"自立"を深く掘り下げていく

妻と「自立」について、ディスカッション。

私「学校や福祉では、自立、自立っていうけれど、そもそも自立ってなに?」
妻「一人でできること」
私「じゃあ、一人でできることは、どうして必要なの?」
妻「一人でできるって、良いことじゃない」
私「はい、アウト」

「一人でできることが良い」というのは、個人の価値観でしかありません。
反対に、「周りが全部サポートして、本人はなにもできなくても、苦労なく生きられれば、それで良い」という人と同じ土俵です。
どちらも個人の価値観だから。

個人の価値観で支援を進めると、必ずぶつかり合う。
これが学校でも、福祉施設でも、親御さんと支援者の関係でも起きていること。
だから、"自立"をもっと掘り下げる必要がある。

なぜ、一人できることを目指し、一人でできることを増やそうとしているのか?
それは「支援の量を減らすこと」
つまり、可能な限り、支援者の手を借りずに生きていけるようにすること。
これに尽きる。

周囲の人間がなんでもやってあげて、本人には何の苦労も、嫌なこともなく生きていってもらうこと。
こんなことは現実にはあり得ない。
限りある予算と人と環境の中を対象者で分けているのが、厳しいようですが現実です。

私は、資源の問題だけで「支援の量を減らすこと」と言っているのではありません。
支援者からの立場からすると、支援を受ける量が少ない人ほど、支援者から好かれることを知っているからです。
問題行動がある人より、まったく何もできない人より、少しでも自分でできることがある人の方が支援者から好かれます。
完全に支援を必要としない人ならともかく、少しでも支援を受けながら生きていく人は、やっぱり支援者から好かれ、愛される人の方が幸せな人生だと思います。

よく学校は福祉に対して「ぜんぜん何もしてくれない」「行事もしない」「もっと手助けしてあげれば、できることもあるのに」などと言います。
反対に、福祉は学校に対して「手を貸しすぎ」「お花畑」「逆に人がいないとできないようにしている」などと言います。
これはお互い"自立"を目指しているのに、その自立の意味が違うから。

私は福祉に合わせた"自立"に統一するべきだと考えています。
だって、学校を卒業したら、福祉だから。
福祉の求める"自立"とは、「支援者の手をまったく必要としない」という自立。
以前にもブログで書きましたが、見守りも支援です。
見守る支援者がいる中で、一人でできたとしても、それは自立とは言いません。
見守ることだけでも、支援者という人と時間、労力が必要だからです。
厳しい資源の福祉の世界では、見守っていなければできないなら、支援者がやってしまいます。
同じ労力が必要なら、支援者がやってしまった方が早いし、労力が少なくて済みますから。

家族ならともかく、支援者が個人の価値観で人様の療育をしようなんていうのは言語道断。
そして、自分の所属しているところの"自立"だけで療育を進めていくのも問題だと思います。
私たちはお花畑ではなく、現実世界に生きている。
本物の支援者なら、その人が生きていく現実世界で求められていることへ近づけていくことを目指します。
そのためにも、"自立"をもう少し深く掘り下げていく必要があるのではないでしょうか。

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