2016年3月30日水曜日

「バイト、決まりました!」

なんでもかんでも"障害"のせいにする学生さんがいたんです。
「人の話が聞けないのは、アスペルガーだから」
「聞いたことをすぐに忘れるのは、アスペルガーだから」
「すぐに感情的になってトラブルが起きるのは…」
というような具合に。

「将来、どんなところで働きたいの?」と尋ねられても、「障害の理解があって、配慮してくれて」と言うし、最初から「客商売は無理」「営業は無理」「騒がしい環境は無理」などと言っている。
「どんな職場であったとしても、まったく人とコミュニケーションをとらなくても良いような職場はないんだし、配慮してくれるって言っても、全部要求を聞いてくれるわけではないんだよ」と言っても、納得はしてくれませんでしたね。

その学生さんがバイトを始めるんです。
ずっとバイトをしたがっていましたが、就職の話と同じように、「電話が苦手だから、面接の申し込みができない」とか、こんな仕事は無理とか言ってたんです。
過去に障害を理由にアルバイトを断れた経験も重なって、「どうせ障害があるからバイトできない」なんて言ってたんですけどね。

前回、私はこの学生さんを叱ったんです。
「できない理由を全部障害のせいにするんじゃない」って。
障害があることが、努力しなくても良い理由にはならないんです。
「自分は障害者だから、配慮や理解は当然」と言うけれども、相手にも選ぶ権利があります。
特に仕事となれば、障害云々よりも、きちんと働けるかどうかが基準になります。
障害があっても、なくても、きちんと働けない人間は雇われません。
障害があったとしても、きちんと働ける人間は採用するんです、企業は。
企業にとって利益をもたらせる人間なのかが問われるのです。

私が採用する側の企業だったら、あなたのことを雇わないとも言いました。
だって、配慮や理解は当然と思っているから。
それに採用したくなるような強みを持っていないし、その強みを得るための努力をしていないから。
同じくらいの人だったら、障害を持っていない人を採用するのが、この社会であるという話もしましたね。
最後には、自分でも「こんな人だったら、自分も採用しないと思います」と言っていました。

この話がきっかけとなったようで、それから大学の友達に協力してもらい話を聞く練習、感情をコントロールする練習を始めたり、直した方が良いところを指摘してもらっているそうです。
そして、アルバイトに関しても、お金だけの目的ではなく、「将来、働くための練習」という目的を持ってチャレンジすることにしました。
自分でハローワークに行ったり、ネットや情報誌、友人の伝手を頼ったりしながら、何とか面接させてくれる企業までたどり着き、面接を受け、採用が決まったのです。
それも「コミュニケーションが苦手だから」ということで、敢えてお客様商売へと。
学生さん、とっても喜んでいましたね。

「アルバイトの面接、50社受けて50社落ちたら…」と言っていたので、「51社目を受けるだけ」と返しました。
「障害者はちょっと…」と企業から言われたら、「仕事は人一倍するので働かせてほしい」というくらいの意気込みがないと採用なんかされないよ、ということも私は言いました。
平成28年4月1日から障害者差別解消法が施行されますが、これくらいの熱意やガッツがなければ、働くことはできないでしょう。

障害者差別解消法は、無条件に障害を持った人を雇うという法律ではありません。
それに企業としては、障害があるから採用しないのではなく、障害があって"〇〇ができない"から採用しないんです。
企業が求める〇〇ができるのなら、採用します。
また、〇〇ができるようになる可能性や姿勢が見られれば、採用します。
だって、売り手市場ですよ。

この学生さんは、アルバイト先からお金だけではなく、経験という財産を得るはずです。
お客様商売ですし、初めてのバイトですし、スタッフと協力しなければなりませんから、たくさん失敗すると思います。
でも、その失敗が自分自身をよりよく知るきっかけとなり、苦手さを改善するための原動力となるはずです。
「ひと様からお金を貰う以上、それに見合う働きをしなければなりませんよ」と言うと、大きく頷いていました。
今回、一度も「障害だから」と言わなかったことに、この学生さんの成長の兆しを見ました。

2016年3月29日火曜日

当事者本にあるのは"答え"ではなく、"ヒント"です

学生時代は当事者の人が書いた書籍を読んでいましたが、近頃はほとんど読まなくなりました。
読むにしても、修行系の人ばかりで、成長し、結果を出している人限定ですね。
理解系の本は、手にすら取らなくなりました。

どうして理解系の書籍を手にしなくなったのかと言ったら、それはその人の見え方にすぎないからです。
同じ自閉症、発達障害という診断名だったとしても、人は同じではありません。
「私はこう理解しています」「私はこのような支援を望んでいます」と言っても、それは個人的なお話ですね。
ある人に当てはなる支援が、他の人に合った支援とは言えません。
反対に、ある人にとって良い支援が、他の人にとっては悪い支援にすらなる可能性はあるのです。

「自閉症の人には見通しを持たせる方が良い」などと言われてますよね。
それで誰でも彼でも構わず、とにかくスケジュールや手順書をせっせと作る。
でも、これって"多様性"、"個別化"と逆行した支援だと思いませんかね。

見通しが持てることで安心する自閉症の人はいます。
しかし、自閉症全員ではないですよね。
見通しが見えると不安になる人もいますし、「やらなくてもいけない」という思いに駆られ、プレッシャーや窮屈に感じる人もいます。
「スケジュールが嫌いだ」という人もいましたよ。
「自閉症=スケジュール、構造化が良い」っていうのは、ただの固定観念であって、個が見れていない証拠なんです。

「エビデンス(科学的根拠)」ってよく言われますけど、そのエビデンスって「自閉症に効果があったと見えるもの」ということです。
"自閉症に効果があって"とは、自閉症"全員"に効果があるという意味ではないんですね。
また効果があると"見える"のであって、見えない自閉症の人の内面は考慮されていないんです。
つまり、エビデンスがある=その人に合った支援、とは言えないんです。
支援者が良かれと思っている支援であっても、本人の内面ではネガティブな感情を持っている可能性だって大いにあるんです。

特定の支援にこだわる支援者って、その人の頭が固い証拠です。
「自閉症の人について理解できた」「こういった支援方法が良い」という支援者って、傲慢な証拠です。
自分とまったく同じの身体を持った人間っていないんですよ。
だから、他人のことなんて、完全に理解できないんです。
それどころか、理解すらできないことが大部分なんです。
他人のことが理解できると思っている、その前提自体が誤りだと、私は思いますね。

理解系の当事者本って、その人を直接支援する人には役に立つかもしれませんが、それ以外の人にとっては読み物に近い感覚だと思います。
そこに書いていることをそのまま自分の身近な人に当てはめようとするのは、間違いの元です。
「この本を読んで、私が支援している〇〇ちゃんのことが理解できました」というのは、嘘になりますね。
理解できたのは、その本を書いた当事者の人のことであって、自分が支援している人のことって何も書いていないんです。
書いてあると思うこと自体が、間違いですね。
当事者本って、あくまで個人的な視点が書いてあるだけなんです。
ですから、読んで面白いか、がその本の評価になります。

私が読む当事者本は、現在、うまくいっている人、成長し続ける人のみです。
うまくいった理由、成長し続けられた理由の背景には、その人の試行錯誤があります。
その試行錯誤を読み解くことで、自分の支援に活かせるヒントが見つかるんですね。
企業だろうが、経営者だろうが、成功するには理由があります。
その理由から人は学ぶんですね。
読み進める中で、日頃の支援の着想が湧き出てくる本を私は求めているんです。

2016年3月28日月曜日

部長(仮)の酒と青いお祭りの共通点

土曜日は、ちょうど車に乗って移動していたので、ブルーインパルスの飛行が見れました。
函館山をバックに、6機の姿が眩しかったです。
新幹線祭りで一番盛り上がったと思いますね。

新幹線祭りが終われば、次は青いお祭りですね。
えっ、「忘れてた」「注目していない」
そりゃあ、そうです。
関係者以外関係しない関係者のためのお祭りですから。
私も同じです。
でも、近づいてくると、毎年、いろいろな方面の方たちから情報や感想をいただくんです。

確かボランティア活動だったと思うんですが、お手伝いする先生たちが学校の事務に出張&交通費の申請をしてるそうですね。
まあ、年度替わりのクソ忙しい時期に、否応なしにボランティアに借り出されるわけですから、「出張扱いで、交通費くらい貰わないとやってらんない」という気持ちも分からないわけではありませんが…。
イベントに参加してくれる外部の人達は、手弁当で参加するわけですし、お手伝いするお母さん達は、長時間拘束&「主催者がやれよ」って思うような多大な雑務をやっていますしね。
ボランティアとして参加するなら、有給休暇使ってくださいよって思いますね。

「有給休暇使いたくないし、交通費くらいほしい」というんだったら、断れば良いと思いますよ。
陰でブーブー言うくらいなら、手伝わなければ良いじゃないですかね。
一昔前のような影響力も、魅力もないと思いますよ。
やりたくないのにお手伝いって、「俺の酒が飲めね~のかよ」っていう会社の飲み会じゃないんですから。
まさに"接待"です。

裏腹に「部長(仮)と一緒にお酒が飲めてサイコーです」なんて言うから勘違いを招き、「もう一軒いくぞ~‼」と飲みたくないお酒を飲まなきゃいけなくなるんです。
部長(仮)だって、「俺はみんなに好かれている」と誤認識しちゃうんです。
誤学習させちゃう支援者みたいにね。
誤学習してトラブルを起こす本人も悪いですが、誤学習させちゃう周囲も悪いんです。

みんな接待止めたら良いんですよ。
無理して手伝うから、自分だけでなく、仕事や家庭にも支障が出るわけですし。
断ることだって大事です。
というか、自分の気持ちに正直になれない人、自分の気持ちに気づけない人、きちんと真実を伝えられない人、きちんと断れないような肝が据わっていない人は、ちゃんと自閉症支援できるのかなと思っちゃいますね。

私たちが携わっている人達は、正しい情報を伝えられないと、誤学習しちゃう人達じゃないですかね。
支援者のブレブレな言動、態度に困惑する人達じゃないですかね。
「良いことだけではなく、悪いことも、きちんと教えて欲しいんだ」って当事者の方たちが訴えていますよね。
みなさん、お気づきではないかもしれませんが、支援者としての"資質"も問われているのが青いお祭りなんです。
出張&交通費申請している時点で、自閉症支援は向いていないと見られても仕方がありませんね(ブ)

「障害を持った人は不倫しない」という差別

障害を持っている人だって不倫しますよね~。
そりゃあ、人間だもの。
ご本人がコメントしているように、迷惑をかけることもあれば、裏切ることだってありますよ。

障害を持った人のことを「心のきれいな人達」「純粋な心を持つ」などと表現する人っていますよね。
中には「障害を持った子どもは、天使です」なんて言うトンデモの人もいる。
こういう人には、障害を持った子ども達に関わってほしくないですね。
そもそも育てる力がないでしょうし。

他人から「あなたは純粋ね」「天使のようだね」と言われたら、どう思いますかね?
これって称賛しているようにも聞こえますが、別の側面から捉えると、「あなたは未熟者」と言われているのと同じではないでしょうか。
何だか「そのままで良い」と言われているようにも感じるので、私だったら不快にしか思わない言葉ですね。

障害を持って生まれてきた人って、「天使になりたい」と思っているんでしょうか。
身体に不自由のある人、言葉でうまく表現できない人、知的障害を持っている人、生きるだけで精一杯の人もいます。
でも、誰一人、天使になろうと思って生きているのではないですよね。
人として成長していきたいだろうし、自分でできることも増やしていきたい。
自分の人生をより良いものにしたいと必死に生きているのではないでしょうか。
実際は、他人からの手助けがないと生活できないという人も、手助けや介護を受け続けることを良しとは思っていないはずです。
できることなら、手助けや介護を受けなくても、生きていけることを望んでいると思いますね。

「自閉症の人は嘘をつかない」とか言うトンチンカンもいますが、自閉症の人も嘘つきますよね。
自分を守る嘘をついたり、言い訳だってしますよ。
だまして利益を得ようとすることも、トラブルや犯罪を起こすこともあります。
性欲だってありますね。
当然ですよ、私たちと同じ人間なのですから。
様々な感情と欲を持つ生身の人間なんです、障害を持った人も。

障害を持った人に対する差別に憤っているくせに、自分たちも障害を持った人を差別している。
それが「純粋」「心がきれい」「天使」と言う人達なんですよ。
きっとこういう人達は、障害を持った人に対して引け目を感じているんだと思いますね。
自分の無力さや諦めの気持ちから、せめて心だけでもきれいと言いたい人もいるんだと思います。
でも、やっていることは差別ですし、本人たちが望んでいることではありませんね。

私は、障害を持った人が不倫をしても不思議に思われない世の中になった方が良いと思いますね。
もちろん、不倫OKと言うつもりはありませんが。
そういった意味では、今回の件は歪んだ障害者観を是正するのには良い機会だったと思いますね。
障害を持った人は天使ではなくて人間なので、過ちを犯すこともあります。
そして、過ちを犯せば、自分で償っていくのが自然な社会の姿だと思いますね。

2016年3月24日木曜日

『新幹線バンザーイ』と『青いお祭りバンザーイ』

新幹線バンザーイと、青いお祭りバンザーイが重なって見えちゃうんですよね~。

盛り上がっているのは、直接的な利益がある人達だけのところ。
周辺で盛り上がっているように見せている人達も、心の中ではダメだと分かっているところ。
大多数の地元の人達が冷めているところと、目的地から遠いところも、そっくりです(ブ)

成功してもらわないと困る人達は必死の一方で、周辺で盛り上がっているように見せている人達は、すでにお祭りのあとのことをメインに考えています。
利用客が来るのは最初だけだから、そこで儲けといて、そこでPRしといて、自分たちの将来的な利益につながるようにしておこう、と。
お土産などの企業では、すでに一年後の利益のために動いているそうですし、生き残るためには当たり前の戦略です。
すでに赤字が目に見えている新幹線と一緒に共倒れするわけにはいきませんから。

JRはお客さんが利用してくれないと困りますから必死ですよ。
でも、周辺で一緒にバンザーイしている旅行会社、お土産屋、ホテルなどは冷静なんですね。
そりゃあ、新幹線でお客さんがいっぱい来てくれるに越したことはありませんが、最初だけなのも、飛行機に勝てないのも、知っています。
知ったうえで戦略を立て、自分たちの努力をしているのです。
新幹線が来たからって、それで何もかもうまくいくなんて誰も思っていませんもん。

青いお祭りだって同じことです。
主催者が必死なのは当然です。
それが仕事であり、自分たちの利益へとつながりますから。
そして、周辺にいる人達だって、お祭りをきっかけに、当然、自分たちのPRと儲けを考えているのです。
本気で啓発と理解"だけ"を求めて参加している人は、ほとんどいないと思いますよ。

支援者だって分かっているんです。
啓発と理解だけでは、根本的な解決にはならないことを。
トラブルを起こす人は、まずトラブルを起こさないようにトレーニングしなければなりません。
仕事に就けない人は、仕事に就けるだけのスキルを身に付けなければなりません。
学業についていけない人は、まず勉強しなければなりません。
二次障害を持っている人は、その二次障害を治さなければなりません。
社会だって人を選ぶ権利はあるんですから。

トラブルも、就職も、学業も、二次障害も、社会が理解したからって良くなるものではありません。
本人の幸せのためには、本人が変わっていく必要があるのです。
目的地が函館なら、函館に向かわなければいけません。
「社会の理解ガー」は、函館から20㎞も離れた駅に向かうようなものです。
港町函館だと思って着いてみたけれど、「函館の海がなく、見えるのは山と田園風景のみ…」とびっくりぽんな旅行者と同じなのです。

「東京から4時間で着きます」なんて言うけれど、新函館北斗駅から乗り継ぎしないと函館に着かないので、さらに時間はかかるんですよ。
それと同じで、社会の理解駅に着いたら、自分の幸せ駅に向かうために乗り継ぎをしなければなりません。
だったら、最初から飛行機で目的地の函館に行った方が、時間も、お金も、かからないんじゃないか、と思いますね。

鉄道マニアのようにJRと一緒にバンザーイしたい人は、そうなされば良いと思います。
でも、私も、私に支援を求められてくる人達も、飛行機を選択します。
目的地には、早くて、安く着いた方が良いです。
そっちの方が観光だって、食事だって楽しめますから。
つまり、社会の理解は、本人の幸せからしたら、目的地から離れた中継駅なんです。

自分自身がポジティブな方向へと成長し、変わっていけること、これこそが幸せという目的地へ向かう道です。
そして本当の楽しみは、目的地に着いたあと、いっぱい楽しみ、思い出を作っていくこと。
これを忘れてはいけません!
苦労して目的地に着いたけれど、観光する余力がないでは、楽しい人生の思い出は作れませんので。

2016年3月19日土曜日

晴れ着を着ているか、晴れ着に着られているかの卒業式

本人から「私の晴れ着を見に来てください」とお誘いをいただきましたので、卒業式に出席してきました。
卒業式に出席したのは、何年ぶりだろうかという感じです。

着物姿、本当によく似合っていましたね。
急に大人っぽくなったので、ビックリしました。
着物に着られている感じではなくて、着物を着こなしている感じ。
着物をちゃんと着られている姿に、今までの歩みと成長を感じました。

男の子はスーツ、女の子はみんな着物でしたね。
着ている人と、着られている人がいたように感じました。
着ている人は、やっぱりたくましく見えますし、式の間中、落ち着いていましたね。
いつもとは違う雰囲気に、服装ですので、落ち着かなくなるのもわかりますが、こういった非日常的な状況でも落ち着いていられると、社会人になっても大丈夫だと思いますね。
佇まいにその人が表れる、と言われますが、まさに晴れ着を着ているか、着られているかに表れていたように感じました。

あと卒業生ではないのですが、在校生の中にお世話係がいたのが気になりましたね。
落ち着いて座っていられない子っていますよね。
その子の隣にいた男の子が、立ち歩くのを注意したり、制止したり。
挙句の果てには、鼻をブーブー鳴らすもんだから、その子の鼻をティッシュでかんであげていましたよ。
先生は何をしているのかな~、いろんな意味で。

「他人のお世話ができることは素晴らしー」みたいな考え方ってあるんでしょうけど、それって教育って言えるんでしょうかね。
お世話をしている子の学びって保障されていますかね。
お世話をしている時間だって、授業中なわけです。
「本人は優しい気持ちを育めるし、一人分補助の労力がいらなくなるから助かる」みたいにしか見えませんね、私には。
お世話係をしている我が子、生徒にお世話をされている我が子、そんな姿を見た親御さんはどんな気持ちがしますかね。
この在校生の二人の姿を見て、晴れ着に着られるようにはなってほしくないなと思っちゃいました。

年度末に集中するSOSの電話

この時期って、新規利用の電話ってほとんどないんですよね。
反対に多いのが、支援者からの電話。
「どうしたら良いか?」
「支援者会議をー」
「(そっちに)回しても良いですか?」
というような内容が主。

別に支援者から相談されるのが悪いって思っているわけじゃないんですよ。
「こんなときだけ頼りやがって」
「税金貰ってるんだから、頑張れよ」
とは思うけど(笑)
年度末のこの“時期”っていうのが、個人的には引っかかりますね。

年度末だから慌ててるんじゃないかなって感じることが多いですね。
療育だって、支援だって、年度末って関係ないですよね。
年度末だから問題が起きるわけでもなく、年度末だから支援を変えなきゃいけないってことはないはず。
問題が起きれば、その都度、解決していかなきゃいけませんし、支援だって常に最適化を目指していく必要がある。
つまり、本人の都合じゃなくない!?って思うんです。
支援者側の都合でしょ。

それに支援するときって、指導するときって、最初に見通しを立てないんですかね。
だいたいこのくらいの時期で解決するだろうとか、この時期にはこの段階まで達成されてて、もしうまくいってなかったら、こういった方向へ変えていこうとか。
ゴールがないまま、スタートするのは問題外ですが、見通し立てなきゃうまくいくはずないですよね。

普通、依頼を受けますよね。
目標、ゴールを立てます。
で、そのための方法を提示する。
そのときに、だいたいこのくらいで変化が見られますよ、改善するはずですよって見通しませんかね。
改善する本人の姿がはっきり見えていないのに、「こうしてください」って言ったり、実際の支援をしたりって意味不明です。
まさに年度末になったから、慌ててSOSを求めてくるくらい行き当たりばったりな感じです。

私も、具体的な時期を毎度毎度当てられるわけではありませんよ。
でも、だいたいの時期はわかります。
効果や変化が見られる時期、解決できる時期。
ビシッと時期を当てられるのが目標ですが。
年度末に慌てた電話がきますと、2学期の前日に宿題をやっている子どもの姿を連想します。
本人だって、親御さんだって見通しが見えないのが不安の元なんですから、支援者ははっきりとした支援の見通しを持っていないといけませんね。

あと、これはたまたま重なっただけかもしれませんが、「寄付したい」という電話も数件ありましたね。
これは起業時から一貫しているのですが、すべてお断りしています。
特定の組織や人物から寄付をいただくのは、ちょっと不自由が加わりますので。
あくまで本人のための企業ですからね。

引き継ぎ資料の表紙くらいは見てね

一週間ほど、ブログの更新が開いちゃいました。
自分の表現力向上の意味もありますし、毎日、たくさんのアクセスがあるので、「更新したいな」とは思っていたのですが、別のことに時間を使っていました。

何に時間をかけていたかと言いますと、引き継ぎの資料の作成です。
進級や進学がありますので、どういった特徴があり、どういった指導、支援を行ってきたのか、どのような変化があったのかをまとめました。
やっと必要な方たちの分の資料が完成したところです。

引き継ぎ資料って、ほとんど見られないのは分かっているんです。
特に、福祉とか、民間が作った資料は。
最初から「いりません」「必要ないです」と親御さんに言う方もいますし、受け取ってくれたとしても、机の引き出しの中に入れてハイサヨウナラも多いですし。
ハナから「大したことはない」「学校が教育の中心」「場所が違うんだから、同じは無理」という方もいますね。
もちろん、熱心に読んでくれる人もいますが、一読してくれただけで感謝感謝の気持ちなんです。
学校の中にいる友人たちも、「ほとんど読まないし、それを使って計画を立てることはまずないね」と言うくらいですから。

こんなんじゃあ、時間かけて一生懸命作る必要ないんじゃんってなりそうですが、それじゃあ、つまりません。
第一、一定期間、支援に携わってきた者としての責任放棄になっちゃいますから。
一読しかしないかもしれない。
表紙しか見ないかもしれない。
それで良いんです。
その一瞬で、記憶に刻まれるようにすれば良いだけです。
「おやっ」と思うような引っ掛かりを入れておく。
強調したいフレーズを入れておく。
表紙を見ただけで、中を覗きたくなるような目次を入れておく…。

手を抜くことは簡単です。
親御さんに「一生懸命頑張りました」とアピールするのは簡単です。
でも、一瞬で気を引くのは難しい。
だから、勝負なんです。
自分で言うのもおかしいんですけど、この情報を一から集めるのは大変だよ、っていう資料になっています。
活かしてもらえれば、新年度を迎える前の準備、そして始まってからのスタートが違うと思うんですよ。
今年は何勝できるかが楽しみです。
表紙くらいは見てね☆

2016年3月11日金曜日

仕事を極めることが誰かの幸せとつながっている

自分の仕事を極めることが

誰かの幸せにつながっている

これが私の理想

一人の人間が

一生のうちでできることは限られている

だから

目の前の仕事に全力を尽くす

出会った人のために最善を尽くす

仕事を通して誰かの幸せのお手伝いができれば

私も嬉しい

自分にできることを

実直に行っていく

それが社会のために命を使うこと

5年経った今

私は思う

2016年3月10日木曜日

「脳のタイプ自体が自閉症」と「何らかの影響により脳の働きに不具合が生じている自閉症」(仮)

「学校に了解も得ずに、施設職員が勝手に新しい支援をするんじゃない」
「子どもが学校に通っているうちは、学校がすべての中心なんだ」
という名言を残された先生が、4月より当地に戻ってくるそうです。
御自ら「自閉症の専門家」と名乗っているそうなので、接点もあることでしょう。
また個人的な楽しみが増えますね。

仕事を続けていれば、このようなぶっ飛んだ人にも出会います。
まあ、ホント教員も、支援者もいろいろです。
いろいろと言えば、お会いする発達障害の人達もいろいろな方がいて、「同じ人っていないんだなな」とつくづく思いますね。
でも、そうした中で、言葉は適切ではないかもしれませんが
「自閉っぽくない自閉症の人」
「発達障害なんだろうけど、その障害の部分が局地的」
というような印象を受ける方とお会いすることがあるんです。

私の感覚的な印象でしかないので、表現するのが難しいんですが、固さの具合が柔らかいというか…根っからの自閉症ではないというか…う~ん、そんな感じです。
「自閉症は生まれながらの」と言われますね。
遺伝子が関係していることが明らかになっていますから。
でも、それだけではなくて、環境の影響から症状が出ることも明らかになっています。
私が感じる「自閉っぽくない自閉症の人」「発達障害なんだろうけど、その障害の部分が局地的」っていうのは、もしかしたら環境的な影響をより多く受けて(遺伝子と相互作用により)、発達障害・自閉症じゃないか、と言われている方たちじゃないかな~なんて思います。

こういった印象を受ける方たちの発達援助をさせてもらっていると、改善が早いし、どんどん成長していくんですね。
見ていると、動きが良くなかった脳の部位が、刺激によって目覚めていくような。
突然、ガラッと変わったりすることもありますね。
急に、相手の視点を適切に想像できるようになったり、会話がとってもナチュラルになったり。
「なんかつながりましたよ」みたいな。
ちなみに、根っからの自閉症の方(あくまで私の印象)は、自閉脳というタイプを活かした方がうまくいく感じです。

脳の中を見たわけではありませんし、私の経験上、感覚の話ではありますが、脳タイプ自体が自閉脳の人と、何らかの影響により脳の働きに不具合が出ている人とがいるような気がします。
今まで意識して支援を組み立ていたわけではありませんが、それぞれのタイプの方に対してアプローチの仕方を変えていました。
これからも勉強したり、経験を増やしたりしながら、この件について明確なものを見つけ出したいと思っています。

2016年3月9日水曜日

暴れる子がいるので、度々授業が中断してしまう!?

しつこいかもしれないですけれど、本日もう1本。
これも最近、ある親御さんからの相談?愚痴?なんです。

その方のお子さんは、特別支援学級に通っているんですけど、同級生に暴れる子がいるらしい。
身体も大きく、女の先生では対応できないくらいだそうです。
だから、その子が暴れたら別のクラスから男の先生を呼んできて対応する。
当然、女の先生の授業は中断するし、呼ばれてきた男の先生の授業も中断する。
こんなのをずっと繰り返しているらしい。

暴れる子が勉強できないのは仕方ないと思うんですよ。
もちろん、その子が落ちついて学べるようにしなきゃならないのはありますが。
でも、優先すべきなのは、まず落ち着いて勉強している子ども達ですよね。
親御さんもしっかり学べるように家庭の中で整え、学校に送りだしてるんです。
そして、その子以外の子ども達は勉強しようと臨んでいるんです。
それなのに突発的に、しかも度々中断ってマズイと思いますよ。
勉強の準備ができた、勉強したい子ども達が勉強できないんですから。
どんどん吸収し、成長していく子ども時代の一年の意味って大きいですよ。

私の個人的な意見としては、その暴れる子も一緒に勉強しないとダメなのかな、と思いますね。
他の子の学ぶ機会を確保するためにも、同じ時間に、同じ教室で、学ぶ必要はないと考えます。
大人が対応するのがやっとなのですから、他の子ども達に怪我があってもいけません。
それに、すでに「学校が怖い」と言っている子ども達が出てきているそうですよ。
せめて、その子を離すようにしなければならないと思います。

学校って、「一人だけ離す」って抵抗があるように感じますね。
授業するのも一緒。
給食食べるのも一緒。
遊ぶのも一緒みたいな。
でも、特別支援学級ですからね。
もっと柔軟に、個に合わせても良いと思いますね。
より良く学べるためにも。

あと、ここからは想像なんですけど、その暴れる子の親御さんに言うのが嫌なんじゃないかな、と思いますね。
「あなたのお子さんが授業中に暴れると、他のお子さんの授業が止まってしまいます。それに暴れる様子を見て、他の子ども達が「怖い」「学校に行きたくない」と言ってるんです」というようなこと言いたくないんじゃないかな。
自分が担任している間は、トラブルは起こしたくないものです。
でも、はっきり親御さんにも課題意識を持ってもらうためにも、良くないことでも言った方が良いと思いますね。
結局、今のまま、その子を押さえていても暴力行為はなくならないですし、他の子も安心して勉強できません。
もう卒業式の時期ですが、そうやってその場限りの対処をしているだけでは、進路先に問題を先送りしているだけです。
ですから、状況をはっきり伝えたあと、「〇〇くんが落ちついて勉強できるようになるために、こういったことを指導していきます」って言えばいいんですね。
あっ、書きながら思ったのですが、もしかしたら暴力行為を収めるアイディアがない!?
だから、その場対応、親御さんにも言わないのかも。

まあ、とにかく暴れる子が中心の学級経営はまずいですね。
学ぶ準備ができている子の学ぶ機会が奪われるのは良くないですよ。
ちゃんと規則正しい生活をし、学校に来ているんですから。
この特別支援学級だけではなく、他の学校も同じような話をよく耳にしますので、書いてみました。

学校は我が子を人質なんかにしない

前回の児童デイ編(変?)に続き、学校編。

「学校に人質に取られているようなものですから」と言うのも、よくわからないですね。
学校に人質ってことは、先生が子どもを拘束し、立てこもりでもするのでしょうか。
授業時間が終わったら、さっさと帰ってもらいたいのが自然な感情です。
学校の先生は、とっても忙しいんですよ。
下校後でも、学校で何かあったら責任は先生たちになっちゃいますし。
だから、下校時刻になったら、すぐに子ども達は帰ってきます(遊んでたら、「帰れ」と言われますw)。

学校に何か言ったからって、我が子だけ勉強を教えてくれなくなるってことありますかね。
意味のないことはするかもしれませんが(さらりと暴言)、授業をしないっていうのはあり得ませんね。
もし、そんなことがあれば、子どもの学ぶ権利を奪ったってことですから、即刻クビですよ。
教育委員会がどうのこうのとか、世間の目がどうのこうのとかで、今、先生たちの立場はどんどん弱まっているんですよ。
それに不当な扱いを受けたら、倍返しにするくらいの気持ちがなければ、しっかり子育てはできないと思いますね。

結局、「学校に人質」って言う人は、言い訳しているだけだと思います。
自分に気力も、体力も、覚悟も、ないんだと思います。
親御さんだって人間ですから、いつで元気いっぱい!ということはないでしょう。
でも、家族がいるはずです。
家族に頼れなくても、支援してくれる人は担任以外にも、学校以外にもいますね。
頼る人は、自分以外にもいます。
それに大多数の先生は、しっかり親御さんの言葉に耳を傾けてくれる方たちです。

それなのに頼らないっていうのは、もともと頼れないのではなくて、頼らないんだと思います。
つまり、担任や学校から悪く思われたくない、というように自分を守っているのでしょう。
本当に守るべきものは、我が子だと思います。
我が子のために、と常に考えている人からは、「学校に人質」なんていう言葉は出てきませんね。
人質のように見ているのは、学校ではなく、親御さんの目だと思います。
「お前の子を人質にとったぞ、へっへっへぇ~」なんて考えている先生なんかいないですよ。

先生も完璧な人ではないので失敗もするし、他人ですので、考え方も違うはずです。
でも、そこで遠ざけてしまってはいけません。
先生は立てこもり犯ではなくて、仲間です。
仲間になるには、お互いが近づかなければなりません。
ときに、意見を戦わせることも大事でしょう。
そういう交流、努力なくして、お互いの信頼感など生まれてきませんから。
子育てはチームプレーです。

児童デイに遠慮する親御さん

ある親御さんが言ってたんです。
「児童デイに支援の仕方について要望するのは無理です」と。
理由もいろいろおっしゃっていましたが、やっぱり私は悲しいですね。
他人の支援についてではないんですよ。
我が子の支援について要望できないような施設なら辞めた方が良い、というのが率直な意見です。

子ども達は放課後、何をしていますか?
友達と遊んだり、習い事をしたり、家で勉強している子もいるでしょう。
ほとんどの子ども達は学ぶことで時間を過ごしています。
(もちろん、遊びだって脳や身体を発達させるのに大切な勉強です!)
だったら、障害を持った子ども達だって、放課後は大事な学びの時間のはずです。

塾や習い事に通うのが難しい。
家で遊んでいるだけでは、限られた経験しかできない。
放課後も、有効な時間にしてほしい。
そんな願いから児童デイができたのではないでしょうか。
いつの間にか預り所になってませんかね。
わざわざ衝立の中に入って、DVDを観る必要はないと思いますよ。
家でもDVDは同じ映像が流れるはずです。

こういった状況に気づいている親御さんは多いです。
「成長はないですね」「預かってもらうだけですから」なんて言う親御さんもいます。
厳しいことを言うようですが、気が付いているのでしたら、何故、動かないのですか?
スタッフと話をしてみる。
他の児童デイを探してみる。
児童デイの回数を減らして、替わりになるような学びの機会を用意する。
動けば、変わることもあります。
それなのに、ただ指をくわえて見ている、陰でグチグチ言う。
これは部屋に鍵を閉めて自由に過ごさせている児童デイと一緒です。
子どものために動けていないのですから。

どっかの支援機関や医師が勧めた児童デイだって関係ありません。
我が子の成長のために改善してほしいことがあるのなら、しっかり要求するべきです。
「地元にある児童デイは、どこもね…」という状況にしているのは、利用する親御さん達の責任でもあります。
結局、時間つぶしの児童デイに、一日一人8,000円の税金が投入されるのは利用するからです。
児童デイのスタッフの意識、専門性が上がっていかないのは、誰も文句を言わないから、それで良しとする状況があるからです。

児童デイに、何故、多額の税金が投入されているのでしょうか?
親御さんのレスパイトという目的もあるでしょう。
でも、放課後の時間も有効に使うことで、将来、子ども達がより働けるようになり、より自立度の高い生活ができるため、というのが一番の目的です。
子ども時代は児童デイで面倒をみて、大人になったら福祉施設が面倒みますよ、という意味ではありません。
しっかり学び、自立していけることが、本人の質の高い生活につながりますし、税金の支出を減らすことにもつながります。

このまま、目に見える形での効果が表れないようでしたら、児童デイに投入していた税金は減らされていきます。
そうなると、児童デイが減っていき、以前のように放課後は家で過ごします、という状況になりかねません。
そんな時代に戻って良いのでしょうか?
子ども達の学ぶ機会が減らされていいのでしょうか?
いま、利用している親御さん達が声をあげ、行動に移さなければ、未来の子ども達に影響が出るのです。
我が子のためにも、後輩たちのためにも、死んだふりはせず、動いてほしいと思います。

2016年3月3日木曜日

失敗しなくなるのが大人ではなく、上手に失敗できるようになるのが大人

子ども達の特権って、たくさん失敗できることだと思います。

喧嘩したって、すぐに仲直りすることができる。
怪我をしたって、すぐに治すことができる。
人間関係でも、身体関係でも、痛みを知るって大事なこと。
良い加減が分かるようになるから。
だから、子ども時代の失敗は「失敗」と言わないのかもしれませんね。
一つひとつが将来につながる学びになるのだと思います。

失敗したとき、失敗のままにしておかないのが大切なこと。
何で失敗したんだろう、と考えること。
どうすれば良かったのか、と考えること。
そして、自分自身で謝罪をすることと、責任を取ること。
こういった視点で振り返ることが、子ども自身の成長につながるでしょう。
また、大人になったときの適切な対処の仕方と、大人になってからも成長し続けられることにつながるでしょう。

大人になってからアタフタしないようにも、子ども時代にたくさん失敗しておくことが必要だと思います。
失敗しても、自分で乗り越えられた経験、次に活かせた経験は、人生を力強く歩むことのできる生きる力となります。
失敗をたくさんした人の方が、生きる力が強いように日々、感じています。
ですから、子ども達、若者たちには、失敗を恐れて動かないのではなく、たくさん動いてたくさん学んでほしい、と思っています。

失敗しなくなるのが大人ではなく、上手に失敗できるようになるのが大人なのかもしれません。
そんな大人になってもらうためにも、失敗を将来に活かす学びへ転換するお手伝いをしていきたいですね。
私もまだまだ勉強中です。