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4月, 2015の投稿を表示しています

大学における「合理的配慮」とは

昨年度から大学で自閉症支援を行っていますが、時折、疑問に思うことがあります。 それは「合理的配慮」についてです。 どこまでが合理的な配慮で、どこからがやりすぎになってしまうのか。 この点について関係者の間でも捉え方の相違が見られていますし、他の大学でも、特に発達障害の学生に対しては判断が難しいという声が挙がっています。 大学は障害を持った学生に対する合理的な配慮を行うことが求められています。 平成28年度4月より大学では、障害種別にどのような体制で、どのような配慮をしていくのかを明確に示すことになっています。 昨年度同様、今年度も準備の期間です。 「合理的配慮」も、合理性が欠けてしまえば、ただの特別扱いになってしまいます。 特に、同じ講義を受ける学生から、そのように思われてはなりません。 一歩間違えば、「障害を持っている学生の方が評価を甘くしてもらっている」「障害を持った人は、できなくても仕方がない」といった疑念や誤解を生んだり、「自分たちとは違う人たち」というような距離感を持たせてしまったりというような危険性があります。 課題や評価に関しては、障害の有無に関わらず、平等に扱われるのが当然ですし、努力すること、自分で責任を持つことは当たり前のことです。 配慮する場合には、きちんとその合理性を客観的、かつ具体的で明確に示すことが求められます。 しかし、機能障害の学生とは異なり、発達障害の学生の場合には、大学の中での不都合が障害ゆえの不都合か、それとも未学習、誤学習ゆえの不都合かが見えづらい点に難しさがあります。 例えば、視覚過敏があり、どうしても講義を安定して受けるには刺激の少ない一番前の席が必要であるとか、見通しが持てないと不安になってしまうので、最初に予定を教えてもらいたいという要望であるとかは、わかりやすい配慮であり、周囲からも同意が得やすい配慮だと言えます。 でも、コミュニケーションが苦手だから、グループワークは控えたいであるとか、不安なときに独語を言い続けるのを許してほしいであるとか、講義を受けるだけで疲れてしまうので、課題の提出日を他の学生より延ばしてほしいであるとかは、合理的配慮にあたるのでしょうか? このような配慮は、周囲から同意は得にくいですし、合理的であるとは言えないと、私は考えています。 「コミュニケーショ

整えられる身体を作る!

「仕事ができるようになるためには、一年間、乗り切るだけの体力をつけなければならない」と、ずっと言われ続けてきたけれど、今まで誰も「整えられる身体を作る」なんていうことを言ってくれなかった。 先日、お話ししたお母さんの言葉です。 お子さんは長年、特別支援教育を受けている人です。 体力は無いよりは、少しでもあった方が仕事をする上では良いと思います。 しかし、体力がないからといって仕事ができないかと言ったら、そうではないと思います。 定型発達の人だって、みんな体力に自信があるわけではありませんし、体力が無い人でも働き続けている人はたくさんいます。 ちょっと階段を昇っただけで息が切れる人、まったく走れない人なんて、世の中にはいっぱい。 年齢とともに体力が低下していくのは、自然なことです。 でも、こういった人たちでも、週5日8時間労働をしています。 だったら、定型発達の人と、自閉症の人との違いは何か? それは、「自分の身体を整えられるか」という点の違いだと思います。 定型発達の人は、自然に背伸びをしたり、身体を緩めたりして、無意識的に整えています。 でも、そういった身体を整える動作が自然にできない自閉症の人が多いように感じます。 ですから、身体に力が入りすぎて疲れてしまったり、反対に身体に力が入らな過ぎて、何かしようとするときに余計に力が必要であったりすることがあるのだと思います。 私は、働くためにも、安定した生活を送るためにも、自閉症の人たちは"整えられる身体"を作ることが大切だと考えていますし、必要な人には実践しています。 それは年齢の低い子どもから、高校大学生、成人の人たちに対してです。 いろいろな個々のニーズがあって関わっていますが、基本となる身体ができていない状態ですと、上辺だけの指導を行っても効果があまりないからです。 どこの学校でも、体力作りは積極的に行われています。 でも、身体を整えることは、あまり積極的に行われていないようです。 アメリカに視察に行ったとき、ヨガの時間がありました。 それは、もちろんリラックス効果と、自分で身体を整えられる練習のためです。 このように、自閉症の人たちが苦手とする身体をリラックスさせること、整えることについて、もっと真剣に考えるべきだと思っています。 いくら

発言の価値を決めるのは誰?

発言の価値を決めるのは、"発言した人"でしょうか? それとも、その発言を"聞いた人"でしょうか? いろいろな立場の人が、いろいろな発言をします。 医師や相談機関の人、学校の先生、親御さんなどが、自閉症の知識、療育、対処方法、相手の心のケアなどについて・・・。 同じ発言をしたとしても、立場が違えば、発言の価値が違って聞こえます。 同じ人が発言したとしても、内容が違えば、発言の価値が違って聞こえます。 つまり、発言者と聞き手の関係性や親密度によって発言の価値は変わりますし、聞き手の心理状態やどのような状況で聞いたかなどによっても変わります。 発言の価値を決めるのは、その発言を"聞いた人"です。 同じ人なのに、同じ発言をしたのに、発言の価値が変わるというのは、自閉症の人たちが苦手な想像性を使う部分ですので、躓く人も少なくありません。 「あの人と同じ発言をしたのに、私のときだけみんなは受け入れてくれない」と、困惑する人もいます。 また、周囲が自分のことをどう見ているかによって、求められている話の内容が違うということが読み取れず、自分が良いと思った話を一方的に話してしまう人もいます。 そして、私が「躓いているな~」とよく感じるのが、自分の発言に修飾語や「著名な〇〇さんが言っていた」など、権威付けをするような言葉をたくさん入れる人を見かけたときです。 こういった人は、自分が発する言葉自体に価値が付けられれば、聴衆も価値がある話だと思ってくれる、納得してもらえると捉えていると考えられます。 相手との関係性によって発言の価値が変わるということや、価値を決めるのは聞いている側だという視点がなければ、このような捉え方になっても仕方がないことだと思います。 ましてや、言葉を厳密に捉える傾向が強い人でしたら、当然の結果かもしれませんね。 ですから私は、こういった躓きがある人がいれば、想像力を必要とする見えない真実について一緒に勉強するようにしています。

担任の悪口を言う季節に

4月のこの時期になりますと、あちらこちらで「学校の担任が・・・」と言った話題が聞かれます。 私もこのような話をよく耳にしますが、率直に言って「時間の無駄遣い」だと思います。 親御さんのストレス発散という意味では良いのかもしれません。 でも、子どもの立場になって考えると、意味のないことだと思います。 それだけ学校や先生の問題点に気が付けているのなら改善に向けて動けば良いのですし、もし学校で望めないと察したのなら、学校以外でどうやって補っていくかを考えれば良いのだと思います。 子どもにも多様性があるのなら、学校の先生にも多様性があります。 センスのある人、良く勉強している人、熱意のある人、積極的な人がいれば、その逆も当然います。 カリスマ先生みたいな人もいるかもしれませんが、そんな人はほとんどいませんし、全然いないからカリスマ先生と呼ばれています。 相性だってありますし、我が子の指導だけを行っているわけではありません。 ですから、我が子に合った先生と巡り合うのは宝くじみたいなものです。 5億円の当選を夢見ている時間があったら、こつこつ自分で稼いだ方が確実にお金は貯まっていきます(私の体験談)。 「学校の悪口を言っている親御さんの子どもに限って、あまり成長が見られない」ということを肌身で感じています。 悪口を言いますと、一時的にスッキリするかもしれませんが、現実は変わらないので、またストレスが溜まります。 しかも、悪口を言うことや悪い点を考えることは、パワーを消耗します。 ですから、単純に「子どもの成長にかけられる時間が少なくなる」ということと、「疲れて子どもの成長に力が向けられない」ということが、その要因になるかと思います。 でも、それ以上に関連性があると考えられるのは、受け身の姿勢です。 他人に任せているから、不満が出るのではないでしょうか。 他人に任せず、自分でどうにかしようというような前向きな姿勢の親御さんは、学校の悪口を言い続けたりはしません。 自分で我が子の成長につながるような情報を見つけてきて、実践します。 自分でもたくさん実践するから子どものことがよくわかります。 そうなると、学校でうまくいかない理由がわかったり、どうすれば良いか方法を見つけることができます。 そして学校の先生に対しても、余裕を持って接する

セッションの次の日のメール

「やれることは何でもやりたいです!!」という力強いメッセージが昨日、届きました。 このメールをくれたのは、一昨日、利用してくれた子の親御さんです。 子どもさんへのセッション後は、気になることや改善したいこと、伸ばしたいことなど、熱心に質問されていました。 親御さんのその熱意に押され、私も自分が持っているものをすべて出し、全力でお答えしました。 そして、すぐに生活の中に取り入れ、次の日から実践されていました。 その実践したあとの子どもの様子を教えてくださったメールに、冒頭の力強いメッセージが添えられており、「これからも、どんどん我が子の成長につながることを取り入れていきたいので、指導をお願いしたい」という内容でした。 子ども時代の時間は、とても貴重だと思います。 ですから、良いと思ったものを即取り入れ、実践するスピード感が大切になります。 「どうしようかな」「失敗したらどうしよう」などと悩んでいるうちに、人生の中で一番成長する時間が減っていってしまいます。 この親御さんのように、前向きで積極的な姿勢は子どもの成長へとつながっているのだと感じます。 受け身の姿勢では、成長することができません。 それは本人にも、親御さんにも、言えることだと思います。 時間が成長させてくれるのは、身長と体重だけ。 その他の成長に関しては、「自分で成長を掴みとる」というような積極的な姿勢がなければ、実現しません。 昨日、受け取った親御さんのメッセージを見て、「まだまだこの子は成長する」という確信が持てました。

新年度も大学で働かせていただきます

本日より、大学での仕事が再開しました。 公立の大学ですので、民間人を入れることが大変だったと思いますが、昨年度の実績を認めていただき、こうして新年度も携われることになりました。 本当にありがたいことです。 自閉症の学生がいる講義を担当されている教授とお話しする機会がありました。 その教授は、本人の捉え方や自閉脳の特徴に関する話を熱心に、また度々驚きながら聞いてくださいました。 興味深く耳を傾けている様子もありましたし、今後の講義の内容の参考にするという前向きな反応がありましたので、きっと私が特別な配慮をし、多く介入しなくても、他の学生と一緒に学び、成長していけると感じました。 私がこの大学に関わるようになって、特に意識していることがあります。 それは自閉症の学生たちと接するとき、楽しそうな姿を見せることです。 もちろん、意識して行っている場合もありますが、私は心から自閉症の人たちと接することが好きなので、自然な私の振る舞いを見てもらうようにしています。 どうして、このように考えているかと言いますと、それは医療や福祉、教育の大学ではないからです。 ここの大学は理系の大学であり、理系の学問をするために、みなさん集まっています。 ですから、「自閉症の人を知りたい」とか、「仲良くなりたい」とか、そういった感情を持つ人はほとんどいないと考えられます。 実際に様子を見てもそういえます。 学生たちの頭の中は、講義やサークル活動、アルバイトに、恋愛に、でいっぱいだと思いますし、それが自然な大学生だと思います。 だから、このような学生のみなさんに、自閉症について説明したり、理解を促したりすることは、正直興味のないことですし、迷惑なことだと思います。 私が行うべきことは自閉症の人を"特別な存在"に仕立て上げることではありません。 とにかく、自閉症の学生たちと楽しく会話をし、接することだけ。 私がいろいろな手立てを用意したり、手とり足とり手助けをしていたら、他の学生からは自分とは関係のない遠くの存在に映ってしまうはずです。 ですから、手だても自然な形にし、他の学生から特別視されないように配慮しています。 他の学生が自分たちから自閉症の学生と関わろうとはしなくても良いのです。 ただ、そこにいることが自然に思ってくれれば

ブログ300号を機会に私が伝えたいこと(後半)

当事者の人や家族にとって不幸なことは、「選択肢がないこと」だと考えています。 自分が住む場所に1つだけショッピングモールがあれば、それだけで充分かと言われれば、そうとは言えない人もいるでしょう。 スーパーの方が落ちついて買い物できる人もいれば、個人商店のような小さなお店の方が店主と話ができて良いという人もいるはずです。 なかなか手に入らない果物が、八百屋さんに置いてあったということもあるでしょう。 選択肢があるということは、選択する楽しさがあるということです。 選択肢があるということは、自分により合うものを探すことができるということです。 選択肢があるということは、お互い対等な関係になることができるということです。 学生時代から、ずっと問題意識を持っていたことが、この選択肢が限られているということです。 これは全国的に言えることだと思いますし、そう言えるのは道外からの問い合わせや相談が私のようなところにも来ているという現実があるからです。 私は地域の1つの選択肢になれることを目指しています。 もし戦うべき相手がいるのでしたら、それは反対する人たちではなくて、無関心な人たちだと思います。 いろいろな反対意見を述べる人は、「どうにかしたい」「より良くしたい」と心から願っている人たちです。 真剣に考えているからこそ、課題が見えてくるということもあります。 自閉症の人たちの幸せを考えていない人は、意見など述べず、関わりを持とうとしないはずです。 イベントに共感し、参加する人たちは好意的な意見を言うのは当たり前なのですから、その陰に隠れている人たちにスポットライトと支援を届けることを私は行っていきたいと考えています。 今年の自閉症啓発デーは、これだけ賛否両論が飛び交うのですから、成功と言えるのではないでしょうか。 賛成する人も、反対する人も、真剣に自閉症の人たちについて考え、どうすれば多数派にとっても、少数派にとっても、より生きやすい社会になるかを考えたのです。 中心的に関わっている人たちが熱くならなければ、平熱の人たちに温かさが伝わらないはずです! 自分に対し反対意見を述べられることは、感情を揺さぶられても仕方ないことです。 でも、反対意見がある、反対意見が述べられる、という状況は、より発展していける土壌と可能性があることを示

ブログ300号を機会に私が伝えたいこと(前半)

自閉症啓発デーに対して賛成する人もいれば、反対する人もいます。 それは自然なことであって、どんなイベントだとしても、賛成だけ、反対だけということはありません。 自閉症啓発デーに異を唱えているのは、当事者や家族、支援者の中にそれぞれいます。 ブログやツイッターなどで意見を述べている人、直接、言葉や態度で表している人、私のところにも色々な意見のメールが届きました。 しかし、自閉症啓発デーや地元のイベントに対して賛同できない人が、"自閉症について啓発すること自体"を否定しているわけではないことは、しっかり押さえておく必要があると思います。 自閉症に対する偏見や差別は減らしていかなければなりません。 誤解によって学習や就労の機会が奪われることは、当事者の人にとっても、社会にとっても損失です。 周囲の無理解によって苦しんでいる当事者がいるのなら、理解につながるような支援を行うことは当然のことですし、本人の努力だけでは難しい部分は周囲からの歩み寄りが大切です。 当事者の方たちが努力している部分に気がつくのも、理解があってのことだと思います。 「自閉症の人たちにより豊かな人生を歩んでほしい」「多数派にも、少数派にも、生きやすい社会になってほしい」という願いは、自閉症啓発デーに賛成の人も、そうでない人も、共通していると思います。 異を唱えている人たちは、自閉症啓発デーのイベントや従来の啓発に対する方向性や方法に課題があるのではないか、と言っています。 例えば、 「芸術面の作品の展示を増やすことにより、自閉症=芸術面に長けた人たちという印象を与えませんか?」 「上手な作品を出展できる人は素晴らしい人たちで、自分にはそれができないからダメな人だ、というような捉え方をしてしまっていた人もいました」 「重い知的障害を持っている子の親御さんは、迷惑がかかってはならないから行かないようにしていると言っていました」 「イベントに誘ったら、自分が自閉症と知られたくないと言っていた人がいました」 「当事者の姿がみえない。彼らが活躍する姿が一番の啓発」 「主催者側の負担が多いです」 「子ども達もたくさん参加するイベントだから、青いコンドームを配るのは止めて欲しい」 などです。 このような意見は、それこそ"少数の意見"

妊娠出産前の人にこそ、自閉症について知ってほしい

自閉症のことを若い世代の人たちに知ってもらいたいと私は思っています。 特にこれから妊娠出産をする人たちに。 親御さんのお話で、我が子の自閉症が分かるまで、自分の育て方を責めたり、他の家族から責められたりした経験があると、よくお聞きします。 また自閉症とわかったあとでも、妊娠中にしたことを後悔したり、親族に変わった人がいないかを詮索されたり・・・。 特に、お母さんが悩み、ご自身を責めたり、責められたりすることが多いのが現実だと思います。 こういったお話を聞くたびに、もし妊娠出産を迎える前、自閉症についてちょっとした知識があれば、こんなにもお母さんが辛い想いをする必要はなくなるし、もしかしたら早期に気が付き、適切な支援へとつながっていけるのではないか、と思います。 私も、妻も、自閉症について知識があったので気にはなりませんでしたが、息子の妊娠がわかったあと、婦人科や母子教室などで自閉症についての説明はなかったので、もし我が子が自閉症だったとしても気が付かない夫婦は多いのだと思いました。 ほとんどの夫婦が、これから生まれてくる我が子に対して期待と幸福感を持っている時期ですので、障害について話をすることはためらわれるかもしれませんが、どの家族にも起こりうることですので、この時期に自閉症について知る機会があっても良いと考えています。 反対に、この時期だからこそ、しっかり我が子の障害について真剣に考えられるのも知れないとも思います。 自閉症は100人赤ちゃんが生まれたら1人以上いる計算になっていること。 妊娠中だけではなく、妊娠前の卵子と精子どちらにも環境から受ける影響で自閉症と関係すること(つまり、母親、母体だけのリスクだけではない)。 遺伝の影響も少なくないことなど、基本的なことだけでも知っておけば、出生後のいろいろなネガティブな状況が減るのではないかと思います。 少なくても「子育ての仕方や愛情不足から自閉症になるわけではない」ということを知っているだけでも、お母さんの心の負担を減らせるのではないでしょうか。 こういったことを考えつつ私にできることは、我が子が自閉症とわかったあと、絶望ではなく、希望という1つの光が見えるよう、自閉症という特性を持ちつつも、社会の中で自分の資質を活かし、力強く生きている当事者の人たちを地域に送り出すことだと

華のキャンパスライフは、"ビジネス"友人を見分けることから始める

今春から大学生になる彼。 入学式が終わって、まずやることは「ビジネス友人を見分けること」ですって。 話を聞いていると、彼の思考を表したユニークな視点であり、なるほど~と思ったので、ちょっと紹介。 ビジネス友人は、自分の趣味嗜好とは合わないけれど、大学生活を送る上では付き合っていかなければならない人たちのこと。 だから、大学内では仲良くするけれど、一歩外に出たら関わらないし、関わりたくもない。 大学の内外に関わらず、関わりたいと思う人が、心からの友人。 心からの友人とは遊びに行ったり、お互いの良い点も、悪い点も、言い合う人のこと。 このように、それぞれ明確に定義しています。 定義の内容や妥当性は置いておいて、この考え方自体は、大学生活を送る上で、とても大切だと思います。 大学は、それまでの学校生活とは異なり、人間関係も流動的で、かつ複雑化しやすい環境だといえます。 そんな大学生活を安定して送るには、人間関係の仕分けは重要です。 関わる人みんなと仲良くしようとすると、疲れ果てたり、トラブルが起きたりする可能性が高くなります。 また反対に、自分が嫌だと思った人との関係をスパッと切ってしまったら、チームで行うプロジェクトなどができなくなってしまうこともありますし、様々なトラブルの元にもなります。 くっつき過ぎても、離れすぎても、支障が出てくるのは、卒業後の仕事の世界も同様です。 仕事関係で出会う人の圧倒的多数は、心からの友人ではなく、ビジネス上の付き合いの人。 同僚、取引先、お客さんなど、自分の感性と合わなくても上手に付き合っていけることが求められます。 ですから、大学生活が始まる彼がビジネス友人を見分けることは、社会に出て働く前の大事な模擬練習になると思います。 心の中ではネガティブな感情があったとしても、それを表に出さずに接することができるのが、真の社会人。 大人になっても、大学時代の友人と交流が絶えない人は限られているはずです。 大学時代に関わった人の圧倒的多数は、大学生活だけの付き合いの人。 でも、だからといって、自分の感性の合わない人以外と関わらなくても、ぞんないな扱いをしても、良いということではありません。 心の中では苦手だったり、嫌だったりする人とも、表面上でも上手に付き合っていくことが、安定した大学生活を送る

自閉症支援に携わって丸10年

昨日、3年目を迎えたということもあり、多くの方たちからメール等で激励のメッセージを頂戴しています。 これ程、多くの方たちに応援していただいているとは、3年前にはまったく想像できていなかったので、大変うれしく思っています。 想像とは異なる早さを感じていますので、1つのブームになり、それで終わらないようにするためにも、地に足をつけた地道な活動を大切にしていかなければならない、と再認識させていただきました。 小さな活動を応援していただいている皆さま、本当にありがとうございます! てらっこ塾は3年目を迎えますが、私が自閉症支援の道に入ってから丸10年が過ぎ、11年目に突入しました。 元来、新し物好きで、飽きっぽい性格の私が、自閉症支援に関しては一向にその熱を失うことなく、今まで携わってこられたことを自分自身でも驚いています。 私のキャリアの始まりは、自閉症児施設の支援員でした。 子どもから大人まで幅広い年代の方たちの支援に携わらせていただいたことは、貴重な経験です。 私のベースにあるのは、知的障害を併せ持っている方たちと、強度行動障害を持っている方たちの生活支援で培われたものだと思います。 学生時代から起業を目標にしていましたので、「自閉症の人たちと寝食を共にすること抜きには、真の自閉症支援はできない!」と考え、キャリア最初の選択を入所施設にしました。 その選択は間違っていなかったと思うくらい、今の仕事に通ずるものがあると感じています。 てらっこ塾1年目は、知的障害を持っている自閉症の方たちの利用が多かったのですが、2年目に入ったくらいから知的障害を持っていない自閉症の人たちの利用がぐっと増えました。 3年目に入り、問い合わせがくるのも、やっぱり知的障害を持っていない方たちばかりです。 私は知的障害のない自閉症の人たちに対して高い目標を掲げ過ぎであると、指摘されることがあります。 それはきっと自閉症児施設での経験がベースになっているからだと思います。 多くの入所者の方たちは、重度、最重度の知的障害を持っていましたし、全国から強度行動障害の方も来ていました。 しかし、彼らは文句も言わず、誰のせいにもせず、支援を受け入れ、ゆっくりゆっくりと成長して変わっていきました。 強度行動障害の人たちが、徐々に落ちついていき、嵐が過ぎ去ったあとの

勝負の3年目突入!

「まったく仕事がなくても、3年間はやり通す!」と言って始めたてらっこ塾も、本日で3年目を迎えます。 いつも変わらず応援していただいている皆さま、本当にありがとうございます。 この3年目は、起業当初より"結果"にこだわる1年と決めていました。 お蔭さまで、利用してくださる人数は右肩上がりに増えていますが、私の重視する結果は、利用者数ではありません。 利用してくださった人たちが、私を必要としなくなった人の数です。 私が目指す理想の支援は、支援者を必要としなくなる支援です。 つまり自分自身で心身を整えることができ、どんどん成長していける姿を目指しています。 そういったことが身についていけば、以前は高くて乗り越えられなかった困難も、自分が大きくなることで低く感じ、自らの足で乗り越えられていくようになると考えています。 最低でも"私がいないと成長していけない"という支援だけは絶対にやらないと決めています。 支援者がその人の人生を左右してはいけないと考えています。 あくまで、その人の人生は、その人のものです。 私がその人の人生に影響を与えることがあるかもしれませんが、人生の選択肢はその人の手の中にあるべきです。 藁をも縋る思いで電話を掛けてきてくださる方が多くいます。 そういった方々は、"今"、困っています。 支援者の力が必要なときには、全力で手を差し伸べ、解決したあとには心身の整え方と成長の仕方を教えます。 そして、私の支援を必要としなくなっていってもらいたいのです。 現在、定期的に関わっている人たちの中にも、自分自身で心身を整え、成長できる段階まできた人がいます。 就職まで、あと少しのところまできた人も数名います。 是非、就職し、独り暮らしを始めたあと、「もう大久保さんはいりません」と言ってもらいたいです。 私をどんどん踏み台にし、自分の人生へと高く飛びだっていってもらうのが夢です。 もちろん、困ったことや相談したいことがあったときには、変わらずサポートします。 プロ野球界で名将と呼ばれている野村克也氏が、ヤクルトの監督時代、「1年目に種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう」と言い、実際に3年目で優勝させました。 私の場合、優勝はないですが

Tさんと一緒に働いた1年間

私は支援者としてではなく、同僚としてある自閉症の人の成長を1年間、傍で見ることができました。 私にとって貴重な経験であり、Tさんから多くのことを教えてもらいました。 Tさんは決して弱音を吐きませんでした。 また苦手なことがあったとしても、それを自閉症のせいにするようなことはありませんでした。 どんな困難や大変なことがあったとしても、自分でその課題を乗り越えようと日々、努力していました。 すべての課題は、「自分を成長させてくれるためにあるんだ」というような前向きな考え方の持ち主です。 仕事の内容自体も多岐にわたっていましたし、道から委託された事業を行っていましたので、その分、責任と要求されることの高さがありました。 しかし、Tさんは最後まで素晴らしい仕事を行い、役割を果たすことができました。 その結果、1年前と比べて職業人としても、人としてもさらに成長したように感じました。 私が一番感じたことは、「ナチュラルになった」ということです。 とにかく振る舞い方から固さがとれ、自然になったような気がします。 表情や話し方、仕事の進め方など、本当にスムーズになりましたし、相手に対してさらに好印象を与えるような雰囲気も感じます。 大変な仕事をやり遂げた自信と、本人の努力の賜物だと思います。 ですから、以前から皆に好かれていたTさんですが、もっと魅力的な人になりました。 他にもスタッフがいましたが、皆、Tさんが自閉症ということは全然意識していませんでした。 それよりも、一緒に働く大切な仲間の一人として見ていました。 そんな様子を感じるたび、「こういった職場が理想であり、真のノーマライゼーション」なんだと思っていました。 Tさんは、将来の夢に向かって歩みだしました。 自分自身で成長するパワーを持っているTさんは、これからも成長し続けるのだと思います。 そして人としても、どんどん魅力的な人物になっていくのだと思います。 私も自分の仕事を通して、Tさんのように自分自身で成長していけるような支援を行っていきたいと考えています。 私の頭の中にTさんという理想的な姿が置けるようになったことが、これからの私の強みになると思っています! 仕事でもたくさん助けてもらい、本当にありがとうございました。