2016年8月31日水曜日

嫌いな人と距離を置こうとするのは、自然なこと

私は、自分を守るための嘘をつく人間が嫌いです。
私は、言い訳ばかりして成長しない人間が嫌いです。
私は、口では良いことばかり言っていて、実際には行動しない人間が嫌いです。
ですから、こういった人に対しては、はっきり「No」と言ってきましたし、距離を置いてきました。

誰しも嫌いな人はいるでしょうし、私のような振る舞いをするのは自然なことだと思います。
でも、これが対障害を持っている人になると、不自然に見えるというのです、支援者という人達には、一部の親御さんには。
まあ、私から言ったら、そっちの方がどうかしていると思いますが。

何故、特に支援者は障害を持った人に対して「嫌い」と言ったり、距離を置いたりしてはいけないのでしょうか?
私はガツガツ言いますよ、「嫌い」だって、怒りもしますし。
「もう応援したくない」「支援するのも嫌だな」「別の支援者に頼めば良いでしょ」
今月だけで、3~4人に言いましたね。
そう考えると脂っこい8月でした(笑)
脅すという意図ではなく、正直な気持ちを伝えたのです、一人の人間の。

支援者って、本来、目の前の人が“社会の中”で自立していくことを応援していくはずです。
それなのに、プライベートな時間で、障害のない人がやったら絶対に許さないであろう行為をされたとしても、相手が自分の支援している人だったら、「もう同じ間違いはしないでね」とか、「一緒に、その課題をクリアできるよう頑張っていこう」などと言っちゃうのです。
こんな対応、人間関係って不自然ですし、いびつですよ。
そんないびつな対応をするから、問題は解決しないし、誤学習もさせちゃう、そして本人の中に「支援者だから、どうせ許されるだろう」という甘えも生まれるのです。
で、結果として、社会の中に出ていくことができなくなるんです。

つい先日も、自分の失敗を隠した上に、最後には「僕はアスペルガーだから」って言うもんだから、「都合が悪くなったら、アスペルガーって言うんじゃない。どの診断基準に、“アスペルガー症候群の障害特性は嘘をつく”って書いてるんだー。嘘をついたのは、アスペルガーという障害ではなく、〇〇〇〇という人間だ。何でも障害のせいにするのは、同じ障害を持っている人達に対して失礼なことだし、私はそんな人は大嫌いで支援したくない!それに自分を守るための嘘をつく人間のことは信用しない!!」と言いましたよ。
そしたら5分くらい俯いたあと、「これが“信用されない”ってことなんですね。いつも、みんなから「お前は信用できない」って言われるんだけど、その意味がわからなくて…。自分がアスペルガーという障害を持っているから、信用できないって言われてるんだと思ってました」と言っていました。
たとえ、それがネガティブな情報だったとしても、真実を伝えることが正しい情報提供となり、自然な学び、成長へとつながるんだと思いますね。

このように直言されても、それが正しい情報だとしたら、彼らは受け入れ、また成長の機会にすることができるのです。
私が直言すると、いつもたじろぐのが支援者であり、一部の親御さんです。
そして彼らに恣意的に一部の情報を隠し、改変して伝えてしまうのです。
そんなんじゃあ、社会の中で自立していくことなんかできませんよ。
たまに「どんな支援の意図があって「嫌い」って言ったのでしょうか?」なんて尋ねてくる支援者もいますが、「私の正直な気持ちです。別に支援のテクニックの一つではありません」とはっきり言って、さらにたじろいでもらっています。

あなた方は、不自然な関係性を保ち、一生囲い続けるのでしょうか?
好きな人がいれば、嫌いな人もいる。
それが彼らが羽ばたこうとしている真の社会の姿です。
自分のことをはっきり「嫌いだ」と言う人間が目の前にいることから始まる学びもあると考えています。

2016年8月28日日曜日

ひきこもりについての空想

この世にいる動物の中で、ひきこもる動物っているのだろうか…なんてことを考えてみることがあります。
動物界にはアマゾンはないはずだから、自分の巣穴まで食べ物をお届けってことはできないです。
だったら、生まれてきたばかりの子か、まだ餌の捕り方を知らない子以外は、巣穴にずっといることはできません。
食べなきゃ、生きていけないので。
親とはぐれたり、親が他の動物に食べられたりしたら、例え子どもでも、這ってでも巣穴から出て食べ物を探しに行きます。
巣穴にいて餌を待つという選択肢は、遺伝子的には組み込まれていないんじゃないかな、なんて動物界を見て思います。

人間も動物なのだから、きっと遺伝子的には、ひきこもらないんじゃないかな、と思います。
じゃあ、なんで人間はひきこもるのでしょうか。
人間界にはお金も、アマゾンも、コンビニも、福祉制度もあるからっていう答えは面白くありません。
爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳のどこで、ひきこもるのだろうかと空想してみます。

爬虫類の脳で、ひきこもる人もいると思います。
自律神経の乱れで、餌を捕りに行きたいけれど、身体の方がNOと言っている感じです。
生命活動でいっぱいいっぱいの人は、ひきこもらざるを得なくて、ひきこもっているといえます。

哺乳類の脳で、ひきこもる人は、愛着形成が関係していると思います。
守ってくれる存在、自分は守られているという意識が持てない人は、やっぱり巣穴から出ることは怖いのでしょう。
餌を捕りに行くというのは、心の中でも、実際の場でも、帰る場所があるから出て行くのだと思います。
また、自分を育ててくれた人が巣穴の外を怖がっているとしたら、本能的にひきこもるを選択するかもしれません。
たとえ、その人と愛着が形成されていても、「そんな人が怖がるんだったら、よっぽど恐ろしい場所なのだろう」と怖さも倍増するかもしれません。
あと、トラウマなど、大きなショックが脳へのダメージとなって、ってこともあります。

人間脳で、ひきこもる人も、近しい人から「巣穴の外は怖いよ」と教わってというように、本脳ではなく、学習の結果ってこともあると思います。
「自分で餌を捕りに行かなくても、生きていける」という学習もあれば、ひきこもることがお得っていう学習もあると思います。
ひきこもりの人と接していると、怖がり故のひきこもりの選択っていう人がいる一方、ひきこもりを武器のように、やたらと全面に出してくる人もいます。
これは学習かなって感じることがありますね。

とりとめもなく、根拠のないような頭の中の空想を綴ってきましたが、ひきこもりは遺伝子に組み込まれていることじゃなくて、環境による影響ってことは自分の中ではスッキリしています。
きっと人間も餌を自分で捕りに行くように、また捕りに行くのに最適な身体、進化をしているのだと思いますね。
餌を捕りに行くことを阻んでいる何かが環境の中に存在しているはずですので、その何かを解き明かし、その異物を取り除いて、その人を自然な世界へと飛び立たつための発達援助をすることが、自然な支援と言えるのではないでしょうか。
そんなことを思いながら、ひきこもりの方達と接しています。

2016年8月26日金曜日

支援者なんてクソくらい!

内から変えることができた先輩たちは、早々と天国へ旅立ってしまった。
外から変えると言っていた先輩たちは、この地を去っていってしまった。
もうみんな、いない。

外では勇ましいことを言っていたのに、顔を合わせると、持っていた刀をスッと鞘に収め、何事もなかったように握手を交わす。
そして最後まで戦う姿を見ることはなかった。

「俺たちを見ていろ。後についてこい。だから、若いうちにたくさん勉強しろ」
気が付いたら、そう言っていた先輩たちは、いなくなっていた。
こういったこともあってか、私は支援者という人間を心から信じることはできない。

私は、若い人達にこんな話をすることがある。
「障害がある人だって、ない人だって、金持ちの人だって、貧乏の人だって、高学歴の人だって、中卒の人だって、100年後には、みんな灰」
「傲慢な医者、上から目線の支援者、何でも分かっているような態度の相談員だって同じこと」
「どうせ灰になるんだったら、見事な灰になってやろうと私は思っている」
「一度、この世に生を受けたんだから、その命をしっかり燃やし尽くそうじゃないか」と。

今、やっている仕事も、いつ辞めてもいいと思っている。
今日が最後の日になろうとも、後悔がないように1つ1つに全力を注いでいる。
開業当初より、早々と潰されるだろうと思っていたから。
4年目も約半分までこれたのだから、今日一日も儲けもん。

「何故、潰されると分かっていても、この地で起業するのか?」と、先輩支援者たちに裏切られた思いのあった親御さんが、私に尋ねてくれた。
私の答えは、とてもシンプルなもの。
「戦わずして逃げるのが嫌だったから」

どうせ負けるのなら、しっかり燃えて、しっかり灰になろうと思う。
その灰が、土に還り、いずれその土の上に新しい芽が出てくるかもしれないから。
もしその可能性があるのなら、喜んで灰になる。

各地で活躍し、移り住んだ土地に住む子ども達、親御さん達の希望、支えとなっている先輩たちの活動に尊敬の念を抱く。
だけれども、私は支援者としては1ミリも尊敬していないし、信じていない。
時計を止めたどころか、後戻りしているこの地の現状に無関係とは言わせない。
にらまれたって、悪口を言われたって、妨害されたって、あらぬ噂を立てられたって、別に命が取られるわけではないでしょ。

支援者という仕事ができなくなったとしても、人生が終わるわけではない。
自分の資質を活かす方法、社会貢献の方法は、支援者という仕事を通さなくたって道はある。
結局、先輩たちは支援者という立場を守ったのだと私は思っている。
本当に守るべきものは、この地に住む、この地に生まれてくる子ども達の未来だったはず。

「支援者なんてクソくらい!」
こう思いながら、今日一日も、一人の人の成長、未来に関わらせてもらっていることを感謝する。

2016年8月25日木曜日

構造化された支援が中途半端で終わる理由

構造化された支援が中途半端で終わる理由を、トレーニングを受けた人同士で話し合ったことがありました、もう10年くらい前ですかね。
そこで出た理由が、「構造化された支援ってめんどくさいから」でした。

確かに、ちゃんとやろうとしたら、めんどくさいんですよ。
だって、まず子どもの実態を把握しますよね。
そして、それを元に構造化された支援を行う、もちろん、グッズを制作、準備。
で、構造化された支援を実際に使ってもらい、ここでも評価。
さらに、その評価を元に、再び構造化された支援を作りかえる。
つまり、評価→構造化→実践→再評価→再構造化→…っていうように、その構造化が最適化されるまで、ずっとこれらのプロセスを繰り返すんですね。

特に、子どもさんの場合、どんどん成長しますよね。
ということは、成長のスピードに合わせて、どんどん変えていかなければなりません。
しかも、経験の広がりから、場面の広がりもあります。
ということは、それだけの場面、種類の構造化が必要になりますし、その1つ1つに上記のプロセスを行わなければなりません。

そのため、よく起きるのが、途中で力尽きるケース。
支援者が追い付けないんですよ、その人の成長のスピードに。
だから、本当ならもっと高いレベルで、自由度が高く、自然な形態にできるのに、っていう手前の段階で止まっちゃうんです。
一方、本人も自分のレベルよりも低いレベルの支援で止まっているため、難なくラクに使えちゃうんですね。
この最適化まで続くプロセスのことを知らない人が見たら、「ちゃんと構造化された支援が利いているね」ってなるんです。
この結果、支援者同士、もしくは支援者と親御さんの間で、「この辺でOKね」ってなる、本人の同意が含まれない中で。

本気で構造化された支援、最適化を目指したら、とっても大変ですね。
だから、NCで実際に使われている構造化された支援のグッズは、きれいに作られていない物が多い。
だって、どうせすぐに形が変わり、使われなくなる物だから。
トレーナーの人が、「この構造化は、自閉症の人が作ったのかい。こだわりが強いようだねww」なんていう冗談を言うくらいきっちり同じのが大好きな日本人はビックリするかも。
まあ、1つ1つの構造化をきれいに作り過ぎるから、それを捨てて、次の構造化に行きにくいっていう人もいるかもしれませんね。

最適化のプロセスを考えても、彼らが自閉症の人達の成長を大切にしていることがわかります。
「構造化された支援があるから、自閉症の人達は成長するんだ」なんて主張していないですよね。
「自閉症の人達が成長したから、それに合わせて構造化された支援が必要なんだ」っていうのが、伝えたかったこと。
だからね、「構造化された支援」が全面に出るような研修会は、お金や名誉、宣伝の匂いがプンプンしちゃいますね。

「私が作った構造化された支援、良いか見て下さ~い」っていうのは、どうなのかな?
もし専門家と呼ばれるような人に頼むんだったら、構造化を準備する前の評価、見立ての方じゃないかな?
評価が歪んでいるから、構造化も歪んでる。
評価が甘いから、最適化の前の段階で止まっている。
とってもシンプルなこと。
構造化された支援を本気でやろうと思ったら、最適化までのプロセスを繰り返す根性が必要ですね。
魅せるための構造化だったら、そこまでの意識は必要ありませんが(ブ)

先人たちが伝えたかったことを想う

TEACCHってテクニックじゃなくて考え方。
「TEACCH=構造化された支援」なんて思っている人は、もう絶滅危惧種でしょう。
構造化された支援って、TEACCHの理念、考え方を形にした一つ。
まあ、これくらいは書いても怒られないでしょう、学生時代に読んだ本にも書いてあったし(笑)

私がTEACCHの存在を知ったのは学生時代。
ボランティアで関わって子が、絵カードで確認しながら一人で活動したのを見ました。
「えっ、手で引っ張らなくてもいいんだ!」
「ドラクエみたいに、ずっと後ろをついていかなくてもいいんだ!」
一見すると、しゃべらないし、何にもわかっていないように見えたけど、「こんなアイディアがあれば、この子達は考えて行動できるし、いろんなことを身に付けることもできるんだ!!」って驚きました。

そのあとも、独学で学びましたし、研修、トレーニングにも行きました。
それはTEACCHの理念、考え方が好きだったから。
薬漬けや力関係、赤子のようになんでもやってあげるんじゃなくて、一目では見えない彼らの持っている可能性、彼らが成長できる可能性を信じることができました。
TEACCHのトレーナーの人達や実際、NCで支援している人達を見て、やっぱり学ぶべきことは彼らの考え方であって、本人たちの可能性を疑わないその姿勢だと思いましたね。

彼らが言いたかったことは、とってもシンプルだったと思います。
「その人をちゃんと見なさい」
「その人の特性や成長に合わせて、支援を変えなさい」
「その人がわかりやすいように情報を整理しなさい」
結局、個別化ってことだし、誰も「構造化された支援を使え~~~」なんて言ってないんですね。
つまり、大事な考え方の共有以降は、支援者一人ひとりのセンスが問われるんです。

これじゃあ、困るのが頭ガチガチの人、マニュアル大好きな人、失敗が怖い人、恐怖麻痺が残ってる人…この解説は割愛。
で、解説したいのがギョーカイの人達の困り感。
想像したらわかると思うんですけど、講演会でもいいし、研修会でもいいし、相談でもいい、そこで「その人をちゃんと見て、支援を変えていきましょう。情報も整理してあげるといいですよ。あとは各自のセンスで」って言ったら、ものの10秒くらいで終わっちゃいますよね(笑)
それじゃあ、ご飯食べられなくなっちゃうし、メジャーになりたい人、家元争いに勝ちたい人、愛着障害を抱えている人は困っちゃうんです。
だから、日本人が大好きなコンサルテーションとか、シャドートレーニングとか、ブラッシュアップとか、横文字で惑わし、言ってる内容をもっともらしく、かつできるだけ長くするんですね。
あのね、本来だったら、支援者の持つ専門性、もっと言えば、税金や料金を払う価値って、当事者の人への実際の支援にでしょ。
それこそ、素人ではできなかったアセスメントとアイディアで、課題を解決し、発達を促し、可能性を広げていく行為が求められているし、それをTEACCHの人達は伝えたかったんじゃないですかね。

ライセンスビジネスになってから、距離を置くようにしました。
いや、わかるんです、州知事が民主党から共和党に変わった。
そして、無料だったサービスが利用者負担になる。
結局、NCの自閉症の人達の生活を守り、維持していくにはお金が必要なんです。
でもね、私が守りたいのは、日本に住む自閉症の人達、この地域に住む自閉症の人達。
ライセンス取得にかかるお金というよりは、同じ労力があるのなら、目の前にいる人のために使いたいと思ったんです。
それにこういった実践を通し、一人でも多くの人の可能性を信じ、広げられるお手伝いをすることこそ、特に初期のTEACCHの人達が伝えたかったことだと思うんですね。

なんで、彼らはずっと無料にこだわってきたのか、そのために戦ってきたのか?
なんで、多くの外国人の研修生を受け入れ、全世界に講演やトレーニングに行っていたのか?
自閉症カンファレンスに空席が目立つようになった今、もう一度、考えてみなければならないと思います。

2016年8月24日水曜日

広がりのあるコミュニケーションの形態を目指す

そういえば、ズボンからコミュニケーションカードをじゃらじゃらぶら下げて歩いていた子がいましたね。
あとコミュニケーションブックといって、分厚いファイルを首からぶら下げていた子も。
確か2010年前後でPECSブームがあり、その頃の子ども達は、結構持っていたと思います。
今はどうでしょうかね。

当時から私はじゃらじゃらCOMカード、分厚いCOMブックを否定的に見ていました。
だって、あれじゃあ、持って歩くの大変でしょ。
首から下げたら、首痛くなるし。
ちっちゃな男の子が、ズボンがずれ落ちるのを必死に上げながら、大量のCOMカードをぶら下げて歩いてるのって、歩きにくいと思うけど。
というか、遊ぶために外出しているのに、これでは思いっきり全身で遊べないって、気になるし。
それに歩くのにリソースを使う子、発達課題がある子にとっては、重りをつけて歩いているようなものだと思いますね。
「これは何かのトレーニングですか」って思うくらい重いのもありました、実際にズボンに下げたり、首から下げたりしたら。

まあ、大量のカード、立派なCOMブックは、支援者にとって安心材料になるのでしょう。
見えない、もしくは見せられない支援の成果を示すことができますので。
「こんなにたくさんカード作りましたよ」
「私って立派な支援者でしょ」
とPRする手段の一つ。
どう考えても、今流行の“子どもファースト”ではないよね。

「この子にとっては、唯一のコミュニケーション手段なんですぅ~~~」っていう人もいましたが、それはどうかなって思います。
子ども達の中には、「このCOMカードの中でしか、コミュニケーションしてはいけない」って思っている子もいますので。

山奥で支援員をしていた頃、ショートステイの子がよく来ていました。
その子達の中には、家庭で、また通学している学校で使っているCOMカードを持ってくる子もいましたね。
で、そういった子の多くは、往々にして持たされてるんですね、支援者、もしくは親に。
だから、食堂に行くときとか、外出に出かけるときとか、遊んでいるときとか、持ってこないんです。
職員もそれに気が付かず、普通に食事を摂ったり、外出したり、遊んだりする。
そうすると、COMカードがなくても、コミュニケーションするんです。
物を使ったり、ジェスチャーしたり、片言の言葉を言ったりして。
こっちも、いつもいない子だから何がCOMカードの中にある発信なんか知らないので、本人の純粋な発信に耳を傾けます。
あとから、家庭から持ってきたCOMカードを見て、「カード無いけど、伝えられたじゃん」とか、退所の際、親御さんにこんな発信ありましたよって言ったら、「伝えられるとは思いませんでした」なんて驚かれることも、しばしばありましたね。
というか、COMカードやブックがない方が、豊かな発信じゃないって子もいましたよ。
食堂のテーブルの上にCOMカードがあったら、何も発信せず黙って座っていた子が、それを見えなくした途端、「グリンピース、バイバイ」って言いました。
COMカードには、「減らしてください」ってのがあったのに。

このようにCOMカードを批判的に書いてきた私も、支援で用いなかったわけではありませんよ。
ちゃんと目的がありましたので、むやみやたらに増やすことだけを考えて支援はしなかっただけです。
コミュニケーションって相手がいることなので、一方的に発信するものではありません。
コミュニケーションって「相手とのやり取り」ですね。
だから、一方的に言いたいことを言うのは、コミュニケーションとは言いません。
「相手とのやりとり」っていうのを、カードを渡す→相手が受け取る→相手から反応があるっていう見える形で具体化し、コミュニケーションの意味を学んでもらうために用いていました。

あとはバックアップ機能としてのCOMカードです。
普段は言葉やジェスチャーで発信できる子も、外出など苦手な場面で緊張するとき、心身の状態が悪いときなど、発信できなくなることがありますよね。
そういったとき、何と言ったらよいか思いだすリマインダーとして、または発信が難しくなったときにカードを見せる、指さす、触る、渡すだけで、自分の気持ちが伝わるように、ということで数枚のカードを持ち歩いてもらうこともしました。

ここからは本音をズバリ。
ズボンや首からじゃらじゃらCOMカード、重たいCOMブックのゴールはなんでしょうかね。
最終目的は、辞書を作ることですかね。
この支援って永遠に終わりがありません、本人の気持ちをすべてカードに表そうとしたら。
またもっと恐ろしいことは、本人が言いたいこと、伝えたこと、内から湧き出る感情、気持ちを自分ではなく、他人が枠をつけちゃうことなんですね。
先ほどの子のように、COMカードにあるもの“だけ”しかコミュニケーションしてはならないと捉える危険性がありますし、COMカードにあるもの“だけ”が自分の気持ちであると捉える危険性もあります。
だいたい良く考えてみるとわかるのですが、人の気持ちを50音の文字だけで表せるわけじゃないでしょ。
「言葉に表せない気持ち」なんて言いますよね。
こういったときには、「言葉に表せない気持ちです」っていうカードを作るのでしょうかね。
まあ、100歩譲って、すべての気持ちをCOMカードで表せられるとしても、辞書を作るくらいの労力、根性を持った支援者っていますかね、それも一人に対して。
支援者の言葉のセンスも大丈夫??挨拶もままならないのに(ブ)

ですから、じゃらじゃら&重たいCOMカードを作るんだったら、より自由度の高い発信形態を目指しましょう。
自分ファーストの形態。
この意味は、発信の第一歩が本人であること。
絵や文字カードを使うにせよ、自分で紙に絵や文字を書いて伝えられることを目指すんです。
「支援者が作ってくれないと伝えられませんよー」という形態は、他者の手によって制限が加えられるということ。
支援者がサボったら、発信は増えていきませんし、支援者が持ち込みを禁止したり、取り上げたり、紛失したら使えなくなっちゃいます。
できるのなら、自分の身体を使う発信が良いですね。
どこにいっても、身体はついてきますし、持ち込めますから。

2016年8月19日金曜日

挨拶しないっていうのは、「私は発達援助しません、できません」って言っているようなもの

婦人科以外は、すべて付き添いで行ったと思います。
小さな町ですが、いろんな先生に会いました。
確かに挨拶しない先生は多かったですね、特に本人たちには。

まあ、しゃべってもわからない、きちんと説明できないと思っているのかもしれませんが。
どう接したらいいか分からない、怖いっていうのもあったかもしれませんね。
あからさまに本人の方を見ないようにしていた先生もいましたし、怪訝な顔をする先生もいました。
「次回からは、本人は連れてこなくてもいいから」なんて言うのは、日常茶飯事です。
でも、職員の報告だけで薬出して良いのかなっていう疑問は、常に持ち続けていましたね。
だって、ある意味、職員のさじ加減で、どうにでもなるんですよ。
「全然、眠れません」って言ったら睡眠薬は増えるし、「日中、暴れて仕方がないです」って言ったら安定剤が増える。
そこに支援の質は問われないわけですから。
これって治療になるのかな?っていうか、治す気あるの?って、いっつも思ってました。
ですから、付き添いで病院に行くたびに、どうしてあの先生は〇〇なんだろう?と、接し方について考えていました。
その理由のいくつかが上記に述べたものです。

ある講演会で、本人たちに一切挨拶しない先生が、ぺこぺこ頭を下げているところを見たんですね。
なんだ挨拶できるんじゃん。
同僚の医師みたいな人にも頭下げてるし、ギョーカイや圧力団体の幹部連中にはおべんちゃらも言えてるし。
で、ここで感じたのが、挨拶をテクニックとして捉えてるのでは?ということです。
つまり、自分の仕事をうまくやるための方法の一つであって、利を得るための手段。
加藤清正風に言うと、「お前には、情ってモンがねぇんだよ!!(@真田丸)」って感じですね。

以前、ある子と挨拶の勉強をしたときに知ったんですが、「挨」には心を開く意味があって、「拶」には近づいていくっていう意味があるんですって。
ですから、挨拶には「自分の心を開いて、相手に近づいていく」ってこと。
ということは、診察室で本人たちに挨拶しないっていうのは、「私は心を開きませんし、あなたにも近づいていきません」っていう深層心理が表れているんですね。
これじゃあ、通院しても良くなりませんし、成長もしないでしょう。
だって、もともとやる気ないんですもん。
知的障害が重く、言葉がない子でも、このことが分かってたんだと思いますよ。
行きたがらない病院、行くと落ち着かなくなる病院、先生の診察を拒否する病院っていうのがありましたから。
まあ、こういう私の解釈も、エビデンスがないから否定されると思いますが、先生方には。

挨拶しない先生っていうのは、挨拶を表面的にしか捉えていないのでしょう。
人間特有の知性、テクニックとして。
でも、鳥とか、犬とか、他の動物だって挨拶はしますね、人間のような言葉は使いませんが。
ということは、挨拶って脳の表面(大脳新皮質・人間脳)だけでやることじゃなくて、もっと深い部分でやってることだと思うんです。
発達障害の人って、人間脳以前の脳の部分にバグがあると言われていますね。
だから、本人たちは、ここに刺激が欲しいし、アプローチしてほしい。
で、彼らは「挨拶しない先生は、自分たちの求めているところを見ていない=治せない」と、お見通しなんだと思いますね。

本人に挨拶しないし、付き添いの人、看護師さん、同僚やお偉いさんにもしない先生は、どこかに問題がある人なのでしょう。
でも、挨拶できないんじゃなくて、挨拶する相手を見ている人は、挨拶を知識やテクニックと捉えているのかもしれません。
それじゃあ、発達援助はムリムリ。
発達援助は、支援者によって知識やテクニックが与えられるんじゃなくて、本人の内側にある発達の可能性、力を刺激し、引き出す行為だから。
もしかしたら、大脳新皮質には知識として蓄えられるかもしれませんが、発達援助っていわゆる学校のお勉強とは違うはず。
もっと脳みその深くで、根本的で、本人主体なもの。
表面的にしか見せないし、見ようとしない支援者には、本人たちも表面的な部分しか見せないでしょう。
だから、挨拶しない先生は、治すことができないんだと思いますね。

2016年8月18日木曜日

あなたを支援している人は、どんな“目”をしていますか?

ブログを書くときは、1つ前のブログとの繋がりを意識してます。
もちろん、まったく繋がっていないブログも多いです。
でも、こんなキーワードで昨日のブログと繋がるとは思いませんでした。
「モルモット」
自分で書いていても嫌な文字なんですが、昨晩、ある出来事を知ってしまったんです、直接関わりはありませんが。

私は支援者のいろんな“目”を見てきました。
自分が関わる人の
可能性を、成長を見ている“目”
心を、脳を、身体を見ている“目”
喜びを、苦しみを、楽しさを見ている“目”
過去を、今を、未来を見ている“目”
・・・。
そんな中に、どうしても許せない“目”があります。
それがモルモットを見ている“目”
別の言い方をすれば、目の前の人を見ていない“目”です。

こういった目を持つ人は、目の前の人以外のところを見ています。
その人の持つ障害であったり、問題であったり、支援や治療の結果であったり…。
まず人と向き合ったときに自然と生まれるであろう「人と人の交流」が感じられないんです。
「人と人の交流」はどーでも良くて、もっぱらの関心は自分の趣味嗜好。
なんとかフェチと同じです。
その人の一部分を取りだして、欲情してるんです。
最初から治す気は無くて、個人的に楽しんでるだけです。
とっても不自然だし、キモチワルイことです。
でも、自分は気が付いていない。
もしその人が医師という立場の人だったら、絶対に患者さんを治すことはできませんね。
だって、患者さんという人間を切り離した治療になるのですから。
モルモットと同じですね、得たい情報が得られたら、それ以降は知ったこっちゃないってところが。

親御さんはよく言っています、「なんかあの先生嫌なんだよね」って、当事者の人も。
で、「どんなところが?」って訊きますと、「目」とか、「態度」とか、「雰囲気」とかって返ってきます。
本人や親御さん達は一瞬で見抜くのでしょう、この支援者が自分の、我が子のどこを見ているかが。
支援者としての地位、実力、経歴よりも先に。

私が言っていることは、頭の良い、お偉い先生方には理解されないことでしょう。
「医師が障害、病状に注目して何が悪いんだ」
「その結果が他の人、将来の医療、福祉、教育の発展に活かされるから良いだろう」
というように。
確かに一理あるかもしれません。
でも、たとえそのような意図や意味があったとしても、目の前にいる患者さん、当事者の人に訊いてほしいんです、「こういう目的で支援するけど、良いかい?」って。
病院で血を採って、勝手に研究機関に送ったら大問題になるでしょ。
目の前にいる人は、少しでもラクになりたくて来ているかもしれない。
治してほしくて、成長したくて、今の生活、自分の未来を変えたくて来ているかもしれない。
その想いに耳を傾ける、目を向けるのは、人の支援に携わる者として当たり前の姿勢だと思いますし、その想いを踏みにじるような行為をすることは支援者以前の人として問題があると思いますよ。

医師免許があるからって、ライセンスがあるからって、障害を持った人を見世物にしたり、失礼な対応をしたりしていはいけないでしょ。
当然、講演をお願いする立場の人間だったら、講演してもらう人に敬意を払い、気持ちよく講演してもらえるような心遣いをするのは、社会人として当たり前のことですし、できないのが恥ずかしいことなのです。
社会の中で生き、輝いている当事者の方にはモルモットを見るような“目”が並ぶ場所ではなく、希望の“目”で溢れている場所での講演をして欲しいと思っています。

2016年8月17日水曜日

研修で学んだことを形にする前に、することがあるんじゃないの?

うんうん、わかります。
すぐにやりたいですよね、せっかく研修で学んできたんですから。

特に実践を大切にしている人は、研修を目や耳で聴きながら、頭の中ではすでに自分が接している人の支援を思い浮かべてますもん。
私もそうでした。
研修の何が辛いかって言ったら、この連想を制御すること。
「あの人にはこんなことが…」などと、支援の足し算、引き算、掛け算、割り算を始めちゃうと、その間の研修内容がすっぽり落ちることもありましたので。

でもね、このように早く実践したくてウズウズしてても、帰ってからすぐにとか、夏休み中にガッツリ変えちゃってとか、は止めた方が良いと思うんです。
施設で働いていた頃、2学期の始業式が終わって子ども達が帰ってくると、何だかそわそわしてるんですよ。
で、こう思うわけです。
「夏休みの間に、触発されてきたな」って。

いや、新しい知識や技能、アイディアを取り入れて、より良い教育をしてもらうのは大歓迎なんですよ。
だけれど、1学期の支援に足し算、引き算じゃなくて、ポンと「私がどこどこに行って研修してきました系」支援が現れるんです。
まあ、1学期の支援はそのままで、「研修してきました系」が加わるのはいいんですが、最悪なのが1学期の支援を無くしちゃって、替わりに「研修してきました系」にしちゃうやつ。
「おいおい、1学期の支援は何だったのよ」ってツッコミたくなるやつですね。

あの~、学校はシステム上、夏休みという期間を挟みまして、“新”学期なんて言われますが、子ども達には連続性があるんですよ。
1学期に教えてきたことがまだ見える形の成果として出ていないかもしれませんが、子どもの中では学びが積み上がっている途中ってこともありませんかね。
もう少し継続していればできていたかもしれないのに、スパッと変えちゃってモッタイナイ。
成長のタイミングと、研修のタイミングは必ずしも一致しているわけではありませんので。
「1学期で成果が出なくて~」
「こっちの(私が学んできた最新の)支援の方がより良いと思うんで~」
なんて言ってましたが、4ヶ月間もかけて成長の糸口すら感じられないのをやり続けていた人が、夏休み中、ちょっと研修に行ったからって急激にウデが上がるとは思えないですがね~。

どんどん新しい支援を取り入れて変えていく人を「熱心な人」「勉強家」「柔軟な人」なんて言う人もいますが、私には一貫性のない失礼な人にしか見えませんね。
一貫性のないは、そのままの意味で、失礼なっていうのは、子どもと親御さんに対して。
だって、そうでしょ。
夏休み中にガラッと変えるってことは、夏休み中の“成長”が計算に入ってない証拠でしょ。
「夏休みだからできる経験を」と言って頑張っている親御さん、たくさんいますよ。
本人も宿題や勉強を頑張ったり、お手伝いをしたり、たくさん遊んだり、祖父母の家に行ったり、地域のお祭りに参加したりして、たくさん刺激を受けていますよ。
児童デイや学童、習い事、サマーキャンプなどのスタッフさんだって、学校とは違った学び、成長の機会を提供してくれていますね。
夏休み中だからと言って、成長もお休みじゃないんです。
子ども達は成長を続けているのですから、この成長をまず観ようよって思います。
それからでしょ、ガラッと支援を変えるにしても。

研修に行くたびに、子どもの支援が変える人がいました。
その人に言いましたよ、さすがに、「子ども達はモルモットじゃないんだ」って。
支援者の研修結果を確かめるために、子ども達がいるわけじゃないんです。
夏休みが終わったら、子ども達の成長を観るところから始めましょうよ。
そこからでも遅くないはず。
そして、もし夏休み中に変える必要があるのなら、2学期が始まる前に伝えようよ、本人に「ここが変わるよ」って。
2学期が始まったら、コミュニケーションの形態が、教室のルールが変わってたら、そりゃあ、驚きますよ。

昨日も書きましたが、新しいことを学ぶのは大事ですし、人の成長、生活、未来に関わる人間にとって日々、研鑽を積んでいくのは息を吸うようなものです。
ですが、継続性やつながりを絶ったり、離れたりする支援のあり方は良くないと思います。
新しいアイディアは、子どもたちの持つ継続性の中で足したり、引いたり、掛けたりするもの。
今まで積み上げてきたもの、支援してきたもの、本人の成長段階、課題、特性のどこかしらとつながっていなければいけませんし、つながりのない支援はいくら最新の知識、技能であっても、子どもの中に根付いてはいかない“異物”のままでしょう。


2016年8月16日火曜日

療育を選ぶ権利

子どもは「夏休み」と言いますが、ギョーカイ的には「書き入れ時」と言います(ブ)
研修費を持った人がお客さんの中心ですから。
フツーの週末とは違って、数日間で、しかも高額設定ができます。

受講する側も、ナントカ療法を教わるだけなので、高額の方が良いんですね。
えっ、意味が分からない?
つまり、ナントカ療法を教わっただけでは自己満足にすぎないんですね。
自分が関わっている人の問題が解決したり、ポジティブな変化が見られたりしたら、ナントカ療法の研修を受けた価値が出ます。
ということは、自分が受ける研修が意味のあるものか、効果があるものかは、自分の場所に戻ってから、しかも実際の結果が見えてからしか分かりようがありません。
だから、高額の方が「自分はすごい研修を受けている」感がより味わえて良いんですね。

本当に価値のあるもの、本物って、研修を受けなければできない療法のことを言うんじゃないと思うんですね、私は。
しかも、数年に渡って高額な研修費を、で、ライセンスが認められたあとも更新し続けないといけないなんて…。
これって欧米的だし、「知的財産権」とか言いながら、ただの儲ける仕組みでしょ。
本当に当事者の人達のことを考えて、本当に自分たちの療法がすばらしいと胸を張って言えるのなら、どんどんアイディアや方法を開放していくべきだと思いますね。
誰でもやりやすくて、知ったその日からできて、どんどん自分のアイディアで変えていける。
こんな療法こそが、当事者の人達を中心にした本物だと言えるのでは。
日本の伝統工芸じゃないけれど、師匠の姿を見て盗み、自分の味が出せる余白がある学び方、伝承の仕方、こっちの方が日本人には合ってると思いますし、私は好きですね。

夏休みは、連日、全国のどこかで研修が行われています。
もちろん、学ぶことは大切なこと。
でも、研修を受けることが目的でも、ゴールでもないんですね、当然、ライセンスを貰うことも。
「ABAが優れている」
「いや、てぃーちが優れている」
なんていう言い争いは、ホント下らないこと。
こういうのは、実践する人には関係ない話(ブ)
これに乗っかって、自分が受けてきた研修のナントカ療法が「優れている」とか声高々に言ったり、とにかく2学期が始まったらやろうとかしたりしてはいけません。

あのね、ナントカ療法を選ぶ権利は、ライセンスを持っている人でも、研修を受けてきた人でもないんです。
ナントカ療法を選ぶ権利があるのは、当事者の人達です。
当事者の人達が「ラクだな」「いいな」「成長できるな」と感じられる療法をやるんです、支援者は。
それが仕事なんですから。
自分たちが常日頃言ってるでしょ、「当事者中心」って。
当事者の人が「なんか違うな」というときに、「こんな方法もあるよ」って、スッと出せるのが支援者が学ぶ意味。
ライセンスというものが、支援者の柔軟性、応用力、そして当事者の人達の療育を選ぶ権利を奪っていないのか?
こんなことを私は思うのです。


2016年8月11日木曜日

山登りをしてコミュニケーションの勉強

山登りをしていると、すれ違う人同士で自然と声が交わされます。
「こんにちは」
「日陰は気持ちいですね」
「もう少しで頂上ですよ」
「頑張ってくださいね」
「あっちにきれいな植物が咲いていましたよ」

山登りする度に、私は思うんです。
これってコミュニケーションの勉強だなって。
コミュニケーションや人と接することが苦手な子も、最初は声を掛けられても、返事はしない、顔も合わせないだったのに、歩を進めていくうちに、すれ違う人の方を見るようになり、声は出なくても軽く会釈をするようになり…下る頃には自分から挨拶するってこともありますね。
有酸素運動で脳の活性化、呼吸が深くなりリラックス、不安定な道を歩くことで足や土台への良い刺激や身体の余分な力が抜けること、身体を通した体験が同じ体験の人への共感を補助、自然な揺らぎがある環境など、様々な理由、効果があるのでしょう。

私には理由を特定することはできませんが、家、部屋、施設で勉強をするよりも、外に出た方がより良い変化が見られるって人がいますね。
以前、家で座って勉強していると、言葉がスムーズに出なかったり、考えるように促しても「わかりません」ばかりだったりする子がいたんです。
で、あるとき、その子と散歩をしました。
そしたら、言葉のたどたどしさが見られないし、考えて行動するし。
だから、その子との勉強は外でやることにしたんです、歩きながら。
苦手だった人間関係の勉強するとき、「相手はどう思っただろう?」「これからはどうしたら良いだろう?」などの問いかけに、しっかり考えて答えるようになったんです。
そして学校でも、その子の行動が変わりました。

この件から外も勉強する場の一つに加わりました。
20代の頃は、がっちり環境調整、がっちり視覚的構造化で、SSTだった私ですが(笑)
もちろん、環境調整が必要な場合はありますが、構造化された環境、構造化された方法じゃないと発達を促せないってことはないですしね。
二次障害を持っている方とか、不登校やひきこもり状態の方とかと一緒に散歩したり、ジョギングしたり…海辺で裸足になって歩きながら話を聞くってこともあります。
これを繰り返していくうちに元気になる方も少なくありません。
特別なことはやっていませんが、相手の方と向き合っていて「ここじゃないな」と感じたときに、「外でやってみない?」と訊いてみるようにしています。


2016年8月9日火曜日

直接かかわるスタッフも「限界です」と堂々と言えば良い

「みなさん、もう限界なんじゃないですか?」
スタッフの方達は、この言葉を待っていたのかもしれません。
そのあと、堰を切ったように自分たちがどのような怖い想いをして勤務しているのか、いっそのこと退所してくれたらと思う、という本心を語ってくれました。

そりゃあ、怖いですよ、自分たちに向かってくる人は。
特に夜間帯は、1人勤務。
他にも入居者さんがいるのに、その人が問題を起こしたら…。
実際に、度々問題を起こすので、宿直者は一晩じゅう緊張しっぱなし。
スタッフの方達は、かなりのストレスだったと思います。

福祉に携わる人間だって、一般の人と同じような感情を持ちます、敢えて言うことではありませんが。
それなのに、そういった感情を表に出すことができなかった。
最初に、相談したところが悪かったのです。
「障害を持った人達は、つらい想いを沢山してきました。だから、まず受け止めましょう」と、成人の生活支援系。
そして次は、「自閉症とは。構造化とは。問題行動が起きるのは、支援が至らないのです」と、発達支援系。
う~ん、選択ミス。
問題が治らないのは、「まだ心に寄り添っていないからだ」と言われ、「またきちんと構造化できていないからだ」と言われ…。
違う畑から来たスタッフは、福祉の中でも発達障害の人たちの支援を中心にしてこなかったスタッフは、「そうかな。自分たちが至らないからだ」と思えてくる。
で、だんだん本音に蓋が覆いかぶさってくる。

自分たちに経験や実績、自信がない人達は、「専門機関」という文字に弱いですね。
確かに自分より知識は持っているかもしれない。
でも、彼らの視界に映るのは、障害を持った人だけです。
直接かかわる現場のスタッフのことなんか考えていないのです。
だって、スタッフの本音を語らせないから。

いつも彼らの主張には矛盾を感じますね。
「障害を持った人の気持ちを受け入れましょう」と言うのなら、直接かかわるスタッフの気持ちも受け入れろって。
当事者の人が「限界」って言ったら、無理させないくせに(ブ)
「支援が至らない」と言うのなら、自分たち押しの支援方法ではなくて、別の支援方法を教えてくれって。
なになにライセンス、家元争いの関係があるって…知ったことかっ!(ブ)
彼らが望む社会というのが、誰かの我慢、犠牲の元に成り立つのだったら、私は全力で阻止します。

グループホームや児童デイ、通所施設など、いろんなところに伺う機会がありますが、こういった話は珍しくはありませんね。
どこにいっても、顔に「限界」という文字が書かれています。
ですから、私はスタッフの顔に書かれている文字を読み上げることから始めます。
福祉に携わる人間は、神様でも、下僕でもありません。
人が人を支援する仕事が福祉だと思います。
そういった当たり前の関係性が認識できたあとに、本当の支援、自分たちができる支援が見えてくるのではないでしょうか。

2016年8月7日日曜日

親御さんにとっても、待ち望んでいた夏休み

7月は扇風機の出番がないくらいの涼しさだったのですが、8月に入った途端、夏らしい夏になりました。
今日は函館でも30度越え。
九州人の私は、30度超えないと夏じゃないよねって感じです。
まだまだ余裕(笑)

函館の子ども達も、短い北海道の夏を楽しんでいるようで、外から元気な声が聞こえます。
夏休み真っ只中ですからね。
私が子どもの頃も、肌も、服も、真っ黒になりながら、外で遊んだ記憶があります。
あと夏休みといえば、思いだすのが母親がいつも言っていたこと。
「他の家では“早く夏休みが終わってくれれば”なんて言うけれど、私はそうは思わない」という言葉です。
私は外で遊んでもいましたが、母親が弟と一緒にあちこち連れていってくれた記憶があります。
今思い返せば、夏休みだからできる体験をさせてくれていたのでしょう。

どうしてこんなことを思いだしたかと言うと、高校生の息子さんを持つお母さんが「私が手をかけられるのは、後3年間しかないので」と言っていたからです。
息子さんは今春から地元を離れ、地方の高等部へと進学しました。
その息子さんが帰ってくる夏休みに、いろんな体験や学びをさせたいということで、一緒に方法や計画をあーだこーだ言いながら考えたのが先月の話です。
そのとき、上記の言葉が聞かれたのです。

息子さんには知的障害もあります。
ですから、小学生の頃から長い期間をかけて「高校を卒業したら働くこと」「高校を卒業したら家から出て、暮らすこと」を丁寧に伝えてきたのでした。
そして、とうとう自分が言っていた“そのとき”が3年後に迫ってきた。
また息子さん自身も、そのつもりで高校での勉強を頑張っている。
だからこそ、「夏休みの期間も、親としてできることを1日も無駄にしないようにしたいんです!」と言っていました。

この夏休みは、“一人での外出”に取り組むことにしました。
近いところから遠いところへ。
歩いていけるところから公共交通機関を使っていくところへ。
遊びメインの外出から、公共施設の利用や生活用品の買い物などに行く外出へ。
長らく問題行動があった男の子だったので、なかなか外での活動、特に単独行動は取り組めずにいたのでした。
ようやく準備が整い、この夏、開始できます。

親御さんは、ご両親で協力しながら、毎日、外出の計画を立て取り組んでいるそうです。
もちろん、暑い中、家事もある中、大変だとは思いますが、「今まで教えたくてもできなかったことができることの喜びの方が大きいです」と連絡がありました。
きっと、この親御さんも「早く夏休みが終わってほしい」「早く学校が始まってほしい」とは言わないはずです。
問題行動で大変だったときも、「いつか落ち着いたら、こんなことを教えたい」と、ずっと心に秘めていたはずなので。


2016年8月6日土曜日

融資詐欺に遭いそうになった自閉症の学生さん

差出人が書かれていない封書が届いたら、「あれっ…」と思いますよね。
ポストに入っていた息子宛に届いた差出人のない封筒を見て、親御さんは嫌な予感がしたそうです。
その嫌な予感は現実のものとなります。
次の日、息子さんの部屋の机の上に、先ほどの封書が封が開いた状態で無造作に置かれていました。
横には手紙も一緒に。
折れ曲がった手紙の隙間から見えた文字に、親御さんは血の気が引きます。
「ご融資に関する審査が通りました」という赤色で書かれた文字に…。

帰宅した息子さんに、「お金が足りなくて困っていないか」「お金を借りたりしていないか」などと、訊いたそうです。
でも、返事は「困っていない」「借りていない」と一点張り。
夜も遅かったので、そのまま翌日を迎えたのでした。

翌日は運の悪いことに(?)、私の訪問日。
家の扉を開けると、別室に通され、親御さんから、かくかくしかじかと説明を受けました。
メモしていたという手紙に記されていた携帯の番号をネットで検索。
被害にあった人のサイトがひっかかり、闇金業者と判明。
予定していた勉強の内容は、急遽、差し替え決定で、ここから、長い話し合いが始まるのでした。

昨晩の親御さんからの投げかけに、マズイと察したのでしょう。
当然、私が尋ねても、「知らない」「わからない」の連続です。
いやいや、眼が泳いでるし、多弁になってるし、耳が真っ赤だし、話の辻褄があっていないよ、と心の中で思いましたが、そこは我慢我慢。
本人が言いたくないのならと、「学生を狙った詐欺が流行っているから、それについて勉強しよう」と、いつものような流れへと進めました。

「差出人が書かれていない封筒が来たら、どう思う?」という質問に、「差出人を書き忘れたかもしれない」「封筒の中に、差出人が書かれているかもしれない」という答え。
知人同士の手紙だったら、差出人の書き忘れはあるかもしれないけれど、企業だったらあり得ない話。
一般的に企業は何らかのやりとりをしたいために手紙を送るはずだから、自分たちの連絡先を書かないわけがない。
差出人が書いていないのなら、知られたくない理由があると想像する必要があるし、もし詐欺ではない企業であっても、差出人を書き忘れるような企業だったら、信頼できない企業でしょ、と説明。
すると、「封筒を見て、そんな風には思わなかったです」と驚いたように言うので、「じゃあ、差出人が書かれていない封筒があったら、見せてね」と私は言いました。
一瞬、間ができたあと、ごそごそと机の中から例の封筒と手紙を出してきて見せてくれました。

実際の手紙は、A4サイズでパソコン書き1枚。
見た瞬間、「これは詐欺」というような文面でしたね、というか日本語もおかしいし。
とにかく「審査に通った」「融資決定」ということと、今後、どうしたら良いかの説明、そして最後には「担当:渡辺」という文字と連絡先の携帯の番号。
「この文面見て、怪しいと思わなかったの?」と尋ねましたが、ピンときていなかった様子だったので、1つずつツッコミを入れて手紙を読んでいきました。
「企業の住所書いていないでしょ、というか企業の名前すら書いてないし」
「渡辺って苗字だけはおかしいでしょ、渡辺って誰、偽名じゃない?」
「キャンペーン中で、学生の皆さまは、特別低金利って、具体的な数字書いていないでしょ」などなど。
「封筒の消印が“東京都葛飾区”ってなってるけど、ここ見た?」
「書かれている携帯電話の番号、ネットで検索してみた?」
と尋ねても、「見てませんでした」と言い、「心当たりがないので、書いてある電話番号に掛けて訊いてみようかなと思ってました」と言うので、危ないところでした(冷や汗もプラス)。

本人が言うには、以前、街を歩いていたら、「お金困っていませんか?」「融資受けませんか?」と、若い男の人から話しかけられたそうです。
断っても、断っても、ついてくるので、「じゃあ、アンケートだけでもお願い」という言葉に乗っかり、アンケートに答えてしまったそうです。
多分、こっちのアンケート記入が目的だったのでしょう、その若い男性は。
そこには大学名、住所なども書く欄があり、あまり考えずそのまま書いてしまったということでした。
それじゃあ、怪しい手紙がくるわけです。

最後に、アンケートにむやみやたらに答えないことと、最初に個人情報の記入が求められる欄が確認すること(普通のアンケートでは個人が特定されるような情報を訊かれたりはしない)を説明し、またもし闇金を借りてしまったら、どういったことが起きるか、リスクがあるかを一緒に考えました。
自分だけの問題ではなく、親や兄弟まで影響があること、奨学金の融資とは違うことに気が付いたようでした。
近頃、学生を狙った融資の詐欺が流行っているそうで、大学でも注意喚起がなされていたり、友人でも詐欺に遭った人がいたそうです。
でも、友人はネットを使った詐欺だったし、自分は詐欺に遭っている自覚がなかったから、ということでした。
確かに詐欺っぽくない詐欺を想像するのは、彼には難しかったかもしれません。
注意喚起はされても、詐欺という存在は知っていても、具体的な詐欺までは知りませんでした。
「経験して分かる」ということもあるかもしれませんが、詐欺は経験して…なんて言ってられませんね。
親御さんが「発達障害の学生さんが息子みたいな目に遭わないように」ということで、ブログに書きました。
誘惑の多い夏休み、特に一人暮らしの学生さんはお気を付けください。
また注意喚起するときは「詐欺に注意」だけではなく、もっと具体的な話をしていただければと思います。

2016年8月1日月曜日

“敵”の存在が必要な支援者

都知事選の圧勝は、「敵を作るのがうまかった」と解説している人がいました。
当選した小池氏も、敵がいることをパワーに変える人らしいです。
まあ、都民ではない我々から見れば、他の有力(?)候補の自爆が大きかったと客観的には思いますが。

先日、この“敵”に関連して面白い話を聞きました。
障害を持った人達を支援している人の中には、自分から見て「立場の弱い人」「困っている人」「かわいそうな人」を支援することにより、満たされていない自分の気持ちを埋めようとしている人がいるように感じます。
特に「自分が必要とされている感」を求めてってやつですね。
いつも障害を持った人達を自分の周りに集めて、「私って必要とされているよね」って確認している支援者。
私が嫌いなタイプの支援者なんですが、この人には「立場の弱い人」「困っている人」「かわいそうな人」以外にも必要なものがあるそうなんです。
それは“敵”。
「立場の弱い人」「困っている人」「かわいそうな人」をいじめる存在です。

自分が必要とされている感を得たいのなら、こういった人達をただ支援していればよいと思うのですが、話をしてくれた人は「それでは足りない」と言います。
「自分が必要とされている感」を求めている人は、自分より恵まれている人、幸せな人には興味がありません。
つまり、自分が支援している人には、無意識に「幸せになってほしくない」「不幸のままでいてほしい」という気持ちがあるそうです、もちろん、口ではそうは言いませんが。
かわいそうな人をかわいそうなままの存在にしてくれる“敵”が必要なんですね。

自分が支援している人を不幸のままにしてくれる“敵”の存在。
自分と自分が支援している人にとって強い結びつきをもたらしてくれる共通の“敵”の存在。
「〇〇ってヤツは、本当に悪いヤツだ。だから、〇〇に負けないよう一緒に頑張ろう」っていうのですね。
思い返してみれば、「自分が必要とされている感」を求めて支援している人って、いつまで経っても本人たちが自立していかないんですよ。
私は、例え「自分が必要とされている感」を求めての支援だったとしても、それが原動力になり、本人たちが成長し、自立していけば良いと考えていたんですがね。
そもそも深層心理では「自分から自立してほしくない」と思っているのでは、成長&自立していかないのは当然の結果でしょう。

自立させない、成長させない、治さない支援者って、当たり屋みたいに誰かのことを飽きずにブーブー言ってますが、それって自分たちに必要な“敵”を作っていた行動だったんですね。
「自分の支援を棚に上げるうるさい存在」と思っていましたが、「自分の支援を棚に上げる」人だからこそ、うるさく悪口を言う存在が必要だったんですね。
自分の至らなさを隠すために、敵を作り、悪口を言っている人もいますが、中には「自分が必要とされている感」を得るために、わざわざ敵を作り、悪口を言っている人もいる。
そんな今まで想像できなかった世界をある方から勉強させていただきました。
こういった支援者を見て、「他人の悪口を言っていないで、その分のエネルギーをあなたが支援している人達の成長と自立のために使いなよ」と思っていましたが、ようやく彼らの不思議な言動を理解することができたのでした。