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7月, 2016の投稿を表示しています

「入所施設はいらない」と言うのは、きれいごとでしかない!

タイトルの通りだと、私は思いますね。 よく施設関係で問題が起きると、「施設をなくせ」「施設は悪だ」みたいなことを言う人がいますが、あなた達に何が分かるんだと言いたいですね。 だって、実際に施設を利用し、生活している人達がいるんですよ。 施設だって、彼らの選択肢の一つじゃないんですかね。 「地域で暮らす」みたいな頓珍漢なことを言う人もいますが、施設だって地域ですよ。 確かに郊外に存在していることが多いですが。 そこだって、1つの地域です。 施設があるから、成り立っている経済活動だってあるんだし。 都市部で生活したい人もいれば、郊外の静かな場所で生活したい人もいる。 ある強度行動障害で入所してきた男の子は、都市部で生活していましたが、ずっと家の自分の部屋で生活していました。 小さいときは、公園やコンビニが好きで、よく出かけていたそうですが、行動障害がひどくなり、外に連れていけなくなったんです。 その子が郊外の施設にやってきた。 もちろん、近くにコンビニなどはありませんが、その地域のちっちゃい商店に好きだった買い物に行くことができた、それも数年ぶりに。 公園だって、他に子どもがいない時間にたくさん遊ぶことができた。 コンビニや商業施設がない郊外での生活を「かわいそう」と言う人がいるけれど、数年ぶりに買い物に出かけて、好きなおやつが買えた、公園で思いっきり全身で遊べた、というのは、都市部で部屋の中から出れなかった生活よりも豊かになったと言えないでしょうか。 他にも、都市部や町などで刺激が多い中で生活していた人が、刺激の少ない郊外の施設に来ただけで安定したってことも少なくありません。 確かに、本人のニーズではなく、保護者のニーズで入所してきた人もいます。 いろんな理由をくっつけますが、結局は「家でみたくない」って人も少なくありません。 地域の目を気にしたり、障害を持った子がいることが知られたくないって理由だってあります。 お金が入るときだけ面会に来る人もいますし、何年間も面会に来ない人なんて、ざらにいます。 ということは、入所施設がなくならない理由には、親のニーズだってあるんですね。 もし入所施設が閉鎖になったらどうなりますか? 住んでいた人達は、その日から家に帰ることができますか? 自分の住んでいるところの隣に、行動障害を持

相模原市の事件を止められたかもしれないもう一つのタイミング

昨日、起きた前代未聞の事件。 もちろん、相模原市の障害者施設で起きた事件である。 当然、様々な感情が湧きおこってくる。 昨日は一日、私の心もざわついていた。 だが、こういった事件が二度と起こらないように“考える”ことも大事だと思う。 措置入院の治療、12日で退院した是非、医療や行政間での情報の共有、市や警察の動きなど、犯行を防げたかもしれないという場面が、いくつか言われている。 しかし、私はもう一つ大事な場面があると考えている。 それは、容疑者が働いていたときである。 最初、強度行動障害を持った人達の生活支援を3年半も続けていたことに“珍しい”と感じた。 特に若い人は、すぐに辞めていくことが多かったので。 報道によれば、働いた当初より入居者に対する暴力や暴言があったという。 また学生時代から、障害者の存在を否定するような発言をしていたとのこと。 ということは、働いた当初より行動でも、考え方でも、施設職員として不適切だったといえる。 それなのに3年半もの間、働き続けていたこと、別の言い方をすれば、辞めさせられていなかったことに疑問を持たなければならないと思う。 何故、このような問題があった職員が、3年半もの間、働き続けられたのか? 近年、障害者虐待に対する社会の目も、法律的にも、厳しくなっているのに。 辞めさせたくても辞めさせられない事情があったと想像する。 この施設は、重複障害の方、重度最重度の知的障害の方、強度行動障害の方を積極的に受け入れていたという。 ということは、職員の入れ変わりは多く、人材不足に陥っていたと想像できる。 特に若い男性職員は重宝される。 自傷や他害、パニック時の対応は、力が必要なことが多いため。 状況や状態の悪化、周囲への被害を考えると、きれいごとなど言ってられないこともある。 給料の面からも、若い職員で男性は集まりづらいので、辞めさせたくても辞めさせられなかったのではないだろうか。 また、暴力や暴言、考え方など、一般の人達が感じる衝撃、違和感と、職員同士、施設内での感じ方にギャップがあったのではないかと推測する。 先ほど述べたように、職員も身の危険を感じることは多々あるし、力で止めないといけない場合もある。 精神的にも、肉体的にも、金銭的にも、キツイ仕事である。 それを続けていく間

支援対象はモルモットではない

新人の頃、支援を始めるときには1つずつ「変える」「加える」「減らす」という指導を受けました。 その理由としては、「自閉症の人は変化が苦手だから」という意味で少しずつ変えていくというのと、複数変えちゃうと結果がどの影響かがわからなくなるから。 当時も思っていたのですが、変化が苦手だったら一気に変えちゃった方が良い場合もありますね。 ちょびちょび変えて、“変化のボディーブロー”の方が辛い気がするし。 そして、複数変えちゃうと、何の影響かがわからないっていうのも、ツッコミどころがありますね。 これって支援者目線です。 本人からしたら、トラブルが起きていれば、すぐに解決したいし、ラクになりたい。 何か新しいスキルを身に付けるにしても、できるだけ早いほうが、実生活で活かせる。 つまり、本人にとって手段よりも、結果が大事なんですね。 結果が大事なのは本人で、手段が大事なのは支援者。 なんで支援者が手段が大事かって言ったら、100%ではないにしても“モルモット”として見ているから。 新しい方法を試したいし、臨床数を増やしたい。 それの方が、仕事上の自分の結果は良くなるから(ブ) 精神科のドクターが1つずつ慎重に薬を変えていくっていうのはわかりますね。 でも、支援はスピーディーに結果を出すのが良いに決まってます。 「この構造化が…」「このプロンプトが…」「この介入のタイミングが…」「この強化子が…」なんて支援者の中での話であって、本人からしたら「それよりも早くしてよね」なんですね。 トレーニングを受けたときも、「日本の支援者は、すべて1つずつ変えるのか!?」って驚いていましたよ。 日本の自閉症、発達障害の入り口は、必ず医者を通らなくてはいけないからでしょうかね。 まあ、原因、要因を確認するのは、本人の情報を集める上では大事なのかもしれませんが、いくらアセスメントシートを用意しても、すべての要因を書き出すことはできませんからね。 一言で体調といっても、睡眠、排泄、食事、疲労…ってあるし、過去の経験っていっても、数えきれないくらいある。 環境だって同じ。 どうせ要因なんか特定できないんだから、そのとき、目的達成のために有効だと思われることをどんどんやったら良いと思うんですよ。 やりやすいことからでも、改善しやすいことからでも、どんどんや

両親の監督責任が問われた裁判

「両親は監督義務を怠った」というのが、東京地裁が出した答えでした。 2013年、当時小学2年生だった女児が、上級生の女児から脅され、マンションの屋上から飛び降り、重傷を負った事件。 その加害者の家族に対し損害賠償を求めた裁判で、慰謝料など1,025万円の支払いを命じる判決が昨日、言い渡されました。 この判決に関しては、今朝の新聞やネットニュースの記事で読みました。 しかし、その伝え方に違和感を持ったんですね。 やっぱり「発達障害」「アスペルガー」っていう部分を削ってるんですよね。 紙面の関係かもしれませんが。 でも、昨日の判決の肝は、加害者の両親に監督責任を認めたこと。 裁判長の判決理由でも、発達障害の診断を受けた点、他者が思い通りに動かないと怒りを持つという傾向について述べられていましたね。 だったら、きちんと伝えるべきだと思います。 「他者が思い通りに…」っていうことだけ記してあって、発達障害の部分がなかった記事もありました。 また加害者の女児が聴覚障害を持っていた点は書いてあったのに、発達障害は書いていないのも。 聴覚障害は良くて、発達障害はダメな理由は?って思いますね。 ギョーカイ団体の力の差?? このようにギョーカイのプレッシャーなのか、自主規制なのかはわかりませんが、私は事実をきちんと伝える必要があると思います。 それは今、どこかで被害に遭っている人達のために。 我慢する必要はないんです、加害者に障害があったって。 学校とかでも、何かトラブルがあっても「あの子には障害があって…」みたいな対応されて、共生という名の元に被害児が我慢するし、加害者の方の保護者には曖昧に伝えられる。 また同じ障害を持った子同士でも、「お互い様」といってうやむやにされる。 こんなこと、どこでもある話です。 今回は、加害者の年齢と障害が考慮され、本人の責任は問われませんでしたが、はっきりと親の責任が認められています。 つまり、相手に障害があったとしても、被害を受けた側は被害者になるのです。 当然といえば、当然なのですが、それを認めようとしない人達がいます。 健常者から障害者に対する虐待や差別は大騒ぎするのに、立場が逆になる場合はだんまり、または「偏見がー」を続ける人達です。 でも、この人達がいくら頑張ろうとも、被害を受けた人が被

新しい問題が出てきたのは、発達の階段を1つ上ったからかもしれない

様子を見ていると、「あれっ、今までなかった問題が出てきたぞ」ということがあると思います。 環境や対応、ルールの変化で新しい行動が出てくる、できていたことができなくなるということではなくて。 「特に変化や変更はなかったのに、おかしいな」というケースです。 私も関わっている人で、子どもも、大人も関係なく、「新しい課題がでてきたな」って感じることがあります。 これって、せっかく落ち着いていたのに~、安定してたのに~って捉えがちなんですが、ネガティブなことだけとは限らないんです。 むしろ良い兆しだったりする。 「その前段階の課題がクリアされたから出てきた課題」 「心身が安定したから出てきたそれまで抑圧されていた課題」 ってこともあるように感じます。 ポジティブな課題っていうのもある、と私は考えています。 それまでできなかったことができるようになって、その分、認知や身体機能が高まって出てくる課題があったり、精神疾患の症状が良くなってから出てくる課題があったり。 新しい行動を起こすにもスキルが必要ですし、心身のパワーが必要ですから。 このような背景のある新しい課題が出てきた人の場合、新たな段階へ進む準備ができた証拠と捉えるようにしてます。 一つの課題がクリアされたら、次の課題が出てくる。 これって自然なことだと思います。 新たな問題が起きれば、モグラたたきのように、上から押しつけようとする支援者って嫌ですね。 もっとその人の成長、発達という観点で見れないかなと思います。 「新しい問題が起きました」→「はい、精神科薬追加」 「新しい問題が起きました」→「はい、やらなかったら、ご褒美。はい、消去」 「新しい問題が起きました」→「はい、×マーク&衝立」 っていうのは、本当の意味で発達援助と言えるの!?って感じですね。 その瞬間で判断するのではなく、「発達の階段どの位置かな?」っていう視点が大事ではないでしょうか。 新たな問題が出てきたとき、「もしかしたら次の発達課題に取り組み始めたのかもしれませんね」と言うようにしています。

アセスメントだけしても、実生活は変わらない

学生時代、「良いものを見せてやる」と、エラソーな学校のエラソーな先生が、エラソーに子どもの発達検査をしているところを見せてくれたことがありました。 検査は、午前中いっぱいかかりましたね。 そして出た結果が、視覚優位で、細かい作業が苦手。 指示は1つずつで、視覚的な手立てが必要、特にスケジュール。 マッチングは得意だが、集中力が短い…まあ、こんな感じでした。 「これって授業を潰してまでやることか?というか、毎日、授業やってたら、わかることでしょ」というのが、そのときの感想です。 エラソーな先生は私に対して満足気に説明し、保護者に資料として渡すと言ってました。 でも、この検査、アセスメントって、教師の自己満足以外の何物でもないと思いますね。 「検査できる俺ってかっこいい」 「どうだ、この資料、すごいだろ」 まあ、こんな感じですね。 支援者特有の自分で頑張って、自分で気持ちよくなってるやつです。 ちなみに、私はこういった姿を“支援者のマスターベーション”と呼んでいます。 自分だけ気持ちよくなってて、周りから見たらただキモチワルイだけだから(ブ) 私も、仕事でアセスメントすることがあります。 でも、アセスメントだけでお金を取ろうとは思いませんね。 あくまで成長や発達を援助することが仕事であって、それを本人も望んでいるので。 「あなたは、こんな特徴がありますよ」と言われるだけでは、実際の変化は起きません。 アセスメントってより良い変化をもたらすための準備、確認作業でしょ。 実生活が変わらないのに、金を取るなんてぼったくりです(*個人的な見解)。 まあ、アセスメントだけで何十万もとるようなところは、まだ存在しているようですが。 アセスメント資料を見せてもらったことがありますが、「こんな情報量で、〇十万!?」とびっくりぽんでしたね。 親御さんの方も、金額が見える分、「こんだけのことを我が子にやった」という満足感が得られるから商売が成り立っているのでしょう。 満足感なんて見えないし、満たされていない人ほど「金額はいかほどでも~」となりますからね。 時間とお金を使い、高額なアセスメント資料は手元にあるけれど、実生活は生きづらいまま…なんてことはよくある話です。 学習塾に行ってテストしかしなかったら、文句言うでしょ。 「点数は

「歳を重ねていけば」という助言は、問題を先送りにしているだけ

中学、高校になっても、オムツのままの子がいるという話には驚きましたね。 身体的な障害があるわけではないんですよ。 かなり重い知的障害があるわけでもないんですよ。 どうしてこうなっちゃのかなと思いますね。 ほんと、この子の将来が心配です。 ちなみに、最重度、測定不能という診断を受けた知的障害を持つ自閉っ子達も、ちゃんと練習すれば、みんなオムツがとれて、自分でトイレで排泄できるようになりましたよ(施設で働いてた時)。 このオムツの子だけではなく、身辺面が未自立の子が増えたような気がします。 食事や着替え、手洗いや入浴など、教えれば身につくはずの子たちが、そのままになっているケースがあります。 児童デイのスタッフさんが言っていました。 こういった身辺面の未自立について、親御さんがあまり危機感を持っていない、と。 「年齢が上がっていけば、いつかできるようになるでしょう」 「それよりも、今、この子が楽しめる活動をしてほしい」 という考え方のようです。 結局、子どもの将来ではなく、今しか見えていないのでしょう。 今が良ければそれでいいという問題の先送りです。 先日、ある学生さんが人間関係でトラブルを起こしました。 また別の学生さんは、講義の中でのグループワークに一切参加しなくて、単位を落として続けているという相談がありました。 これもさっきの児童デイのスタッフさんのお話と共通するんです、問題の先送りという点で。 確認すると、どちらの学生さんも大学に入ってからトラブルを起こしているわけではないんですね。 つまり、高校も、中学も、小学校も、幼児期も、ずっとトラブルを抱えていたんです。 でも、この約20年間の間で、誰も向き合ってこなかった。 高校はとにかく卒業、とにかく進学率ということで、苦手だという集団活動は免除してきたし、トラブルが起きても、本人ではなく、クラスの生徒さん達を指導してきた。 小中は義務教育だから、とにかく配慮配慮配慮です。 親御さんにも「年齢が上がっていけば」「思春期が終われば」と学校は言い続け、親御さんも「そうなんだ」と先送り。 まあ、支援機関も同じようなことを言うどうしようもないところもありますが。 結局、大学に進学できたのは良いけれど、課題はそのままなんですね。 大学の次は、社会なんです。 これまで

「すべてお任せしま~す」ってイイの!?

「私がさせてあげられないから、ここで経験させてください」と言って利用する親御さんがいるという話を児童デイのスタッフさんから聞きました。 もちろん、おっきな遊具や集団遊びなど、家庭でできない経験、児童デイなどの機関でしかできない経験ってあると思いますよ。 でもね、この親御さんの発言は、「自分じゃできないから、お願いね」っていう責任の放棄の匂いがするんです。 このような親御さんが多いと嘆いていましたね。 私のところにも、このような親御さんからの依頼がきます。 でも、私は断るようにしています。 だって、障害があろうがなかろうが、子どもを育てるのは親の務めなのですから。 「すべてお任せしま~す」という言葉は、支援する側からしたら楽なのですが、それじゃあ、子どもは変わらないし、成長しません。 親御さんが主体性を持って、しかも本気で育てようとするときに、子どもも真剣に伸びていくのだと思います。 親が主体性も、本気度も、責任感もないのに、子どもがちゃんと主体性を持って、自分の人生を歩むことができるようになると思いますか?? 昔の冷蔵庫マザーの寄り戻しで、「親のせいではありません」という言葉が大きな顔をしていますが、「それって親のせいじゃん」ってこと多々ありますよ。 当たり前ですよね、親が大きな影響を与えるのって。 親のお腹の中から生まれてくるんだし、土台作りの時期に親がメインで関わるのだから。 一番近くにいるモデルでもあるんだし。 支援者だって「親のせいではありません」なんて表では言っていますが、裏では「あの親がー」ってみんな言ってますよ。 どの口が、親御さんにエラソーに講演しているのかなんて思うこともあります。 「私のやり方で、ダメなこと、足りないこと、気がついたことがあれば、何でも言ってください」と言われる親御さんは好きですね。 もちろん、親御さんの本能でやっていることにダメなことはあるとは思いません。 でも、こういった発言からは、親としての自覚、主体性、積極性、本気度が伝わってくるんですね。 こういったご家庭の場合、どんな状況であろうとも、子どもはしっかり伸びていきますし、変わっていきます。 「親御さんの主体性を奪わないように気を付けなきゃな」と思える関係性がいいですね。 「親御さんが主体性を預けてきちゃったよ、参ったな」と

自分が必要とされることを目的にしてはならない

他人から感謝されたり、必要とされたりすることは、とても嬉しいことです。 先日も、就職した方の親御さんから「大久保さんの支援のおかげで」と言われました。 でも、こんなとき、私は心では快を感じつつも、頭では自分を律しないといけないと思うのです。 こういった言葉は、麻薬のようなものだと思っています。 それは、この“必要とされる”言葉によって、麻痺していく支援者たちを多く見てきたからです。 最初は本人のためにと頑張っている支援者も、だんだんと必要とされる自分に満足していきます。 「こんなことができるようになった」 「課題が解決して、以前よりも穏やかに過ごせるようになった」 という本人の変化に喜びを感じていたはずなのに、喜びのベクトルが自分自身に向いていくのです。 そして、「この人にとって、自分は必要な存在」というような思考になっていき、支援に「やってやってる」オーラが出てきます。 「やってやっている」オーラが出てきた支援者って、結果を求めなくなるんですね。 本人の変化という結果ではなく、どれくらいやってやったか、に目が向くようになります。 つまり、かけた労力ですね。 「こんな支援グッズを作った」 「こんなに〇〇のことを大事に思ってる。一生懸命に考えている」 とか、必要とされている度を自分で上げて、嬉しくなっちゃうんです。 だから、ギョーカイ主催の会議は内容がなくて、とにかく大勢の人を集めて、とにかく長いんです。 労力を掛ければ掛ける程、みんな、自分自身で嬉しくなっちゃうから。 そして、残業を自慢し、「こんなに忙しいよ」と恥ずかしげもなく言っちゃうんです。 「あなたを必要としています」という麻薬がよく利くのは、当然、自分自身が必要とされていると感じられていない人です。 今まで歩んできた道の中で、今の生活の中で、必要とされた経験がない人、必要としてほしかった人、ほしい人。 また、自分自身の中に軸がなくて、他人からのリアクションや評価で自分自身の輪郭を確認するような人も。 初めは「良い支援者だな」と思っていた人も、地域に根付き、「先生」「先生」と呼ばれているうちに、講釈ばかり垂れるばかりで、全然手を動かさなくなったというのをたくさん見てきました。 今まで何度、がっかりしたか分かりませんね。 ですから、自分はそうならないように