だけが、自閉症の人たちの幸せにつながるとは思わない。
「どうにかその人の持っている力を活かして対応できないか」という視点を持つのが、真の支援だと私は考えている。
自分で省略されている言葉を補って答えたものの、会話の意図とは違ったとしても、だいたいの人は「意図が伝わらなかったな」と思い、分かりやすいように尋ねなおしてくれますから。

2015年9月25日金曜日

夏休みの課題

昨日から始まった大学の後期。
今日から私も、大学での支援再開です。
約2か月ぶりに会ったのにも関わらず、顔を合わすと同時にプロ野球の話題に。
確かにセリーグは大混戦で面白いけどね(笑)
話したいことがたくさんあった模様。

後期が始まって早々、夏休み前にみっちり1か月間行ったトレーニングの成果がみられた。
他の学生とのコミュニケーションが円滑に行われていたし、グループワークもちゃんと参加し、協働して課題を完成させることができていた。
また、なかなか言えなかった"困ったときのヘルプ"もできるようになっていて、事前になんて言うかをノートに書いてから、そのメモを見ながら伝えていた。
曖昧な課題を自分がわかるように、どう具体的に変換するか。
ノンバーバルコミュニケーションの理解の仕方など、トレーニングで一緒に作り上げた方法を実践の場で活用することができていた。
やっぱり大学に入れるくらいの実力がある学生さんだから、障害ゆえの"できない"ではなくて、未学習だけだったのだろう。
この調子で苦手意識を成功体験で上書き保存してほしい。

こういった様子を見ると、自閉症の学生さんに対する合理的配慮は、過敏性などの感覚面での配慮を除いては、未学習、誤学習を修正し、トレーニングしていく方が実態に合っていると思う。
テストの時間を伸ばしたり、並んでいる順番を変えたりするのではなくて、どうしたら時間内に完了できるか、並んでいる間の時間をどのようにして埋めるのかを一緒に考え、トレーニングしていく方が良いだろう。
そっちの方が、社会で働き、自立できる可能性を広げる支援である。

夏休み前、「夏休みだからこそできる学びをしよう」と課題を出した。
「自分はコミュニケーションが苦手で、同級生と接するのも苦手だから」と言って、本を読むことと、地域のボランティア活動に参加することを自らの課題とした。
その通りに実行してくれたようで、今まで論理的な本しか読まなかったが、小説や自己啓発本などを読み、実家のある地元の地域の人たちと清掃活動などに従事したとのこと。
そういった大学外の経験も、若者の心身を鍛え、自信を養ってくれるのだと思う。
色白だった学生さんが、少し日に焼け、夏休み前よりも凛々しい顔立ちになっていた。
自ら心身を整えられ、成長していける段階まで行けるようになったのなら、私の役割は終わりが近いのかもしれない。
その日を楽しみに、後期も大学へ行こうと思っています。

2015年9月24日木曜日

それって事前の市場調査とか、ちゃんとやってる?

秋は毎週のように講演会や研修会が行われますね。
私のところにも、いろいろな案内がきますが、どうもビビッとくるものは・・・。
このように考えている親御さんや支援者は少なくないようで、どこも人が集まらず苦戦しているという話を聞きます。
ということは、端的に言って、主催者側がニーズを捕まえきれていないという証拠でしょう。

こういう講演会や研修会は、毎年、予算が確保されていて、話し合いの中心は「誰を呼ぶか」ということになります。
年々、参加者が減ってきているので、「できるだけビックネームを」という方向性にまとまる。
(でも、本当は"ニーズの違い"なのに)
ですから、「こんな地方に、とてもお忙しいであろう人が・・・」という方がわざわざ来ます。

わざわざ、しかも著名な先生が来るからといって、こちら側はわざわざ行こうとは思いません。
自閉症に関する新しい知識だったら、ネットや本で得ることができる時代です。
売り文句に「話が面白い」「本をたくさん書いている著名な先生」などの常套句が並びますが、面白い話を聞こうと思えば、噺家さんの方が良いですし、著名な人だったら芸能人やアスリートの方が好きです。
(こういった文言を目や耳にすると、主催者側と参加者側の"隔たり"を感じちゃいます)

第一、私は日々、実践する立場。
自閉症理解の話や社会を変えていこうという話、当事者の方のお話をわざわざ聞きに行こうとは思いません。
即、実践に活かせるのかが大事なポイントですし、当事者の方のお話は日々、聞いていますので。

10年前と比べて、自閉症に関する知識、療育の手法は手に入れやすくなりました。
また、当事者の方の話も珍しくはなくなり、いわゆる"当事者本"もあまり発刊されなくなりましたね。
つまり、世の中の関心は、ただの"自閉症の理解"の段階から、「どうすれば、成長できるか」というような成果の出る実践方法へと移っているのだと思います。

「自閉症の特性や、療育の方法はわかった。じゃあ、我が子が成長し、自立していくにはどうすれば良いの?」というのが、今の世の中のニーズでしょう。
だって、自閉症、発達障害を持った人の中に、困難を克服した人や就労し、社会で活躍している人、結婚し、出産し、子育てをし、定型発達の人と同じように生活している人たちがいることがわかったから。
"自閉症は一生治らない"から福祉や社会の理解を求めようという流れに、「ちょっと待って、自閉症のままで自立して生活できている人たちがいる!」とわかれば、どうしてそれが実現できたのか知りたくなるのが自然な流れです。

どんな商売であったとしても、市場調査は大事ですね。
「著名人を連れてくれば、人が集まるだろう」というのは、貴重な時間とお金を出すお客さんに失礼だと私は思います。
貴重な時間とお金を出す側は、それに見合う対価を求めます。
普通の人がボランティアでやったイベントに、多くの人がわざわざ足を運んでいることもありますよ。
講演会だろうと、地域のイベントだろうとも、「わざわざ出かける価値があるのか」という問いかけに答えを出さないものには、人は集まらないのです。
ニーズは時代によって、刻々と変わっていきますので、それを掴むことが成功の道だと思います。
ちなみに、この秋は1つだけ足を運ぼうと思います。
それは地元ではなく、飛行機に乗っていく場所。
時間も、お金もかかりますが、それくらい価値のあるものだと考えています!

2015年9月18日金曜日

成長とは、良い方向へと"変わった"こと

あれだけずっと「行きたくない」と言っていた保育園に(笑)、起きたらすぐに「保育園に行きたい」と言うようになった息子。
何があったかと言えば、鉄棒でくるっと回れるようになった。
運動会が近いので、保育園で鉄棒の練習が始まった中、同級生よりも早くにできるようになったらしい。
やはり自分の身体を通して得られた達成感のインパクトは大きい。

まだ幼い息子だが、「できた」という実感があったのだろう。
鉄棒が回れなかった自分から、鉄棒で回ることができた自分に変わった。
「できた」という実感は、自分が変わったことで得ることができるのだと思う。
(年度が替わり、1つ大きなクラスに変わったときも、気持ちの面での大きな成長を感じた)

「成長する」ということは、「良い方向へ変わった」と言い換えられる。
つまり、変わったことがわかるから、自分自身で成長したと感じることができる。
もし、自分自身で変わったところが分からなければ、いくら周りから「できるようになった」「成長したね」と言われても、実感することはできないだろう。
それは、ただのコミュニケーションになるだけ。

自閉症の人の中は、自分自身の成長を掴みにくい人もいる。
何故なら、"変わる前の自分"と"変わったあとの自分"を並列させ、その差を認識し、変わったことを理解したうえで、成長を感じるから。
しかも、成長とはポジティブな変化であって、ネガティブな変化のことではないから、方向性も大事でその辺の適当な認識も必要になってくるから。

自分の成長を実感できることは、誰にとっても明日へと生きる力となる。
だから、私が支援するときも、成長を実感してもらえるような工夫をする。
ある人は支援開始時に写真を撮り、またある人は成果物をファイリングする。
そして、自分自身で日記を書いてもらったり、評価してもらったりする。
すべて将来、見返しができるように。
変わる前の自分を脳みその中から取り出しておく。
これで自分の変化を比べるときに、複雑な思考をしなくても済むし、脳のスペースを空けることにもなるし、より成長を感じやすくなる。
しかし、ここまで必要のない人に対しては、明確な課題を設定することで、より自然な形で成長を感じてもらえるようにしている。

この頃、発達障害で、かつひきこもりの人と会うことが多い。
ただでさえ自分の成長を掴みにくい人なのに、変化のほとんどないひきこもりの状態が続けば、どんどん生きる力が失われていくのも当然なことと言える。
ひきこもりの期間が長ければ長い人ほど、変化、成長を感じる経験ができず、「自分なんていても、いなくても、変わらない」という思いが強くなるように感じる。
このような方たちの支援に携わるときは、より変化、成長を意識し、本人が少しでも実感できることに重きを置いています。

2015年9月15日火曜日

紹介はしても、お勧めはしません

今日で9月もちょうど半分。
9月に入ってから動きが多くなっています。
利用してくれていた人が卒業したかと思えば、新しい人がどどっと入ってきたり。
契約更新、業務提携、学習会、会議というように、利用してくれる人、支援に携わる側の人との交流が活発になっています。

これまでは、利用してくれている方たちから宣伝してもらうことがメインでしたが、近頃は宣伝をお願いされることが増えました。
気が付いたら、てらっこ塾も3年目。
私よりも後にできた機関が増えてきたので、そちらの方から見学やアドバイスを求められ、訪問することもあります。
でも、私が宣伝しても効果があるかな(笑)

函館を中心としたこの地域は、道内の中でも保守的な地域と言えるでしょう。
しかも、戦前から障害者支援を行ってきた老舗もあり、そこを中心として地域が形作られてきたという歴史もあります。
なかなか新規が入りづらい地域性と環境があるので、私も新しくできた事業者には頑張ってもらいたいと思っています。

しかし、相談や助言すること、新しくできた機関を地域の人に紹介することはできても、お勧めすることはできません。
何故なら、実力が分からないものを大事な私の利用者さんに紹介して、満足が得られる支援ではなかったら、私自身の信用にも傷がつくからです。
第一、ヒットを打ったところを見たことがない人を「良いバッターだ」と言うことは私にはできません。
いくら「私はやる気もあって、ヒットが打てます」と言われても。

同じように時折、「働かせてください」なんて言われることもありますが、"信用"の部分を考えると、断るしかありません。
てらっこ塾は、本来なら即潰れてもおかしくない企業です。
しかし、一人ひとりの依頼に対して満足してもらえるように、また期待値以上のサービスを提供することで、今があります。
どんな球が来ても、ヒットを打ち、それを続けることでプレーすることができています。
つまり、てらっこ塾がこの地域で潰されず、存続できている理由は信用です。
大きな母体、バックアップの人物がいないてらっこ塾は、ヒットが打てなくなれば、即信用がなくなり、消えてなくなります。
今までいただいてきた信用を壊すわけにもいかず、また信用を大きくしていくためにも、自分自身がまだまだ修行の最中です。
ですから、(もともと給料も払えませんし(笑))人様を雇う気持ちはありません。
まあ、学びたい人がいれば、それには応じていますが。

新規の事業者の方や若者とお話をすると、起業したての頃や施設で働いていた頃の自分を思い出します。
あのときの自分は、こう見えていたんだなと(笑)
年齢を重ねて、1つ言える確かなことは、やる気と経歴と肩書は、クソも役に立たないということ。
今時、持っている情報量だったら、専門家も、素人も、大差はありません。
違いが生まれるとしたら、"結果"が出せるかどうか。

結果が出なければ、公的機関も、有名なお医者さんも、批判される時代です。
「〇〇という機関で定期的に支援が受けられているんです♪」
「〇〇という有名な先生にみてもらってるんです💛」
というような名前や肩書で満足させられる時代は、とっくに終わりました。
結果で見られる時代になれば、てらっこ塾も勝機が出てきました。
信用という後ろ盾を得ながら、果敢に勝負していきたいと思っています。

2015年9月14日月曜日

その人は認めても、その状態は認めてはならない

アウトリーチ(訪問支援)という仕事の性質上、不登校やひきこもり状態の人からの依頼がある。
また、今年度になって、不登校の子が学校に行き始めたり、長年、ひきこもり状態だった人が新たな道へ進み始めたりしている人が数名出てきたので、その話を聞いて、別の人からの依頼が続いている。

不登校やひきこもり状態の人とお話をして感じるのが、みんな今の状態で良いと思っていないということ。
「学校に行きたくはない」「社会に出るのが怖い」などと言うものの、やっぱり自分でもこのままではいけないとわかっているし、どうにかしたいと考えている。
でも、どうやったらいいか分からない、という状況の人が大部分です。

よく不登校やひきこもり状態の人に対して、「受け入れましょう」「認めましょう」などと、アドバイスする人がいる。
確かに、不登校やひきこもり状態であったとしても、その人のことは受け入れ、認めることが大事だと思っている。
しかし、人のことは受け入れ、認めたとしても、「不登校やひきこもりの状態」は受け入れたり、認めてはいけないと思う。

何故なら、私が会った多くの本人たちは、今の状態から脱したいと願っているから。
そういった状態を本人たちは抜け出したいと考えているのに、周囲が「そのままで良いんだよ」というメッセージを与えてしまったら、どうなるだろうか。
みんな抜け出すための梯子が欲しいのに、「その場所でいて良いから」と言われたときの絶望感はない。

「本人は何も言わないし、今のままで良いようなことを言ってます」という保護者の方からのコメントは、山ほど聞きます。
しかし、それはどうしたら良いか考えられる状態ではないということであり、そのため、変わることが怖いということ。

私の専門は、自閉症、発達障害の人なので、依頼がくる不登校、ひきこもりの人はほとんど診断を受けている。
過去の失敗が印象強く記憶されたり、今後どうしたら良いかを考え、計画し、実行していくことが苦手な人もいるので、ここは自閉症の知識が必要な部分である。
不登校やひきこもりになった原因は、自閉脳ならではの要素もあるので、そこを読み解きつつ、今後、どうやって今の状態から変わっていくのかを考えていく。
そうやってきめ細やかな支援があれば、彼らは成長し、変わっていけると思っている。

親より長生きするのは子どもであり、親がなくなってしまえば、ひきこもり続けることはできなくなる。
だからこそ、不登校やひきこもり状態は受け入れても、認めてもダメ。
後々、困るのが本人たちだから。
親が元気なうちに適切な支援を受け、新たな一歩を踏み出す必要がある。
そして、地域のため、社会のため、若者たちの力を活かしてほしいと願い、新規依頼の人の支援も行っていこうと思っています。