2015年2月26日木曜日

ADHD=多動性が原因?

ADHDの男の子。
学校の授業中、席に座っていられなくて、離席や教室からの飛び出しが日常茶飯事とのことでした。
学校の先生も注意して指導(?)しているのだけれども行動は変わらず・・・。
お母さんは半分諦めの状態でした。

その子の座っている様子を見てみると、気が付くことがありました。
常に足はふらふら状態で床にしっかり足の裏をつけていることがなく、姿勢も猫背で、かつ右側に傾いていました。
お母さんの話では、運動は得意とのこと。
でも、片足立ちをしてもらうと、しっかり立っていることができずにふらふら揺れるし、1秒くらいでバタッと倒れてしまっていました。
なんとか片足立ちできたとしても、背中をまっすぐにすることはできず、頭が後ろに傾き、重心が後方にずれていました。

こういった様子を見て、私はADHDの"多動性"というよりは、姿勢が保持できないという身体機能面が影響しているのではないかと考えました。
姿勢が崩れた状態で椅子に長時間座っていると、しんどいに決まっていますよね。
しかも、猫背で縮こまっているなら、その反動で自然に身体を伸ばすもの。
それが離席として現れていると想像しました。

支援の方向性としては、変な部分に緊張が見られるので、身体を緩ませることを学ぶこと。
足の裏の使い方が未発達なので、下半身がしっかりするようなバランスのトレーニング。
また学校の机は見ていないので何とも言えませんが、足がふらふらしているようなら足を置く台を置いて足を安定させるのが良いと思います。

ときに診断名が、金太郎飴のような支援につながることもあります。
その人をしっかり見ることが、すべての始まりですね。

2015年2月25日水曜日

"上から目線"の意味は?

いわゆる"上から目線"の人にも、ときどき出会います。
簡単に言うと、上から目線の人は"狭い"。
なにがと言われると、視野が狭いです。

このような人は、自分の意見をどんどん主張してきます。
それも自分の意見に対して絶対的な正しさを感じている様子。
周りが異を唱えようとするもんなら、徹底的に攻撃することも。

こういった人は、どんなところでもいると思います。
でも、ただ迷惑な人だけではもったいない。
しっかり背景を分析してみましょう。

意見や主張というのは、"正確さ"だけが求められているのではありません。
相手や状況によって受け入れられる意見や主張は違います。
ときに、正確さよりも、相手の言ってほしい意見を求めれることも。
正義は様々な兼ね合いで変わるのが真理ですね。

自分の意見や主張を通すには、相手や状況を読み、戦略を立て、実行できる力が必要になる。
これには高度な想像力が求められる。

視野を広げるには、様々な意見、考え方を知る必要があります。
そして、様々な意見を今までの自分の考え方と混ぜて、再構築する。
そんな作業を繰り返し、幅を広げていくのだと思います。
でも、1つの意見に固執したり、反対に今までの自分の考え方を一気に捨て別の意見に切り替えたり。
やっぱり背景には、想像力の違いが影響していると考えられます。

こういった方と話をするときは、"提案する"のが良いと思います。
最初に否定されたと感じると、それ以降の話も否定と捉える場合がありますので、一旦受けとめて(×受け入れて)望ましいと考えられる意見を提案する。
元々、根拠がはっきりとしたことを好む傾向がありますので、良い意見なら受け入れてくれます。
そして、少しずつ固い思考を柔らかくし、視野を広げ、意見の幅を広げていく。
そういった支援が必要なのだと思います。

"上から目線"だと、誤解を生み、学校を続けられない、仕事をやめなければならない、ということにもつながってしまうかもしれません。
本人は相手を威圧したいという気持ちはない場合がほとんどなので、誤解を解くためにも、社会で活躍してもらうためにも、"上から目線"という印象を与えないようにしなければなりません。

嘘をつく意味は?

主に子どもさんなのですが、嘘を言ったり、事柄を大きくしたり、事実と正反対のことを言ったりする自閉症者と出会います。
例えば、「夕食はすべて自分が作っている」「40度の熱が出たけど、今朝、治った」など。
客観的に状況から考えれば、すぐにわかるような嘘なのですが、当の本人たちは嘘をついているような雰囲気はありません。
それがまるで事実のように話しています。
ですから、事実との違いを指摘されても、受けいられないといった反応を示すことが多いです。

こういった言動の背景には、いろいろな理由が考えられます。
まず言葉の内容のやりとりよりも、相手とやりとりをしていること自体を楽しんでいる場合が考えられます。
このような場合、言葉の内容や意味には注目しておらず、相手から反応を得られることのみに注目がいっています。
コミュニケーションとはお互いのやりとりであり、円滑なコミュニケーションとはお互いが心地良くなるようなやりとりであるということに気が付いていない状態とも言えます。
相手の視点を想像する力の苦手さが影響していると考えられます。

また同じように想像力に関係して、自分と他人の境界線が曖昧、または捉えられていない場合、こういった言動が見られることもあります。
自分というものをしっかり捉えることができていないと、自分とその他の世界がつながってしまい、結果として現実と空想がくっついてしまうことがあります。
そういった場合、空想上の話なのですが、現実とごちゃまぜになってしまい、空想上の話をあたかも現実の話のようにしてしまうことがあります。
本人は嘘をついているといった感覚はなく、本当の話として行っています。
ですから、「それは嘘だ」なんて相手から言われると、受け入れられずに怒ってしまうことがあります。

その他にも、話を続け、維持することの苦手さから、なんとか話をしようと思い(話の維持にばかり注目してしまい)突拍子なことを言ってしまったり、無意識で「YES(NO)」と言ってしまったりすることもあります。
またパターン化を好む傾向があるため、相手の反応に対しても自分の意図通りにコントロールするために発言していることもあります(ex.「やめなさい」と言われることが分かってて、危険なことを言うなど)。

いずれにしても、自閉症の人たちが苦手な"想像力"の部分が関係しているのだと思います。
コミュニケーションとは"お互い"のやりとりということに気が付いていない場合は、その見えない意図を解説し、学習してく必要があるでしょう。

やりとり自体を楽しんでいる場合は、関わりたいという気持ちが強い、または満たされていないと考えられますので、その気持ちを解消するような時間が必要でしょう。
できれば、言葉以外のやりとりの時間を。

自分とそれ以外の境界が曖昧な場合は、自分という存在をしっかり捉えられるような活動が必要でしょう。
身体面からのアプローチ、そして実体験を伴う経験を。

ときどき、上記のような話に対し、大人がその話に乗ってあげるということがあります。
事実と違うことであったとしても、「そうなんだ」「すごいね」などと反応し続けていると、本人は誤学習をする危険性があります。
一方的に自分の思いを話しても良いのだと。
誤学習を重ねていった結果、大人になっても、このような言動のままの人もいます。
子どものときは可愛かった嘘も、大人になれば、迷惑な人で、危険な人になります。
単なる"子どもの嘘"という捉え方ではなく、しっかりその言動の背景を捉え、未学習の部分はしっかり教えていくことが重要です。

2015年2月22日日曜日

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで③

1990年代、それまでの"賞罰"と"薬"の支援から、日本にTEACCHの考え方が入ってきて、自閉症支援の雰囲気はガラッと変わりました。
TEACCHの考え方や構造化が自閉症療育で広まると同時に、2000年代に入ると、高機能自閉症ブームになり、ソーシャルスキル、感情コントロールなどの本や研修が盛んになりました。
そして2010年以降は、早期療育などでも、脳への直接的なアプローチがメインになっているような印象を受けます。
ですから、花風社さんはギョーカイとは異なる道を歩いてきましたが、流れは「身体面からのアプローチ」でシンクロしているのだと思います。

あちこちで「ソーシャルスキル」と言っていた2000年代後半、私はアメリカの専門家の間で、ソーシャルスキルを教えることの限界について言及されていたことを知りました。
簡単に言うと、「ある場面で必要なソーシャルスキルを教えたとしても、場面は刻一刻と変わり、多様なのだから、すべての場面について教えていくのには限界がある」ということです。
これは自閉症の人たちの特性を考えてもわかることです。
このような話が聞こえ出したあと、欧米では早期発見、早期療育が研究の中心に移り変わったように感じます。
具体的には、1歳くらいに診断できるようにし、そこから定型発達の子どもが辿るような発達課題を意図的にトレーニングするというものです。
(これは私が研修や書籍、専門家の話などから想像したストーリーなので、合っているかはわかりません)
ずっとソーシャルスキルについてモヤモヤしていた私にとって、身体を整え、脳の余裕を作ることで、自閉症の人たちが苦手な社会性の部分がつかめるようになる、そして発達&成長するという"芋づる式"は、一気に頭の中の雲を蹴散らしたような印象を与えてくれました。

これから想像されることは、エビデンスを叫ぶ人たちからの批判が挙げられるでしょう。
でも、芋本や黄色の本を読んで、「これは実践しよう」と感じた人たちが、どんどんやっていけば良いと思います。
本を読んだお母さんが、我が子と一緒に取り組み、お子さんにポジティブな変化が見られれば、それが1つのエビデンスとなります。
すでに私は、不登校からひきこもりになった成人の方の支援でポジティブな変化を見ることができました。
私のエビデンス1つ目です!
これから、どんどん結果を増やしていきたいと思います。

良い専門家を見つけて、どうにかしてもらおうとするのは、もう時代遅れ。
社会の理解を求めて「社会ガー」と叫ぶに至っては化石状態です。
これからは、自分で治す時代。
インターネットがあれば、情報は得られますし、本も手に入ります。
我が子に合ったアプローチを選択していき、実践していく時代が来ているのだと思います。
いくら「エビデンス」と叫んでいても、どんどん治っていき、その子たちが社会で活躍していけば、みんな口を閉じるしかなくなります。

最後に私なりの今の捉え方を。
まず身体面を見て、必要があれば、整えていくことから始める。
そして、脳に余裕ができてから、今までの専門家たちが培ってきた技法を用いて療育をしていく。
最終的には、一人ひとりが持っている才能を開花させ、社会で活躍できる人たちを送りだしていく。
これが自閉症支援に携わる者の役割であり、使命である、と。

お菓子をあげても、視覚的に見せても、環境を調整して刺激を統制しても、結局、本人が心身ともに安定しなければ、そして脳に余裕がなければ、効果はないのだと思います。
今まで私たち支援者が常識だと思ってやってきた支援は、無理やり本人たちの手を引っ張るような支援だった気がします。
これからは頭の中に、芋づる式で治っていくストーリーを一人ひとりに合わせ作っていきながら、実践していきたいと思います。
そのためにも、身体面のアプローチ、専門的な療育方法を幅広く網羅していく必要があると考えています。

頑張りたい親御さん、支援者の人には、是非、芋本を読んでいただきたいと思います。
芋本を読めば、芋づる式に他の本も読みたくなるはずです(笑)
これからも、どんな芋づるの端っこを花風社さんが掴まれるのか、楽しみにしています!
次の10年は、治す10年へ。

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芋づる式に治そう!発達凸凹の人が今日からできること
栗本啓司、浅見淳子 著 花風社

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで②

2つ目は、「療育は専門家が行うもの」という常識です。

ギョーカイだったら、このような本で紹介されているアプローチは、ウン万円のお金を取って研修に来た人のみに教えるというのが普通の流れです。
しかも、公認制度も作ったりして、「〇回以上、研修を受講した者」「実践報告をして認められたもの」「公認資格は3年ごとの更新」なども考えられます。
第一、こんなにもお求めやすい価格(♪)なんかにしませんし、親御さんなど専門に勉強していない一般の人が読んでも分かるようにはしません。
横文字と統計学のオンパレード。

それが芋本に出てくる横文字は、トレーニング、アプローチ、ワークなどしかありません。
専門知識がない人でも本当にわかりやすく、すらすらと読むことができます。
花風社さんから出版される本は、自閉っこシリーズからずっとわかりやすく、読みやすい、というのが魅力の1つだと思っています。

ギョーカイの専門家というのは、どうも療育を難しくしたいようです。
それはまるで「自閉症療育は専門家のもの」と言っているようにも見えます。
アメリカ人のあの有名なプログラムの研修を受けたとき、「専門家は10歳の子どもが読んでも分かるような資料を作成しなければならない」と教わりましたし、「療育は本人と家族と支援者が作り上げていくもの」と叩き込まれました。
しかし、日本の専門家は、療育を本人や家族の手の届かないところまでどんどん高くしているような印象を受けます。

本来、療育とは、本人やその家族の側にあるものだと思います。
この事業を起ち上げたときも、そんなギョーカイの流れに違和感を持ち、専門家の方に行ってしまった療育を本人とその家族の側に取り戻す、ということをコンセプトに掲げました。
ですから、なるべくやっていることが難しいと感じないように、また本人や家族がやっている意味がわかるような療育に、というのを目指しています。
花風社さんの本を読んでいると、本人や家族が"触れられる"アプローチだと感じています。

お金はかからず、すぐその場で実践できる。
しかも、それでいて効果があるし、副作用はない。
これこそが、本人、家族の求める究極のアプローチ。
でも、これが出回ってしまうと、ギョーカイの方々は困ってしまいます。
療育を利用してくれるからこそ、成り立っていること、得られるものがあるからです。

私のようなすき間産業が必要とならない日を待ち遠しく思っています。
そして、どんどん自分たちで治っていき、支援者の手を借りなくても、発達し、成長し、社会で活躍できるような未来を願っています。
そのためにも、今後ともギョーカイの常識を打ち砕き、新たな常識を築いてほしいと、花風社さんに期待していますし、それができる存在だと私は信じています!

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで③

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芋づる式に治そう!発達凸凹の人が今日からできること
栗本啓司、浅見淳子 著 花風社

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで①

本日の午後、花風社さんの新刊「芋づる式に治そう!」が届きました。
夕方、まず一読し、先ほど2回目を読み終えました。
1回目よりも、2回目の方で、ハッとさせられることもあり、じわじわと情報が身体の中に入ってきている感じです。
今年の春がまずは楽しみですが、春夏秋冬と実践してみた来年の今頃が一番の楽しみです。

本の内容や素晴らしさは、私がとやかく言うよりは、みなさんが読めばわかるので省きます。
ここからは、ちょっと視点をずらして私が感じたことを書かせていただきます。

それは、この本が2つの常識をぶち破っているということです。
1つ目は、「季節は乗り切る」という常識。

自閉症の人たちは、季節の移り変わりが苦手であるというのは、ずっと前から知られていました。
特に春、変化が多い季節ということもあり、冬から春に変わる時期は不安定になったり、崩れたりする自閉症の人がたくさんいます。
しかし、根本的な解決方法はわからず、支援者が行っていることは「どうしたら、その崩れる幅を小さくするか」でした。

著名な方や先輩の支援者たちに尋ねてみても返ってくるのは、「嵐が過ぎるのを待つのみ」ということばかり。
今でも「憂鬱な季節がやってくる」「また耐える日々だ」などと言う声を聞こえますし、ある方は春になったら家ではみられなくなるので、毎年、施設に短期入所させる人もいます。
これくらい季節の移り変わりが大きな影響を与えるのに、ずっと対処方法でしか支援できていませんでした。

それが今回の新刊では、春夏秋冬と一年を通したアプローチの仕方が紹介されています。
このような"季節"に焦点を当てた本を、今まで私は見たことがありません。
もしかしたら、世界初かもしれませんね。
四季のはっきりしている日本に住む自閉症の人たちにとっては、とても価値のある本だと思います。

「季節は乗り切る」というギョーカイの常識を崩しただけではなく、それぞれの季節を利用して状態を良くし、さらに発達させる!
この本が10年前に出ていたら、あのときの子ども達をもっとラクにさせ、成長させることもできたのでは、という思いが強く出てきました。

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで②

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芋づる式に治そう!発達凸凹の人が今日からできること
栗本啓司、浅見淳子 著 花風社

"自立"を深く掘り下げていく

妻と「自立」について、ディスカッション。

私「学校や福祉では、自立、自立っていうけれど、そもそも自立ってなに?」
妻「一人でできること」
私「じゃあ、一人でできることは、どうして必要なの?」
妻「一人でできるって、良いことじゃない」
私「はい、アウト」

「一人でできることが良い」というのは、個人の価値観でしかありません。
反対に、「周りが全部サポートして、本人はなにもできなくても、苦労なく生きられれば、それで良い」という人と同じ土俵です。
どちらも個人の価値観だから。

個人の価値観で支援を進めると、必ずぶつかり合う。
これが学校でも、福祉施設でも、親御さんと支援者の関係でも起きていること。
だから、"自立"をもっと掘り下げる必要がある。

なぜ、一人できることを目指し、一人でできることを増やそうとしているのか?
それは「支援の量を減らすこと」
つまり、可能な限り、支援者の手を借りずに生きていけるようにすること。
これに尽きる。

周囲の人間がなんでもやってあげて、本人には何の苦労も、嫌なこともなく生きていってもらうこと。
こんなことは現実にはあり得ない。
限りある予算と人と環境の中を対象者で分けているのが、厳しいようですが現実です。

私は、資源の問題だけで「支援の量を減らすこと」と言っているのではありません。
支援者からの立場からすると、支援を受ける量が少ない人ほど、支援者から好かれることを知っているからです。
問題行動がある人より、まったく何もできない人より、少しでも自分でできることがある人の方が支援者から好かれます。
完全に支援を必要としない人ならともかく、少しでも支援を受けながら生きていく人は、やっぱり支援者から好かれ、愛される人の方が幸せな人生だと思います。

よく学校は福祉に対して「ぜんぜん何もしてくれない」「行事もしない」「もっと手助けしてあげれば、できることもあるのに」などと言います。
反対に、福祉は学校に対して「手を貸しすぎ」「お花畑」「逆に人がいないとできないようにしている」などと言います。
これはお互い"自立"を目指しているのに、その自立の意味が違うから。

私は福祉に合わせた"自立"に統一するべきだと考えています。
だって、学校を卒業したら、福祉だから。
福祉の求める"自立"とは、「支援者の手をまったく必要としない」という自立。
以前にもブログで書きましたが、見守りも支援です。
見守る支援者がいる中で、一人でできたとしても、それは自立とは言いません。
見守ることだけでも、支援者という人と時間、労力が必要だからです。
厳しい資源の福祉の世界では、見守っていなければできないなら、支援者がやってしまいます。
同じ労力が必要なら、支援者がやってしまった方が早いし、労力が少なくて済みますから。

家族ならともかく、支援者が個人の価値観で人様の療育をしようなんていうのは言語道断。
そして、自分の所属しているところの"自立"だけで療育を進めていくのも問題だと思います。
私たちはお花畑ではなく、現実世界に生きている。
本物の支援者なら、その人が生きていく現実世界で求められていることへ近づけていくことを目指します。
そのためにも、"自立"をもう少し深く掘り下げていく必要があるのではないでしょうか。

息子の子育てから療育を考える③

息子の保育園の運動会は、一般的な運動会とは違います。
楽しい音楽に合わせて踊ったりはしません。
子ども達の身長の倍くらいある板を飛び越えたり、3メートルの棒を登ったりします。
まるでテレビ番組の「SASUKE」みたいに。

日頃の保育園の活動も、とにかく身体を鍛えるのがメイン。
園児たちの足の裏を見ると、一般的な子ども達のものとはだいぶ違っている。
ひねる、跳ぶ、ひっぱる、持ち上げるなど、基本的な動作を使い、全身で遊んでいます。

どうして、こういった方針の保育園を選択したかといいますと、すべての基本が身体だからです。
勉強するにも、スポーツするにも、働くのにも、生きていくには身体が基本。
その身体をできるだけ幼いときからバランスよく刺激することが、将来につながると考えました。

この保育園の卒園生で、現在、社会人として働いている知り合いの人がいるが、まったく病気もしないとのこと。
そして、何よりもずっと立ち仕事をしているのにまったく疲れたり、身体が痛くなったりしない、と話を聞かせてくれます。

教室の椅子に長く座っていられなかったり、すぐに疲れやすかったりする子どもの話をよく聞きます。
しかし、息子の保育園の子どもたちを見ると、姿勢は良いし、しっかり座っていられます。
こういった姿を見るたびに、これなら小学校に上がったとしても授業に集中して聞くことができると思います。
実際に、卒園生たちは小学校に上がっても集中して授業を受けることができているそうです。

「すべての基本が身体」というのは、障害のあるなしに関わらず、すべての人間に共通することだと思います。
ただでも、自閉症の人たちは身体に不具合を感じやすく、感覚の違いというのもありますので、身体を整え、バランスよく鍛えることが、よりよい学びへとつながっていくのだと思います。
学校などで、なにかを学ぼうとしたとき、姿勢が保てなかったり、疲れやすかったりしたら、その時点で身に付ける力が下がってしまうのは、どの人にも共通したことではないでしょうか。

2015年2月20日金曜日

息子の子育てから療育を考える②

3歳の息子は、トミカなどのおもちゃをきちんと並べたり、きれいに配置してよく遊びます。
3歳になってすぐのときくらいには、ハンカチなど小さなタオルは四隅を合わせて畳んでいました。
細かい変化にはよく気が付きますし、粗大運動よりも細かい指先を使った作業が得意です。
これは別に息子の自慢をしているわけではありません。
私が注目している点は、教わっていないのに、まだ文字を覚えていないのに、自らやっていたということです。

誰からも教わったわけではないのに、それをやっていたり、できたりすることがある。
それは、その子の生まれ持った気質なのだと思います。
ですから、幼いときに、自然とやっていたことやできていたことを活かすことが、その子の人生を豊かにする鍵だと考えています。

自閉症の子どもたちと接していると、その子特有の興味関心、得意なこと、好んでやることがあります。
一見すると、まったく意味のない、生産性のないような行動に見えますが、その子が本能的にやっていることだと思います。
ということは、これを遊び、人間関係、仕事に活かせれば、より豊かな人生を歩んでいけるのでは、
と思っています。
ですから、時々、本人や保護者の方に幼いときの様子を聞くようにしています。

本能的にやっていたことは、その子の魂を満足させることだと解釈しています。
「学習ではなく、本能的にやっていたこと」
それは人生のヒント。
息子にも、本能的にやっていたことを活かし、将来の仕事につなげて欲しいと思っています。

息子の子育てから療育を考える①

今日、息子の保育園では、別の保育園に遊びに行くことが決まっていました。
それを昨日、保育士さんから聞いていたらしく、今朝、「保育園に行かない」「おうちでお留守番する」と大泣き。
泣いていたので、息子の発言は断片的なものばかりだったのですが、どうやら今日、遊びに行く保育園に転園すると勘違いしていたらしいことがわかりました。
ですから、紙に絵を描きながら、「〇〇保育園に行ったあと、バスに乗って△△保育園に行く。そして、△△保育園で遊んだあと、バスで〇〇保育園に戻って給食。昼寝も、おやつも、〇〇保育園出し、迎えに行くのも〇〇保育園」
それを見ていた息子は理解したようで、泣き止み、「△△保育園に行って遊ぶ」とノリノリに。
車好きの息子は、バスに乗れることでもハッピーに。

見る人が見たら、「自閉症支援の応用」なんて言われそうですが、私はそんな風には思っていません。
ただ文字や言葉では分かりづらい息子に、本人が理解しやすい絵で伝えただけです。
これは自閉症の人特有の支援ではなく、世の中すべての人に当てはまる支援。
「相手がわかる方法で伝える」
今朝の出来事で、自閉症支援を学んでいることが活かされたとしたら、「発信と受信のレベルは違う」と「最悪な状態でも、容易に受信できる方法を用いて伝える」ということでしょう。

2次元の世界から3次元の世界にきた!

「2次元の世界から3次元の世界にきた感じです!」
昨日、セッションした彼が"驚き"と"戸惑い"と"喜び"の入り混じった様子で報告してくれました。
彼は保育園の頃から、ずっと世の中が"テレビを観ているような感じ"で見えていたとのこと。
それが最近、五感が働くようになり、世の中のことを実感を持って見えるようになったそうです。
他にも、「家の匂いを感じるようになった」など、嗅覚が戻ってきたとも言っていました。

そんな彼とは、どのような取り組みを行ったかと言いますと、感覚に注目したトレーニングを昨年末から行っています。
日課としてバランスボールでのトレーニング、片足立ちなど。
また料理など、両手を使うような活動を続けてもらっていました。

前回のセッションでは、「指先の感覚が感じられるようになった」と言っていました。
このことから考えられることは、意図的に感覚入力を多くした結果だと言えます。
取り組みの前までは、彼はずっと自分の身体なのに自分の身体ではないような感覚を持っていました。
別の表現をすると、感覚刺激をうまくキャッチできていなかったのだと考えられます。
ですから、継続して五感を刺激するような負荷を与え、それにより伝達がうまくいっていなかった脳の部分が刺激され、発達したのだと思います。

「以前よりも疲れにくくなったし、ちょっとしたことで気持ちが折れにくくなった」とも言っていました。
私から見ると、バランスを意識した活動を多く取り入れていので、姿勢が良くなったように感じます。
また感情に幅が出たようにも感じます。

彼が表現した「2次元の世界」は、まさに自閉症の人たちが持つ特有の感覚なのだと思います。
そんなふわふわした状態なら、勉強にも身が入らないし、疲れやすくなるのも想像できます。
自分の感覚を取り戻した彼は、昨日から新しい目標に向かって勉強を始めました。
感覚面が発達→身体が整う→前向きな意欲が出る→行動する、という良いサイクルができたように感じました。

2015年2月19日木曜日

療育を受ける体勢を整える

てらっこ塾は、本人のスキルアップや成長をサービスの中心にしています。
そのため、そのような依頼をいただくのですが、本人と実際にお会いしてみると、とてもスキルアップや成長を目指す状況ではないな、と思うことがあります。
つまり本人の状態が新しい取り組みを始める、または指導を受ける体勢が整っていないということです。

気持ちが安定していなかったり、過去の失敗経験や辛い出来事が尾を引いていたりすることがあります。
そういった場合、続けて取り組みが行えず中途半端になってしまったり、「また失敗したらどうしよう」という気持ちから、前向きに取り組めないことがあります。
中には、自分が「自閉症である」ということを受け止められていないでいる方もいますし、そうなると、私が行うこと自体に協力的になれないこともあります。

ですから、本人の状態を整えることも大事な支援、サービスだと考えています。
ある方は、もう1年くらいの付き合いになるのですが、その間、心身の安定と捉え方の調整を行ってきました(もちろん、保護者の方のご理解とご協力があります)。
しかし、昨年末くらいから準備が整い、療育に切り替わりました。
そうしたところ、1回、1回のセッションで大きな成長がみられています。
もうそろそろ、私のお役目は終わりになりそうです。
自分で成長できる方法と、「成長したい」という気持ちが整いましたから。
もしかしたら、本人が元々持っていた成長する力を発揮できるようにすることが、支援の中核なのかもしれませんね。

エビデンスも大事だが…

ここ1、2年、「エビデンス(科学的根拠)」という言葉が、強く言われるようになったと感じます。
確かに、インターネットなどでは、「効果がある」と謳われた療法が溢れかえっていて、どれを信じたらよいか、わからなくなってしまいます。
その中には、怪しい療法もたくさんあると感じています。

もちろん、なんの根拠もないようなことを宣伝し、それでお金儲けをしようというのは間違っていると思います。
それ自体は利用者ためにならず、また本人や家族たちを騙すことにつながるからです。
でも、だからといって科学的な根拠がないものは「まったく意味がない(効果がない)」と言っていいのでしょうか?

先日、セッションした利用者の方で、「小さいときから木が好きだった」という方がいました。
特に木の"匂い"が大好きだということだったので、癒しグッツとして部屋に木を置いたり、木のアクセサリーなどを身に付けたりしたら良いのでは、と提案してみました。
それから実際にやってみると、気分が落ちついて勉強にも集中できるようになったと言っていました。
結果として、続けていけば、成長につながるのだと思います。

私は極端なことを言えば、壺を買うのでも、祈祷してもらうのでも、本人が成長し、ポジティブに変わっていけるならやってみればいいと思います。
私の知っている方は、ある宗教を信じることによって変わっていった方もいます。
(専門的な見方をすれば、宗教的な見解を忠実に実行することにより、変わっていった。いわゆる自己流の認知行動療法のような感じだったと思います)
でも、そのとき、大切なのは、前のブログにも書いたように「期日を決めること」と、「それだけに頼り過ぎない」と言うことだと思います。
これさえ押さえていれば、大きなマイナスはないと思います。

自閉症支援の業界で、メジャーな療育方法であったとしても、必ずその人に合うわけでも、成長できるわけでもありません。
「エビデンス(科学的根拠)がある」=「すべての自閉症者を幸せにする」ということではありません。
大事なことは、自分に合った療育、方法を見つけることだと思います。
それには視野を広げ、いろいろな人の体験やアドバイスに耳を傾けたら良いのではないでしょうか?
自分なりのエビデンスを見つけるために!

2015年2月18日水曜日

支援方法を決めたら、期日も決める

支援方法を決定するとき、同時に「いつまでやり続けるか」も決めるようにしています。
それじゃないと、効果がなくてもダラダラと続けてしまうから。
(まあ、回数を稼いで、お金も稼ぐという手段も頭によぎることもありますが(笑))
ある程度、期間を設けて、その間に意図している変化が見られなければ、合わない方法だったと判断し、潔くやめます。
そして、次の方法を考えていきます。
これの繰り返しです。

体調が悪くて病院に行ったのに、何か月も症状が良くならなければ、転院や別の方法を考えるのは自然なことです。
いくら評判の良いドクターだって、自分に合わないこともありえると思います。
そのとき、大事なことはドクターに任せっきりではなく、自分で選択していく能動的な動き。
受け身の姿勢じゃ、いつまで経っても治りません。
ですから、「いつまでやり続けるか」の視点が必要です。

支援の方法と目標のレベル、本人の状態によって期間は変わりますが、だいたい1ヶ月くらいをめどに続けることが私は多いです。
本人とばっちり合った支援なら、その日のうちに変化がみられます。
相性が良い支援は即効性があります。
何か月も経って、ポジティブな変化の兆しが見えないなら、今後、いくら続けても変わることがないでしょう。

「なんとなく、前より良くなったよね」
「状態が変わらないけど、このまま様子を見ましょう」
「もしかしたら、もう少し続けたら変わるかもしれない」
という会話が繰り返され、時間ばかり過ぎていく支援はもったいない。
自分と相性が良い支援を見つけるためにも、期日は大切です。

2015年2月17日火曜日

相談は専門機関へ(笑)

昨年、今年の自閉症啓発デーで、てらっこ塾の無料相談ブースを作らないか、とお話をいただきましたが、丁重にお断りした次第であります。
だって、函館には相談を専門にした機関がありますから。
そんな環境の中、相談ブースなんてやっていたら・・・汗。
畏れ多くて、畏れ多くて。

てらっこ塾では、基本的に相談支援はやっていません!
事業開始当初はやっていたけど(小声)。
今はパンフレット等から"相談"の文字をすべて削除しました。
でも、そうはいっても"相談"という依頼は、定期的にきます。

事業開始当初、行っていた相談を何故、やめてしまったのかと言いますと、上記のように相談の専門機関があるということが理由として挙げられます。
でも、それだけではなく、相談を受けるだけでは足りない人たちがいることに気が付いたからです。

自分が困っていることを相談し、専門家からアドバイスを貰うだけで実践でき、変わっていける当事者の方もいます。
しかし、アドバイスを言葉で受け取っても、それを実行することが難しい方がいるのも事実だと思います。
本来の器質として、実行機能の障害と表現されることもあります。
また想像力の違いから、専門家からの言葉の微妙なニュアンスや文脈を読み違えたり、気が付かなかったりして、的確に受け取れないこともあります。
このような自閉症の人が持つ苦手さから、相談だけ(言葉だけ)では足りない人たちもいると考えられます。

私は、利用者の方から依頼を受けるときは、言葉だけではなく、実際に手を一緒に動かすことを大事にしています。
彼らの苦手な実行機能を補うことを意識しているためです。
また実際にやっているところを見れば、体験すれば、自立して行う際の具体的なイメージが持ちやすいと考えられるためです。
生活リズムが乱れていると言われれば、一緒に日課を組み立てますし、気分の落ち込みが激しいと言われれば、一緒に気持ちが穏やかになるエクササイズを行います。
人付き合いがうまくいかない人とは、一緒に笑顔を作る練習や雑談の練習を実際に行いました。
とにかく『言葉+動作』は大事にしています。

依頼があり、相談という形をとることがありますが、それは相談自体で解決しようと思っているのではなく、あくまでその人の捉え方と理解度を確認するためです。
つまり実際の練習、トレーニングの前段階としてです。
てらっこ塾のメインのサービスは、実践を通してのスキルアップです。
相談は専門機関へお願いします(笑)

「自閉症は一生治らないんだから」が言い訳にならないように

学生時代から「自閉症は一生治らないんだから」という言葉に疑問を持っていました。
それは生物学的な視点に対する疑問ではなく、専門家が言い訳に使っていないか、という疑問です。
確かに、いったん「自閉症」と診断された人が、定型発達に変わることはないと思います。
でも、だからといって、療育を受けている自閉症の人たちにポジティブな変化が見られなくても良い、というようにはならないと思います。
やはりある程度の期間で、本人やその家族が「気持ちが前向きになった」「自分は成長したかもしれない」「〇〇ができるようになった」「身体が楽になった」というような実感をもってもらえるようにしなければならないと思います。

当事者や家族の方たちとお話しすると、"変化が見られない"ということに不満を感じている人が多くいることが分かります。
療育を受けに行くというのは、本来は"変化"を求めて行っているのだと思います。
それなのに「ただ話を聞いてくれるだけ」「何年も通っているのに、変わっていない」「また"様子を見ましょう"でした」などの言葉の中には、現実と理想とのギャップがありそうです。

もちろん、話をきいてくれる、寄り添ってくれる専門家は、日常生活を保つのには必要な存在なのでしょう。
しかし、本来はその次のステップのために専門家がいるのだと思います。
自閉症支援の中核は、当事者の方たちの"自立"です。
長年の関係性は、心地良いかもしれませんが、自立を妨げる要因にもなりかねません。
当事者の方にとって居心地が良い関係は、専門家が"自立"を目標に療育する積極性を緩めてしまう危険性があるためです。
ポジティブな変化が見られないときのエクスキューズとして「自閉症は一生治らないのだから」と言うのは、私は違うと思います。

私は常に結果にこだわるようにしています。
それは直接、利用してくれた方たちからお金をいただいているというのもありますし、公的なバックアップがありませんので、結果が出ない=仕事がなくなることを意味するからです。
選択肢が少ない業界は、マンネリ化を生み、サービスの質の維持と向上が難しくなるのが自然な流れです。
私は敢えて厳しい環境に身を置き、サービスの質を高めていく道を選択しました。
利用してくれる方にポジティブな変化が見られなければ、そのときは廃業のときです。
利用してくれる方たちができるだけ短期間で、私の支援が必要がなくなることが理想の形です。

2015年2月12日木曜日

新たな道へ歩み始めたきみへ

きみはダメな人間だったんじゃないよ。
きみは根性がなかったんじゃないよ。
自分の脳に合わない勉強の仕方をしていただけ。
例えるなら、左利きのきみが、ずっと右手で文字を書いて勉強していたようなもの。
それだったら、字を書くだけで精いっぱい、疲れちゃう、手も痛くなるよね。
勉強したくなくなるのも無理がない。
燃え尽きてしまったのも仕方がない。

今日はきみにとっての記念日。
だって、自分の脳に合った勉強の仕方に気が付いたから。
きみは、周りの人と比べて劣っているわけでも、心が弱いわけでもないことが分かったよね。
長年のモヤモヤが晴れた、と言っていたきみ。
その目はすでに未来を見ていた。
これから今までの分を取り返すくらい勉強がしたいという気持ちを私は応援します。
多少回り道をしたかもしれないけれど、大丈夫!
きっとこれからのきみなら取り戻すことができる。

定型発達でも、そうではなくても、人はみんな自分を高め、成長していくことが大切。
自分の人生は、自分で切り開いていくしかない。
待っていても、誰も幸せにはしてくれない。
自分を幸せにできるのは、自分だけ。
人は成長することで、より豊かな人生へと歩き続けることができる。

私は今日のきみを忘れない。
晴れ渡った表情。
未来への視線。
そして、「やっと自分のことが好きになれそうに思えた」という言葉を。
こちらこそ、どうもありがとう。
きみの成長に関わらせてくれて。

2015年2月7日土曜日

姿勢を保持できていますか?

通常学級に在籍しているお子さんで、学校の勉強に遅れがちなことについて相談を受けることがあります。
字がうまく書けない
計算をよく間違える
文章題が解けない
など。

学校の授業についていけなくなるのには、様々な理由があるのでしょう。
教室の環境だったり、本人の特性だったり。
そんなとき、よく出てくるのが特別支援学級の先生。
せっせと物理的構造化をしたり、特別な教材を用意したり。
でも、実際のお子さんを見ると、もっと根本的な理由から授業についていけなくなっていると思うことがあります。
それは、姿勢を保持できないこと。

椅子に座っている様子を見ると、身体が斜めになっていたり、時間が経つと前かがみになったりと、姿勢の保持が難しいお子さんがいます。
姿勢を保持することが難しい身体を持っているのですから、そんな状態で授業に集中しなさいと言っても難しいと考えられます。
お子さんの様子を見ていると、自分の身体を支えていることに多くのエネルギーを使っているように感じることもあります。

私たちだって勉強や仕事をするとき、身体が斜めになっていたり、前かがみになっていたりしたら、集中して作業を行うことができないことは想像するに難しくないことです。
私たちが一定の時間、勉強や仕事に集中して臨めるのは、意識しなくても姿勢を保持できているからです。
特別支援というと、すぐに視覚的支援を想像し、実行しがちですが、もっと根本的な"身体"について注目する必要があるのではないか、と思っています。

選ばれるのではなく、選ぶ支援

私が親御さんによく言うのは「支援者に選ばれるのではなく、選ぶようにならなくてはいけませんよ」ということ。
どんなときに言うかといったら、親御さんが支援者の悪口を言っているとき。
「あの担任、ぜんぜんわかってない」
「あそこに通っているけれど、何も変わらない」
などなど。

私は「嫌だったら、選択しなければ良い」と思うのです。
だって、そうではありませんか。
時間と労力がもったいない。
親御さんが効果がないと気が付いているならなおさらです。

そうはいうものの、「担任は変えられないじゃない!」という意見ですか?
現実的には、学校の担任を変えることは無理ですし、療育機関でも同じでしょう。
私は実際の支援者を変えるのではなく、よくないと思う支援に対する依存度を下げ、それに代わる支援を選択すればよい、と考えているのです。
つまり、受動的ではなく、能動的に支援を選択していきましょう、というメッセージです。

よく「時間が解決してくれる」などと言う人もいますが、私はまったくそうは思いません。
それだったら、こんなにも多くの自閉症の人たちが悩んだり、苦しんだりしていないはずです。
自閉症の人は同一性を好み、変化を苦手とする方たちです。
時間が経てば経つほど、思考や行動は固まり、変えることが難しくなります。
だからこそ、与えられる支援に一喜一憂するのではなく、自ら良いと思う支援をどんどん選択して、実行していく必要があると思います。

親御さんのガス抜きという点では、私はお話を聞きます。
ただ、悪口を言っていても、本人たちは変わっていきません。
そして時間が解決することもありません。
だからこそ、本人の成長が感じられ、心身ともに健康になっていくような支援を自分たちの手で掴んでいってほしいと願うのです。
肩書や専門用語ではなく、自分に合った支援を!

今、やっている療育の意味がわかりますか?

「あ~、そういう意味があったんですね」と言われることがあります。
もちろん、療育の意図やねらいについて説明したときの親御さんの反応ですが、私が行っている療育についてではありません。
お子さんが通っている施設や病院での療育についてなんです。
それも1度や2度の出来事ではありません。
それだけ、今、お子さんが受けている療育には、どんな意図やねらいがあるのかがわかっていない人がいるということなのでしょう。

ネームバリューで療育に通っているのかもしれませんが、それにしても預けっぱなしはよくないですね。
でも、それよりも、きちんと療育の意図やねらいを説明できていない支援者の方にも問題があると思います。

療育を行ってくれる施設や病院は限られていますので、いろいろな制限の中で実施しているのもわかります。
ただ一般的な親御さんは、一度説明されただけではわかりませんし、個別支援計画の紙をペラッと1枚渡されただけではチンプンカンプンなのは当たり前です。
私も支援に携わっている子どもさんの個別支援計画をよく見せてもらいますが、説明が荒かったり、専門用語が入ってたりと、それを読んだだけでは何を意図しているかがわからないものがあります。
ですから、支援者はきちんと親御さんにわかりやすい説明をし、療育の意図やねらいを理解してもらう必要があるのだと思います。

親御さんの中には、肩書でその支援者のことを信頼しきっている人もいますが、反対に肩書など気にせず、感じたままを表現する人もいます。
私から見たらお話しするのも畏れ多いくらいの専門家に対して、「あの先生は何もやってくれない」「結局、話を聞いてくれるだけで、本人は何も変わっていない」などと、言う親御さんも少なくありません。
やはりこのように親御さんに思わせてしまうのは、支援者側に問題があるのだと思います。
この子に今、やっていることにどんな意味があるのかがわからなければ、親御さんの療育に対する気持ちが萎えてしまいます。

はっきり言って毎日、療育をしても、本人の成長には足りないくらいです。
ましてや、数か月に1回などの療育では大きな効果が望めません。
そうすると、療育機関に通っていない多くの時間の家庭生活が重要になります。
つまり親御さんに療育の意図を理解してもらい、家庭生活の中に取り入れてもらう必要があるのです。
そのためにも、支援者と親御さんのコミュニケーションを活発にし、お互いが行っていることを理解し合えることが重要だといえます。