2015年4月30日木曜日

大学における「合理的配慮」とは

昨年度から大学で自閉症支援を行っていますが、時折、疑問に思うことがあります。
それは「合理的配慮」についてです。
どこまでが合理的な配慮で、どこからがやりすぎになってしまうのか。
この点について関係者の間でも捉え方の相違が見られていますし、他の大学でも、特に発達障害の学生に対しては判断が難しいという声が挙がっています。

大学は障害を持った学生に対する合理的な配慮を行うことが求められています。
平成28年度4月より大学では、障害種別にどのような体制で、どのような配慮をしていくのかを明確に示すことになっています。
昨年度同様、今年度も準備の期間です。

「合理的配慮」も、合理性が欠けてしまえば、ただの特別扱いになってしまいます。
特に、同じ講義を受ける学生から、そのように思われてはなりません。
一歩間違えば、「障害を持っている学生の方が評価を甘くしてもらっている」「障害を持った人は、できなくても仕方がない」といった疑念や誤解を生んだり、「自分たちとは違う人たち」というような距離感を持たせてしまったりというような危険性があります。
課題や評価に関しては、障害の有無に関わらず、平等に扱われるのが当然ですし、努力すること、自分で責任を持つことは当たり前のことです。
配慮する場合には、きちんとその合理性を客観的、かつ具体的で明確に示すことが求められます。

しかし、機能障害の学生とは異なり、発達障害の学生の場合には、大学の中での不都合が障害ゆえの不都合か、それとも未学習、誤学習ゆえの不都合かが見えづらい点に難しさがあります。
例えば、視覚過敏があり、どうしても講義を安定して受けるには刺激の少ない一番前の席が必要であるとか、見通しが持てないと不安になってしまうので、最初に予定を教えてもらいたいという要望であるとかは、わかりやすい配慮であり、周囲からも同意が得やすい配慮だと言えます。
でも、コミュニケーションが苦手だから、グループワークは控えたいであるとか、不安なときに独語を言い続けるのを許してほしいであるとか、講義を受けるだけで疲れてしまうので、課題の提出日を他の学生より延ばしてほしいであるとかは、合理的配慮にあたるのでしょうか?

このような配慮は、周囲から同意は得にくいですし、合理的であるとは言えないと、私は考えています。
「コミュニケーションが苦手」というのは、自閉症の特性でありますが、まったくコミュニケーションがとれないということではありませんし、トレーニングによって成長もします。
ですから、聞き間違いや読み間違え、表現の違いなどのコミュニケーションを行う段階での配慮には合理性がありますが、グループワークが難しいから控えたいというのは、障害ではなく、個人の課題だと言えます。
同様に、不安なときに見られる常同行動などは、自閉症の特性の部分だと言えますが、講義中に独語を始めたら、講義を妨げることにつながったり、周囲の学生に不安感を与えることにつながったりします。
すべての自閉症の人が独語を言うわけではありませんので、配慮ではなく、周囲に影響を与えない方法の習得や独語を心の中で言うトレーニングが必要です。
講義を受けるだけで疲れてしまうのは、強弱はありますがすべての学生に共通していることですし、環境による刺激からの疲れなら、その講義を受ける環境に対する配慮が必要なのであって、課題の提出日を延ばす合理性があるとはいえません。

周囲からわかりやすい機能障害の学生と比べて、発達障害の学生はその障害の影響が見えにくいですし、欠損しているわけではないので発達もしますので、余計に複雑なのだと思います。
本当は本人の努力やトレーニングによって発達していく部分に関しても、「合理的配慮」という名で成長する機会を摘んでしまう可能性もあると考えられます。
特性ゆえの不都合に対しては配慮を行い、他の学生と同じ土俵に立てるようにしなければなりません。
でも、その不都合が特性からくるものなのか、特性が基盤にあるものの本人の努力とトレーニングによって成長や改善ができる不都合なのかを見誤ってはいけません。

単位をとって、大学を卒業することが目的なら、あまり深く考えなくても良いのかもしれません。
しかし、大学の目的は卒業後の人生にあり、社会に還元できる知識と技能を身に付ける機関でもあります。
「合理的配慮」に関しては、今後とも関係者の中で議論を深めていきたいと考えています。

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