自分の支援に自分が参加する

「私が支援者です!」みたいなのって嫌なんですよね。
何だか偉そうだし、支援する側と支援される側をはっきり分けるみたいで。
支援する立場、支援される立場がはっきりしちゃうと、支援の流れが一方通行になってしまいます。
常に支援する側が支援を与え続け、それを支援される側が受け取り続ける。
支援する側始まりの支援。

このように支援の流れが一方通行になってしまうと、支援される側がいつの間にか受け身になってしまいますよね。
受け身の姿勢って、本当に面白くない。
だって、双方の交流が生まれなくなるから。
お互いの意見、捉え方、考え方が交流することによって、新しい刺激を生みだすのに、一方通行の支援では新しいものが生まれません。
生まれるとしても、支援する側に主導権があるのです。

私が支援に携わるときは、支援する立場と支援される立場の境目を消すように心掛けています。
第一の目的は、支援される側の受け身の姿勢を作らないためです。
支援者の影響なんて、高が知れてます。
支援はあくまで補助であり、ヒントです。
だから、変わるのも、成長するのも、本人の意思と行動にかかっているのです。

支援者のためではなく、自分のための支援なのですから、自分自身の頭で考えることが必要になると思います。
そうして自分自身で選択していく。
自分自身が「支援に関わっているんだ」という気持ちを持てるかが大事です。
自分が支援に関わっているという意識が芽生えると、主体的な姿勢が形成されていきます。
主体的な姿勢、体勢が整えば、支援者がいなくてもどんどん変わって、どんどん成長することができるのです。

「この当事者には、自分がいなくてはならない」なんていう愚かな考えを持つ支援者もたまに見かけます。
これは支援を"与えるもの"と捉えている証拠です。
「私はこんな有名で地位も高い人から支援を受けています」ということを喜んでいる当事者もたまに見かけます。
これは支援を"与えられるもの"と捉えている証拠です。

どうしようもない支援者は、どうしようもなくても生きていけますが、受け身の姿勢の当事者は、支援者がいなくては生きていけなくなります。
もちろん、これは死ぬということではなく、自分でどうしたら良いか考えることができず、途方に暮れてしまうという意味です。
私も受け身の、依存的な当事者の方の支援に携わることがありますが、やっぱりこういう人たちは変わるスピードも、成長するスピードもかなり遅いです。
そして一回の支援の効果が薄い。
反対に、自ら自分自身を支援できていける人は、一回の支援でガラッと変わったりします。
ですから、いつも当事者の人が自分の支援に参加できることを念頭に置き、敢えて答えを出さなかったり、考えさせたり、悩ませたりするスキを作るように心掛けています。
大事なことは、自分のことを自分で支援できるようになることです。
たった週に1回、支援されても、それだけでは何も変わりませんよ。

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