合理的配慮はコストと利益のバランスで決まる

「合理的配慮」という言葉も、近頃では市民権を得たように感じます。
学校や企業、社会全体に障害を持った人への合理的な配慮が求められるようになっています。

一見すると、こういった流れは喜ばしい変化として受け止められているかもしれません。
でも、それは本人とその家族、支援者たちからの見え方です。
では、合理的配慮を求められるようになった方は・・・。

社会の声、流れから、合理的配慮に堂々と異を唱える学校や企業はほとんどないでしょう。
ノウハウはなくとも、障害を持った人にも同じような機会を、と思うはず。
でも、実際に行動するといったら、想いとは異なる選択をする場合もあります。

合理的な配慮を求められるということは、コストがかかります。
一般企業なら当たり前で、コストに見合う働きが得られないのなら手を挙げないでしょう。
もし手を挙げたとしても、よりコストの低く、起業にとってプラスとなる人材を求めるはずです。

これは学校でも同じことがいえます。
特別支援学校ならまだしも、一般的な学校には余裕がなく、積極的に合理的配慮をしてまで生徒を受け入れることまではしないでしょう。
いくら少子化とはいえ、誰でもOKというわけではなく、できれば、配慮が少なく、適応力が高い生徒の方が良いと思うのが自然な感情です。

つまり、合理的な配慮が求められるようになったからといって、すべてが良いわけではないということです。
合理的な配慮を実施していくには、ほとんどのところはノウハウがないので、支援者を入れることになります。
そういったとき、支援者が受け手側のコストを考えずに要求を続けていくと、「受け入れるのがめんどくさい」「できれば、受け入れたくない」という感情を抱かせかねません。

また、先に挙げたように障害を持った人の中でも、より合理的な配慮が少なくて済む人が求められるようになり、競争が生まれます。
障害者雇用が進んでいかないのも同じ理由です。
「雇うなら配慮が少ない方」「身体障害の人の方が良い」という本音があります。

一般の社会の物差しは、コストと利益のバランスで成り立っています。
「合理的配慮を!」「法定雇用率を上げよう!」という声は、受け手側のコストを高く印象付けることにつながる可能性があります。
もちろん、社会が変わることで機会が得られるようになる方もいると思いますが、それはいわゆる「棚から牡丹餅」で、これからはコストを低くでき、利益が大きいと思われるように力を個々がつけていかなければならない時代だと考えています。

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