2015年10月30日金曜日

引き算で理解する人たち

自閉症の人たちは「"引き算"で理解する人だな」と、改めて感じることがありました。

最近、特に寒くなったので、お母さんが湯たんぽを布団の中に入れてくれたとのこと。
そうしたら、「とてもあったかくて気持ちが良かった」と喜んでいた男の子。
そして「今まで寒かったのが、初めて分かった」と言っていました。

私たちは、布団が寒ければ、「寒い」と感じることができます。
でも、その子は温かい状態を知ってから、「あっ、今までは寒かったんだ」と感じることができたのです。
これは感覚面の違いというのが背景にあるのだと思います。
「寒い」というのは感覚ですので、身体面からの情報がうまく伝わらない、キャッチできないのかもしれません。
また、それだけではなく、「見えないものは、ない」人たちなので、経験してみないとわからないということがあるのかもしれません。
初めて湯たんぽを使い、温かいという状態を知ったため、比べることができた。
湯たんぽがある状態とない状態だと、ある方が温かい。
だから、湯たんぽを使っていなかった今までは「寒かったんだ」とわかることができた。
こういった流れを見ていると、定型発達の人とは「寒い」を認識する過程に違いがあることがわかります。

私たち、定型発達の人は、いろいろな情報を掴み、統合し、想像することが瞬時に行えます。
そのため、足し算で物事を捉えることができます。
でも、自閉症の人は、想像するという過程がマニュアルなので、どうしても足し算で物事を捉えることが苦手のように感じます。
例え、足し算していても、途中式が長く、その間で間違う可能性が高いようなイメージです。
ですから、引き算で物事を捉える方が途中式が少なく、分かりやすいような気がします。

寒くない状況を知って、初めて今までが寒かったことがわかる。
これは自閉症の人たちの視点を表したエピソードだったと思いました。
「見えないものは、ない」という捉え方は、自閉症の人たちを理解する上で大事なキーワードであることを改めて気付かせてもらいました。

2015年10月29日木曜日

長い支援ミーティングはお断り

企業の側からすると、正直、支援機関がウザいらしい。
営業時間に1時間。
長い人だと2時間くらい支援ミーティングが続き、時間がとられていく。
通常の仕事がある一方、関係がある職員はミーティングに参加しなければならない。
「時代の流れとして、障害を持った人たちにも働いてもらう意義はわかるけど、企業側のことも考えて欲しい」というのが本音。
「時間を使うということは、他人の時間を使うということがわかっていない」というご意見も、私はごもっともだと思う。
だいたい私も呼ばれる支援ミーティングは長い。
「この人達は長い時間をかけることが良い話し合いだと思っているの!?」
「他人の時間を消費しているというのが、わかっていないの!?」
と感じるようなことは多々ある。
最初の支援機関のアプローチで、「ウザい」「面倒くさい」と思われたら、かなりの躓きだと思う。

「作ったサポートブックに意見が欲しい」という依頼も結構ある。
私はビジネスとしてやっているから全部見ますが、正直、しんどいと思うことがある。
将来を見据えて、一生懸命作られているのはよくわかるが、だいたい熱心な方ほど、分量が多い。
文字だけではなく、絵や写真もふんだんに使い・・・。
企業に置いてあるようなでっかいファイルをどんと置かれたときには、ビックリした。

サポートブックは、家族が見るものではなく、支援する人が見るもの。
だから、他人が見てくれるものであるのが大前提。
何十ページもある膨大な資料を端から端まで読んでくれる人はどれくらいいるだろうか。
施設で働いていたときも、同様にサポートブックを渡されることがあったが、だいたい見ない。
すべて読んでいる時間があったら、実際に子どもを見た方が早いから。
見ることがあっても、わからないことをポイントで見るだけ。

支援者がしんどいなと思うものは、一般の人はかなりしんどい。
ときどき、一般の就職先に渡そうとする方もいますが、渡された方が困ってしまう。
一般の人はサポートブックを見ただけでプレッシャーになるし、「読んでる暇がないよ」という気持ちが先行するのが当然。
障害を持った人と働くことは選択したかもしれないが、「障害を持った人の支援者になろう」とは多くの人は思っていない。

サポートブック自体は否定しないし、自分で伝えられない人は双方をつなぐ重要なものだと思う。
でも、自分で説明できる可能性がある人は、それを目指した方が良いと思う。
私が支援に携わっている大学生たちは、みんな「どういった配慮が必要なのか」が説明でき、交渉できることを目指している。
教授に対して、「こういった配慮をお願いしたい」「こういった配慮があれば、よりよく活動ができる」と説明し、交渉してもらうトレーニングをしている。
大学の先生に対してうまく説明できなければ、一般企業で配慮を得ることは難しいといえる。
企業に就職し、「サポートブックに僕の苦手なこと、配慮してほしいことが書いてあるから見てください」と言っても相手にされないだろう。
それよりは、「自分にはこういった配慮があれば、これだけパフォーマンスが上がります」と自分で説明できる方がうまくいく可能性が高いと考える。

支援機関は支援している時間がお金になる。
しかし、その他大勢の人たちは支援以外のことでお金を得ている。
「自分のために割いてくれた時間は、相手の時間を消費したこと」という原理原則もきちんと教えていくためにも、支援者の方も相手の立場に立って支援ができるようになる必要があると思います。

正しい姿勢を「〇」「×」で教える!?

外出先で、「すぐに椅子や床に寝そべってしまって困ってます」というご依頼。
公共の場所での望ましい振る舞い方や、他人の迷惑になってしまうことを絵や文字で説明したり、良い姿勢と悪い姿勢を「〇」「×」つけたカードを作ったり、といろいろやったらしい。
それでも全然うまくいかずに、「私の支援が悪いんです」と親御さん。

その子に会ったら、一瞬で原因がわかった。
いくら構造化しても意味はない。
だって、その子、座位の姿勢が保てないんだもん。
背もたれのある椅子でも、すぐに姿勢がだらんとしてしまう。
だったら、よく公共の場所にある背もたれのない椅子なんか、座ってられないでしょうに。
特に身体面での発達の遅れもある子だったら、外出しただけで疲れちゃう。
だから、たくさん疲れるし、そもそも座位の姿勢が保てないんだから、椅子や床に寝そべってしまうのもよくわかる。
それを視覚的に見せたからってできるようになるわけないし、怒って寝そべるのをやめさせても、またすぐに元通り。

ちょっと自閉症支援をかじった人なら、絵や文字で視覚的に示せば、うまくいくと考えがち。
だから、視覚的に表してうまくいかなければ、その視覚化のやり方がわるいはずだと思ってしまう。
そもそも発達障害は、認知面だけの凸凹を言うのではない。
身体面での発達にも凹凸がある。
それなのに、なんでもかんでも構造化、視覚化。
いくら目に見えるようにしても、いくら正しいマナーが分かったとしても、望ましいように身体が動かせなければ、できっこない。

「発達障害は身体障害じゃないか」という方もいる。
私もその通りだと思うし、もっと身体面に注目して良いと思う。
以前、箸が正しく持てない子の指導で、正しい箸の持ち方の写真と悪い箸の持ち方の写真を見せるということをやっている学校があった。
落ち着いて考えて欲しい。
いくら正しい箸の持ち方が分かっても、その通りに手が動かせなかったら無理でしょ。
しかも、箸の持ち方は、実際に箸を持って練習するのが自然でしょうに。
その子は成長した今でも、正しい箸の持ち方、悪い箸の持ち方は知っているが、正しく箸が持てないまま。

食事の姿勢、勉強の姿勢が悪いと、注意したり、マナー講座をしたり、視覚化したりして指導する。
でも、そんなことしても知識が増えるだけで、実際にはできない。
だって、その姿勢ができないという理由が身体面にあるはずだから。
だったら、まずは姿勢が保てるような体幹、感覚面を発達させるトレーニングをすべき。
きちんと体幹、感覚面が育てば、望ましい姿勢になるはずです。
支援者も、頭でっかちになって頭だけ使うのではなく、身体ももっと使うべきだと思いますね。

2015年10月27日火曜日

問題の原因は、その前後の出来事"だけ"ではないはず

問題行動を前後の出来事や環境だけで原因を分析し、対処方法を導き出そうとしたら、なかなか答えが出てこない。
だって、人の行動に影響を与えるのは、その行動の前に起きたこと"だけ"ではないから。
「ある出来事→問題行動」という単線ではない。
ある出来事がきっかけには違いないかもしれないが。
でも、そのきっかけだって、本当に支援者が注目している出来事なのかはわからない。
直前の出来事がある人の声だったとしても、本人は声以外の情報に注視していたかもしれないから。

問題行動だけではなく、行動全般はさまざまな影響を受けている。
そのときの気分や体調、音や匂いなどの五感からの情報、過去の経験や学習というのもある。
また、その行動を意図的に行ったのか、たまたま行ったのか、というような違いもある。
とにかく、人の行動に影響を与える要素は1つだけということはなく、それよりも複雑な要素が重なり合っていると考える方が自然だといえる。
熱い鍋を触って、さっと手を引っ込めるような反射だったら、1つかもしれないが。
光に集まる習性を持つ昆虫とは違う生き物ですので。

そうは言っても「じゃあ、どこから手をつければいいんですか」とツッコミが入りそう。
でも、それは簡単なこと。
始めは動物的な部分に注目し、そこが整っていなければ、改善していけばいい。
快食、快眠、快便が動物の健康の基本。
そして、身体面での病気や不調、疲れ等がないかをチェックする。
身体が整っていなければ、ちょっとしたことで怒ってしまったり、衝動的な行動をとりやすくなってしまう。

問題の行動の原因が
「身体面」
「直前の出来事」
「過去の経験」
「身体面+直前の出来事」
「身体面+直前の出来事+過去の経験」
「身体面+過去の経験」
「直前の出来事+過去の経験」
というように、「身体面」「直前の出来事」「過去の経験」とたった3つの原因であると仮定しても、これだけパターンが出てくる。
実際はもっと複雑なパターンが考えられる。
だから、原因を1つでも少なくするために潰していく作業が答えへの近道である。
そこで何から潰していくかと言ったら、やっぱりすべてに影響を与える「身体面」ということになる。

昨晩、寝れなかった。
朝食もほとんど食べていない。
うんちも出てない。
虫歯がある。
風邪気味・・・
で、何の問題もなく、落ち着いて学校で勉強している方が不思議。
そりゃあ、ちょっとしたきっかけで物を投げてしまいたくなる。
それなのに、「声がけのタイミングが悪かったのでは」「課題が難しかったのでは」「クラスの子の音がうるさかったのでは」というように原因探しを始めだすと、迷路の中に入ってしまう。

快食、快眠、快便で、しかも身体面も問題なく、元気いっぱいだったのに、急に問題の行動が・・・というのなら、前後の出来事を分析したら答えが出てくるかもしれない。
(でも、ちっちゃなイライラが積もってというのもあるか)
まあ、前後の出来事だけではなく、もっと広い視野で分析することが大事ってこと。
あとは、整えられる部分があれば、そっちの方の改善を目指すことも大事です。
ですから、問題行動が起きる場所だけの問題ってこともないし、そこだけで解決しようとしても無理な場合もある。
24時間生活全般を見て、行動の改善に努めていくことが大切だと思います。

2015年10月26日月曜日

特別支援学校&学級の子ども達が行っているSSTを見て…

久しく知的障害を持った方からの新規依頼はなかったのですが、ある新規の子が始まってから、その親御さん伝えに知的障害を持った方たちの依頼が来るようになりました。
2年目以降、知的障害を持っていない方たちばかりだったのですが、久しぶりにいろいろな方と接するようになりますと、以前とは違った見え方がします。

知的障害を持っている子ども達ですので、特別支援学校&学級に通っています。
以前はあまり思わなかったのですが、「学校や家で高度なことをやっているな」と思うのです。
通常学級に在籍している子でも、「こんなレベルはやっていない」「理解できるかな」というものもあります。
教科学習の面では違いがありますが、特にソーシャルスキルに関することでは差がない、もしくは特別支援の子の方が高度なことをやっていると感じます。

こういった見え方をするようになったのは、先日行った発達援助イベントの影響が大きいのだと思います。
知的障害を持った子たちの新規が増えたタイミングで、この研修に参加できたのも、何かのメッセージがあるように自分では思っています。

正直なところ、知的障害を持った子ども達がこのような高度なSSTをやって身につくのだろうか、そもそも何を伝えられているのかわかっているのだろうか、と疑問に思うのです。
そもそも勉強していて楽しいのかな、とも。
知的障害のない子ども達でもSSTがうまくいかないことばかりです。
いくら知識として学んでも、場面が変われば応用できない、または理解しているようでも、根本の部分ではわかっていない、ということが多々あります。
どちらかというと、理解しているのではなく、形としてその場に適した言動を行っている人が多いのです。
こういったSSTは、脳の表面に働きかける学習なのだと思います。

先日の発達援助イベントでは、脳の深部に働きかけるSSTというお話がありました。
確かに、脳の発達過程から自閉症の人たちを見ると、仰っている理論がよくわかります。
脳の深部を刺激し、発達を促すことで、全体的な成長を目指していく。

「〇〇は×」の"×"は抽象的な表現です。
その子はどのくらい抽象的な概念が理解できるのでしょうか。
「こういった場合は〇〇します」の"こういった場合"を構成している情報をすべてキャッチできる力があるのでしょうか。
また、他の場合との比較するために、頭の中に複数の場面を置いておけるのでしょうか。
他人と交流する場合、他人と自分の境目がわかっているのでしょうか。
そもそも自分という存在がわかっているのでしょうか。
そして根本的な話として、知識として得たものを実際の行動として変換することができるのでしょうか。
知的障害を持っていない人たちでも、得た知識を実際の場面で行うことに困難さを持っています。
ですから、知識からのSSTではなく、実践を通して、もっと言えば、頭ではなく、身体を通して学んでいます。

知的障害を持っている自閉症の人たちこそ、情報を受け取りやすい部分から刺激すること。
そして、脳の深部に働きかける学びの方が適しているのだと思います。
「×」とか、「手伝って」とか、振る舞いとか、他の場面への般化とか、抽象的な概念を理解できる力が求められますので、かなり高度な脳力が必要となってきます。
もし般化ができない、できているように見えるがパターンとして覚えているだけ、という場合には、脳の表面からのみではなく、脳の深部から学びを始めた方が身につくかもしれません。
これからは知的障害の有無に関わらず、発達障害の人たちに対する発達援助支援はこのような流れが主流になってくると思います。
身体を使った学びは理解しやすく、子ども達にとっては「楽しい」と感じやすいですからね。

構造化で頑張らない

「この構造化、どうですか?」と、意見を求められることがある。
一生懸命勉強され、工夫し、何度も作り直している感じが伝わってくるものばかり。
家のこと、家族のこと、自分のことなど、いろいろあるはずなのに、時間を削って作った支援グッズ。
その頑張りに頭が下がる思い・・・でも、嘘をつくわけにはいかない。
もし私が「Good!」と言ったら、本人に合っていなくても使い続けるかもしれない。
また、親御さんをさらに頑張らせてしまうかもしれない。
もちろん、親御さんが頑張ることは大事だが、支援グッズを作ること重視になるのがあまりよろしくない。

親御さんの頑張りと、構造化の良し悪しは分ける必要がある。
私がよく感じるのは、「脳みそに負担のかかる構造化」ということ。
一生懸命な親御さん、または支援者ほど、脳を使う構造化、支援グッズを作る傾向がある。

自閉症支援における構造化のポイントは、学習能力を引き出すこと。
どうやって引き出すかと言ったら、分かりやすくすること。
分かりやすくすることで、脳みその負担を減らし、その分学習や活動に脳みそを使えるようにする。
何かを学ぼう、活動をしようとしても、伝えられていることが分からなかったら、それが何か読み解くだけで脳みそをたくさん使ってしまう。
そうすると、本来の学習、活動までに脳みそ疲労&余裕がなくなってしまう。

常々申し上げているが、構造化は頑張ることではない。
それは本人も、親御さんも。
本人にとっては、それがあることで、ないよりも脳みそを使う必要がなくなることが大事。
つまり、その構造化があることで、脳みそに余裕ができるのが良い構造化のポイント。

親御さんにとって自分で支援グッズを作るということは、「私は頑張ってる」というのが分かりやすいが、その頑張りがより高度な支援グッズが使えることに向かいやすくなってしまうのも事実。
ときに、お子さんを支援グッズで頑張らせてしまうことがある。
お子さんが支援グッズで頑張ってしまうと、学習や活動まで行きつかない、または本来の力が発揮できなくなってしまう。
ですから、親御さんも構造化で頑張りすぎないことが大事。

親御さんが支援グッズ作りに没頭してしまう気持ちもわかります。
毎日、子どもの成長を感じられるわけではありませんし、できたり、できなかったりを繰り返すことは良くあることですから。
だから、目に見える形で親御さんにとっても「頑張ってる」が分かるものが欲しくなるのは自然なこと。

だいたい私に支援グッズの良し悪しを尋ねられる方たちは、ダメだしされることがわかっている人たちばかり。
「褒めて欲しいな~」と思っているときは、別の人のところに行きますから(笑)
私はきちんとダメ出ししますし、その方が親御さんにとってもレベルアップにつながると思います。
また、1日の時間は限られていますし、お子さんのことだけに労力は避けません。
ですから、効率よく、正しい方向性で頑張れるように、とお話しさせていただいています。

本人の心身を安定させる手立て、より良く成長できる手立ては、支援グッズだけではありません。
脳の表面ばかりではなく、もっと脳の深部に注目することが大切だと考えています。

支援グッズ<活動のおもしろさ

週末、支援グッズをたくさん持った親子を見かけました。
イヤーマフをしていましたし、雰囲気からも自閉っ子かな。
グッズを見せながら話をしていたので、スケジュールの説明をしていたのでしょう。
男の子は落ち着かないようで、身体も、視線も、あっちこっちでしたが、お母さんが一生懸命コミュニケーションを取ろうとしているのがわかりました。

この親子の姿を目にし、学生時代のサマースクールのことがふと思い出されました。
私が学生だったのは、2000年代前半。
ちょうど高機能ブームのとき。
自閉症支援に注目が集まっていた時期で、サマースクールも「構造化しなきゃならない!」と社会人ボランティアの人たちからプレッシャーを掛けられた時期でもあります。
ほとんど勉強していない学生主体のサマースクールですから、当然のごとく自閉症支援の波にのまれていき、年々、教室の構造化、一人ひとりのスケジュール、手順書・・・と、その準備にウエイトが大きくなっていきました。
そして、その分、活動の内容がやせ細っていきました。
そりゃそうですね。
参加人数もピークのときで、100人を超えていましたから。
100人分の支援グッズ×5日分ですからね。

私はこの様子を見ていて、ずっと違和感を感じていました。
メインは支援グッズではなく、活動の充実ではないか、と。
せっかく学生ボランティアもたくさんいるんだから、一緒に目一杯遊べばいいんじゃないか、と。
そこで自分が実行委員の中心になったとき、サマースクールが始まった当初のように、活動の充実にウエイトを置くよう方向転換しました。
支援グッズは、活動をより良く楽しむための補助ですから。
そのとき、参加してくれていた子ども達は、今でも「そのときのサマスクが一番楽しかった」と言ってくれます。

休日に視覚的な手立てをたくさん持って出掛けている親子の姿はよく見かけます。
より良く楽しめるように、と思ってのことでしょう。
でも、もう少し肩の力を抜いて、せっかくの休日ですから一緒に活動を楽しむことを重視しても良いと思います。
大事なことは、支援グッズを使って余暇を楽しむことではなく、余暇を楽しむためのアイディアの1つとして支援グッズがある、ということです。
あくまで支援グッズは補助ですし、本人が自分自身で容易に利用できることがポイントです。
支援グッズを使うのに支援者の労力がたくさんいるということは、その支援グッズ自体に?がつきますし、一人で使えるように教えたいのなら実践の場面以外で身につけ、それからでしょう。
せっかくボーリングに来た、カラオケに来た、というのに、そこで「将来のために勉強しなさい」と言われたら、どんな気持ちがするでしょうか。
手帳をささっと見るくらいならいいですが(でも、手帳を自分で持ってなくて他人から見せられるならイヤ)、私なら勉強は嫌ですね。
余暇と勉強は分けた方が、脳みその負担は少ないですから。
外出から家に帰ってきたとき、疲労感よりも、充実感の方が大きい方が良いですね。

2015年10月22日木曜日

具体的な手立てを持っていない人が言うセリフ

学生時代の専攻は、障害児教育ではなく、教育心理学。
心理学というと、人の気持ちや考えなど、「相手の心の中を見る」みたいな印象を持たれるかもしれませんが、実際は心を見ようとするのではなく、行動(身体、脳を含む)を見ます。
行動を見ることによって、その人が何を考え、思っているかを予測します。
そもそも"心"って実体のないものですから、自分以外の人間は、その人の身体(脳や行動)を見るしかできませんよね。

これって自閉症支援でも同じだと思うんです。
他人からは心の中を見ることができない。
自閉症の人の中には、自分の心の中を掴むのが難しい人、表現することが難しい人もいる。
ですから、自閉症支援も"人"を支援するっていうことですから、身体から考え、身体から支援していくのが基本だといえます。

「こんなこと当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、実際の場面で遭遇するのは、心を中心に捉えている多くの支援者たち。
障害者支援は福祉との結びつきが強いからかもしれません。
また、現在の日本のオピニオンリーダーたちは、ご家族に障害を持たれた方が多いので、口では「治療、教育」と言っていても、どうしても家族としての心情が全面に出てしまうのかもしれません。
とにかく、これだけ自閉症の脳を中心とした研究が進んでいるのにもかかわらず、未だに「心を育てる」「心に寄り添う」のような講演や書籍が多いのが、"心"中心の支援を物語っていると感じます。

別に「自閉症の人、子どもの心や気持ちなんてどうでも良い」と言っているのではありません。
ただ自閉症支援はサイエンスです。
分析と仮説と根拠と結果と再評価がなくてはなりません。
「心に寄り添う」だけでは、自閉症の人たちを成長させ、自立させることはできません。
他人の心を掴むことはできませんので、支援者がいくら「心に寄り添った」と言っても、それは心に寄り添った"つもり"にしかならないのです。
支援者は抽象的な支援ではなく、具体的で客観性のある、そして一番大事な"結果が出る"支援ができなければなりません。
楽しい思い出を作るのは、支援者ではなく、家族の役割です。

私がトレーニングを受けたときも、「ストレスという見えないものを根拠にするな」と教わりましたよ。
とにかく見えるもの、確認できるもので支援を展開していけ、と。
「ストレスや心を出発点にしていたら、一生、問題行動を無くすことはできない」とも言ってました。
当たり前と言えば、当たり前のことなのですが、日本の多数派とは違うように私には見えます。

自閉症の人が学校や職場でトラブルを起こすと、「ストレスが原因だ」→「ストレスを取り除こう」という流れになります。
でも、本当にストレスが原因なのか、どのくらいの程度のストレスなのか、そもそも本当にストレスになっているのか、が確認できない・・・。
それにストレスなどの刺激がまったくない学校や職場はないのですから、ストレスを云々かんぬんではなく、本人の心身を整える方法、ストレス等に耐えられる&切り抜けられる力を身に付ける方が現実的と言えます。
ストレスのモグラたたきをしていたら、通える学校も、職場もなくなってしまいます。

不登校やひきこもり、非行も、「いじめによる心の傷」「心の闇を抱えている」などと言われますが、それは支援の手立てを持っていない人のセリフです。
きっかけがいじめや失敗、挫折かもしれませんが、それ以前に身体面のしんどさを抱えていたということも考えられます。
自閉症の人たちは、定型発達の人とは異なる脳、感覚、身体を持っているのですから。
身体的なトレーニングで変わった人や、快食&快眠&快便で変わった人もいます。

見ることのできない、確認することのできない"心"を中心とした支援は、家族や周囲の人を安心させるかもしれませんが、本人の成長、自立を確実に促すものではありません。
そして、何よりもお金を貰って支援している第三者が"何となく"支援していてはいけません。

自閉症の人たちと接していて感じるのは、定型発達の人も、自閉症の人も、みんな"心"は変わらないということです。
自閉症の人たちは心に闇を抱えているわけではありませんし、もちろん心を閉ざしているわけでもありません。
違うとすれば、身体面と思考の違い。
ですから、ここにアプローチするというのが、自閉症支援の基本だと考えています。

2015年10月20日火曜日

親子の息遣いを感じる

親御さんとお子さんが「同じ息遣いだ」って感じることがあります。
本人が落ち着きのない子だったら、親御さんも息遣いが早く、本人がおっとりの子だったら、親御さんもマイペースな方だったり、と。
親子ですので、性格が似るということもあるかとは思いますが、どちらかと言うと、お子さんに合わせて親御さんの息遣いが変わった、というのが、事実のような気がします。
顔かたちが似ていないのに、お子さんを見たら「あの方が親御さんじゃないかな」、親御さんを見たら「あの子が息子さんじゃないかな」と直感で分かることがありますね。

先日の発達援助イベントで話されていたのですが、「親御さんが固いと、子どもも固い」「親御さんに余裕がないと、子どもも余裕がない」というような気が私もします。
お子さんに指導しようとしても、なかなか受け入れず、頑なな場合、親御さんの思考や身体も固いということがあります。
親御さんとお話をしていても、緊張が強いことが手に取るように分かり、そういった方に限って、なかなか新しいことにチャレンジしてみようという気が起きにくいように感じます。

反対に、親御さんに余裕があり、「失敗するかもしれないけど、やってみましょう」というような感じでしたら、結構、お子さんも新しいことに挑戦しようとし、変わっていく場合が多くあります。
お子さんが柔軟で、何でも挑戦してみようとする場合は、親御さん自体も柔軟な考え方、前向きな姿勢が見られます。

「親御さんをどう支援していくのか」
もっと具体的に言えば
「どうすれば余裕が生まれるのか」
「どうすれば身体の緊張が取れるのか」
が今後の支援の方向性として重要で必要なことではないか、と先日の発達援助イベントで教えていただきました。

実はいろいろな依頼を受ける中で、本人の支援というよりは、親御さんの支援の方が重要ではないか、親御さんが落ちつけたら、本人も落ち着くんじゃないか、というケースは少なくありません。
実際、このような雰囲気を感じたときは、親御さんの悩みや課題の解決を優先的に行い、結果としてお子さんが落ちついた、元気になったというケースもあります。
ですから、本人や家族の息遣いを感じることが支援の入り口になる場合もあるのです。

2015年10月19日月曜日

自分の学習形態に合わせて変換できる力を養う

お昼ご飯を食べながら「1つ前のブログだけだと、誤学習させちゃう危険性アリ」と思ったので、もう少し書きます。

1つ前のブログでも書いたように、その子に合った学習形態で学ぶことは大事なポイントです。
でも、「自分に合った学習形態で勉強できないこともある!」ということは押さえておかなければなりません。
たまに、通常学級に在籍している子で「この子は〇〇という学び方が合ってるのだから、授業の形態も合わせてください」などと要求する方がいます。
確かに発達障害の子ども達は学び方が合っていないと、かなり学習効率が下がります。
しかし、通常学級にはその子以外の子ども達も在籍しています。
その子に合っていない授業形態かもしれませんが、他の子にとっては合っている授業形態かもしれませんし、環境上、発達障害の子が求める授業形態にできないという可能性もあります。

「授業形態を変えてくれないのは、学校側の問題である」
「もう通常学級ではだめだから、特別支援学級に転籍する」
というのは、安易な発想だと言えます。
自分に合わせて環境側をどうにかしようというのでは、可能性を狭めるばかりです。
ですから、私の支援では「自分の学習形態に合わせて変換できる力を養う」ということを目標の1つにしています。
例えば、文字で説明されてもわからないときは、自分で絵を描いてみる。
抽象的な思考が難しければ、具体的な物を使って考えてみる。
聴覚情報だけで理解するのが難しければ、動作をつけてみる。
一気に情報を見せられると掴みにくいならば、自分で情報を細切れにしてみる。
など、その子と一緒にどうすれば、今よりも学びやすくなるかを"変換"というキーワードを基に考えていきます。
そして、どんな授業形態であっても学び続けられることを目指していきます。

もちろん、すべての授業形態において自分に適した形態に変換できるとは限りません。
そのときは、それで良いのです。
その分、自分で勉強して補っていけば良いのです。
自分一人で勉強するなら、得意な学び方を使ってどんどん進んでいけますから。

学校でも、自分に合った学習形態で教えてくれるなら、これに越したことはないでしょう。
でも、現実は難しい。
「自分に合った学習形態に授業を変えてください」と先生に頼めますか?
そして、どれくらいの確率で応じてもらえると思いますか?
小学校、中学校、高校、大学、そして職場でも・・・。

自分の脳みそに合った学習形態を知ることが一番大事。
そして、自分に合っていない形態のときは、どうやって得意な形態に変換するかを考え、実践することと、自分自身で自分に合った形態でどんどん学習していくこと。
この3つのポイントを押さえ、子どもの頃から身に付けていくことが、将来の可能性を広げ、障害に渡って学び続けられる人間を作っていくのです。

*もちろん感覚面に対する配慮を求め、交渉していくことは大切です。

個別指導は、ただ1対1で学ぶことを指すのではない

「個別指導」をただ"指導者と子どもが1対1で学習する"ことだと思っている人がいるようですね。
「個別指導やってます」というので見てみると、「それって見張ってるだけじゃない」というのもあるし、ただ集団ではなく、ただ一斉授業ではなく、個別に勉強しているだけというのもある。
そこら辺の学習塾の個別指導と同じような感覚の人が多いのかな。

自閉症支援における「個別指導」って、もっと奥が深く、個別という意味が「集団で一斉に勉強するのが苦手だから一人で勉強します」っていうのとは違います。
確かに環境面から考えると、刺激に注意や学習効率が左右される人たちなので、刺激の少ない環境が望ましいでしょう。
でも、個別化は環境だけの配慮ではなく、学習形態についても個別化する必要があります。

定型発達の子どもなら、自分に合った学習の仕方(教わり方)では"なくても"理解でき、身に付けていくことができます。
例えば、図で指導された方が分かりやすい子でも、言葉によって説明や指導がされれば、それに合わせて理解し、学んでいくことができます。
しかし、発達障害の子どもの場合は、自分に適した学び方、教わり方ではないと、学習効率ががくっと下がります。
見て理解する学習形態の子が、通常学級で言葉ばかりで説明されているため、ついていけないということはよくあります。
私が勉強を教えている子もまさにそのタイプで、指導の仕方を変えれば、すぐに理解でき、学校の成績もトップレベルまでいった子もいます。

個別指導では、その子の学習形態を見極めることが必須です。
もっと言えば、脳のタイプを掴むこと。
計算問題は得意なのに、文章問題になるとできなくなるなんていうのは、脳のタイプを読み解くには重要な情報です。
他には漢字の読みと書きではどちらが得意か、記憶する問題と考えて答えを導き出す問題のどちらが得意か、九九を覚えるのと暗算はどちらが得意かなど、それぞれ比較すれば、見えてくる脳のタイプがあります。

また、脳の表面ばかり注目するのではなく、もっと深い部分を見ていくことも重要です。
ある子は、九九の中の4と7が出てくる部分だけ覚えられないということがありました。
そこで見えてきたのが、4(シ)と7(シチ)という発音との関係性。
その子は小さいとき、さ行がうまくいえませんでした。
小学校に上がった現在は言えるようにはなりましたが、やっぱり言いづらそうです。
ということは、うまく舌を動かせない→その部分の脳に何らかのバグがある→舌をスムーズに動かせる練習が必要ということがわかります。
この子は動作を伴って学んでいくタイプでしたので、声に出して覚えるのは一旦止め(本当は声も運動なので適した学習法はいるのですが)、九九は手で書いて覚えました。
そして、これとは別に舌をスムーズに動かせることを目指したトレーニングも行いました。
さ行と結びつく勉強があったとき、バグのせいで学ぶ力が落ちるのを避けるためです。

このように個別指導とは、その子の学習形態、脳のタイプに合わせて指導することです。
環境面の配慮も、この脳のタイプに付随することだと言えます。
ただ1対1で指導し、「個別指導をしたら成績が上がりました」というのは、もともとその子に学ぶ力があっただけです。
誰かいないと、勉強する意欲、または集中ができなかっただけ。
それまで勉強できなかった環境側によっぽど問題があったのでしょう。

集団での一斉授業についていけなかったのは、その子の学び方と合っていなかったのかもしれません。
個別指導しても成績が上がらないのは、指導側がその子の脳のタイプをきちんと分析していないからかもしれません。
学習形態に合っていないと、極端に学ぶ力が落ちるのが発達障害の子ども達です。
荒いアセスメントはいけません。
細かく細かく情報を集め、その子の脳のタイプに合った学習環境を用意するのが本物の支援です。
個別指導とは、個別に学ぶことを指すのではなく、個別の脳に合わせて学ぶことを言います。
個別の脳に合わせた指導が受けられないのなら、教科を教えるプロの一般的な学習塾に通われることをお勧めします!!

2015年10月17日土曜日

「計画→実行→反省→調整」のどの部分のサポートか?

相談に行ったら…
「それを変えるのは難しいですね」
「もう無理だと思います」
「あとは経験を積むくらいしかないですね」
と言われたらしい。
その親御さんは「相談に行っても何も変わらないし、匙投げられちゃったから、もう行かない」と言っていました。

「相談に行っても、ほとんど意味がないんですね」
と言うので、「いま、気が付いたんですか!?」と軽くツッコミを入れておきました。
相談しただけで、困った行動が無くなり、就職できるなら、こんなに困っている発達障害の人たちはいないはず。
精神疾患の人がカウンセリングを受けるのではないのですから。
だって、"発達"障害の人たちですよ。
いくら愚痴を聞いてもらっても、良い方法を聞いたとしても、脳を発達させなければ意味がありませんね。
脳を発達させるには、行動しなければなりません。
そして、その行動も習慣化する必要があります。

自閉症の人たちは、「計画→実行→反省→調整」の過程の一部、もしくは全部に困難さを持っていると言われてますよね。
だから、相談することによって、「計画のサポートを受けてます!」というなら理に適っていると思います。
でも、この場合でも実行は自分でしなければなりませんね。
実行しなければ、反省もできませんし、調整もできません。
よく「相談に行っても意味がない」とおっしゃる方がいますが、それはその通りです。
相談された方は、計画の部分の手伝いはできますが、それ以降は自分で実行しなければ、「様子を見ましょう」というしかできないのですから。
相談される方も、アドバイスしたから良くなるとは思っていないですよ。

行動することによって得られる変化や実感が、人を成長させます。
頭で考えていても何も得られませんし、何も変わりません。
社会の中で得られるフィードバックが、その人を成長させるのです。
「計画→実行→反省→調整」の一連の流れがあって初めて変化が表れます。

あなたは、どの部分が苦手で、どの部分にサポートが必要なのですか?
あなたが受けている支援は、その苦手な部分を補ってくれていますか?

2015年10月16日金曜日

「スモールステップ」という言葉にとらわれ過ぎかも

早割りチケットをとれば、新幹線の片道分の料金で、飛行機で東京~函館を往復できる。
函館から新幹線で東京に向かえば、岩手辺りで羽田空港に着き、私の場合なら仙台駅に着いた頃には、実家でくつろいでいるはず。
第一、新函館北斗駅までが遠い。
函館は市内に空港があるのだから、駅に行く、空港に行くだけで、大きな差がある。
いくら料金が安くなっても時間の差は埋められないのだから、東北に行く以外は新幹線を選択しないはず。
何故、函館に新幹線を通すことを優先したのか。
道内を結ぶ新幹線の方がニーズがあるはず。
雪が降るんだし、自動車だと時間がかかるから。

新幹線でも、療育でも、ニーズを見極めないと、時間とお金がかかって遠回りってことも出てくる。
どうせ多くのニーズがある北の最終目的地は「札幌」です。
だったら、最初から札幌を通せばいいのにね。
この前、相談があった方から個別支援計画を見せてもらいましたよ。
ツッコミどころは満載なのですが、タイムリーなのが、「靴の蝶々結びができるようになる」という目標。
だから、蝶々結びの練習をしているのかと思えば、半年間、ずっと固結びの練習を続けているとのこと。
えっ、蝶々結びが最終ゴールでしょ。
何故、固結びをやり続けるの?

最初から蝶々結びの仕方を教えてあげた方が、脳の無駄使いにならず、しかも最短の目標達成につながる。
もし、「いきなり蝶々結びをやるには指先が上手に使えていない」というのなら、それは目標に挙げること自体が早すぎるし、感覚を養うのなら、中途半端な結び方の手順を教えたいのか、指の使い方を教えたいのかが曖昧な取り組みなどせず、感覚面に働きかける取り組みをやった方が良いと思う。

いろいろな療育を見ていると、「スモールステップ」という言葉にとらわれ過ぎているように感じます。
もちろん、ステップを分けた方が、本人が理解しやすく、身につきやすいものもある。
でも、「そのプロセスはいらないんじゃない」「それって遠回りじゃない」「脳みその無駄使いじゃない」というのが目立ちます。
最終目標は何ですか?
そのプロセスを身に付けることは、本人にとってニーズがありますか?

最終目的地がはっきりしているのなら、そこに直結させる最短の道を考えましょう。
その目的地に行く前に、どうしても通らない場所があるときだけ、その場所を通るようにした方が良いです。
個別支援計画の目標だけでなく、自閉症支援全体を見ても、「遠回り」「脳みその無駄遣い」という言葉がふと浮かぶことがありますよ。
自閉症の当事者として有名になることが、その人の本当の幸せなのか。
自閉症のことを社会の人たちに知ってもらうことが、その人の本当の幸せなのか。
人生は一度きり、時間も限られています。
いつになるかわからない札幌延線を夢見ている時間があるのなら、私は車を使い、札幌に行きますし、東京には迷うことなく飛行機を使っちゃいますね。

2015年10月13日火曜日

研修報告~発達援助イベント「生きやすさを獲得する時代へ」in新横浜

昨日、函館空港を出ると、「やっぱりここは北ね」という気持ちになりました。
迎えに来てくれた妻の話では、道内では明日(つまり今日!)、雪が降るところもあるとか。
東京は朝から良い天気で、とても温かく、北海道の夏休み明けって感じでした。
飛行機で1時間半も経たないで行き来することができますが、全然気候が違いますね。

予定の変更をお願いした方たちにはお伝えしていたのですが、今回の三連休は新横浜で開催された発達援助イベントに参加してきました。
イベント名は「生きやすさを獲得する時代へ」
自閉症の人たちの身体の違いに着目したことから始まり、常に時代の一歩も、二歩も先を走る実践的な書籍を多数出版されている花風社さんが主催されたイベントです。
全国から当事者の方、親御さん、支援者が多数参加されていました。
プログラムは
①トークセッション
②コンディショニングの実技
③講演
の3部構成でした。

内容は、と申しますと、詳しく書くことはできませんね。
それぞれプロフェッショナルな方たちが持っている知識をお話や実践を通して伝えてくれたのですから。
ただどのプログラムも一貫しているのは、「脳に余裕を作ること」
胎生期の脳の発達過程(爬虫類脳→哺乳類脳→人間脳)から考える自閉脳と、脳に働きかける療育とは?
脳の余裕のなさはどのような弊害につながり、どういった部分に表れるのか?
また、どのようなアプローチをすれば、脳に余裕を生むことができるか?
などです。
個人的には、大脳皮質から上に働きかけるSSTではなく、もっと奥深くの部分に働きかけるSSTのお話と実践が特に興味深いものでした。
あと背中のお話も☆
こういったブログ等には載せることができませんが、てらっこ塾を利用されている方たちには日々の実践の中で、今回学ばせてもらったことを表現していきたいと考えています。

イベントのあとは、本格中華のお店で二次会。
部屋を二つ貸しきって、いろいろな方たちと交流させていただきました。
ツイッター上で知り合いの方たちが多く参加されており、「ああ、〇〇(ツイッター名)さんですか」という会話があちこちで聞かれました。
私は本名でやっているので、「大久保です」というと、みなさん、すぐに分かってもらいました。
ただツイッターに載せている顔が、実物よりも年齢が高く見えるらしく、名前を言った方が気がついてもらえました(笑)

当事者の方も、親御さんも、講演者も、まざっての懇親会でしたが、みんなフラットな雰囲気で、おのおのの楽しみ方をされていたのが印象的でした。
全国で活躍されている各分野のプロフェッショナルの方たちともお話しさせていただきましたが、みなさん、とにかく熱い!
そして、常に主語が自閉症の人たち。
その人たちのために、自分が何をしているのか、どうしたいのか、どうなってほしいのか、などをみなさん、熱く語っていました。
やはり人を援助する仕事をしている人間は、熱い人でなければなりませんね。
高い専門性と実績にプラスして情熱的な人たち。
疲れた顔で、死んだ目をしている支援者はいませんでした!
活き活きした目で輝いている方たちと交流でき、専門的な知識だけではなく、熱までいただいたような気がします。
私にとって素晴らしい出会いの場でした。

今回、参加できたことは、新たなステージへと進むために必要な機会だったと感じています。
より脳の深いところに働きかける療育。
そういった方向性が、よりリアルな輪郭を持ったような気がします。
まだまだ自分の専門性と実績&結果を残すことが必要だと感じた今回の研修でした。
予定の変更に応じていただいた利用者の皆さま、そして協力してくれた家族に感謝したいと思います。
本当にありがとうございました。
「是非、また参加したい」と心から思う発達援助イベントでした!
生きた言葉は、その場に行って捕まえる必要があり、新しい言葉が増えるということは視野と思考を広げます!!

イベントのお手伝いとしていらしていた方の書籍です。
文学作品としてだけではなく、幼少期の子どもの世界の見え方、捉え方がわかる良書です!

2015年10月7日水曜日

同じ文言を入れなきゃいけないの!?検査所見

どうして検査所見って、こんなに面白くないんだろう。
いろいろな方に、受けたいろいろな検査の結果と所見を見せてもらいますが、どれを見ても同じ文言が並んでいます。

第1位「視覚的な手立てが有効だと言えます」
第2位「日々の生活の中で、見通しを持たせてあげられると、落ち着いて活動できると考えられます」
第3位「マッチングが得意なので、学習に活かしていくと良いでしょう」
あとは、ジグに、手順書に、ルーティンに、環境調整に、興味関心を活かしてって感じ。

字数も限られているし、日々の業務で忙しいのもわかります。
(たま~に「どっかで見たな」という文章も見ます。上書き?参考?定型文?)
でもね、これって自閉症関係の本なら、どこにでも出てくる文言でしょ。
視覚的な手立てが有効なのは分かるから、理解するのに有効なのか、発信するのに有効なのか、学習するのに有効なのか、思い出すのに有効なのか、覚えたことを変更するのに有効なのか・・・っていうように、その人特有の"我が子感"がわかる所見じゃなきゃならないと思うんです。
だって、私、そんな当たり前のことが書いてある所見を見せられても、アセスメントが荒いから結局、細部について確かめるという作業やってますよ。
もし必要な情報がきちんと書かれていたら、すぐに指導に入れます。
これは私の仕事だけではなく、医療や教育、福祉の機関でも。
せっかく長い期間待って、せっかく長い時間と労力をかけて、すぐに活かせるような資料ができなければ、検査を受けたこと自体が"満足"になってしまいます。

検査所見が荒くても、短くても、簡易な文章でも、本当は構わないんです。
ただし保護者の方、もしくは当人がきちんと記述されていない細部まで理解できていれば。
しかし、残念なことに細部まで具体的に理解できている方は少なく、しかも書かれていることがどういう意味かまでわかっていない方も少なくありません。
これは検査者側の問題だと言われても仕方がありませんね。

はっきり言って検査するだけでは何も変わりません。
改めて検査することを通して見えてきた情報、確認できた情報をまとめ、それを実生活に活かして初めて意義が出てくるのです。
ですから、荒い情報ではなく、すぐに活かせるような輪郭を持った情報が欲しいのです。
ワクワクするような検査所見は読んでいて、会ったこともないその人が見えてくる文章です。
保護者の方や本人が説明できるのでも良いので、そんな活きの良い情報待ってます。

2015年10月6日火曜日

犠牲の上で成り立っている活動は長続きしない

日曜日は、息子の保育園の運動会があり、朝からお手伝い。
保育士さんたちは、日頃の保育だけでも大変なのに、勤務が終わってからも準備を頑張ってくれていました。
当日も早朝から集まって準備し、運動会後の片付けも遅くまでやり、次の日は朝から通常勤務の保育。
保育士さん、一人ひとりにも家族がいて、プライベートがある。
保育士さんたちには、本当に頭が下がると同時に、誰かの我慢や犠牲の元に成り立っている現状に疑問を感じます。

私もボランティアではなく、ビジネスとして自閉症支援を行っています。
ですから、労働に見合う報酬を受け取るのは当然ですし、仕事を続けていくにはお金が必要です。
でも、時折、料金の支払いをしないのではなく、渋る方がいます。
「できるだけ安い金額で」ということを言われる方もいます。

お金に余裕がないけれど、「藁をもすがる思いで」という方なら上記のような発言はわかります。
しかし、渋る方のほとんどは一般的な暮らしができている方です。
お話を伺うと、お子さんがたくさんゲームを持っていたり、パソコンを持っていたり、DVDを買ってあげたり、お小遣いをあげていたり・・・。
ということは、お金に余裕がないからではなく、支援や療育にお金を払うことに対して抵抗があるのだと推測できます。

診察、相談、療育を受けても、ほとんどお金はかかりません。
それはあくまで利用者側が。
何割か支払いをしていたとしても、大部分は税金で賄われています。
平日、児童デイを利用して月に数千円支払いをしたとしても、それ以上の何倍もの大金が税金の中から事業所に支払われているのです。
一回利用するのに、本当は一万円かかるのですよ。
私たちが一年間に払っている税金の総額はいくら??

子どもがスポーツクラブに通えば、月謝に、道具代、遠征費がかかるのは当然なことです。
塾に通えば、授業料、教材費を支払います。
じゃあ、自閉症支援や療育にお金を支払うことをためらう背景は・・・。
そのような方の中には、障害者支援は福祉が、国が担うべきことと思っている人がいるのではないでしょうか。

もちろん、この社会に生まれた人たちは、障害の有無に関わらず、平等な機会が得られるべきであり、助けが必要な人には余裕がある人から手を差し伸べる必要があるのだと思います。
しかし、支援者の力量不足、理解不足でぐちゃぐちゃになった糸をほどくのに何故、税金が使われる必要があるのでしょうか。
障害を持った人たちのより良い生活のために、早期から医療、福祉、教育が携わり、多くのお金と人員、環境をかけているのです。
そういった資源を利用している中で、ぐちゃぐちゃになったこと、身につかなかったことは、自分でお金を払ったとしてもクリアにしていかなければなりません。

定型発達の子どもが「学力を上げたい」「サッカークラブに入りたい」「ピアノを習いに行きたい」となったら、「じゃあ、税金で何とかしてもらおう」とは思わないはずです。
より高いスキルを、新しいスキルを身に付けようとしたら、私財を投じるのが世の中の常識です。
お金が払えないのなら諦めるか、現状でできる可能性を探す努力をします。
「すべてを税金で」っていうのは考え方が甘すぎますし、一般的な人たちとはかけ離れた考え方です。

多くの方に利用してもらっていますが、そのほとんどの方が当然のこととしてお金を払ってくださいます。
中には、「こんなにいろいろなことをやってくれるのに、利用料が安すぎて申し訳ない」という方も多くいます。
(例えご厚意であったとしても、決められた金額以上に利用料をいただくわけにはいかないと言うと、お菓子や飲み物、生活用品などをくれる方たちがいます←ちなみに利用料のみの方への催促ではありませんよ(笑))
上記のような渋る方はごく一部の人です。
民間はダラダラ支援を引き延ばせば、そのときはお金がたくさん入りますが、「腕が悪い」「通っても効果がない」と言われ評判を落とし、お客さんが離れていくのです。
だから、短い期間で、見える形で結果を出さなければ、結局潰れてしまいます。

民間と公的機関は仕組みが違います。
結果を出さなくても税金で助けてもらえるわけではないのです。
ですから、気持ちよくお金をお支払いください(笑)
支払った金額に見合わないサービスだったら利用しなければ良いのです。
そのために相談等は無料にし、しっかり納得し、合意してからでなければ、お金はいただいていないのです。
「お金はかからないけれど、選択肢がない」というのは、当事者の人たちのためにはならないと思っています。
犠牲の上で成り立っている活動は長続きしないというのが、私の意見です。

2015年10月5日月曜日

情報クレクレ詐欺

同じ地域で支援に携わっていると、依頼のあった子を担当しているのが私の知り合いということも出てきます。
別の機会で出会っていた人や、前の仕事での知り合い、学生時代の先輩、後輩、中には友人もいます。

プライベートでいくら仲良くても、以前にお世話になった人であっても、私は仕事の上ではプロとして接するようにしています(当たり前か)。
良いものは良いと言い、間違っているものは間違っているとはっきり言います。
お金を貰って仕事をしている以上、なあなあで仕事はできません。
当事者にとっては、私とその人が仲良かろうとも、お世話になった間柄だろうとも関係ないからです。
必要なのは、当事者の方にとってより良い未来のお手伝いをすること。

「別にそこまでビビらなくても良いのに」と思うくらい、大久保に支援を依頼したと言われると、構えてしまう人がいるそうです(笑)
「大久保さんが支援するようになってから、ピー(自粛)が一生懸命話を聞いてくれたり、取り組みをやってくれるようになりました」
なんて言う報告もいただきます。
できるんだったら、最初からやれよ!(笑)

あと、根掘り葉掘り、どういった取り組み、支援を行っているのかを尋ねてくる支援者もいるそうです。
私は、支援グッツ、教材、手だて、内容、評価など、保護者の方にお渡ししたもの、提供した情報はすべて伝えてもらって構いませんと言っています。
というか、どんどんしゃべってくださいと言います。
せっかくお金を出してまで、支援を受けているのだから、そこで得たものは活かさなければもったいないです。
良いと思ったものは、どんどんパクってもらえば良いですし、間違っていたら言ってもらえた方が助かります。
だって、そっちの方が当人のためになるから。
同じ支援者という立場であっても、立場や環境が違えば、意見が異なるのも当然です。
ですから、意見をぶつけ合ってより良い支援を組み立ててくプロセスが大事になってくるのにね。
情報をくれくれという割には、情報はくれないし、見学もNGっていうのは何故??
個人的には、知り合いの立場を利用し情報を得ようとするので「クレクレ詐欺」と呼んでます(笑)

学生時代、ぜんぜん勉強してなかったのに、障害を持った人のボランティア活動もやる気がなかったのに、おうおう偉そうなこと、いっちょまえに言ってるじゃんってこともあります。
そういったときは、その知り合いに「素晴らしい考えだと思いました」と褒めるようにしています。
そうすると、次の日から一生懸命頑張ってくれるので助かります。
こういうときのために、学生時代はしっかり勉強し、ボランティア活動も頑張ってきてよかったと思います(笑)

せっかく同じ地域で、同じような支援をしているのですから、お互いが学び合い、高め合えば良いと思うんですけどね。
なかなかうまくいかないです。
教えるのは好きだけど、自分が教わるのは嫌いな人が多いみたいです。
あと、せっかく海外まで行って勉強してきたのにもかかわらず、自分の思い描く支援とその仕組みでしかやりたくない、認めないというのももったいないですよね。
障害を持った人たちの多様性は大切にするのに、支援者の多様性は・・・(以下自粛)

それぞれの支援者が、それぞれ担当している場だけうまくいけば良いやみたいな雰囲気を感じてしまう私たちの地域。
これは全国的に言えることなのかな。
今度の日曜日、全国の修行系当事者&支援者が集まる場があるので、聞いてこようと思ってます。

2015年10月3日土曜日

ボーリング場に着いたら、ただ投げるだけ

ボーリング場に着くと
自分の足のサイズに合った靴が渡され
すでに自分の名前が登録されているレーンに移動し
用意されているボールを手にし
とにかく投げる
すべて投げ終えたあとは
ボールと靴を片づけ、帰る

これって「ボーリングをやった」と言えるのだろうか?
これって将来、余暇としてボーリングを楽しめることにつながるのだろうか?

普通、ボーリング場に行ったら、申し込みや支払をしなくてはならないし、混んでいたら待たなくてはならない。
それなのに、何でもかんでも事前に済ませておいて、子ども達は何もしない。
ストレスフリーかもしれないが、これでは将来に活きた学習にはならない。
ただ球を投げるだけだったら、別にボーリング場に行かなくても良い。

中には、すべての行程を一人で行うことが難しい子どももいるだろう。
でも、お金を渡す、シートに名前を書く、靴のサイズを伝える、静かに待つなど、何かできないだろうか。
何かできるようになる可能性がないだろうか。
一人ひとり目標があるはずなのに、セレブのような"すべて周りがお膳立て"っておかしいと思う。

別の子の話だが、修学旅行で本州に行くとのこと。
その子のしおりを見せてもらった。
なんとつまらないしおりだろうか。
学年にはいろいろな子がいるのに、みんな同じしおり。
それも「何時にどこそこ」「バス」「飛行機」という文字と絵だけ。
せっかく旅行に行くのだから、乗るバスの時刻や行き先、料金だって自分たちで調べさせればよいのに。

どこで食べるかだって決められるくらいの空白があって良いんじゃない。
食べる場所が決まっているのは仕方がないとしても、もうすでに注文するメニューが決まっているってどういうことだろうか。
ホテルや見学する場所などの住所を地図で調べたら、初めていく土地のより具体的なイメージがもてるし、将来、旅行を計画する力を養う機会になるんじゃないだろうか。

上記の2人には、改めて勉強しなおしましたよ。
せっかく機会があるのに、そこで学べないのだから、別の機会にやるしかない。
私が言うのもおかしな話だが、やるべきところがやらずに、わざわざお金を払って改めて勉強するのってどうだろう。

支援者の言い分も分かる。
何かあったら困るし、とにかく無事に効率よく終えたいという気持ちが全面に出てしまうのだろう。
でもね、こういった支援を目にするたびに、私は「どうせ将来、一人でできることなんて無理だ」という諦めに近いような気持ちがあるのだと思ってしまう。
ある学校の教員が「どうせ、この子たちは一生誰かの世話にならなくてはならないんです」と言ったのを覚えている。
少なからず、自分に能力のない支援者はこのような考え方の人が多いのだと思う。

しかし、ただ経験すればできるようになるという人たちではない。
自然に、自分たちで適切に学び、スキルを身に付けることができない子ども達かもしれないが、1つ1つ学べば、成長できる可能性を持った子ども達である。
それには普通の子どもよりも、さらに多くの労力がいる。
でも、それを満たすために、少ない人数に職員が配置できるようにしているのではないか。
それが特別支援教育ではないのか。

至れり尽くせりは、子ども達のためにはならない。
それは、ただ決められたことをこなしているに過ぎないから。
それでは勉強にならないし、将来に活きてこない。
子ども達がより良く学べるように支援者がいるのだ。
自分たちの仕事がより効率的にこなせるように、子ども達がいるわけではない。