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不満を持たれるような事業所を遺しているのは誰か?

サービスに不満があっても 子どもがイヤイヤ通っていても 全然支援してくれなくても ただ部屋に鍵をかけて、見ているだけでも ただ時間つぶしをしているだけでも 成長どころか、むしろ問題が増えても スタッフが素人でも 通ってくれれば、1万円が入る仕組みになっているのです、児童デイは。 もちろん、より良い支援を、より良い時間を、と考え、技術とサービスの向上に努める児童デイはたくさんあります。 でも、それは個人という“人”がそうしているのであって、仕組みがそうなっているわけではありません。 お子さんが通っている児童デイの不満を言う人がいます。 「でしたら、通わなければいいじゃないですか?」というのが、私の意見です。 だって、お子さんの大事な時期、大事な時間なのですよ。 いくら放課後の数時間だったとしても、その子にとっては学びと成長の時間です。 私がこのようなことを言うと、「そもそも児童デイに期待していない」「怪我さえしなかったら、それで良い」「子どもが楽しんでいるようだから」などと返ってくることが多いですね。 児童デイは自腹で1万円を払っているわけではないので、「まずいけれど、使えるもんは使っとこ」という感じでしょう。 「放課後も、将来に向けてより良い時間を過ごしてほしい」と仕組みができ、予算がつき、広がってきた児童デイも、結局、誰の時間を良くしたのか、って感じです。 あと多いのが、「家で過ごせないから」という意見。 だから、不満があっても児童デイに通いますっていうのです。 でも、だったら、家で過ごせるようにするのが優先事項じゃないですかね。 家で過ごせない子が、児童デイに通ったからって家で落ち着いて過ごせるようになるわけではありません。 家で過ごせない子が、年齢を重ねていったら、どうなるでしょうか? いつかは家で過ごせない“子ども”が、家で過ごせない“大人”になるのですよ。 卒業後、みんながみんな、グループホームや入所施設に入れたらよいけれど、もし通所施設しか利用できなければ、どうしますか、家での時間を。 休みの日だってありますよね。 ですから、児童デイの不満を言っている場合ではありません。 子どもの大事な時期、時間を不満があるような場所に通わせないでほしい、というのが私の願いです。 それは我が子にとって

「児童デイをやりませんか?」と言われて

児童デイと言えば、「一緒に児童デイ、やりましょう」とか、「大久保さんも、児童デイを起ち上げられたら」とか言われることがあります。 また「見学に来てほしい」とか、「アドバイスください」などというのもあって、実際に伺ったこともあります。 でも、児童デイを起ち上げる気もないし、(今のところ)業務提携した児童デイはありません。 児童デイをやりましょう系の人達は、だいたい顔に『金』の文字が書かれています。 人と建物さえ確保できれば、簡単に儲けられる、というのが頭にあるのでしょう。 そうですよね、1日1万円の公金で、オープンすればお客さんの方からやってくる状態ですから。 商売すること自体は悪いとは思いませんが(私も商売してますし)、商売する気で児童デイをやるなら、ちゃんと商売の勉強されてからお越しくださいね、って感じです。 ただ単に、私の経験、私の名前、私のお客さんを当てにしてすり寄ってくる人が多すぎです。 「支援は大久保に任せておいて、自分はお金儲けを…」というのがバレバレ。 そうは言うものの、今の事業を起ち上げる前は、児童デイの形態も考えなかったわけではありません。 一緒にやろうとする仲間もいたので、どうしようかなって思うこともありました。 でも、私は経営者にはなりたくなかったし、組織を作るつもりもなかった。 ただ「自閉症の人と直接向き合って支援がしたい」という想いが強かったのです。 私は経営の勉強などしたことがありませんし、商売はズブの素人です。 それに組織を作れば、人を育てなければなりません。 この仕事をしていて思うのですが、支援者を育てるなんていうのは無理な話です。 育ててもらおうなんて思っている人は、ハナから育たないし、自分で育っていこうと思う人しか育っていかない、と考えています。 だいたい支援というのは、センスです。 いちいちアセスメントシートを取りだしてアセスメントしているような人に、支援者は向いていないのです。 人と人とが向き合う仕事なんです。 同じ人でも、同じ状態ということはありません。 刻一刻と変化しますし、その人の持つ資質や成長する力、課題や未来の姿などは目に見えないものです。 常に変化し、目に見えないものを援助する仕事である支援者は、勉強して、資格を取ってうまくなるようなものではありません。

見えるものにこだわりだしたら、賞味期限が近いぞ、支援者は

スーパーに行くと、山積みされたチキンが置いてありました。 つい2日前までは、「クリスマスチキン☆」なんて言われてもてはやされていたのに、今は値引きのシールが貼られ、賞味期限を待つばかり…。 中には、「お正月のご馳走に」なんて顔(いや、足?)で並んでいるのもあるけれど、どう見てもクリスマスの売れ残り。 いくらパッケージを変えても、賞味期限が迫っているのは変わりがありません。 特別支援の世界に入って15年くらい経ちますが、支援者の賞味期限がわかるようになりました。 だいたい支援者っていうのは、見えるものにこだわりだしたら、賞味期限が迫ってきてるんですね。 例えば、やたら魅せる支援グッズを作りだしたり、なんでもかんでも資格を取りだしたり。 他にも、高価な専門書や支援器具を集め出したり、やたら著名な支援者と知り合いになろうとしたり。 Facebookでどんな人が友達か、何人友だちがいるか、「いいね!」の数なんかにこだわりだしたら、もう賞味期限はすぐそこまでの5割引シールです。 で、自分で専門用語や資格、グッズを作りだしたら9割引シールで、それに万単位のお金を取りだしたら廃棄商品状態で、もう支援者ですらなくなります。 一方で、鮮度の良い支援者というのは、見えないものにこだわる人だと思います。 子どもの成長や未来、発達課題や気持ちなど。 変化として確認することはできるけれど、それ自体は見ることができません。 でも、本人の生活、人生にとってはとても重要な意味があるもの。 この見えないものを援助するのが支援者の役割であり、存在意義なんです。 だからこそ、見えないものにこだわる人が支援者であり続けられる。 しかし、見えないものにこだわり続ける、というのは、大変なことでもあります。 だって、見えないのですから。 子ども自身も、親御さんも、他の支援者も、見ることができません。 ですから、支援者自身に揺らぎが出るのです。 「自分の支援が正しいのか?効果があるのか?」 実際に、親御さんや他の支援者から言われることもあります。 で、大半の支援者というのは、資格や肩書なども見えるもので、相手、または自分自身の心をねじ伏せようとする。 揺らぎへの抵抗が見えるものへのこだわりとして表れるのだと思います。 見えるものというのは、ラクなんで

福祉の世界で感じた体育会系のノリ(ブ)

小学生のとき、地域のサッカークラブに入っていました。 中学校にはサッカー部があったのですが、一度見学したら入部したい気持ちがなくなったのです。 雰囲気が合わないと感じたから。 どうも私は体育会系の雰囲気が合わないというか、嫌いなようです。 身体を動かすことは好きだったので、体育会系の匂いが少ない陸上部に入り、高校は憧れの高校球児に。 高校野球といえばバリバリの体育会系ですが、私が入学した高校は同好会の雰囲気があったので、入部を決意しました。 で、3年間、野球部で目一杯スポーツを楽しみ、大学では体育会系の匂いを嗅ぐことなく、4年間を過ごしたのです。 長く避けてきた体育会系の匂いを再び嗅ぐことになったのが、社会人になってからです。 配属された施設の扉を開けた瞬間、そこはまさに体育会系の匂い。 部室のような淀んだ空気に、職員から漂う体育会系の雰囲気。 心身共にタフさが求められる施設だからこそ、こういった人員が求められるのだ、と解釈していました。 私も働き出して数年が経つと、後輩たちも大勢入ってきます。 すると、体育会系の雰囲気を持った人が多い多い。 どうして体育会系ばかり?と思っていたら、その答えを教えてくれた後輩がいました。 「専門学校でも、福祉系の大学でも、就職先が決まらない学生の中で、「とにかく体力だけあります!」みたいな学生がいたら、福祉施設を勧めるんです、担当教官も、就職担当の職員も」 これを聞いて、なるほどと思いました。 私は教育大だったので、福祉の世界はぜんぜん知りませんでした。 でも、気が付けば、福祉施設には保健体育の免許を持つ人が少なくない。 私のような特別支援の教員免許と同じくらいいる。 つまり、保健体育の教員は、小学校や特別支援学校、中学高校の主要五教科の採用と比べて、かなり採用枠が少なく、免許を持っていても、よっぽど優秀な人でない限り教員として働くのは難しい。 そうなると、福祉が就職候補に上がってくる。 だって、教員免許ほど、潰しが利かない免許はないから(ブ) ほとんどの教員は、教員以外で働くのは難しい人ばかり(ブ)(ブ) だから、体育会系の人が福祉の世界に集まりやすいのだと思いました。 上を見ても、体育会系ばかり。 下を見ても、体育会系ばかり。 そりゃあ、いくら療育の考えが入

私の周りにいる皆さまへのお願い

私が『てらっこ塾メソッド』なるものを発表したら、止めてください。 この世に完全なるオリジナルのものなどは存在しません。 それはただ私が過去に学んだこと、教わったこと、知ったことを寄せ集め、勝手に名前をつけているだけです。 目新しいものではなく、あたかも価値のあるようなものに見せかけるためのテクニックの一つなのです。 現状がうまくいっていない人に「もしかしたら、このメソッドがあれば、現状を変えられるかも」と淡い期待を持たせ、ひっかけるためのものなのです。 第一、どんな人にも効果のあるメソッドなど、存在するはずがありません。 一人として同じ人間はいません。 特に発達の凸凹が大きい発達障害の子ども達を一色単に、またはいくつかのカテゴリーに分けられるなんてことはあり得ないのです。 いくら文明が進化し、時代が進もうとも、人を育てるためのマニュアルはできません。 いつの時代も、人を育てるのは個別の試みであり、アナログの作業なのです。 その原理原則から離れるのが、メソッドの発表です。 ですから、メソッドの発表を始めたら、「こいつは金儲けに走った」と捉え、叱ってください。 私が仲間を集め出したら、止めてください。 それは自分自身の心を満たそうとするための行為です。 群れを作る際、自分より優位な人ばかりを集める人はいません。 どこかで「こいつよりも、自分の方が優れている」という思いが持てる者を集め、群れを形成するものです。 つまり、自分より劣っていると感じる人達を周りに置くことで、「自分ってすごいかも」という優越感を持とうとしているのです。 仲間を作ると、優越感を得られますが、一方で群れを維持するために養う必要がでてきます。 当然、腕の悪い仲間もいます。 群れが大きくなればなるほど、腕の悪い仲間が増えていくわけで、その分のお金が必要になります。 そうなると、私は直接的な支援以外でお金を稼がなければなりません。 私のような商売の素人でも思いつく方法は、きっとグッズを売りだすか、ライセンスビジネスでしょう。 ライセンスビジネスは、すぐに合格してもらっては困りますし、受講者同士で競争心をあおった方がより長く儲けられるので、レベルを何段階か作り、更新制にするはずです。 経費を考えれば、ほとんどかからないのに、アセスメントや受講

愛着障害と支援者

今日の午前中は、頭の中からこの言葉が離れませんでした。 「愛着障害と支援者」 今朝、このことについて考えるきっかけをいただいたからです。 私は、愛着障害を持つ支援者は嫌いです。 というか、愛着障害をまったく持たない人はいないので、自分のそれに気が付いていない支援者が嫌いです。 なぜなら、子どもに自分自身を重ねちゃうから。 なぜなら、私に寄りかかってくるから。 自分の愛着障害に気が付いていない、または意識が及んでいない支援者というのは、自分がしてほしい(してほしかった)支援、言ってほしい(ほしかった)言葉を子どもに行おうとします。 本当は自分自身の内なる声なのに、あたかも目の前の子どもから発せられているように感じてしまう。 よりリアルに感じられるので(もともと自分の内なる声だから)、その子の状態、発達段階、ニーズが目に入らなくなっちゃうんですね。 見ているのは自分自身ですから。 これじゃあ、子ども側のニーズと自分が行いたい支援の間で不一致が生じてしまいます。 また、「その支援、子どものニーズに合っていない」「こっちの支援のほうが良いのでは」などと他の人から言われると… 自分の支援が否定された→自分(過去も)否定された→(私はこんなにも子どもの気持ちがわかるのに←いやいや、それはあなたの内なる声だから)あなたは子どもの気持ちがわからない支援者だー、となってメンドクサイことになります。 全然、話し合いにならないんですね、支援ミーティングとかでも。 途中から感情論みたいになって、純粋に子どもの話ができなくなってしまう。 いつの間にか、支援者自身の話みたいになっちゃうことが多々あります。 より良い支援を作り上げるのではなく、自分の支援、というか、自分自身を認めてもらうことがメインに。 このように、自分自身の愛着障害に気が付いていない支援者というのは、子どもの支援をやっているようで、自分の愛着障害を癒そうと動いてしまっていることがあります。 そうなると、ひと様の支援なんてできないですよね。 たまたま自分のニーズと、子どものニーズが一致すればよいでしょうが。 あと、私自身が困るのは、支援者同士だったはずなのに、途中から寄りかかってくることです。 「私は、あんたの支援者じゃねー」というヤツです。 普通の大人同士、ビジ

そろそろ「早期療育」の結果が出る頃では?

そういえば、そろそろ“早期療育”の結果が出てもおかしくない頃ですね。 私が学生だった頃、「早期療育で、子どもの将来が変わってくるんですぅ~」「日本でも早期療育を~」なんて言われ始め、実際にせっせと診断し、せっせと療育をやっていましたから。 もう15年くらい経ちますので、成人している人達もいるはずです。 「早期療育のおかげで、私は一般就労できました!」 「早期療育のおかげで、息子は支援者の手を借りず、自立して生活できています!」 という言葉は聞こえてきませんね。 私が知る限りでは、早期療育を受けてきたお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、どっぷり支援に浸かってしまっている。 自立どころか、支援、または支援者から抜け出せなくなっている人ばかりです。 確かギョーカイ連中が「早期療育をー」と叫んでいたとき、「将来の自立につながる」と言っていました。 でも、全然自立してないじゃん。 むしろ、どっぷり浸かって、「支援がなきゃダメ」みたいな体になってるんじゃん。 何を始めるにも、「まずはソーシャルストーリーを書いてからじゃないと~」とか、「活動のスケジュールを用意して~、手順書も、COMカードも」とか、「問題が起きたから、〇〇さんに相談しなきゃ~」とか…。 本人もそうだし、親御さんもそう。 あることが当たり前になって、ないと不安になる。 これでは、どんどん可能性は狭まるばかりで、ギョーカイの言う「自立」ではなく、本当の「自立」は遠のいていきますよね。 これがギョーカイが訴えてきた早期療育の結果なんです。 ギョーカイが早期療育をして何を得たか? そう、長く付き合えるお客さんですね。 早期療育とは、自分たちが支援で関われる期間を伸ばし、他の機関、人達にお客さんを奪われないようにするための(姑息な)アイディア。 簡単に言えば、親も、子も、よく分かってないうちに唾をつけておこう、ということ。 「子どもの将来、支援がなくとも、支援が必要でもより少なく生きていけるように」が早期療育の目的であり、社会全体にとっても意義のあることなのです。 それが、自分たちのギョーカイを永らえるためしかなっていなかったとしたら…言語道断ですね。 こんなことをしていたら、社会からそっぽを向かれ、結局、自分たちの首を絞めるだけ。 まあ、そもそもギョーカイとい

支援者ってキモチワルイ仕事だなぁ~

支援者って、つくづくキモチワルイ仕事だと思います。 だって、親でなければ子でもない、親戚でなければ友達でもない赤の他人が、「支援」の名のもとに他人の生活の中に入りこんでいくのですから。 私が支援を受けるんだったら、「ほっといてくれよ」「なんで、あんたに相談しなきゃならないんだよ」「どうして、私が困っている前提なんだよ」って思うはずです。 もし自分から望んで支援を受けたとしても、相談することの恥ずかしさ、嫌悪感はあるはずで、できれば早く課題を解決して「この人とオサラバしたい」と思うでしょう。 決して「ずっと支援を受け続けたい」とは思いません。 「生涯に渡る支援」という言葉を耳にすると、これは当事者の口から出た言葉ではないと思うのです。 できれば、「支援を受けずに、自らの足で歩きたい」と思うのが、自然な感情だと思います。 それは重い知的障害、行動障害を持った人達と接しても、「決して望んで支援を受け続けたいんじゃない」という想いは伝わってきます。 じゃあ、この「生涯に渡る支援」は、誰の言葉なのか? それは、(大部分の)支援者の言葉であり、(一部の)親の言葉であるのだと思います。 支援者は、支援し続けることで、仕事も、立場も、充足感も、得られることができます。 また、親は「生涯に渡る支援」という言葉があるおかげで、自分の負い目、自分の子育てから目を背けることができます。 厳しいことを書くようですが、「生涯に渡る支援」という言葉は、そんな両者が生みだし、好んで使ってきた言葉だと思っています。 でも、この「生涯に渡る支援」という言葉は消えていくはずです。 たとえ消えなくても、使う人は少なくなるはずです。 何故なら、支援者の手を借りずに、また借りたとしても、そこから自立し、社会へと羽ばたいていった人達がたくさん出てきたのですから。 そんな姿を見て、自分の本心に蓋をしなくて良いことに気が付いた当事者の人達は、これから自立への想いを益々強くしていくでしょう。 また障害の程度に関わらず、「我が子には自分のことは自分でできるようになってほしい」「できれば他人の手を借りずに自らの足で歩んでほしい」と願う自然な想いに、親御さん達も突き進んでいくでしょう。 そういった想いがある人からは、出なくなる言葉です。 「生涯に渡る支援」という言葉

私たちは、進化の途中

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人類の誕生は、およそ600万年前と言われています。 類人猿、猿人類、原人類、旧人類という段階を経て、現生人類に至ります。 果てしなく長い進化の道のりを経て、今の私達がいることを感じます。 こういった過程を知ると、「進化した姿が我々だ」という思いがしてきます。 でも、そうではないんですよね。 600万年を経て、今の姿になった私達も、人類の歴史からすれば、進化の途中。 これから先、どのくらい人類が歴史を重ねていくかはわかりませんが、私たちもまた進化を続けている。 100万年後の未来では、私達とは別の人類が存在しているのかもしれませんね。 人類の歴史からすれば、ヒトの一生は、ほんの一瞬だといえます。 でも、その一瞬の中にも“進化”があるのだと思います。 600万年というとてつもなく長い時間の中で生きた、とてつもなく大勢のヒトたちと同じように。 一瞬、一瞬の積み重ねが、今の私達を形作っている。 私達の中に“進化”が存在しており、その進化の歩を進めるために私達がいるような気がします。 ごくわずかでも、前に進もうとするというのが、ヒトの自然な生き方。 ヒトも環境の一つ。 自分自身がより良く成長することが、周囲の環境をより良い方向へと変える力となり、より良い未来を作っていくような気がしています。 私の行える“進化”を追い求めていこうと思います。

書店全体から見た“障害児教育”のコーナー

階段を上って、専門書のコーナーに向かう。 馴染みの棚の前に立ったときに、私は気が付いた。 「そういえば、久しぶりにここに来たな」と。 数年前までは、よくここに来ていた。 新しい書籍が並べてあれば、手に取り、中を確認。 知識の更新とともに、療育の流れ、支援者の流れを感じていた。 いつからか、新刊を見ても、手を伸ばさなくなった自分がいた。 中身は分からない。 ただ、タイトルと誰が書いたかを見えば、私にとって、いや、私が関わらせてもらっている人達にとって、必要な書籍かどうかは見えてきた。 目的の書籍がない限り、“障害児教育”のコーナーには行かなくなった。 答えは、この棚の外にある、と感じたから。 心理学、生物学、脳科学、人体、進化、健康、歴史…私をワクワクさせた。 それと同時に、日々の仕事に活きるヒントが手の中に集まっていた。 手の中に集まったヒントを眺めていると、「自分は人を育てる仕事をしているんだ」という声が聴こえてくる。 障害児教育の棚の前をうろうろしていた自分は、人を育てる仕事はしていなかった。 ただ自閉症支援に携わっていた人間だった。 自閉症支援という狭い世界の中をうろうろ歩き回っていた人間だった。 障害児教育のコーナーは、書店全体から見れば、とても狭い空間。 その狭くて小さな空間では、障害者としての成長、より良い生活、幸せになれるヒントが得られるかもしれない。 でも、私が日々、関わらせてもらっている人達が求めているものは、そこにはない。 「障害者として」ではなく、「人として」の成長、より良い生活、幸せになるヒントだから。 いろいろな支援や療育を受けていても、良くならない人がいる。 良くならないということは、そこには答えがないのかもしれない。 20代の私のように、障害児教育の棚の前をうろうろしているのかもしれない。 いくら片っ端から手にとっても、そもそも答えがない場合もある。 障害児教育の大前提は、障害を持ち続けていることだから。 この頃、思うことがある。 人としての発達、成長を援助できる支援者というのは、決して障害児教育の棚の前だけにいるような人間ではないことを。 答えが見つからないのなら、そもそもそこには答えがないのだ。 ギョーカイの常識の外に、人としての幸せがある。

「愛着障害は治りますか?」(花風社)を読んで

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学生時代、生まれて初めて関わった自閉症の男の子のことが知りたくて、書店の特殊教育コーナーで手に取った真っ赤な本。 タイトルは 「自閉っ子、こういう風にできています!」 その通称赤本と呼ばれている本を手にしてから、今まで10数年、ずっと花風社さんの本を読み続けてきました。 そして、今日手にし、今日読んだ新刊は、読み終えたときに今までと違うものを感じたのでした。 それは読み手に迫ってくる印象です。 「治すかどうかは、あなた次第です」というメッセージが。 花風社さんは、今までにも多くの治すためのアイディアを提供してくださいました。 特に栗本啓司氏の著書 「自閉っ子の心身をラクにしよう!」 が発売されて以降、ここ数年で治すためのアイディアのエネルギーが勢いを増した印象を受けます。 そして、そのアイディアに触れた全国の自閉っ子(もちろん、大人も!)が、どんどん心身共にラクになり、発達の遅れ、ヌケを取り戻し、治っていっている。 実際、私も援助している方達が変わっていく様子を目の当たりにしています。 花風社さんの本から得たアイディアが、日々の着想の始まりということは多々あります。 治るためのアイディアをたくさんいただけたし、治る人もたくさん出てきた。 ですから、治る時代、治す時代、治すべき時代を今、私は生きているのだと思います。 栗本氏は今日からすぐにできることを、灰谷氏は発達援助に関わる全ての人のスタンダードとなるべき知識と視点を教えてくださった。 正直、治すのだったら、もう十分アイディアをいただいた、という思いもしていました。 でも、今回、“愛着障害”という切り口で、今までの“治す”をもう一歩奥深く進めてもらった気がするのです。 新刊 「愛着障害は治りますか?」 の中に出てくる著者の愛甲氏が整理し、提示された『愛着障害のピラミッド』と『遊びのピラミッド』は、“見立て”に大きな影響を与えてくれるはずです。 愛着障害を持った他人への援助をする際にも、愛着障害を持った自分自身を援助する際にも。 適切な見立てができなければ、治すにつながっていきません。 治すための出発地点を明るく照らすのが、この2つのピラミッドです。 ですから、私の頭の中にも、この2つのピラミッドをしっかり建てておこうと思います。 あとがきには、「発達障害も、

資格支援(ブ)

他人から与えられるものには、そこまで有難がることはないと思っています。 だって、そこにはその他人の意思が入る余地があるから。 それよりも他人が奪えないものの方が価値があると思います。 自分の意思で手に入れて、他人からは奪えないものに本当の価値がある。 だから、資格よりも、自分の血となり、肉となった“腕”の方が大事だと考えています。 免許状は燃やせても、身に付けたスキルは燃やせませんね。 研修をせっせと受けて、資格や認定書をもらうことに価値を置いている支援者は少なくありません。 それが純粋に腕を上げるためにだったら、良いと思いますが…。 腕を上げることに付随しての資格や認定書ならわかりますが、どうも資格や認定書がメインのように感じる人がいる。 こういう人は、だいたい治せない支援者。 何故なら、自分がメインになっちゃっているから。 自分がメインということは、自分の方に治すべき課題がある証拠です。 目に見える形の資格や認定書を得ようとするのは、それ自体が自己治療だと感じますね。 自分の課題をクリアにしていない人は、他人の課題をクリアにすることはできません。 そもそも自分の腕を上げるというのは、孤独で、忍耐力のいる作業です。 それなのに、どこそこの研修を受けて、資格や認定書をもらったからスキルアップしたよ、みたいな考え方は甘いと思いますね。 資格や認定書に、その人が実際の場面でより良い支援ができる、という保証をする力はないのです。 それにね、研修を受けていない人が認定される場合があるんですよ。 「こんな時間も、お金もかかる資格、この人が本当に取ったの!?」という人が、資格取得者の名簿に載ってたりする。 それは、与える側と仲良しだから、宣伝のために、与える代わりに研修生をよこしてねってヤツ。 運転免許でも、全員学科と実技があるのに、それすらない資格もたくさんある。 特別支援のギョーカイは、8割がインチキ(ブ) ある支援者が怒っていました。 「俺たちは、遠い場所まで行って、何日も研修受けて、やっとなのに、お偉いさんになると…」 まあ、そんなもんです。 民間の資格でも、なんとかメソッドでも、最初に始めた人は素晴らしい腕の持ち主が多いです。 そういう人は、孤独に、コツコツと、地道に、他人から見えない内にある信念を頼

あなたの空間から、どんな雰囲気を感じますか?

空間の雰囲気は、その子がどう成長していくか、変わっていくか、に関係すると思っています。 訪問型のサービスをしていますので、いろいろなお宅や施設に伺いますが、扉をくぐった瞬間、ビビビッときます。 「これじゃあ、伸びないな」とか、「この雰囲気なら、近い将来、良い方向へと変わるはず」とか。 定期的に訪問している場所は、雰囲気の変化も感じます。 伸びる雰囲気と伸びない雰囲気があるんだと思っています。 近頃、グググッと伸びた子がいます。 この短期間で、こんなにも変わるのかなってくらいに。 で、この子のお宅は、とっても伸びる雰囲気になったんです。 “なったんです”ということは、以前はそうは感じませんでした。 最初に訪問したとき、「こりゃあ、大変なおうちに来てしまったな」と思ったのが、正直なところです。 でも、今は伸びる雰囲気がビンビンです。 きっと年度内に、当初の目標は達成し、私は用済みになるはずです。 卒業式よりも、卒業が早いと思います。 伸びる雰囲気って、私の感覚なので、言葉にするのは難しいです。 ですから、親御さんやその施設の職員さんに、その形を提示できません。 じゃあ、指をくわえてよい雰囲気になるのを待つのか、といったら、そうではなくて、伸びない雰囲気を出しているものを消したり、変えたり、伸びる雰囲気が出るようなものを加えたり、なんてことを思いつくままお話ししています。 伸びる力は、それぞれの子の中に存在しています。 それなのに伸びないというのは、伸びるために使うエネルギーがそのため以外のところに使われているのだと思います。 それってモッタイナイないことです、特に伸び盛りの子どもにとっては。 ですから、生活空間の雰囲気は大切だといえます。 伸びるために、成長するために目一杯エネルギーを使えている空間からは、心地良い雰囲気を感じます。 反対に、生きることにもエネルギーを使わなければいけない空間からは、重苦しい雰囲気を感じます。 あなたの空間から、どんな雰囲気を感じますか?

時代は人を選ぶ

いつの世も、時代が変わるときには、新しい人物が出てきます。 ですから、「人が時代を変えている」といえるかもしれません。 でも、私はそうは思えないのです。 時代の方に意思を感じてしまうのです。 新しい時代の幕開けは、前の時代を象徴する人物が去って完成します。 その人物が去るのを見て、人々は「新しい時代がやってきたんだ」と実感します。 そして次に、人々が問われるのです、「時代の流れに乗るの?抗うの?」と。 いつの世も、時代の変化に抗う人はいるものです。 変化はストレスですし、変化を受け入れるには腹が据わっている必要がありますから。 前の時代で良い思いをしていた人達は、流れに逆行しようとします。 しかし、時代の流れを止めることはできません。 何故なら、前の時代からすでに流れはあったから、目立たなかったかもしれないが。 一度できた流れを人が止めることはできないのです。 人を超えたところに意思を感じます。 そういった意味で、時代の方がその時代に合った人を選んでいる、と思えてくるのです。 新しい時代を生き抜くコツは、流れに身を任せることだと思います。 流れに乗って、さらに「その流れを加速させる」といった気概を持って行動できれば、自ずと生きやすい未来が見えてきます。 そのためにも、時代の流れに気づける眼を持っていなければなりません。 気づけなかった人は、流れに抗う人達と同じように、流れに飲みこまれてしまうのです。 自閉症、発達障害の世界も、新しい時代がやってきました。 生きづらさを訴える時代、周りが調整する時代、「一生治りませんから…」の時代は終わったのです。 これからは生きやすさを求めて、本人自らが動き、治す時代なのです。 その流れに抗おうとしても、時代の方がその人を受け入れてはくれません。 未だに「生きづらいよ」「社会の理解ガー」と言い続けている人がいます。 でも、その声に一昔前のエネルギーはないのです。 症状を改善し、持って生まれた資質を磨き、社会の中で活かす人達がたくさん出てきました。 もう珍しい稀有な存在ではありません。 私たちの身の周り、地域、社会にこのような人たちはいるのです。 ということは、今の時代が彼らを選んだのです。 治す時代、治りたいと思うこと、それに向かって行動することが普通にな

他者のために行動できる姿勢を育てる

録画していた10月29日のNHKスペシャルを観ていたら 「長寿の人は“慢性炎症”が極めて低い」 「“慢性炎症”は、食事や運動だけではなく、心の満足感とも関係がみられる」 「快楽型の満足感では炎症を抑えることはできないが、生きがい型の満足感だと抑えることができる」 という話が出てきました。 いつまでも現役で働いていたり、ボランティア活動をやられていたりするお年寄りを見かけると、年齢よりも若々しく見えるのは、このような医学的な理由もあったのですね。 「人類は社会的な集団生活を行い生き延びてきた。つまり、人間の脳や神経は社会とつながり、お互い助けあうように、生物学的にプログラミングされている、と考えられる」 という話にはゾクゾクっとしました。 これって祖先からのメッセージだと思いましたね、遺伝子に乗せられた。 「ヒトはヒトのために生きて、ヒトになる」という言葉が思い浮かびました。 世のため、人のために行動することが、もちろん社会、人類の繁栄へとつながり、そして自分の健康、長寿にもつながっていく…。 相談を受けていると、「自分には居場所がない」「自分は必要とされていない」などの言葉がよく聞かれます。 そんなとき、私はこう思うのです。 「“居”場所ではなく、“誰かのために動ける”場所が欲しい、と言っているのではないだろうか?」 「必要とされないのは、周囲に問題があるのではなく、必要とされるようなことをしていない、行動できないことに問題があるのではないだろうか?」 と。 話を聞いていると、みんながみんな、日々の生活が満たされて“いない”わけではありません。 衣食住はあるし、好きなことだってできている。 自分のことを大切に想ってくれる家族もいる。 中には仕事をしている人だっています。 でも、“生きる”だけが満たされても、満足しないんですね、ヒトは。 ヒトは社会的な動物ですので、人間脳が喜ぶには人との交流、相互作用が必要なんだと思います。 ですから、私はどんなことでも良いので、「誰かのためになっている」という実感が持てる活動が生活の中に組み込まれるような援助もしています。 家のお手伝いでも良いし、地域活動、ボランティア活動でも良いですね。 支援者からは「彼は傷ついているので、好きなことをやって心の回復を~」とか、「今は休む時期

子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人

親に手伝ってもらった夏休みの宿題が褒められたり、表彰されたりするっていうのは、笑い話になるけれど、日々の宿題を代わりにやるとなると、笑えなくなります。 もちろん、実際にこんなことをする人はいないんだろうけれど、これに似たようなことをやっている人はいますね。 子どもの課題を代わりにやっちゃう人。 子どもの課題を「やらなくていい」と取り上げちゃう人。 子どもの課題を「出した方が悪い」と言っちゃう人。 子どもは日々、課題と接しています。 それは、与えられる学校の課題がありますし、自ら向かっていく発達の課題、人間関係の課題などもあります。 どれもその子自身の成長に必要な課題なのですから、その子自身で乗り越えることが必要です。 いくら「自分がやった方が早い」「上手くできる」と思っても、手を出してはいけません。 その課題は、“その子”の課題であって、“私”の課題ではないのですから。 相談でいろいろな方のお話を聞いていると、課題の曖昧さを感じることがあります。 例えば、支援グッズを一生懸命用意する親御さんがいます(もちろん、それ自体は問題ないです)。 で、お子さんは〇〇という活動ができる、落ち着いていられる。 でも、それってその子が乗り越えたことになるのかなって感じるんです。 その子自身で、「ぼくは、課題に乗り越えられた」という気持ちが味わえるのかなって。 支援グッズは、本人が課題を乗り越えるために使う補助であって、周りがお膳立てするためのものではありません。 つまり、支援グッズから「この子が失敗しないように」という匂いが出ていたら、それは支援者自身が失敗を恐れている証拠であり、失敗に対する課題がある、まだ乗り越えられていないということ。 また、支援グッズから過剰さや見た目が匂ってきたら、それは支援者自身がどう見られているかに意識がある証拠であり、他人からの評価に揺らいでしまうことに課題があるということ、などが想像されます。 子どもの意思や課題と別のところで、「学校に行かなくても良いんだ」と主張する人は、その人自身が学校に良い思い出がなかった、辛い学校生活を送った、学校の中に課題を置いてきたというのもあります。 「無理に働かなくても良い」「一般就労より、福祉的就労の方にしなよ」と主張する人は、仕事の中に課題があるのかもしれませ

ヒトのみが時計を使う

道具を使う動物は、ヒト以外にもいます。 でも、そんな道具の中で、ヒトしか使わないものもあります。 それは時計です。 学習すれば、人の言葉がわかったり、電子機器を操作したりできる動物はいますが、時計は使いこなすことができません。 何故なら、ヒトだけですから、何時間も、何日も、何年も、何十年もの先を意識できるのは。 将来の展望を持ったり、計画を立てたりできる。 そして、その将来を意識し、今の自分の行動を選択することができる。 これこそが、ヒトのみが手に入れることのできた能力であり、脳力だといえます。 以前、私は、このような人達のことが嫌いでした。 「助けて欲しい」「アドバイスが欲しい」と言って、改善や成長できる方法を受け取ったのに、それをやらない人、やっても続かない人。 すぐに効果が見えないと、やめちゃう人、「やっても意味がなかった」と言う人。 でも、“人のみが時計を使う”という言葉が思い浮かんでからは、捉え方が変わりました。 このような人達は、心の問題ではなく、脳の問題ではないのか、そのように捉えるようになったのです(もちろん、甘えや怠け、誤学習の問題の人もいますが)。 つまり、未来を見通す脳力に原因がある。 それは、脳へのダメージや疲れかもしれないし、脳の未発達かもしれない。 脳の未発達は、高度な脳の部位自体の遅れ、他の部位との連携の不具合、もっと原始的な部位の不具合、発達の遅れorヌケがあるかもしれない…。 こんな風に、推測し、見立てを持つようになると、私のすべきこと、その人に伝えなければいけないことが変わるのです。 週に1回、セッションを受けても、相談してアドバイスをもらっても、根本的な変化はありません。 大事なことは、自分でも、家庭でもやってみることです。 コツコツ積み重ねていかなければ、実際に行動しなければ、受け身ではなく、自発的に行わなければ、能力、スキル、知識、成長、変化を得ることはできません。 日々、子どもたちや若者たちと接していますが、どんどん成長していくのは、コツコツ積み重ねていける人ばかりです。 「もう支援はいりません」と言って、社会に出て行った人達は、将来の展望、計画を自分で立てられる人ばかりです。 ですから、将来の展望、計画を持つことができ、それを意識して今の行動を選択できるのが

好奇心が自発性の源

昨日、北海道では雪が降った。 いよいよ季節は、秋から冬へと移っていく。 動物にとって、厳しい季節の到来である。 もしヒトの祖先が“好奇心”を持っていなければ、今も私達は森の中で過ごしていたかもしれない、と想像する。 好奇心があったからこそ、森の外を覗いてみたくなった。 そして、森の外に出て行った動物たちがヒトへと変わっていった。 森の中にいれば、変わらぬ生活を送れたはず。 しかし、私達の祖先は自らの足で森の外に出た。 もしかしたら、森の外は危険だらけかもしれない、食べ物もないかもしれない。 それでも、未知への好奇心が彼らを突き動かした。 好奇心は、自発性のエネルギーであり、生きるエネルギーだと思う。 自発的に森を出た祖先は、自発的に歩き、自発的に食べ物を探し、自発的に眠る場所を確保した。 自発的な行動は、新たな環境で生きる知性を発達させる。 そして、祖先はヒトになった。 現代の私達にも、祖先の“好奇心”は引き継がれているのだと思う。 子どもを見ても、そう思う。 子どもは、自ら遊び、自ら遊びを考える、誰から教わることもなく。 子どもにとって、この世界は好奇心でできている。 だから、子どもは自発的に遊んでいる。 そして、遊びを通して、ヒトから人らしくなるための成長を遂げる。 ヒトは、未熟なまま産まれてくる、それぞれの環境で適応するために。 だからこそ、祖先は私達に“好奇心”を引き継いだのだろう。 好奇心は自発性の源であり、自発性は成長の源であるのだから。 ヒトは、成長が運命づけられている動物ともいえる。 このように考えると、「ヒトがヒトを成長させる」ということに疑問が湧いてくる。 ヒトは、もともとが成長する生き物ではないだろうか、と思う。 ヒトを成長させるためには、「自発性を育む」のではなく、「好奇心を育む」のではなく、「自発性を阻害しない」「好奇心を奪わない」というのが正しいのかもしれない。 自発性が乏しい子を見たら、好奇心が発揮できない“何か”を見つけようとする自分がいる。

意味付けがなされなければ、ハンカチはただの布きれ

「ハンカチは、ただの“布きれ”。ただの布切れが、ハンカチになるには、手を拭かなければならない」 こういった感覚がふっと浮かぶようでなければ、特に知的障害を持った自閉症の子ども達の支援は難しいといえます。 ある親御さんから、「外出するとき、度々、ハンカチを持っていかないんです」という相談がありました。 もちろん、当地のスタンダード、構造化支援をやってのことです。 外出準備の手順書を提示してもダメ。 「外出には、ハンカチを持っていきます」という絵カードもダメ。 外出準備の空間を仕切ってもダメ。 「私の構造化が悪いんでしょうか?」と来たもんだから、上記の感覚が呼び起こされます。 最初に働いた施設では、何か指導する際、オリジナルの課題分析シートが使われていました。 まあ、オリジナルといっても、目標となるスキルに必要な動作を分けて分析、評価するのは同じ原理です。 で、この課題分析シートを使っていると、これじゃあ、立体的な評価はできないと感じたんです。 だって、どこで、どの段階で躓いているかはわかるけど、何で躓いているかが見えてこないんですもん。 つまり、この子ができない理由は ◎ある活動の一連の流れ(順番)がわからないのか? ◎力の入れ具合、手や指などの身体の動かし方がわからないorできないのか? ◎そもそもの意味や意義がわかっていないのか? 同じ“できない”でも、その理由、躓いている部分は、人それぞれです。 特に私の担当は、重い知的障害を持った子、強度の行動障害を持った子の支援でしたので、ざっくりとした課題分析では、スキルの獲得や行動の改善は難しかったんですね。 ピンポイントで躓きを見つけ、複数ある場合は、1つ1つ虱潰しのように丁寧に支援していき、最終目標であるスキルの獲得、行動の改善を目指していました。 そんな中で気が付いたんです、モノは概念であることを。 私達は概念で捉えているから、ゴミ箱を見て、ゴミを入れるものだとわかる。 でも、具体的に捉える人にとっては、ただの箱であり、プラスチックの塊であり、投げると面白く転がるものであり、触るとザラザラしてて気持ちいいものであり、いろんなもの(ゴミ)が入っているおもちゃ箱みたいなものであり…。 具体的に捉える人は、具体的な経験により、そのモノを意味づけしていく。 です

自閉脳を活かすために治します

自閉症は脳のタイプの1つ。 だから、受け入れるとか、受け入れないとかいう次元の話ではないと思っています。 それぞれの人、脳みそに合った学び方、情報処理の仕方、生活の仕方があるのだから、その方法を見つけ、カスタマイズしていき、どんどん成長し、発達し、幸せになっていけば良いだけの話。 「その人が持って生まれたものをどう磨き、どう活かしていくか」が支援の中核だと考えています。 「治す」という言葉を使うと、「自閉症は一生治りません!」「治す対象ではありません!」という言葉が返ってきます。 私も、同じ意見です。 そもそも脳のタイプを治すという意味が分かりませんし、治すのではなく、活かす対象だと私は考えています。 ですから、「治す」という言葉が指すものに違いがあるのだと想像します。 治す対象は、妨げているものです。 何を妨げているかと言いますと、その人が持つ資質を活かすのを、です。 いくら資質を活かそうとしても、自閉症の症状が重ければ、妨げになってしまいます。 ですから、症状が少しでも軽くなるように、身体を整えたり、発達を促したりします。 また自閉症の人に見られることが多いけれど、理由が“自閉脳だから”ではない睡眠の乱れや姿勢、運動の不具合があれば、それも治します。 もちろん、自閉脳ゆえの情報の取り違い&ヌケ、想像の違いから生じる誤認識、誤学習も治す対象ですし、問題行動も治さなければなりません。 資質を妨げるものを治しても、自閉脳はそのままです。 むしろ治した方が、自閉脳らしく、その人らしく生きられるはずです。 感覚過敏に苦しんでいる姿、変化にパニックになっている姿、コミュニケーションで困っている姿は、自閉脳を活かした姿だとはいえません。 「これこそ、自閉症の人の姿だ」と固定観念を持っていたり、自閉脳と症状を曖昧に捉えていたり、症状を軽減、改善する方法を知らなかったりするから、「治る」という言葉に拒絶反応を見せるのです。 個性という言葉はあまり好きではありませんが、その人の持つ脳の個性を活かすためにこそ、積極的に治していかなければならないのだと思います。 多くの人がイメージする『自閉症像』が重ならない姿こそ、自閉脳を一番活かしている姿だと思います。 「えっ、あなた自閉症だったの?」と周囲から驚かれたり、気づかれもしない状態

「医師を通さないと、支援が進んでいかないシステムだから、病院に行くだけ」

「自閉症は治りません」と医師は言います。 じゃあ、どういう気持ちで精神科薬を処方するんだろう? 治らないし、治す気もないけれど、薬を出す。 その目的は、症状の緩和や改善のために。 だったら、そこらへんの支援者とやってることは一緒じゃんって思います、民間療法、医師以外の支援者を下に見るけれど。 薬は症状を緩和したり、抑えたりしますが、薬自体にその人を成長させる力も、発達させる力もありません。 「これを飲んだら、勉強ができるようになります」「これを飲んだら、脳機能が、運動機能が発達します」と言うならば、それこそ怪しい。 ですから、良い薬を見つけるよりも、良い支援者を見つける方が、その人の人生にとっては大きな意義を持つのではないでしょうか。 医師しか認められていないことは、薬を処方することと、もう一つ“診断する”こと。 今の診断技術では、表に出た症状だけで診断するしかありません。 つまり、どう頑張っても、その症状を観た人間の主観と力量が影響してしまいます。 医師によって診断が変わったり、診断基準が変わったりすると、同じ人なのに別の障害名が付くのはその典型でしょう。 仰々しく「診断」なんて言ってますけれど、実状はざっくりカテゴライズしているだけ。 「あなたは自閉症ね」っていう診断からは、その人の成長と発達に繋がるアイディアは生まれません。 数年前、今でも超メジャーな支援者が私にこんな話をしてくれました。 「日本の医師会は、“診断”の権利を手放したり、開放したりしないでしょう。あいつらにとっては、特権の一つだから」と。 また併せて必ず入り口が医療となっている弊害や、支援&療育のない服薬の弊害、ざっくりした診断が意味を持たないことなどもおっしゃっていました。 「医師を通さないと、支援が進んでいかないシステムだから、病院に行くだけ」 本人たちから、親御さん達から、「病院に行っても、何も変わらない」「ただ話をしに行くだけ」「話すことすらない」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶ言葉です。 端的に言えば、その一言に尽きると思いますし、私もそのように説明します。 医師は治そうと思っていない。 医師は薬による症状の緩和と改善を目指している。 症状の緩和と改善だったら薬以外にも方法はあるし、成長と発達なら医療よりも優れた機関、人がいる

「全米No.1ヒット」というフレーズをまだ使い続けますか??ギョーカイさま

昔、映画のCMでよく流れていましたよね、「全米No.1ヒット!」「全米が泣いた!」というナレーション。 小学生だった私は、「なんで全米No.1がこんなにたくさんあるんだ」「全米が泣いたっていっても、アメリカ人がみんな泣くわけないし、お客さんに来てほしいからオーバーに言ってるだけでしょ」なんてツッコミを入れていました(笑) そういえば、近頃、こういったCMを目にしなくなった気が…。 まあ、2016年の日本人には、ときめかないですよね、このフレーズ。 今時、「アメリカで認められたから、すごいに違いない!」なんて思う人間なんていないでしょう…あっ、まだいた…。 数年前に断捨離を終えた私は、実生活でも、仕事でも、SNSでも、ギョーカイ臭のする人とはつながりをもっていません。 でも、時折、ネット上で流れてくるのを目にしたり、いろんな人からタレこみがあったりするんですね。 そうしたら、まだ「全米No.1ヒット!」に浮かれてんの!?って思っちゃうんです。 アメリカから〇〇大学の△△教授がやってきます、ナントカ療法の創始者、第一人者が来日しますっていう文言。 まあ、事実だから良いのですが、そこまで有難かる必要ってあるのって思いますね。 確かに日本で、生で話が聴けるのは貴重なものかもしれない。 でも、次々、出てくるナントカ教授、ナントカ療法がすべて素晴らしいものなのかはわかりませんよね。 第一、素晴らしいと言っているのは、その国の人であって、日本人ではない(そもそも誰が言ってるん??)。 しかも、それこそ「全米No.1」の人物で、全州の学校や病院、福祉でやられている療法ならわかるけど、その国にいる支援者の一人であって、療法の一つでしょ。 これって国が違うだけで、日本でも同じことはある。 「近年、アメリカで注目を集めている療法です」なんていう陳腐なフレーズもあるあるだけど、なんか新しい療法が出てきたら、どんなもんかなって注目する人は一定数いるでしょって感じです。 だいたい「日本の子ども達を幸せにするために!」なんてことはないですよ。 当然、一番の目的はビジネスですし、呼んでるギョーカイの方も、「海外から講師を呼べるんだ我々は」って日本、その地域での価値を高めるためにやってる。 よくパンフレット、資料の最後に「(国の)〇〇支援事業」とか、後

近い将来、支援者が“親御さん”ばかりになるでしょう

これから10年もしないうちに、“支援者が親御さんばかり”という時代がやってくると予想しています。 児童デイのスタッフも、学校の補助員も、就労支援の支援員も…。 労働人口の減少と、障害者福祉、教育にかけられる予算の削減で、一人の人間が働いて生きていくには十分な対価を得られない仕事になるでしょう(もうなってるかっ)。 でも、仕事自体はなくなることはない。 そうなると、この仕事を求める人は、対価以外の部分でやってくる人になります。 そこで増えてくるのが、障害を持った子を育てている、または育てた親御さんということになると思います。 労働と対価の差を埋めるのは、個人の“想い”ですから。 ギョーカイは癒着が激しいので、「(客観的に見て)どの児童デイが良いと思いますか?」と訊かれることがあります。 まあ、私が親御さんの主体性を奪うことも、親御さん自体が覚悟をもって選択できないのも問題なので、私は明確な答え、意見は言いませんが、考えるヒントは言います。 見学に行く際、事業所内で見るポイント、そして、どの児童デイにも、“親御さん”がいるので、その親御さんではなく、その親御さんの子どもさんを見て、我が子もその子と同じようになりたいと思うか、どうかが重要だという話をします。 「あの親御さんの息子さん、娘さんのように、将来なってほしい」と感じるのなら、入って損はないと思います。 むしろ、その親御さんの振る舞い、考えから、大きなヒントがもらえるはずです。 しかし、その反対もあるわけで…。 この小さな地域で、15年以上、この業界にいると、どういった親御さんで、どういったお子さんなのかがわかるのです。 正直言えば、他人のお子さんの支援をやっている場合じゃないでしょ、相談に乗っている場合じゃないでしょ、と思うことも少なくありません。 仕事として他人様の支援、相談をやっている場合じゃなくて、まずあなたのお子さんの成長、幸せのために動いてほしい、と思うのです。 我が子が問題行動で、その子自身も、周りも、大変な思いをしているのに、どの口が、どの手が相談、支援しているんだ、と沸々したものが湧き上がってくることもあります。 だいたいそのような人は、我が子の課題を「〇〇の支援が悪い、理解がない」と言って他人のせいにするのが相場なので、沸点に達する場合もあります。

この児童デイは「どんな療育をし、どんな未来を辿るのか」を玄関の張り紙から想像する

近所の児童デイの窓にデカデカと「スタッフ募集」という文字が貼られていました。 作るのはいいけど、スタッフの目途を付けてから開所しないの??って思いますね。 というか、経験、能力豊かで初日からバリバリ働けるような人が来る可能性は低いので、ちゃんと開所前に研修しなきゃまずいんじゃないのかな? だって、「一人ひとりの特性に合わせた療育」「自立に向けての療育」と、こちらもデカデカと貼られているのだから。 ここがそうかはわかりませんが、だいたい運営母体は札幌とか別のところにあって、そっから支店長みたいに社員が送られてくる。 そして、ほかのスタッフは、現地募集ってパターンが多いですね、近頃できたところは。 だから、開業日がもともと決まっていることが多くて、人がいなくても開所ってなっちゃう。 私が親だったら、こういうところには預けませんね。 だって、療育で大切な「準備」「アセスメント」「見通し」の甘さが垣間見られるから。 それに、人が人を育てるわけだから、支援する側の人も育っていなければならないでしょ。 人がいないんじゃ、育てようもないんだし。 経営重視の事業所は、制度が変われば、運営も変わります。 近い将来、事業所の報酬は減らされるはずなので、採算が取れないところは撤退していくと思います。 または社員一人で、あとはパートのみってなるでしょう。 それか、元利用者さんを障害者雇用で雇うっていうパターンも、就労支援の方の補助、報酬で賄うってアイディア。 いずれにせよ、本物の児童デイしか残らない時代がきますし、その児童デイを利用するにも順番待ちがあったり、小学生まで、障害の程度がこのくらいというような条件ができたり、当然、利用者負担は増えたりするはずです。 大事なことは、この近未来を念頭に準備しておくことだと思います。 学校や児童デイで学んだこと、身に付けたことがあれば、家でもやってみる。 もし足りない部分があるとすれば、ブーブー言う前に、他の支援者や方法、アイディアを見つけ、家庭で解決、成長を目指していく。 良いか悪いかは別にして、親の行動力、向上心、覚悟、センスが問われる時代がやってくると想像します。 これからも発達障害と呼ばれる子ども達が増えていくでしょう。 その一方で、学校の教員数は減らされていきますし、ここ数年でも教員

ギョーカイ語を介さずに、その人と触れあえる支援

施設で働いていた頃、毎日、一人ひとりの利用者さんの行動記録を書いていました。 今はありませんが、「自閉症児施設」でしたので、自閉症の特性を意識して記述していく必要がありました。 またトレーニングでも、必ず「自閉症」という文字を書いて記録を書くこと、保護者や他の支援者に説明するときにも、同じように「自閉症」という言葉を使うことを指導されました。 そういった流れで、今の事業を始めてからも「自閉症」という言葉を使って説明したり、報告書等を作成したりしていました。 でも、いつからか「自閉症」という言葉を使わなくなり、「発達障害」という言葉を好んで使うようになりました。 それは、発達を後押しする方法を教えてもらったから、発達していく人たちを見たから、だと思います。 「発達の障害」とも読めるのに、「自閉症」という言葉よりも、発達に向かった“動き”を感じるのが面白いです。 「発達障害」という言葉に、「やりようがある」「変わるチャンスがある」「成長できる」という想いを乗せて使っていたような気がします。 ところが最近、「発達障害」という言葉を使うのも止めている自分がいました。 「どうすれば生きやすくなるか?」「どうすればより良い未来になるか?」が大事なのであって、その後押しをするのが自分の役目という想いがより強くなりました。 ですから、「ちゃんと眠られるようになったら、頭も、身体も、ラクになるな」とか、「コミュニケーションが“相手とのやりとりである”って実感できれば、学校でも良い関係性が築けるな」というように、ちょっとでもポジティブな変化が訪れたら良いなって単純に思い、行動する自分がいます。 「発達のヌケや遅れを発達させる方法を教わりました。自閉脳と相性の良い方法を勉強し、実践してきました。その中で、あなたのお役に立てるものがあれば、提供します」というシンプルな気持ちでいます。 私が持っているアイディアが誰かのお役に立てるのなら、その人が自閉症か、発達障害か、なんて関係ありません。 みなさんが求めているのは、生きやすくなる方法、成長できる方法であって、自閉症支援でも、療育でもないと思います。 このように自然と思えている私は、今、とてもスッキリした気持ちで仕事ができています。 自閉症や発達障害という言葉を使わずに支援していると、「人が人を支

言葉は鳴き声を含んでいる

耳の中に入ってくるメロディー 歌詞は明るいのに 伝わってくるのは 重くて 苦しそうな雰囲気 でも 今度のアルバムから聴こえてくる雰囲気には  以前ほどの重さも 苦しさも 感じられなくなった 少し軽くなったような気がするし 少しラクになったような気がする 何かは分からないけれど 何かが変わったのは確かだと思う 言葉を獲得し ヒトは人になった 人は言葉を自由自在に操り 「お前たちとは違うんだ」と動物たちの前に線を描く しかし 勝ち誇ったように掲げるその言葉にも ヒトが含まれている 私達の内から出てくる音は ヒトの鳴き声でもある 鳴き声には 感情の匂いがする だから 同じ言葉に触れても 漂う雰囲気はまるで別のものになる 明るい歌詞で 暗い曲のように 言葉は変えられても 匂いは変えることができない いつも美辞麗句を並べ 「当事者のため」「より良い社会のため」と言う支援者がいる でも 私の内側から共感が生まれてはこない なぜだろうと 自分でも疑問に思っていた そして出た答えが その支援者の言葉の中に“悲しい鳴き声”が聞こえるから 「障害も素晴らしい個性です」と言って “治ることのない人達”という鳴き声が聞こえてくる 「当事者のために頑張ります」と言って “私のことを注目して欲しい”という鳴き声が聞こえてくる 「自立できるように支援します」と言って “どうせ無理”という鳴き声が聞こえてくる こんな鳴き声が聞こえていた私は 発する言葉に嫌悪感を懐いていたに違いない 悲しい鳴き声の支援者は 明日を照らす支援はできない 相手の持つ悲しい感情と共鳴するから 明るい鳴き声の支援者が 目の前にいるヒトの前向きな感情に触れることができ 心地良いハーモニーを奏でられる その人の言葉 文章 ブログ ツイッターから どんな鳴き声がきこえてくるのだろう… 自分にとって心地良い鳴き声を 聞き分けられているのだろうか?見つけられているのだろうか?

必要な人が安心して医療、福祉サービスを利用できる社会!

昨日、フリーアナウンサー長谷川豊氏が、出演していた番組から降板するという発表がありました。 そのきっかけとなったのは、人工透析に関するブログです。 その表現が報道キャスターとして不適切だったという理由での降板でした。 私も問題になったブログを読みました。 最初に見た瞬間から、不適切な表現があったのはわかりましたし、相当な批判を受けるというのも想像できました。 もしかしたら、本質ではない部分が切り取られて、それこそ炎上するのでは、とも思いました。 本人が言うように「番組降板まで」想像できなかったとは思いますが、多くの批判を受けるのを分かった上で発信であり、相当な覚悟があったのだと思いました。 ちなみに、ある程度の年数が経っても、誰からも批判されない、敵と呼べる人がいないというのは、信念のない働き方をしてきた証拠だと考えています。 本人が意図しなかったとはいえ、誰かを傷つけたり、不快な思いをさせてはいけませんし、それに伴う責任はしっかりとらなければいけないと思います。 でも、このブログを読んだとき、私の中に想いを同じくする部分があったのは事実です。 それは「このままいったら、本当に必要な人が利用できなくなる」「弱い立場の人間が切られていくのを止めなければならない」という点です。 長谷川氏はひっ迫する国民医療費についてでしたが、私は障害者福祉について、特に施設で働いていた頃のことを思いだしました。 施設で働いていた頃、身体的には辛かったですが、精神的にはそこまで辛くなかったんです。 それはどういうことかと言いますと、行動障害を持った人の支援に関して感じていたことなのです。 そりゃあ、行動障害と呼ばれるくらいですから、しんどかったですよ。 さらにそれよりも困難さを抱えている“強度”行動障害の人の支援は、危険な思いも、相当なストレスも、しょっちゅう味わっていました。 それでも、そういった人達の支援をしているとき、「自分たちが支援を頑張らなくてどうするんだ!」という思いがあったのです。 「今まで家でどうやって過ごしていたんだろう…」 「このまま家にいたら、家族ともども崩壊してしまっただろう…」 「ここで改善がみられなければ、それこそ、行く場所がなくなってしまう…」 行動障害の有無に関わらず、こういった思いが浮かんでしまう人

本来は、どういった人物なのだろう

学生時代、ボランティアで関わっていた子の親御さんが、こんな話をしてくれました。 「私、朝起きたら、この子がしゃべれるようになって、普通の子になってる夢を見るんだ」って。 そして、この前はこんなことをした、今日はこんなことを言った、などと話をしてくれました。 この親御さんが語る夢の話には悲壮感ではなく、明るさ、楽しみ、我が子への愛情が漂っていました。 この親御さんとの会話をきっかけに、「この子がしゃべれるようになったら、どんなことを言うだろうか?」「もし知的障害がなかったとしたら、どういった仕事をするだろうか?」などを想像するようになりました。 ボランティアで関わっていた子の他の親御さんとも、「たぶん、こんな部活動してたんじゃないかな」「どちらかというと文系の大学かな」「この子、おじいちゃん子だから、介護系の仕事を目指したかもね」「私は勉強も、学校も、嫌いだったから、すぐに就職したんじゃない」などと、一緒に話をして盛り上がることがありました。 みなさん、親の希望や願い、夢よりも、目の前にいる子どもの姿から始まる連想を語ってくれたのが印象深く残っています。 親御さんの語る子どもの姿には、目の前にいる子との重なり、リアリティをいつも感じていました。 施設職員になったあとも、このように「知的障害がなかったら…」「行動障害がなかったら…」「もししゃべれるようになったら…」と、どんな大人になるのかな、どんな人生を歩むんだろうか、どんなことを言うだろうか、など頭の中で想像しながら、日々、支援していました。 サッカー部に入っていただろうと思う子とは、サッカーをして遊んだりしました。 ペットを飼っていただろうと思う子とは、ペットショップに行って、犬や猫を見て過ごしたりしました。 明るい曲が好きそうだな、女の人の歌声が好きそうだな、と思う子には、そのような音楽を用意して聴いてもらったこともありました。 あのときのように、自分が想像した姿にリアリティが感じられると、支援が良い方向へと流れていっていました。 なんでこのようなことを思いだしたかと言いますと、この前、久しぶりに会った親御さんから「4年前に言ってた通りになりました!」と言われたからです。 この親御さんのお子さんが、まだ学校に通っていた頃、進路の話になったんです。 そのとき、私はもし知的障

「二次障害を防ぐ支援」という言葉の持つ違和感

以前は憤りを感じていましたが、今では悲しく感じるようになりましたね。 「適切な支援を受けなければ、二次障害になりますよ~」 「周囲の無理解が、二次障害へとつながりますよ~」 という支援者の言葉。 こういった脅しをしなければ、人を集められない支援者、事業所の力量に悲しみを感じます。 まあ、お金を出して載せている広告なのですから、私がどうのこうの言う立場ではないんでしょうが…。 改めて「二次障害にならないための支援」「二次障害を防ぐ支援」って何なのでしょうか。 私の中では、どうしても二次障害を“防ぐ”と“支援”が結びつきません。 私達が行う支援って、その人の発達を加速させるためのお手伝いというイメージです。 支援には後押しするという力強さがあり、動きを感じます。 でも、“防ぐ”っていう文字からは動きを感じず、その場に留めるというイメージが表れます。 ですから、二次障害を防ぐ支援って、動きを止めちゃうような、役割を打ち消すような、で違和感を感じます。 「二次障害にならないために、うちの支援を受けにおいで」と言うのは、子どものための言葉ではない気がします。 (そもそも商売のテクニックとしても、方向性を間違えている気が…) 子どもには動きがあります。 成長を追い求める動きです。 揺らぎやもがきが試行錯誤へとつながり、試行錯誤が成長へとつながります。 「揺らがなくても良いよ」「もがかなくても良いよ」というのは、優しい言葉のようで残酷な言葉です。 子どもの動きを制止する言葉であり、「成長しなくても良いよ」と言っているようなものですから。 伸び伸びと動きたいのが、子どもです。 伸びやかさがなくなると、子どもらしさがなくなります。 ですから、伸び伸びと動けるように、環境を整え、後押しするのが大人の役目ですし、子ども自身もそれを求めています。 決して子どもの上に覆いかぶさって、子どもの周りに囲いを作ってはいけません。 それこそ、心身が不健康な方へと向かってしまいますので。 動きたいのに、試行錯誤したいのに、成長したいのに、それが阻まれるから病んでいくのだと思います。 「二次障害を防ぐ支援をすると、二次障害になる」というブラックジョークが浮かんでしまいます。 支援という言葉には動きを感じますので、伸びる、学ぶ、身に付ける

支援には“引き算”が馴染む

子どもの頃、私は足し算より、引き算の方が好きでした。 引き算をしていると、スッキリしていたのを覚えています。 足し算は何だか窮屈な印象で、引き算はどんどん自由になっていく気がしていました。 足し算が窮屈に感じるのは、教わるときも同じです。 教師や大人、子ども同士でも、「知識や技能を教えてやろう」「お前に足してやろう」という雰囲気を感じると窮屈さを感じ、私は避けたり、反発したりしていました。 反対に、停滞の原因となっているものだけをそっと取り除き、「あとは勝手に伸びてきな」という雰囲気の教え方をされると、心地良さを感じ、やる気が出ていました。 足すことに窮屈さを感じ、引くことに自由を感じるのは、今の私にも続いています。 私の支援の基本は、引き算です。 本人と向き合ったとき、その人から何を引いたら、自由になれるかを考えます。 例えば、睡眠障害を引いたら、自由になれるのではないか? 社会に対する恐怖感を引いたら、自由になれるのではないか? 「どうせ自分は障害者だし」という言葉から“どうせ”を引いたら、自由になれるのではないか? 何がその人の可能性、伸びる力に待ったをかけているのか、その障害を取り除くことを考えます。 「この発達課題がクリアできれば、自分自身で伸び伸びと成長していけるな、問題を解決していけるな」と思うと、嬉しくなります。 知識や技能を足そうとする支援を見ると、嫌悪感を懐きます。 なんだか「あなたには足りないから、足してあげる」というような傲慢さを感じますし、主導権が支援者にあるようで、その人が自由に伸びていかない感じがします。 そして何よりも、その人自身が持っている伸びる力、回復する力、より良く変わっていこうとする力の存在を信じていないような気がして反発心を覚えます。 「1から10まで教えていく、手助けしていく」というのは、発達障害の人たちの支援に馴染まないような気がしています。 抜けている、飛ばしている発達課題をクリアする。 生活の支障となっている感覚や体調の問題をクリアする。 彼らの行く手を阻む障害をクリアにし、自由に羽ばたいてもらうための援助活動とイメージすると、私の中ではスッキリするのです。

宗教と自閉症

以前から、自閉症の人の中にいる「宗教にハマる人」「熱心な信者になる人」の存在に気が付いていました。 別に、自閉症の人の中に特定の宗教を信じる人がいてもおかしいことではありません。 でも、その人達の様子を見ていると、一般の信者とは信仰の仕方に違いがあるように感じます。 「生き方の指標」として宗教を求めている、という点は同じなのでしょうが、そこに主体性が感じられないのです。 「宗教と自閉症の人」という文字を思い浮かべると、「指示と自閉症の人」と連想されました。 自閉症の人が宗教にハマりやすく、熱心な信者になるのは、そこに明確な指示があるからでは、と想像します。 「〇〇を食べてはいけない。〇〇をしてはならない」 「毎週、礼拝しなさい。そうすれば、幸せになれるでしょう」 「あなたが不幸なのは前世の因縁。この壺を買えば、それを振り払えます」 やるべきことが、とってもわかりやすい。 余計なことを考えなくても済むし、「幸せ」など、抽象的な概念が具体化されている。 ですから、自閉症の人と言いますか、自閉脳と相性が良い気がします。 定型発達の人が心の迷いで宗教を求めている一方、自閉症の人が脳の迷いから宗教を求めているように感じることもあります。 自閉症の人と向き合っているとき、「信じるものは救われる」の眼差しを感じることがあります。 「どうすれば良いですか?」「どれを選べば良いですか?」「まず何からしたら良いですか?」 こんなとき、私が「A」と言えば、Aの方向へと突き進んでしまう怖さを感じます。 ですから、こんなときは予定を変更し、心身を整える活動と情報の整理を行います。 外から見れば、「何で、あの支援者の言うことを信じているんだ!?」と思うことがあります。 現実が求めている方向へと変わっていかなくとも、「〇〇さんの言っていることは絶対です!」と信じてやまない人がいます。 その人の主張を聞けば、どの支援者から支援されているかがわかることがあります。 現実が変わらないのは、言っていることが合っていないか、自分自身が変わっていないかのどちらかです。 自分たちの外側に存在しない原因を見ようとするのは、お金の匂いがする宗教のようです。 「社会の理解ガー」には、同じ匂いがします。 親御さんの中にも、同じような雰囲気を感じることがあり

ツッコミ力を養う

元都知事が「聞いていません。僕は騙された」という姿を見て、「そうか、知らされてなかったのか。こりゃあ、都の職員はろくなもんじゃない!」と思う人は、生きづらさを抱えているかもしれません。 都議団が地下に入り、「うわ~~~、真っ青になりましたぁ~」という姿を見て、「問題を追及して暮れている。頑張れ、都議団!」と思う人も、生きづらさを抱えるかもしれません。 だって、いくらなんでも、都知事の判子なしに物事なんて進められないと思いますよ。 あれだけの事業なんですから、資料に目を通したことも、報告を受けたこともないって言うのは、責任逃れするための発言だったとしても、さすがに無理があるでしょ、と思いましたね。 あと都議団がせっせと大勢のマスコミを引き連れて地下に入っていってますがね、今更何をしてるのさって感じです。 この問題が明るみになるまで、どの都議も移転予定の豊洲市場に視察に行っていないのかな?? 江東区選出の議員さんだっているはずですし、予算も莫大なのですから、まったく議論にも上がっていない、資料も見ていない、視察もしていない、なんてことはないはずですね。 地下空間の視察は当たり前のことをしているのであって、むしろ今までしてなかった方が問題ですし、していたのに、知っていたのに、スルーしていたのに、だったら大問題です。 文章にすると、これくらいの量になりますが、事実は別にして、こういった想像が瞬時にできるか、できないかでは、その人の実生活に違いが出てくるように思います。 支援者は、様々なビジネストークをします。 「支援があれば、大丈夫」「生涯に渡る支援」「あなたが悪いのではなく、社会が悪い」など。 でも、支援者だって労働者ですし、家庭や自分の生活もありますので、生涯にわたって支援はできませんね。 定年だってあるんですし、福祉の離職率を考えれば、1年同じ人なら良いくらいなんですから。 トラブルだって、周囲が理解してくれなくて起きるトラブルと、本人側の問題で起きるトラブルとでは、どっちが多いですかね? というか、本当に自分自身に改善すべきことってないの? 社会が悪いって、どう悪いの? その同じ社会の中で、自立して幸せな人生を送っている人っていないの? そもそも支援者が言うことがすべて正しいの?そんなに力があるの? こんな風に考えることが

エネルギーのバランスをどうとっていくか?

お子さんの進路、将来について相談を受けました。 軽作業のような仕事と、体力を使うような仕事のどちらが適していると思うか? グループホームを見学に行く際、選ぶ際、息子の場合、どういったポイントを確認したらよいか? 大きく分けて、この2点が相談の中心となりました。 相談を受けている途中、ふと施設で働いていたときのある成人の利用者さんの顔が思い浮かんだんですね。 私の原点は入所施設の職員ですので、あのときの雰囲気に頭の中が包まれていたのだと思います。 その成人の利用者さんは、周期的と言いますか、定期的と言いますか、職員に向かってくるんです。 パンチとか、キックとか、噛みつきとかじゃなくて、職員を掴んで、とにかく押してくるんですね。 身長も大きいですし、身体もガッシリ系の人だったので、結構、大変でしたよ。 私も何度も対応しました。 で、ここでコツがあって、すぐに押しきられたり、逃げたりしてはいけないんです。 すぐに押しきられたり、逃げたりすると、何度も何度も向かってくるんです。 また職員に向かえなかったら、破壊行為が始めるんですね。 ある程度の時間、しっかり対応すると、スッと落ち着いて、晴れやかな顔をして元の生活に戻るんです。 この利用者さんは、日中、軽作業をしていました。 とっても仕事は丁寧なんですね、最後までペースは乱れませんし。 で、だいたい上記のような行動が起きるのは、寮にいるときなんですね、それも突然スイッチが入ったように。 となると、「仕事での我慢やストレスの爆発?」「寮でやることが明確じゃない?」「直前に注意されたり、制止されたり、要求が通らなかったりして?」「作業と寮の職員の対応が違う?」というようなことが思い浮かびますよね。 当然、ケース会議でも、そのような話は出ました。 でも、私は違うような気がしたんですね。 もっと根本的で、シンプルな理由じゃないのかなって思ったんです。 知的障害がとても重いっていうのもありますし、日頃、寝食を共にしていての雰囲気とでも言いますか…。 そんな風に考えていたら、“定期的”というのと、“対応されると落ち着く”というのと、“晴れやかな顔”っていうのが繋がったんですね。 きっとエネルギーバランスを調整していたんだなって。 つまり、自分の中に溜まっていたエネルギー、行き場

人当たりの良いヤブ医者が一番儲かるのと、ギョーカイの仕組みは同じって知ってましたよね??

昨日のブログを書いていて、ふと思ったのですが、もしかしたらギョーカイの仕組み自体をご存じない方がいるのかもしれませんね。 それだと、「支援者は一生懸命支援してくれる」「支援者は自立のために手助けしてくれる」「支援者は当事者のことを一番に考えてくれる」なんて本気で思う人がいてもおかしくはないですね。 いや、確かにいるんですよ、支援者の中にこのような人たちは。 でも、それは“支援者”だから、ではないんですよ。 それは、その“人”が一生懸命な人だから、志のある人だから、プロフェッショナルだから、なんです。 私の言っている意味は、以下の文章を読めば理解していただけると思います。 堤未果氏の新刊「政府はもう嘘をつけない」(角川新書)の帯に書かれていましたね。 「お金の流れで世界を見抜け!」って。 ギョーカイもお金の流れを読み解けば、その仕組み、成り立ちが見えてきます。 ギョーカイのお金ってどこから得ているのでしょうか? 利用者負担とか言われていますが、そのほとんどは税金ですね。 まあ、ライセンスビジネスとか、検査だけで〇万円ってところもありますが、それは民間会社の話です。 ちなみに、福祉サービスを使っていると、あまりお金がかかっていないような気がするかもしれませんが、実際、同じ業務を民間が100%利用者負担で、ってなったら、上記の民間会社のような利用料がかかるのですよ。 「タダだからイイや」って雑談をしに、相談機関に行ってはいけません。 ギョーカイの財布の中身の大部分は、税金です。 ということは、その税金が適切に使われているかを評価するのは、“行政”の仕事になります、“利用者”ではないのですよ。 税金が少しでも入ると、作成すべき書類が膨大になるのは、お役所の仕組みだからですね。 個別支援計画がどうだとか、施設の建物、人員が要件を満たしているかどうだとか、適切にお金が使われているかどうだとか、いろいろ行政に提出しなければいけません。 で、ここがミソです。 もし自分が行政の人間で、相談機関でも、児童デイでも、通所、入所施設でも、その機関を評価しなければいけないとなったら、どうしますか? 1つの機関から、膨大な報告書が届くのですよ。 1つ1つ丁寧に見ますか? もちろん、紙面上の部分は、きちんと精査し、評価はできると思いますし、

学校には行かないけれど、児童デイには行きます

学校には行かないけれど、児童デイには行く。 このような子ども達の姿が珍しくなくなったと聞き、ガックリきましたね。 これで良しとする大人がいるという証拠ですから。 学校って不登校の“数”を減らしたいんですね。 教育委員会がうるさいですし、管理職は気になる数字ですし。 ですから、個別のアプローチをして何とか登校できるように促します。 でも、時間と労力がかかりますし、結果が伴わないことが多々あります。 そこで学校は通院を勧めるんですね。 だって、診断名が付けば、病欠扱いにできるから。 これが一昔前の手でした。 しかし、近頃では、病名ではなく、発達障害の診断を受けるように促すという新手が現れたんですね。 とにかく学校側は、「発達の遅れがあるかもしれません」「一度受診を」と言うんです。 親御さんは不登校で悩んでいる中、さらに「発達障害」と言われれば、びっくりしますよね。 それで、急いで病院へと向かいます。 病院に行けば、ほとんどの場合、ちゃんと発達障害の診断が出ます。 だって、ハナから学校が勧める病院は、発達障害が増えて欲しい系の病院だから。 発達障害の診断名がつけば、次に勧めるのは相談機関。 相談機関は、相談1回ごとに報告書の実数が増えて、万々歳です。 そして、児童デイという存在を伝え、手続きの仕方も丁寧に教えます。 で、自分のところと仲良しこよしの児童デイを勧めて、はいっ、完了。 仲良しこよしの児童デイさんは、コンサルテーションを頼んでくれますからね。 ここでも実数1ゲット! いや、年に数回、支援ミーティングがあるから、その分、増えていきますね。 児童デイも、自己努力しなくても、お客さんが定期的にいらっしゃるので、こちらもOKです。 学校側も、「特別なニーズのある子」となれば、そこまで不登校に過敏になる必要はなくなりますね。 ギョーカイ連中も、「お母さん、児童デイは療育をやるんですよ」「児童デイに通えているだけでも、〇〇くんはとっても頑張っています」なんてお決まりのセリフを言えば、親御さんの心配は別のことへと逸れていきます。 これで、みんなが丸く納まりますね、本人以外は。 「学校行かないけれど、児童デイには元気に通ってます」と言われて、「それはよかったね、お母さん」じゃねーよ、学校、病院、相談機関、児童デイ!

「とりあえずビール」みたいな「とりあえず特学」という掛け声

「学校の授業についていけなくなって…」 「じゃあ、特別支援学級ですね」 「クラスの友達とトラブルが絶え…」 「じゃあ、特別支援学級ですね」 「学校を休みがちで、不登…」 「じゃあ、特別支援学級ですね」 こんな話を聞くたびに、飲み会の「とりあえずビール」を連想してしまいます。 なんかあると、「とりあえず特学へ」って。 その学級でやること、やれることはないの?? 一昔前の「特殊学級」から名称も変わり、勧める方も気持ちの上でのハードルが下がったような気もします。 同級生がたくさんいる教室では授業に集中できない。 教室内の刺激が多すぎて、それだけで疲弊してしまう。 一斉授業では、先生の言ってることがわからない。 だから、特別支援学級で学んだ方が良い、というのなら分かります。 「子どものより良い学び」と「将来の可能性の広がり」という核の上に、大人の事情が覆いかぶさるから嫌悪感につながるのです。 あと1人在籍数が増えれば、臨時の教員、補助員を雇える…っていうのは、学校の都合です。 通級より特学の方が入りこみやすい…っていうのはギョーカイの都合です。 担任の先生が「できれば特学に」って思うのは…わからなくもないです。 実際に仕事として通常学級の担任はしたことがありませんが、学生時代、2回、2ヶ月ほど、教育実習で入りました。 正直、40人学級の中での一人に個別対応は難しいです。 「一人の子に合った教育を」と思えば、残りの39人が…、「39人を中心に」と思えば、その一人の子が…ってことになります。 でもだからこそ、特別支援コーディネーターなんでしょうが、実力以外のところで担当が決まっていたり、反対に実力で決まっていても、「自分より年数の若い教師の言うことなんか聞かね~」という態度の教員がいたり、「不登校も、家庭のトラブルも、全部コーディネーターに渡しちゃえ」って手一杯にさせちゃったりするから、結局、担任は孤立するし、「できれば特学へ」って思っちゃうのでしょう。 とにかく人員の確保とか、行政に提出する実績数の確保とか、連携がうまくいかないとかは大人の都合だと思いますね。 あと許せないのが、現在、特別支援学級で学んでいる子達の学びをないがしろにしている感があること。 1人仲間が増えて、それですぐに先生が増えたり、クラスが増えたりす

雰囲気を察した子、雰囲気を察してほしかった子

「みんなから“バカ”って言われる」 私からの質問に、頷くか、首を横に振るかだった子が、唯一、はっきり言った言葉でした。 この言葉には、この子の思いがギュッと詰まっていたんだと感じましたね。 だから、私はすぐにこう伝えました。 「みんなから“バカ”って言われて悔しいんだよね。本当は勉強頑張りたいんだよね。おじちゃんに任せて。〇〇ちゃんが学校でちゃんと勉強できるようになるための方法を知っているから、一緒にトレーニングしようね」と。 その子は、泣きながら何度も頷いていました。 小学生くらいの子ども達って残酷な面もあるし、大人の空気を察しちゃうところもありますね。 授業中、間違った答えを言ったり、テストの点数が悪かったりすると、すぐにバカだ、バカだと言いますし、大人たちの雰囲気を察し、「〇〇学級(支援級)に行けよ」なんてことも言っちゃいます。 実際に、この子も在籍クラスで同様の目に遭っていました。 担任の先生も、その子と話をしたそうです。 そして、その子から出た言葉が冒頭の言葉。 それを聞いた先生は、「それなら〇〇学級(支援級)で勉強してみたら」とその子に言い、親御さんにも言ったのでした。 同様の反応をしたのは、学校の先生だけではありませんでした。 どこに行っても、この子は「みんなから“バカ”って言われる」と言いました。 すると、医師も、相談員も、療法士も、みんな、特別支援学級を勧めました。 「このまま、辛い思いをさせてると、(でました!)二次障害になりますよ」 「授業についていけていないんだから、通常級は無理でしょ」 「将来を不安に思っているかもしれませんが、福祉がありますから」 この支援者たちのコメントを聞いて、私は違和感を持ちました。 どうして、この子のメッセージの奥にある気持ちを汲み取ろうとしないのかな? どうして、この子がかわいそう、だから、その場から別の場所へ、なのかな? どうして、誰一人、その学級で勉強できるように手伝うよと言ってあげられなかったのかな? せめて、この子が今の学級で勉強したいという思いを察し、汲んでほしかった…なんて思うのです。 確かにあまり話をするのが得意ではない子です。 特に家以外で話をするときには、余計にしゃべれなくなります。 でも、この子が言った「みんなから“バカ”って言われる

障害者として見て欲しいの?障害者として見て欲しくないの?

一般の人達に受けが悪いのが、一部の発達障害の人が言う「私は見えない障害ですから」って主張。 「できそうに見えても、できなくて困っていることがあるんです」 「怠けているわけではないんです。支援が必要なんです」 と言われると、一般の人はそうかと思い、大目に見たり、手伝ったりしようとします。 でも、その一方で「あまり仕事をさせてくれない」「障害者枠ではなく、一般の人と同じように働きたい」「なんでも手を貸して、私を障害者扱いする」って言う人もいます。 ある企業の方が言ってました。 「障害があって大変なのだろうと思うのですが、どうしても都合が悪いときに“障害”って言葉を使っているように見えるんです」と。 雇う側は、その人に期待する仕事の種類、量、質があります。 期待に応えるために「こんな配慮があれば」と言うのなら分かりますが、「障害があるから応えられません」というのは受け入れづらい主張になりますね。 以前、私が関わっていた人で、周囲に障害のことを伝えず、一般の人として働いている人達がいます。 その中の一人の若者は、「私のこと、誰も障害者として扱わないのが嬉しい」と言っていました。 また、ほかの若者は、「苦手な仕事もあるけれど、同じお給料を貰っているのだから頑張る」と言っていました。 高校時代から関わっていた学生さんは、大学に入学する際、「障害のことは言わず、一人の学生として大学に行きます」と言って進学しました。 彼らの話を聞いていると、障害者としてではなく、一人の人間として成長し、社会に羽ばたいていくことを望んでいるのだと感じます。 発達障害は、発達しない障害ではありません。 ですから、私は彼らの持つ障害は、改善させる対象であり、治す対象であると考えています。 そのための発達援助こそが、支援者の求める支援ではなく、本人たちが求める支援だと思っています。 こういうことを言うと、当事者の人の中には障害がなくなることに拒絶反応を見せる人がいます。 でも、それって「一人の人間として勝負するのが怖いよ~」「できない理由の一つがなくなるのが嫌だよ~」とも見えるのです。 別に困難が改善し、障害が治ったと言える状態になったとしても、それまでの努力や頑張りはなくならないと思うんです。 周囲から「障害持っているように見えないね」って言われても、それ

自殺しようとする子がいたら…

まずは、大きな声で「バカ野郎!!」と言いますね。 「自殺なんか考えてるんじゃねー!」 「ふざけるのも良い加減にしろ!」 とにかく本気で怒るのが先だと思いますね。 今日、9月1日は子どもの自殺が最も多い日だと言われています。 ですから、いろんな人達が、そういった子どもに語り掛けます。 「辛いんだね。無理して学校に行く必要がないよ」 「私もずっと学校に行きたくなかった。学校に行かない選択肢だってある」 「学校がすべてじゃないんだ。学校に行かなくたって、生きていける」 「親御さんは子どもの変化に気が付き、登校のプレッシャーをかけないように」 などなど。 こういったメッセージを見るたびに思うんですが、これって自分が子どものときに掛けてもらいたかった言葉ですよね、ほとんどが。 これって今まさに自殺を考えている子に向けられるメッセージのはずですよね。 だったら、大人の役割として、まずやることは共感じゃないでしょ。 責任ある大人がやることは、「自殺なんてバカなこと考えるんじゃない!」という怒りのメッセージを伝えることではないかって思うんです。 そんな考えを持つこと自体を否定しなきゃだめでしょ、特に相手がまだ成長途中の子どもなんだから。 親御さんから「うちの子が、自殺しようとして」とか電話が来ることもあります。 あとから切った手首を見せてくる(敢えて言いますが)バカもいますし、何かあると「もう自殺しかない」とか言ってくるバカもいます。 そんな若者たちを目の前にしたら、私は心の底から「バカ野郎」って言いますよ。 そこに至るまでの挫折や辛さはあるでしょうが、それよりも伝えるのは「自殺は絶対ダメ」「そんな選択は許さない」っていうメッセージだと思うんです。 衝動的に行動した人もいれば、本気の決意をもって行動した人もいます。 だから、私は、というか責任ある大人は、本気で自殺を否定しなきゃいけないと思います。 共感や問題の解決は、あとからでもできます。 でも、自殺の否定をやっておかなければ、再び何かあったときに試みる危険性があります。 また、こうすれば周囲をコントロールすることができるというような誤学習、誤認識を生む危険性もあります。 実際、本気で自殺する気がないのに、繰り返す若者もいますので。 世界を見渡せば、生きたくても生きられ

嫌いな人と距離を置こうとするのは、自然なこと

私は、自分を守るための嘘をつく人間が嫌いです。 私は、言い訳ばかりして成長しない人間が嫌いです。 私は、口では良いことばかり言っていて、実際には行動しない人間が嫌いです。 ですから、こういった人に対しては、はっきり「No」と言ってきましたし、距離を置いてきました。 誰しも嫌いな人はいるでしょうし、私のような振る舞いをするのは自然なことだと思います。 でも、これが対障害を持っている人になると、不自然に見えるというのです、支援者という人達には、一部の親御さんには。 まあ、私から言ったら、そっちの方がどうかしていると思いますが。 何故、特に支援者は障害を持った人に対して「嫌い」と言ったり、距離を置いたりしてはいけないのでしょうか? 私はガツガツ言いますよ、「嫌い」だって、怒りもしますし。 「もう応援したくない」「支援するのも嫌だな」「別の支援者に頼めば良いでしょ」 今月だけで、3~4人に言いましたね。 そう考えると脂っこい8月でした(笑) 脅すという意図ではなく、正直な気持ちを伝えたのです、一人の人間の。 支援者って、本来、目の前の人が“社会の中”で自立していくことを応援していくはずです。 それなのに、プライベートな時間で、障害のない人がやったら絶対に許さないであろう行為をされたとしても、相手が自分の支援している人だったら、「もう同じ間違いはしないでね」とか、「一緒に、その課題をクリアできるよう頑張っていこう」などと言っちゃうのです。 こんな対応、人間関係って不自然ですし、いびつですよ。 そんないびつな対応をするから、問題は解決しないし、誤学習もさせちゃう、そして本人の中に「支援者だから、どうせ許されるだろう」という甘えも生まれるのです。 で、結果として、社会の中に出ていくことができなくなるんです。 つい先日も、自分の失敗を隠した上に、最後には「僕はアスペルガーだから」って言うもんだから、「都合が悪くなったら、アスペルガーって言うんじゃない。どの診断基準に、“アスペルガー症候群の障害特性は嘘をつく”って書いてるんだー。嘘をついたのは、アスペルガーという障害ではなく、〇〇〇〇という人間だ。何でも障害のせいにするのは、同じ障害を持っている人達に対して失礼なことだし、私はそんな人は大嫌いで支援したくない!それに自分を守るための嘘をつく

ひきこもりについての空想

この世にいる動物の中で、ひきこもる動物っているのだろうか…なんてことを考えてみることがあります。 動物界にはアマゾンはないはずだから、自分の巣穴まで食べ物をお届けってことはできないです。 だったら、生まれてきたばかりの子か、まだ餌の捕り方を知らない子以外は、巣穴にずっといることはできません。 食べなきゃ、生きていけないので。 親とはぐれたり、親が他の動物に食べられたりしたら、例え子どもでも、這ってでも巣穴から出て食べ物を探しに行きます。 巣穴にいて餌を待つという選択肢は、遺伝子的には組み込まれていないんじゃないかな、なんて動物界を見て思います。 人間も動物なのだから、きっと遺伝子的には、ひきこもらないんじゃないかな、と思います。 じゃあ、なんで人間はひきこもるのでしょうか。 人間界にはお金も、アマゾンも、コンビニも、福祉制度もあるからっていう答えは面白くありません。 爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳のどこで、ひきこもるのだろうかと空想してみます。 爬虫類の脳で、ひきこもる人もいると思います。 自律神経の乱れで、餌を捕りに行きたいけれど、身体の方がNOと言っている感じです。 生命活動でいっぱいいっぱいの人は、ひきこもらざるを得なくて、ひきこもっているといえます。 哺乳類の脳で、ひきこもる人は、愛着形成が関係していると思います。 守ってくれる存在、自分は守られているという意識が持てない人は、やっぱり巣穴から出ることは怖いのでしょう。 餌を捕りに行くというのは、心の中でも、実際の場でも、帰る場所があるから出て行くのだと思います。 また、自分を育ててくれた人が巣穴の外を怖がっているとしたら、本能的にひきこもるを選択するかもしれません。 たとえ、その人と愛着が形成されていても、「そんな人が怖がるんだったら、よっぽど恐ろしい場所なのだろう」と怖さも倍増するかもしれません。 あと、トラウマなど、大きなショックが脳へのダメージとなって、ってこともあります。 人間脳で、ひきこもる人も、近しい人から「巣穴の外は怖いよ」と教わってというように、本脳ではなく、学習の結果ってこともあると思います。 「自分で餌を捕りに行かなくても、生きていける」という学習もあれば、ひきこもることがお得っていう学習もあると思います。 ひきこもりの人と接していると

支援者なんてクソくらい!

内から変えることができた先輩たちは、早々と天国へ旅立ってしまった。 外から変えると言っていた先輩たちは、この地を去っていってしまった。 もうみんな、いない。 外では勇ましいことを言っていたのに、顔を合わせると、持っていた刀をスッと鞘に収め、何事もなかったように握手を交わす。 そして最後まで戦う姿を見ることはなかった。 「俺たちを見ていろ。後についてこい。だから、若いうちにたくさん勉強しろ」 気が付いたら、そう言っていた先輩たちは、いなくなっていた。 こういったこともあってか、私は支援者という人間を心から信じることはできない。 私は、若い人達にこんな話をすることがある。 「障害がある人だって、ない人だって、金持ちの人だって、貧乏の人だって、高学歴の人だって、中卒の人だって、100年後には、みんな灰」 「傲慢な医者、上から目線の支援者、何でも分かっているような態度の相談員だって同じこと」 「どうせ灰になるんだったら、見事な灰になってやろうと私は思っている」 「一度、この世に生を受けたんだから、その命をしっかり燃やし尽くそうじゃないか」と。 今、やっている仕事も、いつ辞めてもいいと思っている。 今日が最後の日になろうとも、後悔がないように1つ1つに全力を注いでいる。 開業当初より、早々と潰されるだろうと思っていたから。 4年目も約半分までこれたのだから、今日一日も儲けもん。 「何故、潰されると分かっていても、この地で起業するのか?」と、先輩支援者たちに裏切られた思いのあった親御さんが、私に尋ねてくれた。 私の答えは、とてもシンプルなもの。 「戦わずして逃げるのが嫌だったから」 どうせ負けるのなら、しっかり燃えて、しっかり灰になろうと思う。 その灰が、土に還り、いずれその土の上に新しい芽が出てくるかもしれないから。 もしその可能性があるのなら、喜んで灰になる。 各地で活躍し、移り住んだ土地に住む子ども達、親御さん達の希望、支えとなっている先輩たちの活動に尊敬の念を抱く。 だけれども、私は支援者としては1ミリも尊敬していないし、信じていない。 時計を止めたどころか、後戻りしているこの地の現状に無関係とは言わせない。 にらまれたって、悪口を言われたって、妨害されたって、あらぬ噂を立てられたって、別に命が取られるわ

構造化された支援が中途半端で終わる理由

構造化された支援が中途半端で終わる理由を、トレーニングを受けた人同士で話し合ったことがありました、もう10年くらい前ですかね。 そこで出た理由が、「構造化された支援ってめんどくさいから」でした。 確かに、ちゃんとやろうとしたら、めんどくさいんですよ。 だって、まず子どもの実態を把握しますよね。 そして、それを元に構造化された支援を行う、もちろん、グッズを制作、準備。 で、構造化された支援を実際に使ってもらい、ここでも評価。 さらに、その評価を元に、再び構造化された支援を作りかえる。 つまり、評価→構造化→実践→再評価→再構造化→…っていうように、その構造化が最適化されるまで、ずっとこれらのプロセスを繰り返すんですね。 特に、子どもさんの場合、どんどん成長しますよね。 ということは、成長のスピードに合わせて、どんどん変えていかなければなりません。 しかも、経験の広がりから、場面の広がりもあります。 ということは、それだけの場面、種類の構造化が必要になりますし、その1つ1つに上記のプロセスを行わなければなりません。 そのため、よく起きるのが、途中で力尽きるケース。 支援者が追い付けないんですよ、その人の成長のスピードに。 だから、本当ならもっと高いレベルで、自由度が高く、自然な形態にできるのに、っていう手前の段階で止まっちゃうんです。 一方、本人も自分のレベルよりも低いレベルの支援で止まっているため、難なくラクに使えちゃうんですね。 この最適化まで続くプロセスのことを知らない人が見たら、「ちゃんと構造化された支援が利いているね」ってなるんです。 この結果、支援者同士、もしくは支援者と親御さんの間で、「この辺でOKね」ってなる、本人の同意が含まれない中で。 本気で構造化された支援、最適化を目指したら、とっても大変ですね。 だから、NCで実際に使われている構造化された支援のグッズは、きれいに作られていない物が多い。 だって、どうせすぐに形が変わり、使われなくなる物だから。 トレーナーの人が、「この構造化は、自閉症の人が作ったのかい。こだわりが強いようだねww」なんていう冗談を言うくらいきっちり同じのが大好きな日本人はビックリするかも。 まあ、1つ1つの構造化をきれいに作り過ぎるから、それを捨てて、次の構造化に行きにくいって

先人たちが伝えたかったことを想う

TEACCHってテクニックじゃなくて考え方。 「TEACCH=構造化された支援」なんて思っている人は、もう絶滅危惧種でしょう。 構造化された支援って、TEACCHの理念、考え方を形にした一つ。 まあ、これくらいは書いても怒られないでしょう、学生時代に読んだ本にも書いてあったし(笑) 私がTEACCHの存在を知ったのは学生時代。 ボランティアで関わって子が、絵カードで確認しながら一人で活動したのを見ました。 「えっ、手で引っ張らなくてもいいんだ!」 「ドラクエみたいに、ずっと後ろをついていかなくてもいいんだ!」 一見すると、しゃべらないし、何にもわかっていないように見えたけど、「こんなアイディアがあれば、この子達は考えて行動できるし、いろんなことを身に付けることもできるんだ!!」って驚きました。 そのあとも、独学で学びましたし、研修、トレーニングにも行きました。 それはTEACCHの理念、考え方が好きだったから。 薬漬けや力関係、赤子のようになんでもやってあげるんじゃなくて、一目では見えない彼らの持っている可能性、彼らが成長できる可能性を信じることができました。 TEACCHのトレーナーの人達や実際、NCで支援している人達を見て、やっぱり学ぶべきことは彼らの考え方であって、本人たちの可能性を疑わないその姿勢だと思いましたね。 彼らが言いたかったことは、とってもシンプルだったと思います。 「その人をちゃんと見なさい」 「その人の特性や成長に合わせて、支援を変えなさい」 「その人がわかりやすいように情報を整理しなさい」 結局、個別化ってことだし、誰も「構造化された支援を使え~~~」なんて言ってないんですね。 つまり、大事な考え方の共有以降は、支援者一人ひとりのセンスが問われるんです。 これじゃあ、困るのが頭ガチガチの人、マニュアル大好きな人、失敗が怖い人、恐怖麻痺が残ってる人…この解説は割愛。 で、解説したいのがギョーカイの人達の困り感。 想像したらわかると思うんですけど、講演会でもいいし、研修会でもいいし、相談でもいい、そこで「その人をちゃんと見て、支援を変えていきましょう。情報も整理してあげるといいですよ。あとは各自のセンスで」って言ったら、ものの10秒くらいで終わっちゃいますよね(笑) それじゃあ、ご飯食べられなく

広がりのあるコミュニケーションの形態を目指す

そういえば、ズボンからコミュニケーションカードをじゃらじゃらぶら下げて歩いていた子がいましたね。 あとコミュニケーションブックといって、分厚いファイルを首からぶら下げていた子も。 確か2010年前後でPECSブームがあり、その頃の子ども達は、結構持っていたと思います。 今はどうでしょうかね。 当時から私はじゃらじゃらCOMカード、分厚いCOMブックを否定的に見ていました。 だって、あれじゃあ、持って歩くの大変でしょ。 首から下げたら、首痛くなるし。 ちっちゃな男の子が、ズボンがずれ落ちるのを必死に上げながら、大量のCOMカードをぶら下げて歩いてるのって、歩きにくいと思うけど。 というか、遊ぶために外出しているのに、これでは思いっきり全身で遊べないって、気になるし。 それに歩くのにリソースを使う子、発達課題がある子にとっては、重りをつけて歩いているようなものだと思いますね。 「これは何かのトレーニングですか」って思うくらい重いのもありました、実際にズボンに下げたり、首から下げたりしたら。 まあ、大量のカード、立派なCOMブックは、支援者にとって安心材料になるのでしょう。 見えない、もしくは見せられない支援の成果を示すことができますので。 「こんなにたくさんカード作りましたよ」 「私って立派な支援者でしょ」 とPRする手段の一つ。 どう考えても、今流行の“子どもファースト”ではないよね。 「この子にとっては、唯一のコミュニケーション手段なんですぅ~~~」っていう人もいましたが、それはどうかなって思います。 子ども達の中には、「このCOMカードの中でしか、コミュニケーションしてはいけない」って思っている子もいますので。 山奥で支援員をしていた頃、ショートステイの子がよく来ていました。 その子達の中には、家庭で、また通学している学校で使っているCOMカードを持ってくる子もいましたね。 で、そういった子の多くは、往々にして持たされてるんですね、支援者、もしくは親に。 だから、食堂に行くときとか、外出に出かけるときとか、遊んでいるときとか、持ってこないんです。 職員もそれに気が付かず、普通に食事を摂ったり、外出したり、遊んだりする。 そうすると、COMカードがなくても、コミュニケーションするんです。 物を使ったり、ジェス

挨拶しないっていうのは、「私は発達援助しません、できません」って言っているようなもの

婦人科以外は、すべて付き添いで行ったと思います。 小さな町ですが、いろんな先生に会いました。 確かに挨拶しない先生は多かったですね、特に本人たちには。 まあ、しゃべってもわからない、きちんと説明できないと思っているのかもしれませんが。 どう接したらいいか分からない、怖いっていうのもあったかもしれませんね。 あからさまに本人の方を見ないようにしていた先生もいましたし、怪訝な顔をする先生もいました。 「次回からは、本人は連れてこなくてもいいから」なんて言うのは、日常茶飯事です。 でも、職員の報告だけで薬出して良いのかなっていう疑問は、常に持ち続けていましたね。 だって、ある意味、職員のさじ加減で、どうにでもなるんですよ。 「全然、眠れません」って言ったら睡眠薬は増えるし、「日中、暴れて仕方がないです」って言ったら安定剤が増える。 そこに支援の質は問われないわけですから。 これって治療になるのかな?っていうか、治す気あるの?って、いっつも思ってました。 ですから、付き添いで病院に行くたびに、どうしてあの先生は〇〇なんだろう?と、接し方について考えていました。 その理由のいくつかが上記に述べたものです。 ある講演会で、本人たちに一切挨拶しない先生が、ぺこぺこ頭を下げているところを見たんですね。 なんだ挨拶できるんじゃん。 同僚の医師みたいな人にも頭下げてるし、ギョーカイや圧力団体の幹部連中にはおべんちゃらも言えてるし。 で、ここで感じたのが、挨拶をテクニックとして捉えてるのでは?ということです。 つまり、自分の仕事をうまくやるための方法の一つであって、利を得るための手段。 加藤清正風に言うと、「お前には、情ってモンがねぇんだよ!!(@真田丸)」って感じですね。 以前、ある子と挨拶の勉強をしたときに知ったんですが、「挨」には心を開く意味があって、「拶」には近づいていくっていう意味があるんですって。 ですから、挨拶には「自分の心を開いて、相手に近づいていく」ってこと。 ということは、診察室で本人たちに挨拶しないっていうのは、「私は心を開きませんし、あなたにも近づいていきません」っていう深層心理が表れているんですね。 これじゃあ、通院しても良くなりませんし、成長もしないでしょう。 だって、もともとやる気ないんですもん。 知的

あなたを支援している人は、どんな“目”をしていますか?

ブログを書くときは、1つ前のブログとの繋がりを意識してます。 もちろん、まったく繋がっていないブログも多いです。 でも、こんなキーワードで昨日のブログと繋がるとは思いませんでした。 「モルモット」 自分で書いていても嫌な文字なんですが、昨晩、ある出来事を知ってしまったんです、直接関わりはありませんが。 私は支援者のいろんな“目”を見てきました。 自分が関わる人の 可能性を、成長を見ている“目” 心を、脳を、身体を見ている“目” 喜びを、苦しみを、楽しさを見ている“目” 過去を、今を、未来を見ている“目” ・・・。 そんな中に、どうしても許せない“目”があります。 それがモルモットを見ている“目” 別の言い方をすれば、目の前の人を見ていない“目”です。 こういった目を持つ人は、目の前の人以外のところを見ています。 その人の持つ障害であったり、問題であったり、支援や治療の結果であったり…。 まず人と向き合ったときに自然と生まれるであろう「人と人の交流」が感じられないんです。 「人と人の交流」はどーでも良くて、もっぱらの関心は自分の趣味嗜好。 なんとかフェチと同じです。 その人の一部分を取りだして、欲情してるんです。 最初から治す気は無くて、個人的に楽しんでるだけです。 とっても不自然だし、キモチワルイことです。 でも、自分は気が付いていない。 もしその人が医師という立場の人だったら、絶対に患者さんを治すことはできませんね。 だって、患者さんという人間を切り離した治療になるのですから。 モルモットと同じですね、得たい情報が得られたら、それ以降は知ったこっちゃないってところが。 親御さんはよく言っています、「なんかあの先生嫌なんだよね」って、当事者の人も。 で、「どんなところが?」って訊きますと、「目」とか、「態度」とか、「雰囲気」とかって返ってきます。 本人や親御さん達は一瞬で見抜くのでしょう、この支援者が自分の、我が子のどこを見ているかが。 支援者としての地位、実力、経歴よりも先に。 私が言っていることは、頭の良い、お偉い先生方には理解されないことでしょう。 「医師が障害、病状に注目して何が悪いんだ」 「その結果が他の人、将来の医療、福祉、教育の発展に活かされるから良いだろう」 というように。

研修で学んだことを形にする前に、することがあるんじゃないの?

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うんうん、わかります。 すぐにやりたいですよね、せっかく研修で学んできたんですから。 特に実践を大切にしている人は、研修を目や耳で聴きながら、頭の中ではすでに自分が接している人の支援を思い浮かべてますもん。 私もそうでした。 研修の何が辛いかって言ったら、この連想を制御すること。 「あの人にはこんなことが…」などと、支援の足し算、引き算、掛け算、割り算を始めちゃうと、その間の研修内容がすっぽり落ちることもありましたので。 でもね、このように早く実践したくてウズウズしてても、帰ってからすぐにとか、夏休み中にガッツリ変えちゃってとか、は止めた方が良いと思うんです。 施設で働いていた頃、2学期の始業式が終わって子ども達が帰ってくると、何だかそわそわしてるんですよ。 で、こう思うわけです。 「夏休みの間に、触発されてきたな」って。 いや、新しい知識や技能、アイディアを取り入れて、より良い教育をしてもらうのは大歓迎なんですよ。 だけれど、1学期の支援に足し算、引き算じゃなくて、ポンと「私がどこどこに行って研修してきました系」支援が現れるんです。 まあ、1学期の支援はそのままで、「研修してきました系」が加わるのはいいんですが、最悪なのが1学期の支援を無くしちゃって、替わりに「研修してきました系」にしちゃうやつ。 「おいおい、1学期の支援は何だったのよ」ってツッコミたくなるやつですね。 あの~、学校はシステム上、夏休みという期間を挟みまして、“新”学期なんて言われますが、子ども達には連続性があるんですよ。 1学期に教えてきたことがまだ見える形の成果として出ていないかもしれませんが、子どもの中では学びが積み上がっている途中ってこともありませんかね。 もう少し継続していればできていたかもしれないのに、スパッと変えちゃってモッタイナイ。 成長のタイミングと、研修のタイミングは必ずしも一致しているわけではありませんので。 「1学期で成果が出なくて~」 「こっちの(私が学んできた最新の)支援の方がより良いと思うんで~」 なんて言ってましたが、4ヶ月間もかけて成長の糸口すら感じられないのをやり続けていた人が、夏休み中、ちょっと研修に行ったからって急激にウデが上がるとは思えないですがね~。 どんどん新しい支援を取り入れて変えていく人を「熱心な

療育を選ぶ権利

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子どもは「夏休み」と言いますが、ギョーカイ的には「書き入れ時」と言います(ブ) 研修費を持った人がお客さんの中心ですから。 フツーの週末とは違って、数日間で、しかも高額設定ができます。 受講する側も、ナントカ療法を教わるだけなので、高額の方が良いんですね。 えっ、意味が分からない? つまり、ナントカ療法を教わっただけでは自己満足にすぎないんですね。 自分が関わっている人の問題が解決したり、ポジティブな変化が見られたりしたら、ナントカ療法の研修を受けた価値が出ます。 ということは、自分が受ける研修が意味のあるものか、効果があるものかは、自分の場所に戻ってから、しかも実際の結果が見えてからしか分かりようがありません。 だから、高額の方が「自分はすごい研修を受けている」感がより味わえて良いんですね。 本当に価値のあるもの、本物って、研修を受けなければできない療法のことを言うんじゃないと思うんですね、私は。 しかも、数年に渡って高額な研修費を、で、ライセンスが認められたあとも更新し続けないといけないなんて…。 これって欧米的だし、「知的財産権」とか言いながら、ただの儲ける仕組みでしょ。 本当に当事者の人達のことを考えて、本当に自分たちの療法がすばらしいと胸を張って言えるのなら、どんどんアイディアや方法を開放していくべきだと思いますね。 誰でもやりやすくて、知ったその日からできて、どんどん自分のアイディアで変えていける。 こんな療法こそが、当事者の人達を中心にした本物だと言えるのでは。 日本の伝統工芸じゃないけれど、師匠の姿を見て盗み、自分の味が出せる余白がある学び方、伝承の仕方、こっちの方が日本人には合ってると思いますし、私は好きですね。 夏休みは、連日、全国のどこかで研修が行われています。 もちろん、学ぶことは大切なこと。 でも、研修を受けることが目的でも、ゴールでもないんですね、当然、ライセンスを貰うことも。 「ABAが優れている」 「いや、てぃーちが優れている」 なんていう言い争いは、ホント下らないこと。 こういうのは、実践する人には関係ない話(ブ) これに乗っかって、自分が受けてきた研修のナントカ療法が「優れている」とか声高々に言ったり、とにかく2学期が始まったらやろうとかしたりしてはいけません。 あのね、ナン

山登りをしてコミュニケーションの勉強

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山登りをしていると、すれ違う人同士で自然と声が交わされます。 「こんにちは」 「日陰は気持ちいですね」 「もう少しで頂上ですよ」 「頑張ってくださいね」 「あっちにきれいな植物が咲いていましたよ」 山登りする度に、私は思うんです。 これってコミュニケーションの勉強だなって。 コミュニケーションや人と接することが苦手な子も、最初は声を掛けられても、返事はしない、顔も合わせないだったのに、歩を進めていくうちに、すれ違う人の方を見るようになり、声は出なくても軽く会釈をするようになり…下る頃には自分から挨拶するってこともありますね。 有酸素運動で脳の活性化、呼吸が深くなりリラックス、不安定な道を歩くことで足や土台への良い刺激や身体の余分な力が抜けること、身体を通した体験が同じ体験の人への共感を補助、自然な揺らぎがある環境など、様々な理由、効果があるのでしょう。 私には理由を特定することはできませんが、家、部屋、施設で勉強をするよりも、外に出た方がより良い変化が見られるって人がいますね。 以前、家で座って勉強していると、言葉がスムーズに出なかったり、考えるように促しても「わかりません」ばかりだったりする子がいたんです。 で、あるとき、その子と散歩をしました。 そしたら、言葉のたどたどしさが見られないし、考えて行動するし。 だから、その子との勉強は外でやることにしたんです、歩きながら。 苦手だった人間関係の勉強するとき、「相手はどう思っただろう?」「これからはどうしたら良いだろう?」などの問いかけに、しっかり考えて答えるようになったんです。 そして学校でも、その子の行動が変わりました。 この件から外も勉強する場の一つに加わりました。 20代の頃は、がっちり環境調整、がっちり視覚的構造化で、SSTだった私ですが(笑) もちろん、環境調整が必要な場合はありますが、構造化された環境、構造化された方法じゃないと発達を促せないってことはないですしね。 二次障害を持っている方とか、不登校やひきこもり状態の方とかと一緒に散歩したり、ジョギングしたり…海辺で裸足になって歩きながら話を聞くってこともあります。 これを繰り返していくうちに元気になる方も少なくありません。 特別なことはやっていませんが、相手の方と向き合っていて「ここじゃないな」と感じ

直接かかわるスタッフも「限界です」と堂々と言えば良い

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「みなさん、もう限界なんじゃないですか?」 スタッフの方達は、この言葉を待っていたのかもしれません。 そのあと、堰を切ったように自分たちがどのような怖い想いをして勤務しているのか、いっそのこと退所してくれたらと思う、という本心を語ってくれました。 そりゃあ、怖いですよ、自分たちに向かってくる人は。 特に夜間帯は、1人勤務。 他にも入居者さんがいるのに、その人が問題を起こしたら…。 実際に、度々問題を起こすので、宿直者は一晩じゅう緊張しっぱなし。 スタッフの方達は、かなりのストレスだったと思います。 福祉に携わる人間だって、一般の人と同じような感情を持ちます、敢えて言うことではありませんが。 それなのに、そういった感情を表に出すことができなかった。 最初に、相談したところが悪かったのです。 「障害を持った人達は、つらい想いを沢山してきました。だから、まず受け止めましょう」と、成人の生活支援系。 そして次は、「自閉症とは。構造化とは。問題行動が起きるのは、支援が至らないのです」と、発達支援系。 う~ん、選択ミス。 問題が治らないのは、「まだ心に寄り添っていないからだ」と言われ、「またきちんと構造化できていないからだ」と言われ…。 違う畑から来たスタッフは、福祉の中でも発達障害の人たちの支援を中心にしてこなかったスタッフは、「そうかな。自分たちが至らないからだ」と思えてくる。 で、だんだん本音に蓋が覆いかぶさってくる。 自分たちに経験や実績、自信がない人達は、「専門機関」という文字に弱いですね。 確かに自分より知識は持っているかもしれない。 でも、彼らの視界に映るのは、障害を持った人だけです。 直接かかわる現場のスタッフのことなんか考えていないのです。 だって、スタッフの本音を語らせないから。 いつも彼らの主張には矛盾を感じますね。 「障害を持った人の気持ちを受け入れましょう」と言うのなら、直接かかわるスタッフの気持ちも受け入れろって。 当事者の人が「限界」って言ったら、無理させないくせに(ブ) 「支援が至らない」と言うのなら、自分たち押しの支援方法ではなくて、別の支援方法を教えてくれって。 なになにライセンス、家元争いの関係があるって…知ったことかっ!(ブ) 彼らが望む社会というのが、誰かの我慢、犠牲の元に成

親御さんにとっても、待ち望んでいた夏休み

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7月は扇風機の出番がないくらいの涼しさだったのですが、8月に入った途端、夏らしい夏になりました。 今日は函館でも30度越え。 九州人の私は、30度超えないと夏じゃないよねって感じです。 まだまだ余裕(笑) 函館の子ども達も、短い北海道の夏を楽しんでいるようで、外から元気な声が聞こえます。 夏休み真っ只中ですからね。 私が子どもの頃も、肌も、服も、真っ黒になりながら、外で遊んだ記憶があります。 あと夏休みといえば、思いだすのが母親がいつも言っていたこと。 「他の家では“早く夏休みが終わってくれれば”なんて言うけれど、私はそうは思わない」という言葉です。 私は外で遊んでもいましたが、母親が弟と一緒にあちこち連れていってくれた記憶があります。 今思い返せば、夏休みだからできる体験をさせてくれていたのでしょう。 どうしてこんなことを思いだしたかと言うと、高校生の息子さんを持つお母さんが「私が手をかけられるのは、後3年間しかないので」と言っていたからです。 息子さんは今春から地元を離れ、地方の高等部へと進学しました。 その息子さんが帰ってくる夏休みに、いろんな体験や学びをさせたいということで、一緒に方法や計画をあーだこーだ言いながら考えたのが先月の話です。 そのとき、上記の言葉が聞かれたのです。 息子さんには知的障害もあります。 ですから、小学生の頃から長い期間をかけて「高校を卒業したら働くこと」「高校を卒業したら家から出て、暮らすこと」を丁寧に伝えてきたのでした。 そして、とうとう自分が言っていた“そのとき”が3年後に迫ってきた。 また息子さん自身も、そのつもりで高校での勉強を頑張っている。 だからこそ、「夏休みの期間も、親としてできることを1日も無駄にしないようにしたいんです!」と言っていました。 この夏休みは、“一人での外出”に取り組むことにしました。 近いところから遠いところへ。 歩いていけるところから公共交通機関を使っていくところへ。 遊びメインの外出から、公共施設の利用や生活用品の買い物などに行く外出へ。 長らく問題行動があった男の子だったので、なかなか外での活動、特に単独行動は取り組めずにいたのでした。 ようやく準備が整い、この夏、開始できます。 親御さんは、ご両親で協力しながら、毎日、外出の計画を立