2016年12月30日金曜日

不満を持たれるような事業所を遺しているのは誰か?

サービスに不満があっても
子どもがイヤイヤ通っていても
全然支援してくれなくても
ただ部屋に鍵をかけて、見ているだけでも
ただ時間つぶしをしているだけでも
成長どころか、むしろ問題が増えても
スタッフが素人でも
通ってくれれば、1万円が入る仕組みになっているのです、児童デイは。
もちろん、より良い支援を、より良い時間を、と考え、技術とサービスの向上に努める児童デイはたくさんあります。
でも、それは個人という“人”がそうしているのであって、仕組みがそうなっているわけではありません。


お子さんが通っている児童デイの不満を言う人がいます。
「でしたら、通わなければいいじゃないですか?」というのが、私の意見です。
だって、お子さんの大事な時期、大事な時間なのですよ。
いくら放課後の数時間だったとしても、その子にとっては学びと成長の時間です。


私がこのようなことを言うと、「そもそも児童デイに期待していない」「怪我さえしなかったら、それで良い」「子どもが楽しんでいるようだから」などと返ってくることが多いですね。
児童デイは自腹で1万円を払っているわけではないので、「まずいけれど、使えるもんは使っとこ」という感じでしょう。
「放課後も、将来に向けてより良い時間を過ごしてほしい」と仕組みができ、予算がつき、広がってきた児童デイも、結局、誰の時間を良くしたのか、って感じです。


あと多いのが、「家で過ごせないから」という意見。
だから、不満があっても児童デイに通いますっていうのです。
でも、だったら、家で過ごせるようにするのが優先事項じゃないですかね。
家で過ごせない子が、児童デイに通ったからって家で落ち着いて過ごせるようになるわけではありません。
家で過ごせない子が、年齢を重ねていったら、どうなるでしょうか?
いつかは家で過ごせない“子ども”が、家で過ごせない“大人”になるのですよ。
卒業後、みんながみんな、グループホームや入所施設に入れたらよいけれど、もし通所施設しか利用できなければ、どうしますか、家での時間を。
休みの日だってありますよね。
ですから、児童デイの不満を言っている場合ではありません。


子どもの大事な時期、時間を不満があるような場所に通わせないでほしい、というのが私の願いです。
それは我が子にとっても、後輩たちにとっても良くないことなのですから。
冒頭で述べたように通い続けることで、事業所には1回1万円が入ります。
この1万円が入り続ける限り、事業所は続いていきます。
どんなサービスをしようとも、ただ見ているだけでも、事業所はやっていけるのです。
つまり、不満を持たれるような事業所を生き延ばしているのも、サービスが向上していかないのも、実は不満を持ちながらも利用している人がそうさせているともいえるのです。
いくら利用者の内側に不満があろうとも、事業者にとっては通う=支持されている、ということになってしまうのです。
後輩たちに、不満を持たれるような児童デイ、福祉資源を遺しているのは誰なのでしょうか?


児童デイだけではなく、就労支援、相談支援の事業所など、「無料だから」と言って、不満があるのに通い続けている人がいるから、どんどん質の低下を招いているのだと思います。
不満があるのなら、私にではなく、直接、言葉に出して、態度に出して、行動に出して表現しなければいけません。
一人ひとりがはっきり「支持しない」と表明する必要があるのです。
それが特別支援の質の向上へとつながり、未来の子ども達へのより良い支援へとつながっていくのです。
あなた達が嫌うギョーカイを生き延びさせているのは、不満を持ちながらも利用し続ける人達です。
ですから、もともとギョーカイを嫌い、ギョーカイと距離を取り、ギョーカイを潰そうとしている私に不満を言っても、何も変わらないのです。


不満があるということなので、利用していても、当然、お子さんの成長は期待できないでしょう。
それに親御さんが裏腹な態度をしているのでは、お子さんはまっすぐ育ちません。
そういうのが、分かりづらいのが、自閉っ子の脳みそでしょ。
混乱しちゃうのが、自閉っ子の脳みそでしょ。
誤って理解し、記憶し、実践しちゃうのが、自閉っ子の脳みそでしょ。
親御さんが内なる基準に沿って選択ができない、行動に移せない、いくら嫌な相手でも、いくらダメだと分かっていても「NO」が言えない、態度に出せないというのは、自閉っ子にとっては困るのです。


税金を使うことがダメだと言っているわけではありません。
でも、使うからには、良いものを遺してほしいと思うのです。
それは我が子の成長のための時間を、将来のための時間を。
そして、これから生まれてくる後輩の自閉っ子達のために、地域に良い資源を。
大人が「ダメなものはダメ」とはっきり伝え、行動することが、自閉っ子を育て、事業所を育てるのです。
一人ひとりにできることはあります、社会を良くするためにできることが。

2016年12月28日水曜日

「児童デイをやりませんか?」と言われて

児童デイと言えば、「一緒に児童デイ、やりましょう」とか、「大久保さんも、児童デイを起ち上げられたら」とか言われることがあります。
また「見学に来てほしい」とか、「アドバイスください」などというのもあって、実際に伺ったこともあります。
でも、児童デイを起ち上げる気もないし、(今のところ)業務提携した児童デイはありません。


児童デイをやりましょう系の人達は、だいたい顔に『金』の文字が書かれています。
人と建物さえ確保できれば、簡単に儲けられる、というのが頭にあるのでしょう。
そうですよね、1日1万円の公金で、オープンすればお客さんの方からやってくる状態ですから。
商売すること自体は悪いとは思いませんが(私も商売してますし)、商売する気で児童デイをやるなら、ちゃんと商売の勉強されてからお越しくださいね、って感じです。
ただ単に、私の経験、私の名前、私のお客さんを当てにしてすり寄ってくる人が多すぎです。
「支援は大久保に任せておいて、自分はお金儲けを…」というのがバレバレ。


そうは言うものの、今の事業を起ち上げる前は、児童デイの形態も考えなかったわけではありません。
一緒にやろうとする仲間もいたので、どうしようかなって思うこともありました。
でも、私は経営者にはなりたくなかったし、組織を作るつもりもなかった。
ただ「自閉症の人と直接向き合って支援がしたい」という想いが強かったのです。


私は経営の勉強などしたことがありませんし、商売はズブの素人です。
それに組織を作れば、人を育てなければなりません。
この仕事をしていて思うのですが、支援者を育てるなんていうのは無理な話です。
育ててもらおうなんて思っている人は、ハナから育たないし、自分で育っていこうと思う人しか育っていかない、と考えています。
だいたい支援というのは、センスです。
いちいちアセスメントシートを取りだしてアセスメントしているような人に、支援者は向いていないのです。


人と人とが向き合う仕事なんです。
同じ人でも、同じ状態ということはありません。
刻一刻と変化しますし、その人の持つ資質や成長する力、課題や未来の姿などは目に見えないものです。
常に変化し、目に見えないものを援助する仕事である支援者は、勉強して、資格を取ってうまくなるようなものではありません。
もちろん、知識と技能を獲得していくことは大事ですが、それ自体が目的ではなく、センスを磨くことが目的だと思います。


私は経営の素人で、支援者を育てることは無理だと思っています。
ですから、児童デイを起ち上げるつもりはありません。
業務提携した児童デイがないというのも同じ理由で、私がポッと行ってアドバイスしたり、実践したりしても、ただのモノマネにしかなりません。
「こう実践していたから」「こうアドバイスされたから」といって、常に変化し続ける子どもさんに同じ支援していたらダメでしょ。
私も日々支援していますが、訪問するまでは「こんなことをしよう」と頭にあっても、本人と会った瞬間に内容を変えたり、順番を変えたり、実践していく中で本人の反応を見て変化させます。
まあ、当然といえば、当然のことなのですが。
私は間接的にだったとしても、子どもさんのマイナスになるようなことはしたくありません。
あとは、見学した児童デイで「我が子を通わせたい」と感じたところがなかったのも大きな理由ですね。

2016年12月27日火曜日

見えるものにこだわりだしたら、賞味期限が近いぞ、支援者は

スーパーに行くと、山積みされたチキンが置いてありました。
つい2日前までは、「クリスマスチキン☆」なんて言われてもてはやされていたのに、今は値引きのシールが貼られ、賞味期限を待つばかり…。
中には、「お正月のご馳走に」なんて顔(いや、足?)で並んでいるのもあるけれど、どう見てもクリスマスの売れ残り。
いくらパッケージを変えても、賞味期限が迫っているのは変わりがありません。


特別支援の世界に入って15年くらい経ちますが、支援者の賞味期限がわかるようになりました。
だいたい支援者っていうのは、見えるものにこだわりだしたら、賞味期限が迫ってきてるんですね。
例えば、やたら魅せる支援グッズを作りだしたり、なんでもかんでも資格を取りだしたり。
他にも、高価な専門書や支援器具を集め出したり、やたら著名な支援者と知り合いになろうとしたり。
Facebookでどんな人が友達か、何人友だちがいるか、「いいね!」の数なんかにこだわりだしたら、もう賞味期限はすぐそこまでの5割引シールです。
で、自分で専門用語や資格、グッズを作りだしたら9割引シールで、それに万単位のお金を取りだしたら廃棄商品状態で、もう支援者ですらなくなります。


一方で、鮮度の良い支援者というのは、見えないものにこだわる人だと思います。
子どもの成長や未来、発達課題や気持ちなど。
変化として確認することはできるけれど、それ自体は見ることができません。
でも、本人の生活、人生にとってはとても重要な意味があるもの。
この見えないものを援助するのが支援者の役割であり、存在意義なんです。
だからこそ、見えないものにこだわる人が支援者であり続けられる。


しかし、見えないものにこだわり続ける、というのは、大変なことでもあります。
だって、見えないのですから。
子ども自身も、親御さんも、他の支援者も、見ることができません。
ですから、支援者自身に揺らぎが出るのです。
「自分の支援が正しいのか?効果があるのか?」
実際に、親御さんや他の支援者から言われることもあります。
で、大半の支援者というのは、資格や肩書なども見えるもので、相手、または自分自身の心をねじ伏せようとする。
揺らぎへの抵抗が見えるものへのこだわりとして表れるのだと思います。


見えるものというのは、ラクなんですね。
「私の支援は効果がありますよ」と見せるのも、取得するのも(だいたいはお金があれば手に入れられるので)。
ですが、ラクな分、ハマりやすく、またハマればハマるほど、子どもから、支援者の役割から遠ざかっていく。
支援者の役割は、子どもの成長、発達、課題を援助することですからね。
子どもさんにとっては、資格があるかどうかよりも、治す支援者が良いに決まってます(もちろん、親御さんにとっても、社会にとっても)。


支援者は、見えないものにこだわり続けなければいけません。
そして、こだわり続けるには、見えるものに逃げないためには、信念が必要だと思います。
私の支援者としての信念は、「その人の内側に成長する力、発達する力、解決する力がある」というものです。
ですから、私の支援は、「邪魔をしない」「阻害しているものを取り除く」「持っている力を引き出す、加速させる」になります。
そのために日々、必要な知識、技能を身に付ける努力をしていますし、信念があるので揺らぎに動じず、支援者としての役割を見失わなくて済むのだと思います。


本物の支援者は、みなさん、信念を持った人ですし、見えないものにこだわり続けている人です。
また他人から見えない場所で、おのれの腕を磨くための努力が続けられる人。
信念を持たない人、失った人から、揺らぎ、見えるものへと心が奪われ、支援者としての賞味期限が近づいていきます。
こういった支援者は、まるでスーパーに山積みされたチキンのようです。
信念がないので、新年が迎えられずにオサラバです。
チキンなので、ギョーカイと闘うことができず、支援者としてはレイムダック、死に体ですね(ブ)

2016年12月23日金曜日

福祉の世界で感じた体育会系のノリ(ブ)

小学生のとき、地域のサッカークラブに入っていました。
中学校にはサッカー部があったのですが、一度見学したら入部したい気持ちがなくなったのです。
雰囲気が合わないと感じたから。
どうも私は体育会系の雰囲気が合わないというか、嫌いなようです。


身体を動かすことは好きだったので、体育会系の匂いが少ない陸上部に入り、高校は憧れの高校球児に。
高校野球といえばバリバリの体育会系ですが、私が入学した高校は同好会の雰囲気があったので、入部を決意しました。
で、3年間、野球部で目一杯スポーツを楽しみ、大学では体育会系の匂いを嗅ぐことなく、4年間を過ごしたのです。


長く避けてきた体育会系の匂いを再び嗅ぐことになったのが、社会人になってからです。
配属された施設の扉を開けた瞬間、そこはまさに体育会系の匂い。
部室のような淀んだ空気に、職員から漂う体育会系の雰囲気。
心身共にタフさが求められる施設だからこそ、こういった人員が求められるのだ、と解釈していました。


私も働き出して数年が経つと、後輩たちも大勢入ってきます。
すると、体育会系の雰囲気を持った人が多い多い。
どうして体育会系ばかり?と思っていたら、その答えを教えてくれた後輩がいました。
「専門学校でも、福祉系の大学でも、就職先が決まらない学生の中で、「とにかく体力だけあります!」みたいな学生がいたら、福祉施設を勧めるんです、担当教官も、就職担当の職員も」
これを聞いて、なるほどと思いました。


私は教育大だったので、福祉の世界はぜんぜん知りませんでした。
でも、気が付けば、福祉施設には保健体育の免許を持つ人が少なくない。
私のような特別支援の教員免許と同じくらいいる。
つまり、保健体育の教員は、小学校や特別支援学校、中学高校の主要五教科の採用と比べて、かなり採用枠が少なく、免許を持っていても、よっぽど優秀な人でない限り教員として働くのは難しい。
そうなると、福祉が就職候補に上がってくる。
だって、教員免許ほど、潰しが利かない免許はないから(ブ)
ほとんどの教員は、教員以外で働くのは難しい人ばかり(ブ)(ブ)
だから、体育会系の人が福祉の世界に集まりやすいのだと思いました。


上を見ても、体育会系ばかり。
下を見ても、体育会系ばかり。
そりゃあ、いくら療育の考えが入ろうとも、ノリは体育会系から変わらない。
自分たちが知っているのは、先輩からのしごき、監督からの理不尽な懲罰、とにかく耐えれば&鍛えれば身につく、という受けてきた指導。


よく福祉事業所で、職員からの虐待の話が出てきますが、あれは本人からしたら指導しているつもりでいるのが多いと思います。
だって、きちんとした指導方法なんて知らないし、モデルになるのは部活の先輩と監督くらいだから。
「遊びのつもりで」とか、「スキンシップで」とか、「利用者さんには愛情を持って接してきました」なんてコメントする職員もいますが、あれは全部体育会系のノリで利用者さんと関わっているだけ。
それが社会一般では認められない行動だし、外から見れば虐待、イジメにあたることに気が付いていない。
だって、体育会系のノリでは許されてきたことだから。
こういう社会一般の常識は上司が指導するはずなんだけど、上司も体育会系だったりすると、一緒に楽しんじゃうバカもいるのです。


障害者福祉の世界にいましたが、そこにいたのは兄弟に障害を持った子がいた人、自分がしてほしかった支援をすることで、過去の自分を癒そうとする人、弱い立場の人と関わることで、自分の存在意義を確かめようとする人、そして体育会系の人ばかり。
志をもって福祉の世界に進んできた人も少なからずいますが、そういった人は長く施設にはいないのです。
大学時代、飲み会でバカ騒ぎしている学生を横目で見て、「私は、こんなつもりで大学に入ったんじゃない」と嫌悪感を懐きませんでしたか?
あのときと同じ気持ちになるのです、福祉の世界にいると(ブ)
ですから、志ある者は福祉の世界に入ると、すぐに出たくなるのです。

2016年12月22日木曜日

私の周りにいる皆さまへのお願い

私が『てらっこ塾メソッド』なるものを発表したら、止めてください。


この世に完全なるオリジナルのものなどは存在しません。
それはただ私が過去に学んだこと、教わったこと、知ったことを寄せ集め、勝手に名前をつけているだけです。
目新しいものではなく、あたかも価値のあるようなものに見せかけるためのテクニックの一つなのです。
現状がうまくいっていない人に「もしかしたら、このメソッドがあれば、現状を変えられるかも」と淡い期待を持たせ、ひっかけるためのものなのです。


第一、どんな人にも効果のあるメソッドなど、存在するはずがありません。
一人として同じ人間はいません。
特に発達の凸凹が大きい発達障害の子ども達を一色単に、またはいくつかのカテゴリーに分けられるなんてことはあり得ないのです。
いくら文明が進化し、時代が進もうとも、人を育てるためのマニュアルはできません。
いつの時代も、人を育てるのは個別の試みであり、アナログの作業なのです。
その原理原則から離れるのが、メソッドの発表です。
ですから、メソッドの発表を始めたら、「こいつは金儲けに走った」と捉え、叱ってください。


私が仲間を集め出したら、止めてください。


それは自分自身の心を満たそうとするための行為です。
群れを作る際、自分より優位な人ばかりを集める人はいません。
どこかで「こいつよりも、自分の方が優れている」という思いが持てる者を集め、群れを形成するものです。
つまり、自分より劣っていると感じる人達を周りに置くことで、「自分ってすごいかも」という優越感を持とうとしているのです。


仲間を作ると、優越感を得られますが、一方で群れを維持するために養う必要がでてきます。
当然、腕の悪い仲間もいます。
群れが大きくなればなるほど、腕の悪い仲間が増えていくわけで、その分のお金が必要になります。
そうなると、私は直接的な支援以外でお金を稼がなければなりません。
私のような商売の素人でも思いつく方法は、きっとグッズを売りだすか、ライセンスビジネスでしょう。
ライセンスビジネスは、すぐに合格してもらっては困りますし、受講者同士で競争心をあおった方がより長く儲けられるので、レベルを何段階か作り、更新制にするはずです。
経費を考えれば、ほとんどかからないのに、アセスメントや受講、また更新手続きに万単位のお金がかかるのは、そういった仲間を養うための経費が含まれているのです。


SNSで集合写真をアップし始めたら、支援者としての終わりの始まりです。
集合写真のど真ん中に陣取り始めたら、末期症状です。
既に支援者としての寿命はつきています。
何故なら、支援者とは中心に立ちえない存在だからです。


支援をする際、中心にいるのは、常に子どもです。
子どもが持つ資質、子どもの内側にある伸びたい力を援助するのが役割。
人生の主人公は、その子であり、伴に歩んでいくのは、家族、パートナー、友人。
そこに、いつまでも支援者の場所はないのです。
支援者は役割を終えたら、すぐにその子の人生からフェードアウトしなくてはいけません。
それが“自立”であり、親御さんと社会が求めていることだから。
集合写真の中心にいたら、フェードアウトしにくくて仕方がありません。
支援者とは、常にすぐにフェードアウトできる位置にいなければいけません。
ですから、仲間を集め出したら、それは自分自身の支援を始めた証拠です。
ひと様を支援するから支援者なのです。
支援者の役割を放棄した私には、支援者を辞め、まずは自分自身を治すよう忠告してください、子どもさんと親御さんの迷惑になりますから。


私が奇抜な格好をし始めたら、止めて下さい。


子どもを支援するのに、奇抜な格好は必要ありません。
子どもは、ラクにしてくれる人、発達と成長を援助してくれる人を求めているのです。
奇抜な格好をするのは、自分のことを特別な存在で見て欲しい、という欲求の表れです。
または、カリスマ性を持たせるためのキャラづくりです。
キャラがはっきりしている方が、本物を見抜く目を持たない人にとっては目立つ存在に映ります。
「カリスマ先生に任せている」という安心感と、「カリスマ先生に任せているんだから」という責任転嫁でラクをしたい人をひっかけるためのものなのです。
支援者がカリスマかどうか、本物かどうか、は子どもの変化のみによって決められるのです。
ですから、奇抜な格好をし始めたら、「そんなことに割く時間があったのなら、腕を磨くために時間を使え」と叱ってください。


もし、皆さまからお叱りを受けたあとも、私の行動が改まらなかったら、どんどん批判し、この事業を潰してください。
今まで私が批判し続けてきたギョーカイと同じように、子ども達、親御さん達、社会の足を引っ張りたくはないのです。
これが最後のお願いです。

2016年12月8日木曜日

愛着障害と支援者

今日の午前中は、頭の中からこの言葉が離れませんでした。
「愛着障害と支援者」
今朝、このことについて考えるきっかけをいただいたからです。


私は、愛着障害を持つ支援者は嫌いです。
というか、愛着障害をまったく持たない人はいないので、自分のそれに気が付いていない支援者が嫌いです。
なぜなら、子どもに自分自身を重ねちゃうから。
なぜなら、私に寄りかかってくるから。


自分の愛着障害に気が付いていない、または意識が及んでいない支援者というのは、自分がしてほしい(してほしかった)支援、言ってほしい(ほしかった)言葉を子どもに行おうとします。
本当は自分自身の内なる声なのに、あたかも目の前の子どもから発せられているように感じてしまう。
よりリアルに感じられるので(もともと自分の内なる声だから)、その子の状態、発達段階、ニーズが目に入らなくなっちゃうんですね。
見ているのは自分自身ですから。
これじゃあ、子ども側のニーズと自分が行いたい支援の間で不一致が生じてしまいます。


また、「その支援、子どものニーズに合っていない」「こっちの支援のほうが良いのでは」などと他の人から言われると…
自分の支援が否定された→自分(過去も)否定された→(私はこんなにも子どもの気持ちがわかるのに←いやいや、それはあなたの内なる声だから)あなたは子どもの気持ちがわからない支援者だー、となってメンドクサイことになります。
全然、話し合いにならないんですね、支援ミーティングとかでも。
途中から感情論みたいになって、純粋に子どもの話ができなくなってしまう。
いつの間にか、支援者自身の話みたいになっちゃうことが多々あります。
より良い支援を作り上げるのではなく、自分の支援、というか、自分自身を認めてもらうことがメインに。


このように、自分自身の愛着障害に気が付いていない支援者というのは、子どもの支援をやっているようで、自分の愛着障害を癒そうと動いてしまっていることがあります。
そうなると、ひと様の支援なんてできないですよね。
たまたま自分のニーズと、子どものニーズが一致すればよいでしょうが。


あと、私自身が困るのは、支援者同士だったはずなのに、途中から寄りかかってくることです。
「私は、あんたの支援者じゃねー」というヤツです。
普通の大人同士、ビジネスパートナー同士だったら、「やらんだろう!」というのを平気でやってきます。
失礼な態度、目的が“反対”になっちゃってる意見、支援の話と言いつつ自分の話を一方的にして聞いてもらおうとする、なんでも認めてもらおうとする、称賛を受けたいなって態度をする、注目を集めようとわざと場にそぐわない行動をする…。
私は「支援者のマスターベーション」と呼んでいるのですが、目的のわからない不必要な支援ミーティングを度々開き、お互い称賛しあうってヤツも、一種の甘えであり、愛着障害の表れだと思っています。
まあ、「私を使って自分の回数券を切ろうとするんじゃない」って思いますね。


ひと様の支援を行う者は、自分自身の愛着障害に気が付いてほしいし、意識してほしい、と思います。
また、その愛着障害について、自分自身で乗り越えようと行動できる人、そして乗り越えられる人が、より良い発達援助ができるようになるのだと考えています。

2016年12月6日火曜日

そろそろ「早期療育」の結果が出る頃では?

そういえば、そろそろ“早期療育”の結果が出てもおかしくない頃ですね。
私が学生だった頃、「早期療育で、子どもの将来が変わってくるんですぅ~」「日本でも早期療育を~」なんて言われ始め、実際にせっせと診断し、せっせと療育をやっていましたから。
もう15年くらい経ちますので、成人している人達もいるはずです。


「早期療育のおかげで、私は一般就労できました!」
「早期療育のおかげで、息子は支援者の手を借りず、自立して生活できています!」
という言葉は聞こえてきませんね。
私が知る限りでは、早期療育を受けてきたお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、どっぷり支援に浸かってしまっている。
自立どころか、支援、または支援者から抜け出せなくなっている人ばかりです。


確かギョーカイ連中が「早期療育をー」と叫んでいたとき、「将来の自立につながる」と言っていました。
でも、全然自立してないじゃん。
むしろ、どっぷり浸かって、「支援がなきゃダメ」みたいな体になってるんじゃん。


何を始めるにも、「まずはソーシャルストーリーを書いてからじゃないと~」とか、「活動のスケジュールを用意して~、手順書も、COMカードも」とか、「問題が起きたから、〇〇さんに相談しなきゃ~」とか…。
本人もそうだし、親御さんもそう。
あることが当たり前になって、ないと不安になる。
これでは、どんどん可能性は狭まるばかりで、ギョーカイの言う「自立」ではなく、本当の「自立」は遠のいていきますよね。
これがギョーカイが訴えてきた早期療育の結果なんです。


ギョーカイが早期療育をして何を得たか?
そう、長く付き合えるお客さんですね。
早期療育とは、自分たちが支援で関われる期間を伸ばし、他の機関、人達にお客さんを奪われないようにするための(姑息な)アイディア。
簡単に言えば、親も、子も、よく分かってないうちに唾をつけておこう、ということ。


「子どもの将来、支援がなくとも、支援が必要でもより少なく生きていけるように」が早期療育の目的であり、社会全体にとっても意義のあることなのです。
それが、自分たちのギョーカイを永らえるためしかなっていなかったとしたら…言語道断ですね。
こんなことをしていたら、社会からそっぽを向かれ、結局、自分たちの首を絞めるだけ。
まあ、そもそもギョーカイという小さな世界の尺度だけで生きている人達には、社会のニーズには応えられないか(ブ)
最初から彼らに“自立のための”早期療育は無理な話だったのです。


いま、社会の中で活き活きと生活している若者たちをみると、みなさん、早期療育を受けてこなかった人ばかりです。
というか、受けていたとしても、療育から離れていって、どっぷり浸からなかった人たち。
ですから、将来の自立に必要なのは早期療育ではないんですね(もちろん、早期からの発達&成長は必要ですよ)。
いくつになっても、発達するし、成長します!


今思うと、ギョーカイが言っていた「早期療育」の意味に気づけるかどうかが、運命の分かれ道だったような気がします。

2016年12月2日金曜日

支援者ってキモチワルイ仕事だなぁ~

支援者って、つくづくキモチワルイ仕事だと思います。
だって、親でなければ子でもない、親戚でなければ友達でもない赤の他人が、「支援」の名のもとに他人の生活の中に入りこんでいくのですから。


私が支援を受けるんだったら、「ほっといてくれよ」「なんで、あんたに相談しなきゃならないんだよ」「どうして、私が困っている前提なんだよ」って思うはずです。
もし自分から望んで支援を受けたとしても、相談することの恥ずかしさ、嫌悪感はあるはずで、できれば早く課題を解決して「この人とオサラバしたい」と思うでしょう。
決して「ずっと支援を受け続けたい」とは思いません。


「生涯に渡る支援」という言葉を耳にすると、これは当事者の口から出た言葉ではないと思うのです。
できれば、「支援を受けずに、自らの足で歩きたい」と思うのが、自然な感情だと思います。
それは重い知的障害、行動障害を持った人達と接しても、「決して望んで支援を受け続けたいんじゃない」という想いは伝わってきます。


じゃあ、この「生涯に渡る支援」は、誰の言葉なのか?
それは、(大部分の)支援者の言葉であり、(一部の)親の言葉であるのだと思います。
支援者は、支援し続けることで、仕事も、立場も、充足感も、得られることができます。
また、親は「生涯に渡る支援」という言葉があるおかげで、自分の負い目、自分の子育てから目を背けることができます。
厳しいことを書くようですが、「生涯に渡る支援」という言葉は、そんな両者が生みだし、好んで使ってきた言葉だと思っています。


でも、この「生涯に渡る支援」という言葉は消えていくはずです。
たとえ消えなくても、使う人は少なくなるはずです。
何故なら、支援者の手を借りずに、また借りたとしても、そこから自立し、社会へと羽ばたいていった人達がたくさん出てきたのですから。
そんな姿を見て、自分の本心に蓋をしなくて良いことに気が付いた当事者の人達は、これから自立への想いを益々強くしていくでしょう。
また障害の程度に関わらず、「我が子には自分のことは自分でできるようになってほしい」「できれば他人の手を借りずに自らの足で歩んでほしい」と願う自然な想いに、親御さん達も突き進んでいくでしょう。
そういった想いがある人からは、出なくなる言葉です。


「生涯に渡る支援」という言葉は、支援者を選ぶ上でキーワードになります。
自立させる支援者と、自立させない支援者。
当事者側に立った支援者と、支援者側に立った支援者。
腕で勝負している支援者と、口で勝負している支援者。


「生涯に渡る支援」という言葉には隠れている文字があって、それは「生涯に渡る支援(がしたいよ)」という部分。
「生涯に渡る支援がしたいよ」という支援者に、大事な我が子を預けたいと思いますか?
というか、我が子がそれを望んでいると思いますか?
それくらい信頼できる人間なのですか、支援者という肩書がなくても。
街で会えば、大半がただのオジサン、オバサンです(ブ)


支援者は、キモチワルイ仕事だという自覚がないといけないと思います。
そういった自覚がないから、ズケズケと土足でひと様の心の中に入ろうとする。
そういった自覚がないから、いつまでも支援者と当事者の関係を続けようとする。
動物界に協力する者はいても、支援する者はいない。
だから、支援者とは不自然な存在であり、人工的な存在。
だからね、できるだけ短い期間、人生の一時だけで良いんです、関わるのは。
「生涯に渡る支援」という言葉は、不自然なのです、当事者の内側から湧き出た自然な言葉ではないのです。

2016年11月25日金曜日

私たちは、進化の途中

人類の誕生は、およそ600万年前と言われています。
類人猿、猿人類、原人類、旧人類という段階を経て、現生人類に至ります。
果てしなく長い進化の道のりを経て、今の私達がいることを感じます。


こういった過程を知ると、「進化した姿が我々だ」という思いがしてきます。
でも、そうではないんですよね。
600万年を経て、今の姿になった私達も、人類の歴史からすれば、進化の途中。
これから先、どのくらい人類が歴史を重ねていくかはわかりませんが、私たちもまた進化を続けている。
100万年後の未来では、私達とは別の人類が存在しているのかもしれませんね。


人類の歴史からすれば、ヒトの一生は、ほんの一瞬だといえます。
でも、その一瞬の中にも“進化”があるのだと思います。
600万年というとてつもなく長い時間の中で生きた、とてつもなく大勢のヒトたちと同じように。
一瞬、一瞬の積み重ねが、今の私達を形作っている。


私達の中に“進化”が存在しており、その進化の歩を進めるために私達がいるような気がします。
ごくわずかでも、前に進もうとするというのが、ヒトの自然な生き方。
ヒトも環境の一つ。
自分自身がより良く成長することが、周囲の環境をより良い方向へと変える力となり、より良い未来を作っていくような気がしています。
私の行える“進化”を追い求めていこうと思います。



2016年11月23日水曜日

書店全体から見た“障害児教育”のコーナー

階段を上って、専門書のコーナーに向かう。
馴染みの棚の前に立ったときに、私は気が付いた。
「そういえば、久しぶりにここに来たな」と。


数年前までは、よくここに来ていた。
新しい書籍が並べてあれば、手に取り、中を確認。
知識の更新とともに、療育の流れ、支援者の流れを感じていた。


いつからか、新刊を見ても、手を伸ばさなくなった自分がいた。
中身は分からない。
ただ、タイトルと誰が書いたかを見えば、私にとって、いや、私が関わらせてもらっている人達にとって、必要な書籍かどうかは見えてきた。


目的の書籍がない限り、“障害児教育”のコーナーには行かなくなった。
答えは、この棚の外にある、と感じたから。
心理学、生物学、脳科学、人体、進化、健康、歴史…私をワクワクさせた。
それと同時に、日々の仕事に活きるヒントが手の中に集まっていた。


手の中に集まったヒントを眺めていると、「自分は人を育てる仕事をしているんだ」という声が聴こえてくる。
障害児教育の棚の前をうろうろしていた自分は、人を育てる仕事はしていなかった。
ただ自閉症支援に携わっていた人間だった。
自閉症支援という狭い世界の中をうろうろ歩き回っていた人間だった。


障害児教育のコーナーは、書店全体から見れば、とても狭い空間。
その狭くて小さな空間では、障害者としての成長、より良い生活、幸せになれるヒントが得られるかもしれない。
でも、私が日々、関わらせてもらっている人達が求めているものは、そこにはない。
「障害者として」ではなく、「人として」の成長、より良い生活、幸せになるヒントだから。


いろいろな支援や療育を受けていても、良くならない人がいる。
良くならないということは、そこには答えがないのかもしれない。
20代の私のように、障害児教育の棚の前をうろうろしているのかもしれない。
いくら片っ端から手にとっても、そもそも答えがない場合もある。
障害児教育の大前提は、障害を持ち続けていることだから。


この頃、思うことがある。
人としての発達、成長を援助できる支援者というのは、決して障害児教育の棚の前だけにいるような人間ではないことを。
答えが見つからないのなら、そもそもそこには答えがないのだ。
ギョーカイの常識の外に、人としての幸せがある。

2016年11月14日月曜日

「愛着障害は治りますか?」(花風社)を読んで

学生時代、生まれて初めて関わった自閉症の男の子のことが知りたくて、書店の特殊教育コーナーで手に取った真っ赤な本。
タイトルは「自閉っ子、こういう風にできています!」
その通称赤本と呼ばれている本を手にしてから、今まで10数年、ずっと花風社さんの本を読み続けてきました。
そして、今日手にし、今日読んだ新刊は、読み終えたときに今までと違うものを感じたのでした。
それは読み手に迫ってくる印象です。
「治すかどうかは、あなた次第です」というメッセージが。


花風社さんは、今までにも多くの治すためのアイディアを提供してくださいました。
特に栗本啓司氏の著書「自閉っ子の心身をラクにしよう!」が発売されて以降、ここ数年で治すためのアイディアのエネルギーが勢いを増した印象を受けます。
そして、そのアイディアに触れた全国の自閉っ子(もちろん、大人も!)が、どんどん心身共にラクになり、発達の遅れ、ヌケを取り戻し、治っていっている。
実際、私も援助している方達が変わっていく様子を目の当たりにしています。
花風社さんの本から得たアイディアが、日々の着想の始まりということは多々あります。


治るためのアイディアをたくさんいただけたし、治る人もたくさん出てきた。
ですから、治る時代、治す時代、治すべき時代を今、私は生きているのだと思います。
栗本氏は今日からすぐにできることを、灰谷氏は発達援助に関わる全ての人のスタンダードとなるべき知識と視点を教えてくださった。
正直、治すのだったら、もう十分アイディアをいただいた、という思いもしていました。
でも、今回、“愛着障害”という切り口で、今までの“治す”をもう一歩奥深く進めてもらった気がするのです。


新刊「愛着障害は治りますか?」の中に出てくる著者の愛甲氏が整理し、提示された『愛着障害のピラミッド』と『遊びのピラミッド』は、“見立て”に大きな影響を与えてくれるはずです。
愛着障害を持った他人への援助をする際にも、愛着障害を持った自分自身を援助する際にも。
適切な見立てができなければ、治すにつながっていきません。
治すための出発地点を明るく照らすのが、この2つのピラミッドです。
ですから、私の頭の中にも、この2つのピラミッドをしっかり建てておこうと思います。


あとがきには、「発達障害も、愛着障害も、障害ではない」というメッセージが記されています。
つまり、どちらも“治る”ということです。
その理由とそのためのアイディア、視点が、一冊を通して語られています。
この本が世に出た以降、治せない理由を探す方が難しくなるでしょう。
いや、反対に治せない理由が明確になるかもしれません。
治せない理由は、見立ての悪さか、援助者自身が愛着障害を抱えているからか、の2つになるはずです。
いずれにせよ、自分自身で乗り越えていく必要があります、手遅れは無いのですから。


師匠と呼べる人のいない私にとっては、唯一の師と呼べるような存在が、花風社さんの本です。
その師から、さらに“愛着”の視点も頂戴しました。
あとは己のセンスと鍛錬にかかっているといえます。
こんなにも重要な視点をもらったのに治せなかったら、それはすべて自分の問題だと思っています。
「治せなかったら、ただ単に“腕”がないだけ」そんなことを思います。
「自立せよ」という声が聴こえます。


愛着障害は、特殊なケースだけの話ではないこと。
「いつ背負った愛着障害か」という視点。
年齢別の症状の表れ方。
発達障害の人に愛着障害が生じやすい理由。
愛着障害から手当てすることで、生きやすさを獲得するのが速くなることも多いこと。
大人の愛着障害を治すための視点…。


発達障害の人と関わる人はもちろんのこと、人を育てることに携わっている人、この時代を生きづらさを抱えたまま生きている人にも読んでいただきたいと思います。
この時代をより良く生きるためにも、次世代がより良く生きられるためにも、著者の愛甲氏、この本は大切なメッセージを私達に伝えてくれるはずです。


2016年11月11日金曜日

資格支援(ブ)

他人から与えられるものには、そこまで有難がることはないと思っています。
だって、そこにはその他人の意思が入る余地があるから。
それよりも他人が奪えないものの方が価値があると思います。
自分の意思で手に入れて、他人からは奪えないものに本当の価値がある。
だから、資格よりも、自分の血となり、肉となった“腕”の方が大事だと考えています。
免許状は燃やせても、身に付けたスキルは燃やせませんね。


研修をせっせと受けて、資格や認定書をもらうことに価値を置いている支援者は少なくありません。
それが純粋に腕を上げるためにだったら、良いと思いますが…。
腕を上げることに付随しての資格や認定書ならわかりますが、どうも資格や認定書がメインのように感じる人がいる。
こういう人は、だいたい治せない支援者。
何故なら、自分がメインになっちゃっているから。
自分がメインということは、自分の方に治すべき課題がある証拠です。
目に見える形の資格や認定書を得ようとするのは、それ自体が自己治療だと感じますね。
自分の課題をクリアにしていない人は、他人の課題をクリアにすることはできません。


そもそも自分の腕を上げるというのは、孤独で、忍耐力のいる作業です。
それなのに、どこそこの研修を受けて、資格や認定書をもらったからスキルアップしたよ、みたいな考え方は甘いと思いますね。
資格や認定書に、その人が実際の場面でより良い支援ができる、という保証をする力はないのです。


それにね、研修を受けていない人が認定される場合があるんですよ。
「こんな時間も、お金もかかる資格、この人が本当に取ったの!?」という人が、資格取得者の名簿に載ってたりする。
それは、与える側と仲良しだから、宣伝のために、与える代わりに研修生をよこしてねってヤツ。
運転免許でも、全員学科と実技があるのに、それすらない資格もたくさんある。
特別支援のギョーカイは、8割がインチキ(ブ)
ある支援者が怒っていました。
「俺たちは、遠い場所まで行って、何日も研修受けて、やっとなのに、お偉いさんになると…」
まあ、そんなもんです。


民間の資格でも、なんとかメソッドでも、最初に始めた人は素晴らしい腕の持ち主が多いです。
そういう人は、孤独に、コツコツと、地道に、他人から見えない内にある信念を頼りに歩みを続けてきた人だから。
なので、わかっているはずです、認定書をもらっただけで満足している人は良い支援者になれないことを。
でも、経営のため、自分の承認欲求のために、こういった仕組みを作ってしまう。
現場でバリバリのときは、どんどん自立させていたのに、組織のトップが近づいてくると、自分の側から自立させない支援者になるのは、よくある話です。
私は願うのです、自立させる支援ができる人は、支援者も自立させてほしい、と。
更新が必要だとか、レベルが何段階もあるとか、いつまでも支援者を自分から自立させないというのは、見ていて残念に思います。
支援者同士で参勤交代みたいなことをやるのは、気持ちが悪い。


人を育てるということは、自分の足で立ち、自らの意思で歩を進められる人間を作ることだと考えています。
ですから、子どもや大人、支援者を自立させない、または自立を阻むように見えるというのは、本当の意味で人を育ててはいないということ。
人を育てているように見えて、自閉症支援、発達障害支援をやっているただのマニア、自分の課題を癒している自己治療の人がいます。
資格や認定書に重きを置くのではなく、自らの信念の元、自分の足で歩みを続けられる人こそ、己の腕を上げることができ、そして他人の自立を援助できる。
私は自閉症支援をやる人ではなく、人を育てられる人になりたいと思っています。

2016年11月8日火曜日

あなたの空間から、どんな雰囲気を感じますか?

空間の雰囲気は、その子がどう成長していくか、変わっていくか、に関係すると思っています。
訪問型のサービスをしていますので、いろいろなお宅や施設に伺いますが、扉をくぐった瞬間、ビビビッときます。
「これじゃあ、伸びないな」とか、「この雰囲気なら、近い将来、良い方向へと変わるはず」とか。
定期的に訪問している場所は、雰囲気の変化も感じます。
伸びる雰囲気と伸びない雰囲気があるんだと思っています。


近頃、グググッと伸びた子がいます。
この短期間で、こんなにも変わるのかなってくらいに。
で、この子のお宅は、とっても伸びる雰囲気になったんです。
“なったんです”ということは、以前はそうは感じませんでした。
最初に訪問したとき、「こりゃあ、大変なおうちに来てしまったな」と思ったのが、正直なところです。
でも、今は伸びる雰囲気がビンビンです。
きっと年度内に、当初の目標は達成し、私は用済みになるはずです。
卒業式よりも、卒業が早いと思います。


伸びる雰囲気って、私の感覚なので、言葉にするのは難しいです。
ですから、親御さんやその施設の職員さんに、その形を提示できません。
じゃあ、指をくわえてよい雰囲気になるのを待つのか、といったら、そうではなくて、伸びない雰囲気を出しているものを消したり、変えたり、伸びる雰囲気が出るようなものを加えたり、なんてことを思いつくままお話ししています。


伸びる力は、それぞれの子の中に存在しています。
それなのに伸びないというのは、伸びるために使うエネルギーがそのため以外のところに使われているのだと思います。
それってモッタイナイないことです、特に伸び盛りの子どもにとっては。
ですから、生活空間の雰囲気は大切だといえます。


伸びるために、成長するために目一杯エネルギーを使えている空間からは、心地良い雰囲気を感じます。
反対に、生きることにもエネルギーを使わなければいけない空間からは、重苦しい雰囲気を感じます。
あなたの空間から、どんな雰囲気を感じますか?

2016年11月4日金曜日

時代は人を選ぶ

いつの世も、時代が変わるときには、新しい人物が出てきます。
ですから、「人が時代を変えている」といえるかもしれません。
でも、私はそうは思えないのです。
時代の方に意思を感じてしまうのです。


新しい時代の幕開けは、前の時代を象徴する人物が去って完成します。
その人物が去るのを見て、人々は「新しい時代がやってきたんだ」と実感します。
そして次に、人々が問われるのです、「時代の流れに乗るの?抗うの?」と。


いつの世も、時代の変化に抗う人はいるものです。
変化はストレスですし、変化を受け入れるには腹が据わっている必要がありますから。
前の時代で良い思いをしていた人達は、流れに逆行しようとします。
しかし、時代の流れを止めることはできません。
何故なら、前の時代からすでに流れはあったから、目立たなかったかもしれないが。
一度できた流れを人が止めることはできないのです。
人を超えたところに意思を感じます。
そういった意味で、時代の方がその時代に合った人を選んでいる、と思えてくるのです。


新しい時代を生き抜くコツは、流れに身を任せることだと思います。
流れに乗って、さらに「その流れを加速させる」といった気概を持って行動できれば、自ずと生きやすい未来が見えてきます。
そのためにも、時代の流れに気づける眼を持っていなければなりません。
気づけなかった人は、流れに抗う人達と同じように、流れに飲みこまれてしまうのです。


自閉症、発達障害の世界も、新しい時代がやってきました。
生きづらさを訴える時代、周りが調整する時代、「一生治りませんから…」の時代は終わったのです。
これからは生きやすさを求めて、本人自らが動き、治す時代なのです。
その流れに抗おうとしても、時代の方がその人を受け入れてはくれません。


未だに「生きづらいよ」「社会の理解ガー」と言い続けている人がいます。
でも、その声に一昔前のエネルギーはないのです。
症状を改善し、持って生まれた資質を磨き、社会の中で活かす人達がたくさん出てきました。
もう珍しい稀有な存在ではありません。
私たちの身の周り、地域、社会にこのような人たちはいるのです。
ということは、今の時代が彼らを選んだのです。
治す時代、治りたいと思うこと、それに向かって行動することが普通になる時代です。


当然、支援者も、時代から選ばれる存在になります。
「昔は良かった」「前の時代なら、今まではうまくいっていた」というのでは、退場を求められるだけです。
時代が求めているものに合わせて、自らも変えていく必要があるのです。
「現状維持は退化」という言葉もあります。
時代は確実に流れていますので、立ち止まっていると、後ろに流されて行くのは自然なこと。
時代の流れと同じスピードで進むことを「現状維持」と言い、時代の流れよりも先に進むことが進歩と言います。
古い時代の終わりと、新しい時代の始まりを感じた私は、治す時代の流れの一部になろうと思います。

2016年11月1日火曜日

他者のために行動できる姿勢を育てる

録画していた10月29日のNHKスペシャルを観ていたら
「長寿の人は“慢性炎症”が極めて低い」
「“慢性炎症”は、食事や運動だけではなく、心の満足感とも関係がみられる」
「快楽型の満足感では炎症を抑えることはできないが、生きがい型の満足感だと抑えることができる」
という話が出てきました。
いつまでも現役で働いていたり、ボランティア活動をやられていたりするお年寄りを見かけると、年齢よりも若々しく見えるのは、このような医学的な理由もあったのですね。


「人類は社会的な集団生活を行い生き延びてきた。つまり、人間の脳や神経は社会とつながり、お互い助けあうように、生物学的にプログラミングされている、と考えられる」
という話にはゾクゾクっとしました。
これって祖先からのメッセージだと思いましたね、遺伝子に乗せられた。
「ヒトはヒトのために生きて、ヒトになる」という言葉が思い浮かびました。
世のため、人のために行動することが、もちろん社会、人類の繁栄へとつながり、そして自分の健康、長寿にもつながっていく…。


相談を受けていると、「自分には居場所がない」「自分は必要とされていない」などの言葉がよく聞かれます。
そんなとき、私はこう思うのです。
「“居”場所ではなく、“誰かのために動ける”場所が欲しい、と言っているのではないだろうか?」
「必要とされないのは、周囲に問題があるのではなく、必要とされるようなことをしていない、行動できないことに問題があるのではないだろうか?」
と。


話を聞いていると、みんながみんな、日々の生活が満たされて“いない”わけではありません。
衣食住はあるし、好きなことだってできている。
自分のことを大切に想ってくれる家族もいる。
中には仕事をしている人だっています。
でも、“生きる”だけが満たされても、満足しないんですね、ヒトは。
ヒトは社会的な動物ですので、人間脳が喜ぶには人との交流、相互作用が必要なんだと思います。


ですから、私はどんなことでも良いので、「誰かのためになっている」という実感が持てる活動が生活の中に組み込まれるような援助もしています。
家のお手伝いでも良いし、地域活動、ボランティア活動でも良いですね。
支援者からは「彼は傷ついているので、好きなことをやって心の回復を~」とか、「今は休む時期だと思いますよ。だから、ゆっくり休ませて~」とかいうアドバイス(?)を受けていた人でも、他者貢献ができていると感じられるようになると、心身ともに元気になっていき、自ら前進していけることも少なくありません。


私が施設で働いていたときも、どんどんお手伝いをしてもらっていました。
それは衣食住を満たすのは福祉であって、教育ではないからです。
人を育てるっていうのは、人の間が必要だと考えていました。
重い障害を持っていた人も、行動障害を持っていた人も、お手伝いとなると、一生懸命やっていた印象が強いです。
「はい、食事」「はい、お風呂」「はい、あとは好きなことを」では、彼らの成長も、満足感も得られていないように私は感じていました。


我欲で生きる人は老化が進み、他者のために生きる人は老化が抑えられる。
まるで「他者のために生きよ」と、祖先たちから言われているようですね。
そう考えると、ヒトを育てるということは、他者のために行動できる姿勢を育てることなのかもしれません。

2016年10月26日水曜日

子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人

親に手伝ってもらった夏休みの宿題が褒められたり、表彰されたりするっていうのは、笑い話になるけれど、日々の宿題を代わりにやるとなると、笑えなくなります。
もちろん、実際にこんなことをする人はいないんだろうけれど、これに似たようなことをやっている人はいますね。
子どもの課題を代わりにやっちゃう人。
子どもの課題を「やらなくていい」と取り上げちゃう人。
子どもの課題を「出した方が悪い」と言っちゃう人。


子どもは日々、課題と接しています。
それは、与えられる学校の課題がありますし、自ら向かっていく発達の課題、人間関係の課題などもあります。
どれもその子自身の成長に必要な課題なのですから、その子自身で乗り越えることが必要です。
いくら「自分がやった方が早い」「上手くできる」と思っても、手を出してはいけません。
その課題は、“その子”の課題であって、“私”の課題ではないのですから。


相談でいろいろな方のお話を聞いていると、課題の曖昧さを感じることがあります。
例えば、支援グッズを一生懸命用意する親御さんがいます(もちろん、それ自体は問題ないです)。
で、お子さんは〇〇という活動ができる、落ち着いていられる。
でも、それってその子が乗り越えたことになるのかなって感じるんです。
その子自身で、「ぼくは、課題に乗り越えられた」という気持ちが味わえるのかなって。


支援グッズは、本人が課題を乗り越えるために使う補助であって、周りがお膳立てするためのものではありません。
つまり、支援グッズから「この子が失敗しないように」という匂いが出ていたら、それは支援者自身が失敗を恐れている証拠であり、失敗に対する課題がある、まだ乗り越えられていないということ。
また、支援グッズから過剰さや見た目が匂ってきたら、それは支援者自身がどう見られているかに意識がある証拠であり、他人からの評価に揺らいでしまうことに課題があるということ、などが想像されます。


子どもの意思や課題と別のところで、「学校に行かなくても良いんだ」と主張する人は、その人自身が学校に良い思い出がなかった、辛い学校生活を送った、学校の中に課題を置いてきたというのもあります。
「無理に働かなくても良い」「一般就労より、福祉的就労の方にしなよ」と主張する人は、仕事の中に課題があるのかもしれません。
「社会の理解ガー」と主張する人は、自分自身が理解されていない現実の中に、「愛情ガー」と主張する人は、親との関係の中に課題があるようにも思えます。


他人の成長、発達を援助する人間だったら、まずは自分の課題をクリアしてから来てほしいと思います。
そうでないと、本人の課題と支援者の課題がごっちゃとなるからです。
せめて自分の課題くらいきちんと把握し、直視できるように、と思うのです。


いくら知的な遅れ、発達の遅れ、ヌケがあろうとも、子どもも別人格の人間です。
その子自身で課題と向き合い、乗り越えないと、いつまで経っても課題はクリアすることができません。
親や支援者は、課題で苦労する子の姿を見ないので、辛くはならないかもしれません。
でも、その子自身は、いつまで経っても課題が残ったままなので、ずっと課題を背負い生きていくのです。
支援者はいなくなっても、課題はなくなりません。


この頃、思うのです。
子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人は、敢えてそうしているのかなって。
混ぜることで、曖昧にすることで、自分自身の課題を直視しなくて済んでるんじゃない!?
結局、逃げてるのかなって。
やっぱり勇気ですよね、勇気。
自分の課題と向き合える人には、勇気がある。
勇気のない人は、自分の課題に向かっていける子を育てることはできませんよね。
私達が育てたいのは、自分自身で課題と向き合い、乗り越えていく人。

2016年10月23日日曜日

ヒトのみが時計を使う

道具を使う動物は、ヒト以外にもいます。
でも、そんな道具の中で、ヒトしか使わないものもあります。
それは時計です。


学習すれば、人の言葉がわかったり、電子機器を操作したりできる動物はいますが、時計は使いこなすことができません。
何故なら、ヒトだけですから、何時間も、何日も、何年も、何十年もの先を意識できるのは。
将来の展望を持ったり、計画を立てたりできる。
そして、その将来を意識し、今の自分の行動を選択することができる。
これこそが、ヒトのみが手に入れることのできた能力であり、脳力だといえます。


以前、私は、このような人達のことが嫌いでした。
「助けて欲しい」「アドバイスが欲しい」と言って、改善や成長できる方法を受け取ったのに、それをやらない人、やっても続かない人。
すぐに効果が見えないと、やめちゃう人、「やっても意味がなかった」と言う人。
でも、“人のみが時計を使う”という言葉が思い浮かんでからは、捉え方が変わりました。


このような人達は、心の問題ではなく、脳の問題ではないのか、そのように捉えるようになったのです(もちろん、甘えや怠け、誤学習の問題の人もいますが)。
つまり、未来を見通す脳力に原因がある。
それは、脳へのダメージや疲れかもしれないし、脳の未発達かもしれない。
脳の未発達は、高度な脳の部位自体の遅れ、他の部位との連携の不具合、もっと原始的な部位の不具合、発達の遅れorヌケがあるかもしれない…。
こんな風に、推測し、見立てを持つようになると、私のすべきこと、その人に伝えなければいけないことが変わるのです。


週に1回、セッションを受けても、相談してアドバイスをもらっても、根本的な変化はありません。
大事なことは、自分でも、家庭でもやってみることです。
コツコツ積み重ねていかなければ、実際に行動しなければ、受け身ではなく、自発的に行わなければ、能力、スキル、知識、成長、変化を得ることはできません。
日々、子どもたちや若者たちと接していますが、どんどん成長していくのは、コツコツ積み重ねていける人ばかりです。
「もう支援はいりません」と言って、社会に出て行った人達は、将来の展望、計画を自分で立てられる人ばかりです。


ですから、将来の展望、計画を持つことができ、それを意識して今の行動を選択できるのが最終目標だと考えています。
でも、その前段階に、自分でコツコツ積み重ねられる姿勢が必要であり、未来の見通しを持つ能力が必要です。
行動できない人、続かない人、未来のことを尋ねられると、「わかりません」「考えられません」と言う人は、未来を見通せる脳の状態になるための援助が必要なのだと私は考えるようになり、そのための行動をするようになりました。


「学校に行かなくてもよい」「嫌なことは、無理にする必要はない」などという声も聞かれますが、私はそう思いません。
確かに、学校に行かなくても、知識を得ること、社会性を養うことはできるでしょう。
しかし、例え学校に行くのが嫌でも(いじめ等の理由ではなく)、通うこと自体に脳を育てる意味があると思うのです、特に人間らしい脳の部分で。
「将来の展望、計画の見通しを持つことができ、今の行動を選択できる力を養う」というのは、学校という存在に凝縮されているとも思えるのです。


自分の資質を磨き、社会の中で活かす人、発達障害が治っていく人は、みなさん、自分で(大小関わらず)目標を立て、将来に向かって実直に歩んでいける人ばかりです。
つまり、そういう能力、脳力を子ども時代から養っていけた人ということだと思います。
「時計が使える脳の状態」というのが、養っていける準備ができた状態と私は捉えるようにしています。

2016年10月21日金曜日

好奇心が自発性の源

昨日、北海道では雪が降った。
いよいよ季節は、秋から冬へと移っていく。
動物にとって、厳しい季節の到来である。


もしヒトの祖先が“好奇心”を持っていなければ、今も私達は森の中で過ごしていたかもしれない、と想像する。
好奇心があったからこそ、森の外を覗いてみたくなった。
そして、森の外に出て行った動物たちがヒトへと変わっていった。


森の中にいれば、変わらぬ生活を送れたはず。
しかし、私達の祖先は自らの足で森の外に出た。
もしかしたら、森の外は危険だらけかもしれない、食べ物もないかもしれない。
それでも、未知への好奇心が彼らを突き動かした。


好奇心は、自発性のエネルギーであり、生きるエネルギーだと思う。
自発的に森を出た祖先は、自発的に歩き、自発的に食べ物を探し、自発的に眠る場所を確保した。
自発的な行動は、新たな環境で生きる知性を発達させる。
そして、祖先はヒトになった。


現代の私達にも、祖先の“好奇心”は引き継がれているのだと思う。
子どもを見ても、そう思う。
子どもは、自ら遊び、自ら遊びを考える、誰から教わることもなく。
子どもにとって、この世界は好奇心でできている。
だから、子どもは自発的に遊んでいる。
そして、遊びを通して、ヒトから人らしくなるための成長を遂げる。


ヒトは、未熟なまま産まれてくる、それぞれの環境で適応するために。
だからこそ、祖先は私達に“好奇心”を引き継いだのだろう。
好奇心は自発性の源であり、自発性は成長の源であるのだから。
ヒトは、成長が運命づけられている動物ともいえる。


このように考えると、「ヒトがヒトを成長させる」ということに疑問が湧いてくる。
ヒトは、もともとが成長する生き物ではないだろうか、と思う。
ヒトを成長させるためには、「自発性を育む」のではなく、「好奇心を育む」のではなく、「自発性を阻害しない」「好奇心を奪わない」というのが正しいのかもしれない。
自発性が乏しい子を見たら、好奇心が発揮できない“何か”を見つけようとする自分がいる。

2016年10月19日水曜日

意味付けがなされなければ、ハンカチはただの布きれ

「ハンカチは、ただの“布きれ”。ただの布切れが、ハンカチになるには、手を拭かなければならない」
こういった感覚がふっと浮かぶようでなければ、特に知的障害を持った自閉症の子ども達の支援は難しいといえます。


ある親御さんから、「外出するとき、度々、ハンカチを持っていかないんです」という相談がありました。
もちろん、当地のスタンダード、構造化支援をやってのことです。
外出準備の手順書を提示してもダメ。
「外出には、ハンカチを持っていきます」という絵カードもダメ。
外出準備の空間を仕切ってもダメ。
「私の構造化が悪いんでしょうか?」と来たもんだから、上記の感覚が呼び起こされます。


最初に働いた施設では、何か指導する際、オリジナルの課題分析シートが使われていました。
まあ、オリジナルといっても、目標となるスキルに必要な動作を分けて分析、評価するのは同じ原理です。
で、この課題分析シートを使っていると、これじゃあ、立体的な評価はできないと感じたんです。
だって、どこで、どの段階で躓いているかはわかるけど、何で躓いているかが見えてこないんですもん。
つまり、この子ができない理由は
◎ある活動の一連の流れ(順番)がわからないのか?
◎力の入れ具合、手や指などの身体の動かし方がわからないorできないのか?
◎そもそもの意味や意義がわかっていないのか?
同じ“できない”でも、その理由、躓いている部分は、人それぞれです。


特に私の担当は、重い知的障害を持った子、強度の行動障害を持った子の支援でしたので、ざっくりとした課題分析では、スキルの獲得や行動の改善は難しかったんですね。
ピンポイントで躓きを見つけ、複数ある場合は、1つ1つ虱潰しのように丁寧に支援していき、最終目標であるスキルの獲得、行動の改善を目指していました。
そんな中で気が付いたんです、モノは概念であることを。


私達は概念で捉えているから、ゴミ箱を見て、ゴミを入れるものだとわかる。
でも、具体的に捉える人にとっては、ただの箱であり、プラスチックの塊であり、投げると面白く転がるものであり、触るとザラザラしてて気持ちいいものであり、いろんなもの(ゴミ)が入っているおもちゃ箱みたいなものであり…。
具体的に捉える人は、具体的な経験により、そのモノを意味づけしていく。
ですから、モノを使った活動ができないのは、モノを適切に使えない&誤った使い方をするのは、そもそも意味づけの部分に違いがある。
その活動の順番がわかる、道具の使い方、身体の動かし方が身についている。
でも、そもそもの意味がわかっていなかったり、その人オリジナルの意味づけをしていたりすると、スキルの獲得や問題行動の改善が難しい場合もあるのです。


相談のあった親御さんには、家の中のタオルをすべて無くしてもらいました。
そして、お子さんにハンカチを携帯してもらうようにしました、家の中で。
この子は、食事の前、トイレの後、帰宅後に手を洗う習慣は身についています。
ですから、食事の前、手を洗いに行くと、おやっと思うんですね。
その瞬間に、親御さんがすっとハンカチを指さしする。
で、ぬれた手をハンカチで拭きます。
ハンカチの意味づけですね、その布きれは、『手を拭くもの』という。
この子は、数日後、自らハンカチを持って学校に行くようになったそうです。
布きれが、ハンカチに変わった瞬間です。
以降、家のタオルは元どおりの場所に掛かっています。


コップは水を飲むからコップになるのであって、歯ブラシは歯を磨くから歯ブラシになる。
りんごは赤いからりんごになるのではなくて、食べたらりんごの味がするからりんごになる。
こういった連想が見たモノから浮かんでくるようになると、具体的に捉える子ども達の躓き、違いが見えてくるかもしれません。

2016年10月17日月曜日

自閉脳を活かすために治します

自閉症は脳のタイプの1つ。
だから、受け入れるとか、受け入れないとかいう次元の話ではないと思っています。
それぞれの人、脳みそに合った学び方、情報処理の仕方、生活の仕方があるのだから、その方法を見つけ、カスタマイズしていき、どんどん成長し、発達し、幸せになっていけば良いだけの話。
「その人が持って生まれたものをどう磨き、どう活かしていくか」が支援の中核だと考えています。


「治す」という言葉を使うと、「自閉症は一生治りません!」「治す対象ではありません!」という言葉が返ってきます。
私も、同じ意見です。
そもそも脳のタイプを治すという意味が分かりませんし、治すのではなく、活かす対象だと私は考えています。
ですから、「治す」という言葉が指すものに違いがあるのだと想像します。


治す対象は、妨げているものです。
何を妨げているかと言いますと、その人が持つ資質を活かすのを、です。
いくら資質を活かそうとしても、自閉症の症状が重ければ、妨げになってしまいます。
ですから、症状が少しでも軽くなるように、身体を整えたり、発達を促したりします。
また自閉症の人に見られることが多いけれど、理由が“自閉脳だから”ではない睡眠の乱れや姿勢、運動の不具合があれば、それも治します。
もちろん、自閉脳ゆえの情報の取り違い&ヌケ、想像の違いから生じる誤認識、誤学習も治す対象ですし、問題行動も治さなければなりません。


資質を妨げるものを治しても、自閉脳はそのままです。
むしろ治した方が、自閉脳らしく、その人らしく生きられるはずです。
感覚過敏に苦しんでいる姿、変化にパニックになっている姿、コミュニケーションで困っている姿は、自閉脳を活かした姿だとはいえません。
「これこそ、自閉症の人の姿だ」と固定観念を持っていたり、自閉脳と症状を曖昧に捉えていたり、症状を軽減、改善する方法を知らなかったりするから、「治る」という言葉に拒絶反応を見せるのです。


個性という言葉はあまり好きではありませんが、その人の持つ脳の個性を活かすためにこそ、積極的に治していかなければならないのだと思います。
多くの人がイメージする『自閉症像』が重ならない姿こそ、自閉脳を一番活かしている姿だと思います。
「えっ、あなた自閉症だったの?」と周囲から驚かれたり、気づかれもしない状態というのは、まさに治ったといえる状態ではないでしょうか。


自閉症が治った状態と、自閉脳を活かした状態は両立すると思います。
自閉脳を活かすために、妨げになるような症状は治していく。
症状を治していくのは、定型脳、普通の人になるということではありません。
自閉脳のまま、その人らしく幸せになる方法なのです。

2016年10月16日日曜日

「医師を通さないと、支援が進んでいかないシステムだから、病院に行くだけ」

「自閉症は治りません」と医師は言います。
じゃあ、どういう気持ちで精神科薬を処方するんだろう?
治らないし、治す気もないけれど、薬を出す。
その目的は、症状の緩和や改善のために。
だったら、そこらへんの支援者とやってることは一緒じゃんって思います、民間療法、医師以外の支援者を下に見るけれど。


薬は症状を緩和したり、抑えたりしますが、薬自体にその人を成長させる力も、発達させる力もありません。
「これを飲んだら、勉強ができるようになります」「これを飲んだら、脳機能が、運動機能が発達します」と言うならば、それこそ怪しい。
ですから、良い薬を見つけるよりも、良い支援者を見つける方が、その人の人生にとっては大きな意義を持つのではないでしょうか。


医師しか認められていないことは、薬を処方することと、もう一つ“診断する”こと。
今の診断技術では、表に出た症状だけで診断するしかありません。
つまり、どう頑張っても、その症状を観た人間の主観と力量が影響してしまいます。
医師によって診断が変わったり、診断基準が変わったりすると、同じ人なのに別の障害名が付くのはその典型でしょう。
仰々しく「診断」なんて言ってますけれど、実状はざっくりカテゴライズしているだけ。
「あなたは自閉症ね」っていう診断からは、その人の成長と発達に繋がるアイディアは生まれません。


数年前、今でも超メジャーな支援者が私にこんな話をしてくれました。
「日本の医師会は、“診断”の権利を手放したり、開放したりしないでしょう。あいつらにとっては、特権の一つだから」と。
また併せて必ず入り口が医療となっている弊害や、支援&療育のない服薬の弊害、ざっくりした診断が意味を持たないことなどもおっしゃっていました。
「医師を通さないと、支援が進んでいかないシステムだから、病院に行くだけ」
本人たちから、親御さん達から、「病院に行っても、何も変わらない」「ただ話をしに行くだけ」「話すことすらない」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶ言葉です。
端的に言えば、その一言に尽きると思いますし、私もそのように説明します。


医師は治そうと思っていない。
医師は薬による症状の緩和と改善を目指している。
症状の緩和と改善だったら薬以外にも方法はあるし、成長と発達なら医療よりも優れた機関、人がいる。
つまり、特別支援の世界は医療を通るように道が設計されているだけで、医療を通ったから幸せな道に出るのではない。
幸せに向かう道は、人それぞれであり、その人の選択にかかっている。
そして今は診断の道を通らなくても、幸せになることができる時代である。


それにしても、大部分の医師とは異なり、始めから治すことを目的としないのは、どんな気持ちがするのだろう?
医師を志したときは、患者を治そう、救おうと思っていたはずなのに。
だから、極端に求めず、極端に優しく振る舞うのだろうか。
だから、周りができることをやりましょうなのだろうか。
だから、眼差しを患者の未来ではなく、自分の未来へと向けているのだろうか。

2016年10月13日木曜日

「全米No.1ヒット」というフレーズをまだ使い続けますか??ギョーカイさま

昔、映画のCMでよく流れていましたよね、「全米No.1ヒット!」「全米が泣いた!」というナレーション。
小学生だった私は、「なんで全米No.1がこんなにたくさんあるんだ」「全米が泣いたっていっても、アメリカ人がみんな泣くわけないし、お客さんに来てほしいからオーバーに言ってるだけでしょ」なんてツッコミを入れていました(笑)
そういえば、近頃、こういったCMを目にしなくなった気が…。
まあ、2016年の日本人には、ときめかないですよね、このフレーズ。
今時、「アメリカで認められたから、すごいに違いない!」なんて思う人間なんていないでしょう…あっ、まだいた…。


数年前に断捨離を終えた私は、実生活でも、仕事でも、SNSでも、ギョーカイ臭のする人とはつながりをもっていません。
でも、時折、ネット上で流れてくるのを目にしたり、いろんな人からタレこみがあったりするんですね。
そうしたら、まだ「全米No.1ヒット!」に浮かれてんの!?って思っちゃうんです。


アメリカから〇〇大学の△△教授がやってきます、ナントカ療法の創始者、第一人者が来日しますっていう文言。
まあ、事実だから良いのですが、そこまで有難かる必要ってあるのって思いますね。
確かに日本で、生で話が聴けるのは貴重なものかもしれない。
でも、次々、出てくるナントカ教授、ナントカ療法がすべて素晴らしいものなのかはわかりませんよね。
第一、素晴らしいと言っているのは、その国の人であって、日本人ではない(そもそも誰が言ってるん??)。
しかも、それこそ「全米No.1」の人物で、全州の学校や病院、福祉でやられている療法ならわかるけど、その国にいる支援者の一人であって、療法の一つでしょ。
これって国が違うだけで、日本でも同じことはある。
「近年、アメリカで注目を集めている療法です」なんていう陳腐なフレーズもあるあるだけど、なんか新しい療法が出てきたら、どんなもんかなって注目する人は一定数いるでしょって感じです。


だいたい「日本の子ども達を幸せにするために!」なんてことはないですよ。
当然、一番の目的はビジネスですし、呼んでるギョーカイの方も、「海外から講師を呼べるんだ我々は」って日本、その地域での価値を高めるためにやってる。
よくパンフレット、資料の最後に「(国の)〇〇支援事業」とか、後援のところに行政の名前が書いてますよね。
あれも自分たちの価値、存在のアピールのために後援を取り付けてるわけですね。


あと海外からの講師に限らず、日本人の講師の場合でも、講演会などが終わったあと、「大変勉強になりました」「参加者から大好評でした」「また来年もご講演頂きたいという声が多数です」なんていうお決まりのフレーズがありますよね。
あれって誰が言ってるのかなって思いますよ。
本当に受講者が言ってるの??
だって、前にも書いたけれど、その講演の内容が素晴らしいかどうかなんて、自分の場所に戻って、実際にやってみて、ポジティブな結果が見えないとわからないでしょ。
そもそも「先着順です」「定員があります」なんて注意喚起しているけど、当日になっても「定員に達しました」というアナウンスが流れないじゃん、この頃のギョーカイセミナー(ブ)
参加者だって、関係のある組織から〇名以上出すって決まりの中で選ばれた人や、「あ~あ、せっかくの休みで家のことしたかったのに」と心の中で思ってる親の会のさくらの人も多いし(ブ)


ギョーカイの価値観って、いまだに「全米No.1」というフレーズを使っておけば、お客さんがたくさん来るだろうって思ってる一昔前のCMって感じですね。
ギョーカイはヘンに欧米の大学、教授、療法を有難がる。
でも、その一方で日本の(ギョーカイ外の)新しい療法、アイディア、人間を受け入れないし、下に見る傾向がある。
そして、「素晴らしい」と言っているのはお客さんではなく、催している側ってのも同じ匂いがしますね。


私が思う素晴らしい講演会、講師って、お客さんが素晴らしいと言っているかどうか。
その中でも一番が当事者の人が「素晴らしい」「やってみよう」と言っているかであり、その次に保護者の人が同じように言っているかどうかだと思いますね。
自然発生的に口コミやSNS等で「〇〇という講演会が素晴らしかった」「早速、実践してみたら、ラクになった、できるようになった」というのが本当に価値がある素晴らしいもの。
よくネットで流れてくる感想でいやにべた褒めだなと思ったら、ギョーカイ人がギョーカイ人を褒めてるのだし、ギョーカイ外の参加者から「良かった」という感想ないよねってパターン。
「今日は〇〇県で、『×××××』というテーマで(←そもそも何言ってるかわからない題名)講師を務めてきました」とFacebookに挙げてるのもギョーカイ人、べた褒めコメントもギョーカイ人、“いいね”もみんなギョーカイ人(笑)


今の映画と一緒で、良い映画は観た人が自発的にSNSで広めます。
配給会社とズブズブのギョーカイ人が、いくら「素晴らしい映画です!」と言っても、それだけでみんなが観に行って、大ヒットするような時代じゃないんですね。
ですから、そろそろ「全米No.1ヒット」と言って喜んでる自分たちの姿が恥ずかしいことに気が付いた方が良いと思いますね。
余計なお世話かもしれませんが。
自分にとってのNo.1を決めるのは、本人であり、親御さんです!

2016年10月8日土曜日

近い将来、支援者が“親御さん”ばかりになるでしょう

これから10年もしないうちに、“支援者が親御さんばかり”という時代がやってくると予想しています。
児童デイのスタッフも、学校の補助員も、就労支援の支援員も…。


労働人口の減少と、障害者福祉、教育にかけられる予算の削減で、一人の人間が働いて生きていくには十分な対価を得られない仕事になるでしょう(もうなってるかっ)。
でも、仕事自体はなくなることはない。
そうなると、この仕事を求める人は、対価以外の部分でやってくる人になります。
そこで増えてくるのが、障害を持った子を育てている、または育てた親御さんということになると思います。
労働と対価の差を埋めるのは、個人の“想い”ですから。


ギョーカイは癒着が激しいので、「(客観的に見て)どの児童デイが良いと思いますか?」と訊かれることがあります。
まあ、私が親御さんの主体性を奪うことも、親御さん自体が覚悟をもって選択できないのも問題なので、私は明確な答え、意見は言いませんが、考えるヒントは言います。
見学に行く際、事業所内で見るポイント、そして、どの児童デイにも、“親御さん”がいるので、その親御さんではなく、その親御さんの子どもさんを見て、我が子もその子と同じようになりたいと思うか、どうかが重要だという話をします。
「あの親御さんの息子さん、娘さんのように、将来なってほしい」と感じるのなら、入って損はないと思います。
むしろ、その親御さんの振る舞い、考えから、大きなヒントがもらえるはずです。
しかし、その反対もあるわけで…。


この小さな地域で、15年以上、この業界にいると、どういった親御さんで、どういったお子さんなのかがわかるのです。
正直言えば、他人のお子さんの支援をやっている場合じゃないでしょ、相談に乗っている場合じゃないでしょ、と思うことも少なくありません。
仕事として他人様の支援、相談をやっている場合じゃなくて、まずあなたのお子さんの成長、幸せのために動いてほしい、と思うのです。
我が子が問題行動で、その子自身も、周りも、大変な思いをしているのに、どの口が、どの手が相談、支援しているんだ、と沸々したものが湧き上がってくることもあります。
だいたいそのような人は、我が子の課題を「〇〇の支援が悪い、理解がない」と言って他人のせいにするのが相場なので、沸点に達する場合もあります。


私は親御さんに求めるものが大きいですし、ギョーカイの支援者より、かなり厳しいと思います。
それは第一に、親御さんの持っているものが、子どもの成長と未来に影響するから。
また、このままの福祉制度、特別支援教育が未来永劫続くわけがないから。
しかも、近い将来、もしかしたら今の子どもが、まだ成人する前に、大きな変化が訪れるかもしれないから。
そして、冒頭で述べたように“支援者が親御さんばかり”という時代が来るはずだから。


親御さんが支援者になったとき、ただ「私の子も障害を持ってました」では、適切な支援はできないと思います。
しかも、親御さんの基準は、いくらあとから勉強しようとも、研修を受けようとも、“我が子”になるはずです。
良い支援、悪い支援は、我が子基準になってしまうのは当然だと思います。
ですから、我が子を育てる際、いろんな方法を知ってほしいですし、学んでほしい。
そして、自分自身の頭で考え、手を動かし、子どもに合わせた支援を作り上げる経験をしてほしいと思うのです。
それが我が子の成長、将来の可能性へとつながりますし、もっと先を見れば、その親御さんが支援者になったとき、これから生まれてくる子ども達の支援へとつながると考えているのです。


ギョーカイは、どうあがいても縮小していくしかありません。
そうなれば、全国に散らばる少数の本物の支援者、残党のギョーカイ支援者、パートの一つです支援者、大部分の親御さん支援者となるでしょう。
私は、ギョーカイが消え去ったあと、次に特別支援を支えていくのは親御さん達だと想像しています。
だからこそ、私は本人たちの発達援助と同じくらい、親御さん自身にも私の関わりを見てもらい、感じてもらい、考えてもらうことを大切にしています。


*一年前のブログ『引き継ぎが日本語でできるとは限らない』も近未来を想像したものです。
どちらかというと、“親御さん支援者”の次にくる未来だと思います。

この児童デイは「どんな療育をし、どんな未来を辿るのか」を玄関の張り紙から想像する

近所の児童デイの窓にデカデカと「スタッフ募集」という文字が貼られていました。
作るのはいいけど、スタッフの目途を付けてから開所しないの??って思いますね。
というか、経験、能力豊かで初日からバリバリ働けるような人が来る可能性は低いので、ちゃんと開所前に研修しなきゃまずいんじゃないのかな?
だって、「一人ひとりの特性に合わせた療育」「自立に向けての療育」と、こちらもデカデカと貼られているのだから。


ここがそうかはわかりませんが、だいたい運営母体は札幌とか別のところにあって、そっから支店長みたいに社員が送られてくる。
そして、ほかのスタッフは、現地募集ってパターンが多いですね、近頃できたところは。
だから、開業日がもともと決まっていることが多くて、人がいなくても開所ってなっちゃう。
私が親だったら、こういうところには預けませんね。
だって、療育で大切な「準備」「アセスメント」「見通し」の甘さが垣間見られるから。
それに、人が人を育てるわけだから、支援する側の人も育っていなければならないでしょ。
人がいないんじゃ、育てようもないんだし。


経営重視の事業所は、制度が変われば、運営も変わります。
近い将来、事業所の報酬は減らされるはずなので、採算が取れないところは撤退していくと思います。
または社員一人で、あとはパートのみってなるでしょう。
それか、元利用者さんを障害者雇用で雇うっていうパターンも、就労支援の方の補助、報酬で賄うってアイディア。
いずれにせよ、本物の児童デイしか残らない時代がきますし、その児童デイを利用するにも順番待ちがあったり、小学生まで、障害の程度がこのくらいというような条件ができたり、当然、利用者負担は増えたりするはずです。


大事なことは、この近未来を念頭に準備しておくことだと思います。
学校や児童デイで学んだこと、身に付けたことがあれば、家でもやってみる。
もし足りない部分があるとすれば、ブーブー言う前に、他の支援者や方法、アイディアを見つけ、家庭で解決、成長を目指していく。
良いか悪いかは別にして、親の行動力、向上心、覚悟、センスが問われる時代がやってくると想像します。


これからも発達障害と呼ばれる子ども達が増えていくでしょう。
その一方で、学校の教員数は減らされていきますし、ここ数年でも教員を志望する若者は減っています。
もうすでに教員免許を持たない人が、パートで補助職員をやっているのです。
増え続ける発達障害の子どもに対し、申し訳ないが専門的知識があるとは言えない人、経験のない人が指導し、補助する時代がやってきます。
これは、私がNCで見てきた風景と重なります。
スマホをいじりながら、何か本人のアクションがあったときにのみ動く支援者。
契約の時間になったからといって、子どもの指導の途中で帰る支援者。
人を育てる仕事が、子どもの未来を応援する仕事が、パートの一つになる時代が。


特別支援の世界でも、格差が広がっていくと予想しています。
お金がある家庭は、民間を利用し、支援量と質を確保していくと思います。
しかし、家庭の裕福度以上に、親御さんの姿勢が格差を生むと考えています。
「今の制度が続いていく」「支援者に任せて置けば良い」というような受け身では、子も、親も、成長を続けられないと思います。
「何か良いアイディアがあるかもしれない」「もっと改善できるかもしれない、成長できるかもしれない」と思い、頭と身体が前へ前へと動ける人が、どのような時代になっても成長を続けられる。
そして、社会の中で持てる資質を活かしていけるのだと思います。


「新しい児童デイができたバンザーイ」
「“スタッフ募集中”早く見つかるといいな」
では、いけません。
ちゃんとひっかかりを持ち、そこから近未来を想像することが大切だと思います。
ちなみに私は、そこそこの事業所がどういった経過をたどるか、将来どうなるか、という近未来を予想するようにしています。
これも関わっている人の未来を具体的に想像するためのトレーニングです。
できるだけ少ない情報量で、正確に予測できるのが私の目標。
未来を育てる人間が、正確に未来を予測できないのでは、生き残ることができないと思いますね。

2016年10月6日木曜日

ギョーカイ語を介さずに、その人と触れあえる支援

施設で働いていた頃、毎日、一人ひとりの利用者さんの行動記録を書いていました。
今はありませんが、「自閉症児施設」でしたので、自閉症の特性を意識して記述していく必要がありました。
またトレーニングでも、必ず「自閉症」という文字を書いて記録を書くこと、保護者や他の支援者に説明するときにも、同じように「自閉症」という言葉を使うことを指導されました。


そういった流れで、今の事業を始めてからも「自閉症」という言葉を使って説明したり、報告書等を作成したりしていました。
でも、いつからか「自閉症」という言葉を使わなくなり、「発達障害」という言葉を好んで使うようになりました。
それは、発達を後押しする方法を教えてもらったから、発達していく人たちを見たから、だと思います。
「発達の障害」とも読めるのに、「自閉症」という言葉よりも、発達に向かった“動き”を感じるのが面白いです。
「発達障害」という言葉に、「やりようがある」「変わるチャンスがある」「成長できる」という想いを乗せて使っていたような気がします。


ところが最近、「発達障害」という言葉を使うのも止めている自分がいました。
「どうすれば生きやすくなるか?」「どうすればより良い未来になるか?」が大事なのであって、その後押しをするのが自分の役目という想いがより強くなりました。
ですから、「ちゃんと眠られるようになったら、頭も、身体も、ラクになるな」とか、「コミュニケーションが“相手とのやりとりである”って実感できれば、学校でも良い関係性が築けるな」というように、ちょっとでもポジティブな変化が訪れたら良いなって単純に思い、行動する自分がいます。


「発達のヌケや遅れを発達させる方法を教わりました。自閉脳と相性の良い方法を勉強し、実践してきました。その中で、あなたのお役に立てるものがあれば、提供します」というシンプルな気持ちでいます。
私が持っているアイディアが誰かのお役に立てるのなら、その人が自閉症か、発達障害か、なんて関係ありません。
みなさんが求めているのは、生きやすくなる方法、成長できる方法であって、自閉症支援でも、療育でもないと思います。


このように自然と思えている私は、今、とてもスッキリした気持ちで仕事ができています。
自閉症や発達障害という言葉を使わずに支援していると、「人が人を支援している」というイメージが湧いてきます。
人が人を支援しているとき、その間には「自閉症」「発達障害」という言葉は不要なようにも感じます。
人と人とのシンプルな関係になれれば、真の協働が生まれてくるんだという実感があります。


「自閉症」や「発達障害」などの診断名、「視覚的構造化」「課題分析」「コミュニケーションカード」などのギョーカイ語を世間の皆さんに広めることは、人と人との間に余計なものを挟み、どんどん距離を離していくようなイメージしか湧いてきません。
ですから、私は目の前の人との間にギョーカイ語を挟まない支援をしていきたいと考えています。
「ギョーカイ語を介さずに、その人と触れあえる支援」が理想です。

2016年10月2日日曜日

言葉は鳴き声を含んでいる

耳の中に入ってくるメロディー 歌詞は明るいのに
伝わってくるのは 重くて 苦しそうな雰囲気
でも 今度のアルバムから聴こえてくる雰囲気には 
以前ほどの重さも 苦しさも 感じられなくなった
少し軽くなったような気がするし 少しラクになったような気がする
何かは分からないけれど 何かが変わったのは確かだと思う


言葉を獲得し ヒトは人になった
人は言葉を自由自在に操り 「お前たちとは違うんだ」と動物たちの前に線を描く
しかし 勝ち誇ったように掲げるその言葉にも ヒトが含まれている
私達の内から出てくる音は ヒトの鳴き声でもある


鳴き声には 感情の匂いがする
だから 同じ言葉に触れても 漂う雰囲気はまるで別のものになる
明るい歌詞で 暗い曲のように
言葉は変えられても 匂いは変えることができない


いつも美辞麗句を並べ 「当事者のため」「より良い社会のため」と言う支援者がいる
でも 私の内側から共感が生まれてはこない
なぜだろうと 自分でも疑問に思っていた
そして出た答えが その支援者の言葉の中に“悲しい鳴き声”が聞こえるから


「障害も素晴らしい個性です」と言って “治ることのない人達”という鳴き声が聞こえてくる
「当事者のために頑張ります」と言って “私のことを注目して欲しい”という鳴き声が聞こえてくる
「自立できるように支援します」と言って “どうせ無理”という鳴き声が聞こえてくる
こんな鳴き声が聞こえていた私は 発する言葉に嫌悪感を懐いていたに違いない


悲しい鳴き声の支援者は 明日を照らす支援はできない
相手の持つ悲しい感情と共鳴するから
明るい鳴き声の支援者が 目の前にいるヒトの前向きな感情に触れることができ 心地良いハーモニーを奏でられる


その人の言葉 文章 ブログ ツイッターから どんな鳴き声がきこえてくるのだろう…
自分にとって心地良い鳴き声を 聞き分けられているのだろうか?見つけられているのだろうか?

2016年9月30日金曜日

必要な人が安心して医療、福祉サービスを利用できる社会!

昨日、フリーアナウンサー長谷川豊氏が、出演していた番組から降板するという発表がありました。
そのきっかけとなったのは、人工透析に関するブログです。
その表現が報道キャスターとして不適切だったという理由での降板でした。


私も問題になったブログを読みました。
最初に見た瞬間から、不適切な表現があったのはわかりましたし、相当な批判を受けるというのも想像できました。
もしかしたら、本質ではない部分が切り取られて、それこそ炎上するのでは、とも思いました。
本人が言うように「番組降板まで」想像できなかったとは思いますが、多くの批判を受けるのを分かった上で発信であり、相当な覚悟があったのだと思いました。
ちなみに、ある程度の年数が経っても、誰からも批判されない、敵と呼べる人がいないというのは、信念のない働き方をしてきた証拠だと考えています。


本人が意図しなかったとはいえ、誰かを傷つけたり、不快な思いをさせてはいけませんし、それに伴う責任はしっかりとらなければいけないと思います。
でも、このブログを読んだとき、私の中に想いを同じくする部分があったのは事実です。
それは「このままいったら、本当に必要な人が利用できなくなる」「弱い立場の人間が切られていくのを止めなければならない」という点です。
長谷川氏はひっ迫する国民医療費についてでしたが、私は障害者福祉について、特に施設で働いていた頃のことを思いだしました。


施設で働いていた頃、身体的には辛かったですが、精神的にはそこまで辛くなかったんです。
それはどういうことかと言いますと、行動障害を持った人の支援に関して感じていたことなのです。
そりゃあ、行動障害と呼ばれるくらいですから、しんどかったですよ。
さらにそれよりも困難さを抱えている“強度”行動障害の人の支援は、危険な思いも、相当なストレスも、しょっちゅう味わっていました。
それでも、そういった人達の支援をしているとき、「自分たちが支援を頑張らなくてどうするんだ!」という思いがあったのです。


「今まで家でどうやって過ごしていたんだろう…」
「このまま家にいたら、家族ともども崩壊してしまっただろう…」
「ここで改善がみられなければ、それこそ、行く場所がなくなってしまう…」
行動障害の有無に関わらず、こういった思いが浮かんでしまう人達の支援をしているときには、必要な人に必要な支援が行われているという実感があったので、そこまで辛くはありませんでした。
でも…
「本当にこの子は、親元を離れてこの施設に入らないといけなかったんだろうか?」
「本当に行動障害になるべき人だったのだろうか?」
「本当にこの子が使うべき福祉の枠なのだろうか?他に救える子、この場所での支援を必要としている子がいないのだろうか?」
などという思いが浮かんできてしまうとき、精神的なしんどさ、そして虚しさを感じてしまうのでした。


つい先日も、NHKで「縮小ニッポンの衝撃」という番組が放送されました。
これから、どんどん人口は減り続け、地方では今までのような行政サービスができない町、さらに町自体が消滅してしまうということまで予想されています。
これから生まれてくる子ども達が爆発的に増えない限り、または海外から労働世代の人たちを受け入れていかない限り、超高齢化社会はすぐそこまで迫っています。
どう考えても、今のような医療や福祉、行政サービスは維持できないでしょう。


雨後の筍のように増える児童デイを見て、喜んでいる場合じゃないんです。
近い将来、事業所はふるいにかけられて、ただ預かってます、ただ家族のレスパイトです、みたいなところは淘汰されていきます。
だって、国や地域がそんなところまで担えるような力、財源を持たなくなるから。
将来のその子の自立に効果がある事業所に、効率的に振り分けていくしかないのです。
医療だってそうです。
治さない医師、薬だけどんどん処方する医師、ちょっと怪しかったら発達障害ね、みたいな医師は淘汰されていくはずです。
治す医師しかやっていけない時代がくるでしょう。


本来なら自立して生活できるし、働いていけるような資質を持った人が、障害者枠で働く。
本来なら障害者枠で働ける人が、就労支援A型を利用する。
本来なら就労支援A型で働ける人が、就労支援B型を利用する。
本来なら就労支援B型で働ける人が…働ける場所がない…。
私が憤りを感じるのは、このような本来必要な人に、必要な支援、サービスが行き届かない状況なんです。


どんな立場の人にも、満遍なく必要な支援、サービスが受けられる社会が待っているのなら、私は何も言うことはありません。
でも、実際は一番必要な人に、必要な支援、サービスが届きづらくなっている状況があるのです。
私が施設で働いてきたとき、感じていたこととつながります。
入所施設の枠は限られています。
この1つの枠があれば、輝けていた子どもの未来、現実的な話をすれば、子どもも、家族も、救えた命があるのです。
現場の職員には利用者を選ぶ権利はありません。
でも、日々、本当に必要な人に、私達は支援を行いたいと思っていたのは事実です。


私が「治る」や「自立」、「頑張る」にこだわるのは、近い将来の社会、今の子ども達、これから生まれてくる子ども達のことを考えているからです。
「やっと児童デイが増えてきた。グレーの子もサービスを受けられるようになった。さあ、もっと社会に訴えていって、発達障害の人達が安心して暮らせる社会を~」などと言って、建物を青くしてバンサーイ…じゃないんですよ。
見ている世界が狭すぎます。
お年寄りが増えれば、介護サービスだって、医療サービスだって、今よりも必要になってくるのです。
そうなったら、一人ひとりの負担が増えるのは当然の流れですし、サービスの切り捨ても起きてくるでしょう。
日本の労働人口だって減るんですから、お金同様に、福祉、しかもその中で障害者福祉にどれだけの人が集まってくるのでしょうか。
今でさえ、働く人が足りなくて困っている福祉の現場ですよ。


2020年、あと4年後ですね、東京オリンピックの年から人口が減少に転ずると予想されています。
あと4年ですよ!その辺りから日本は変わっていくと思われます。
今のサービスが維持できているだけで儲けものという時代が、すぐそこまでやってきているかもしれません。
今の子ども達が成人する頃、下手したら今の子どもがまだ子どものときに、今の当たり前が当たり前ではなくなる可能性があるのです。
ですから、治せる人は治す、自立できる人は自立する、頑張れる人は頑張ってほしい。
そうしなければ、本当に福祉や医療のサービスが必要な子ども達が利用できなくなってしまうから。


社会は変わろうとも、福祉サービスが削られようとも、支援者はいなくなろうとも、自分はいなくなりません。
自分自身が一番の支援者になれば良いのです。
そうすれば、自分自身の未来のため、本当にサービスが必要な人のため、これから生まれてくる後輩たちのためになるのだと思います。
さあ、できることを今日から始めましょう!明日に向けて。

2016年9月26日月曜日

本来は、どういった人物なのだろう

学生時代、ボランティアで関わっていた子の親御さんが、こんな話をしてくれました。
「私、朝起きたら、この子がしゃべれるようになって、普通の子になってる夢を見るんだ」って。
そして、この前はこんなことをした、今日はこんなことを言った、などと話をしてくれました。
この親御さんが語る夢の話には悲壮感ではなく、明るさ、楽しみ、我が子への愛情が漂っていました。


この親御さんとの会話をきっかけに、「この子がしゃべれるようになったら、どんなことを言うだろうか?」「もし知的障害がなかったとしたら、どういった仕事をするだろうか?」などを想像するようになりました。
ボランティアで関わっていた子の他の親御さんとも、「たぶん、こんな部活動してたんじゃないかな」「どちらかというと文系の大学かな」「この子、おじいちゃん子だから、介護系の仕事を目指したかもね」「私は勉強も、学校も、嫌いだったから、すぐに就職したんじゃない」などと、一緒に話をして盛り上がることがありました。
みなさん、親の希望や願い、夢よりも、目の前にいる子どもの姿から始まる連想を語ってくれたのが印象深く残っています。
親御さんの語る子どもの姿には、目の前にいる子との重なり、リアリティをいつも感じていました。


施設職員になったあとも、このように「知的障害がなかったら…」「行動障害がなかったら…」「もししゃべれるようになったら…」と、どんな大人になるのかな、どんな人生を歩むんだろうか、どんなことを言うだろうか、など頭の中で想像しながら、日々、支援していました。
サッカー部に入っていただろうと思う子とは、サッカーをして遊んだりしました。
ペットを飼っていただろうと思う子とは、ペットショップに行って、犬や猫を見て過ごしたりしました。
明るい曲が好きそうだな、女の人の歌声が好きそうだな、と思う子には、そのような音楽を用意して聴いてもらったこともありました。
あのときのように、自分が想像した姿にリアリティが感じられると、支援が良い方向へと流れていっていました。


なんでこのようなことを思いだしたかと言いますと、この前、久しぶりに会った親御さんから「4年前に言ってた通りになりました!」と言われたからです。
この親御さんのお子さんが、まだ学校に通っていた頃、進路の話になったんです。
そのとき、私はもし知的障害がなければ、アパレル系の仕事を目指していたと思うこと、流行の先端みたいなお店の方がテンションが上がりそうなこと、をお話ししました。
それから月日は流れ、縁あって現在、アパレルの仕事をしていて、毎日、喜んで仕事に行っているとのことでした。
最初は限られた時間の限られた仕事でしたが、働きが認められ、障害者雇用枠ですが、社員として働けるようになったとの報告でした。
結果論かもしれませんが、4年前のそのとき、その若者が今働いているお店で仕事している姿がリアルに想像できたんですね。
ですから、ずっとそのお店と縁があれば良いなと思っていました。


人によっては、「障害がなければ…」と考えることにネガティブな感情を持つ人もいるかもしれません。
でも、その“人”をきちんと見ることにつながりますし、近い将来を想像する上でも、支援を考える上でも、大切な視点だと感じています。
「本来は、こういった人物ではないのかな」
「内側には、こんな希望やあんな夢を持っているんじゃないのかな」
「この子の資質は、〇〇の方へと進みたがってるはず」
こんなことを想像しながら、今も変わらず関わらせてもらっています。

2016年9月22日木曜日

「二次障害を防ぐ支援」という言葉の持つ違和感

以前は憤りを感じていましたが、今では悲しく感じるようになりましたね。
「適切な支援を受けなければ、二次障害になりますよ~」
「周囲の無理解が、二次障害へとつながりますよ~」
という支援者の言葉。
こういった脅しをしなければ、人を集められない支援者、事業所の力量に悲しみを感じます。
まあ、お金を出して載せている広告なのですから、私がどうのこうの言う立場ではないんでしょうが…。


改めて「二次障害にならないための支援」「二次障害を防ぐ支援」って何なのでしょうか。
私の中では、どうしても二次障害を“防ぐ”と“支援”が結びつきません。
私達が行う支援って、その人の発達を加速させるためのお手伝いというイメージです。
支援には後押しするという力強さがあり、動きを感じます。
でも、“防ぐ”っていう文字からは動きを感じず、その場に留めるというイメージが表れます。
ですから、二次障害を防ぐ支援って、動きを止めちゃうような、役割を打ち消すような、で違和感を感じます。


「二次障害にならないために、うちの支援を受けにおいで」と言うのは、子どものための言葉ではない気がします。
(そもそも商売のテクニックとしても、方向性を間違えている気が…)
子どもには動きがあります。
成長を追い求める動きです。
揺らぎやもがきが試行錯誤へとつながり、試行錯誤が成長へとつながります。
「揺らがなくても良いよ」「もがかなくても良いよ」というのは、優しい言葉のようで残酷な言葉です。
子どもの動きを制止する言葉であり、「成長しなくても良いよ」と言っているようなものですから。


伸び伸びと動きたいのが、子どもです。
伸びやかさがなくなると、子どもらしさがなくなります。
ですから、伸び伸びと動けるように、環境を整え、後押しするのが大人の役目ですし、子ども自身もそれを求めています。
決して子どもの上に覆いかぶさって、子どもの周りに囲いを作ってはいけません。
それこそ、心身が不健康な方へと向かってしまいますので。
動きたいのに、試行錯誤したいのに、成長したいのに、それが阻まれるから病んでいくのだと思います。
「二次障害を防ぐ支援をすると、二次障害になる」というブラックジョークが浮かんでしまいます。


支援という言葉には動きを感じますので、伸びる、学ぶ、身に付ける、乗り越えるなどの動きのある言葉とつながって、動きが加速されるイメージが湧いてくると、支援者のための支援ではなく、本人のための支援になったような気がします。

2016年9月21日水曜日

支援には“引き算”が馴染む

子どもの頃、私は足し算より、引き算の方が好きでした。
引き算をしていると、スッキリしていたのを覚えています。
足し算は何だか窮屈な印象で、引き算はどんどん自由になっていく気がしていました。


足し算が窮屈に感じるのは、教わるときも同じです。
教師や大人、子ども同士でも、「知識や技能を教えてやろう」「お前に足してやろう」という雰囲気を感じると窮屈さを感じ、私は避けたり、反発したりしていました。
反対に、停滞の原因となっているものだけをそっと取り除き、「あとは勝手に伸びてきな」という雰囲気の教え方をされると、心地良さを感じ、やる気が出ていました。


足すことに窮屈さを感じ、引くことに自由を感じるのは、今の私にも続いています。
私の支援の基本は、引き算です。
本人と向き合ったとき、その人から何を引いたら、自由になれるかを考えます。
例えば、睡眠障害を引いたら、自由になれるのではないか?
社会に対する恐怖感を引いたら、自由になれるのではないか?
「どうせ自分は障害者だし」という言葉から“どうせ”を引いたら、自由になれるのではないか?
何がその人の可能性、伸びる力に待ったをかけているのか、その障害を取り除くことを考えます。
「この発達課題がクリアできれば、自分自身で伸び伸びと成長していけるな、問題を解決していけるな」と思うと、嬉しくなります。


知識や技能を足そうとする支援を見ると、嫌悪感を懐きます。
なんだか「あなたには足りないから、足してあげる」というような傲慢さを感じますし、主導権が支援者にあるようで、その人が自由に伸びていかない感じがします。
そして何よりも、その人自身が持っている伸びる力、回復する力、より良く変わっていこうとする力の存在を信じていないような気がして反発心を覚えます。


「1から10まで教えていく、手助けしていく」というのは、発達障害の人たちの支援に馴染まないような気がしています。
抜けている、飛ばしている発達課題をクリアする。
生活の支障となっている感覚や体調の問題をクリアする。
彼らの行く手を阻む障害をクリアにし、自由に羽ばたいてもらうための援助活動とイメージすると、私の中ではスッキリするのです。

2016年9月20日火曜日

宗教と自閉症

以前から、自閉症の人の中にいる「宗教にハマる人」「熱心な信者になる人」の存在に気が付いていました。
別に、自閉症の人の中に特定の宗教を信じる人がいてもおかしいことではありません。
でも、その人達の様子を見ていると、一般の信者とは信仰の仕方に違いがあるように感じます。
「生き方の指標」として宗教を求めている、という点は同じなのでしょうが、そこに主体性が感じられないのです。


「宗教と自閉症の人」という文字を思い浮かべると、「指示と自閉症の人」と連想されました。
自閉症の人が宗教にハマりやすく、熱心な信者になるのは、そこに明確な指示があるからでは、と想像します。
「〇〇を食べてはいけない。〇〇をしてはならない」
「毎週、礼拝しなさい。そうすれば、幸せになれるでしょう」
「あなたが不幸なのは前世の因縁。この壺を買えば、それを振り払えます」
やるべきことが、とってもわかりやすい。
余計なことを考えなくても済むし、「幸せ」など、抽象的な概念が具体化されている。
ですから、自閉症の人と言いますか、自閉脳と相性が良い気がします。
定型発達の人が心の迷いで宗教を求めている一方、自閉症の人が脳の迷いから宗教を求めているように感じることもあります。


自閉症の人と向き合っているとき、「信じるものは救われる」の眼差しを感じることがあります。
「どうすれば良いですか?」「どれを選べば良いですか?」「まず何からしたら良いですか?」
こんなとき、私が「A」と言えば、Aの方向へと突き進んでしまう怖さを感じます。
ですから、こんなときは予定を変更し、心身を整える活動と情報の整理を行います。


外から見れば、「何で、あの支援者の言うことを信じているんだ!?」と思うことがあります。
現実が求めている方向へと変わっていかなくとも、「〇〇さんの言っていることは絶対です!」と信じてやまない人がいます。
その人の主張を聞けば、どの支援者から支援されているかがわかることがあります。
現実が変わらないのは、言っていることが合っていないか、自分自身が変わっていないかのどちらかです。
自分たちの外側に存在しない原因を見ようとするのは、お金の匂いがする宗教のようです。
「社会の理解ガー」には、同じ匂いがします。


親御さんの中にも、同じような雰囲気を感じることがあります。
「とにかく視覚的構造化」「とにかくABA」「とにかくPECS」「とにかくSST」「とにかく〇〇という支援者」・・・。
宗教がすべての課題を解決しないように、特定の療法、支援者がすべての課題を解決するわけはありません。
それなのに、特定の療法、支援者“だけ”を信じ、行動してしまう人がいます。


でも、このような人には自閉症の人の信仰と違う匂いを感じます。
何故なら、親御さんの多くは本能的に知っているから、特定の療法、支援者だけではうまくいかないことを。
このような親御さんからは、自分自身を騙している、自分自身に暗示をかけている姿が透けて見えます。
つまり、手抜きをしているのだと思います。


本来なら、いろんな療法、アイディア、支援者を求め、集め、その中から取捨選択し、我が子に合った支援をカスタマイズする必要があります。
またそれには、親御さん自身が目と耳と…五感を使って子どもと向き合わなければなりません。
というのをわかっているけれど、できない、するエネルギーがない、気力がない状況。
その状況から目を背けようとすればするほど、特定の療法、支援者に対する信仰心が強くなるような気がします。
自閉症の人の脳が「心地良さ」から信仰心を高めていくのに対し、このような親御さんの脳は「騙されよう」と信仰心を高めているように思えるのです。


いずれにしても、外側ではなく、内側に“信”を確立することが課題の解決、成長への第一歩。
そのためには、“芯”を確立する必要があり、“脊椎”を育てていくことが大事ではないでしょうか。

2016年9月16日金曜日

ツッコミ力を養う

元都知事が「聞いていません。僕は騙された」という姿を見て、「そうか、知らされてなかったのか。こりゃあ、都の職員はろくなもんじゃない!」と思う人は、生きづらさを抱えているかもしれません。
都議団が地下に入り、「うわ~~~、真っ青になりましたぁ~」という姿を見て、「問題を追及して暮れている。頑張れ、都議団!」と思う人も、生きづらさを抱えるかもしれません。


だって、いくらなんでも、都知事の判子なしに物事なんて進められないと思いますよ。
あれだけの事業なんですから、資料に目を通したことも、報告を受けたこともないって言うのは、責任逃れするための発言だったとしても、さすがに無理があるでしょ、と思いましたね。
あと都議団がせっせと大勢のマスコミを引き連れて地下に入っていってますがね、今更何をしてるのさって感じです。
この問題が明るみになるまで、どの都議も移転予定の豊洲市場に視察に行っていないのかな??
江東区選出の議員さんだっているはずですし、予算も莫大なのですから、まったく議論にも上がっていない、資料も見ていない、視察もしていない、なんてことはないはずですね。
地下空間の視察は当たり前のことをしているのであって、むしろ今までしてなかった方が問題ですし、していたのに、知っていたのに、スルーしていたのに、だったら大問題です。
文章にすると、これくらいの量になりますが、事実は別にして、こういった想像が瞬時にできるか、できないかでは、その人の実生活に違いが出てくるように思います。


支援者は、様々なビジネストークをします。
「支援があれば、大丈夫」「生涯に渡る支援」「あなたが悪いのではなく、社会が悪い」など。
でも、支援者だって労働者ですし、家庭や自分の生活もありますので、生涯にわたって支援はできませんね。
定年だってあるんですし、福祉の離職率を考えれば、1年同じ人なら良いくらいなんですから。
トラブルだって、周囲が理解してくれなくて起きるトラブルと、本人側の問題で起きるトラブルとでは、どっちが多いですかね?
というか、本当に自分自身に改善すべきことってないの?
社会が悪いって、どう悪いの?
その同じ社会の中で、自立して幸せな人生を送っている人っていないの?
そもそも支援者が言うことがすべて正しいの?そんなに力があるの?
こんな風に考えることができれば、支援者の話を額面通り受け取らず、適切な自己判断へとつながりますね。
「きっと支援者も、自分たちの支援を受けて欲しくて甘いことを言っているんだろう」と想像できれば、どっぷりと支援に浸かることもありません。
どっぷりと支援に浸かり続けると、のぼせてしまうだけですから。
いつしか自分の足で立てなくなります(ブ)


自閉症の人の中には、このような想像をオートマチックにできない人もいます。
ですから、そのような人には情報提供が必要になってきますね。
でも、情報提供をし続けるだけというのでは、やっていることが支援っぽくなってしまうので、その先に進まなければいけません。
想像できる脳みその状態にするのと、1つの情報から複数の情報を想像する練習。
私は「ツッコミ力を養う」と言って、ニーズのある人とやっています。
とにかく何でも良いから思いつくツッコミを入れること。
ツッコミを入れたあと、そのままではただの妄想であり、そのまま信じてしまったらまずいので、説明できる根拠を探すところまでやります。
練習を重ねていくと、結構、早く想像できるようになる人もいますし、ツッコミの辻褄が合うようにもなってきますね。
他人から言われたこと、ニュースやネットでの報道、情報にいちいち気持ちと行動が左右されていた学生さんがツッコミ力が上がってくると、落ち着いたことがありました。
自分でも練習できると思いますので、ある情報→ツッコミを入れてみる→ツッコミの根拠を探す、というのをやってみると良いかもしれません。

2016年9月15日木曜日

エネルギーのバランスをどうとっていくか?

お子さんの進路、将来について相談を受けました。
軽作業のような仕事と、体力を使うような仕事のどちらが適していると思うか?
グループホームを見学に行く際、選ぶ際、息子の場合、どういったポイントを確認したらよいか?
大きく分けて、この2点が相談の中心となりました。


相談を受けている途中、ふと施設で働いていたときのある成人の利用者さんの顔が思い浮かんだんですね。
私の原点は入所施設の職員ですので、あのときの雰囲気に頭の中が包まれていたのだと思います。
その成人の利用者さんは、周期的と言いますか、定期的と言いますか、職員に向かってくるんです。
パンチとか、キックとか、噛みつきとかじゃなくて、職員を掴んで、とにかく押してくるんですね。
身長も大きいですし、身体もガッシリ系の人だったので、結構、大変でしたよ。
私も何度も対応しました。
で、ここでコツがあって、すぐに押しきられたり、逃げたりしてはいけないんです。
すぐに押しきられたり、逃げたりすると、何度も何度も向かってくるんです。
また職員に向かえなかったら、破壊行為が始めるんですね。
ある程度の時間、しっかり対応すると、スッと落ち着いて、晴れやかな顔をして元の生活に戻るんです。


この利用者さんは、日中、軽作業をしていました。
とっても仕事は丁寧なんですね、最後までペースは乱れませんし。
で、だいたい上記のような行動が起きるのは、寮にいるときなんですね、それも突然スイッチが入ったように。
となると、「仕事での我慢やストレスの爆発?」「寮でやることが明確じゃない?」「直前に注意されたり、制止されたり、要求が通らなかったりして?」「作業と寮の職員の対応が違う?」というようなことが思い浮かびますよね。
当然、ケース会議でも、そのような話は出ました。
でも、私は違うような気がしたんですね。
もっと根本的で、シンプルな理由じゃないのかなって思ったんです。
知的障害がとても重いっていうのもありますし、日頃、寝食を共にしていての雰囲気とでも言いますか…。


そんな風に考えていたら、“定期的”というのと、“対応されると落ち着く”というのと、“晴れやかな顔”っていうのが繋がったんですね。
きっとエネルギーバランスを調整していたんだなって。
つまり、自分の中に溜まっていたエネルギー、行き場のないエネルギー、発散できていないエネルギーを職員を押すことで消費していたのでは。
それで過去の資料を見返したり、運動した前後を確認したりすると、やっぱりねってなったんです。
そりゃそうですよね、同性代の人達はバリバリ働いて、バリバリ遊ぶ時期ですもん。
いくら本人が得意で、わかりやすい構造化がされていたとしても、軽作業くらいじゃ持っているエネルギー使い果たせないでしょ。
仕事が終わって寮に戻っても、ごはんの準備するわけではないですし、どこかに遊びに行くわけでもありませんし。
食事の時間を待って、お風呂に入って、あとは基本的に寝るだけの生活。
こんなんじゃ、きちんとエネルギーを使い切れませんね。


こういった施設職員時代のエピソードが蘇ってきたのは、相談してくださった方の息子さんも、成人後も安定した生活を送るためには、エネルギーについて考える必要がある子だからですね。
グループホームで「エネルギーが余ってるんで、ちょっと発散してきます」と言える子ではありませんし、自分で計画して実行できる子でもありません。
今は学校に行き、勉強、運動、実習、部活、行事などで、エネルギーバランスが保たれていますが、これがグループホームに入れば、同じようにはいきません。
となると、余ったエネルギーが頭の中をグルグルさせるのか、動きとして表に出るのか、ということもあります。
ですから、軽作業をするなら生活の場で発散できる方が良いですし、体力を使う仕事でしたら生活の場は整える重視の方が良いといえます。


現代社会の20代、30代の若者は、バリバリ働き、バリバリ遊ぶ世代です。
もっと遡ると、特に男性、オスは地上を駆け巡り、獲物を捕っていました。
ということは、若者はそれができるくらいの身体、エネルギーを持っているとも言えると思います。


アメリカの支援が羨ましいとは思いませんが、強度行動障害の人達が住むグループホーム(一軒家)を見学したとき、午前中から目一杯、庭のプールで遊んでいる姿を見たら、これは良いなと思いましたね。
精神病棟からどんどん受け入れてるグループホームでした。
代表の方に話を訊くと、とにかく減薬を目指しているそうです。
そのためのアイディアがプール活動ですし、ハイキング、ヨガなどの運動、また芸術活動です。
日本とは労働観が違いますし、もちろん住環境も違います。
私は「プールガー」「住環境ガー」と言うつもりはありません。
ただ自分で生活を設計し、組み立てることが難しい人の場合、エネルギーバランスについても周囲の人間が考え、整え、生活の中に組み込んでいく必要があると思います。
構造化された支援がどうのこうのとか、近くにどんなものがあるかとかも大事だとは思いますが、安定した生活、人生を送る上で、もっと根本的な部分に目を向けて進路を考えられるのが良いと考えています。

2016年9月14日水曜日

人当たりの良いヤブ医者が一番儲かるのと、ギョーカイの仕組みは同じって知ってましたよね??

昨日のブログを書いていて、ふと思ったのですが、もしかしたらギョーカイの仕組み自体をご存じない方がいるのかもしれませんね。
それだと、「支援者は一生懸命支援してくれる」「支援者は自立のために手助けしてくれる」「支援者は当事者のことを一番に考えてくれる」なんて本気で思う人がいてもおかしくはないですね。
いや、確かにいるんですよ、支援者の中にこのような人たちは。
でも、それは“支援者”だから、ではないんですよ。
それは、その“人”が一生懸命な人だから、志のある人だから、プロフェッショナルだから、なんです。
私の言っている意味は、以下の文章を読めば理解していただけると思います。


堤未果氏の新刊「政府はもう嘘をつけない」(角川新書)の帯に書かれていましたね。
「お金の流れで世界を見抜け!」って。
ギョーカイもお金の流れを読み解けば、その仕組み、成り立ちが見えてきます。
ギョーカイのお金ってどこから得ているのでしょうか?
利用者負担とか言われていますが、そのほとんどは税金ですね。
まあ、ライセンスビジネスとか、検査だけで〇万円ってところもありますが、それは民間会社の話です。
ちなみに、福祉サービスを使っていると、あまりお金がかかっていないような気がするかもしれませんが、実際、同じ業務を民間が100%利用者負担で、ってなったら、上記の民間会社のような利用料がかかるのですよ。
「タダだからイイや」って雑談をしに、相談機関に行ってはいけません。


ギョーカイの財布の中身の大部分は、税金です。
ということは、その税金が適切に使われているかを評価するのは、“行政”の仕事になります、“利用者”ではないのですよ。
税金が少しでも入ると、作成すべき書類が膨大になるのは、お役所の仕組みだからですね。
個別支援計画がどうだとか、施設の建物、人員が要件を満たしているかどうだとか、適切にお金が使われているかどうだとか、いろいろ行政に提出しなければいけません。
で、ここがミソです。
もし自分が行政の人間で、相談機関でも、児童デイでも、通所、入所施設でも、その機関を評価しなければいけないとなったら、どうしますか?


1つの機関から、膨大な報告書が届くのですよ。
1つ1つ丁寧に見ますか?
もちろん、紙面上の部分は、きちんと精査し、評価はできると思いますし、しなきゃいけません。
でも、紙面にかかれていないことまで評価しますか?
というか、労力を割いてまで、自分の足と目で現場を見ますか?
もっと具体的に言いましょうね。
その個別支援計画が、その場で行われている個々の支援&療育が良い支援か、意味のある支援か、そうではないのか、なんてことを行政の人の中でどれくらいの職員さんができるのでしょうか?
「この子のスケジュールの提示数は、半日でいいの??一日、行けるんじゃない」
「課題分析の評価、あまいんじゃないの」なんてね…(笑)
たとえ、できたとしても、各施設を利用している利用者さん、一人ひとりに聞き取りをし、評価するっていったら、それだけで1年が終わってしまいますよ、現実的ではありません。
しかも行政には、定期的な部署の異動のルールがあるのですし。


個別支援計画だって、膨大な数の提出書類の中の1つにすぎません。
それよりも、指摘するのなら、支援の専門家ではない人でも指摘しやすい部分を指摘するでしょ。
防火設備がどうだとか、提出書類がすべて揃っているかどうだとか。
だから、個別支援計画を1つ1つ丁寧に見て、その内容までなんて見ているとは考えにくいのです。
でも、立場上、その機関の支援が適切かどうかは評価しなければいけません。
で、見るのが、実績数です。
これって素人でも判断しやすいですよね。
昨年よりも、実数が伸びていれば、ニーズがある機関、頑張っている機関って形上は評価できますから。


「ふむふむ、他県の機関より実数が多いな」
「昨年よりも、利用者数が伸びてる。減ってないからOK」
「稼働率は100%に近いな」
「講演会や学習会、機関支援など、定期的に行われている」
「よし、適切な機関として評価しよう」
「(書類も揃っているし、実数も良いから、自分が“適切”と評価したあと、何かあっても自分の責任は問われないな。異動するまでの間、問題が起きなければOK)」
まあ、どこもこんなところでしょう。


ギョーカイが何を見て行政から評価されるなんてことは、百も承知ですね。
だから、せっせと実数を稼ぐのです。
だって、支援を受けにきた人が、1回で「もう大丈夫です」ってなったら、実数は1しかカウントされませんので。
できるだけ長く利用してほしいんですね、そういう評価の仕組みだから。
よって、「人当たりの良いヤブ医者が一番儲かる」仕組みと同じと言っているわけです。
実数を増やすには支援を延ばすか、利用者自体を増やすのです。
「生涯にわたる一貫した支援」って良い言葉ですね~。
ちょっと発達に遅れがってなったら、すぐに「きみは発達障害」って。
「自閉“傾向”」「“グレーゾーン”の子」って良い言葉ですね~。


ここまで読んでいただいた方には、私が支援者批判をしているように感じるかもしれません。
でも、それは問題の根本的なところで、私の考えとは違います。
この問題の根本は、支援者ではなく、このシステム自体です。
本来なら、その人の問題が解決し、成長でき、自立できたら、それが一番の評価になるはずです。
つまり、「利用しました」「はいっ、一回で解決です、自立です」がベストなのです。
ですから、実数ではなく、福祉サービスを使わず自立できた人の数、または福祉サービスを利用するにしても、全部が全部ではなく、部分的にもその人の持っている力を使い、より自立的に過ごせる場面が増えたという数が評価されるべきだと考えています。
もちろん、身体的な障害を持っている人とは同じようにはできないかもしれませんが、少なくとも発達障害の人達の支援に対しては、このような評価に変えていくべきだと考えています。
利用者の利益が、支援者のモチベーションと評価につながる仕組み。


しかし、最大の抵抗勢力がギョーカイなんですね。
だって、支援の質、自立度が評価の対象になれば、支援者の技量が問われます。
今のように「大卒一年目で相談業務やってます、エヘッ」なんて無理ですし、求人があったから児童デイで働いています、なんていうのも一瞬で淘汰されます。
それに当然、ウデが良い支援者がいて、どんどん自立させられたら、「こんなに予算出さなくてもいいよね」って判断されるこのご時世です。
だから、必死に「自閉症は治りません!」「生涯にわたる支援が必要なんです!」と訴えるのです。


こういった問題は、ギョーカイ内の志ある支援者たちは気が付いています。
私は異端児のような扱いをされていますが、同じ想いをもっている支援者たち、仲間たちがいるのです。
でも、その人たちがおのおのの場所で、本当の自立、利用者の最大限の利益を目指したら、冷や飯を食わされるのが現実です。
しかも、そういった支援者だって、働いて稼ぎ、生きていかなければならないのです。


だから、私は次のようなことを言いたいのです。
「もし身近な支援者が、あなたのために最大限支援してくれているのなら、支援者ではなくて、その“人”が本物なのです。
現場の職員は、日々、こういったジレンマと戦いながら支援しています。
こんなシステムでラクだ、良いなんて、思っている人ばかりではありません。
でも、人間は弱い生き物で、自分を優先させてしまうことが往々にしてあります。
だからこそ、当事者の人達、親御さん達には、支援者に頼り切るのではなく、「自分の一番の支援者は自分自身だ!」という主体性を持っていただきたいのです。
どんな支援を選ぶのか、どんな人を選ぶのか、どんな未来を選ぶのかは、一人ひとりの決断にかかっているのです」と。

2016年9月13日火曜日

学校には行かないけれど、児童デイには行きます

学校には行かないけれど、児童デイには行く。
このような子ども達の姿が珍しくなくなったと聞き、ガックリきましたね。
これで良しとする大人がいるという証拠ですから。

学校って不登校の“数”を減らしたいんですね。
教育委員会がうるさいですし、管理職は気になる数字ですし。
ですから、個別のアプローチをして何とか登校できるように促します。
でも、時間と労力がかかりますし、結果が伴わないことが多々あります。
そこで学校は通院を勧めるんですね。
だって、診断名が付けば、病欠扱いにできるから。
これが一昔前の手でした。

しかし、近頃では、病名ではなく、発達障害の診断を受けるように促すという新手が現れたんですね。
とにかく学校側は、「発達の遅れがあるかもしれません」「一度受診を」と言うんです。
親御さんは不登校で悩んでいる中、さらに「発達障害」と言われれば、びっくりしますよね。
それで、急いで病院へと向かいます。
病院に行けば、ほとんどの場合、ちゃんと発達障害の診断が出ます。
だって、ハナから学校が勧める病院は、発達障害が増えて欲しい系の病院だから。

発達障害の診断名がつけば、次に勧めるのは相談機関。
相談機関は、相談1回ごとに報告書の実数が増えて、万々歳です。
そして、児童デイという存在を伝え、手続きの仕方も丁寧に教えます。
で、自分のところと仲良しこよしの児童デイを勧めて、はいっ、完了。
仲良しこよしの児童デイさんは、コンサルテーションを頼んでくれますからね。
ここでも実数1ゲット!
いや、年に数回、支援ミーティングがあるから、その分、増えていきますね。
児童デイも、自己努力しなくても、お客さんが定期的にいらっしゃるので、こちらもOKです。

学校側も、「特別なニーズのある子」となれば、そこまで不登校に過敏になる必要はなくなりますね。
ギョーカイ連中も、「お母さん、児童デイは療育をやるんですよ」「児童デイに通えているだけでも、〇〇くんはとっても頑張っています」なんてお決まりのセリフを言えば、親御さんの心配は別のことへと逸れていきます。
これで、みんなが丸く納まりますね、本人以外は。

「学校行かないけれど、児童デイには元気に通ってます」と言われて、「それはよかったね、お母さん」じゃねーよ、学校、病院、相談機関、児童デイ!
本人にとっては、何のメリットもない診断名をつけられて、しかも、「障害」という状態ではない子に、「はい、スケジュール」「はい、視覚支援」じゃないでしょ。
「やっぱりコミュニケーションカードがあると、きちんと伝えたいことがわかりますね」って当たり前だろ、その子は障害を持った子ではないのだから。

診断って、福祉を使うためのもの?
診断って、問題の根本をあやふやにするためのもの?
診断って、行政に提出する実数を増やすためのもの?
診断って、ギョーカイが生き延びるためのもの?

学校には行かず、児童デイにだけ通い続けることが、この子の将来にとってベストの選択なのか、立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
児童デイって18歳になったら通えないよ。
そもそも「私は障害者です」と言って生きていくのかい?
子ども自身は、それで納得しているの?
このままでは、「不登校の理由は発達障害があるから」ってならないかい?
「当事者主体」「当事者のニーズに応える」と言いながら、いつもギョーカイの思惑に翻弄されるのが、子ども達、そして情報を持たない親御さん達です。

私は忌々しき事態だと思い、ブログに表しました。
これがまかり通る社会を今の子ども達、未来の子ども達に残してはいけないと思っています。

2016年9月8日木曜日

「とりあえずビール」みたいな「とりあえず特学」という掛け声

「学校の授業についていけなくなって…」
「じゃあ、特別支援学級ですね」
「クラスの友達とトラブルが絶え…」
「じゃあ、特別支援学級ですね」
「学校を休みがちで、不登…」
「じゃあ、特別支援学級ですね」

こんな話を聞くたびに、飲み会の「とりあえずビール」を連想してしまいます。
なんかあると、「とりあえず特学へ」って。
その学級でやること、やれることはないの??
一昔前の「特殊学級」から名称も変わり、勧める方も気持ちの上でのハードルが下がったような気もします。

同級生がたくさんいる教室では授業に集中できない。
教室内の刺激が多すぎて、それだけで疲弊してしまう。
一斉授業では、先生の言ってることがわからない。
だから、特別支援学級で学んだ方が良い、というのなら分かります。
「子どものより良い学び」と「将来の可能性の広がり」という核の上に、大人の事情が覆いかぶさるから嫌悪感につながるのです。

あと1人在籍数が増えれば、臨時の教員、補助員を雇える…っていうのは、学校の都合です。
通級より特学の方が入りこみやすい…っていうのはギョーカイの都合です。
担任の先生が「できれば特学に」って思うのは…わからなくもないです。
実際に仕事として通常学級の担任はしたことがありませんが、学生時代、2回、2ヶ月ほど、教育実習で入りました。
正直、40人学級の中での一人に個別対応は難しいです。
「一人の子に合った教育を」と思えば、残りの39人が…、「39人を中心に」と思えば、その一人の子が…ってことになります。

でもだからこそ、特別支援コーディネーターなんでしょうが、実力以外のところで担当が決まっていたり、反対に実力で決まっていても、「自分より年数の若い教師の言うことなんか聞かね~」という態度の教員がいたり、「不登校も、家庭のトラブルも、全部コーディネーターに渡しちゃえ」って手一杯にさせちゃったりするから、結局、担任は孤立するし、「できれば特学へ」って思っちゃうのでしょう。
とにかく人員の確保とか、行政に提出する実績数の確保とか、連携がうまくいかないとかは大人の都合だと思いますね。

あと許せないのが、現在、特別支援学級で学んでいる子達の学びをないがしろにしている感があること。
1人仲間が増えて、それですぐに先生が増えたり、クラスが増えたりするなら良いですが、そんなにスムーズに事が進むわけはありません。
生徒が1人増えるということは、刺激が増えるということですし、それに伴う環境の変化、授業の見直しは当然ありますし、先生との個別学習の時間も減る場合も出てきます。
子ども達は温かく迎えるかもしれませんが、「通級で頑張れる子は頑張ってよ」っていう意見が出るのも自然だと思いますね。
「みんな落ち着て学んでいたのに、1人増えてから…」なんて話は、珍しい話ではありません。
「通級で難しかったです。だから、特学に来ました」では、転籍する子の学びも、特学に在籍していた子の学びも守られていないのでは、と思っちゃうのです。

「養護学校(現特別支援学校)の方が、先生たくさんいるから、こっちにしました」なんて言う親御さんがいて、ビックリしたことがあります。
いやいや、お子さん、特学で学べるし、というか、頑張れば通級でも学べるし、学校は介護施設ではないし…。
より個別の教育が必要な子の分を貰ってないかいって思いましたね。

学校って、子どもが学ぶところだから、その子の学び方にとって、その子の未来にとってベターな選択をしてほしいですね。
大人は「とりあえずビール」と言いますが、子どもは「とりあえず好きなもの」を頼みます。
「とりあえず特学」の前に、何故、在籍学級で学べないのか、どうすれば学べるようになるのかを検討してもらいたいですね。
子どもの声を聞かずに、勝手に注文してはいけません。
子どもが食べなかった料理は、最後には大人が食べなければいけなくなりますから。

2016年9月7日水曜日

雰囲気を察した子、雰囲気を察してほしかった子

「みんなから“バカ”って言われる」
私からの質問に、頷くか、首を横に振るかだった子が、唯一、はっきり言った言葉でした。
この言葉には、この子の思いがギュッと詰まっていたんだと感じましたね。
だから、私はすぐにこう伝えました。
「みんなから“バカ”って言われて悔しいんだよね。本当は勉強頑張りたいんだよね。おじちゃんに任せて。〇〇ちゃんが学校でちゃんと勉強できるようになるための方法を知っているから、一緒にトレーニングしようね」と。
その子は、泣きながら何度も頷いていました。

小学生くらいの子ども達って残酷な面もあるし、大人の空気を察しちゃうところもありますね。
授業中、間違った答えを言ったり、テストの点数が悪かったりすると、すぐにバカだ、バカだと言いますし、大人たちの雰囲気を察し、「〇〇学級(支援級)に行けよ」なんてことも言っちゃいます。
実際に、この子も在籍クラスで同様の目に遭っていました。

担任の先生も、その子と話をしたそうです。
そして、その子から出た言葉が冒頭の言葉。
それを聞いた先生は、「それなら〇〇学級(支援級)で勉強してみたら」とその子に言い、親御さんにも言ったのでした。

同様の反応をしたのは、学校の先生だけではありませんでした。
どこに行っても、この子は「みんなから“バカ”って言われる」と言いました。
すると、医師も、相談員も、療法士も、みんな、特別支援学級を勧めました。
「このまま、辛い思いをさせてると、(でました!)二次障害になりますよ」
「授業についていけていないんだから、通常級は無理でしょ」
「将来を不安に思っているかもしれませんが、福祉がありますから」

この支援者たちのコメントを聞いて、私は違和感を持ちました。
どうして、この子のメッセージの奥にある気持ちを汲み取ろうとしないのかな?
どうして、この子がかわいそう、だから、その場から別の場所へ、なのかな?
どうして、誰一人、その学級で勉強できるように手伝うよと言ってあげられなかったのかな?
せめて、この子が今の学級で勉強したいという思いを察し、汲んでほしかった…なんて思うのです。

確かにあまり話をするのが得意ではない子です。
特に家以外で話をするときには、余計にしゃべれなくなります。
でも、この子が言った「みんなから“バカ”って言われる」っていうメッセージには、辛い思いだけではない思いも漂っていました。
子どもってみんな、勉強するのが好きなんだと思います。
それは知的障害のあるなしに関わらず。
「知りたい」「できるようになりたい」って欲求を持っているのだと思っています。

本当は勉強したいという思いを伝えたかった。
でも、大人たちの「通常級は無理」「特別支援学級へ行って」という雰囲気を察しちゃったのでしょう。
それで、やっと言えたのが、「みんなから“バカ”って言われる」という言葉だと、私は想像しています。
言葉で表せていないその子の“思い”に目を向けること。
そして、大人が先にメッセージを醸し出さないことが大切だと思った出来事でした。
お母さんも「人間脳を育てる」の本を購入されましたので、本人、親御さんと一緒に「学習できる土台」作りに取り組んでいきます。

2016年9月2日金曜日

障害者として見て欲しいの?障害者として見て欲しくないの?

一般の人達に受けが悪いのが、一部の発達障害の人が言う「私は見えない障害ですから」って主張。
「できそうに見えても、できなくて困っていることがあるんです」
「怠けているわけではないんです。支援が必要なんです」
と言われると、一般の人はそうかと思い、大目に見たり、手伝ったりしようとします。
でも、その一方で「あまり仕事をさせてくれない」「障害者枠ではなく、一般の人と同じように働きたい」「なんでも手を貸して、私を障害者扱いする」って言う人もいます。

ある企業の方が言ってました。
「障害があって大変なのだろうと思うのですが、どうしても都合が悪いときに“障害”って言葉を使っているように見えるんです」と。
雇う側は、その人に期待する仕事の種類、量、質があります。
期待に応えるために「こんな配慮があれば」と言うのなら分かりますが、「障害があるから応えられません」というのは受け入れづらい主張になりますね。

以前、私が関わっていた人で、周囲に障害のことを伝えず、一般の人として働いている人達がいます。
その中の一人の若者は、「私のこと、誰も障害者として扱わないのが嬉しい」と言っていました。
また、ほかの若者は、「苦手な仕事もあるけれど、同じお給料を貰っているのだから頑張る」と言っていました。
高校時代から関わっていた学生さんは、大学に入学する際、「障害のことは言わず、一人の学生として大学に行きます」と言って進学しました。
彼らの話を聞いていると、障害者としてではなく、一人の人間として成長し、社会に羽ばたいていくことを望んでいるのだと感じます。

発達障害は、発達しない障害ではありません。
ですから、私は彼らの持つ障害は、改善させる対象であり、治す対象であると考えています。
そのための発達援助こそが、支援者の求める支援ではなく、本人たちが求める支援だと思っています。
こういうことを言うと、当事者の人の中には障害がなくなることに拒絶反応を見せる人がいます。
でも、それって「一人の人間として勝負するのが怖いよ~」「できない理由の一つがなくなるのが嫌だよ~」とも見えるのです。

別に困難が改善し、障害が治ったと言える状態になったとしても、それまでの努力や頑張りはなくならないと思うんです。
周囲から「障害持っているように見えないね」って言われても、それは過去に困難や苦しみがあったということの否定ではありませんし、むしろ自分が頑張り、成長できたという証拠だと思います。
自分自身が一番、自分の辛さと頑張りを知っているのですから、「障害持っているように見えないね」という言葉や態度は、ポジティブなメッセージとして捉えた方が良いと思いますね。
そう言ってくれた人は、“障害”ではなく、“あなた”を見ているのですから。

2016年9月1日木曜日

自殺しようとする子がいたら…

まずは、大きな声で「バカ野郎!!」と言いますね。
「自殺なんか考えてるんじゃねー!」
「ふざけるのも良い加減にしろ!」
とにかく本気で怒るのが先だと思いますね。

今日、9月1日は子どもの自殺が最も多い日だと言われています。
ですから、いろんな人達が、そういった子どもに語り掛けます。
「辛いんだね。無理して学校に行く必要がないよ」
「私もずっと学校に行きたくなかった。学校に行かない選択肢だってある」
「学校がすべてじゃないんだ。学校に行かなくたって、生きていける」
「親御さんは子どもの変化に気が付き、登校のプレッシャーをかけないように」
などなど。

こういったメッセージを見るたびに思うんですが、これって自分が子どものときに掛けてもらいたかった言葉ですよね、ほとんどが。
これって今まさに自殺を考えている子に向けられるメッセージのはずですよね。
だったら、大人の役割として、まずやることは共感じゃないでしょ。
責任ある大人がやることは、「自殺なんてバカなこと考えるんじゃない!」という怒りのメッセージを伝えることではないかって思うんです。
そんな考えを持つこと自体を否定しなきゃだめでしょ、特に相手がまだ成長途中の子どもなんだから。

親御さんから「うちの子が、自殺しようとして」とか電話が来ることもあります。
あとから切った手首を見せてくる(敢えて言いますが)バカもいますし、何かあると「もう自殺しかない」とか言ってくるバカもいます。
そんな若者たちを目の前にしたら、私は心の底から「バカ野郎」って言いますよ。
そこに至るまでの挫折や辛さはあるでしょうが、それよりも伝えるのは「自殺は絶対ダメ」「そんな選択は許さない」っていうメッセージだと思うんです。
衝動的に行動した人もいれば、本気の決意をもって行動した人もいます。
だから、私は、というか責任ある大人は、本気で自殺を否定しなきゃいけないと思います。

共感や問題の解決は、あとからでもできます。
でも、自殺の否定をやっておかなければ、再び何かあったときに試みる危険性があります。
また、こうすれば周囲をコントロールすることができるというような誤学習、誤認識を生む危険性もあります。
実際、本気で自殺する気がないのに、繰り返す若者もいますので。

世界を見渡せば、生きたくても生きられない人達が今、この瞬間にも多くいます。
そして、日本にも病気などでなくなっていく命もありますし、祖父母やその1つ上の世代の人たちは、死と隣り合わせの中を必死に生きてきた人達なんです。
そういったことを教わるのも学校でしょ。
「学校に行かなくても働けるし、生きてもいける」というのは、行かなかったことによるデメリットをきちんと伝えていません。
行くことで得られるメリット、デメリット。
行かないことで得られるメリット、デメリット。
それを両方きちんと伝え、子ども自身が選択できるようにするのが支援でしょ。
子どもは染まりやすいですし、特に自閉っ子達はそのまま飲みこみやすい。
だから、発言には気を付けなければならないのです。

「死んだら、また生き返って人生をやり直す」なんてことを真顔で言う子もいます。
「それはマンガか、ゲームのやり過ぎで、もし生き返ったとしても、同じ課題は残ったまま。また同じ課題にぶつかったら死のうとするのかい?」なんてことを言ったことがあります。
ニュースでも悲しい報道がなされると、周囲が悲しんでいる様子が伝えられ、また専門家、コメンテーターの人達が「担任ガー」「学校ガー」「カウンセラーの配置」「学校システムの崩壊」「多様な学びを~!」と言います。
でも、誰一人、「自殺なんかしてバカ野郎」と言いません。
こういった不幸な出来事がもう起きないように、一人でも思いとどまれるように、「自殺を考えてる子、絶対にダメだ!私達は許さない!」というメッセージを送るべきではないでしょうか。
結構、思い悩んでいる子達は、このような報道をしっかり見ています。
そして、結構、真に受けている子も多いというのが、私の肌感覚です。

「学校のシステムが悪い」「私達(発達障害の子)には、現行の学校制度以外の多様な学びが必要だ」「だから、学校に行かなくても良い」などと、一部の人の主張をそのまま鵜呑みにして信じている若者も少なくありません。
でも、いじめの問題は、学校の問題ではなく、いじめる子の問題です。
学校のシステムを変える前に、いじめる子をどうにかするのが大人の仕事です。
長期休みのあと、朝起きれないのは、夏休み中、生活が乱れているっていう原因もあります。
基礎基本である生活リズムを整えてから、もう一度考えるべきです。
嫌かもしれないけれど、学校に行くからこそ、養える成長があり、将来に活きる学びがあるってことも伝える必要があると思います。
声高々に主張する大人たちの中には、主張ありきの人も少なくありません。

自殺を試みた若者に私が必ず言うのが
「死んだとしても、絶対に線香をあげになんか行かない」
「涙の一滴も流さないし、共感もしない、かわいそうだとも思わない」
「〇〇のことは大バカ野郎と言うし、一生許さないから」
大人が本気で「No」と言うことが、誤った選択を思いとどまらせ、未来の希望の芽を守り、育てることだと考えています。
だから、私は今、悩んでいる子ども達にこう言います。
「自殺なんか考えるんじゃねー!バカ野郎!!」

2016年8月31日水曜日

嫌いな人と距離を置こうとするのは、自然なこと

私は、自分を守るための嘘をつく人間が嫌いです。
私は、言い訳ばかりして成長しない人間が嫌いです。
私は、口では良いことばかり言っていて、実際には行動しない人間が嫌いです。
ですから、こういった人に対しては、はっきり「No」と言ってきましたし、距離を置いてきました。

誰しも嫌いな人はいるでしょうし、私のような振る舞いをするのは自然なことだと思います。
でも、これが対障害を持っている人になると、不自然に見えるというのです、支援者という人達には、一部の親御さんには。
まあ、私から言ったら、そっちの方がどうかしていると思いますが。

何故、特に支援者は障害を持った人に対して「嫌い」と言ったり、距離を置いたりしてはいけないのでしょうか?
私はガツガツ言いますよ、「嫌い」だって、怒りもしますし。
「もう応援したくない」「支援するのも嫌だな」「別の支援者に頼めば良いでしょ」
今月だけで、3~4人に言いましたね。
そう考えると脂っこい8月でした(笑)
脅すという意図ではなく、正直な気持ちを伝えたのです、一人の人間の。

支援者って、本来、目の前の人が“社会の中”で自立していくことを応援していくはずです。
それなのに、プライベートな時間で、障害のない人がやったら絶対に許さないであろう行為をされたとしても、相手が自分の支援している人だったら、「もう同じ間違いはしないでね」とか、「一緒に、その課題をクリアできるよう頑張っていこう」などと言っちゃうのです。
こんな対応、人間関係って不自然ですし、いびつですよ。
そんないびつな対応をするから、問題は解決しないし、誤学習もさせちゃう、そして本人の中に「支援者だから、どうせ許されるだろう」という甘えも生まれるのです。
で、結果として、社会の中に出ていくことができなくなるんです。

つい先日も、自分の失敗を隠した上に、最後には「僕はアスペルガーだから」って言うもんだから、「都合が悪くなったら、アスペルガーって言うんじゃない。どの診断基準に、“アスペルガー症候群の障害特性は嘘をつく”って書いてるんだー。嘘をついたのは、アスペルガーという障害ではなく、〇〇〇〇という人間だ。何でも障害のせいにするのは、同じ障害を持っている人達に対して失礼なことだし、私はそんな人は大嫌いで支援したくない!それに自分を守るための嘘をつく人間のことは信用しない!!」と言いましたよ。
そしたら5分くらい俯いたあと、「これが“信用されない”ってことなんですね。いつも、みんなから「お前は信用できない」って言われるんだけど、その意味がわからなくて…。自分がアスペルガーという障害を持っているから、信用できないって言われてるんだと思ってました」と言っていました。
たとえ、それがネガティブな情報だったとしても、真実を伝えることが正しい情報提供となり、自然な学び、成長へとつながるんだと思いますね。

このように直言されても、それが正しい情報だとしたら、彼らは受け入れ、また成長の機会にすることができるのです。
私が直言すると、いつもたじろぐのが支援者であり、一部の親御さんです。
そして彼らに恣意的に一部の情報を隠し、改変して伝えてしまうのです。
そんなんじゃあ、社会の中で自立していくことなんかできませんよ。
たまに「どんな支援の意図があって「嫌い」って言ったのでしょうか?」なんて尋ねてくる支援者もいますが、「私の正直な気持ちです。別に支援のテクニックの一つではありません」とはっきり言って、さらにたじろいでもらっています。

あなた方は、不自然な関係性を保ち、一生囲い続けるのでしょうか?
好きな人がいれば、嫌いな人もいる。
それが彼らが羽ばたこうとしている真の社会の姿です。
自分のことをはっきり「嫌いだ」と言う人間が目の前にいることから始まる学びもあると考えています。

2016年8月28日日曜日

ひきこもりについての空想

この世にいる動物の中で、ひきこもる動物っているのだろうか…なんてことを考えてみることがあります。
動物界にはアマゾンはないはずだから、自分の巣穴まで食べ物をお届けってことはできないです。
だったら、生まれてきたばかりの子か、まだ餌の捕り方を知らない子以外は、巣穴にずっといることはできません。
食べなきゃ、生きていけないので。
親とはぐれたり、親が他の動物に食べられたりしたら、例え子どもでも、這ってでも巣穴から出て食べ物を探しに行きます。
巣穴にいて餌を待つという選択肢は、遺伝子的には組み込まれていないんじゃないかな、なんて動物界を見て思います。

人間も動物なのだから、きっと遺伝子的には、ひきこもらないんじゃないかな、と思います。
じゃあ、なんで人間はひきこもるのでしょうか。
人間界にはお金も、アマゾンも、コンビニも、福祉制度もあるからっていう答えは面白くありません。
爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳のどこで、ひきこもるのだろうかと空想してみます。

爬虫類の脳で、ひきこもる人もいると思います。
自律神経の乱れで、餌を捕りに行きたいけれど、身体の方がNOと言っている感じです。
生命活動でいっぱいいっぱいの人は、ひきこもらざるを得なくて、ひきこもっているといえます。

哺乳類の脳で、ひきこもる人は、愛着形成が関係していると思います。
守ってくれる存在、自分は守られているという意識が持てない人は、やっぱり巣穴から出ることは怖いのでしょう。
餌を捕りに行くというのは、心の中でも、実際の場でも、帰る場所があるから出て行くのだと思います。
また、自分を育ててくれた人が巣穴の外を怖がっているとしたら、本能的にひきこもるを選択するかもしれません。
たとえ、その人と愛着が形成されていても、「そんな人が怖がるんだったら、よっぽど恐ろしい場所なのだろう」と怖さも倍増するかもしれません。
あと、トラウマなど、大きなショックが脳へのダメージとなって、ってこともあります。

人間脳で、ひきこもる人も、近しい人から「巣穴の外は怖いよ」と教わってというように、本脳ではなく、学習の結果ってこともあると思います。
「自分で餌を捕りに行かなくても、生きていける」という学習もあれば、ひきこもることがお得っていう学習もあると思います。
ひきこもりの人と接していると、怖がり故のひきこもりの選択っていう人がいる一方、ひきこもりを武器のように、やたらと全面に出してくる人もいます。
これは学習かなって感じることがありますね。

とりとめもなく、根拠のないような頭の中の空想を綴ってきましたが、ひきこもりは遺伝子に組み込まれていることじゃなくて、環境による影響ってことは自分の中ではスッキリしています。
きっと人間も餌を自分で捕りに行くように、また捕りに行くのに最適な身体、進化をしているのだと思いますね。
餌を捕りに行くことを阻んでいる何かが環境の中に存在しているはずですので、その何かを解き明かし、その異物を取り除いて、その人を自然な世界へと飛び立たつための発達援助をすることが、自然な支援と言えるのではないでしょうか。
そんなことを思いながら、ひきこもりの方達と接しています。

2016年8月26日金曜日

支援者なんてクソくらい!

内から変えることができた先輩たちは、早々と天国へ旅立ってしまった。
外から変えると言っていた先輩たちは、この地を去っていってしまった。
もうみんな、いない。

外では勇ましいことを言っていたのに、顔を合わせると、持っていた刀をスッと鞘に収め、何事もなかったように握手を交わす。
そして最後まで戦う姿を見ることはなかった。

「俺たちを見ていろ。後についてこい。だから、若いうちにたくさん勉強しろ」
気が付いたら、そう言っていた先輩たちは、いなくなっていた。
こういったこともあってか、私は支援者という人間を心から信じることはできない。

私は、若い人達にこんな話をすることがある。
「障害がある人だって、ない人だって、金持ちの人だって、貧乏の人だって、高学歴の人だって、中卒の人だって、100年後には、みんな灰」
「傲慢な医者、上から目線の支援者、何でも分かっているような態度の相談員だって同じこと」
「どうせ灰になるんだったら、見事な灰になってやろうと私は思っている」
「一度、この世に生を受けたんだから、その命をしっかり燃やし尽くそうじゃないか」と。

今、やっている仕事も、いつ辞めてもいいと思っている。
今日が最後の日になろうとも、後悔がないように1つ1つに全力を注いでいる。
開業当初より、早々と潰されるだろうと思っていたから。
4年目も約半分までこれたのだから、今日一日も儲けもん。

「何故、潰されると分かっていても、この地で起業するのか?」と、先輩支援者たちに裏切られた思いのあった親御さんが、私に尋ねてくれた。
私の答えは、とてもシンプルなもの。
「戦わずして逃げるのが嫌だったから」

どうせ負けるのなら、しっかり燃えて、しっかり灰になろうと思う。
その灰が、土に還り、いずれその土の上に新しい芽が出てくるかもしれないから。
もしその可能性があるのなら、喜んで灰になる。

各地で活躍し、移り住んだ土地に住む子ども達、親御さん達の希望、支えとなっている先輩たちの活動に尊敬の念を抱く。
だけれども、私は支援者としては1ミリも尊敬していないし、信じていない。
時計を止めたどころか、後戻りしているこの地の現状に無関係とは言わせない。
にらまれたって、悪口を言われたって、妨害されたって、あらぬ噂を立てられたって、別に命が取られるわけではないでしょ。

支援者という仕事ができなくなったとしても、人生が終わるわけではない。
自分の資質を活かす方法、社会貢献の方法は、支援者という仕事を通さなくたって道はある。
結局、先輩たちは支援者という立場を守ったのだと私は思っている。
本当に守るべきものは、この地に住む、この地に生まれてくる子ども達の未来だったはず。

「支援者なんてクソくらい!」
こう思いながら、今日一日も、一人の人の成長、未来に関わらせてもらっていることを感謝する。

2016年8月25日木曜日

構造化された支援が中途半端で終わる理由

構造化された支援が中途半端で終わる理由を、トレーニングを受けた人同士で話し合ったことがありました、もう10年くらい前ですかね。
そこで出た理由が、「構造化された支援ってめんどくさいから」でした。

確かに、ちゃんとやろうとしたら、めんどくさいんですよ。
だって、まず子どもの実態を把握しますよね。
そして、それを元に構造化された支援を行う、もちろん、グッズを制作、準備。
で、構造化された支援を実際に使ってもらい、ここでも評価。
さらに、その評価を元に、再び構造化された支援を作りかえる。
つまり、評価→構造化→実践→再評価→再構造化→…っていうように、その構造化が最適化されるまで、ずっとこれらのプロセスを繰り返すんですね。

特に、子どもさんの場合、どんどん成長しますよね。
ということは、成長のスピードに合わせて、どんどん変えていかなければなりません。
しかも、経験の広がりから、場面の広がりもあります。
ということは、それだけの場面、種類の構造化が必要になりますし、その1つ1つに上記のプロセスを行わなければなりません。

そのため、よく起きるのが、途中で力尽きるケース。
支援者が追い付けないんですよ、その人の成長のスピードに。
だから、本当ならもっと高いレベルで、自由度が高く、自然な形態にできるのに、っていう手前の段階で止まっちゃうんです。
一方、本人も自分のレベルよりも低いレベルの支援で止まっているため、難なくラクに使えちゃうんですね。
この最適化まで続くプロセスのことを知らない人が見たら、「ちゃんと構造化された支援が利いているね」ってなるんです。
この結果、支援者同士、もしくは支援者と親御さんの間で、「この辺でOKね」ってなる、本人の同意が含まれない中で。

本気で構造化された支援、最適化を目指したら、とっても大変ですね。
だから、NCで実際に使われている構造化された支援のグッズは、きれいに作られていない物が多い。
だって、どうせすぐに形が変わり、使われなくなる物だから。
トレーナーの人が、「この構造化は、自閉症の人が作ったのかい。こだわりが強いようだねww」なんていう冗談を言うくらいきっちり同じのが大好きな日本人はビックリするかも。
まあ、1つ1つの構造化をきれいに作り過ぎるから、それを捨てて、次の構造化に行きにくいっていう人もいるかもしれませんね。

最適化のプロセスを考えても、彼らが自閉症の人達の成長を大切にしていることがわかります。
「構造化された支援があるから、自閉症の人達は成長するんだ」なんて主張していないですよね。
「自閉症の人達が成長したから、それに合わせて構造化された支援が必要なんだ」っていうのが、伝えたかったこと。
だからね、「構造化された支援」が全面に出るような研修会は、お金や名誉、宣伝の匂いがプンプンしちゃいますね。

「私が作った構造化された支援、良いか見て下さ~い」っていうのは、どうなのかな?
もし専門家と呼ばれるような人に頼むんだったら、構造化を準備する前の評価、見立ての方じゃないかな?
評価が歪んでいるから、構造化も歪んでる。
評価が甘いから、最適化の前の段階で止まっている。
とってもシンプルなこと。
構造化された支援を本気でやろうと思ったら、最適化までのプロセスを繰り返す根性が必要ですね。
魅せるための構造化だったら、そこまでの意識は必要ありませんが(ブ)

先人たちが伝えたかったことを想う

TEACCHってテクニックじゃなくて考え方。
「TEACCH=構造化された支援」なんて思っている人は、もう絶滅危惧種でしょう。
構造化された支援って、TEACCHの理念、考え方を形にした一つ。
まあ、これくらいは書いても怒られないでしょう、学生時代に読んだ本にも書いてあったし(笑)

私がTEACCHの存在を知ったのは学生時代。
ボランティアで関わって子が、絵カードで確認しながら一人で活動したのを見ました。
「えっ、手で引っ張らなくてもいいんだ!」
「ドラクエみたいに、ずっと後ろをついていかなくてもいいんだ!」
一見すると、しゃべらないし、何にもわかっていないように見えたけど、「こんなアイディアがあれば、この子達は考えて行動できるし、いろんなことを身に付けることもできるんだ!!」って驚きました。

そのあとも、独学で学びましたし、研修、トレーニングにも行きました。
それはTEACCHの理念、考え方が好きだったから。
薬漬けや力関係、赤子のようになんでもやってあげるんじゃなくて、一目では見えない彼らの持っている可能性、彼らが成長できる可能性を信じることができました。
TEACCHのトレーナーの人達や実際、NCで支援している人達を見て、やっぱり学ぶべきことは彼らの考え方であって、本人たちの可能性を疑わないその姿勢だと思いましたね。

彼らが言いたかったことは、とってもシンプルだったと思います。
「その人をちゃんと見なさい」
「その人の特性や成長に合わせて、支援を変えなさい」
「その人がわかりやすいように情報を整理しなさい」
結局、個別化ってことだし、誰も「構造化された支援を使え~~~」なんて言ってないんですね。
つまり、大事な考え方の共有以降は、支援者一人ひとりのセンスが問われるんです。

これじゃあ、困るのが頭ガチガチの人、マニュアル大好きな人、失敗が怖い人、恐怖麻痺が残ってる人…この解説は割愛。
で、解説したいのがギョーカイの人達の困り感。
想像したらわかると思うんですけど、講演会でもいいし、研修会でもいいし、相談でもいい、そこで「その人をちゃんと見て、支援を変えていきましょう。情報も整理してあげるといいですよ。あとは各自のセンスで」って言ったら、ものの10秒くらいで終わっちゃいますよね(笑)
それじゃあ、ご飯食べられなくなっちゃうし、メジャーになりたい人、家元争いに勝ちたい人、愛着障害を抱えている人は困っちゃうんです。
だから、日本人が大好きなコンサルテーションとか、シャドートレーニングとか、ブラッシュアップとか、横文字で惑わし、言ってる内容をもっともらしく、かつできるだけ長くするんですね。
あのね、本来だったら、支援者の持つ専門性、もっと言えば、税金や料金を払う価値って、当事者の人への実際の支援にでしょ。
それこそ、素人ではできなかったアセスメントとアイディアで、課題を解決し、発達を促し、可能性を広げていく行為が求められているし、それをTEACCHの人達は伝えたかったんじゃないですかね。

ライセンスビジネスになってから、距離を置くようにしました。
いや、わかるんです、州知事が民主党から共和党に変わった。
そして、無料だったサービスが利用者負担になる。
結局、NCの自閉症の人達の生活を守り、維持していくにはお金が必要なんです。
でもね、私が守りたいのは、日本に住む自閉症の人達、この地域に住む自閉症の人達。
ライセンス取得にかかるお金というよりは、同じ労力があるのなら、目の前にいる人のために使いたいと思ったんです。
それにこういった実践を通し、一人でも多くの人の可能性を信じ、広げられるお手伝いをすることこそ、特に初期のTEACCHの人達が伝えたかったことだと思うんですね。

なんで、彼らはずっと無料にこだわってきたのか、そのために戦ってきたのか?
なんで、多くの外国人の研修生を受け入れ、全世界に講演やトレーニングに行っていたのか?
自閉症カンファレンスに空席が目立つようになった今、もう一度、考えてみなければならないと思います。

2016年8月24日水曜日

広がりのあるコミュニケーションの形態を目指す

そういえば、ズボンからコミュニケーションカードをじゃらじゃらぶら下げて歩いていた子がいましたね。
あとコミュニケーションブックといって、分厚いファイルを首からぶら下げていた子も。
確か2010年前後でPECSブームがあり、その頃の子ども達は、結構持っていたと思います。
今はどうでしょうかね。

当時から私はじゃらじゃらCOMカード、分厚いCOMブックを否定的に見ていました。
だって、あれじゃあ、持って歩くの大変でしょ。
首から下げたら、首痛くなるし。
ちっちゃな男の子が、ズボンがずれ落ちるのを必死に上げながら、大量のCOMカードをぶら下げて歩いてるのって、歩きにくいと思うけど。
というか、遊ぶために外出しているのに、これでは思いっきり全身で遊べないって、気になるし。
それに歩くのにリソースを使う子、発達課題がある子にとっては、重りをつけて歩いているようなものだと思いますね。
「これは何かのトレーニングですか」って思うくらい重いのもありました、実際にズボンに下げたり、首から下げたりしたら。

まあ、大量のカード、立派なCOMブックは、支援者にとって安心材料になるのでしょう。
見えない、もしくは見せられない支援の成果を示すことができますので。
「こんなにたくさんカード作りましたよ」
「私って立派な支援者でしょ」
とPRする手段の一つ。
どう考えても、今流行の“子どもファースト”ではないよね。

「この子にとっては、唯一のコミュニケーション手段なんですぅ~~~」っていう人もいましたが、それはどうかなって思います。
子ども達の中には、「このCOMカードの中でしか、コミュニケーションしてはいけない」って思っている子もいますので。

山奥で支援員をしていた頃、ショートステイの子がよく来ていました。
その子達の中には、家庭で、また通学している学校で使っているCOMカードを持ってくる子もいましたね。
で、そういった子の多くは、往々にして持たされてるんですね、支援者、もしくは親に。
だから、食堂に行くときとか、外出に出かけるときとか、遊んでいるときとか、持ってこないんです。
職員もそれに気が付かず、普通に食事を摂ったり、外出したり、遊んだりする。
そうすると、COMカードがなくても、コミュニケーションするんです。
物を使ったり、ジェスチャーしたり、片言の言葉を言ったりして。
こっちも、いつもいない子だから何がCOMカードの中にある発信なんか知らないので、本人の純粋な発信に耳を傾けます。
あとから、家庭から持ってきたCOMカードを見て、「カード無いけど、伝えられたじゃん」とか、退所の際、親御さんにこんな発信ありましたよって言ったら、「伝えられるとは思いませんでした」なんて驚かれることも、しばしばありましたね。
というか、COMカードやブックがない方が、豊かな発信じゃないって子もいましたよ。
食堂のテーブルの上にCOMカードがあったら、何も発信せず黙って座っていた子が、それを見えなくした途端、「グリンピース、バイバイ」って言いました。
COMカードには、「減らしてください」ってのがあったのに。

このようにCOMカードを批判的に書いてきた私も、支援で用いなかったわけではありませんよ。
ちゃんと目的がありましたので、むやみやたらに増やすことだけを考えて支援はしなかっただけです。
コミュニケーションって相手がいることなので、一方的に発信するものではありません。
コミュニケーションって「相手とのやり取り」ですね。
だから、一方的に言いたいことを言うのは、コミュニケーションとは言いません。
「相手とのやりとり」っていうのを、カードを渡す→相手が受け取る→相手から反応があるっていう見える形で具体化し、コミュニケーションの意味を学んでもらうために用いていました。

あとはバックアップ機能としてのCOMカードです。
普段は言葉やジェスチャーで発信できる子も、外出など苦手な場面で緊張するとき、心身の状態が悪いときなど、発信できなくなることがありますよね。
そういったとき、何と言ったらよいか思いだすリマインダーとして、または発信が難しくなったときにカードを見せる、指さす、触る、渡すだけで、自分の気持ちが伝わるように、ということで数枚のカードを持ち歩いてもらうこともしました。

ここからは本音をズバリ。
ズボンや首からじゃらじゃらCOMカード、重たいCOMブックのゴールはなんでしょうかね。
最終目的は、辞書を作ることですかね。
この支援って永遠に終わりがありません、本人の気持ちをすべてカードに表そうとしたら。
またもっと恐ろしいことは、本人が言いたいこと、伝えたこと、内から湧き出る感情、気持ちを自分ではなく、他人が枠をつけちゃうことなんですね。
先ほどの子のように、COMカードにあるもの“だけ”しかコミュニケーションしてはならないと捉える危険性がありますし、COMカードにあるもの“だけ”が自分の気持ちであると捉える危険性もあります。
だいたい良く考えてみるとわかるのですが、人の気持ちを50音の文字だけで表せるわけじゃないでしょ。
「言葉に表せない気持ち」なんて言いますよね。
こういったときには、「言葉に表せない気持ちです」っていうカードを作るのでしょうかね。
まあ、100歩譲って、すべての気持ちをCOMカードで表せられるとしても、辞書を作るくらいの労力、根性を持った支援者っていますかね、それも一人に対して。
支援者の言葉のセンスも大丈夫??挨拶もままならないのに(ブ)

ですから、じゃらじゃら&重たいCOMカードを作るんだったら、より自由度の高い発信形態を目指しましょう。
自分ファーストの形態。
この意味は、発信の第一歩が本人であること。
絵や文字カードを使うにせよ、自分で紙に絵や文字を書いて伝えられることを目指すんです。
「支援者が作ってくれないと伝えられませんよー」という形態は、他者の手によって制限が加えられるということ。
支援者がサボったら、発信は増えていきませんし、支援者が持ち込みを禁止したり、取り上げたり、紛失したら使えなくなっちゃいます。
できるのなら、自分の身体を使う発信が良いですね。
どこにいっても、身体はついてきますし、持ち込めますから。

2016年8月19日金曜日

挨拶しないっていうのは、「私は発達援助しません、できません」って言っているようなもの

婦人科以外は、すべて付き添いで行ったと思います。
小さな町ですが、いろんな先生に会いました。
確かに挨拶しない先生は多かったですね、特に本人たちには。

まあ、しゃべってもわからない、きちんと説明できないと思っているのかもしれませんが。
どう接したらいいか分からない、怖いっていうのもあったかもしれませんね。
あからさまに本人の方を見ないようにしていた先生もいましたし、怪訝な顔をする先生もいました。
「次回からは、本人は連れてこなくてもいいから」なんて言うのは、日常茶飯事です。
でも、職員の報告だけで薬出して良いのかなっていう疑問は、常に持ち続けていましたね。
だって、ある意味、職員のさじ加減で、どうにでもなるんですよ。
「全然、眠れません」って言ったら睡眠薬は増えるし、「日中、暴れて仕方がないです」って言ったら安定剤が増える。
そこに支援の質は問われないわけですから。
これって治療になるのかな?っていうか、治す気あるの?って、いっつも思ってました。
ですから、付き添いで病院に行くたびに、どうしてあの先生は〇〇なんだろう?と、接し方について考えていました。
その理由のいくつかが上記に述べたものです。

ある講演会で、本人たちに一切挨拶しない先生が、ぺこぺこ頭を下げているところを見たんですね。
なんだ挨拶できるんじゃん。
同僚の医師みたいな人にも頭下げてるし、ギョーカイや圧力団体の幹部連中にはおべんちゃらも言えてるし。
で、ここで感じたのが、挨拶をテクニックとして捉えてるのでは?ということです。
つまり、自分の仕事をうまくやるための方法の一つであって、利を得るための手段。
加藤清正風に言うと、「お前には、情ってモンがねぇんだよ!!(@真田丸)」って感じですね。

以前、ある子と挨拶の勉強をしたときに知ったんですが、「挨」には心を開く意味があって、「拶」には近づいていくっていう意味があるんですって。
ですから、挨拶には「自分の心を開いて、相手に近づいていく」ってこと。
ということは、診察室で本人たちに挨拶しないっていうのは、「私は心を開きませんし、あなたにも近づいていきません」っていう深層心理が表れているんですね。
これじゃあ、通院しても良くなりませんし、成長もしないでしょう。
だって、もともとやる気ないんですもん。
知的障害が重く、言葉がない子でも、このことが分かってたんだと思いますよ。
行きたがらない病院、行くと落ち着かなくなる病院、先生の診察を拒否する病院っていうのがありましたから。
まあ、こういう私の解釈も、エビデンスがないから否定されると思いますが、先生方には。

挨拶しない先生っていうのは、挨拶を表面的にしか捉えていないのでしょう。
人間特有の知性、テクニックとして。
でも、鳥とか、犬とか、他の動物だって挨拶はしますね、人間のような言葉は使いませんが。
ということは、挨拶って脳の表面(大脳新皮質・人間脳)だけでやることじゃなくて、もっと深い部分でやってることだと思うんです。
発達障害の人って、人間脳以前の脳の部分にバグがあると言われていますね。
だから、本人たちは、ここに刺激が欲しいし、アプローチしてほしい。
で、彼らは「挨拶しない先生は、自分たちの求めているところを見ていない=治せない」と、お見通しなんだと思いますね。

本人に挨拶しないし、付き添いの人、看護師さん、同僚やお偉いさんにもしない先生は、どこかに問題がある人なのでしょう。
でも、挨拶できないんじゃなくて、挨拶する相手を見ている人は、挨拶を知識やテクニックと捉えているのかもしれません。
それじゃあ、発達援助はムリムリ。
発達援助は、支援者によって知識やテクニックが与えられるんじゃなくて、本人の内側にある発達の可能性、力を刺激し、引き出す行為だから。
もしかしたら、大脳新皮質には知識として蓄えられるかもしれませんが、発達援助っていわゆる学校のお勉強とは違うはず。
もっと脳みその深くで、根本的で、本人主体なもの。
表面的にしか見せないし、見ようとしない支援者には、本人たちも表面的な部分しか見せないでしょう。
だから、挨拶しない先生は、治すことができないんだと思いますね。

2016年8月18日木曜日

あなたを支援している人は、どんな“目”をしていますか?

ブログを書くときは、1つ前のブログとの繋がりを意識してます。
もちろん、まったく繋がっていないブログも多いです。
でも、こんなキーワードで昨日のブログと繋がるとは思いませんでした。
「モルモット」
自分で書いていても嫌な文字なんですが、昨晩、ある出来事を知ってしまったんです、直接関わりはありませんが。

私は支援者のいろんな“目”を見てきました。
自分が関わる人の
可能性を、成長を見ている“目”
心を、脳を、身体を見ている“目”
喜びを、苦しみを、楽しさを見ている“目”
過去を、今を、未来を見ている“目”
・・・。
そんな中に、どうしても許せない“目”があります。
それがモルモットを見ている“目”
別の言い方をすれば、目の前の人を見ていない“目”です。

こういった目を持つ人は、目の前の人以外のところを見ています。
その人の持つ障害であったり、問題であったり、支援や治療の結果であったり…。
まず人と向き合ったときに自然と生まれるであろう「人と人の交流」が感じられないんです。
「人と人の交流」はどーでも良くて、もっぱらの関心は自分の趣味嗜好。
なんとかフェチと同じです。
その人の一部分を取りだして、欲情してるんです。
最初から治す気は無くて、個人的に楽しんでるだけです。
とっても不自然だし、キモチワルイことです。
でも、自分は気が付いていない。
もしその人が医師という立場の人だったら、絶対に患者さんを治すことはできませんね。
だって、患者さんという人間を切り離した治療になるのですから。
モルモットと同じですね、得たい情報が得られたら、それ以降は知ったこっちゃないってところが。

親御さんはよく言っています、「なんかあの先生嫌なんだよね」って、当事者の人も。
で、「どんなところが?」って訊きますと、「目」とか、「態度」とか、「雰囲気」とかって返ってきます。
本人や親御さん達は一瞬で見抜くのでしょう、この支援者が自分の、我が子のどこを見ているかが。
支援者としての地位、実力、経歴よりも先に。

私が言っていることは、頭の良い、お偉い先生方には理解されないことでしょう。
「医師が障害、病状に注目して何が悪いんだ」
「その結果が他の人、将来の医療、福祉、教育の発展に活かされるから良いだろう」
というように。
確かに一理あるかもしれません。
でも、たとえそのような意図や意味があったとしても、目の前にいる患者さん、当事者の人に訊いてほしいんです、「こういう目的で支援するけど、良いかい?」って。
病院で血を採って、勝手に研究機関に送ったら大問題になるでしょ。
目の前にいる人は、少しでもラクになりたくて来ているかもしれない。
治してほしくて、成長したくて、今の生活、自分の未来を変えたくて来ているかもしれない。
その想いに耳を傾ける、目を向けるのは、人の支援に携わる者として当たり前の姿勢だと思いますし、その想いを踏みにじるような行為をすることは支援者以前の人として問題があると思いますよ。

医師免許があるからって、ライセンスがあるからって、障害を持った人を見世物にしたり、失礼な対応をしたりしていはいけないでしょ。
当然、講演をお願いする立場の人間だったら、講演してもらう人に敬意を払い、気持ちよく講演してもらえるような心遣いをするのは、社会人として当たり前のことですし、できないのが恥ずかしいことなのです。
社会の中で生き、輝いている当事者の方にはモルモットを見るような“目”が並ぶ場所ではなく、希望の“目”で溢れている場所での講演をして欲しいと思っています。

2016年8月17日水曜日

研修で学んだことを形にする前に、することがあるんじゃないの?

うんうん、わかります。
すぐにやりたいですよね、せっかく研修で学んできたんですから。

特に実践を大切にしている人は、研修を目や耳で聴きながら、頭の中ではすでに自分が接している人の支援を思い浮かべてますもん。
私もそうでした。
研修の何が辛いかって言ったら、この連想を制御すること。
「あの人にはこんなことが…」などと、支援の足し算、引き算、掛け算、割り算を始めちゃうと、その間の研修内容がすっぽり落ちることもありましたので。

でもね、このように早く実践したくてウズウズしてても、帰ってからすぐにとか、夏休み中にガッツリ変えちゃってとか、は止めた方が良いと思うんです。
施設で働いていた頃、2学期の始業式が終わって子ども達が帰ってくると、何だかそわそわしてるんですよ。
で、こう思うわけです。
「夏休みの間に、触発されてきたな」って。

いや、新しい知識や技能、アイディアを取り入れて、より良い教育をしてもらうのは大歓迎なんですよ。
だけれど、1学期の支援に足し算、引き算じゃなくて、ポンと「私がどこどこに行って研修してきました系」支援が現れるんです。
まあ、1学期の支援はそのままで、「研修してきました系」が加わるのはいいんですが、最悪なのが1学期の支援を無くしちゃって、替わりに「研修してきました系」にしちゃうやつ。
「おいおい、1学期の支援は何だったのよ」ってツッコミたくなるやつですね。

あの~、学校はシステム上、夏休みという期間を挟みまして、“新”学期なんて言われますが、子ども達には連続性があるんですよ。
1学期に教えてきたことがまだ見える形の成果として出ていないかもしれませんが、子どもの中では学びが積み上がっている途中ってこともありませんかね。
もう少し継続していればできていたかもしれないのに、スパッと変えちゃってモッタイナイ。
成長のタイミングと、研修のタイミングは必ずしも一致しているわけではありませんので。
「1学期で成果が出なくて~」
「こっちの(私が学んできた最新の)支援の方がより良いと思うんで~」
なんて言ってましたが、4ヶ月間もかけて成長の糸口すら感じられないのをやり続けていた人が、夏休み中、ちょっと研修に行ったからって急激にウデが上がるとは思えないですがね~。

どんどん新しい支援を取り入れて変えていく人を「熱心な人」「勉強家」「柔軟な人」なんて言う人もいますが、私には一貫性のない失礼な人にしか見えませんね。
一貫性のないは、そのままの意味で、失礼なっていうのは、子どもと親御さんに対して。
だって、そうでしょ。
夏休み中にガラッと変えるってことは、夏休み中の“成長”が計算に入ってない証拠でしょ。
「夏休みだからできる経験を」と言って頑張っている親御さん、たくさんいますよ。
本人も宿題や勉強を頑張ったり、お手伝いをしたり、たくさん遊んだり、祖父母の家に行ったり、地域のお祭りに参加したりして、たくさん刺激を受けていますよ。
児童デイや学童、習い事、サマーキャンプなどのスタッフさんだって、学校とは違った学び、成長の機会を提供してくれていますね。
夏休み中だからと言って、成長もお休みじゃないんです。
子ども達は成長を続けているのですから、この成長をまず観ようよって思います。
それからでしょ、ガラッと支援を変えるにしても。

研修に行くたびに、子どもの支援が変える人がいました。
その人に言いましたよ、さすがに、「子ども達はモルモットじゃないんだ」って。
支援者の研修結果を確かめるために、子ども達がいるわけじゃないんです。
夏休みが終わったら、子ども達の成長を観るところから始めましょうよ。
そこからでも遅くないはず。
そして、もし夏休み中に変える必要があるのなら、2学期が始まる前に伝えようよ、本人に「ここが変わるよ」って。
2学期が始まったら、コミュニケーションの形態が、教室のルールが変わってたら、そりゃあ、驚きますよ。

昨日も書きましたが、新しいことを学ぶのは大事ですし、人の成長、生活、未来に関わる人間にとって日々、研鑽を積んでいくのは息を吸うようなものです。
ですが、継続性やつながりを絶ったり、離れたりする支援のあり方は良くないと思います。
新しいアイディアは、子どもたちの持つ継続性の中で足したり、引いたり、掛けたりするもの。
今まで積み上げてきたもの、支援してきたもの、本人の成長段階、課題、特性のどこかしらとつながっていなければいけませんし、つながりのない支援はいくら最新の知識、技能であっても、子どもの中に根付いてはいかない“異物”のままでしょう。


2016年8月16日火曜日

療育を選ぶ権利

子どもは「夏休み」と言いますが、ギョーカイ的には「書き入れ時」と言います(ブ)
研修費を持った人がお客さんの中心ですから。
フツーの週末とは違って、数日間で、しかも高額設定ができます。

受講する側も、ナントカ療法を教わるだけなので、高額の方が良いんですね。
えっ、意味が分からない?
つまり、ナントカ療法を教わっただけでは自己満足にすぎないんですね。
自分が関わっている人の問題が解決したり、ポジティブな変化が見られたりしたら、ナントカ療法の研修を受けた価値が出ます。
ということは、自分が受ける研修が意味のあるものか、効果があるものかは、自分の場所に戻ってから、しかも実際の結果が見えてからしか分かりようがありません。
だから、高額の方が「自分はすごい研修を受けている」感がより味わえて良いんですね。

本当に価値のあるもの、本物って、研修を受けなければできない療法のことを言うんじゃないと思うんですね、私は。
しかも、数年に渡って高額な研修費を、で、ライセンスが認められたあとも更新し続けないといけないなんて…。
これって欧米的だし、「知的財産権」とか言いながら、ただの儲ける仕組みでしょ。
本当に当事者の人達のことを考えて、本当に自分たちの療法がすばらしいと胸を張って言えるのなら、どんどんアイディアや方法を開放していくべきだと思いますね。
誰でもやりやすくて、知ったその日からできて、どんどん自分のアイディアで変えていける。
こんな療法こそが、当事者の人達を中心にした本物だと言えるのでは。
日本の伝統工芸じゃないけれど、師匠の姿を見て盗み、自分の味が出せる余白がある学び方、伝承の仕方、こっちの方が日本人には合ってると思いますし、私は好きですね。

夏休みは、連日、全国のどこかで研修が行われています。
もちろん、学ぶことは大切なこと。
でも、研修を受けることが目的でも、ゴールでもないんですね、当然、ライセンスを貰うことも。
「ABAが優れている」
「いや、てぃーちが優れている」
なんていう言い争いは、ホント下らないこと。
こういうのは、実践する人には関係ない話(ブ)
これに乗っかって、自分が受けてきた研修のナントカ療法が「優れている」とか声高々に言ったり、とにかく2学期が始まったらやろうとかしたりしてはいけません。

あのね、ナントカ療法を選ぶ権利は、ライセンスを持っている人でも、研修を受けてきた人でもないんです。
ナントカ療法を選ぶ権利があるのは、当事者の人達です。
当事者の人達が「ラクだな」「いいな」「成長できるな」と感じられる療法をやるんです、支援者は。
それが仕事なんですから。
自分たちが常日頃言ってるでしょ、「当事者中心」って。
当事者の人が「なんか違うな」というときに、「こんな方法もあるよ」って、スッと出せるのが支援者が学ぶ意味。
ライセンスというものが、支援者の柔軟性、応用力、そして当事者の人達の療育を選ぶ権利を奪っていないのか?
こんなことを私は思うのです。


2016年8月11日木曜日

山登りをしてコミュニケーションの勉強

山登りをしていると、すれ違う人同士で自然と声が交わされます。
「こんにちは」
「日陰は気持ちいですね」
「もう少しで頂上ですよ」
「頑張ってくださいね」
「あっちにきれいな植物が咲いていましたよ」

山登りする度に、私は思うんです。
これってコミュニケーションの勉強だなって。
コミュニケーションや人と接することが苦手な子も、最初は声を掛けられても、返事はしない、顔も合わせないだったのに、歩を進めていくうちに、すれ違う人の方を見るようになり、声は出なくても軽く会釈をするようになり…下る頃には自分から挨拶するってこともありますね。
有酸素運動で脳の活性化、呼吸が深くなりリラックス、不安定な道を歩くことで足や土台への良い刺激や身体の余分な力が抜けること、身体を通した体験が同じ体験の人への共感を補助、自然な揺らぎがある環境など、様々な理由、効果があるのでしょう。

私には理由を特定することはできませんが、家、部屋、施設で勉強をするよりも、外に出た方がより良い変化が見られるって人がいますね。
以前、家で座って勉強していると、言葉がスムーズに出なかったり、考えるように促しても「わかりません」ばかりだったりする子がいたんです。
で、あるとき、その子と散歩をしました。
そしたら、言葉のたどたどしさが見られないし、考えて行動するし。
だから、その子との勉強は外でやることにしたんです、歩きながら。
苦手だった人間関係の勉強するとき、「相手はどう思っただろう?」「これからはどうしたら良いだろう?」などの問いかけに、しっかり考えて答えるようになったんです。
そして学校でも、その子の行動が変わりました。

この件から外も勉強する場の一つに加わりました。
20代の頃は、がっちり環境調整、がっちり視覚的構造化で、SSTだった私ですが(笑)
もちろん、環境調整が必要な場合はありますが、構造化された環境、構造化された方法じゃないと発達を促せないってことはないですしね。
二次障害を持っている方とか、不登校やひきこもり状態の方とかと一緒に散歩したり、ジョギングしたり…海辺で裸足になって歩きながら話を聞くってこともあります。
これを繰り返していくうちに元気になる方も少なくありません。
特別なことはやっていませんが、相手の方と向き合っていて「ここじゃないな」と感じたときに、「外でやってみない?」と訊いてみるようにしています。


2016年8月9日火曜日

直接かかわるスタッフも「限界です」と堂々と言えば良い

「みなさん、もう限界なんじゃないですか?」
スタッフの方達は、この言葉を待っていたのかもしれません。
そのあと、堰を切ったように自分たちがどのような怖い想いをして勤務しているのか、いっそのこと退所してくれたらと思う、という本心を語ってくれました。

そりゃあ、怖いですよ、自分たちに向かってくる人は。
特に夜間帯は、1人勤務。
他にも入居者さんがいるのに、その人が問題を起こしたら…。
実際に、度々問題を起こすので、宿直者は一晩じゅう緊張しっぱなし。
スタッフの方達は、かなりのストレスだったと思います。

福祉に携わる人間だって、一般の人と同じような感情を持ちます、敢えて言うことではありませんが。
それなのに、そういった感情を表に出すことができなかった。
最初に、相談したところが悪かったのです。
「障害を持った人達は、つらい想いを沢山してきました。だから、まず受け止めましょう」と、成人の生活支援系。
そして次は、「自閉症とは。構造化とは。問題行動が起きるのは、支援が至らないのです」と、発達支援系。
う~ん、選択ミス。
問題が治らないのは、「まだ心に寄り添っていないからだ」と言われ、「またきちんと構造化できていないからだ」と言われ…。
違う畑から来たスタッフは、福祉の中でも発達障害の人たちの支援を中心にしてこなかったスタッフは、「そうかな。自分たちが至らないからだ」と思えてくる。
で、だんだん本音に蓋が覆いかぶさってくる。

自分たちに経験や実績、自信がない人達は、「専門機関」という文字に弱いですね。
確かに自分より知識は持っているかもしれない。
でも、彼らの視界に映るのは、障害を持った人だけです。
直接かかわる現場のスタッフのことなんか考えていないのです。
だって、スタッフの本音を語らせないから。

いつも彼らの主張には矛盾を感じますね。
「障害を持った人の気持ちを受け入れましょう」と言うのなら、直接かかわるスタッフの気持ちも受け入れろって。
当事者の人が「限界」って言ったら、無理させないくせに(ブ)
「支援が至らない」と言うのなら、自分たち押しの支援方法ではなくて、別の支援方法を教えてくれって。
なになにライセンス、家元争いの関係があるって…知ったことかっ!(ブ)
彼らが望む社会というのが、誰かの我慢、犠牲の元に成り立つのだったら、私は全力で阻止します。

グループホームや児童デイ、通所施設など、いろんなところに伺う機会がありますが、こういった話は珍しくはありませんね。
どこにいっても、顔に「限界」という文字が書かれています。
ですから、私はスタッフの顔に書かれている文字を読み上げることから始めます。
福祉に携わる人間は、神様でも、下僕でもありません。
人が人を支援する仕事が福祉だと思います。
そういった当たり前の関係性が認識できたあとに、本当の支援、自分たちができる支援が見えてくるのではないでしょうか。

2016年8月7日日曜日

親御さんにとっても、待ち望んでいた夏休み

7月は扇風機の出番がないくらいの涼しさだったのですが、8月に入った途端、夏らしい夏になりました。
今日は函館でも30度越え。
九州人の私は、30度超えないと夏じゃないよねって感じです。
まだまだ余裕(笑)

函館の子ども達も、短い北海道の夏を楽しんでいるようで、外から元気な声が聞こえます。
夏休み真っ只中ですからね。
私が子どもの頃も、肌も、服も、真っ黒になりながら、外で遊んだ記憶があります。
あと夏休みといえば、思いだすのが母親がいつも言っていたこと。
「他の家では“早く夏休みが終わってくれれば”なんて言うけれど、私はそうは思わない」という言葉です。
私は外で遊んでもいましたが、母親が弟と一緒にあちこち連れていってくれた記憶があります。
今思い返せば、夏休みだからできる体験をさせてくれていたのでしょう。

どうしてこんなことを思いだしたかと言うと、高校生の息子さんを持つお母さんが「私が手をかけられるのは、後3年間しかないので」と言っていたからです。
息子さんは今春から地元を離れ、地方の高等部へと進学しました。
その息子さんが帰ってくる夏休みに、いろんな体験や学びをさせたいということで、一緒に方法や計画をあーだこーだ言いながら考えたのが先月の話です。
そのとき、上記の言葉が聞かれたのです。

息子さんには知的障害もあります。
ですから、小学生の頃から長い期間をかけて「高校を卒業したら働くこと」「高校を卒業したら家から出て、暮らすこと」を丁寧に伝えてきたのでした。
そして、とうとう自分が言っていた“そのとき”が3年後に迫ってきた。
また息子さん自身も、そのつもりで高校での勉強を頑張っている。
だからこそ、「夏休みの期間も、親としてできることを1日も無駄にしないようにしたいんです!」と言っていました。

この夏休みは、“一人での外出”に取り組むことにしました。
近いところから遠いところへ。
歩いていけるところから公共交通機関を使っていくところへ。
遊びメインの外出から、公共施設の利用や生活用品の買い物などに行く外出へ。
長らく問題行動があった男の子だったので、なかなか外での活動、特に単独行動は取り組めずにいたのでした。
ようやく準備が整い、この夏、開始できます。

親御さんは、ご両親で協力しながら、毎日、外出の計画を立て取り組んでいるそうです。
もちろん、暑い中、家事もある中、大変だとは思いますが、「今まで教えたくてもできなかったことができることの喜びの方が大きいです」と連絡がありました。
きっと、この親御さんも「早く夏休みが終わってほしい」「早く学校が始まってほしい」とは言わないはずです。
問題行動で大変だったときも、「いつか落ち着いたら、こんなことを教えたい」と、ずっと心に秘めていたはずなので。