投稿

9月, 2016の投稿を表示しています

必要な人が安心して医療、福祉サービスを利用できる社会!

昨日、フリーアナウンサー長谷川豊氏が、出演していた番組から降板するという発表がありました。 そのきっかけとなったのは、人工透析に関するブログです。 その表現が報道キャスターとして不適切だったという理由での降板でした。 私も問題になったブログを読みました。 最初に見た瞬間から、不適切な表現があったのはわかりましたし、相当な批判を受けるというのも想像できました。 もしかしたら、本質ではない部分が切り取られて、それこそ炎上するのでは、とも思いました。 本人が言うように「番組降板まで」想像できなかったとは思いますが、多くの批判を受けるのを分かった上で発信であり、相当な覚悟があったのだと思いました。 ちなみに、ある程度の年数が経っても、誰からも批判されない、敵と呼べる人がいないというのは、信念のない働き方をしてきた証拠だと考えています。 本人が意図しなかったとはいえ、誰かを傷つけたり、不快な思いをさせてはいけませんし、それに伴う責任はしっかりとらなければいけないと思います。 でも、このブログを読んだとき、私の中に想いを同じくする部分があったのは事実です。 それは「このままいったら、本当に必要な人が利用できなくなる」「弱い立場の人間が切られていくのを止めなければならない」という点です。 長谷川氏はひっ迫する国民医療費についてでしたが、私は障害者福祉について、特に施設で働いていた頃のことを思いだしました。 施設で働いていた頃、身体的には辛かったですが、精神的にはそこまで辛くなかったんです。 それはどういうことかと言いますと、行動障害を持った人の支援に関して感じていたことなのです。 そりゃあ、行動障害と呼ばれるくらいですから、しんどかったですよ。 さらにそれよりも困難さを抱えている“強度”行動障害の人の支援は、危険な思いも、相当なストレスも、しょっちゅう味わっていました。 それでも、そういった人達の支援をしているとき、「自分たちが支援を頑張らなくてどうするんだ!」という思いがあったのです。 「今まで家でどうやって過ごしていたんだろう…」 「このまま家にいたら、家族ともども崩壊してしまっただろう…」 「ここで改善がみられなければ、それこそ、行く場所がなくなってしまう…」 行動障害の有無に関わらず、こういった思いが浮かんでしまう人

本来は、どういった人物なのだろう

学生時代、ボランティアで関わっていた子の親御さんが、こんな話をしてくれました。 「私、朝起きたら、この子がしゃべれるようになって、普通の子になってる夢を見るんだ」って。 そして、この前はこんなことをした、今日はこんなことを言った、などと話をしてくれました。 この親御さんが語る夢の話には悲壮感ではなく、明るさ、楽しみ、我が子への愛情が漂っていました。 この親御さんとの会話をきっかけに、「この子がしゃべれるようになったら、どんなことを言うだろうか?」「もし知的障害がなかったとしたら、どういった仕事をするだろうか?」などを想像するようになりました。 ボランティアで関わっていた子の他の親御さんとも、「たぶん、こんな部活動してたんじゃないかな」「どちらかというと文系の大学かな」「この子、おじいちゃん子だから、介護系の仕事を目指したかもね」「私は勉強も、学校も、嫌いだったから、すぐに就職したんじゃない」などと、一緒に話をして盛り上がることがありました。 みなさん、親の希望や願い、夢よりも、目の前にいる子どもの姿から始まる連想を語ってくれたのが印象深く残っています。 親御さんの語る子どもの姿には、目の前にいる子との重なり、リアリティをいつも感じていました。 施設職員になったあとも、このように「知的障害がなかったら…」「行動障害がなかったら…」「もししゃべれるようになったら…」と、どんな大人になるのかな、どんな人生を歩むんだろうか、どんなことを言うだろうか、など頭の中で想像しながら、日々、支援していました。 サッカー部に入っていただろうと思う子とは、サッカーをして遊んだりしました。 ペットを飼っていただろうと思う子とは、ペットショップに行って、犬や猫を見て過ごしたりしました。 明るい曲が好きそうだな、女の人の歌声が好きそうだな、と思う子には、そのような音楽を用意して聴いてもらったこともありました。 あのときのように、自分が想像した姿にリアリティが感じられると、支援が良い方向へと流れていっていました。 なんでこのようなことを思いだしたかと言いますと、この前、久しぶりに会った親御さんから「4年前に言ってた通りになりました!」と言われたからです。 この親御さんのお子さんが、まだ学校に通っていた頃、進路の話になったんです。 そのとき、私はもし知的障

「二次障害を防ぐ支援」という言葉の持つ違和感

以前は憤りを感じていましたが、今では悲しく感じるようになりましたね。 「適切な支援を受けなければ、二次障害になりますよ~」 「周囲の無理解が、二次障害へとつながりますよ~」 という支援者の言葉。 こういった脅しをしなければ、人を集められない支援者、事業所の力量に悲しみを感じます。 まあ、お金を出して載せている広告なのですから、私がどうのこうの言う立場ではないんでしょうが…。 改めて「二次障害にならないための支援」「二次障害を防ぐ支援」って何なのでしょうか。 私の中では、どうしても二次障害を“防ぐ”と“支援”が結びつきません。 私達が行う支援って、その人の発達を加速させるためのお手伝いというイメージです。 支援には後押しするという力強さがあり、動きを感じます。 でも、“防ぐ”っていう文字からは動きを感じず、その場に留めるというイメージが表れます。 ですから、二次障害を防ぐ支援って、動きを止めちゃうような、役割を打ち消すような、で違和感を感じます。 「二次障害にならないために、うちの支援を受けにおいで」と言うのは、子どものための言葉ではない気がします。 (そもそも商売のテクニックとしても、方向性を間違えている気が…) 子どもには動きがあります。 成長を追い求める動きです。 揺らぎやもがきが試行錯誤へとつながり、試行錯誤が成長へとつながります。 「揺らがなくても良いよ」「もがかなくても良いよ」というのは、優しい言葉のようで残酷な言葉です。 子どもの動きを制止する言葉であり、「成長しなくても良いよ」と言っているようなものですから。 伸び伸びと動きたいのが、子どもです。 伸びやかさがなくなると、子どもらしさがなくなります。 ですから、伸び伸びと動けるように、環境を整え、後押しするのが大人の役目ですし、子ども自身もそれを求めています。 決して子どもの上に覆いかぶさって、子どもの周りに囲いを作ってはいけません。 それこそ、心身が不健康な方へと向かってしまいますので。 動きたいのに、試行錯誤したいのに、成長したいのに、それが阻まれるから病んでいくのだと思います。 「二次障害を防ぐ支援をすると、二次障害になる」というブラックジョークが浮かんでしまいます。 支援という言葉には動きを感じますので、伸びる、学ぶ、身に付ける

支援には“引き算”が馴染む

子どもの頃、私は足し算より、引き算の方が好きでした。 引き算をしていると、スッキリしていたのを覚えています。 足し算は何だか窮屈な印象で、引き算はどんどん自由になっていく気がしていました。 足し算が窮屈に感じるのは、教わるときも同じです。 教師や大人、子ども同士でも、「知識や技能を教えてやろう」「お前に足してやろう」という雰囲気を感じると窮屈さを感じ、私は避けたり、反発したりしていました。 反対に、停滞の原因となっているものだけをそっと取り除き、「あとは勝手に伸びてきな」という雰囲気の教え方をされると、心地良さを感じ、やる気が出ていました。 足すことに窮屈さを感じ、引くことに自由を感じるのは、今の私にも続いています。 私の支援の基本は、引き算です。 本人と向き合ったとき、その人から何を引いたら、自由になれるかを考えます。 例えば、睡眠障害を引いたら、自由になれるのではないか? 社会に対する恐怖感を引いたら、自由になれるのではないか? 「どうせ自分は障害者だし」という言葉から“どうせ”を引いたら、自由になれるのではないか? 何がその人の可能性、伸びる力に待ったをかけているのか、その障害を取り除くことを考えます。 「この発達課題がクリアできれば、自分自身で伸び伸びと成長していけるな、問題を解決していけるな」と思うと、嬉しくなります。 知識や技能を足そうとする支援を見ると、嫌悪感を懐きます。 なんだか「あなたには足りないから、足してあげる」というような傲慢さを感じますし、主導権が支援者にあるようで、その人が自由に伸びていかない感じがします。 そして何よりも、その人自身が持っている伸びる力、回復する力、より良く変わっていこうとする力の存在を信じていないような気がして反発心を覚えます。 「1から10まで教えていく、手助けしていく」というのは、発達障害の人たちの支援に馴染まないような気がしています。 抜けている、飛ばしている発達課題をクリアする。 生活の支障となっている感覚や体調の問題をクリアする。 彼らの行く手を阻む障害をクリアにし、自由に羽ばたいてもらうための援助活動とイメージすると、私の中ではスッキリするのです。

宗教と自閉症

以前から、自閉症の人の中にいる「宗教にハマる人」「熱心な信者になる人」の存在に気が付いていました。 別に、自閉症の人の中に特定の宗教を信じる人がいてもおかしいことではありません。 でも、その人達の様子を見ていると、一般の信者とは信仰の仕方に違いがあるように感じます。 「生き方の指標」として宗教を求めている、という点は同じなのでしょうが、そこに主体性が感じられないのです。 「宗教と自閉症の人」という文字を思い浮かべると、「指示と自閉症の人」と連想されました。 自閉症の人が宗教にハマりやすく、熱心な信者になるのは、そこに明確な指示があるからでは、と想像します。 「〇〇を食べてはいけない。〇〇をしてはならない」 「毎週、礼拝しなさい。そうすれば、幸せになれるでしょう」 「あなたが不幸なのは前世の因縁。この壺を買えば、それを振り払えます」 やるべきことが、とってもわかりやすい。 余計なことを考えなくても済むし、「幸せ」など、抽象的な概念が具体化されている。 ですから、自閉症の人と言いますか、自閉脳と相性が良い気がします。 定型発達の人が心の迷いで宗教を求めている一方、自閉症の人が脳の迷いから宗教を求めているように感じることもあります。 自閉症の人と向き合っているとき、「信じるものは救われる」の眼差しを感じることがあります。 「どうすれば良いですか?」「どれを選べば良いですか?」「まず何からしたら良いですか?」 こんなとき、私が「A」と言えば、Aの方向へと突き進んでしまう怖さを感じます。 ですから、こんなときは予定を変更し、心身を整える活動と情報の整理を行います。 外から見れば、「何で、あの支援者の言うことを信じているんだ!?」と思うことがあります。 現実が求めている方向へと変わっていかなくとも、「〇〇さんの言っていることは絶対です!」と信じてやまない人がいます。 その人の主張を聞けば、どの支援者から支援されているかがわかることがあります。 現実が変わらないのは、言っていることが合っていないか、自分自身が変わっていないかのどちらかです。 自分たちの外側に存在しない原因を見ようとするのは、お金の匂いがする宗教のようです。 「社会の理解ガー」には、同じ匂いがします。 親御さんの中にも、同じような雰囲気を感じることがあり

ツッコミ力を養う

元都知事が「聞いていません。僕は騙された」という姿を見て、「そうか、知らされてなかったのか。こりゃあ、都の職員はろくなもんじゃない!」と思う人は、生きづらさを抱えているかもしれません。 都議団が地下に入り、「うわ~~~、真っ青になりましたぁ~」という姿を見て、「問題を追及して暮れている。頑張れ、都議団!」と思う人も、生きづらさを抱えるかもしれません。 だって、いくらなんでも、都知事の判子なしに物事なんて進められないと思いますよ。 あれだけの事業なんですから、資料に目を通したことも、報告を受けたこともないって言うのは、責任逃れするための発言だったとしても、さすがに無理があるでしょ、と思いましたね。 あと都議団がせっせと大勢のマスコミを引き連れて地下に入っていってますがね、今更何をしてるのさって感じです。 この問題が明るみになるまで、どの都議も移転予定の豊洲市場に視察に行っていないのかな?? 江東区選出の議員さんだっているはずですし、予算も莫大なのですから、まったく議論にも上がっていない、資料も見ていない、視察もしていない、なんてことはないはずですね。 地下空間の視察は当たり前のことをしているのであって、むしろ今までしてなかった方が問題ですし、していたのに、知っていたのに、スルーしていたのに、だったら大問題です。 文章にすると、これくらいの量になりますが、事実は別にして、こういった想像が瞬時にできるか、できないかでは、その人の実生活に違いが出てくるように思います。 支援者は、様々なビジネストークをします。 「支援があれば、大丈夫」「生涯に渡る支援」「あなたが悪いのではなく、社会が悪い」など。 でも、支援者だって労働者ですし、家庭や自分の生活もありますので、生涯にわたって支援はできませんね。 定年だってあるんですし、福祉の離職率を考えれば、1年同じ人なら良いくらいなんですから。 トラブルだって、周囲が理解してくれなくて起きるトラブルと、本人側の問題で起きるトラブルとでは、どっちが多いですかね? というか、本当に自分自身に改善すべきことってないの? 社会が悪いって、どう悪いの? その同じ社会の中で、自立して幸せな人生を送っている人っていないの? そもそも支援者が言うことがすべて正しいの?そんなに力があるの? こんな風に考えることが

エネルギーのバランスをどうとっていくか?

お子さんの進路、将来について相談を受けました。 軽作業のような仕事と、体力を使うような仕事のどちらが適していると思うか? グループホームを見学に行く際、選ぶ際、息子の場合、どういったポイントを確認したらよいか? 大きく分けて、この2点が相談の中心となりました。 相談を受けている途中、ふと施設で働いていたときのある成人の利用者さんの顔が思い浮かんだんですね。 私の原点は入所施設の職員ですので、あのときの雰囲気に頭の中が包まれていたのだと思います。 その成人の利用者さんは、周期的と言いますか、定期的と言いますか、職員に向かってくるんです。 パンチとか、キックとか、噛みつきとかじゃなくて、職員を掴んで、とにかく押してくるんですね。 身長も大きいですし、身体もガッシリ系の人だったので、結構、大変でしたよ。 私も何度も対応しました。 で、ここでコツがあって、すぐに押しきられたり、逃げたりしてはいけないんです。 すぐに押しきられたり、逃げたりすると、何度も何度も向かってくるんです。 また職員に向かえなかったら、破壊行為が始めるんですね。 ある程度の時間、しっかり対応すると、スッと落ち着いて、晴れやかな顔をして元の生活に戻るんです。 この利用者さんは、日中、軽作業をしていました。 とっても仕事は丁寧なんですね、最後までペースは乱れませんし。 で、だいたい上記のような行動が起きるのは、寮にいるときなんですね、それも突然スイッチが入ったように。 となると、「仕事での我慢やストレスの爆発?」「寮でやることが明確じゃない?」「直前に注意されたり、制止されたり、要求が通らなかったりして?」「作業と寮の職員の対応が違う?」というようなことが思い浮かびますよね。 当然、ケース会議でも、そのような話は出ました。 でも、私は違うような気がしたんですね。 もっと根本的で、シンプルな理由じゃないのかなって思ったんです。 知的障害がとても重いっていうのもありますし、日頃、寝食を共にしていての雰囲気とでも言いますか…。 そんな風に考えていたら、“定期的”というのと、“対応されると落ち着く”というのと、“晴れやかな顔”っていうのが繋がったんですね。 きっとエネルギーバランスを調整していたんだなって。 つまり、自分の中に溜まっていたエネルギー、行き場

人当たりの良いヤブ医者が一番儲かるのと、ギョーカイの仕組みは同じって知ってましたよね??

昨日のブログを書いていて、ふと思ったのですが、もしかしたらギョーカイの仕組み自体をご存じない方がいるのかもしれませんね。 それだと、「支援者は一生懸命支援してくれる」「支援者は自立のために手助けしてくれる」「支援者は当事者のことを一番に考えてくれる」なんて本気で思う人がいてもおかしくはないですね。 いや、確かにいるんですよ、支援者の中にこのような人たちは。 でも、それは“支援者”だから、ではないんですよ。 それは、その“人”が一生懸命な人だから、志のある人だから、プロフェッショナルだから、なんです。 私の言っている意味は、以下の文章を読めば理解していただけると思います。 堤未果氏の新刊「政府はもう嘘をつけない」(角川新書)の帯に書かれていましたね。 「お金の流れで世界を見抜け!」って。 ギョーカイもお金の流れを読み解けば、その仕組み、成り立ちが見えてきます。 ギョーカイのお金ってどこから得ているのでしょうか? 利用者負担とか言われていますが、そのほとんどは税金ですね。 まあ、ライセンスビジネスとか、検査だけで〇万円ってところもありますが、それは民間会社の話です。 ちなみに、福祉サービスを使っていると、あまりお金がかかっていないような気がするかもしれませんが、実際、同じ業務を民間が100%利用者負担で、ってなったら、上記の民間会社のような利用料がかかるのですよ。 「タダだからイイや」って雑談をしに、相談機関に行ってはいけません。 ギョーカイの財布の中身の大部分は、税金です。 ということは、その税金が適切に使われているかを評価するのは、“行政”の仕事になります、“利用者”ではないのですよ。 税金が少しでも入ると、作成すべき書類が膨大になるのは、お役所の仕組みだからですね。 個別支援計画がどうだとか、施設の建物、人員が要件を満たしているかどうだとか、適切にお金が使われているかどうだとか、いろいろ行政に提出しなければいけません。 で、ここがミソです。 もし自分が行政の人間で、相談機関でも、児童デイでも、通所、入所施設でも、その機関を評価しなければいけないとなったら、どうしますか? 1つの機関から、膨大な報告書が届くのですよ。 1つ1つ丁寧に見ますか? もちろん、紙面上の部分は、きちんと精査し、評価はできると思いますし、

学校には行かないけれど、児童デイには行きます

学校には行かないけれど、児童デイには行く。 このような子ども達の姿が珍しくなくなったと聞き、ガックリきましたね。 これで良しとする大人がいるという証拠ですから。 学校って不登校の“数”を減らしたいんですね。 教育委員会がうるさいですし、管理職は気になる数字ですし。 ですから、個別のアプローチをして何とか登校できるように促します。 でも、時間と労力がかかりますし、結果が伴わないことが多々あります。 そこで学校は通院を勧めるんですね。 だって、診断名が付けば、病欠扱いにできるから。 これが一昔前の手でした。 しかし、近頃では、病名ではなく、発達障害の診断を受けるように促すという新手が現れたんですね。 とにかく学校側は、「発達の遅れがあるかもしれません」「一度受診を」と言うんです。 親御さんは不登校で悩んでいる中、さらに「発達障害」と言われれば、びっくりしますよね。 それで、急いで病院へと向かいます。 病院に行けば、ほとんどの場合、ちゃんと発達障害の診断が出ます。 だって、ハナから学校が勧める病院は、発達障害が増えて欲しい系の病院だから。 発達障害の診断名がつけば、次に勧めるのは相談機関。 相談機関は、相談1回ごとに報告書の実数が増えて、万々歳です。 そして、児童デイという存在を伝え、手続きの仕方も丁寧に教えます。 で、自分のところと仲良しこよしの児童デイを勧めて、はいっ、完了。 仲良しこよしの児童デイさんは、コンサルテーションを頼んでくれますからね。 ここでも実数1ゲット! いや、年に数回、支援ミーティングがあるから、その分、増えていきますね。 児童デイも、自己努力しなくても、お客さんが定期的にいらっしゃるので、こちらもOKです。 学校側も、「特別なニーズのある子」となれば、そこまで不登校に過敏になる必要はなくなりますね。 ギョーカイ連中も、「お母さん、児童デイは療育をやるんですよ」「児童デイに通えているだけでも、〇〇くんはとっても頑張っています」なんてお決まりのセリフを言えば、親御さんの心配は別のことへと逸れていきます。 これで、みんなが丸く納まりますね、本人以外は。 「学校行かないけれど、児童デイには元気に通ってます」と言われて、「それはよかったね、お母さん」じゃねーよ、学校、病院、相談機関、児童デイ!

「とりあえずビール」みたいな「とりあえず特学」という掛け声

「学校の授業についていけなくなって…」 「じゃあ、特別支援学級ですね」 「クラスの友達とトラブルが絶え…」 「じゃあ、特別支援学級ですね」 「学校を休みがちで、不登…」 「じゃあ、特別支援学級ですね」 こんな話を聞くたびに、飲み会の「とりあえずビール」を連想してしまいます。 なんかあると、「とりあえず特学へ」って。 その学級でやること、やれることはないの?? 一昔前の「特殊学級」から名称も変わり、勧める方も気持ちの上でのハードルが下がったような気もします。 同級生がたくさんいる教室では授業に集中できない。 教室内の刺激が多すぎて、それだけで疲弊してしまう。 一斉授業では、先生の言ってることがわからない。 だから、特別支援学級で学んだ方が良い、というのなら分かります。 「子どものより良い学び」と「将来の可能性の広がり」という核の上に、大人の事情が覆いかぶさるから嫌悪感につながるのです。 あと1人在籍数が増えれば、臨時の教員、補助員を雇える…っていうのは、学校の都合です。 通級より特学の方が入りこみやすい…っていうのはギョーカイの都合です。 担任の先生が「できれば特学に」って思うのは…わからなくもないです。 実際に仕事として通常学級の担任はしたことがありませんが、学生時代、2回、2ヶ月ほど、教育実習で入りました。 正直、40人学級の中での一人に個別対応は難しいです。 「一人の子に合った教育を」と思えば、残りの39人が…、「39人を中心に」と思えば、その一人の子が…ってことになります。 でもだからこそ、特別支援コーディネーターなんでしょうが、実力以外のところで担当が決まっていたり、反対に実力で決まっていても、「自分より年数の若い教師の言うことなんか聞かね~」という態度の教員がいたり、「不登校も、家庭のトラブルも、全部コーディネーターに渡しちゃえ」って手一杯にさせちゃったりするから、結局、担任は孤立するし、「できれば特学へ」って思っちゃうのでしょう。 とにかく人員の確保とか、行政に提出する実績数の確保とか、連携がうまくいかないとかは大人の都合だと思いますね。 あと許せないのが、現在、特別支援学級で学んでいる子達の学びをないがしろにしている感があること。 1人仲間が増えて、それですぐに先生が増えたり、クラスが増えたりす

雰囲気を察した子、雰囲気を察してほしかった子

「みんなから“バカ”って言われる」 私からの質問に、頷くか、首を横に振るかだった子が、唯一、はっきり言った言葉でした。 この言葉には、この子の思いがギュッと詰まっていたんだと感じましたね。 だから、私はすぐにこう伝えました。 「みんなから“バカ”って言われて悔しいんだよね。本当は勉強頑張りたいんだよね。おじちゃんに任せて。〇〇ちゃんが学校でちゃんと勉強できるようになるための方法を知っているから、一緒にトレーニングしようね」と。 その子は、泣きながら何度も頷いていました。 小学生くらいの子ども達って残酷な面もあるし、大人の空気を察しちゃうところもありますね。 授業中、間違った答えを言ったり、テストの点数が悪かったりすると、すぐにバカだ、バカだと言いますし、大人たちの雰囲気を察し、「〇〇学級(支援級)に行けよ」なんてことも言っちゃいます。 実際に、この子も在籍クラスで同様の目に遭っていました。 担任の先生も、その子と話をしたそうです。 そして、その子から出た言葉が冒頭の言葉。 それを聞いた先生は、「それなら〇〇学級(支援級)で勉強してみたら」とその子に言い、親御さんにも言ったのでした。 同様の反応をしたのは、学校の先生だけではありませんでした。 どこに行っても、この子は「みんなから“バカ”って言われる」と言いました。 すると、医師も、相談員も、療法士も、みんな、特別支援学級を勧めました。 「このまま、辛い思いをさせてると、(でました!)二次障害になりますよ」 「授業についていけていないんだから、通常級は無理でしょ」 「将来を不安に思っているかもしれませんが、福祉がありますから」 この支援者たちのコメントを聞いて、私は違和感を持ちました。 どうして、この子のメッセージの奥にある気持ちを汲み取ろうとしないのかな? どうして、この子がかわいそう、だから、その場から別の場所へ、なのかな? どうして、誰一人、その学級で勉強できるように手伝うよと言ってあげられなかったのかな? せめて、この子が今の学級で勉強したいという思いを察し、汲んでほしかった…なんて思うのです。 確かにあまり話をするのが得意ではない子です。 特に家以外で話をするときには、余計にしゃべれなくなります。 でも、この子が言った「みんなから“バカ”って言われる

障害者として見て欲しいの?障害者として見て欲しくないの?

一般の人達に受けが悪いのが、一部の発達障害の人が言う「私は見えない障害ですから」って主張。 「できそうに見えても、できなくて困っていることがあるんです」 「怠けているわけではないんです。支援が必要なんです」 と言われると、一般の人はそうかと思い、大目に見たり、手伝ったりしようとします。 でも、その一方で「あまり仕事をさせてくれない」「障害者枠ではなく、一般の人と同じように働きたい」「なんでも手を貸して、私を障害者扱いする」って言う人もいます。 ある企業の方が言ってました。 「障害があって大変なのだろうと思うのですが、どうしても都合が悪いときに“障害”って言葉を使っているように見えるんです」と。 雇う側は、その人に期待する仕事の種類、量、質があります。 期待に応えるために「こんな配慮があれば」と言うのなら分かりますが、「障害があるから応えられません」というのは受け入れづらい主張になりますね。 以前、私が関わっていた人で、周囲に障害のことを伝えず、一般の人として働いている人達がいます。 その中の一人の若者は、「私のこと、誰も障害者として扱わないのが嬉しい」と言っていました。 また、ほかの若者は、「苦手な仕事もあるけれど、同じお給料を貰っているのだから頑張る」と言っていました。 高校時代から関わっていた学生さんは、大学に入学する際、「障害のことは言わず、一人の学生として大学に行きます」と言って進学しました。 彼らの話を聞いていると、障害者としてではなく、一人の人間として成長し、社会に羽ばたいていくことを望んでいるのだと感じます。 発達障害は、発達しない障害ではありません。 ですから、私は彼らの持つ障害は、改善させる対象であり、治す対象であると考えています。 そのための発達援助こそが、支援者の求める支援ではなく、本人たちが求める支援だと思っています。 こういうことを言うと、当事者の人の中には障害がなくなることに拒絶反応を見せる人がいます。 でも、それって「一人の人間として勝負するのが怖いよ~」「できない理由の一つがなくなるのが嫌だよ~」とも見えるのです。 別に困難が改善し、障害が治ったと言える状態になったとしても、それまでの努力や頑張りはなくならないと思うんです。 周囲から「障害持っているように見えないね」って言われても、それ

自殺しようとする子がいたら…

まずは、大きな声で「バカ野郎!!」と言いますね。 「自殺なんか考えてるんじゃねー!」 「ふざけるのも良い加減にしろ!」 とにかく本気で怒るのが先だと思いますね。 今日、9月1日は子どもの自殺が最も多い日だと言われています。 ですから、いろんな人達が、そういった子どもに語り掛けます。 「辛いんだね。無理して学校に行く必要がないよ」 「私もずっと学校に行きたくなかった。学校に行かない選択肢だってある」 「学校がすべてじゃないんだ。学校に行かなくたって、生きていける」 「親御さんは子どもの変化に気が付き、登校のプレッシャーをかけないように」 などなど。 こういったメッセージを見るたびに思うんですが、これって自分が子どものときに掛けてもらいたかった言葉ですよね、ほとんどが。 これって今まさに自殺を考えている子に向けられるメッセージのはずですよね。 だったら、大人の役割として、まずやることは共感じゃないでしょ。 責任ある大人がやることは、「自殺なんてバカなこと考えるんじゃない!」という怒りのメッセージを伝えることではないかって思うんです。 そんな考えを持つこと自体を否定しなきゃだめでしょ、特に相手がまだ成長途中の子どもなんだから。 親御さんから「うちの子が、自殺しようとして」とか電話が来ることもあります。 あとから切った手首を見せてくる(敢えて言いますが)バカもいますし、何かあると「もう自殺しかない」とか言ってくるバカもいます。 そんな若者たちを目の前にしたら、私は心の底から「バカ野郎」って言いますよ。 そこに至るまでの挫折や辛さはあるでしょうが、それよりも伝えるのは「自殺は絶対ダメ」「そんな選択は許さない」っていうメッセージだと思うんです。 衝動的に行動した人もいれば、本気の決意をもって行動した人もいます。 だから、私は、というか責任ある大人は、本気で自殺を否定しなきゃいけないと思います。 共感や問題の解決は、あとからでもできます。 でも、自殺の否定をやっておかなければ、再び何かあったときに試みる危険性があります。 また、こうすれば周囲をコントロールすることができるというような誤学習、誤認識を生む危険性もあります。 実際、本気で自殺する気がないのに、繰り返す若者もいますので。 世界を見渡せば、生きたくても生きられ