2016年1月31日日曜日

「場所は提供するから、あとはご自由に」って時間を消費する

毎年、この時期は、いろいろな物を貰えます。
みかんに、ジュース、お菓子など。
この前は、今、流行のジブエ、シカ肉を頂戴しました。
みなさん、訪問すると、「この道の中、よく来てくださいました」と言って、帰り際には「持ってって」とプレゼントを渡してくれるんです。
移動に、神経も、時間も、かかるので、「その分かな」と思い、ありがたく頂戴しています。

私は、発達援助の技術を売って商売をしているのですが、合わせて時間も売っているのだと思います。
実際に本人とトレーニングをしている時間はもちろんのこと、移動の時間、事前の準備と事後のフィードバックの時間、そして技術向上のための自身の勉強の時間なども必要であり、それも売っているのだと言えます。
本人と対面する時間以外も大事な商品ですので、大切にしなければならないと意識しています。

こういった「時間とお金」ということを意識してみると、新たな視点で物事が見えるようになりました。
例えば、ミーティング。
よく遅刻してきたり、本筋と違う話をしたりする人がいますねー。
その影響で進行が止まったりする。
ミーティングの場に10名の人が参加していたとしたら、1分誰かの影響で関係のないことに時間を消費しちゃうと、10人分の1分を消費したことにもなりますね。
合計10分無駄にしたとも言えます。
その一人の無駄遣いが2分になったら2倍の20分…。
その人以外の人も、時間を無駄遣いしちゃうことがあれば…。
すぐに60分くらいになってしまいます。
自分にとっては、ほんの少しの時間でも、こういった視点で見れば、他人の時間をたくさん使ってることってあるんですよね。
時間だけ長くて、中身のないミーティングだった、と感じるのは、こういったことがあるかもしれませんね。
会議に出れば、その組織の未来が見えちゃいます。

講演会だって、知ってることや自分で調べられることだったら、その話の間は無駄な時間になっちゃうわけです。
時間をかけて講演会場に行き、2時間、3時間、話を聞く。
そして、その中で得られたのが、5分間くらいの内容だったら、残りの時間は無駄になってしまう。
この頃、モッタイナイと思う講演会ばかりだから、ぜんぜん行かなくなっちゃいました。
その時間があるんだったら、仕事をして直接的な発達援助に使いたいですし、自分で勉強だってできますからね。

特別支援の業界って、「この人のために時間を使ってます」みたいな時間をかけていることに重きが置かれているように感じるんですよね。
休日にプライベートな時間を使って講演会に行きましたとか。
一人の子どものために、いろいろな職種の人が集まりミーティングしましたとか。
これだけ多くの支援グッズを作りましたとか。
仕事の時間を使って相談に乗りましたとか。
でも、本当は「時間をどう有効に使えたか」が大事だと思うんです。
プライベートの時間をいくら研修に使おうとも、いくら長い時間相談に乗ってもらったとしても、当事者の人たちにプラスにならなければ…以下略。

相談に行っても、教科書通りのアドバイスしかもらえない。
(本人を連れての移動って労力も、時間もかかるのにー)
待合室で待たされて、結局、「様子を見ましょう」で、いつもの薬を処方。
(だったら、投薬のみで良いんじゃない)
児童デイに通って、DVDを観て過ごす。
(1日1万円の税金の使い方としてどうなのさー)
もう少し支援する側の意識として、相手の時間を想像する必要があるんじゃないかな、と思いますね。
時間とお金を使って利用してくれているという意識があれば、もっと結果にこだわった支援やアドバイスをしなくてはならないってなると思うんですよ。
っていうか、本来そうでなければならないんですけど。

直接、利用料を貰って仕事をしているので、このように感じるのかもしれませんね。
でもね、大事な他人の時間を使っているからこそ、有意義な時間になるよう最大限の努力をする必要があるんと思うんですよ。
学校も、福祉も、医療も、預かりメインの場所ではないはずですから。
「場所は提供するから、あとはご自由に」っていう看板が見えたらダメですね。

2016年1月30日土曜日

支援者になろうとする親御さん

私はよく親御さんに「支援者になってはいけません」と言います。
子どもの療育に熱心になるのは良いのですが、たくさん勉強するのは良いのですが、親から支援者になるのは反対です。
親から支援者になって失敗している人をたくさん見てきましたから。

支援者って他人なんですよ。
そして、療育場面だけが想定されているんです。
だから、支援者は、兄弟や家族のこと、家事や自分の時間は入っていません。
とにかく療育だけやるのが、支援者です。
自分が疲れていても、イライラしていても、他に家のことでやることがあっても、療育をやる。
それが支援者になるってこと。

親御さんのまま、支援する人と、親御さんから支援者になって支援する人がいます。
親御さんのままの人は、子どもをあらゆる面で成長させます。
支援者になる人は、子どもを偏って成長させます。
子どもの成長って、何かスキルを身に付けることだけでも、コミュニケーションがうまくなることだけでもありません。
心身ともに大きくなることも含みます、というか、こっちがメインです。
心身ともに成長するには、家族としての交流、楽しみも大切ですし、美味しいご飯を食べ、暖かい布団でしっかり眠ることも大事。

どんな親御さんも、一日は24時間。
それだけ療育に懸けていたら、その他のことはどうしてるのって思うことがあります。
兄弟児は?
食事は?
家事は?
他の人からの協力なら良いですが、他の人の犠牲はいけません。

親から支援者になっている親御さんの子どもって、荒れていることが多いような印象です。
伸び悩んでいたり、問題が起きていたりする子の親御さんを見ると、療育熱心の人が多いことに気が付きまして、ずっとその理由を考えていました。
私が出した結論は、子どもに親がいなくなってしまうから。
子どもにとって親は、安心基地です。
その安心基地が、人工的な支援の場になるのです。
それでは安心して成長することはできません。
子どもが安心を得ようとしても、返ってくるのは支援…。

子どもが自傷したとき、まずその手を制止し、抱きしめるのが親だと思います。
それをやらずに、せっせと構造化したり、絵と文字を書いて会話をしようとするのは支援者です。
子どもは親御さんにどちらを求めているでしょうか?

親御さんから支援者になり、そして仕事としても支援者になる人がいます。
それ自体は否定しません。
でも、自分の子に目を向けて欲しいと思います。
あなたのお子さんは、本当に落ち着いていますか?
困っていませんか?
成長できていますか?
幸せですか?
この問いかけに、すべてYESと答えられる人だけ、支援者という仕事に就けば良いと思います。

「まず自分の子をどうにかしなよ」と言われているようじゃいけません。
私は、お金を貰って支援している人のお子さんが荒れているのを見るのが、一番腹立たしいし、そういった人が何を言おうとも信じることはありません。
親御さんは支援者になる必要はないんです。
親御さんは、親御さんとして我が子を成長させてあげれたら、それで良いんです。
だから、私は「支援者になってはいけません」と、今日も親御さんに言うのです。

功績がある人は発達障害で、トラブった人は精神障害って、おいっ!

今週も、しくじった人がアスペルガーじゃないかとか、元県議は発達障害じゃないかとか、ネット上で話題になっていましたね。
特徴的な人物が画面に表れると、すぐに「アスペだ」「自閉だ」「発達障害だ」という声が上がるようになりました。
それだけ、発達障害が社会に広く浸透してきた証拠だと思います。
啓発活動の効果!パチパチ

番組に登場してすぐに、裁判の様子が報道されてすぐに「発達障害じゃない!?」ってネットでの書き込みが始まっていました。
こういった書き込みをする人は、発達障害の専門家かなと思いきや、一般の人たちですね。
ですから、これだけ一般の人たちが発達障害を知り、その様子を見ただけで「もしかしたら…」と思えるくらいまでになったので、さぞかし当事者の方や支援者たちは喜んでいらっしゃると思ったのですが…そうでもないようですね…。

当事者の人の中は、「一緒にするな」と怒っている人がいましたね。
「こんなヘンな人と一緒にされたら、迷惑」だって。
専門家も、「発達障害ではない。精神疾患だ」なんて言ってました。
なんで、こんなにも発達障害の可能性を否定するんでしょうね。

エジソンやビルゲイツとは「同じ発達障害です」と言うのに、しくじった人や県議は「発達障害じゃない」と言う。
だって、エジソンやビルゲイツだって診断なんか受けてないんですよー。
だったら、この差は何?ってなる。
功績があった人は発達障害で、問題を起こした人は発達障害じゃないって主張するのは、おかしなことだと思いますね。
"ASPERGER"っていうのを何かのブランドと勘違いしてる、またはブランドにしたいんですかね。
「ブランドに傷がつきます」って言ってるみたい。
まあ、一番おかしいのは、公の講演会とかで診断を受けていない著名人の名前を挙げてしまっている専門家の人権意識の乏しさですが…。

良い情報だけ流し、悪い情報は統制するって、どっかの独裁国家とやっていることは変わらないような気がしますが。
こんなことをしていても、結局、多くの人たちの支持はもらえませんね。
いくら情報統制をしようとも、一般の人たちは真実を知っています。
犯罪報道の仕方も変わってきましたよ。
ギョーカイの圧力に負けず、きちんと「発達障害」「自閉症」という言葉も使うようになりましたね。
裁判官も、検察も、明言するように変わったのです。
以前は、偏見や誤った認識が多かったネットの世界も、あながち間違いではない、むしろ正しいのではないか、と思うような情報も増えてきました。
身近に診断を受けた人が増えたってことも背景にはあると思います。

「問題を起こした人を発達障害だと認めてしまうと、発達障害みんなが問題を起こすと思われてしまう」っていうのは、拡大解釈し過ぎだと思いますし、怖がり過ぎですね。
こんなに怖がっていたら、社会の中に出ていくことは難しいでしょう。
15歳の少年が犯罪を犯したからって、15歳全員が犯罪を犯すわけではありません。
それくらいのことは、社会の多くの人は分かっています。
こういった偏った解釈をし、主張をしている方は、まず社会を知り、自分の怖がりを何とかする必要があると思いますね。

「自閉症の人は心がきれいな人」
「自閉症の子は天使です」
「発達障害の人たちは、芸術的な才能を持ってます」
「発達障害の人は、天才と呼ばれる人が多い」
なんていうのは、良い面を誇張しているだけです。
もし、これを伝えるのなら、悪い面も伝える必要がありますね。
才能豊かな人や天才と呼ばれる人がいる一方で、トラブルや犯罪を犯す人もいる。
これが正しい情報提供の仕方。
一般の人への啓発って、こういうことを言うんだと思います。
良い情報も、悪い情報も、きちんと伝えた上で、どのようにして一般の人と発達障害の人とが近づいていけるかに繋げていくことが大事ではないでしょうかね。

実際に、子育てに困っている、学校や職場でうまくいかない、就職できずにひきこもっている当事者、家族がいて、周囲にはトラブルを抱えている一般の人もいる。
その前で、「発達障害は素晴らしい個性、才能なんです」なんて良い面だけを言っていたら、誰も耳を傾けてはくれませんね。
ただごく一部の人間が騒いで楽しんでいるお祭りにしか見えないと思いますよー。

2016年1月29日金曜日

自分を癒すために支援している人

タイトルの通りなんですが、多いんですよね~、支援者と呼ばれる人の中には。

自分が子どもだった頃にしてほしかったことを、子どもの支援を通してやったりとか。
人から認められたい、頼られたい、必要とされたいみたいな感情を満たすために、弱い立場の人の支援をやったりとか。
親にとって良い子でい続けるために、兄弟児から支援者になったりとか。

別に良いんですよ。
どんな動機だって。
自分を癒すためだって。
支援を受ける側の人が成長し、幸せになれれば。

でも、こういった欲求を持って支援者になっている人って、満たされないことが多いんですよね。
どうしてかって?
それは、他人だから。
自分を投影している人は他人。
他人だから必ず自分の欲求を満たしてくれるような行動をする訳ではない。
支援しているのは兄弟ではなく、他人だから。
なかなか欲求は満たされないし、癒えてもいかない…。

支援について助言や意見をもらったときの反応に違いが表れるような気がしますね。
こういった欲求のない支援者は、自然と耳を傾けます。
こういった欲求のある支援者は、拒絶反応を見せます。
あくまで支援についての助言だったり、意見だったりするのに…。
まるで自分自身を否定されたの如く感情を表出させるんですね。
こういったときに"重なり"を感じます。
また、自分の周りに支援を受ける側の人たちを集めたり、お気に入りの人やこだわる人を決めている支援者も可能性は高いと感じます。
自分の空間というか、自分の環境を作ってるようにも見えますね。

「自分自身を重ね合わせているな」
「自分の気持ちが満たされたくて、この仕事をしているな」
という自覚を持つことが大事だと思います。
この自覚がなければ、どんどん欲求が高まり、行動がエスカレートしてしまうから。
この自覚がなければ、支援者として技量を高めていくことに意識が向かないから。
「自分は正しいことをやっている!」
「自分はこの人のためを思ってやっている!」
このような人は、プロにはなれないですね。
変化がないですから。
つまり、支援者としての成長がないので。

支援者とは、自分ではなく、"他人"の生活や発達、成長を支援することですよね。
当たり前のことなんですけど、ここにズレが生じている人って少なくないんです、特別支援業界。
高齢者とか、病気の人とかは身近に感じますが、障害を持った人となると、どうしても一般の人からは遠くなります。
ですから、結果的に身近に障害を持った人がいたとか、自分が当事者、自分が弱い立場を経験したから、同じような人を…ってなりやすいですね。
だからこそ、自覚が大事だと思います。
自分を癒しつつ、仕事としても役割を果たし、というのが理想かもしれません。
この業界に入って10年以上。
支援者から出ている空気を読むのも特技になりました。

抽象的なアドバイスでは成長していかない

最近、「支援を教えてください」という依頼がありました。
二人のお子さんを育てるママさんです。
お子さんの支援は、以前から私が関わらせてもらっていましたが、「自分自身がもっと支援の勉強をしなければいけない」という思いが強くなったそうです。
家族が支援について学ぶことは大事ですね。
だって、多くの時間を過ごすのが、家族だから。

この親御さんは、大変勉強熱心な方で、お子さんが自閉症と分かってから、勉強会や講演会、某機関など、足しげく通って勉強されていました。
学校の支援ミーティングも、なんとかコーディネーターに地域の医師や相談機関の人など、外部の人にもお願いして、「少しでも我が子のためになるように」と頑張ってこられたんです。
多くの専門家と呼ばれる人たちと交流があったことがわかります。
でも、そんな勉強を始めて10年以上が経った今、私に支援を勉強させてほしいとお願いしてくるとは…。

当然、こういった経緯を聞けば、「どうして私に?」しかも「今?」となりますよね。
(まあ、薄々は気づいていたけど)
なが~いお話をまとめると2つ。
今まできっちり結果を出してくれる人がいなかったのと、具体的なアドバイスをくれる人がいなかった、ということ。

この二つってリンクしているとは思いませんか?
私は、結果を出せない人は具体的なアドバイスが出せない。
具体的なアドバイスができない人は結果が出ないと感じますね。
よくいるじゃないですか、教科書通りのアドバイスしかできない人。
「自閉症の人には視覚的に支援しましょう」
「不適切な行動は無視して、望ましい行動をしたときに褒めたり、ご褒美をあげましょう」
「自己肯定感を高めるのが大事です」
「スモールステップで教えていきましょう」
などなど。
そして、こんなことを言う人が、実際に支援を始めると、衝立を立てて、スケジュールやCOMカードを作り、ちょっとずつ絵に描いて教えていく…みたいな。
どこに行っても、誰に聞いても、金太郎飴みたいな支援しか出てこない。
こんなんじゃ、わざわざ時間を割いて出かけるのがもったいないですね。
ネットを開き、「自閉症 療育」と打てば、すぐに出てくる情報です。
これじゃあ、いくら勉強しても支援の力はつきませんね。

とにかくみんな抽象的なんですよね。
スモールステップは分かったけど、実際はどんなステップに分ければいいの?っていうのが、聞きたいこと。
そして、どうしてそのステップに分けたのか、という根拠も聞きたいし、どうなったら合格かも聞きたい。
そもそも何故、スモールステップで指導していくのかも知りたいこと。
スモールステップをやるのが大前提みたいに話が進んでいることが多いですからね。
これくらい細かく具体的に説明しないと、なかなか支援に対する理解は深まっていかないと思いますよ。

私も他の支援者の話を聞くことがありますが、それを聞いても、帰ってすぐに実践できないな、っていう話ばかりに感じますね。
講演会に行ったことだけ覚えている講演会ってありませんか?
専門家と言われる人がそんなんだから、親御さんも、支援者も、育っていかないんだと思います。
だいたい相談してくることって抽象的なんですよね。
「友だちと喧嘩ばかりしてしまう」
「授業中、落ち着きがないんですよ」
「ひきこもりになってしまって」
というように、相談者は漠然と困ってるんです。
それを具体的に変換するのが、専門家の仕事だと思いますね。
そして、見えない未来を見せることも。

例えば、「授業中、落ち着かないんです」という相談でしたら、もっと問題の本質を具体的にしていきます。
「授業中、終始落ち着かないのか」
「どんな教科のときに落ち着かないのか」
「落ち着いて授業に臨める状況は」
など、問題の本質を具体的にしたあとは、その原因を探っていく。
国語でも読み書きはできるけど、落ち着かなくなるのは文章の勉強のとき。
だったら、文章問題が苦手かも。
文章読み解く力のどこかに原因があるかもしれないので、脳の特徴から読み解いていきます。
そして、原因の見立てができれば、「文章題を解く前に、絵を描くことをやったらいいですよ」とか、「文章を声に出して読む練習を毎日した方が良いです」とか具体的なアドバイスをする。
でも、ここまででOKではなく、「一日、原稿用紙1枚程度の文章の音読を3ヶ月くらい続けたら、テストの点数が上がると思います。それに比例して、授業中も落ち着くようになるはずです」というように、この取り組みを続けた先に見える景色も具体的に示すんです。
ここまで、できて初めて意義のあるアドバイスになると、私は考えてますし、実践もしていますね。

最初、親御さんから「支援を教えて欲しい」と言われたとき、迷ったんですよね。
お子さんとの勉強はやってますし、それに関する資料はすべてお渡ししていますから。
それ以外に、親御さんが自分自身の支援力を上げるための依頼でした。
私の仕事は、本人の成長を援助することですし、親御さんの支援力を上げるのは、そのための機関がありますから。
税金を貰って運営されてるしー、それができる、役割だって謳ってるしー。
過去にも同じような依頼が、親御さんや支援者、支援者を目指している人からありましたが、すべてお断りしてたんです。
まず自分でちゃんと勉強してから来てって感じです。
どうして私が一から十まで手とり足とり教える必要があるのかな、その労力があるなら、本人たちの直接的な成長のために使いたいと思ってるんです。

でも、この親御さんは断っても、断っても、お願いしてきました。
そういったやり取りをしている間に、この親御さんは我が子に対する熱い思いから動いていることが分かったんですよね。
だから、お受けしました。
本当に、勉強熱心な方です。
小さな疑問もほっておかない。
そして、お子さんの成長のために勉強している。
不自然な存在である"支援者"になりたい人なら、お断りしていました。
母親として成長したいと考えている方ですね。
この姿勢を見習ってもらいたいものです、お金を貰って支援している人たちに(ブ)

2016年1月28日木曜日

それって性格が悪いんじゃなくて、表現がヘタなだけじゃないかな

自閉症の人は、誤解を受けることが多いですね。
上から目線の発言だったり、ぶっきら棒な言い方だったりして。
それを受け取った側は、「なんて傲慢な奴だ」とか、「逆ギレすんじゃないよ」とか、その人の人格とくっつけて解釈する。

こういった人の中には、未学習や誤学習、独特な世界の切り取り方をして、実際に態度も傲慢な人もいたり、ぶっきら棒な振る舞い方しかできなかったりするような人もいますね。
積み重なって、いびつな人格形成をしてしまったみたいな。
でも、多くの自閉症の人は、表現が下手くそなだけで、受け取る側が思っているような人格の人って多くないと思うんです。
単純に、表現力が乏しいという話。
つまり、勉強不足、テクニック不足ですね。

例え、よじれた人格だったとしても、頭の中で、どんなことを思おうとも、不適切な言葉を使おうとも、問題はないんです。
でも、口に出した時点でアウト!
だから、人格を直そうとしても難しいので、言葉を直していくんですね。
上から目線の表現ばかりなら、相手にそのように受け取られないような表現を学ぶ。
ぶっきら棒な表現ばかりなら、丁寧語を学んでいくっていうのも支援のアイディアです。

自閉症の人たちと接していて、あまり彼らの内面とくっつけて支援を考えない方が良いと思うんですよね。
内面は、自閉症の人だろうが、定型の人だろうが、変わりませんよ。
「あいつは嫌な奴だ」「困った奴だ」なんていう言葉も耳にしますが、単純に言い方の問題では、表現の問題では、と思うことは多いですね。
まあ、どっちにしろ、内面は変えられませんし。
表現力が向上すれば、誤解を受けることが減るな、と思えば、そこから取り組みますね。
「身につきやすいところから身につける」
「治しやすいところから治す」
は自閉症支援の基本ですから。

愛情ガー

「愛情で満たされれば、この子は成長するんです」みたいな療育って、歴史の教科書レベルの話だと思っていたら、まだそんなことを言っている人がいるらしい。
愛情はいらないとは言わないが、愛情を療育の中に持ってきてしまったら、混乱以外生みださないですね。

何かできないことがあると、「愛情が足りていないからだ」が始まり、「〇〇さんの接し方が冷たい」→「もっと笑顔で、優しく」→「学校(施設)の雰囲気が暗いのも問題」となり、教室を飾り始めたりする。
そうしているうちに、支援者の対応がブレるもんだから、当然、本人も落ち着かなくなり(何だか気味悪いしね)、別の問題が出てくる。
当然、できないのは接し方ではなくて、学びが足りないのだから、最初にターゲットにしたできないは、そのままは続きます。
そして、愛情派と愛情否定派にチームは分かれ、互いに悪口を言い合うのが典型的なオチです。
結局、ウデのない人か、自分を癒すために支援者をやっている人が、愛情を持ってくるんですよね。
愛情を否定する人はいませんからね。
「愛情があれば…」といえば、「そ、そうかな」と周りも受け入れやすいですから。

私も療育の中に愛情の視点を入れないかって言ったら、そうではないんですね。
でも、それは発達段階を見るのに使います。
自閉症の人は、赤ちゃんのときから自閉脳なわけであって、そのため、母子関係がうまくいかないことがあるんですね。
うまく母子の愛着が形成されない。
それは、親御さんの愛情が足りないとか、虐待をしているとかではなくて、自閉脳を持つ赤ちゃん側の受け取り方、感じ方の違いで、です。
心地良さが双方で共有できないんですね。
身体感覚に違いがありますから。
うまく愛着が形成されないと、不安が強かったり、安心感が感じられなかったりし、将来の問題行動や無気力感などにもつながっていくんです。

ですから、あくまで留まっている発達段階を進めるために愛情の視点を入れます。
幼少期に必要だった信頼関係を持てるようにするにはどうすれば良いか。
感情を出し、それを受け止めるような交流と共感ができたら、次の発達段階に進めるんではないか、などです。
支援はサイエンスでなければなりません。
愛情という物語を創作しても、それは独りよがりの支援にしかなりません。

もし愛情ガーという支援者がいたら、ツッコミを入れましょう。
「愛情が足りないって、どうやって確認したんですか?」
「笑顔で、優しく接することが愛情になるんですか?」
「本人が感じる愛情って、どんなことを指すんですかね?」
「愛情って、いつまで与えたら、そしてどうなったら愛情が満たされたになるんですかね?」
「愛情が満たされたら、就職できますか?」
「愛情で成長するなら、特別支援っていらなくないですか?」
というように。
このツッコミに対し、血相を変えて怒ってきたら、それこそ、愛情の出番です。
愛情が足りないのは、子どもではなく、その支援者です。
普通なら、こんなツッコミが来たら、「そ、そうか」と冷静になるはず。
その支援者に、みんなが笑顔で、優しく接すると、愛情ガーと言わなくなると思いますよ。
自分を投影する支援者って多いですから。
もともと自分を癒すために支援者になってる人って多いですからね。

当事者意識を高めてから学ぶ

当事者意識が薄いことに悩みを持たれる親御さんは多いです。
テスト前なのに、遊んでばかりいる…
受験前なのに、緊張感がない…
無職なのに、仕事を見つける様子がない…
叱っているのに、上の空…

私も支援していて、どこか他人事のようで、当事者意識が薄いなって感じることがありますね。
そういった状態で、何か教えていても、ほとんど身につきません。
暗記や演技のように覚えたとしても、実際の場面で応用はできませんね。
自分の意識とは掛け離れたところで、いくら学んだとしても、それは型を覚えているだけですから。

そんなとき、私は何かを教える前に、当事者意識を高めることから始めます。
「どうして、大久保さんが来たんだと思う?」
「どうして、〇〇の勉強をするんだと思う?」
「今、できなくて困っていることはある?」
「もし、〇〇ができないままだったら、大人になったらどうなるだろう?」
「もし、〇〇ができない人を見かけたら、あなたならどう思う?」
などと質問し、自分の頭で考えてもらうように仕向けますね。
ここでは答えはどうでも良くて、自分の頭で考えてくれたらOK。
自分の頭で考えるということは、それだけで当事者意識が芽生えるから。

また、言葉でのやりとりや想像することに苦手さを持つ人でしたら、ゴールを見せて当事者意識を高めますね。
「見えないものは、ない」人たちですから、ゴールの"できた"を経験してもらいます。
例えば、コミュニケーションだったら、伝わったを経験してもらい、身の回りのスキルだったら、一人でできたを経験してもらう。
できた自分を経験することで、そこに向かう自分が生まれ、当事者意識が芽生えていきます。

周りの人間ばかりが焦ったり、叱っても上の空だったりすることもあると思います。
そんなときは、周囲が焦っていることに気が付いていなかったり、やらなかったらどうなるかという未来が想像できていなかったり、そもそも何に対して叱られているかがわかっていなかったりするかもしれませんね。
同じ場面で定型発達の人だったら自然に出るであろう反応が見られなかったら、それは定型発達の人が受け取る情報の量との違いがあるってこと。
情報の不足が、当事者意識の不足にもつながりますね。

あるお子さんの支援の際、私は「〇〇という行動に困っているというお話がお母さんからあり、その〇〇を治してほしいという依頼があったので、きました」と言いました。
それまで家でも、学校でも、某支援機関でも、どうにもならなかった問題。
でも、その一言から当事者意識が芽生え、取り組みにも積極的に臨むようになりました。
結局、支援のテクニックではなくて、当事者意識がないまま、支援していたから、行動の改善につながらなかったのですね。
自分が学ぶ主体であることに気が付いていなければ、いくら教えても、それはただ脳に情報を刻んでいるにすぎませんよ。

待てない支援者が多い

待てない人が多いなって思いますね。
子どもさんではなくて、支援する側のお話。
「今、必死に自分の頭で考えているのに~(見かけでは分からないけど)」とか
「せっかく自分で動こうとしているのに~(時間はかかったけど)」とか
モッタイナイなと思うことが多いです。

すぐに手を貸そうとしたり、制止しようとしたりって、私が支援される側だったら、とってもうっとうしいと思っちゃう。
どこに行くにも、何をするにも、横であーだーこーだ言われたら、それこそがストレスでしょ。
支援者が側から離れたら落ち着いた、なんて話は良くあること。
お前らドラクエの仲間かって。

まあ、近くにいてもいいんだけど、刺激になっちゃだめ。
空気のようにならなきゃ。
そして、ここぞというタイミングで、教えたり、補助したりが大事。
それが支援者の役目。
あくまで学ぶのは本人であり、支援者はシャドー。

そのシャドーが陽の当たる所に出てきて、しかも待てないと来たら、困ったもんだ。
とにかくみんな待てない。
ちょっとでも失敗したら、すぐに手を出すし
ちょっとでも止まったら、手を出すし
ちょっとでも誤ったことをしたら、手を出すし
「不適切な行動はやらせない」っていうナントカ療法の教えにとらわれ過ぎでしょ。
「正しい行動だけやれば良い」なんていうのは、適応力をあげてるだけ。
そこに成長はない。
成長って、自分の頭で考えて、自分の意思で行動しなきゃできない。
試行錯誤することが脳も、心身も発達させると思う。
その試行錯誤の機会を待てない支援者が奪っちゃダメ。

待てない支援者がいる一方で、待ちすぎる支援者もいる。
というか、待っているのではなく、タイミングが読めないとも言う。
同じ課題をそのままにしていて、結局、高校3年生になってから慌てて指導を始めたりとか。
問題行動に対処せず、「思春期が過ぎれば」「気持ちが穏やかになれば」「春になれば」なんて俳人のように悠長なことを言って、何もやらないとかね。
学校教育だけじゃないですよ。
ひきこもりの人だって、就労できない人だって、待つってことは、年齢を重ねること。
ひきこもりの年数が長くなれば、社会に出るのだって大変になってくるし、就労できない期間が長くなれば、就職先はどんどんなくなってくる。
待てないのも困るが、待ちすぎるのも困ったものです。

自閉症の人は空気が読めないなんて言われるが、支援者の方が空気読めてないんじゃないってことが多いと感じるのは私だけ??
子どもが不適切な行動をしたら、危険性がない限り、ほっといてもいいんじゃない、と思う場面がありますね。
本人が「おやっ」と思ったら、そこも学びです。
そして自分自身で行動をコントロールできたら、それこそが将来につながる生きた学びじゃないですかね。
通常学級に通っているお子さんや大学生くらいのお兄ちゃん達には、敢えて手を出さないようにしている場面が多いですよ。
自分で「うまくいかないな」「失敗しちゃった」「どうしよう…」と感じてもらうのも大事なこと。
そこから本人たちの学びがスタートしますからね。
待ち続けるのも、支援です。

待つのも大事。
待たないのも大事。
タイミングを読むのが大事です。

2016年1月25日月曜日

先週、話題になった2つのニュース

先週は、こぼした麦茶を無理やり拭かせて児童を怪我をさせてしまったニュースと、「将来、結婚もできない」などと発言した産婦人科医のニュースが話題になっていましたね。
そのニュースを受け、ネット上などではいろいろな意見が述べられていました。
いかなる理由があろうとも、怪我をさせてはいけないし、将来を決め付けるような発言はよろしくないですよね。

でも、私は「学校の仕組みがー」とか、「教師の質がー」とか、「人権がー」とか、いつものようなお決まりの意見を冷めた目で見ていたんですね。
だって、特別支援の世界では、学校でも、福祉施設でも、医療でも、程度の差はあるにせよ珍しいことじゃないでしょ。
「特別支援始まって以来、初めての出来事です」なんてことはない。
パニックを起こした人を体で止めることや、誤った行動をしたとき、強制的に自分で後始末させることって、やったことも、見たこともないですか?
「付き合うなんて無理」「結婚するわけじゃないし」なんて、堂々と言ってるじゃん、支援者たち。

怪我をさせること、言い方の問題は置いといて、同じようなことはギョーカイの中に存在してますよね〜。
産婦人科医がダメで、発達障害専門の医者は良いのかな?
今回は、怪我をし、公になったからダメで、怪我をしないで、公にならなかったら良いのかな?
このニュースになった二人に対して否定的な意見を言う前に、自分の胸に手を当てるべきではないか、ギョーカイ人。
公になった者を叩いている暇があるのなら、自分たちの中にやるべきことがあるのでは??

この教師の力量を問う意見も多くありましたが、そんなに大差ないと思ったのが正直なところ。
怪我をさせるという下手くそさはあるけど、じゃあ、別の教師だったら、万事うまくいき、指導もバッチリ、この子の課題もクリアされるかっていったら、そんなことないでしょ。
教師だって、支援員だって、医師だって、一部を除く専門家だって。
意見している人の実践を見てみたいものです。
この教師だけ経験も、力量もなく、異質な存在みたいにしちゃって、「自分とは違います!」っていうのは、おかしいと思いますね。

重い知的障害を持ち、身の回りのことを自力で行うことができない、自分の意思をはっきり示すことができない人を前にし、「この人は将来、結婚は難しいだろう」と感じるのは、自然な感情だと思いますね。
ただ他人の未来を決める権限は、本人以外、誰も持っていないので、口に出さないし、聞いた人を傷つけるような発言は控えるのがマナーです。
思うのは自由ですが、口に出した時点でアウトです。
だから、この産婦人科医はアウト。
でも、その何百倍、何千倍、何万倍も、ギョーカイの中にアウトがありますね。

障害を持った人の未来や可能性を決め付けたり、否定したりって、支援者だから見えることでも、言えることでもないと思いますよ。
例え相談業務だったとしても、適正な範囲は超えてますね。
目を向けるべきは、ネットのニュースではなく、己の周りじゃないですかね。
やれること、やるべきことは、書き込みではなく、自分の手と足を動かすことですね。

2016年1月22日金曜日

ズバリ相性が良い悪いではなく、実力があるかないか

ある親御さんに「大久保さんって、優しい人ですよね」と言われちゃいました、テヘ。
自分では優しい人間かって、よくわからないんですけどね~。
「うちの子が、優しい人で良かったって言ってたんです」と喜んで貰っていたからイイかな。
でも、他の親御さんからは、「厳しい人」って言われたこともありますね。
「うちの子には、厳しく接してくれる人が必要だったから良かったです」とも。
また、他にも「熱い人」と言われたり、反対に「冷静な人」と言われたり。
「ブレない人」と言われたと思えば、「柔軟な人」とも言われることもありました。

こうやっていろいろな方から、いろいろな感じ方をしてもらえることって嬉しいですね。
どうして嬉しいかって?
それは、私の基本姿勢が"相手に合わせる"だからです。
つまり、いろいろな印象を持たれるってことは、相手に合わせられている証拠ですからね。
私は相手の様子を瞬時に見極め、どう接し、どう支援していったら良いかを決めてます。
成長段階によっても変えますし、その日の体調によっても変えますね。
「今日は学びを欲してるな」と感じれば、ガンガン勉強しますし、「テンションが高めで、浮足立っているな」と感じれば、冷静に接します。
優しさを欲していることを感じれば、優しく接しますし、優しさを欲していてもガツンと言った方が良いなと感じれば、毅然とした態度で厳しく接することもありますね。

とにかく相手にとって、この限られた時間内で、最大限の成果が得られるように努めてます。
"演じている"とまではいきませんが、対面したときの空気感を読み取り、相手に即した自分を内面にあれば取りだし、表に出すようにしていますね。
そういった意味では、ある親御さんが言っていた「柔軟な人」が一番合っているのかもしれません。
あくまで支援しているときの自分としては。

支援者との相性が云々かんぬんとか言われますが、相性なんか言われている時点でダメだと思いますね。
個人的には。
相性が・・・じゃなくて、その本人に合わせるのがプロじゃないのっていうのが、率直な感想です。
よく「うちの子、担当の人と相性が良くなくって・・・」なんて話をお聞きますが、悪いのは相性じゃなくて、相手に合わせられない支援者、っていうか、ただの引き出し不足じゃないかな、と思いますね。
支援者側も、自分は子どもとの相性なら良いとか、成人ならOK、生活支援は難しいけど、就労支援ならできるとか、言いますね~。
でもね、こういっている人って「自分は実力不足です」って言っているように聞こえちゃうんですよ。
あくまで私の場合ですが。
じゃあ、実際、自己申告の相性が良い子どもなら子どもの支援がうまいかって言ったら、そうでもないことが多いですし(ブ)
私の経験では、うまい支援者は何をやってもうまいんですよ。
限定がある時点で、うまいとは言えませんね(当社調べ)

まあ、相性とか言ってないで、どんな人が来ても、どんなニーズが来ても、対応しろよ、お金貰ってやってるんだからってことですね。
勉強でも、ソーシャルでも、生活スキルでも、コミュニケーションでも、問題行動でも、どんと来いっていう姿勢が欲しいですね。
私はそう思いますし、それが当然だと思い、仕事しています。
だから、できない依頼が来れば、「できません」と実力不足を言いますよ。
そこで相性とか、言い訳に使いません。
「私に合わせろ」「私と相性がいい奴だけついてこい」みたいな支援者にはなりたくないですね。
利用する側が提供する側に合わせるサービスなんて、フツーじゃあり得ませんから。
親御さんが「相性」を気にしなくても、利用できるサービスであり続けたいと思いますね。

2016年1月20日水曜日

「褒めて伸ばそう、発達障害の子の自尊心」という番組

期待通り(?)というか、予想通りの内容でしたね。
「褒めて伸ばそう、発達障害の子の自尊心」
月曜日から特集されているEテレの「今日の健康」です。

「その子の良いところを"見つけて"褒めましょう」と、何度も、何度も、出てきましたね。
"見つけて"という時点で、見つけようとしないと、良いところって見えないんだ=この表現を当たり前に使ってるってことは、発達障害の子が問題ばかりという認識なのかな、とツッコミを入れてしまいました。
まあ、意地悪な解釈かもしれませんが。

どっちにしろ、実際は叱ることが多く、子ども達は叱られる方が圧倒的に多いということですね。
それで自尊心が育たなくなるっていうのが主張。
でも、「叱られる=自尊心が育たない」「褒められる=自尊心が育つ」っていうのはギモン。
叱られてばかりいても、達成感や成長を感じられることがある子は、自分自身で自尊心を育てていく場合だってあるしね。
褒められて自尊心が上がるってのは、小さなときくらいでしょうに。

こういった類の番組を見る親御さんって「もしかしたら、うちの子、発達障害かも・・・」とか、今、子育てがうまくいかず悩んでいる人が多いはず。
あとは、ツッコミを入れたくって見ている少数の人たち(笑)
そういった今、悩んでいる人たちには、余裕がないことが容易に想像できますよね。
余裕があれば、「いやいや、褒めたくらいで問題なんか解決しないっしょ」とツッコミを入れながら見ることができますが、余裕がない人は、そのまま受け取る可能性が高いと思いますよ。

どうしましょうか?実際に、次の日から良いところを見つけ出して褒めまくってしまったら。
ここは強調しますよ。
うまくいかないことばかりで、可愛い我が子のはずなのに「可愛い」と思えないことに葛藤が生まれ、悩みとなるんじゃないですかね。
うまくいかなくても、我が子が可愛いと思えているのなら、自然に良いところに目が行き、褒めることもあると思いますよ。
ある親御さんは、「褒めるところが見えないから、悩んでいるんです!」と、どこの支援機関に行っても同じことを言われることに対して懐いた当時の憤りを話してくれました。

経験の少ない親御さんや、今、悩んでいる親御さんが見るような番組は(学習会、講演会もそうですが)、視聴している側の親御さんが脳みそをあまり使わなくても良いような内容にしなければならないと思いますね。
褒めることのポジティブな面を言うのでしたら、一緒にネガティブな面もきちんと言う必要があると思いますよ。
褒めることで「自分はすごいんだ」「何でもできるんだ」など、誤った自己認識が生まれる危険性がありますよね。
特に自閉症の人は。
今、トラブルになっているお兄ちゃん、お姉ちゃん達は、この誤った自己認識が背景にあるんですよっていうのも伝えなきゃいけません。
実際の依頼も、この誤った自己認識をどう実像に合わせていくか、というのが多いですもん。
「俺はビルゲイツみたいになるんだ」「まずはビルゲイツのような努力をしてから言ってください」
「私には才能があるんだ」「その道のプロに才能が認められてから言ってください」

それに100歩譲って褒めることで自尊心が育ったとしても、課題の多くはなくなりません。
自尊心が低くて問題になるのは、やる気ができないとか、投げやりになるとか精神面の不調ですね。
最悪の場合には二次障害の精神疾患もありますが。
でも、そもそも叱られる原因となっているような課題が、感覚面や衝動性、その日の体調など、その子側にあるものとつながっていたとしたら、自尊心だけではどうにもなりませんね。
「だから、環境調整や投薬」と言われるかもしれませんが、それは補助です。
補助を受けている間に、本人自体が変えられる部分は変える努力をしなければなりません。
脳を育てるトレーニング、体調を整える努力、できることを増やしていく成長です。
その結果、課題が見せかけではなく、根本から治っていくのです。
褒めたから、どうなるってことでもありません。

「褒めるところを"見つけて"自尊心を育てましょう」と言っている前に、自然と褒められるようなことを身に付けた方が早いと思いますが。
そっちの方が、自分で達成感、満足感を感じ、自尊心が育っていきますしね。
そして、周囲も褒めやすいですし。
周囲が褒めなければならない状況って、その人自身に力が足りないということになりませんかね。

どんな課題も、本人の育ち、成長がなければ、解決しませんよ。
褒めて問題が解決するなら、悩む親御さんはとっくの昔にいなくなっているはずです。
悩む親御さんには「褒めましょう」の言葉が、神の言葉にすらなるのです。
ずっと叱ってばかりいた親御さんが、急に褒めるように方向転換したら、親御さんに相当な負荷がかかりますよね。
また、神の言葉が言っていたのに問題がなくならないとなったら、誰を責めるか・・・もうお分かりですよね。

支援者と呼ばれる人たちの安易なきれいごとが、親御さんをさらに苦しめることがあるんです。
余裕がないから悩み、頼ってくるんです。
だから、ポジティブな面とネガティブな面をきちんと出し、脳みそを使わなくて済むようにする配慮。
また、親御さんにできることは何か、自分たちにできることは何か、そして選択した先にどのような未来が想像できるかを示すことが必要なんです。

私が学生時代から「褒める」「環境調整」「薬」ばかりです。
他にはないのでしょうか?
この3つを行ってきた結果、今、その人たちはどうなっているのでしょうか?
未来が見えなくて悩んでいる親御さん達だからこそ、きれいごとではなく、現実の話が聞きたいんだと思います。
あたかも「〇〇さえすれば、大丈夫」みたいな情報は、親切な情報とは言えませんね。

2016年1月19日火曜日

ギョーカイの掟を破る意味

どこのギョーカイにも、ギョーカイの掟っていうもんがあるんですよね。
その掟を破った人間は、99.99999・・・%もう戻ることができません。
そして、出ていった人間が活動できないように、「あいつを使うんじゃね~。使ったら、これから取引しないぞ~」とプレッシャーを掛け、
同時に「うちに問題があるんじゃなくて、あいつに問題があるんだぞ!」と、問題の本質を隠すように、また出ていった人間にダメージを与えるようにもっていくのがお決まりのパターンです。

ギョーカイとしては、自分たちのアンテーのためには、出ていって活躍されたら困るんですよねー。
そもそもギョーカイができる意義っていうのは、利益の大部分を独占し、その利益を自分たちの仲間に再分配するため。
そっちの方が長く、安定的に生きていくことができますからね。
それぞれが頑張って利益を得るよりは、最初から利益が出る仕組みを作った方がリスクも減るし、お得です。
出ていった人間がギョーカイの外で利益を得ることは、自分たちの安定には邪魔でしかないんですよ。

出ていった人間が、どんな小粒であっても、潰しておかなければなりませんね。
何故なら、ギョーカイ内にも不満分子があるから。
全員が「満足してます」なんて言う組織はありませんね。
ギョーカイを出ていっても、うまくやっていけるという前例を作ってしまったら、第二、第三の人間が出てしまう危険性が出てきちゃいます。
だから、どんな小さな芽であっても、全力で摘みに行くんです。
自分たちのアンテーのために、見せしめの意味も込めて。

出ていく人間は、ギョーカイの掟を破ってまでも出ていくので、相当な想いを持っているものです。
でも、そのギョーカイが大きければ、大きいほど、ギョーカイ包囲網は厳しくなります。
ほとんどの人間は生きていけません。
消えていきます。
飛びだしたときの情熱もろとも。

極稀に、ギョーカイ内にいた人間の仲立ちで戻ることもありますが、元のように戻れるわけじゃありませんね。
みんなの前で謝罪させられ、「問題は自分にあった」と非を認める必要があります。
そして、ずっと冷や飯を食べ続けていくんです。
「出ていくときの勢いの陰もないよな」なんて後ろ指を指されながら。

ここまででお気づきの通り、まったく利用してくれる側の存在が出てこないんですよね。
ギョーカイの話には。
出てくるのは、一般社会とはかけ離れた話ばかり。
本来なら利用してくれる人たちの利益が最優先なはずなのに。
人が集まるとロクなことは起きませんね。
集団が大きくなればなるほど、自分たちのルールができ、自分たち寄りの仕組みができていくものです。
よく「できた当初は良かったのに」「個人としては良い人なんだけどね」なんてことがありますね。
気が付いた頃には、自分たちでもどうにもならないところまで来てしまっている。
その離れてしまった距離は、利用者との距離。

ギョーカイが己たち方ばかりを見ていたら、それを気づかせる必要がありますよ。
利用する側、社会の側が声を上げていくしかないんです。
行動することによって、ギョーカイの中に社会があるのではない、社会の中にギョーカイがあるのだ、とメッセージを伝えるんです。
そして、ギョーカイの独占に「No」を突き付け、別の選択肢を生みだしていく。
それこそが、利益を本来あるべき利用者側に持ってくる手段なんですから。

あっ、お断りしておきますが、これは昨晩の生放送を見て推測したことですよ。
別のギョーカイのことではありませんから(笑)

2016年1月18日月曜日

苦手な教科を通して、脳を発達させる

函館は吹雪いていますが、関東の雪も大変だったようですね。
ほとんど雪が積もらない地域ですので、ちょっとの積雪で交通機関に大きな影響が出てしまいます。
よく雪が多い地方の人たちが「それくらいの雪で」なんて言いますが、街の作りが違いますからね。
4か月雪が降る地域と、年に数回しか雪が降らない地域では、影響力が違います。
でも、積雪の中を夏タイヤで走行するドライバーには驚いちゃいますが・・・。

月曜日の朝でしたので、通勤、通学の人たちは大変だったと思いますが、昨日じゃなくて良かったと思います。
昨日は、センター試験でしたからね。
私も、受験生だったときは、試験当日の天候が心配でしたね。
電車が停まった場合も想定して、試験会場までの交通手段はいくつか調べてました。
まあ、受験生ではなかったときは、雪が降ると、授業が休みになって校庭で雪遊びの時間になったり、休校や堂々と遅刻ができたり、と楽しい思い出の方が多いですが。
雪が当たり前の北海道では、こんなことはありませんね。

明日から3学期が始まるところも多いので、冬休みの特訓も終わりです。
苦手な教科を集中して勉強した子もいれば、人間関係について勉強した子もいます。
みなさん、落ち着いて勉強できる期間だからこそ、苦手なことにもじっくり取り組みたいというニーズが多かったですね。

苦手なことを克服するということは、テストの点数を上げることや、適切な振る舞い方を身に付けることが目的ではないと思っています。
特に、頭の柔らかい子どもさんの場合には。
「成績を上げる」「あるスキルを身に付ける」っていうのは、取り組みの"結果"であって、"目的"は別のところにあると考えてます。
それでは"目的"は?
私は「脳を育てること」という認識です。

苦手があるということは、苦手ではないところがあるということです。
ということは、苦手な部分に原因があるはずです。
その原因はどこにあるかと言ったら、脳の場合が多い。
もちろん、環境の場合もありますが、それはコントロールできない場合がありますから、その子の脳にターゲットを絞るわけです。

苦手なことと、苦手ではないことの間に、使っている機能、脳の部位に違いはないだろうか、と確認します。
そうすると、だいたい目星がついてきます。
苦手なことは得てして、脳の不具合と関係性があります。
その不具合、未発達をどう刺激し、育てていくか、それこそが目的だと考えています。

算数や国語の点数が取れるようになったり、適切な振る舞い方を覚えること自体は、そこまで難しいことだとは思いません。
どちらもパターンを覚えさえすれば、適応できますから。
でも、それができたからと言って、実生活での不具合や将来の不安がなくなるか、と言ったら、そうではありませんね。
学校生活で目標になることは、学校生活の中だけで必要になる場合が多いですから。

苦手な教科やスキルは、本人の脳の不具合の箇所、未発達の箇所を教えてくれているのだと思います。
ですから、親御さんとお話しする際も、苦手なことを勉強することは、テストの点数を上げることでも、特定のスキルを身に付けることでもありません。
目的は"脳を育てること"です、と言います。
苦手な文章問題を通して、文章を理解する脳の部位、発声に関する部位、イメージに関する部位などを育てる、もしくはそれぞれの連携を強化する。
苦手な対人スキルのトレーニングを通して、複数の情報をキャッチする練習や、重要な部分に注意を向ける練習をする。
大事なことは、根本から発達を促していくことだと思います。

パターンを覚えることによって、成績や特定の行動ができるようになることも、脳の根本から発達して、成績や特定の行動ができるようになることも、目に見える結果は同じです。
でも、その意味合いは全然違います。
特に、5年先、10年先が違ってきます。
パターンで覚えると、また別のことは別のパターンを教えなくてはいけなくなります。
しかし、根本からの発達は、将来的に自ら適応し、成長していけることにもつながります。

支援者、商売としては、目に見える結果は同じなので、パターンで教えた方が良い。
だけれど、その子を中心に考えると、圧倒的に根本からの発達が良いに決まっている。
脳が育つと、苦手だったことができるようになります。
それだけではなく、育った脳の部位は、他の部位と連携し、さらに別のことができるようになります。
「この子自体が変わったようです」なんていう言葉をこの冬休みも親御さん達から多く聞けました。
これは根本から発達を支援する意義を教えてくれる言葉だと思って受け止めています。

2016年1月16日土曜日

障害者として生きない選択をした若者

新年が始まって、まだ半月というのに、嬉しい話が次々にやってきます。
昨日も、4月からの就職が決まった、と嬉しい報告をいただきました。
その生徒さんは、高等部入学時に「知的障害を持っているんだから、一般就労は無理」と学校に言われたんですよ。
でも、お母さんも、お父さんも、「そんなはずはない!」「まだまだ伸びるはず!」と思い、私のところに依頼がありました。
「我が子を成長させてほしい」
「一般就労できるよう手を貸してほしい」
という依頼でした。
その依頼に応えることができ、ホッとしています。

その生徒さんは、4月から誰もが知っている企業に就職します。
それも、障害者雇用ではなく、一般就労です。
障害のある人ではなく、一人の若者として就職したのです。
それは本人の希望でもありました。
障害者という枠の中で働くのではなく、一般の人と同じように働く。
正社員としての就職ではありませんが、正社員になるための試験も受けられます。
給料や有休、福利厚生も、一般の人と同じ条件です。
あとは、自分の実力次第です。

以前、お金の勉強をしたとき、特別支援は税金が多く使われている、という話をしました。
ですから、就職が決まったときの第一声が「これからは税金を納めて"支える側"になります!」というものでした。
税金を使うことは悪いことではありません。
必要な人が、一般の人よりも多く使うのも問題がありません。
問題があるとすれば、それは無駄遣いすることだと思います。
この生徒さんは、しっかり税金を使い切ったのだと思います。

障害者として生きるのも、そう生きないのも、選択肢があるのは、身体障害ではない発達障害の人たちだからこそ、といえるかもしれません。
この2つの選択肢は、本人の手の中にあるのですから、どちらを選ぶかは本人の自由だと思います。

確実に就職者数を確保したい学校は、特に入学願書締め切りの前に決めておきたかった学校は、福祉的就労を押してきました。
(挙げ句の果てには「どこでも良いから」なんて、しかも親御さんに直接言っちゃうし)
また就職させない就労支援機関も、同様に一般就労は無理だと言い、それよりも障害者として働く方を押してきました。
(しかも勧めるのはすべて系列の福祉施設)
でも、いずれも親御さんは押し返したのです。
だから、このような結果、未来が生まれたのだと思います。

障害者として生きる選択をした人しか愛せない支援者なんていりません。
障害者として生きる選択を迫る姿を見て、つくづくこの人たちは、当事者の可能性よりも、自分たちの利益を優先させるのだと感じました。
親御さんも、私も、本人がどちらの選択をしようとも支持し、応援するつもりでした。
そして、本人は障害者として生きない選択をした。
障害者として生きる方が守られ、苦労することも少ないかもしれません。
でも、その説明もしたうえでの決断です。
支援者のサポートとは、選択するための情報提供がサポートなはず。
決して選択させることのサポートではありません。

一人の若者が社会に飛び立つ姿を間近で見ることができ、本当にうれしかったです。
「障害を言い訳にはしません」という言葉に、3年間の成長を感じました。
これから、どんなことが起きようとも、自分の責任だと受け止めることができる。
そういった姿勢を私は知っているから、飛び立つ姿を静かに見守ることができる。

就職おめでとう!
障害者として生きない選択をしたあなたを支持します。
3年間で私が教えたことなんかよりも、はるかに多くのことを社会は教えてくれます。
社会の中で学び、成長し続け、豊かな人生を自分の足で歩んでいってください!

2016年1月14日木曜日

引っかかりを作り、引っかかりと一緒に習得する

昨日、日本の芸能界が揺れたかと思えば、今日は北海道が揺れましたね。
午前の仕事を終え、家に戻っていたところでした。
スマホに緊急地震速報が流れたので、すぐにストーブを消しに。
こんな真冬で氷点下続きの北海道に、大きな地震が来たら大変です。
食料だけではなく、防寒対策も重要と再確認。
ただ「怖かった」「被害が出なくて良かった」だけではなく、自分の中に引っかかりを作っておくことが大事ですね。
引っかかりがないと、次々と流れていってしまって、今後につながりませんから。

引っかかりって、自閉症支援でも大事なポイントですね。
特に、受け身系の人には。
一生懸命知識を伝えたとしても、本人の中に引っかかりがなければ、そのまま流れてしまうことがあります。
見えない目的や意図、将来のどんなときに役立つかに気が付きづらい。
そうだと、与えられた知識がただの文字、ただの音声になってしまうこともありますね。
何に使うか分からない情報は、実践に活かす立体的な情報ではなく、平面の情報として記憶の中に。
平面の情報は、取りだせたとしても使うことは難しい。

あるお子さんは、相談や療育を受けに行っても、そのこと自体、忘れていることがありました。
結局、何故、その場所に行っているのかが分かっていなかったのでしょう。
ただ予定があり、親御さんに連れられ、そこに行っている。
そして、支援を受ける。
でも、その支援がどういった意味があるのかわからず、ただ受け身で聞いていたもんだから、その子の中に引っかからなかったのだと推測できます。
支援の質以前の問題として、そもそも何をやっているのかがわからなかった。
本人の中に引っかかりを作ってから、指導や支援を始めるのは基本ですね。
自分たちで引っかかりを作ることが苦手な人も多いですからね。

せっかく支援や療育を受けたとしても、本人の中に引っかかっていなかったら勿体ないですよね。
学校だってそうですよね。
子どもによっては「行く決まりだから、ただ行ってます」「日課としてこなしています」ってこともあるかもしれません。
それでは、本当の意味で学んだことにはなりません。

自閉症の人は、知識同士、身に付けたスキル同士の結びつきが弱いという特徴を持っています。
ですから、知ってはいるんだけど、習得はしているんだけど、うまく結び付けられなかったり、実際の場面で取り出せなかったりすることがあります。
これが生活の中の困り事として現れることも。
本人の中に入っているものを自由に取り出せることに苦手さを持っている人たちですから、教える知識と技能に、予め引っかかりを作っておくことが必要です。
いざ、指導、支援の前に引っかかりを作っておくこと。
そして、本人が習得する際にも、あとで容易に探せて、自由に取り出せられるよう引っかかりを付けておくことが自閉症支援のコツですね。
「なかなか身につかない」って悩んでいる方、ちゃんと引っかかっているかを確認してみると良いかもしれませんよ。

2016年1月12日火曜日

本人、家族、支援者の間で熱が移っていく

この頃、気になる親御さんがいます。
(もちろん良い意味で。ヘンな意味じゃないですよw)
積極的に支援について訊いてきますし、分からないことがあったら、どんどん質問してきます。
そして、即実践し、うまくいかなければ、さらに訊いてくる、の繰り返しです。
もちろん、私のお客さんは「お金を出してまで支援を受けたい」という方たちなので、熱心な方たちばかりです。
このようなグイグイくる親御さんはたくさんいます。
でも、この近頃、気になる親御さんは、最初、あまり熱意が伝わってこなかった人で、「勧められたから来たんですけど」みたいな方でした。
それが子どもさんが変わっていくと同時に、親御さんも変わっていって、今では熱量バンバンになっています。

こうやって親御さんの熱量がビシバシ伝わってくると、私も「それに応えなきゃ」って気がどんどん高まってくるんです。
親御さんの熱が移るように。
最初は、お子さんの成長という火が起き、それが親御さんに伝わり、そして私にも伝わってくる。
私がさらに熱を高めて返すと、ますます熱が高くなって、また返ってくるようなイメージですね。
そして、私も熱が高まると、どんどんアイディアが出てくるんですよね。
「あっ、こっちの支援の方が良いかも」とかいうように、ちょっと前に考えていたことよりも、しっくりくる支援が。
結果も良いんですよ。
熱は支援の質を高めてくれますね。

この親御さんを見ていて感じるのですが、もともと熱を持った親御さんだったのでは、ということです。
子育てを行っていく中で、熱が冷めてしまったのではないでしょうか。
自分以外の人から熱が加わらなかったかもしれません。
冷や水を掛けてきた人もいるかもしれませんね。
そして徐々に熱がなくなり、冷めたように見えていたのかもしれません。

今日、一緒に勉強した女の子は、勉強を終わりにしようとすると、なかなか片づけを始めませんでした。
そして、一言「もっと勉強したい」と。
最初は、勉強を「ヤダヤダ」と言ってたんですけどね。
学校の授業中だって、じっとできずにフラフラ。
そういった姿を見ているので、「もっと勉強したい」という言葉が嬉しかったですね。
「もっと勉強したい」という言葉に影響を受け、私も「もっといろいろ教えたい!」と思ったんですね。
このように本人との間で熱量を高め合うことってよくあります。
でも、同じように親御さんとの間でも熱量を高め合うことってあるんですよね。

熱には熱で返したいですね。
そして、熱が冷えてしまっている方には、熱を伝えていきたいです。
影響を与えるのは、支援する側だけではありません。
このように本人、ご家族、支援者で影響を与え合うのがよい関係だと思います。
それぞれの熱とその高まりを感じるとき、私は「支援をみんなで作り上げていけているな」と温かい気持ちになるのです。



2016年1月10日日曜日

帰省のお土産

新年早々、嬉しいことがありました。
「帰省したときのお土産です!」ってお菓子をいただいたんです。
学生さんだからお金がないはずなのに、しかも「親御さんに言われたから」ではなくて、自分で考えてお土産をわざわざ買ってきてくれました。
本当にうれしかったです。

自分で考えるって素晴らしいですよね。
詳しい経緯まではわかりませんが、どこかの時点で、一瞬だったとしても、「あっ、大久保にもお土産を買っていこう」と思って、お土産屋に行き、複数あるお土産の中から1つ選んだ。
もちろん、「目にしたものを」っていうように1つ選んだのかもしれませんが、それでも今まで一度もなかったことですから。
本人の中で、何かが変わったのは確かだと思います。

初めて会ったときは、自分、自分、自分の人だな、と感じましたね。
常に自分の意見、考えばかりで、「相手のこと、ちょっとでも考えているのかな」なんて思ってました。
当然というべきか、過去には対人面でのトラブルが多々あったと引き継ぎを受けましたね。
でも、そのときと比べて今の姿は成長を感じますし、自分以外の人のことも考えられるようになってきていると思います。
私が嬉しかったのは、本人の頭の中に"他人"の入るスペースができたことです。

お土産を受け取ったとき、私から「お土産を買ってきてもらえると思っていなかったから、びっくりしたよ」という言葉を聞いて、本人はちょっと"間"ができました。
その"間"に、本人はいろいろと考えたのだと思います。
こういった本人の行動が相手から反応を生み、そして、また学んでいく。
この繰り返しが、自らの成長へとつながっていくのだと思います。

「自閉症の人は他人の視点を想像することが難しい」なんて言われますが、学んでいくことはできますよね。
私たちのように瞬時に他人の視点を想像することはできないかもしれませんが、経験と学びが増えていくことによって、的確な想像ができたり、想像の時間が短くなったりします。
例え苦手なことだったとしても、過去の自分よりは前に進むことができる。
やるか、やらないか、の違いだと思いますね。

新年早々、成長を感じられたので、嬉しかったです。
今年も、「成長したい」と強く思う人たちと一緒に成長していきたいと思います。

2016年1月2日土曜日

2016年も支援者からの自立のお手伝い!

新年あけましておめでとうございます!!

今年も、一人でも多くの方たちに「大久保さん、もう来なくて結構です」と言ってもらえるよう頑張っていきたいと思います。

どんどん自立してもらった結果、仕事がなくなれば、それで結構です。

ちょちょっと廃業届を出して、次の道に進めば良いだけです。

それよりも、自分の人生を自分の足で進んでいってほしいと思います。

そのためには、自分の特徴を知り、自分の心身を整える方法を身につけ、自分自身を成長させられるようになることが必要です。

そのためのお手伝いが、私の役割だと考えています。

2016年より、発達障害に関する制度も変わっていきます。

これからは、ますます個人の努力と自立が求められていきます。

そこで私は

「いつまで国への"たかりや"でいるのですか!?」

「本当に自立できないのですか!?」

というメッセージを投げかけていきたいと思います。

自閉症のままで生きていけばよいのです。

でも、自閉症のせいにして生きていってほしくないです。

自閉症のままで成長できるし、工夫もできる。

社会の中で自立して生きていくことだってできる、と私は信じています。

だって、自閉症のままで、自分の資質を開花させ、社会の中で自分の役割を果たしている人たちの姿をこの目で見てきましたから。

そうして今度は、サポートが必要な人たちを支える側になっていくのが、本人にとっても、社会にとっても、理想ではないでしょうか。

社会を変えるのは、自閉症の人たちです。

支援者ではありません。

自閉症の人たちが社会の一員として生きていく姿が、周囲の人たちを変え、そして、いつかは社会を変えていくのだと思います。

支援者と呼ばれる職業がいらなくなる社会を目指して、今年も頑張っていきたいと思います。

どうぞ本年もよろしくお願いいたします!

元旦の富士山