2015年11月28日土曜日

成人後も成長の機会を得るための18年間

私はチャンスを広げるために、学生時代があるのだと考えています。
特別支援学校だったら18歳で、4年生の大学に行ったとしても22歳で、社会に出るわけです。
定型発達と言われている若者たちでも、その約20年くらいの期間で、生きていくことに必要な最低限のスキルをすべて身に付けておくことは大変なのです。
それだったら、発達障害があったり、知的障害があったりする若者は、さらに大変だと言えますし、当然20年間では足りない人も多いはずです。
未熟な段階で社会に出ていかなければならないので、社会に出てからも成長できる、成長し続ける機会が得られることが大事になります。

そのような機会を得るためには、やはり学校に通っている間に多くのことを学び、力をつけておく必要があります。
成人になってからでは、遅い場合もあります。
それは今、成人している障害を持った方たちの現実から見えてくる部分です。
「いきなり一般就労は難しいから、作業所で支援を受けながら・・・」と言っても、その作業所で行う仕事が、今後の仕事の幅を広げるものなのか、自立するための練習になっているものなのか、を見極めないと、希望通りのステップは踏んでいけないことにもなりかねません。

昨日、お話ししたお母さんが、「人生の本番を迎える前の18年間、できることは何でもしようと思ってきた」と言っていました。
先を見通した素晴らしい考え方で、子育てをされてきたことがわかります。
当然、その子は成長をし続け、成長につながるための就労を得ることができました。
その就労先で一生なんては考えていませんでしたし、私もその考え方に同意します。
その就労先で、まだ未熟な部分を学び、成長し続けることで、より良い機会を選びにいっても良いと思います。

40年間、同じ場所で働き続ける時代ではありません。
それは障害を持った人でも同じこと。
学校の卒業がゴールではありません。
それはスタートの始まり。
成長につながる機会を広げるためにも、約20年の歩みが大切になってくるのです。

時代に左右されない力

一つ前のブログにも書きましたが、国の考えを見通す力が大事だと思います。
これから就労支援の補助金が減っていきます。
たぶん次は、児童デイでしょう。
最初はたくさんの予算をつけておいて、一定数事業所ができれば、補助金を減らしていく。
予算を握っている方からしたら、当然の戦略ですよね。
そうやって数を確保しつつ、あとは徐々に補助金を減らしていき、ぎりぎりのところで事業者の努力に委ねる(利用者がいたら、やすやすと撤退はできないですよね)。
予算は無限にはないので、福祉と特別支援教育の充実は、現実からどんどん夢の方へ変わっていくでしょう。

じゃあ、みなさん、日本から出ていき、福祉や教育がより充実している国へ行きますか。
それとも、日本で夢を追い続けますか。
私は、日本で、しかもこの時代に生まれたので、現実的な道を選択します。
それは国の考えや制度に左右されない部分を充実させること。
つまり、その人が持つ能力を発揮させ、成長をサポートすること。
どんな時代、どんな政権、どんな制度ができようとも、本人に力があれば、より良い未来へと進んでいけると思います。
時代も、国も、個人の能力まで手が出せませんから。

この10年間は、蛇口を開き、水がジョボジョボと注がれ続けてきた時間でした。
これからは、蛇口が反対側にひねられて行く時間です。
また、溜まった水は、他に必要な人のところに運ばれていきます。
蛇口を閉める手を制止するには、それに伴うだけの余程のメリットが示せなければなりません。
他に運ばれている先の人よりも、必要性があり、それだけではなく、有効利用できるだけの事実が必要なのです。

草の根運動を否定するわけではありません。
でも、この瞬間にも、本人も、親御さんも、年をとっているのです。
私は、これからも時代に左右されない力をつける意義と、そのお手伝いを続けていこうと考えています。

自分たちで作業所を作れば…

他害がある思春期真っ只中の男の子。
その子の親御さんが「将来、自分で作業所を作るから良いんです」と言って、学校と距離をとったという話を聞きました。
親御さんには、問題行動が良くならないことに対する苛立ちと、それによる余裕のなさがあるのだと思います。
学校側の至らないところもあったのでしょう。
でも、学校と距離をとることは、本当に本人のためになるのでしょうか。
そして、働く場を親御さんが作り、そこで働くことは本人にとって幸せか、また一生働くことができるのでしょうか。

学校って、問題行動をなくす場所ではありません。
将来の自立に向けた学びの場所です。
児童デイや療育機関に通っているから、それで良いやってことにはなりません。
学校という環境だからできる学びがあるはずです。
そこをすっぽり抜かすということは、それに代わるだけの学びを用意する必要があります。
ホームティーチングという方法もありますが、それは一定以上の学ぶ力を持っている子どもの話だと思います。
発達障害、特に知的障害がある子ども達は、知識を身に付けるような学習だけではなく、脳の根本的な部分から発達を促していく必要があります。
それを家庭の力だけで行おうとしたら、相当難しいと言えます。

就労支援に対する補助金は減っていく流れになっています。
その次は、児童デイへの補助金カット。
国の人口構成から考えても、障害者福祉の予算が減っていくのは明らかです。
こういった流れの中、大きな法人以外の、しかも個人が作業所を作ることは相当なリスクがあることです。
お金に余裕があるご家庭なら大丈夫なのかもしれませんが、人を雇うにはある程度のお金がいります。
補助金の中だけでやろうとしたら、パートでしか雇えないでしょう。
また給料が安いところに、即戦力、専門性を持った人はこないはず。
障害者支援、自閉症支援が進んでいると思われている欧米でも、支援者として働いている人の多くは、パートタイムの人ばかりです。
主婦が空いている時間に仕事しています、というのが一般的なのです。
(私が研修で見た事業所は、利用者の人たちが働いている隣で携帯電話をいじっている支援者さんでしたよ)
当然、日本もそのような状況になってくるでしょう。
そういった状況で我が子だけでなく、他の利用者の方たちにも、長い期間、それなりの支援を提供し続けるのは、金銭的にも、人材&環境的にも相当難しくなるはずです。

あと、これは個人的な感想なのかもしれませんが、家でも親と一緒、職場も親と一緒って、その子にとって本当に幸せなのかな、とも思います。
親御さんとしては、大事な我が子ですし、自分でみた方が安心というのもあるかもしれませんが、子どもからしたら、24時間365日ずっと見られているわけです。
言葉には出さないかもしれませんが、息苦しさという心理的なプレッシャーと、発展性がない環境というネガティブな側面があるのだと思います。
そして何より、親は子より先に死にます。
そういった親の目の届く世界でしか生きてこなかった子どもが、あるとき、急に親が側からいなくなるのです。
子どもの年齢も高くなっている頃でしょうから、そのときからガラッと生活が変わるというのに耐えられるでしょうか。

障害が重い人ほど、誰かに頼って生きていかなければなりません。
その頼ってきた人が、親御さんしかいなかったら・・・。
そう考えると、親御さんが元気なうちに頼れる人、場所を増やしておくことの方が、お子さんのためになると思います。
大事なのは、完ぺきな支援よりも、幅広い支援を見つけていく作業ですね。

2015年11月26日木曜日

子も、親も、成長できるのを支援することが"協働"じゃないかな

雨脚が強くなってきましたね。
ちょうど午後からの予定がキャンセルになったので、外に出ず、仕事ができています。
朝早い時間に走っといて良かった♪
遅くなるほど荒れるようだから、今日は早めに保育園に迎えに行こうかな。

「いつも丁寧に教えてくださり、感謝しています」と言われました。
お金を払って利用して頂いているのですから、どんな意図で、どんな支援を行っているかを丁寧に説明するのは当然なこと。
また、実際のセッション以外でも、電話やメールでの相談をいただきますが、それに関しても、親御さんがお子さんのことをより深く知り、成長につながる引き出しを増やすのは望ましいことです。
私のイメージでは、依頼を受けたお子さんの成長はもちろんのこと、親御さんも含めて一緒に成長してもらう感じです。
ですから、セッションを通して知り得た情報や、お子さんに合った支援方法があれば、どんどんお伝えしています。
それで「大久保の支援はもういらないわ」となってもいいのです。
ヤブ医者になって小銭を稼ぐよりも、どんどん成長してもらえる方がずっと気持ちが良いものです。

私が当然だと思っているこのような対応も、公的な機関では難しいのは当たり前。
公的な機関では、結果よりも、数の方でお金が決まってくるのですから。
特に税金からお金を貰っているところは、より多くの人にサービスが行き渡ることが大切です。
ですから、「〇〇では、どんな療育を行っているか教えてくれない」とか、「結果が伴っていない」とか、「同じ支援がうちではできない」とか、言っても仕方のないことです。
そもそもの仕組みが違いますから。
「お金がかからず、何でも教えてくれて、しかも結果が伴う」なんていうのを期待していてはだめですよ。
それができていたら、もっと多くの人たちが自立した生活を送られています。
もし公的な機関の人で、自分に時間も、労力も割いてくれているのなら、それはその人のプライベートな時間か、他の誰かが利用できていたかもしれない時間を貰っていると考えた方が良いと思います。

公的な機関のみを利用されている方は、親御さん自身で勉強する必要があるということです。
ただ利用されているだけでは、お子さんは変わっていくかもしれませんが、親御さんは変わっていきません。
結構、公的な機関を長年使われていた方が私のところにも来ますが、上記のように私のサービスに対して感動される方がいる一方、「私、なんでも知ってます」という方もいらっしゃいます。
でも、そういう方に限って、よく理解されていない場合が多いです。
背景には、公的な機関を利用していること自体に満足感があるような気がします。
反対に、公的な機関は使わず、親御さんご自身で考え、ずっと試行錯誤されてきた方の方が、よくお子さんのことも、知識とは知らなくても支援のことも、理解できていることの方が多いです。
こういった親御さんの場合、支援を整理するお手伝いと、違った視点のアイディアを提供することで、お子さんだけでなく、親御さん自身もどんどん成長していきます。

民間の支援機関と、公的な支援機関は、仕組みが違うこと。
仕組みが違うから、サービスも違ってきます。
そして、支援者よりも接する時間が圧倒的に多いので、親御さん自身が理解を深め、成長することが、お子さんを成長させることにもつながってくること。
もちろん、センスの部分もありますが、やっぱり努力しないと成長はできないこと。
成長するためには、ご自身で勉強されるか、たとえ有料だったとしても親御さんも一緒に成長させてくれる民間に頼むという方法もあること。
つまり、お金がかかったとしても、お子さんも、親御さんも、理解が深まり、成長できる方がお得でしょ、というセールスでした(笑)

2015年11月25日水曜日

「良い支援」と「悪い支援」

「私の支援が悪くて・・・」と仰る親御さんって少なくないです。
先週の相談時も、同じようなことを言っていました。
そのとき、私は尋ねました。
「悪い支援って、どのような支援のことだと思っていらっしゃいますか?」と。

悪い支援って、お子さんが理解できなかったり、混乱したり、成長できなかったりする支援のこと。
これは私も同じように考えます。
ただ私は商売として支援をしていますので、もっとツッコんで結果が出ない支援は悪い支援だと考えています。
しかし、親御さんがどうして悪い支援になってしまうかと言ったら、「私がちゃんと勉強していない」とか、「構造化の仕方が悪かった」とか、「感情的になって一貫性のある支援ができていない」とかが多いです。
つまり、視覚的構造化でも、ABAでも、ソーシャルストーリーでも、その療法をきちんと理解していない、決められた手順を踏むことができていない、応用することができていないので、お子さんにポジティブな変化が見られず、結果として"悪い支援"と考えているようです。

確かにどんな療法にも、中核となる考え方、決められた方法と手順、評価基準などがあります。
でも、これは専門家、職業として支援している人たちの間での話です。
きちんと理論を学び、技法を身に付けるためには型が必要です。
型がなければ、教えることが難しい、習得できたか判断できない、看板だけ掲げて勝手に実践してしまえる・・・。
つまり、お墨付きを与えるために型があるのです。

でも、実際の場面で、目の前にお子さんがいるとき、ナントカ療法の型どおりか違うか、なんてどうでも良いと思いませんか?
目の前にいる人にポジティブな変化があれば、それでOKじゃないでしょうか。
私もトレーニングに行ったとき、「それは違う方法だ」とか言われましたよ。
でもね、それは研修の場だから。
実際は、理解でき、成長できたら、それは良い支援でしょ。
職業にしている人が勝手なアレンジをして「〇〇療法です」と言ったら問題になるけれど、親御さんが我が子の支援を行うのに正しい方じゃなければならないということはありませんよね。
良いとこどりでも、つぎはぎでも、ごった煮でも、なんでもいいんですよ。

それが良い支援か、悪い支援か、の答えは、お子さんの中にあります。
答えを外に求めてしまっているのは注意信号です。
「ナントカ療法を正しく行えることが良い支援につながる」と、答えを外に求めているのでは、いつになっても答えは見つかりません。
ナントカ療法を型どおり実践できたとしても、合わない子は合わない。
ほら、ナントカ療法をたくさん勉強し、習得した人でも、うまく支援できない人、成長させられない人は大勢いますよね。

ナントカ療法に合わせようとしても、合わない場合がある。
子どもも一人ひとり違えば、支援者も一人ひとり違う。
結局は、子どもに合わせてナントカ療法を切り取れば良いのですよ。
不格好でも、何でも良くて、お子さんに良いものをどんどん取り入れる。
そっちの方が、ナントカ療法を極めるよりも、ずっと早く効果が表れます。
どうしますか、ナントカ療法を極めてみたけれど、お子さんに合っていなかったら。
効果が見られた方法を集め、その子オリジナルの支援を作っていくことの方が、ずっと効率的で、成長し続けられると思いますよ。

2015年11月19日木曜日

スモールステップとは、情報整理の手段の一つ

今朝、とても嬉しい報告がありました!
目標だった試験に合格したとのことでした!!
その方との付き合いは、もう2年以上になります。
でも、ここ半年くらい敢えて連絡をとらないようにしていました。
それまで小さなステップを一緒に超えてきましたが、本人の口から「コツを掴んだような気がします。ここからは自分の力で頑張ります」という言葉が聞けたからです。
時間がかかるのは分かっていましたが、それでも支援を受けることなく、「自分自身の足で乗り越えることができた」という経験をしてもらうことが、彼の人生を一変させると考え、判断しました。
挫折を繰り返し、何をしても途中で止めてしまっていた人生でしたから、まず1つ自分の力で乗り越えて欲しい、その喜びを感じて欲しい、というのが、その試験でした。
早速、次の目標へと意識が向いているようです。
1つの山を越えたから、次の山を見ることができる。
そうやって歩いているうちに、気が付いたら人は成長しているのかもしれません。
今回も、社会に飛び立っていくときの"踏み台"として役目を果たすことができて嬉しかったです。

このように一気に目標を目指すのではなく、段階を分けて最終目標を目指していくというのを「スモールステップ」というのでしょう。
特別支援界隈で良く聞く言葉です。
でも、私は「ステップを細かく分けて、確実に目標を達成する方法」というような捉え方はしていません。
それよりも「スモールステップ」とは、情報整理の手段の一つだと考えています。

目標が遠すぎると、偏った想像をしてしまったり、反対に情報が多すぎて圧倒されてしまったりする。
だから、その人に合わせて情報を区切る。
そうすることで、向かうべき道が明確になり、"脳"力を存分に使うことができる、というように考えています。

よく感じるのが、ただ「とにかくステップを細かくすることが良い」と捉えているのではないか、と思ってしまうような療育が多いということ。
「こんなに細かく分ける必要があるの?」
「なんでみんな同じステップなの?」
「そもそも分ける必要があるほどのものなの?」
という疑問が湧いてきます。
人によっては、一気に目標を目指した方がわかりやすく、身につきやすい場合もあります。
また、そんなちっちゃなステップだと
「達成感が感じられない」
「いつになったらゴールになるのかわからず、不安」
という場合もあります。
大事なことは、その人に合わせたステップを設定することであり、ここに支援者の専門性とセンスが問われるのです。

私の意識としては、「その人が達成感を十分に味わえるギリギリの線を攻める」という感じです。
このステップが高すぎると、圧倒されてしまい、立ちすくんでしまいかねません。
しかし、ステップが低すぎると簡単に超えてしまい、達成感が感じられなかったり、反対に「バカにされた」と思われてしまう危険性があり、成長につながりません。
ですから、超えられるギリギリの線を見極めます。
その超えられるギリギリの線も、スキルアップやトレーニング、支援グッツやコンディショニングによって上げられるのなら、そちらの面のアプローチを行います。

遠い目標までの道のりには、多くの情報があります。
その情報の量に圧倒されることもあれば、妥当ではない想像が入り込む隙もあります。
ですから、その人に合わせて情報を区切り、脳力を発揮できる環境を整える。
それと同時に、本人に「これなら頑張れば乗り越えられそうだ」というような意欲を高めてもらう。
それがスモールステップと呼ばれるものであり、成長につながるのだと考えています。

今朝、嬉しい報告を貰った方は、私が想像していたよりも時間がかかっていたので、「ちょっとギリギリの線を攻めすぎたかな」という思いもありました。
しかし、彼は途中立ち止まりながらも、着実に歩を進め、ついに山を越えることができました。
私の力ではなく、彼自身の力で。
彼は今、充実感、達成感で胸がいっぱいだと思います。
ですから、それを存分に味わってもらうために、そっとしておくのが良いと思います。
ちょっと時間をおいてから、一緒にお祝をしようと思っています。

ちなみに今回のブログで401号。
400を超え、また一歩進みました。
もともとは施設や学校で働いていたとき、その日、気が付いたことをノートに書いていたのですが、てらっこ塾を知ってもらうことと、他人の目に触れるという意識を持つことで、表現能力を鍛えようと思い、始めたものでした。
私のスモールステップは、100単位。
次は500を目指して頑張ります!

2015年11月18日水曜日

親御さんの"揺らぎ"

最近、ある親御さんからの依頼を断ることがありました。
以前にも、他の親御さんですが、断ったことがあります。
別に依頼の内容が突拍子もないことでも、目標達成の可能性がないことでもありません。
お引き受けすることもできた依頼です。

私はボランティア活動ではなく、商売として支援、療育を行っていますので、本来なら受けるべき依頼なのだと思います。
学校や支援機関では断られることが多い依頼にも、積極的に引き受けてきました。
事業開始当初より、「NO」と言わないてらっこ塾で売っています。
それなのに引き受けなかった理由とは・・・。

それは親御さんに"揺らぎ"を感じたからです。
この"揺らぎ"とは、悩んでいるとは別の意味です。
そもそも悩んでいない親御さんはいませんし。
揺らいでいる親御さんは、ご自身の中に選択肢も、方向性もお持ちではない、といった印象を受けます。

何かしなければならないことは分かっているけれど・・・
「何が問題だか分からない」
「何から手をつけていけばいいか分からない」
「どんな方向に向かえばよいか分からない」
「自分自身、何が困っているか分からない」
その結果、(表現は適切ではないかもしれませんが)手あたり次第、いろいろな支援機関を訪ねたり、書籍やネット、親御さん同士の交流から情報を得ようとしたりする。
そして、私が意見を述べたり、質問したりすると、言っていることがコロコロ変わる。
こういった雰囲気を感じると、私は親御さんの中に"揺らぎ"を見ます。

別に、揺らぐことがいけないとか、間違いだとか言っているわけではありません。
ただ、この揺らぎの幅が大きいときに、支援者が介入することに危険性を感じているのです。
親御さんが定まっていないときには、支援者に依存してしまう危険性があります。
親と子の間に支援者が入り、親子の距離を広げてしまう危険性があります。
親御さんの養育力を高める機会を奪い、親御さんの手の中から我が子の支援を奪ってしまう危険性があります。
そして、最も懸念されることが、親御さんの揺らぎが支援の揺らぎになり、結果としてお子さんの揺らぎ、成長の揺らぎが起きることです。
土台がしっかりしていない子の場合、その揺らぎが積み上げてきたものを一気に壊してしまう危険性があるのです。

私も、この道に進んで10年以上が経ちます。
その歩みの中で出会ってきた親御さんで揺らぎが少ない人のお子さんは、成長していることが見て分かります。
しかし、揺らいでいる親御さんのお子さんには、成長を見ることができないことが多いです。
反対に、持っている力から考えると、「成長できずにいるな」と感じる子の親御さんを見ると、揺らいでいることが多かったです。

冒頭の揺らぎを感じた親御さんに対しては、頭の中を整理するお手伝いをしました。
そして、情報を提供し、「お母さんの中で"揺らぎ"がなくなったら、進むべき方向性が見えてきたら、またお電話ください」と伝えました。
親御さんの迷いや揺らぎを小さくするために、支援者がリードすることはありだと思っています。
しかし、お子さんの支援自体をリードすることは間違っていると思っています。
支援者は第三者であり、一生の支援はしません。
本人を中心とし、本人の成長と豊かな人生に向けて、家族が一番側にいる。
そして、その家族の外側に支援者がいるのだと思います。

お断りした親御さんではありませんが、時々、「とにかく大久保さんにお任せします」と言われることがあります。
そんなときは、決まって「それはできません」と返事をしています。
そして、何を任せるのか、どの部分を任せるのか、ということを一緒に考えるお手伝いをします。
主導権は、本人と家族に持っていてもらいたいです。
そして、自分たちの意思で支援者を利用してもらいたい。
そうすることで、本人も、家族も、未来に向かって前向きに、自分の足で歩いているという実感を持ちながら進んでいけるのだと思います。
本人だけでなく、家族の方、一人ひとりにも、そして家族という集合体においても、成長してもらいたいと願っています。

2015年11月17日火曜日

知識を与えられれば、できるようになるわけではない

自分で「忙しい」と言っちゃうのは、恰好が悪いと思っているので言わないけれど、最近というか、11月に入って1日中、動き回っていることが続いています。
だから、ブログもゆっくり書けない。
このブログも書いていたら、電話が鳴っています(本日、3度目)。
だから、最近では余計に、私の支援から卒業してもらうこと、自立してもらうことに意識が向いていますね。
ちなみに今月だけで、3名の方が卒業されました!
私を踏み台にして羽ばたいていただければ、大いに結構なことです!!

私は言いたいことがあったら、すぐに吐き出したいタイプなので、便秘状態。
ネタは貯まるけど、表出できずにモヤっとした感じです。
こうして考えると、いつの間にか、自分の健康のためにブログを書いていたのが分かります。
健康と言えば、ランニングはまだ続いていますよ。

まあ、どうでもいい文章はこれくらいにして、最近、ビックリしたのが、「知識の量=できる量」だと思っている人が案外多いということ。
「知識が増えれば、できることが増える」
「できることが増えるように、知識をたくさん与えよう」
というような考えで支援している人たちがいる。
でもね。
知っているからって、できるようになる方たちではなかったっけ。
知識を実際の場面に応用させることが苦手だと思うんですけどね。

本人がなかなかできずにいると
「教え方が悪かったのでは」
「視覚的な手立ての作り方がまずかったのでは」
と思われる方がいます。
もちろん、教え方や手だての問題もあります。
でも、できない理由はそれだけではありません。

知識はあるけど、実際の場面でどうやったら良いかわからなくてできない場合もあります。
つまり応用、般化の問題。
他にも、実際の場面では環境からくる刺激に圧倒されてしまってできない。
体調が悪くてできない。
そのとき、求められていることがわからなくてできない。
知識以外の面で、発達していない部分があり、実行できる準備ができていない。
そもそも「やりたくない」というのもあります。

「知識があれば、できる」というのは、定型発達の人の視点ですね。
自分たちがそうだから。
「刺激に圧倒されてできない」「脳みそが疲れてるからできない」とかあまりないですし。
でも、定型発達の人は、身体面での発達も、対人面での発達も、"定型"で発達している一方、自閉症の人は、発達のアンバランスさを持っています。
ですから、「このくらいの年齢なら、これくらいのことは知りさえすればできるだろう」というものに関しても、認知の面ではOKでも、身体面でまだ発達していなかったりすることもあります。
そうしたら、当然できません。

また知識に関しても、文字を読んで理解することができても、概念がわからなかったり、国語はバッチリでも、数学的な面では苦手さがあったりすると、できません。
そして、情報の切り取り方、受け取り方、捉え方の違いもありますので、やっぱり知識と実技、実際の場面を結び付ける過程に課題があったりしますと、これまたできなくなります。

できない理由を、定型発達の視点の範囲内で考えていたら、答えが見つからないことが多々あります。
知識や手だてなど、支援する方も頭ばかりを使っていてはいけませんね。
特に、知的障害も併せて持っている方に対して、苦手な知的な面でのアプローチばかり行っていては、理解も難しかったり、理解するだけで疲れちゃったりしますね。
文字を読むことはできるけれど、それにかなりのパワーがいる子に対して、ずっと文字を書いて教えていた、という支援者がいましたが、う~んって感じです。

知的な面からだけの原因追求と、アプローチは、どちらも「粗い」と言わざるを得ません。
もっと広い視野で、丁寧に目の前にいる人のことを見て欲しいな、と思います。

2015年11月14日土曜日

これ以上、傷ついてほしくないのなら、きちんと指摘する

当事者の人が失敗したり、問題を起こしたりしたとき
「本人がかわいそう」
「これ以上、傷つけたくない」
と周囲が感じることがあります。

失敗や問題の原因が、本人の勘違いや未学習などの場合が多く、"意図的に"とか、"わざと"ではないことがわかると、なおさら、このような感情になります。
本人の気持ちを察し、寄り添うことが支援者というか、誰だって大切なことですよね。
ここまでは良いんです。
でも、「これ以上、傷つけたくない」と思った先の行動に過ちがある支援者が多い。

本人が失敗や問題を起こしたとき、それを指摘しなかったり、何となく曖昧にした表現を使ったり。
これって大問題だと思います。
きちんと指摘しなかったらどうなるか?

本人が失敗する
→支援者「本人がかわいそう」
→支援者「これ以上、傷つけたくない」
→支援者「間違いの指摘なし」
→支援者「不適切な情報提供」(*ここポイント)
→本人「誤った認識」
→本人「再び失敗」
→本人「傷つく」
→支援者「本人がかわいそう」
→支援者「これ以上、傷つけたくない」
→・・・以下略

このような負のスパイラルが出来上がってしまいます。
実際、多いですよ、抜け出せていない人。

定型発達の人だったら、間違いの指摘をされなくても、文脈や状況から想像し、「やってはいけないことをしたな」とか、「敢えて指摘しないでおいてくれてるんだな」とか、「今度は、こうしたらうまくいくだろう」とか自然に理解したりできます。
しかし、自閉症の人はこのような思考に至らない場合があります。
それよりも、「間違いの指摘がない=やってもいい&間違いではない」という受け取り方をする場合が多いです。
間違いの指摘がされないと、改善へとつながるのも難しくなります。

負のスパイラルの中にいる人は、周囲から不適切な情報提供をされたり、そもそも情報が受け取れていなかったりすることが多いです。
その結果、「私は悪くない」「〇〇が悪いんだ」「社会が私を恨んでいる」とか、歪んだ認知が形成されてしまうこともあります。
このように一旦歪んだ認知が形成されたら、それを整えていくのは本当に難しく、労力もいります。
ですから、失敗や過ちを犯したときは、きちんと「失敗は失敗であること」「過ちは過ちであること」を伝える必要があります。
そして、今後、どうしていけば良いのか、改善策を一緒に考えることが大事です。

学校をサボる子がいて、ズル休みや遅刻は当たり前。
でも、ズル休みも、遅刻も、誰も指摘しない。
それでいて、遅刻してでも学校に来れたときには、「よく来れたね」「頑張ったね」なんて言っちゃう。
もうお分かりですよね。
指摘しないことで、「ズル休み&遅刻は悪くないよ」というメッセージになり、時間に関係なく学校に来ただけで褒められて、好きな時間に登校することが強化される。

嘘みたいな現実の話があちこちで聞かれます。
自閉症の人たちは「情報不足で困っている人たち」とも言えます。
良い情報だけではなく、悪い情報も不足しています。
この両方の情報をきちんと具体的に、はっきり伝えることが支援者の役割です。
本人がこれ以上、傷ついてほしくないと思うのなら、失敗や過ちをきちんと指摘し、情報提供をするのです。

2015年11月11日水曜日

ズバッと言えない支援者ってどうなの??

ご家族や支援に携わっている人に、私は自分の支援、指導、接し方を見てもらうようにしています。
やっぱり実際に見てもらう方が、感じるもの、伝わるものがはるかに多いと思うからです。

私の支援を見てもらったあと、多くの方たちから頂く感想が「ズバッと表現している」ということ。
別に性格、言い方がきつい人間だから、私がこのような表現をしているのではないです。
ズバッという言い方は、自閉脳の人に合わせたものだからです。

情報の取りこぼしがあったり、情報の一部分を強く捕まえたりする特徴を持つ脳の方たちですよ。
相手を傷つけないようにしてかの親切心かもしれませんが、オブラートに包んだ表現、気づいてほしいなというような遠回しの表現、くどくどした説明は、はっきり言って迷惑。
自閉脳を余分に疲れさせるだけでなく、誤った認識、世界観、誤学習へとつながっていきます。
情報の取りこぼしがなるべくないように、そして的確に情報を受け取ってもらうためにも、直接的な表現で、端的に伝えるのです。
情報不足で困っているのが、自閉症の方たちです。
きちんと情報を伝えるのが支援者の役割です。
社会一般的な的確な評価を伝えるのが支援者の役割です。

ズバッと言うことに対して躊躇してしまう人の多くは、「相手を傷つけてしまうのではないか」という恐怖心だと思います。
(でも、情報不足&誤った情報の取り方をしてしまい、結果的に現実世界で失敗してしまう方が傷つきますよ!)
心と心の繋がり合いを大切にする福祉関係者は特に抵抗があるようです。
しかし、ズバッと言うのと、心に寄り添うのが共存できないと思っていること自体が誤りです。
私がズバッと言うのは、言動に対してです。
人格や心は否定するのではありません。
誤った言動をしてしまったら、きちんと「誤っている」と言います。
一般社会から考えて高すぎる自己評価には「高すぎる」と言い、低すぎる自己評価には「低すぎる」と言う。
つまり、これは情報提供です。
ズバッと言うのは、自閉脳の人たちに分かりやすいように情報提供しているだけです。

ズバッと言う私だって、自閉症の人たちと一緒にご飯に行ったり、遊んだり、悩みを聞いたり、共感したりします。
感情や気持ちなどのパーソナルな部分に対しては、人間同士の付き合いをしています。
これって当たり前のことでしょ。
どうも自閉脳の部分と、パーソナルな部分が曖昧のまま、彼らと接している人が多いように感じます。

自閉症の人と接するからといって、冗談を言うのにスケジュールで予告しますか!?
プライベートでご飯食べに行くのに、衝立を持っていきますか!?
趣味の話をして盛り上がるときに、紙に棒人間と吹き出し、ソーシャルな文章を書きますか!?

私は主に自閉症、発達障害の人たちの支援を行っています。
でも、私の中では「その人」を支援している、と思っています。
その人に困ったことがある、わからないことがある、成長するために力を貸してほしい、ということに対して応えているだけです。
その具体的な方法として、その人の特徴、つまり自閉症の特性に対するノウハウが必要で使っているだけです。
ですから、ズバッという表現は支援方法の一部にすぎませんし、実際の場面で失敗を繰り返さないようにするため、傷つかないようにするために行っているのです。
「自閉症の人が傷つかないように・・・」と思ってやっていることが、結果的に彼らを傷つけることにもつながりますので、自閉脳に合った情報提供の仕方と、パーソナルな部分への寄り添いの両方を行ってほしいと思います。

自分の力でネガティブな記憶を塗り替えた!

昨日は嬉しいことがありました。
自分の足で大きな山を越える姿が見れたのです。

偶然にもちょうど一年前、彼はプレゼンの発表の際、パニックを起こしました。
前日の夜遅くまで準備をしたこと。
発表に対する不安と緊張。
それに想定外の質問がきたのをきっかけとし、感情を爆発させてしまいました。
そのため、プレゼンの発表はネガティブな出来事として彼の頭の中に強く記録されました。

昨日、彼と会うと、表情がこわばっており、全身にも力が入っていることがわかりました。
翌日に大事な予定が入っているときは、体調を整えることを優先し、ベストコンディションを目指すこと。
それは「やりました」と。
プレゼンの英語のスピーチも、スライドも、準備は「大丈夫」
そして、私のサポートは「いりません。自分で頑張ります」とはっきり言ってくれました。
彼は自分一人の力で乗り越える決心をしたのです。

彼とは一年以上の付き合いです。
それまでの成育歴を考えると、糸が絡まり、課題も山積みというのが当初の印象です。
でも、彼は良く学び、一年前とはまったく違った姿を見せてくれました。
堂々とした発表。
そして、聴衆からの質問に対して的確に答えることができたそうです。
「彼が今日のベストプレゼンターであり、素晴らしい準備ができていたことがわかった」という評価を発表会後、担当教官から聞くことができました。
彼は自分自身の力でネガティブな記憶からポジティブな記憶へと上書きすることができたのです。

彼が「自分で頑張ります」と言ったとき、一瞬迷いました。
もし昨年同様なことになってしまったら、ネガティブな記憶がさらに強化されるからです。
でも、私は彼の言葉を信じようと思いました。
彼は一年前とは大きく変わりました。
自分でコンディションを整えること、感情をコントロールすることを学びました。
そして何よりも、私が部分的にでも手を出してしまったら、それはサポート付きの"できた"になってしまいます。
それでは、サポートがあったから"できた"であり、サポートがなかったら"できなかった"になります。
結果として、一年前のネガティブな記憶が塗り替えられることにならないのです。

担当教官からの評価は、彼には伝えませんでした。
というか、伝える必要がないと思いました。
だって、発表を終え、会場から出てきた彼の顔が達成感で溢れていたから。
ここで二流、三流の支援者なら「素晴らしい発表だったよ」とか、「担当教官が〇〇と言ってたよ」なんて言うのでしょうが、私は言いません。
自己肯定感は、誰かに与えられるものではなく、自分の身体を通して自分自身で得るものだから。
昨日の出来事は、彼にとって大きな経験であり、さらに良い方向へと変わっていくきっかけになる、と直感しました。

これからは、私の支援が「いらない」と言えるかどうかが、大事なポイントになります。
私も含め支援者が教えられることなんか、本当にちっちゃなものです。
それよりも社会の中の方が、より多くの学び、生きた学びをさせてくれます。
人を一番成長させるのは、社会です。
知的な面での課題がないのなら、障害者として生きる必要はないのです。
世の中には、変わった人はたくさんいます。
その変わった人の一人として人生を歩んでいけば良いのです。
そのためには、自分で稼ぎ、生活ができること。
他人の迷惑になるような行いはしないこと、しないように自分でコントロールできること。
これができるようになればいい。

彼への支援は、次の段階へと進んでいきます。
これからは、「障害者として生きない人生」を彼と一緒に考えていきたいと思います。

2015年11月10日火曜日

取り組みを始める前には、「目的」と「ゴール」を伝える

取り組みを始める前に、目的を伝えることは大事です。
「何のため、この取り組みを行うのか?」
「どんな苦手さがあり、それを改善することで、どんなポジティブな結果が待っているか?」
をきちんと理解してもらいます。
何のためにこの取り組みを行っているのかがわからなければ、当然意欲も湧きませんし、持続しません。
また「意識が向いていないと学習効率が悪くなる」とマイナス点もありますので。

この目的を伝えることと同じくらい大事なことが、もう一つあって、それは「ゴール」を具体的に伝えることです。
例えば、「5回連続して、一人で登校できたら目標達成」とか、「家を出て、グループホームに入居できたら終わり」とか。
とにかく“終わり”を明確に伝えることが大事です。
それでなければ、「いつ終わるのか」が分からなくて不安にさせてしまったり、次々、新しい取り組みをやっていたら、彼らが苦手な変化のボディーブロー状態にしてしまいます。
「いつになったら終わるんだ!」
「いつになったら変化がなくなるんだ!」
というような叫びを聞くことがあります。

そして何よりも、「支援が一生続く」と思ってほしくないのです。
支援の目的は自立度を上げることです。
完全に自立できる人は自立してもらい、完全な自立が難しい人は少しでも自立度を上げて、支援を減らしていく。
そうすることで、本当に支援が必要な人に、"人"と"お金"と"資源"を使ってもらう。
支援は椅子取りゲーム状態なので、一人の人が椅子に座り続けている限り、他の人が座ることができなのです。
だからこそ、支援には期限があること。
支援者から自立するために支援があることをしっかり理解してもらいたいのです。
(ここが曖昧だと、支援を受けること自体が普通になってしまい、必要のない支援を減らすことでさえ、「支援が減る=不安」になってしまう人もいるので要注意です。つまり支援が自立を妨げることもあるのです)

特に発達障害の人たちは、発達"しない"人たちではありません。
取り組みによっては、どんどん発達していけるのです。
発達していける部分と発達することが難しい部分。
支援には、この2つの側面に対するアプローチがあることを忘れてはいけません。
発達していける部分には支援を受けながら、どんどん自立していくことを目指す。
そして、どうしても変わることが難しい部分には継続的な支援を求める。
これが正しい支援のあり方です。

本当は成長できる、変わっていける部分なのに、同じ支援を受け続けている場合が多いようにも感じます。
それは支援者の手の中だけの人生になってしまう危険性があります。
どんな人であっても「完全な自立を目指せ」とは言いませんが、少しでも自立できる部分があれば、その部分においては主体的な人生を手に入れることができるのです。
自立するために支援を利用してほしいと思います。
「支援があって初めて自分の生活がある」という順番があべこべな人生は歩んでほしくありません。

2015年11月6日金曜日

身体先行型の人に「おやっ!?」という仕掛けを

時々、身体先行型の人を見かけます。
慣れている活動は、パターンで次々とこなしていく。
とにかく動きが多く、まるで刺激に対し反応を繰り返しているような感じ。
こういった方たちを見ると、「頭と身体のつながりがどうなのかな」と思ってしまいます。

衝動的に行動することもありますが、多くの人たちは考えて行動したり、考えながら行動したり、行動したあと、考えたりします。
しかし、身体先行型の人は、このような“考える”が抜けているようにも見えます。
“考える”のプロセスがないと、変化に対応できなかったり、他の場面に応用できなかったり、失敗を繰り返してしまったりすることにつながります。
ですから、“思考”と“行動”のつながりを良くすることが大事です。

私は「あまり考えて行動していないな」「パターンだけで動いているな」と感じたら、「おやっ!?」という場面を意識して作るようにしています。
いつもなら考えずにパターンでできちゃう活動の中に、仕掛けを入れます。
例えば、手洗いのときに使うタオルを無くしておいたり、いつも行う勉強の教科の順番を変えてみたり、「おはようございます」という挨拶に「さようなら」と言ってみたり。
本人が「おやっ!?」と立ち止まってくれたら成功です。
その瞬間だけかもしれませんが、頭と身体がくっつきます。
行動→行動→行動の中に“考える”が入れば、思考と行動の間に交流が生まれます。
そういった機会を増やしていくことで、思考と行動のつながりが良くなることを目指していきます。

もちろん、ルーティンで行うことがダメだと言っているのではありません。
脳みそを無駄遣いしないためにも、ルーティン化できるところはした方が良いです。
ここで挙げた「おやっ!?」の取り組みは、身体先行型で、日常生活の中であまり考えて行動していないと思われる方に対してのものです。
また、ここでは身体先行型の人についてを中心に書きましたが、頭先行型の人で頭と身体のつながりが良くないと思われる場合には身体を動かす機会を設ける取り組みを行います。
考える→考える→考えるの中に“行動”を入れることで、思考と行動の間に交流を起こしていきます。

「徐々に支援を減らしていく」と相性の悪い子もいる

「徐々に支援を減らしていく」って、子どもによっては相性の悪い方法だと思う。
どういう子どもにとって良くないかと言ったら、ルーティン化で学んでいくタイプの子。
あとは、物事の概念や意味の理解が難しく、それよりも形で覚えちゃう子も。
ルーティンで学んでいく子なら、最初に受けた支援も活動の一部になってしまう。
また、物事の概念に気が付かないのなら、自分でやる部分と支援の区別がわからなくなってしまう。

こういった子どもにとっては、自分が受けた支援もひっくるめて1つの活動にパッケージングしてしまう。
そのため、支援の回数や方法が変わってしまうと、まるで別の活動になったかの如く混乱したり、できなくなったりしてしまう。
支援者がこういう子どもの特性や様子に気が付いていないと…
「支援を減らしたら、またできなくなった」=「まだ支援が必要だ」
なんていうズレが生じてしまい、導入段階の支援を続けてしまう。
そして、いくら経っても自立できず、支援もどんどん活動の一部として固まっていく。

この前、見せてもらった支援計画書に「徐々に支援を減らしていく」と書いてあったので、「今、どれくらい減ったのですか?」と尋ねると、最初のままだと言う。
徐々に支援を減らし、最終的には自分の力だけで、と考えていたのだろうけれど、半年間、取り組みをやって支援が減らせないのなら、上記のような要因が考えられる。
それか、そもそも支援のやり方自体が合っていなかったか、その目標をやること自体、まだ早かったのか。
とにかく半年も支援して自立しないのなら、見直すべきだろう。

ルーティン化で学ぶ子、物事の概念の理解が難しい子の場合は、指導の場面と実践の場面を明確に分ける必要がある。
そうすることで、本人に「今は教わっている」「今は自分でやる」という違いを意識してもらう。
また、実践しながら指導をしないようにするため、実践するために必要なスキルはすべて自立してできるようにしておく。
そうすることで実践の場面では、活動の順番を学ぶことだけに集中できるように導く。

1つの活動を行うためには、「知識」と「動作(身体の動かし方)」と「順番」の理解と獲得が必要である。
例えば、靴ひもの結び方だと、靴の結ぶ意味や完成形がわかり(知識)、紐を結ぶのに必要な指先の動きができ(動作)、靴を履いてから結ぶ、まず紐の両端を指で摘み・・・というような順番がわからなければならない。
このうち、どれかが欠けていても靴ひもを結ぶことはできない。
ですから、ルーティンで学ぶタイプの子、動作で学ぶタイプの子の場合、「順番」が強く入ってしまうので、実践の前にその他の「知識」と「動作」は完璧にしておくことが重要になる。

私は「徐々に支援を減らしていく」という方法を選択することがほとんどない。
まあ、指導と実践の区別がきちんとできている人の場合は行うけど。
でも、そのときでも、きちんと最終目標は具体的に本人に伝えるようにする。
「最初は支援に入るけど、だんだん回数を減らしていき、最終的には支援がない状態で、一人で活動できることがゴールだから」というように。
本人にゴールの姿をイメージしておいてもらうことは大事な支援。
それがなければ、支援が減るのも、別の形態になるのも、本人にとっては"変化"だから。
未来を適切に想像することが苦手な人たちに、いつ終わるか分からない変化を与え続けるのは適切な支援とは言えないですからね。