2016年2月29日月曜日

「自閉症は一生治りません」は勘違いさせる言葉

「自閉症は一生治りませーん」と言うのは構いません。
でも、もう少し詳しく言わないといけませんね。
「自閉症は一生治りませーん」ではなくて、「自閉脳というタイプは変わらないけれど、自閉脳のままで発達も、成長も、改善もします」というように。

「自閉症は一生治りませーん」という言葉は、人を勘違いさせるんです。
我が子に診断がついたばかりの親御さんからしたら、絶望の一言になりますよね。
「なにもやってあげられることはない」と思ってしまう人もいるでしょう。
不治の病のように捉えられ、「できなくても仕方ないね」と思ってしまう人もいるでしょう。

こういったある意味の"勘違い"があらぬ方向へと発展していき、「自閉症の子に努力させてはかわいそうだ。してはいけない」となったり、「勉強やトレーニングよりも、本人が楽しく生活できる方が大事」となったり…。
「一生治らないんだから、国や地域が保障しろ」というような誤った主張、エネルギーの使い方へと変わってしまうこともありますね。
「自閉症は一生治りませーん」という言葉を政治的に利用している人もたくさんいるのが事実なんです。

一つ前のブログにも書いたように、その子に合ったトレーニングができれば、脳の凸凹は変わっていくんですよ。
「自閉症は一生治りませーん」というのは、一生改善も、成長も、発達もないっていうことではないんですね。
発達障害の人も、発達するんです。
子どもだろうが、大人だろうが、死ぬまで発達できる可能性を持っているんです。
これをきちんと伝える必要があるんです。

「自閉症は一生治りませーん」と言う人に、私ははっきり言いたいですね。
この言葉は、本人や親御さんの努力の芽を摘んでしまう言葉だということを。
もし自分が、もし我が子がつらい経験をしていたからって、今の子ども達、そしてこれから生まれてくる発達障害の子の未来までも否定しないでほしいです。
それに自分たちの未来も。

だから、ちゃんと伝えてください。
発達障害の子ども達も成長するし、改善、発達していくことを。
そして発達障害のまま、自閉症のまま、幸せになれる方法も、可能性もたくさんあることも。

自閉脳は変わらないけど、脳の凸凹は改善、発達するでしょ!

発達障害は、脳の機能障害って言われてる。
ということは、アプローチするのは脳みそでしょ。

で、その脳みそには可塑性っていう性質がある。
つまり、脳みそっていうのは、すべて遺伝子で決まるんじゃなくて、環境などの刺激によって変化していく。
脳みそは死ぬまで変化し続けるもの。

じゃあ、発達障害の人の脳って変化しないの!?
脳が発達していかないから、発達障害って言われるの!?
そんなことはないよね。
発達障害の人の脳も発達する。
できることが増えたり、運動機能が発達したり、感覚面だって改善していくでしょ。

それなのに、いつまで経っても「自閉症は一生治りませーん」と声高々に言っている人達がいる。
そりゃあ、その人の持つ脳のタイプ、個性は変わりませんよ。
自閉脳という特徴を持って生まれた人は、ずっと自閉脳のまま。
別に変える必要もありませんしね。
だけど、脳の凸凹の凹の部分は、刺激によって成長するでしょうし、まったく凹がなくならないかもしれないけど、発達によって改善はすると思いますよ。
だって、脳には可塑性があるから。

交通事故などで脳に損傷があった人達も、リハビリ、トレーニングによって、機能が回復するんですよ。
脳が傷ついているわけでも、欠損しているわけでもない自閉脳。
だったら、発達、改善の可能性だって十分あると思いますね。

2016年にもなって、未だに「自閉症は一生治りませーん」と言っている人達って別の意図を持って言っているか、職場放棄しているんでしょうね。
少なくとも、私にはそう見えてしまいます。

繰り返しになっちゃいますが、自閉脳は脳のタイプ、個性ですから、ここは変わるものでも、変えるものでもないです。
だから、自閉脳のまま生きていき、自閉脳のまま幸せになっていけば良いのです。
そのためにも、生きづらさにつながる部分は改善し、資質を活かすために成長していくんだと思います。
それを手助けするのが、支援者の役目でしょう。
慰めたり、できないことを代わりにやったり、社会に訴えたりするのは、支援の本質ではないのです。
変化する脳だからこそ、ポジティブな方向へと変化できるように支援する。
これこそが発達障害支援、自閉症支援だと言えるのです。
自閉脳を活かすためにも、磨かなければなりません。

2016年2月27日土曜日

慰謝料もきちんと請求する

一つ前のブログに関連して、本人に責任を取ってもらうときには、慰謝料がミソになります。
例えば、お兄ちゃんのおもちゃを壊してしまった。
そうしたら、同じおもちゃを買って弁償するのは当然なことで、さらに慰謝料も払ってもらいます。
つまり、物に対する弁償と、心のダメージに対する弁償ですね。

これもあるあるなんですが、「同じものを買ってきたから良いだろ!」という態度の人っているんですよね。
「壊したら、同じ物を買う」「同じものを買えば、終わり」という考えの人。
これって怖い考え方なんですよ。
物って持ち主の愛着、思い出っていうのもあるので、金額だけでは測れないですし。
もし高価な物を壊してしまったら、弁償できないですし。
人の命を奪ってしまったら…。
極端な話と思われるかもしれませんが、物と人、命の境目がはっきりしていない人もいるんですよ。
だから、「弁償すればいいんでしょ」という考えでは、同じことを繰り返してしまったり、後から取り返しのつかないことになってしまったりする危険性があるんです。

相手の視点を想像することの苦手な人の場合には、きちんと慰謝料もとるべきだと思いますね。
"心のダメージ"という見えないものを見えるようにするためにも。
相手に損害を与えるってことは、それを元通りにするだけではなくて、気持ちも元通りにする必要がある。
または、気持ちの元どおりができなかったとしても、それに見合うだけの責任を果たさなければならないことを。

私は支援するとき、必ず「弁償プラス慰謝料」で教えます。
謝罪のみというように、決して責任を曖昧にはしません。
責任を果たすというのを、きちんと身を削って行ってもらいます。
たくさん誤学習している人達がいるからです。
家庭も、学校も、小さな社会です。
この小さな社会で、きちんと社会のルールを学ぶ必要があります。
誤ったことを教えてはいけません。
結局、将来、傷つくのは本人たちです。
見える損害だけしか気が付いていない人には、きちんと見えない損害についても伝えることが正しい情報提供の仕方であり、正しい学びとなります。
「謝罪のみ」「弁償のみ」では不十分であり、誤学習の元となるのです。

"両成敗でいいじゃない"じゃなーい

学校文化の中での弊害が、"喧嘩両成敗"なんですよね。
学校って「みんな仲良く」がスローガンだから、喧嘩してもすぐに仲直りさせようとする。

たとえ、一方に非が強く認められたとしても、「やられたお前にも悪かった部分があるんだし」とか、「やった方も、これだけ反省してるんだから」とか、責任の所在を濁しちゃう傾向がありますね。
また、窓ガラスとかを割ってしまっても、「ちゃんと自分から申し出たのが良い」とか、「これからは気をつけるように」とか、「怪我しなくて良かった」とか、壊してしまった責任よりも謝罪した行為にスポットを当てて指導しようとしちゃいます。

これの何が問題かっていったら、「責任取らなくてもOK」という誤学習をさせちゃうところなんです。
「いやいや、謝罪という責任取らせてるんじゃん」と言われそうですが、私から言わせれば、謝罪って責任取らせたことにならないでしょって思いますね。

謝罪って、見えない制裁ですよね。
恥ずかしいという感情だったり、信用を失うとかだったり。
それに「相手の気持ち」も加わってきます。
自閉脳の特徴は、「見えないものは、ない」ですよね。
つまり、謝罪って責任取ったのが、本人から見えにくいんです。

トラブルを起こした人に良く見られるのが、「謝ったから良いんでしょ」という態度です。
これって学校文化を忠実に守ってるんだな、と思いますね。
学校では、謝ったら事が済んだかもしれませんが、社会の中では、これではすみません。
責任をとることが求められます。
物を壊せば、弁償しなければなりません。
人を傷つければ、医療費を払わなければなりません。
合わせて慰謝料も払う場合もありますね。
学校の文化では、謝罪に重きが置かれますが、社会は違います。
どちらかというと、謝罪よりも、弁償が大事です。
弁償しないで、謝罪だけしても、社会は許してはくれません。

学校だけではなく、家庭でも意識してほしいと思います。
家の物を壊してしまったら、お小遣いから弁償させることも大切です。
「ちゃんと謝ったから許すね」という言葉は、全員とは言いませんが、自閉っ子の誤学習の元になります。
「ちゃんと謝ったら、許してもらえる」→「謝ればOK」という俺ルールの完成です。
家庭や学校の外で、「謝ったのに許してくれない」と逆ギレする人って少なくないんですよね。
こういった人を支援する場合、「社会では、謝罪プラス賠償がルールです」って教え直さないといけないんです。

謝罪を重視するばっかりに、大事な「自分で責任を取る」に気が付かない人が少なくありません。
謝罪という概念が掴みづらい人にとっては、謝罪という形の模倣練習しかなっていない場合もあります。
自閉っ子が分かる形で責任を取らせることこそが、生きた学びになるのです。

2016年2月26日金曜日

現行犯と自供はわかるけど、証拠で逮捕ってわからないよ~

現行犯逮捕と自供による逮捕は分かるけど、証拠での逮捕が分からない…。
そんな自閉っ子がいます。
もちろん、罪に問われるような犯罪をしたわけではないですよ(笑)

いたずらや悪いことをしたとき、その場にいたお母さんや先生に怒られるのは、そこまで想像力を使いませんね。
目の前にいる人から怒られるっていう経験は、小さいときから、何回もしていることですし。
また、自分から悪いことをしたと言えば怒られるっていうのも、悪いことをする⇔自供する⇔怒られるがつながりやすいですよね。
でも、証拠は想像力をふんだんに使う必要があるので、理解のハードルがぐっと上がちゃいます。

その場に誰もいなかった。
しかも、自分から告白していない。
それなのに、お母さんにいたずらがバレた。
なぜ…ってことがあります。
この"バレた理由"っていうのを理解するには、いろいろと想像しなければなりません。

まずお母さんの視点を想像しなければなりません。
どうしてお母さんが気づいたのかな?
何か見て、そう思ったに違いない、という検討をつける必要があります。
そして、次の段階は、お母さんは"何を見て"、いたずらしたと気が付いたのかを考えていく必要があるのです。

例えば、家のガラスを割ってしまったときなら、割れたガラスという実物があるので、これかなって目星を付ける。
自分がやった行動と結果が一対一で結びついてるので、このレベルの想像はそれほど、難しくないですね。
でも、これが物的証拠が複数になると、どんどん難しくなります。

口元にチョコレートが少しついている。
食べてはいけないと言っていた冷蔵庫に入っていたチョコレートがなくなっている。
だから、「あなた、食べちゃいけないチョコレート食べたでしょ!」となる。
つまり、口元のチョコと冷蔵庫の中の少なくなったチョコという2つの情報を統合して、そこから私がチョコを食べたことに、お母さんが気づいたのだろうという想像をしなくてはなりませんね。

さらに難しくなると、物的証拠プラス状況証拠の場合です。
家に妖怪メダルがある。
でも、見たことがない種類の妖怪メダルだ。
先日、お小遣いがなくなったばかり。
この頃、祖父母の家にも行っていない。
お父さんと買い物にも行っていない。
どこかで拾ってきたにしては、新品だ…
というようなことから、おかしいぞって思って、お母さんが僕に「どっかから持ってきたんじゃないの!?」と言ったんだと想像するって、書いてても複雑です。

で、もっともっと難しいのが、かまかけバージョン。
過去の出来事や性格からいって、なんかやったぽい。
たぶん勉強しないで、遊んでたようだ。
よーし、いっちょかまかけてみるか。
「ねー、あなた、勉強しないで遊んでたでしょ」と、お母さんが言った。
お母さん出かけてたし、遊んでいた形跡は残していないから、普通なら気が付くはずはない。
きっとかまをかけたんだろう、という読みをする。
これを的確に、かつ短時間で想像できるには、訓練が必要ですね。

そして、もうお手上げなのが、カンです。
つまり、母親のカン、その道のプロのカン。
学校から帰ってきた瞬間、「なんかあったでしょ」と気が付くやつです。
第六感とも言われる感覚ですので、もう一つひとつ何故を紐解いていくのは不可能。
第六感っていうのがあるんだと理解するしかないですね。
今のところ、論理的に説明するのは難しいので。

いたずらや悪いことだけではなくて、さまざまな証拠、つまり別々に存在している情報を的確に捉え、かつ統合し、何か答えを導くっていう作業は、かなりの想像力を使いますね。
そう考えると、私たち定型発達の人達が、特に意識しなくても、瞬時に状況から読み取れっているのって不思議だと思いますね。

「なぜ、バレたのか」を説明したあと、こういった複雑な想像ができることを求めるのは、まだ難しい段階でしたので、悪いことっていうのはバレるものだというように伝えました。
「もし、誰もその場にいなかったとしても、〇〇くんは自分のしたことを見ているでしょ。だから、悪いことは必ず見られてしまうから、絶対にやってはいけないよ」というのが、バシッと入ったようです。
母親の第六感の話をしていたら、かなりビビってましたので、きっともうしないでしょう(笑)
バレないで、うまくやるっていうのは、もっと大きくなってからですね。

2016年2月23日火曜日

今から教員免許状の申請すればいいじゃん

30年以上、教員免許がないまま、指導していた教諭のことがニュースになっていましたね。
私の感想は、「別にいいじゃん」です。

ちゃんと教職課程の大学を単位とって卒業したんだし。
今まで30年以上、教員としてやってきたんだし。
これで全然関係ない大学を出てて、詐称して教員になったら問題だけど。
ちゃんと教員採用試験にも合格したんでしょ。
教育委員会が適正である、あなたは合格ですと認めたんでしょ。
受け持っていた生徒たちへの単位は有効、補習なしと言ってるんでしょ。

教員免許状授与の申請手続きしてなかったのなら、「ごめんなさい」って一言誤って今から申請すればいいじゃない。
生徒たちのことを考えたら、その方が断然いいと思う、犯罪者みたいに扱うよりも。
「今まで払った給料の返還請求!?」
「刑事罰で法的な手続きも!?」
頭がガチガチな人間には、良い教育なんてできないと思いますね。

私の家にも教員免許状ありますよ。
どっか奥の方にしまってますけど。
今の仕事では使ってないですからね。
つまり、今の私にとっては紙なんです。
私が支援させてもらっているご家庭で、誰一人として「教員免許状見せてください」なんて言わないですし。
料金に見合う支援ができれば、良いのです。

結局、教員免許状の紙は、指導の質を証明してくれるわけではないんです。
人を教え育てるって教員免許状やるんじゃないんですね。
やっぱり人なんです。
教える人が自らの腕を上げるために勉強し、経験を積み重ね、成長していかない限り、よい教育を提供することはできないですから。

よく教員同士で…
「教採に何年で受かった」とか、「1種免許だ、2種免許だ」とか、「教育大学か、私大か」とか、「特別支援ばっかり勤務」だとか、「教員免許を持っていない塾の先生、習い事の先生」とか言っている人もいますけど、ホントどーでもいい。
臨採の先生でも、子ども達を一生懸命指導し、伸ばしている人もたくさんいます。
教員免許がなくたって、子ども達の成長に携わっている人達は家庭にも、地域にも、たくさんいます。
「子どもは社会で育てていく」と言いながら、「自分たちしか指導ができない」と思っている教員、また教育行政の人間がいるとしたら、本当にいろんな意味で残念だと思いますね。

学生時代、講義をサボる人、カンニングする人、水商売で働いてお酒の匂いをプンプンさせて机で寝てる人、公私ともにチャランポランな人、子どもは好きじゃないけど、安定した職だからと言ってた人…みなさん、採用試験に合格し、全国で教員されてますよ。
そんなもんです。
もちろん、教壇に立ったあと、心を入れ替えて努力されている人もいるとは思いますが。
私は、将来自分の子が学校に行ったら、担任の先生に出身校だけは訊いておこうと心に決めてましたね(笑)

子どもの目には、教員免許状は映らないはずですよね。
映るのは、この人が自分にどんな影響を与えてくれるのか、だけです。
子どもを目の前にすれば、どんな大人も一人の先生、一人の人間になります。
立場や職種を超えたところで、誠の教育がなされることを私は望んでいます。
いつまでも「教員免許ガー」とこだわるような狭い見識では、これからの社会を担う人材をより良く育てていくことはできないでしょう。

2016年2月22日月曜日

世の中を恨む思考に共感したらあかん!

世の中や社会、他人に対して恨みを持っている人は、幸せにはならないと思いますね。

「僕は同世代の人達から嫌われています」
「親から愛されていないんです」
「みんなは私のこと、働けないヤツって見てるんです」
「社会は僕のことを受け入れてくれないんだー」
と言うような当事者の人も多いです。

このように思ったり、考えてしまったりするきっかけは、実際にあったのでしょう。
積み重ねっていうのもあると思います。
でも、だからといって、全部悪意に満ちたものだったかと言ったら、そうとは言えないこともありますよね。

自閉脳と定型脳の間での受け取り方の違いもあるかもしれません。
親切心でやったことが、相手に伝わらなかったこともあるでしょう。
両親から愛情を感じられなかったという人も、"愛情"の捉え方にギャップがあったり、親の言葉以外の愛情表現をキャッチできなかった場合もあるでしょう。
いじめられたかもしれませんが、自分をいじめた人間は同世代の人間すべてではないはずです。
世の中全体で見れば、自分のことをいじめた人間、いじめる人間は圧倒的に少数です。
受け入れてくれない社会って言っても、あなたのことはほとんどの人が知りません。
こういった情報が抜け落ちている場合もあるかもしれません。

社会を恨む人と対峙したとき、私は絶対にその考え方に共感することはしません。
共感することで、その考え方を支持したと受け取られないためにです。
私は、はっきりと「世の中を恨むことは良くない」と伝えます。
世の中を恨んでも、生きづらさはなくなりません。
ますます社会に出ることを怖がらせるばかりです。
気持ちの共感と、考え方の共感をごちゃまぜにしてはいけません。

大事な支援とは、情報を提供することです。
異なる文化同士で生まれてしまったギャップ、拡大解釈している部分の等身大の姿、俯瞰した視点など、抜け落ちた情報、見えなかった情報をきちんと提示することです。
そうすることで、本人が解けるなら誤解を解き、恨み続けるのなら正しい大きさで恨めるように導きます。

世の中を恨んでも、百害あって一利なしです。
障害があろうがなかろうが、自分の未来を変えるのは、自分自身です。
世の中に変わることを求めたとしても、自分が動かなければ、人生は変わってはいかないのです。
世の中を恨むことは、その未来を変える力を奪ってしまいます。

自閉症の人達は、心に闇を抱えた人達ではないのです。
心は、定型発達の人も、自閉症の人も、何ら変わりはありません。
違いがあるとすれば、脳の違い。
脳の違いは、情報の受け取り方に違いを生みます。
ですから、きちんと情報提供をする。
それこそが求められている真の支援です。
ネガティブな感情に共感してうまくいくのは、定型発達の文化の中でのお話です。

2016年2月21日日曜日

幸せな生活を手に入れられるのは、軽い人、できる人、特別な人だけではない!

春から社会人として働き始める子のお母さんが言っていました。
子育ての中で言われてショックだったのは、障害を知らない他人の口から出たんじゃない、同じ障害を持った子を育てていたお母さん達から出たんだ、と。
「あなたの子は、もともとできる子だったから」
「あなたの子は、軽度だから良いよね」
という言葉に、心を痛め、怒りを覚え、そして、母親同士の交流を絶ったのでした。

私は、その子が小さかった頃の様子を知っています。
着るもの、遊ぶもの、食べるもの、行く場所、手順などなど、本当にこだわりが強かったですね。
いつも一人片隅でメソメソ泣いている子でした。
だから、私は知っているんです。
この子が"もともとできる子"ではなかったことを。
障害の特性が"軽い子"、"育てやすかった子"ではなかったことを。

一つひとつ時間をかけて、丁寧に子育てをされてきた結果、お子さんが就職できるくらいまできたのです。
周囲の支援者からは、「就職は難しいでしょう」「うまくいって作業所ですね」「将来は施設にお世話になるんだから」などと言われながらも、ご両親は諦めなかった。
少しでも我が子の成長のためにできることを、と思い、行動してきたのです。

最初からできる子なんていないんですよね。
「できる子」「働いている子」も、みんな努力をしているんです。
この子も小さい頃と比べて、ビックリするくらい成長しました。
でも、就職を決めた今も、特性は残っていますよ。
発達の凸凹もあります。
IQや生活スキルは上がりましたが、考え方や捉え方、言動は自閉っぽさ全開です。
自閉症のままで就職面接、実習を受けて、採用が決まったのです。

小さい頃、ギャンギャン泣いたり、奇声を上げたり、走り回っているたびに、白い目で見ていた他人は、この若者のことをもうそんな目では見ません。
でも、同世代の子のお母さん達からの目は、今も変わっていないのです。
「まあ、〇〇ちゃんは一般就労するよね」と言われたそうです。
しかし、お母さんは気にしないそうです。
「うちの子の小さい頃の姿を知っている人がいるから」
「今までの本人の努力に気が付いている人がいるから」と。
そして、何より本人が希望していた就職を「自分自身の手で掴んだのですから」と。

全国に目を向ければ、同じように努力の積み重ねによって、生きづらさから脱却し、成長を続け、幸せを掴んだ方もいます。
自閉症の特性が色濃く出ていたり、心身の不調や疾患があったり、と決して軽くも、元々できたわけでもありませんが、今は心身ともに健康になられ、磨いてきた資質を社会のために活かされている方がいるのです。
このような歩みをされてきた方のお話が本で読むことができます。

今月、10年以上前に執筆されたこの方の本が復刊されました。
「生きづらさ全開」の書籍ですが、著者の方が出された今までの書籍を合わせて読むと、一気に希望の書に変わります。
これ程までに生きづらかった方が社会人として働き、活き活きとした生活を手に入れるまでの記録。
"軽い人"、"できる人"、"特別な人"だけが幸せな生活を手に入れられるわけではないことを教えてくれるはずです!

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他の誰かになりたかった(改訂版)
~多重人格から目覚めた自閉の少女の手記~
藤家寛子 著 花風社

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30歳からの社会人デビュー
~アスペルガーの私、青春のトンネルを抜けてつかんだ未来~
藤家寛子 著 花風社

2016年2月20日土曜日

信頼を認定するのか!?

「どうして私のことを知ったのですか?」とお尋ねすると、
「私が信頼している〇〇くんのお母さんが勧めてくれたんですぅー」と仰っていました。
新規のお宅へ訪問したときのことです。

私の仕事はとってもとっても怪しいので、ほとんど飛び込みで連絡してくる方はいませんね。
ほぼ口コミ&紹介です。
時たま、ネット等で調べて、直接連絡をくださる方もいますが。
まあ、支援機関からの紹介はあり得ないので、紹介も利用してくれている親御さんか、私の知り合いですね。
この新規の親御さんも、知り合いの親御さんからの紹介でした。

それにしても「信頼している親御さんがいる」って素晴らしいことだと思います。
いろいろ相談にも乗ってもらっているそうですよ。
同じ知的障害を持つ自閉症の息子さんで、学年が上の先輩ママさんだったこと。
それよりも、「あんな風に息子も成長してほしい」と先輩ママさんのお子さんを見て思ったのが、「話を聞いてみたい」と思ったきっかけだったと言っていました。

やっぱり「私の子もこんな風に成長してほしい」「あんな大人になってほしい」と思えるような子育てをされた先輩ママ(パパも)って信頼できますよね。
知識の量やどのギョーカイ人と仲が良いじゃないですね。
後輩ママ達が見ているのは、先輩ママのお子さんの姿です。
あちこちでお話を聞きますが、結構、みなさん、シビアに先輩ママのお子さんを見てますよ。

信頼ってギョーカイ人が認定するのでも、養成講座で身に付けるものでもありませんね。
そんな認定が生まれる前から、自然と上手に子育てをされているママさんの周りには、人が集まってきていましたよ。
エネルギーを注ぐとしたら、傾聴スキルを教えることより、目標になるような子ども達を社会に送りだしていくことだと思いますね。
情報共有が目的だとしたら、こんな小さな地域で情報にアクセスしづらい仕組みの方を改善すべきだと思いますね。

2016年2月19日金曜日

ルールを天秤にかける

ルールを天秤にかける場面は、日常生活の中に多々ありますね。

「ごはんは良く噛んで食べる」と「時間は守らなくてはいけない」というルールでしたら、登校時刻までの時間によって天秤の傾きは変わります。
「任せられた仕事は最後までやり遂げる」と「体調不良になったら休む」というルールでしたら、仕事の重要度と〆切、体調不良の原因によって天秤の傾きは変わります。

ある男の子の話です。
その子は「約束は守る」と「嫌なことは断る」というルールを教わっていました。
あるとき、友達と約束をしました。
でも、あとからその約束を思い返してみたら、男の子は嫌だと思ったそうです(社会的に見ても良くないことでした)。
つまり、「約束は守る」と「嫌なことは断る」というルールを天秤にかける必要があったのです。
男の子は「約束を守る」という方に天秤を傾けた結果、トラブルを起こしてしまいました。

トラブルを起こしたあと、その男の子と話をしました。
「約束は守る」と「嫌なことは断る」というルールは分かっていたとのこと。
では、何故、嫌なことだと思ったのに断らずに約束を守る方にしたかと言ったら、「約束を守る」というルールを教えてくれたのが先生だったから(ちなみに「嫌なことは断る」はお母さんから教わった)。
つまり、その子の中で優先したのは、約束の内容や影響、社会的に見てどうかではなく、誰が教えたか。
先生が教えたことの方がお母さんの教えたことよりも優先順位が高いから、という理由でした。

定型発達の人達は、このような優先順位をつける行為を瞬時に頭の中で行います。
それは、その状況を構成している複数の情報を適切に掴むことができるからです。
でも、自閉症の人達は、状況を構成している複数の情報を掴み損ねることがあります。
その結果、状況に関係なく、いつも同じ選択をしたり、掴めた情報の中だけで判断したりします。
男の子は、ルールはルールとして同じ場所にカテゴライズしていました。
ですから、「約束は守る」と「嫌なことは断る」というルールの間には上下がなく、同じルールという括りでした。
また、その約束が及ぼす影響と結果という情報が掴めず、先生の言ったことを優先するという部分のみで判断してしまったのでした。

嫌だと思う約束でも、「万引きをしてこい」というのと、「マンガを貸して」では度合いが違います。
また約束をする友達との親密度や、友達の力具合でも状況は異なりますし、友達と約束するのと、先生と約束するのでは意味合いが違ってきます。
このように1つの情報をとってみてもレベルの違いがあり、判断すべき情報が多くなればなるほど、複雑になります。
そんな複雑な判断を瞬時に、オートマチックにしているの定型脳との違いを感じるエピソードでした。

ちなみに、男の子とは「ルールの優先順位は、誰が教えたのかでは決まらないこと」「約束も、嫌なこともレベルや種類の違いがあること」「この前の状況だったら、嫌だと断る方を優先すべきだったこと」などを一緒に勉強しました。
オートマチックな脳になれなくても、こういった学びの積み重ねが適切な状況判断へとつながっていくと考えています。

子どもさんへの質問に、すべて答えるお母さん

先日、お手伝いした会で、印象に残ったお母さんと娘さんがいました。
会に参加するのは、娘さんだけ。
その娘さんを送るために一緒に会場にいらしたときのことでした。

他の親御さん達が「じゃあね」「終わったら、迎えに来るから」と言って会場を後にしていくのですが、その娘さんのお母さんは一向に離れようとしないのです。
ずっと娘さんの側に付きっ切り。
ボランティアの学生やスタッフが娘さんに話しかけるのですが、それに対する受け答えを本人ではなく、すべてお母さんがしていました。

事前情報として、この女の子は話すことが苦手だと聞いていました。
ですから、会が始まる前のお母さんの行動は、その娘さんをフォローしてのものだったように感じました。
しかし、会が始まり、時間が経過していくと、言葉は少ないですが、適切に受け答えをするのです。
時折、自分からも話しかけてきたりもしました。
自閉症の診断は受けていますが、通常学級で勉強している中学生の女の子です。

私が仕事で携わっているご家庭でも、このお母さんと娘さんのような方はいます。
私が子どもさんの方に話しかけているのですが、お母さんがすべて受け答えをされたり、お子さんが何かしゃべろうとしても、その途中で「こういうことだよね」と言ったりされます。
また会話以外でも、勉強やスキルを教えていたら「これが苦手です」「まだ習っていません」「前にやったときに間違って覚えたかも」と言うような方もいます。

できない部分を見るのも、私の仕事です。
ですから、できないままの姿でOKなのです。
できない様子から分析し、本人に合った学び方、成長の仕方を考え、実践していくのが発達を支援するということです。

また、失敗するのも一つの学びの機会なのです。
失敗から何を考え、どう変えていけるのかが大事なポイントです。
失敗こそが成長のチャンスだと言えます。
試行錯誤していく過程がなければ、成長することはできません。
「失敗経験をさせてはいけない」と言う方もいますが、失敗経験させることではなく、失敗経験を失敗のままにしておく支援者がただ下手くそなだけなのです。

会の活動中、積極的に参加している様子が見られました。
そして、参加者同士の会話にも入る様子も。
緊張し、無理をしていたかもしれませんが、会の後半の表情はとても柔らかい自然な表情でした。
お母さんの横で、ずっと俯いていた様子とは別人のようです。
会の終了後、参加者の子ども同士で会話していたことを伝えると、お母さんは大変驚かれていました。

苦手なことも、成長する可能性はあるのだと思います。
別に、うまくなる必要はないのですから。
苦手なものは、苦手なまま、上達していけば良いのです。
苦手な度合いが少しでも小さくなると、その分、生活しやすくなると思います。
ですから、苦手なことに挑戦する場面も、大事な学びの場面になるのです。

2016年2月18日木曜日

学生さん達に見て欲しいもの

将来、特別支援の仕事に就きたいと思っている学生さん達と関わることがあります。
そんなとき、いつも思うのが、「態度で示さなければ」ということです。

当事者の人たちとの接し方、支援のアイディア、仕事への向かい方を態度で示すようにしています。
また、準備や知識、確認するポイント、根拠なども伝えます。
学生さんからの目では見えない部分を見せることが大事だと思っています。
特に、これから特別支援をになっていく若者たちですから、正しい知識と認識を持ってほしいと願っています。

働いてからもそうですが、学生時代にどんな人を見るかって大事だと思いますね。
この私もそうでした。
通所や入所施設には、知り合いや先輩がいたので、よくお話を聞いていました。
ありのままの話を。
また、某特別支援学校の中学部、高等部に、授業のサポートとして週に2回、2年間入っていました。
何の準備もしないで授業をしている人。
ただ囲いの中で、何年も同じ課題をやらせている人。
急にいなくなったかと思ったら、たばこの匂いをプンプンさせて戻ってくる人。
実際の様子と、全然違う様子を連絡ノートに書いている人…。
挙げたらきりがないですね(笑)
研究機関とか、「私たちは専門家集団です」とか、えらそーに言っちゃっているのに、学生だった私の授業をそのまま載せて書籍にしちゃっているのを見たときには、こいつら恥ずかしさはないのか、と思いましたねー。

まあ、私は学生時代からちょっと知りすぎたのかもしれませんね。
結局、施設職員の道を選ぶのですが、それは魅力を感じたわけではないですし、特別支援の教師には…自粛
だから、せっかく特別支援を志している学生さん達だからこそ、本物を見せたいと思うんですね。

チャランポランな支援者がいたとしても、私は「あの態度はいけない」とか、「本人たちの様子を見てみて」とか、言うようにしていますね。
「長年、教員やっているからって、ちゃんと支援できるわけじゃないでしょ」
「地元では有名な某支援者だからって、講演とかしてるからって、その通り実践できるわけじゃないでしょ」
とかも言いますね。
これは個人的な感情ではなく、本物を見抜く力をつけてもらうためです。
学生さん達は、真面目な人が多いので、素直に受け取りやすい。
これからの特別支援の世界に、口だけの支援者はいりませんから。
必要なのは、本人の成長と発達を援助できる支援者です。

できない理由探しにエネルギーを使う支援者よりも、できる可能性にエネルギーを注げる支援者の方が良いですね。
試験に合格したから、何年務めたから、こんなステータスがあるから、というのでは、発達援助はできません。
支援者として努力し、常に上を目指す姿勢こそ、学生さん達に見て欲しい姿なのです!

2016年2月17日水曜日

雪が降り注ぐ中の合格発表

月曜日は、特別支援学校の合格発表の日だったので、受験生だった子たちから「合格したよ!」という喜ばしい連絡がありました。
みんな、めでたく第一希望の学校に受かりました。
努力が結果となって表れたことで、達成感を得ることができたのだと思います。
この達成感が、努力する大切さを教えてくれ、また大きな成長につながると思います。
何より自らの手で3年間、再び学び続ける機会を得たことが、彼らの成長を見守ってきた者として一番の喜びでもあります。
みんな私の支援からも卒業です。

合格した受験生の親御さんから「合格を伝えるときのコツってありますか?」と質問がありました。
初めての受験で、初めての合格です。
将来のことも考え、この機会もより良い学びとしたかったのだと思います。
私は2つのコツをお伝えしました。
一年間の努力と結果を結びつけて理解できるコツ。
家族が同じように喜んでいることを本人に理解してもらうコツ。
そして、この2つのコツを実践してもらう前に、必ずやってもらいたいことも伝えました。
それは、我が子の合格を純粋に喜んでください、ということです。

親御さんが訊きたかったのも、私が伝えたことも、自閉脳に対するアプローチです。
これは後からでも良いのです。
それよりも、よく頑張ったねと抱きしめたり、ご馳走を家族で囲んだり、というように、純粋に喜べば良いのですよ。
受験は親御さんにとっても不安や緊張があったのですから。
受験を頑張った我が子を目の前にして、自然と表れる感情を出せばよいのだと思います。
合格した高校は、特別支援学校かもしれませんが、頑張ったのは息子さんです。

知的障害があったとしても、自閉症だったとしても、家族の喜ぶ気持ちは伝わると思います。
そのとき、分からなかったとしても、あとから気づくこともあると思います。
障害というアイデンティティーなどはないのです。
あるのは"人"のみ。
その"人"を成長させるには、人と人とで向き合い、ぶつかり合い、気持ちを交流させることだと思っています。

2016年2月12日金曜日

療育の型から、どれだけはみ出せるか

私は電化製品を買っても、取扱説明書をほとんど読みません。
取り出したら、すぐに組み立てるし、すぐに操作しちゃいます。
分からないことがあっても、故障しても、とにかく自分の手を動かして答えを見つけようとしますね。
説明書を読むのが面倒くさいというか、いちいち読むよりも、自分で試行錯誤しながらやった方が早いと思っちゃうんですよね。
これは子どものときからそうで、ゲームやおもちゃも遊びながら理解していくタイプでした。

自閉症支援って、いろんな療育方法があって、その中にはマニュアル的要素が強いものあれば、支援者の発想に委ねられているものもあるんですよね。
もちろん、最初はどの療法も理念や基礎基本は学ぶ必要があるので、「こうしなければならない」みたいな型を身に付けますが。
型を学んだあと、型からどれだけはみ出せるかによって、その療法の硬さと言うか、自由度が違ってくるように感じます。

私は、「こうしなければならない」とか、「このシートを使う」とか、「このセッションのあとは、こっちのセッションを行う」みたいなカチッと型が決まった療法って好きじゃないんですよね。
自分の着想、発想が入る余地が少ないと、窮屈に感じてしまうんですよ。
しかも、机上の研究なら良いのかもしれませんが、支援って生身の人間に対して行うものですよね。
だから、より余白のある柔軟性を持った療法の方が良いと思うんです。

でも、自由な発想を重視するような療法は流行らないんですね。
療法を教える大元は儲からないし、個人の力量、つまりセンスに左右されちゃうから、多くの人ができなくなっちゃいますし。
マニュアルは平均化するには良いのですが、それ以上が生まれる可能性が少なくなっちゃうんですよ。

マニュアル的な療育が、平均的な支援者を生む。
それ自体は悪いことではないと思いますよ。
でも、それじゃあ、本当の意味で問題を解決することも、成長させることもできないと思いますね。
日々の変化に気づくこと、対面したときの空気感を掴むこと、そして、それに合わせて自分自身が臨機応変に支援できること。
これって、マニュアル的な療育では身に付けられないことですね。

また、支援者に求められる大事なことって未来を見せることですよね。
過去から現在を通してみて、今後、どんな未来が待っているかを推測できる力。
推測できるからこそ、将来を変えるために今できること、すべきことを提示するのが本物の支援者です。
これもマニュアルの先にありますね。

私は支援ってクリエイティブな仕事だと思いますね。
決してマニュアルではない。
発想、着想、想像の部分が大事なんだと思います。
「こういった場合は、こうしましょう」というマニュアルで事足りるなら、そもそも支援者なんていう商売はいらないんですよね。
基礎基本を学んだあと、どれだけその型からはみ出せるかが、その支援者の価値なのかもしれません。
アイディアと工夫の積み重ねのみが、支援の質を高めるのだと思いますね。

2016年2月8日月曜日

支援者を見抜く2つの側面

支援には、大きく分けて2つの側面があります。
評価と指導です。
評価は、本人の特徴や発達段階、課題等を見極めることで、
指導は、実際に手を動かして発達援助、課題の解決を行うことです。
医療で言うと、診断と治療にあたりますね。

私は、支援者を見るとき、この2つの側面を確認しています。
この人の評価する力はどうか?
この人の指導する力はどうか?
この2つの側面を確認すれば、だいたいその支援者の特徴、力量が見えてきますね。

本人の特徴や課題を的確に見抜ける人がいる一方、指導のアイディアが豊富、タイミングを読むのがうまくて、課題の解決ができたり、順調に成長を促せる人がいます。
でも、この両方がうまいっていう人は、なかなかいませんね。
いくら本人の特徴を的確に見抜くことができたとしても、指導が下手くそだと、本人は成長していきません。
いくら指導に関する知識やアイディアをたくさん持っていたとしても、本人にそぐわないことをしていたら、成長できません。
良い支援者っていわれる人でも、どっちかが優れているだけということもありますね。

支援を選ぶ側としては、漠然と評判の良い支援者、悪い支援者と見るのではなく、きちんと情報を集めて、その支援者の評価力と指導力を確認する方が良いと思います。
今、私は、または我が子は、評価と指導、どちらを必要としているのだろうか?
「ある程度、評価の情報が集まっているから、指導がうまい人にお願いしよう」
「家庭で私が指導できるから、私が気が付かない部分を評価してもらえる人を探そう」
というように、今のニーズを整理し、それに合った支援を選ぶのがベストだといえます。
オールマイティにできる支援者なら、ずっとその人を選び続ければよいですが、なかなかそうはいきませんので、その時々で選択する方が良いと思います。
それじゃないと、結局、「評価ばかり」「指導ばかり」と偏りが生じ、タイムリーに成長できませんから。

あと時々あるのですが、「良い支援者なんですぅー」と言うのでお会いしてみると、よく話を聞いてくれる、親切、気配りができる、優しい、口がうまい、イケメンなだけという人がいますね。
こういった方は、良い支援者ではなく、良い人ですね。
もうお分かりのように、人柄の良しあしは、本人の成長とは直接的な関係はありません。
本人ではなく、親御さんが「慰めてほしい」「話を聞いてほしい」「ダメじゃないって言ってほしい」などを満たすには良いかもしれませんが…。

自分だけ気持ちが満たされて、子どもが変わっていかないというのでは、結局、ネガティブな感情はなくなりませんね。
残念ながら、そういった保護者の方を多く見かけます。
ですから、本人の課題が解決する、本人の資質を活かして成長する、というのを求めるのでしたら、支援を選ぶ側の評価力も必要になってくると思います。
何年も、本人が変わっていかないというのは、本人のニーズと支援の特徴との間にズレが生じているかもしれませんよ。

2016年2月6日土曜日

日々の生活の中に"修行"を組み込む

日々の生活の中に、どうやって"修行"を入れていくか?
これが発達援助の大事な視点。
本人とも、保護者の方とも、よくお話しすることです。

脳みそや身体の発達って、継続性が必要です。
1,2回、ちょこっとやったからって大きくは変わらないですね。
私の支援だって、そう。
週に1回、1時間くらいやっても、発達はしませんね。
知識の習得や、誤った認識をズバッと切るのでしたら、1回でできることもあるでしょうが。

多くの場合、表面的な課題の解決には、根本的な発達が必要です。
ですから、セッションの中で、その人に合った発達のさせ方を教えることに重きを置きます。
知識の習得、誤った認識を正すのは、脳みその表面に対するアプローチですし、これだって脳みその表面に対するアプローチです。
私とのセッションは「脳みその表面」
日々の生活では「脳みその深い部分」
というのが、私が考える発達援助です。

日々の生活の中に修行を入れることって、何だか難しそうに聞こえますが、そんなことはありませんよ。
どうやって、その個人に最適な修行を作りだすかっていうのは、コツがいりますが。
脳みその発達の凸凹って、行動に表れます。
ですから、凹の部分にターゲットを絞り、凹が刺激されるような動きを考え、入れるようにするのです。
脳に凹があれば、左手を使うようなお手伝いをしたり、右脳と左脳の交流がうまくいってなかったら、両手を使うお手伝いをしたりとか。
身体の使い方に不具合があれば、スムーズに行かない動きが入った遊びをしたり、感覚面の不具合があれば、調整しながらその刺激を入れたりとか。
アイディアは、人の数だけ無限にありますね。
その土地土地の資源や、四季を取り入れられたらGood idea!!です。

まだ年齢の低いお子さんだったら、遊びの中に修行を組み込むのが良いですね。
年齢が上がってくれば、お手伝いの中に組み込んだり、本人の中に意識があれば、最初から「〇〇ができるようになるための修行です」って言って、修行として日課の中に組み込ませたりします。
さらに大きなお兄さん、お姉ちゃんになれば、脳みその勉強や身体の勉強と一緒にやっても良いです。
とにかく、できるだけ、自然な形で、特別なことをしないのが理想です。
だって、継続が大事ですから。
いろんな種類に手を出すよりも、1つのことでもコツコツと。

自分の脳みそ、身体を発達させるのに、他人がいないとできないっていうのは、おかしなことですね。
自分の脳みそ、身体ですから、自分自身で発達させられるのが良いに決まってます。
それを「私がいないと、発達できないんですよ」というのは、怪しい宗教か、詐欺師です。
まあ、商売をメインに考えている人も、そう言うかもしれませんが。

とにかく自分自身を発達させるのは、自分しかいません。
それも一気に発達なんかできませんから、コツコツ継続することです。
コツコツ継続するには、日々の生活の中に自然な形で組み込ませるのが、賢い手です。
学校だって、一日の中の数時間、療育機関だって週に1時間くらいなもんです。
それ以外の時間、発達できなければ、どうしましょうね。
他人にお願いして発達させてもらうくらいだったら、最初からその人に合った発達の仕方を教えりゃあいいじゃん、というのが私の考えでもあり、仕事のスタンスです。
だから、皆さん、どんどん卒業していくのです。
いくら経っても卒業しない支援っていうのは、端から卒業させるための支援じゃないってことですね。

2016年2月5日金曜日

学内にある専門の相談室

「東京アスペ大学」という言葉が話題になっていますね。
もちろん、私が言ったわけじゃありませんよww
詳しく知りたい方は検索されると、すぐに出てくると思います。
発信した方の主旨とは異なった形で拡散しっちゃっている感じもしますが。

これをきっかけに東京大学の学生相談を調べてみると、発達障害または同じような症状、悩みのある学生専門の機関があることに驚きました。
しかも、精神科の医師と臨床心理士が常駐!
サポート内容も、検査や居場所の機能、学生生活全般のアドバイスに、就労支援など、本当に幅広いです。
東京大学は、それだけ力を入れて、発達障害の学生さん達を援助しているのですね。

具体的なサポートの例もホームページに載っていましたが、結構、手厚いと言いますか、優し過ぎると言いますか…。
私が学生さん達に行っているサポート、指導内容を思い浮かべると、「私って厳し過ぎかも!?」と思っちゃいました。
でも、今のところ、皆さん、その厳しさ(?)にも耐え、順調に成長しているので大丈夫でしょう。

特別なサポートを受けずに、大学入学まで来れた学生さん達ですから、最初の工夫の仕方、自分自身の学び方を身に付けさえすれば、あとは持っている力でどんどん成長していけるはず、というのが私の考え方です。
ですから、レポート、論文提出までの計画立案とか、朝起きれない場合のサポートって、継続的にやっちゃうのかな~、と引っかかりましたね。
きっと支援し続けるよりも、計画の仕方や起きるための対策方法を学ぶことの支援の方が大事だと思います。
これで単位は取れ、大学は卒業できるかもしれませんが、就職後は同じようなサポートは受けられないはずですからね。
優秀な学生さんだからこそ、彼らの資質を活かすための土台をしっかり学生時代に身に付けて欲しいと思います。

4月からは、全国的に大学が変わりますね。
障害を持った学生さんへの受け入れ体制の明確化です。
東大だけではなく、全国の取り組みの情報を入れながら、サポートしていけたらと思ってます。
ちなみに今のところ、成長の援助よりも、生活全般の支援の要素が強いですね、私立も、国公立も。
「まず大学を卒業することが大事だろうー」と言われそうですが、大学を卒業しても…いや、止めておきましょう。
また続きは4月以降に。

2016年2月3日水曜日

風貌に表れる支援者の本質

昨晩から今朝のニュースを見て、「やっぱりな」と思いました。
2年前に週刊誌で疑惑を報道されたから…いいえ、違います。
現役時代から「体の大きさとは違って、心は弱々しい人なんじゃないかな」と思っていたことです。

坊主に、髭でだいぶ威圧的な風貌なのに、さらに大きなピアスをしたときには、よっぽど自分を大きく見せたいんだなと思っていました。
こうやって風貌を変えて強く見せようとしている人は裏を返せば、自分に自信がない人ですから。
現役引退後、大きな入れ墨を入れたということでしたので、本人はとても辛い日々を送っていたのだと感じました。
このように風貌を見ると、その人の表には出てこない姿が見えてくることがありますね。

私は清潔感ある格好をするように心掛けています。
まあ、社会人としては当然なことだと思いますが。
そして、匂いも気をつけるようにしています。
食後に会うときは、必ず歯を磨くようにしていますし、整髪料は無臭で、服や体に人工的な匂いをつけないようにしています。
夏など、汗をかいたらシャワーに入ってから出かけます。
匂いに敏感な方もいますしね。
光るものが刺激になる人の場合は、時計を外したりしますね。
私も環境の一つですので、これらのことも、本人がよりよく学べるための準備だと考えています。

しかし、この業界にいると、結構、個性的な風貌をしている人が多いです。
一般的なお客様商売とは違うからでしょうか。
平気で帽子を被って療育をしたり、おっきなネックレスや奇抜な服、個性的な髪型に、真っ赤なネイルの人も。
当事者の人たちは、何も言わないかもしれませんが、ちょっとどうなのかなと思いますね。
装飾品が本人との接触の際の危険につながることも考えられますし、上でも書いたような本人への影響も。
それは刺激だけではなく、「こういったファッションが良い」というモデルになってしまうことも、人によっては考慮すべきポイントだと思いますが。

こういった個性的な風貌の支援者を生みだす背景は、自信の無さだと思います。
療育って正解があるわけではありませんし、すぐに効果が出ないことも多くあります。
しかも、一人ひとりに合わせて支援を組み立てていく必要がありますので、「これで良いのかな」と疑心暗鬼で支援している者も多いように感じます。
ですから、自分の支援の自信の無さの裏返しとして、コントロールできる自分の風貌で補おうとしている。
これが個性的な風貌の支援者を見かけたときの私の見立てです。
結構、当たっているように感じますね。
本当は風貌でなくて、勉強と経験によって自身の無さを補えば良いのですが…。

支援者の資質として、細部に気が付くことと、柔軟性が大事です。
個性的な風貌を通すってことは、自分の視点が強い人、こだわりが強い人って推測できます。
一人ひとり違うので、それに合わせられる柔軟性が必要ですよね。
「自分の支援方法に合わせろ」っていうのが垣間見れます。
スーツを着る必要性が少ない仕事だからこそ、その人の本質が風貌に表れやすいように感じますね。
ちなみに、プロフェッショナルだと感じる支援者は、自分の風貌細部に意識が向けられていると感じる方ばかりです。

2016年2月1日月曜日

「知ってほしい」と口では言いながら、配慮の要求がチラついてるよ

通常学級の担任の先生に、発達障害に関する本を持っていったら、「僕は無理です。結構です」と受け取ってもらえなかったという話を聞きました。
この先生にはお会いしたことがないので、どういった意図で、そのような言動に至ったのかはわかりませんが、対応の仕方がうまくないように思っちゃいました。
特別支援を学ぶ以前の話として、自分が受け持った学級の子どもを知ろう、理解しようとするのは教師の務めだと思いますね。
障害の有無に関わらず、子どもに近づいていこうとする姿勢が見える先生の方が信頼できますね。

でも、一方的にこの先生が悪いって思えないんですよね。
なんで担任の先生は受け取らなかったのか、を想像しちゃうと。
こういったケースって特殊なのかなと思いきや、結構あちこちであるんですよ。
拒否しないまでも、気が進まないことって。
じゃあ、なんでって言ったら、理解の先が見えるから。
つまり、口では「知ってもらいたい」「理解してもらいたい」と言いながら、その先には「こうして欲しい」という要望があるのが、ひしひしと伝わってくるからだって。

ただ「子どもを理解してほしい」という要望でしたら、普通の先生は拒否するわけないんですよ。
でも、冒頭の先生が言っていた「僕には無理です」っていう言葉には、子どもを理解することではなく、お母さんが求めるような療育、個別の対応は無理ですっていうようにも聞こえるんですね。
通常学級の先生の大部分は、学生時代に特別支援教育を専攻しているわけではありませんし、特別支援ではなく、通常学級での教育を志した人です。
そんな先生に、最初から理解の先をちらつかせるような要望の仕方は、こちらの対応の仕方もうまくないと思いますね。

当事者の方やご家族の「理解してほしい」という要望が、相手側に受け入れられないときって、要望の先に配慮が見えるときだと感じます。
啓発活動もまた然りで、一般の人から評判が悪い啓発って理解してと言いながら、配慮を求めちゃっているんですよねー。
一般の人はその辺を敏感に感じ取ってしまうから、「自分たちに配慮してくれっていうお願いじゃん」って受け取ってしまうんです。
そして、ドン引きしちゃう。
だから、「知ってほしい」「理解してほしい」という啓発をするんだったら、純粋にそこだけを伝えるようにした方が良いと思いますね。
障害の理解と、配慮の理解は、同じ"理解"でもニュアンスがぜんぜん違います。
「理解してほしい」というハードルは飛び越えられそうな高さに見えますが、「配慮してほしい」となると急にハードルが高く見えるのが一般の人の目なんです。