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2015年は、結構切りましたね(笑)

日本列島は縦に長いんだと、改めて実感しますね。 雪の降る氷点下の北の大地から、飛行機に乗って90分。 あっという間に、暖かい東京に着きました。 まるで春のような陽気です。 東京で電車に乗っていると、本当にいろいろな人がいるんだな、と感じます。 外国の人も多いですし、個性的な人もたくさんいます。 函館にいたら、かなり視線を集めるだろうな、と思う人も。 東京っていうのは、いろいろな人がごちゃまぜの場所ですね。 でも、それが多様性を持った真の社会の姿だと思います。 2015年も、残すところ、あと6時間ほどになりました。 今年を振り返ると、本当に長かったという感じです。 いろいろな出来事、出会いがありました。 仕事の件数も、500件以上、メールや電話等の相談もいれたら、もっと増えますね。 でも、この数よりも、私の支援がいらなくなった人が多く出たことのほうが嬉しかったです。 自分で成長する方法を掴んだ人。 希望の進学、就職が叶った人。 自立への一歩を踏み出した人。 新たな人生へ歩みだした人。 「大久保さん、もう一人で大丈夫です!」という言葉のために、仕事をやっているようなものです。 たくさんの子供たち、若者たちの成長に立ち会えたことが、何よりの喜びでした。 個人的には、揺らぎがなくなりましたね。 余計なもの、わずらわしいもの、信じられないものは、一気に切り捨てるようにしました。 とにかく自分が信じた道以外は、人でも、ものでも、仕事でも。 仕事が安定しないときには、「なんでもかんでも」でしたが、本人の成長と自立のため以外のことはやめにしようと思ったのです。 本人にも、ご家族にも、ときに支援者にも、厳しい発言をしてきました。 それもすべて未来のために。 「嫌われたらどうしよう」とか、「仕事の依頼がなくなったらどうしよう」などと、今思えば、自分本位のくだらないことだったように感じます。 でも、今までできなかった"切る"を行ったら、私が進むべき道が見えてきた。 私が行うべき支援と役割が見えてきたから、思い切って切れたのかもしれませんね。 「支援者がいらなくなる支援」 これこそが進むべき道だと考えています。 支援者と呼ばれる人間ができることなんて限られています。 その人を一番成長させられるのは、

脳の声を聴こう

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10月の発達援助イベントに参加してから、脳についてもう一度、勉強し直しています。 そして、 「脳のどの部分に不具合があるのか(鍛える弱み)」 「反対に脳の不具合の部分を補っている部分はどこか(活かす強み)」 「その不具合の部分をどう発達させるのか」 という視点を大事にしながら、以前よりも日頃の仕事を行うようになっています。 ある男の子は、常に自分の視点のみで行動していたため、他人に不利益を与えてしまうことが多々ありました。 そして、当然叱られますが、何故、いけないのかがわからなかったのです。 そこで、他者の視点を想像する脳の部分に不具合があるのだと仮定し、アセスメントを行いました。 でも、他人の視点を想像することができないわけではなかったのです。 つまり、他者の視点を想像する脳の箇所に不具合があるわけではない。 ということは、自分の視点と他者の視点の行き来がうまくいっていない。 自分の視点をもとに想像する脳の箇所に優位性があり、かつ他者の視点をもとに想像する脳の箇所とのつながりが弱い。 定型発達の人なら自然に、意識せず、一瞬で自分の視点と他者の視点を入れ替えられるのですが、そこを敢えてマニュアル的に「自分の視点」「他者の視点」を入れ替える学習をし、情報伝達を意図的に交流させました。 この男の子の場合、情報の交流が脳を発達させると判断したのです。 また、ある女の子は、国語でも、算数でも、文章問題が苦手。 漢字や計算などは、バッチリなのに。 そこで、彼女は文字として、文字のまま捉えているから、文章問題になると勘違いや間違いが多くなるのだと仮説を立てました。 私の見立ては合っていたようで、文章問題も計算問題のようにやっていたのでした。 普通、文章問題を読んでいるとき、頭の中にイメージが湧きますね。 「太郎さんが飴を3個持っていました」とあれば、頭の中に太郎さんと3つの飴のイメージが自然と浮かびます。 でも、その子はそのイメージが浮かんでいませんでした。 ですから、その子の趣味は絵を描くことで、マンガを描くことでしたので、文章問題が出てきたら、絵を描いてから解くようにしました。 私たちが頭の中でやっていることを実際に絵を描くことで行ったのです。 そうすると、あれだけ苦手だった文章問題がきちんとできるようになったのです。

家族の中心は自閉症の子なのか!?

今月、3件のお宅で同じ話が出ました。 これは「ここに書けってことかな」と思い、今年中に書いておきますね。 どんな話かといったら、「家族の中心は自閉症の子なのか!?」ということです。 ある親御さんは、定型発達の兄弟児に時間を割こうとしたら、某支援者から怒られたとのこと。 また、ある親御さんは、「介護や他の家族のこともあるから、この子の支援だけをやっていられない」と言ったら、「だから、お子さんは落ち着かないんです。このままでは犯罪者になりますよ」と批判され、さらに別の親御さんは、「そんなこと、普通の家ではできませんよ」というような環境的にも、労力的にも、現実とはかけ離れたアドバイスをされたとのこと。 まあ、よくあるんですよね。 こういう空想上のアドバイス。 兄弟児がいれば、兄弟児のことだってある。 また、介護もあれば、親御さん自身のこともある。 朝起きれば、学校まで送りだすだけでも一苦労。 そして、家庭のこともやり、仕事もあれば、それも行わなければならない。 自分だって休憩や息抜きをしなければ、壊れてしまう。 学校から帰ってきてからも目まぐるしく時間は過ぎていき、休日は休日で大変なこともある。 そんな家庭での営みの中で、可能な範囲で子育て、支援を行っていくのが、現実的なお話ですね。 「あなたが言うようなアドバイスをそのままやっていたら、誰が他の兄弟の面倒を見るんですか!?誰が買い物に行って、ご飯を作るんですか!?」っていうような支援者の助言。 支援者って、障害者中心の世界で生きているから、机上の空論というか、現実世界とは別の次元で話をしてしまうんですよね。 あなた達の支援の中心は、障害を持った人かもしれないが、家庭にしてみたら、家族の一人。 確かに、他の家族よりも、いろんな面で手が必要かもしれないが、決してその人中心に家族が成り立っているわけではないし、常に中心である必要もない。 ある親御さんは、素晴らしいことを言っていましたよ。 「社会は自閉症中心に成り立っているわけではないので、家庭の中も自閉症中心の世界にしてはいけないと思うんです。この子が勘違いしてしまって、将来、困るのはこの子だから」 こういったしっかりとした考えを持って、子育てされている親御さんは立派だと思います。 本当におっしゃる通りです。 社会は自閉症中

提示された選択肢は、それがすべてですか?

相談業務の人間が、自分たちに対して ぺこぺこしてくれる 持ち上げてくれる 言うことを聞いてくれる 介入させてくれる(しやすい) 影響力を持たせてくれる(持ちやすい) (第三者から見たら)評価が高くなる というような仲良し入所&就労施設、児童デイ、学校しか勧めなくなったら、もう終わりが近いですね。 まあ、相談業務だってボランティアではありません。 仕事ですし、その仕事を行っているのは、人間です。 だから、感情と利害関係が左右させるのもわからなくはない。 仲良し関係の方が、何かと有利に動きやすいでしょう。 これは、どの仕事、業界でも、同じこと。 でも、何だか福祉の相談業務って、性善説でみんな動いているように思っちゃっている人が多いんですよね。 より良い選択ができるように相談に行っているのに、そもそもの選択肢に偏りがある。 これって、ちょっと想像力を働かせればわかること。 「大久保さん、なんで〇〇ばかり勧めてくるんだと思いますか?」 などという疑問を持たれる当事者の方、保護者の方が多いんですよね。 まあ、尋ねられたら、きちんと情報提供はしますが。 ほら、だって、本人は「今の給料では生活ができない」「もっと働きたい」と訴えているのに、作業所から一般就労させることを止めたり、障害者枠から離れて就職活動をすることを止めたりすることってありますよね。 進学先を変えたら、怒られた、「もう支援しない」と言われたなんて、良くあること。 でも、ちょっと考えてみたら、今の日本で(江戸時代とか、他の国なら分かりませんが)、自由に就職先が決めらないのは、おかしくないですか!? 進学先だって、普通、本人主体で、そして家族で決めませんか!? 「希望しても、難しい」と言うなら、わかりますよ。 「こういったメリット、デメリットが考えられる」と言うなら、わかりますよ。 きちんと"根拠"を挙げて。 それが仕事ですから。 しかし、ただ「ダメだ」とか、脅しのようなことを言うのはおかしいですよね。 本人や家族が選択した結果、失敗しようが、うまくいこうがそれは別の話であって、そもそも選択すらさせない、個人的な選択に他人が首を突っ込むのはあり得ないこと。 「じゃあ、あんたは責任が取れるのか」 「じゃあ、あんたは霊能力者か」

やりません宣言は、やれません宣言

「私は子どもの支援(教育)しかしない」 などと、意味不明な宣言をする人がいるんですよね~。 大学にもたくさんいましたよ。 「成人!?ムリムリムリ。やっぱりかわいいから子どもの方がいい」 というような学生も。 まあ、教育大学なので、子どもが好きな人が多いでしょうし、子どもを育てる仕事がしたいから、進学したんでしょうし。 施設で働いていたときも、「絶対、子ども」という配属希望の人も多かったですね。 中には「絶対、成人」という人もいましたけど。 いやぁ、別に希望することを否定しているわけじゃないんですよ。 そりゃあ、子どもの支援(教育)がしたい人もいれば、成人の支援(教育)をしたい人もますよね。 それは当然のこと。 でも、それって、どちらも経験して言っているのかな、という疑問があるんです。 ちょっと見たり、聞いたりしただけで、やりません宣言は、や"れ"ません宣言にも聞こえるんですね。 特に、すでに支援者として、教育者として働いている人間に対しては。 私は施設で働いていたとき、子どもも、成人も、支援させてもらいましたが、やっぱり子どもの方がぐんぐん成長しますし、問題行動があったとしても治しやすいですし、身辺面の手助けも負担が少ないですよ。 成人の人たちの問題行動は結構しんどいですし、身辺面だって…。 でも、どちらも経験したから、見えてくるものがあるんですよ。 子どもも、成人も、独立して存在しているわけではないですから。 人はつながっています。 今、目の前にいる人にも、過去と未来がある。 子どもだって、いずれは成人するのですから。 というか、成人後の豊かな生活、人生のための支援、教育であり、社会の一端を担えるような人材に育てていくのが、役割だと思うんですけどね。 その人の成長をどうサポートしていくのか、でしょ。 「生涯に渡る支援」は、成長の支援のはず。 何だか、離職者が多いみたいで、相談業務に現場経験のないスタッフが増えてますよね。 新人を育てることは悪いことではないですけれど、卒業後、すぐに相談業務っていうのはね・・・。 相談されても何も答えられないでしょうし、家族の方が経験が多いでしょ。 せめて現場で働いてから、相談業務にあたってほしいですよね。 結局、現場経験のない相談畑の人間が、いらな

問題行動は治すべき対象です!

不自由さのない大久保です。 好き勝手に発言できていますから(笑) 変なギョーカイやバックが側にいないということは、すべて自己責任という大変さもありますが、身軽さもありますね。 まあ、問題発言をしているつもりはありませんがね。 問題と言えば、今年も問題行動をメインにした依頼が多くありました。 だいたい支援者会議でも、メインは問題行動です。 問題行動がなければ、わざわざ会議まで開きませんよね。 親御さんとお話ししていても、ときに支援者と話をしていても、違和感を感じることが多いです。 それは、問題行動と障害特性の曖昧さ。 問題行動への取り組みの際、出てくる氷山モデルが混乱させているのかもしれませんね。 確かに問題行動の根底には、障害特性が関係する部分があります。 でも、だからと言って、問題行動=障害特性ではありません。 問題行動は、問題行動です。 障害特性ではありません。 ですから、見逃しも、許容も、ないのです。 あるのは、周囲への悪影響と、その人の責任、あとは改善、消去という選択肢のみです。 問題行動は、障害特性だと誤って解釈しているのか、それとも問題行動はどうにもならないと思っているのか、それはわかりませんが、結構勘違いしている人が多いですね。 足の不自由な人が杖を振り回して、他人をケガさせたら、それは問題行動だと捉えますよね。 足が不自由なのは、障害かもしれませんが、暴力を振るうのは別問題です。 同じように、目が不自由な人が暴言を吐いたら、咎められて当然のこと。 もし支援を受けていたら、どうにかそういった行動を止めさせるはずです。 でも、発達障害の人が暴力を振るったり、ネット上で悪口を書き込んだりしても、御咎めなしなのはおかしなこと。 社会性の違いや、適切に想像することの苦手さという特性が関係しているかもしれませんが、だからといって問題として扱われないのはおかしいですね。 ましてや支援する立場の人間が、見て見ぬふりというのは、職責放棄としか言えません。 支援者と呼ばれる者なら、全力で問題行動を治さなければなりません。 そして治すために、氷山モデルの水面下の部分、つまり特性と関わる部分へのアプローチを行うのです。 あれは、問題行動=障害特性ということを表しているではなく、水面下の部分へのアプローチが結果と

自分の持っているもので勝負!

「組み立てが必要なおもちゃは、一人でできるようになってからのプレゼントにして下さい」と、心の中でサンタさんにお願いした今朝(涙) 5時からおもちゃを組み立てたので、いつもより濃いコーヒーを飲んで仕事してました(笑) 息子が朝早くから起き、目を輝かせて遊ぶ様子を見ていて、子どもにとっては特別なイベントなのだと思いますね。 クリスマスが終われば、一気に街は新年モードに変わりますね。 学校も冬休みが始まり、「休み期間中に、集中して〇〇に取り組んでほしい」というような依頼もきているので、年末を感じます。 雪がないので、変な感じがしますが、今年も残り一週間ですね。 今年もギリギリまで予約が入っていますので、仕事納めはまだですが、振り返れば、長い一年だったように感じます。 年をとれば、新しいことが少なくなるので、単調な生活になりやすい。 そうすると、時間っていうのは、早く感じるそうです。 子どものときの一年と、大人になっての一年は、時間の感覚に違いがありますよね。 私も、大人になってから時間が早く感じていて、毎年、「えっ、もう年末!?」って思っていたのですけれど、今年は特に長く感じました。 事業を始めた当初は、あまり仕事がなかったので、早く感じていましたが、今年はおかげさまで仕事も多くいただき、バラエティーに富んだ依頼や相談が多かったため、単調さがあまりなかったからでしょうね。 私はコツコツ数を積み重ねていくのも好きなのですが、それよりも新規性、不規則性がある方が好きです。 決められた場所に行って、決められた仕事をするのも、過去にやっていたので、できなくはないと思いますが、やっぱり「今日、何が起こるか分からない」「自分で予定を決めて進んでいく」というような仕事の方が、私の性分、資質には合っているようです。 まあ、家族に合っているとは言えませんが(笑) 掘り下げれば、自分で決められないのが嫌で、自分の手の中に選択肢があるのが、心身の健康と、自分を成長させるには合っているように思います。 ですから、仕事をすればするほど、元気になっていき、またアイディアも溢れてくるような気がします。 このように自分の性分、資質に合った生活を送ることが大事なのかもしれません。 今年も多くの方たちとお会いしましたが、調子が悪い人は、ご自身の性分、資質に合ってい

新たな一歩は、散歩の一歩から

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つい先日、今年の目標にしていたランニング1,000㎞走破しました♪ 11月が終わった時点で、まだ870㎞だったので、達成できるか微妙なラインでしたが、今年は暖冬の影響もあり、雪がぜんぜん積もっていなかったので、順調に距離を重ねることができました。 4月から始めたランニング。 高校以来、運動らしい運動をしていなかったので、続くかどうか心配でしたが、目標達成まで続けられました。 時間は作るものですし、他人様の成長をサポートしている人間が、成長できずに途中で辛いからといって諦めてしまうのはおかしなこと。 身体も絞れて調子が良く、一年間、病気をしませんでしたね。 代謝も良くなったので、汗も沢山かくようになり、冬でも薄着で大丈夫。 仕事の面でも、カンが冴えていたように感じますね。 走っている途中に感じる「気持ちいい」を大事にしました。 身体を動かすことは、本当に気持ちが良いものだと再確認できた一年でした。 あと身体を整える大切さも。 今朝の新聞に、スポーツを楽しむ障害者が少ないという記事が載っていましたね。 国の調査では、週に1回以上、スポーツをする成人の割合が、健常者で約4割なのに対し、障害者は2割弱とのこと。 運動は心身の健康と成長につながるのに、それができていないことに残念さを感じました。 今年も多くの成人の方たちと接しましたが、皆さん、定期的なスポーツ、簡単な運動すら行っていない人ばかりでしたね。 ですから、運動の大切さと、効果を伝え、一緒に散歩したりしながら、どうにか日課の中に運動を入れてもらいました。 長年、ひきこもりを続けていた成人の人も、運動するようになって変わっていきましたね。 どうしても、頭重視、視覚重視の生活を送っているので、カウンセリングやSSTのようなことをやっても、あまり効果がないという実感があります。 でも、一緒に散歩しながら、汗をかき、聴こえてくる音に耳を傾け、足で地面を感じているうちに、表情が明るくなっていきますね。 そうやって表情が変わったときに、いろいろな話をすると、本当の気持ちや前向きな希望を話してくれることが多いです。 (しかし、ただ「散歩をしよう」「運動をしよう」と言っても拒否ですので、頭重視の人には頭に知識として運動の効果と意義を伝え、納得してもらうことがミソです) 新たな一歩は、

信頼関係を築くことが目的になるのか

「まずは信頼関係を築くことから始めましょう」 「信頼感を持ってもらえれば、こちら側の話を聞いてくれると思います」 「信頼関係が構築できたら、好転していきますよ」 「信頼」という言葉をあちこちで耳にします。 ボーと聞いていれば、本当に「そうだな」なんて思ってしまう便利な言葉です。 対人関係で、「信頼なんていらない」とは言えませんもんね。 だから、聞いている方も、スッと受け入れてしまう。 でも、「信頼」って何でしょうかね? つい最近、「もう家族だけでは限界です」という相談がありました。 家庭内暴力もあり、もうどうしようもなくなっている、と。 で、最初に相談した支援機関の人が何と言ったか。 「まずは本人に話を聞いてもらうためにも、担当者と"信頼関係"を築けることを目指していきましょう」と。 いやいや、もう限界だからSOSを出しているのです。 そんな悠長なことを言っていたら、家族みんな総倒れになりますよね。 第一、どうなったら「信頼関係が築けた」と言えるのでしょうか? 「〇回、面談したら」とか、具体的な期間を示せるでしょうか? いつになるかわからない"信頼関係"を待つことをこの状況の家族ができると思いますか? 軽々しく「信頼」という言葉を使う人は、ただ具体的な戦略、方略を持っていないだけです。 だから、便利な「信頼」という言葉を使うのです。 大事なことは、瞬時にゴールまでの支援のストーリーを創造し、今できるベストの選択を行うことです。 できることからまず行う。 解決が早いところから手をつける。 治しやすいところから治す。 これが基本です。 こういった積み重ねが、本人をラクにし、結果として信頼関係につながるのだと考えています。 何も手が打てないのに、「信頼関係」なんて築けるわけがありません。 上記の相談があった方は、支援機関の方針を聞いて、すぐに信用できないと判断しました。 それで、伝手をたどって私のところまでいらしたのでした。 別に私の自慢をしているのではありません。 結局、口だけの人間が多すぎるのです。 私のところに来る前に、その支援機関が行動を起こせていたら、もっと早く本人、または家族がラクになれたかもしれません。 ラクにならないまでも、伝手をたどって、の部分は

引き継ぎが日本語でできるとは限らない

近い将来、外国人労働者の力に頼らなければ、この国の福祉が成り立たなくなるのは目に見えています。 現に介護の分野では、外国の方が働いています。 当然、障害者福祉だって、外国の方が働くようになるでしょう。 来年度から小中学校の教職員の削減方針が決まりましたし、学校現場にも、どんどん入ってくるかもしれません。 通常級や特学の補助が外国人という時代も。 そうなったら、「うちの子には、外国人ではなく、日本人の補助員をつけてください」なんていうような要求も出てくるかもしれませんね。 今は当たり前のように、日本人の先生が補助や指導にあたっていて、「できるだけ、専門的な知識を持った先生を」なんて言っていますが、そんなのは夢のまた夢という時代が来ると思いますよ。 引き継ぎが日本語でできることだけでも、恵まれた時代だと言われるかもしれませんね。 近い将来、福祉施設での監督者は日本人。 そして、実際に利用者と関わるのが外国人。 学校でも、担任は日本人で、あとは外国人となるでしょう。 今のアメリカのように。 特別支援のニーズは、どんどん増えていく一方、それに応える人間が減っていきます。 当然、働く方としては、より恵まれた環境の仕事を選ぶはずです。 福祉施設のような不規則で、重労働の仕事。 問題行動があっても、受け入れざるを得ない学校の先生などは敬遠されることが多いでしょう。 こういった見通しは、すぐに想像ができます。 ですから、こういった近い将来を頭に入れながら行動していく必要があります。 今のように「教育や福祉がどうにかしてくれるはず」というのが、お花畑になる時代が来ます。 幼いときから、自分たちでできることをやり、将来に向けて一人ひとりが準備しなければならなくなります。 だって、教育の世界も、福祉の世界も、もしかしたら日本語で充分なコミュニケーションがとれない人、賃金を得るためのアルバイト感覚の人が増えていく可能性が高いのですから。 「きめ細やかな教育」「専門的な支援」を要求する以前に、日本語がうまく通じないかもしれませんよ。 契約された時間になったら、子どもを置いて、帰宅するかもしれませんよ。 アメリカでは、利用者の方が働いている横で、スマホをいじったり、雑誌読んでたりなんて普通の光景でした。 補助職員や支援員は、賃金が安いの

頭を使うと、姿勢が崩れる男の子

「大久保さん、どうして僕がマジメに考えていないこと、わかったの!?」と驚く男の子。 「〇〇くんのことならお見通しだよ。だから、しっかり自分の頭で考えて、答えを出さなきゃね」と私。 どんな理由にせよ、しっかり脳みそを使って考えてもらえれば良いのですからね。 ネタばらしは、別の機会に取っておこうと思いました(笑) どうして私が、彼の頭の中を覗くことができたのか。 それは簡単です。 彼は考えることに集中しだすと、姿勢が崩れるのです。 反対に、あまり考えずに、というか、クイズに答えるように反射的な場合、姿勢が崩れません。 考えれば、考える程、姿勢はどんどん崩れていきます。 自閉症の人は、身体面でも不具合を抱えていることが多いです。 私たちがほとんど意識しなくてもできるようなことでも、意識したり、注意を集中させたりしないとできないことがあります。 彼で言うと、姿勢の保持が難しい。 知的な遅れはありませんが、身体面での発達の遅れが見て取れます。 ですから、姿勢を保つことは自然にできることではなく、意識を集中させ、エネルギーを使うのです。 よく「勉強中の姿勢が悪い」という相談を受けます。 でも、身体面の発達が遅れている子の場合、あまり姿勢、姿勢と言わない方が良いと考えています。 それは姿勢に対する配分が多くなってしまうと、その分、勉強の力が下がってしまうから。 姿勢が崩れるということは、それだけ考えるということにエネルギーを使っているとも言えるのです。 勉強の目的は、学ぶことです。 姿勢を保つことではありません。 もし姿勢が保てないのなら、それはそれだけ別の機会に学び、トレーニングする方が良いと思います。 勉強はしっかりしてほしい。 さらに姿勢もきちんと、と言ったら、それは難しい場合がありますね。 冒頭の男の子の場合、勉強と並行して、身体面のトレーニングも行っています。 ですから、勉強中、姿勢が崩れてもOKなのです。 逆に、姿勢が崩れないのは、あまり考えていないということなので、こちらの方が問題ですね。 最初は、姿勢にもこだわっていた親御さんでしたが、背景を説明したら、今は理解し、納得してくれました。 どうしても、勉強の姿勢は気になりますよね。 私たちが子どもの頃は、家庭でも、学校でも、注意されましたからね。 で

各地域でよく呼ばれる当事者の方は誰?

全国、それぞれの地域に講演会に良く呼ばれる当事者の方がいます。 その当事者の方の主義主張を聞けば、だいたいその地域にいる支援機関の考え方がわかりますね。 だから、私は各地での雰囲気を掴むために、当事者の方が何を言っているかを知ろうとします。 その地域で、どうしてその当事者の方が呼ばれるのか、についてはいろいろな理由があると想像できます。 でも、呼ぶ方としては、自分たちの主義主張に近い当事者の人にお願いするだろうし、まったくお互い知らない人同士で、こういった話は生まれづらい。 ということは、やっぱり日頃から関係がある、支援者と支援される側の関係の中で話が出るのが多いでしょう。 地域によっては、「仕事もして、生活も安定し、バリバリ自立してます」という方を呼ぶところもあれば、「(今は自立してないけど)こういった支援があれば、生きやすくなります」という方を呼ぶところもあります。 でも、どちらの方を呼ぶにしても、「生まれてから何の苦労もなく、自立できました」とか、「支援機関に頼らず、独自の道で頑張りました」とかいう人には、お声がかからないようです。 今、自立していようが、いまいが、苦労→支援→生きやすくなる、という経験を持つ人のニーズが高い。 それは当然ですよね。 だって、意図があって、講演会だろうと、研修だろうとも、支援機関が主催側で当事者の方を呼ぶのですから。 支援機関側だって、自分たちにプラスになるような講演会を開きたいはず。 ボランティアではないですからね。 自分たちの宣伝だったり、イメージアップだったり。 こういったのは、定型発達の人ならすぐに想像でき、「講演する側にもメリット(報酬、宣伝など)」というように計算し、労力やデメリットと天秤にかけ、引き受けたり、断ったりしていますね。 でも、自閉症の人たちは、こういった主催者側の視点に気が付きづらいこともあるので、しっかり教えることも大事です。 これは例外中の例外なのでしょうけれど、支援や治療の一環として特定の当事者の人に依頼する場合があるように感じます。 社会の中に居場所がない人に、講演するという居場所を作っているような。 また、講演することによって自己肯定感でも高めようとしているような。 まあ、お膳立てされた中で、うまくいっても自己肯定感は高まらないと思いますがね。

中途半端な優しさが誤学習の元

ネタはあるけれど、ここに書けないネタが多いので、困ってしまいますね(笑) まあ、てらっこ塾を利用して頂いている方には、サービスとしてお話ししていますが♪ ネタと言葉を選んで表現するのも勉強です。 スパイスだけだったら、ただの"辛い"にしかなりませんが、そこにまろやかさを足して美味しくしなければなりません。 スパイスだらけで、うま味のない手料理を出されたら、きちんと「辛いだけ」「うまくない」と言わないといけませんね。 それじゃないと、料理を作った相手は、また同じ味の料理を作るかもしれませんし、腕も上達しません。 美味しくない料理が出されて、「うまい、うまい」と言うのは、相手を誤った方向へと進ませることにもなりますよ。 特に、「気を遣って敢えて「美味しい」と言ってくれたんだ」というように相手の視点を想像することが苦手な方に対しては。 自閉症の人が社会から離れていく背景に、こういった周囲の優しさが誤学習につながってしまっていることがあります。 「うまい」と言われれば、そのままの言葉として、そのままの評価として受け取る人がいます。 他者が「気遣っている」という視点 一人の評価は世の中の評価全体を表しているわけではないという視点 評価が決定事項ではないという視点 を想像することが苦手なのです。 そうなると、本来なら否定され、修正されるべき話も、どんどん強化され、突き進んでいくことになります。 周囲が自閉症の理解がある人だけなら良いかもしれませんが、おかしな言動は一般の人からしたらおかしな言動にしかなりません。 そういったときに、結局、傷つくのは本人なのです。 自閉症の人と関わっている人で、こういった中途半端な優しさを振りまいている人は多いです。 どんなことでも、「いいよ、いいよ」「上手、上手」と言う人たち。 こういった人は、上記のような自閉症の人の視点を説明しても受け入れようとはしません。 だって、心から自閉症の人、というか、目の前の人のためになると思ってやっているので。 つまり、温かく受け入れること、称賛することが、本人のためになると思っている。 でも、そこには定型発達の視点のみがあり、自閉症の人の視点が抜けていますよね。 また、こういった周囲の人の中で過ごしていると、当事者の人も、自分に都合の悪い指

障害者として生きるか、普通の人として生きるか

今年を振り返ると、「障害者として生きるか、普通の人として生きるか」という話をさせてもらうことが多かったと思います。 (もちろん、"普通の人"というのは、「普通の人になれ」という意味ではないですよ) 高校生や大学生、20代の若者と、このような話を度々しました。 それは、彼らが進路を選択する時期に関わっていた場合が多かったからかもしれません。 若者たちは、みんな悩んでいました。 周囲は診断を受けること、障害者として生きることを勧める。 でも、自分の心の中には、障害者として生きていきたくない、という思いがある。 だから、みんな揺らいでいたのです。 周囲の言いたいことも良く分かります。 自分たちの実績を増やしたいギョーカイは置いといて、家族なら得られるサポートがあれば、受けて欲しいと思うだろうし、将来、自分たちがいなくなったことを考えれば、金銭面でも、人材面でも、つながっておきたいと思うのでしょう。 でも、それは親御さんの安心であって、本人の安心にはつながっていない場合もあります。 「障害者として生きるか、普通の人として生きるか」という問いかけに、私は考えを述べることも、どちらかを勧めることはしませんでした。 ただ情報提供は、きちんとしようと思いました。 だから、障害者として生きるのなら、こういった制度、サポートが受けられること。 でも、その反面、本当の意味での自立は難しいこと。 就職先、進路の幅が限られて行くこと。 周囲からは、"障害者"として見られて生きていくこと。 周囲は、できない理由を障害のせいにし、また、自分自身も気が付かないうちに、障害を逃げ道にしてしまうようになる可能性があること・・・。 一方、障害者として生きない、という選択をした場合、他の人以上に、努力しなければならないこと。 障害のせいにできないということは、すべての責任を自分という人間が請け負うということ。 障害者として生きるよりも、選択肢は広がる分、困難も増えること・・・。 こういった話をそれぞれの若者に合わせてさせてもらいました。 情報提供の際、気を付けたことは、それぞれの選択肢のメリット、デメリットに、数的な差をつけないようにしたこと。 情報量の偏りが出ると、そちらの方に引っ張られる可能性があり、意図せ

違和感に対する私の答え

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家に帰ると、スケジュールを確認し、淡々と日課を行う。 そして、余暇エリアに行き、自分の時間を過ごす子どもの姿。 また、その子どもの様子を遠くから見ていて、必要があるとき以外は、ほとんど声をかけることがない親御さんの姿。 その姿を見て、私は違和感を感じていた。 それは、私が小学校の先生を目指していたからかもしれない。 特別支援に携わって生きるなんて、これぽっちも思っていなかった。 私がイメージできる子どもの姿は、定型発達の子どもの姿。 でも、TEACCHの考え方を積極的に取り入れている地域だったから、これが自閉症の子ども達にとって最良の環境だと思っていた。 一人で日課を行い、余暇の時間を過ごせることは将来の自立のために必要なこと。 親御さんが必要以上に声をかけないのも、余計なストレスや混乱を与えないためであって、子どものことを思ってのこと。 私はそのように受け止めていた。 自閉症児施設に就職したあとも、私は自立を目指すための仕事だと思っていた。 自分でできることを増やし、支援者からの手助けを減らしていく。 そして、将来、より自由度の高い生活の場へと移行していけるようにする。 しかし、福祉が求めるものは違った。 福祉も自立を目指していた。 でも、それは自分たちの手の中での自立。 つまり、自分たちの手がかからないようにすること。 何でも一人でできるようになっては困るのだ。 自分たちの施設から出ていってもらっては困るのだ。 福祉は支援し続けることで、安定する仕事だから。 これは施設職員のときの違和感。 そして、もう一つの違和感。 それは親御さんが親になる機会、瞬間を奪っているのではないか、というもの。 児童施設という性質もあって、幼児期から高等部の子ども達が生活していた(成人の方もいたが)。 それも地元の子どもだけではなく、全道、全国から来ていた。 毎週、必ず会いに来てくれる親御さんもいる一方で、一年に1回も会いに来ない親御さんもいた。 こういった親御さんの子どもの場合、私たち支援員が親代わりのような存在になる。 でも、それは同時に、親としての大変さだけではなく、成長の喜びも、私たち他人が手にしているような気がしていた。 入所当初は、毎日のように電話があり、距離に関わらず会いに来ていてくれた親御さんが、だ

人間と動物の間で生じる葛藤

我が子がひきこもり状態の親御さんに 支援者は 「温かく見守りましょう」 「成長を待ちましょう」 そして 「受け入れましょう」と言う でも 親御さんは受け入れられるはずがない だって 一人で生きていけるようにするため 子育てをしてきたのだから すべての動物は 我が子が自分の足で生きていけるように子育てを行う だから 支援者の言葉が親御さんの中に葛藤を生じさせる 人間と動物の部分で揺れ動く 本当の支援者は その人が持つ成長する力 親御さんが持つ養育する力 その2つを支援する

「自閉症は視覚優位」という常識(?)を疑え!

「自閉症は視覚優位」という言葉は、かなりクセモノ。 だって、自閉症の人、全員が視覚優位に思えてしまうから。 だって、視覚優位ってことは、聴覚がダメっぽく感じちゃうから(聴覚過敏の人もいるしね)。 だって、理解すること、記憶すること、表現すること、すべてが視覚を使った方が良いと思っちゃうから。 そして、一番の問題は、視覚優位が前提で始めちゃうから、ちゃんとアセスメントしなくなっちゃうから(視覚優位が念頭にあるだけで、視覚優位になるように、その人を見てしまう危険性があるよね)。 よく考えたら分かるはずだけど、自閉症スペクトラム症の診断基準に、「視覚優位であること」って書いていない。 つまり、「自閉症≠視覚優位」ってことだし、自閉症の人の中には、聴覚優位の人も、視覚と聴覚に優位さがない人もいるってこと。 テンプル・グランディン博士が「絵で考える」という言葉を使って、自閉症の認知、思考について説明されているけれど、すべての自閉症の人がテンプルさんであるわけはない。 もちろん、いろいろな研究からも、日々の実践からも、「視覚」がキーワードになるとは思います。 でも、だからといって、私はアセスメントするとき、「視覚優位」という先入観を持ちません。 ましてや、すぐに視覚的支援を行おうなんてナンセンスなことはしませんね。 視覚も、聴覚も、また他の感覚と同様、どのような受け取り方をするか、どのようなメリット、デメリットがあるかを細かく観ていきます。 例えば、物事を理解するときは、どんな感覚を使うのが有効か。 そして、有効な感覚の場合、どうしてそれを使うことが本人にとって有効なのか(エネルギーを節約できる、自分のペースで噛み砕くことができる、単純に慣れているから、など)。 つい先日も、「視覚優位です」「視覚的支援が有効です」と事前に情報を貰っていた子のアセスメントを行いましたが、記憶に関しては視覚よりも、聴覚からの方が得意でした。 また、理解に関しては視覚からの方が有効だと言えましたが、なんでもかんでも視覚化すれば理解できるということではなく、あまり情報が多くなってしまうと難しい、そして残像が残りやすく疲れやすくもある、というデメリットもみられました。 常識ほど、疑わなくてはいけませんね。 だから、私は「自閉症は視覚優位」という言葉を疑いますし、

自閉症の部分だけではなく、知的障害の部分もきちんと向き合ってほしい

遅めのお昼ご飯を食べながらテレビを観ていると、中国でPM2.5が大量に発生している映像が流れていました。 日本にも流れてくる可能性があるようですね。 日本の妊婦さん、お腹の中の赤ちゃんにも影響が出ないか、心配になります。 この頃、心配になることと言えば、知的障害がない自閉症の方たちに行うような療育を知的障害もある人が受けていることです。 もちろん、一概に知的障害の有無で療育の方法がスパッと分けられるわけではありません。 でも、「いやいや、それは合っていないでしょう」というツッコミが入るものがあります。 療育をする方としては期待があるのかもしれませんが、受ける方としてはかなりしんどいと思います。 確かに、知的障害を持っていたとしても、文字を読んだり、絵の意味を理解したり、簡単な受け答えができたりする人はいます。 しかし、「知的障害がある」ということは、読み書きそろばんの遅れだけではなく、理解したもの同士をつなげたり、実際の行動に応用させたりする過程に困難さを持っているのです。 たとえ、文字を読むことができても、その文字が表している概念を掴むことが難しい。 計算ができたとしても、買い物の計算へとつながっていかない。 テストの点数に表れるような表面的な力だけではなく、もっと深い思考のプロセスに関する力に注目すべきだと思います。 また、「理解した」「実際の場面でできた」としても、知的障害のない人が簡単にできるようなことであっても、相当なエネルギーを使って"なんとか"できている、という場合があることも大切な視点だと思います。 高機能の方たちが行っているような療育を受け、「あの人たちみたいになってほしい」 「文字も読めるし、言っていることもわかるから、理解でき、学んでいけるはず」 というような希望や期待があるのかもしれません。 でも、高機能の方たちが受けている療育を受けたからといって、知的障害がなくなるわけではありません。 第一、療育はIQを上げるためのものではありません。 それよりも大事なのは、その子の持つ資質を伸ばすことであり、社会的な適応能力を向上させること、つまり自立度を上げ、生活の質を向上させることです。 ですから、その子の課題に合わせて、その子がわかりやすい方法を用い、成長を促していくのです。 結果と