2016年9月30日金曜日

必要な人が安心して医療、福祉サービスを利用できる社会!

昨日、フリーアナウンサー長谷川豊氏が、出演していた番組から降板するという発表がありました。
そのきっかけとなったのは、人工透析に関するブログです。
その表現が報道キャスターとして不適切だったという理由での降板でした。


私も問題になったブログを読みました。
最初に見た瞬間から、不適切な表現があったのはわかりましたし、相当な批判を受けるというのも想像できました。
もしかしたら、本質ではない部分が切り取られて、それこそ炎上するのでは、とも思いました。
本人が言うように「番組降板まで」想像できなかったとは思いますが、多くの批判を受けるのを分かった上で発信であり、相当な覚悟があったのだと思いました。
ちなみに、ある程度の年数が経っても、誰からも批判されない、敵と呼べる人がいないというのは、信念のない働き方をしてきた証拠だと考えています。


本人が意図しなかったとはいえ、誰かを傷つけたり、不快な思いをさせてはいけませんし、それに伴う責任はしっかりとらなければいけないと思います。
でも、このブログを読んだとき、私の中に想いを同じくする部分があったのは事実です。
それは「このままいったら、本当に必要な人が利用できなくなる」「弱い立場の人間が切られていくのを止めなければならない」という点です。
長谷川氏はひっ迫する国民医療費についてでしたが、私は障害者福祉について、特に施設で働いていた頃のことを思いだしました。


施設で働いていた頃、身体的には辛かったですが、精神的にはそこまで辛くなかったんです。
それはどういうことかと言いますと、行動障害を持った人の支援に関して感じていたことなのです。
そりゃあ、行動障害と呼ばれるくらいですから、しんどかったですよ。
さらにそれよりも困難さを抱えている“強度”行動障害の人の支援は、危険な思いも、相当なストレスも、しょっちゅう味わっていました。
それでも、そういった人達の支援をしているとき、「自分たちが支援を頑張らなくてどうするんだ!」という思いがあったのです。


「今まで家でどうやって過ごしていたんだろう…」
「このまま家にいたら、家族ともども崩壊してしまっただろう…」
「ここで改善がみられなければ、それこそ、行く場所がなくなってしまう…」
行動障害の有無に関わらず、こういった思いが浮かんでしまう人達の支援をしているときには、必要な人に必要な支援が行われているという実感があったので、そこまで辛くはありませんでした。
でも…
「本当にこの子は、親元を離れてこの施設に入らないといけなかったんだろうか?」
「本当に行動障害になるべき人だったのだろうか?」
「本当にこの子が使うべき福祉の枠なのだろうか?他に救える子、この場所での支援を必要としている子がいないのだろうか?」
などという思いが浮かんできてしまうとき、精神的なしんどさ、そして虚しさを感じてしまうのでした。


つい先日も、NHKで「縮小ニッポンの衝撃」という番組が放送されました。
これから、どんどん人口は減り続け、地方では今までのような行政サービスができない町、さらに町自体が消滅してしまうということまで予想されています。
これから生まれてくる子ども達が爆発的に増えない限り、または海外から労働世代の人たちを受け入れていかない限り、超高齢化社会はすぐそこまで迫っています。
どう考えても、今のような医療や福祉、行政サービスは維持できないでしょう。


雨後の筍のように増える児童デイを見て、喜んでいる場合じゃないんです。
近い将来、事業所はふるいにかけられて、ただ預かってます、ただ家族のレスパイトです、みたいなところは淘汰されていきます。
だって、国や地域がそんなところまで担えるような力、財源を持たなくなるから。
将来のその子の自立に効果がある事業所に、効率的に振り分けていくしかないのです。
医療だってそうです。
治さない医師、薬だけどんどん処方する医師、ちょっと怪しかったら発達障害ね、みたいな医師は淘汰されていくはずです。
治す医師しかやっていけない時代がくるでしょう。


本来なら自立して生活できるし、働いていけるような資質を持った人が、障害者枠で働く。
本来なら障害者枠で働ける人が、就労支援A型を利用する。
本来なら就労支援A型で働ける人が、就労支援B型を利用する。
本来なら就労支援B型で働ける人が…働ける場所がない…。
私が憤りを感じるのは、このような本来必要な人に、必要な支援、サービスが行き届かない状況なんです。


どんな立場の人にも、満遍なく必要な支援、サービスが受けられる社会が待っているのなら、私は何も言うことはありません。
でも、実際は一番必要な人に、必要な支援、サービスが届きづらくなっている状況があるのです。
私が施設で働いてきたとき、感じていたこととつながります。
入所施設の枠は限られています。
この1つの枠があれば、輝けていた子どもの未来、現実的な話をすれば、子どもも、家族も、救えた命があるのです。
現場の職員には利用者を選ぶ権利はありません。
でも、日々、本当に必要な人に、私達は支援を行いたいと思っていたのは事実です。


私が「治る」や「自立」、「頑張る」にこだわるのは、近い将来の社会、今の子ども達、これから生まれてくる子ども達のことを考えているからです。
「やっと児童デイが増えてきた。グレーの子もサービスを受けられるようになった。さあ、もっと社会に訴えていって、発達障害の人達が安心して暮らせる社会を~」などと言って、建物を青くしてバンサーイ…じゃないんですよ。
見ている世界が狭すぎます。
お年寄りが増えれば、介護サービスだって、医療サービスだって、今よりも必要になってくるのです。
そうなったら、一人ひとりの負担が増えるのは当然の流れですし、サービスの切り捨ても起きてくるでしょう。
日本の労働人口だって減るんですから、お金同様に、福祉、しかもその中で障害者福祉にどれだけの人が集まってくるのでしょうか。
今でさえ、働く人が足りなくて困っている福祉の現場ですよ。


2020年、あと4年後ですね、東京オリンピックの年から人口が減少に転ずると予想されています。
あと4年ですよ!その辺りから日本は変わっていくと思われます。
今のサービスが維持できているだけで儲けものという時代が、すぐそこまでやってきているかもしれません。
今の子ども達が成人する頃、下手したら今の子どもがまだ子どものときに、今の当たり前が当たり前ではなくなる可能性があるのです。
ですから、治せる人は治す、自立できる人は自立する、頑張れる人は頑張ってほしい。
そうしなければ、本当に福祉や医療のサービスが必要な子ども達が利用できなくなってしまうから。


社会は変わろうとも、福祉サービスが削られようとも、支援者はいなくなろうとも、自分はいなくなりません。
自分自身が一番の支援者になれば良いのです。
そうすれば、自分自身の未来のため、本当にサービスが必要な人のため、これから生まれてくる後輩たちのためになるのだと思います。
さあ、できることを今日から始めましょう!明日に向けて。

2016年9月26日月曜日

本来は、どういった人物なのだろう

学生時代、ボランティアで関わっていた子の親御さんが、こんな話をしてくれました。
「私、朝起きたら、この子がしゃべれるようになって、普通の子になってる夢を見るんだ」って。
そして、この前はこんなことをした、今日はこんなことを言った、などと話をしてくれました。
この親御さんが語る夢の話には悲壮感ではなく、明るさ、楽しみ、我が子への愛情が漂っていました。


この親御さんとの会話をきっかけに、「この子がしゃべれるようになったら、どんなことを言うだろうか?」「もし知的障害がなかったとしたら、どういった仕事をするだろうか?」などを想像するようになりました。
ボランティアで関わっていた子の他の親御さんとも、「たぶん、こんな部活動してたんじゃないかな」「どちらかというと文系の大学かな」「この子、おじいちゃん子だから、介護系の仕事を目指したかもね」「私は勉強も、学校も、嫌いだったから、すぐに就職したんじゃない」などと、一緒に話をして盛り上がることがありました。
みなさん、親の希望や願い、夢よりも、目の前にいる子どもの姿から始まる連想を語ってくれたのが印象深く残っています。
親御さんの語る子どもの姿には、目の前にいる子との重なり、リアリティをいつも感じていました。


施設職員になったあとも、このように「知的障害がなかったら…」「行動障害がなかったら…」「もししゃべれるようになったら…」と、どんな大人になるのかな、どんな人生を歩むんだろうか、どんなことを言うだろうか、など頭の中で想像しながら、日々、支援していました。
サッカー部に入っていただろうと思う子とは、サッカーをして遊んだりしました。
ペットを飼っていただろうと思う子とは、ペットショップに行って、犬や猫を見て過ごしたりしました。
明るい曲が好きそうだな、女の人の歌声が好きそうだな、と思う子には、そのような音楽を用意して聴いてもらったこともありました。
あのときのように、自分が想像した姿にリアリティが感じられると、支援が良い方向へと流れていっていました。


なんでこのようなことを思いだしたかと言いますと、この前、久しぶりに会った親御さんから「4年前に言ってた通りになりました!」と言われたからです。
この親御さんのお子さんが、まだ学校に通っていた頃、進路の話になったんです。
そのとき、私はもし知的障害がなければ、アパレル系の仕事を目指していたと思うこと、流行の先端みたいなお店の方がテンションが上がりそうなこと、をお話ししました。
それから月日は流れ、縁あって現在、アパレルの仕事をしていて、毎日、喜んで仕事に行っているとのことでした。
最初は限られた時間の限られた仕事でしたが、働きが認められ、障害者雇用枠ですが、社員として働けるようになったとの報告でした。
結果論かもしれませんが、4年前のそのとき、その若者が今働いているお店で仕事している姿がリアルに想像できたんですね。
ですから、ずっとそのお店と縁があれば良いなと思っていました。


人によっては、「障害がなければ…」と考えることにネガティブな感情を持つ人もいるかもしれません。
でも、その“人”をきちんと見ることにつながりますし、近い将来を想像する上でも、支援を考える上でも、大切な視点だと感じています。
「本来は、こういった人物ではないのかな」
「内側には、こんな希望やあんな夢を持っているんじゃないのかな」
「この子の資質は、〇〇の方へと進みたがってるはず」
こんなことを想像しながら、今も変わらず関わらせてもらっています。

2016年9月22日木曜日

「二次障害を防ぐ支援」という言葉の持つ違和感

以前は憤りを感じていましたが、今では悲しく感じるようになりましたね。
「適切な支援を受けなければ、二次障害になりますよ~」
「周囲の無理解が、二次障害へとつながりますよ~」
という支援者の言葉。
こういった脅しをしなければ、人を集められない支援者、事業所の力量に悲しみを感じます。
まあ、お金を出して載せている広告なのですから、私がどうのこうの言う立場ではないんでしょうが…。


改めて「二次障害にならないための支援」「二次障害を防ぐ支援」って何なのでしょうか。
私の中では、どうしても二次障害を“防ぐ”と“支援”が結びつきません。
私達が行う支援って、その人の発達を加速させるためのお手伝いというイメージです。
支援には後押しするという力強さがあり、動きを感じます。
でも、“防ぐ”っていう文字からは動きを感じず、その場に留めるというイメージが表れます。
ですから、二次障害を防ぐ支援って、動きを止めちゃうような、役割を打ち消すような、で違和感を感じます。


「二次障害にならないために、うちの支援を受けにおいで」と言うのは、子どものための言葉ではない気がします。
(そもそも商売のテクニックとしても、方向性を間違えている気が…)
子どもには動きがあります。
成長を追い求める動きです。
揺らぎやもがきが試行錯誤へとつながり、試行錯誤が成長へとつながります。
「揺らがなくても良いよ」「もがかなくても良いよ」というのは、優しい言葉のようで残酷な言葉です。
子どもの動きを制止する言葉であり、「成長しなくても良いよ」と言っているようなものですから。


伸び伸びと動きたいのが、子どもです。
伸びやかさがなくなると、子どもらしさがなくなります。
ですから、伸び伸びと動けるように、環境を整え、後押しするのが大人の役目ですし、子ども自身もそれを求めています。
決して子どもの上に覆いかぶさって、子どもの周りに囲いを作ってはいけません。
それこそ、心身が不健康な方へと向かってしまいますので。
動きたいのに、試行錯誤したいのに、成長したいのに、それが阻まれるから病んでいくのだと思います。
「二次障害を防ぐ支援をすると、二次障害になる」というブラックジョークが浮かんでしまいます。


支援という言葉には動きを感じますので、伸びる、学ぶ、身に付ける、乗り越えるなどの動きのある言葉とつながって、動きが加速されるイメージが湧いてくると、支援者のための支援ではなく、本人のための支援になったような気がします。

2016年9月21日水曜日

支援には“引き算”が馴染む

子どもの頃、私は足し算より、引き算の方が好きでした。
引き算をしていると、スッキリしていたのを覚えています。
足し算は何だか窮屈な印象で、引き算はどんどん自由になっていく気がしていました。


足し算が窮屈に感じるのは、教わるときも同じです。
教師や大人、子ども同士でも、「知識や技能を教えてやろう」「お前に足してやろう」という雰囲気を感じると窮屈さを感じ、私は避けたり、反発したりしていました。
反対に、停滞の原因となっているものだけをそっと取り除き、「あとは勝手に伸びてきな」という雰囲気の教え方をされると、心地良さを感じ、やる気が出ていました。


足すことに窮屈さを感じ、引くことに自由を感じるのは、今の私にも続いています。
私の支援の基本は、引き算です。
本人と向き合ったとき、その人から何を引いたら、自由になれるかを考えます。
例えば、睡眠障害を引いたら、自由になれるのではないか?
社会に対する恐怖感を引いたら、自由になれるのではないか?
「どうせ自分は障害者だし」という言葉から“どうせ”を引いたら、自由になれるのではないか?
何がその人の可能性、伸びる力に待ったをかけているのか、その障害を取り除くことを考えます。
「この発達課題がクリアできれば、自分自身で伸び伸びと成長していけるな、問題を解決していけるな」と思うと、嬉しくなります。


知識や技能を足そうとする支援を見ると、嫌悪感を懐きます。
なんだか「あなたには足りないから、足してあげる」というような傲慢さを感じますし、主導権が支援者にあるようで、その人が自由に伸びていかない感じがします。
そして何よりも、その人自身が持っている伸びる力、回復する力、より良く変わっていこうとする力の存在を信じていないような気がして反発心を覚えます。


「1から10まで教えていく、手助けしていく」というのは、発達障害の人たちの支援に馴染まないような気がしています。
抜けている、飛ばしている発達課題をクリアする。
生活の支障となっている感覚や体調の問題をクリアする。
彼らの行く手を阻む障害をクリアにし、自由に羽ばたいてもらうための援助活動とイメージすると、私の中ではスッキリするのです。

2016年9月20日火曜日

宗教と自閉症

以前から、自閉症の人の中にいる「宗教にハマる人」「熱心な信者になる人」の存在に気が付いていました。
別に、自閉症の人の中に特定の宗教を信じる人がいてもおかしいことではありません。
でも、その人達の様子を見ていると、一般の信者とは信仰の仕方に違いがあるように感じます。
「生き方の指標」として宗教を求めている、という点は同じなのでしょうが、そこに主体性が感じられないのです。


「宗教と自閉症の人」という文字を思い浮かべると、「指示と自閉症の人」と連想されました。
自閉症の人が宗教にハマりやすく、熱心な信者になるのは、そこに明確な指示があるからでは、と想像します。
「〇〇を食べてはいけない。〇〇をしてはならない」
「毎週、礼拝しなさい。そうすれば、幸せになれるでしょう」
「あなたが不幸なのは前世の因縁。この壺を買えば、それを振り払えます」
やるべきことが、とってもわかりやすい。
余計なことを考えなくても済むし、「幸せ」など、抽象的な概念が具体化されている。
ですから、自閉症の人と言いますか、自閉脳と相性が良い気がします。
定型発達の人が心の迷いで宗教を求めている一方、自閉症の人が脳の迷いから宗教を求めているように感じることもあります。


自閉症の人と向き合っているとき、「信じるものは救われる」の眼差しを感じることがあります。
「どうすれば良いですか?」「どれを選べば良いですか?」「まず何からしたら良いですか?」
こんなとき、私が「A」と言えば、Aの方向へと突き進んでしまう怖さを感じます。
ですから、こんなときは予定を変更し、心身を整える活動と情報の整理を行います。


外から見れば、「何で、あの支援者の言うことを信じているんだ!?」と思うことがあります。
現実が求めている方向へと変わっていかなくとも、「〇〇さんの言っていることは絶対です!」と信じてやまない人がいます。
その人の主張を聞けば、どの支援者から支援されているかがわかることがあります。
現実が変わらないのは、言っていることが合っていないか、自分自身が変わっていないかのどちらかです。
自分たちの外側に存在しない原因を見ようとするのは、お金の匂いがする宗教のようです。
「社会の理解ガー」には、同じ匂いがします。


親御さんの中にも、同じような雰囲気を感じることがあります。
「とにかく視覚的構造化」「とにかくABA」「とにかくPECS」「とにかくSST」「とにかく〇〇という支援者」・・・。
宗教がすべての課題を解決しないように、特定の療法、支援者がすべての課題を解決するわけはありません。
それなのに、特定の療法、支援者“だけ”を信じ、行動してしまう人がいます。


でも、このような人には自閉症の人の信仰と違う匂いを感じます。
何故なら、親御さんの多くは本能的に知っているから、特定の療法、支援者だけではうまくいかないことを。
このような親御さんからは、自分自身を騙している、自分自身に暗示をかけている姿が透けて見えます。
つまり、手抜きをしているのだと思います。


本来なら、いろんな療法、アイディア、支援者を求め、集め、その中から取捨選択し、我が子に合った支援をカスタマイズする必要があります。
またそれには、親御さん自身が目と耳と…五感を使って子どもと向き合わなければなりません。
というのをわかっているけれど、できない、するエネルギーがない、気力がない状況。
その状況から目を背けようとすればするほど、特定の療法、支援者に対する信仰心が強くなるような気がします。
自閉症の人の脳が「心地良さ」から信仰心を高めていくのに対し、このような親御さんの脳は「騙されよう」と信仰心を高めているように思えるのです。


いずれにしても、外側ではなく、内側に“信”を確立することが課題の解決、成長への第一歩。
そのためには、“芯”を確立する必要があり、“脊椎”を育てていくことが大事ではないでしょうか。

2016年9月16日金曜日

ツッコミ力を養う

元都知事が「聞いていません。僕は騙された」という姿を見て、「そうか、知らされてなかったのか。こりゃあ、都の職員はろくなもんじゃない!」と思う人は、生きづらさを抱えているかもしれません。
都議団が地下に入り、「うわ~~~、真っ青になりましたぁ~」という姿を見て、「問題を追及して暮れている。頑張れ、都議団!」と思う人も、生きづらさを抱えるかもしれません。


だって、いくらなんでも、都知事の判子なしに物事なんて進められないと思いますよ。
あれだけの事業なんですから、資料に目を通したことも、報告を受けたこともないって言うのは、責任逃れするための発言だったとしても、さすがに無理があるでしょ、と思いましたね。
あと都議団がせっせと大勢のマスコミを引き連れて地下に入っていってますがね、今更何をしてるのさって感じです。
この問題が明るみになるまで、どの都議も移転予定の豊洲市場に視察に行っていないのかな??
江東区選出の議員さんだっているはずですし、予算も莫大なのですから、まったく議論にも上がっていない、資料も見ていない、視察もしていない、なんてことはないはずですね。
地下空間の視察は当たり前のことをしているのであって、むしろ今までしてなかった方が問題ですし、していたのに、知っていたのに、スルーしていたのに、だったら大問題です。
文章にすると、これくらいの量になりますが、事実は別にして、こういった想像が瞬時にできるか、できないかでは、その人の実生活に違いが出てくるように思います。


支援者は、様々なビジネストークをします。
「支援があれば、大丈夫」「生涯に渡る支援」「あなたが悪いのではなく、社会が悪い」など。
でも、支援者だって労働者ですし、家庭や自分の生活もありますので、生涯にわたって支援はできませんね。
定年だってあるんですし、福祉の離職率を考えれば、1年同じ人なら良いくらいなんですから。
トラブルだって、周囲が理解してくれなくて起きるトラブルと、本人側の問題で起きるトラブルとでは、どっちが多いですかね?
というか、本当に自分自身に改善すべきことってないの?
社会が悪いって、どう悪いの?
その同じ社会の中で、自立して幸せな人生を送っている人っていないの?
そもそも支援者が言うことがすべて正しいの?そんなに力があるの?
こんな風に考えることができれば、支援者の話を額面通り受け取らず、適切な自己判断へとつながりますね。
「きっと支援者も、自分たちの支援を受けて欲しくて甘いことを言っているんだろう」と想像できれば、どっぷりと支援に浸かることもありません。
どっぷりと支援に浸かり続けると、のぼせてしまうだけですから。
いつしか自分の足で立てなくなります(ブ)


自閉症の人の中には、このような想像をオートマチックにできない人もいます。
ですから、そのような人には情報提供が必要になってきますね。
でも、情報提供をし続けるだけというのでは、やっていることが支援っぽくなってしまうので、その先に進まなければいけません。
想像できる脳みその状態にするのと、1つの情報から複数の情報を想像する練習。
私は「ツッコミ力を養う」と言って、ニーズのある人とやっています。
とにかく何でも良いから思いつくツッコミを入れること。
ツッコミを入れたあと、そのままではただの妄想であり、そのまま信じてしまったらまずいので、説明できる根拠を探すところまでやります。
練習を重ねていくと、結構、早く想像できるようになる人もいますし、ツッコミの辻褄が合うようにもなってきますね。
他人から言われたこと、ニュースやネットでの報道、情報にいちいち気持ちと行動が左右されていた学生さんがツッコミ力が上がってくると、落ち着いたことがありました。
自分でも練習できると思いますので、ある情報→ツッコミを入れてみる→ツッコミの根拠を探す、というのをやってみると良いかもしれません。

2016年9月15日木曜日

エネルギーのバランスをどうとっていくか?

お子さんの進路、将来について相談を受けました。
軽作業のような仕事と、体力を使うような仕事のどちらが適していると思うか?
グループホームを見学に行く際、選ぶ際、息子の場合、どういったポイントを確認したらよいか?
大きく分けて、この2点が相談の中心となりました。


相談を受けている途中、ふと施設で働いていたときのある成人の利用者さんの顔が思い浮かんだんですね。
私の原点は入所施設の職員ですので、あのときの雰囲気に頭の中が包まれていたのだと思います。
その成人の利用者さんは、周期的と言いますか、定期的と言いますか、職員に向かってくるんです。
パンチとか、キックとか、噛みつきとかじゃなくて、職員を掴んで、とにかく押してくるんですね。
身長も大きいですし、身体もガッシリ系の人だったので、結構、大変でしたよ。
私も何度も対応しました。
で、ここでコツがあって、すぐに押しきられたり、逃げたりしてはいけないんです。
すぐに押しきられたり、逃げたりすると、何度も何度も向かってくるんです。
また職員に向かえなかったら、破壊行為が始めるんですね。
ある程度の時間、しっかり対応すると、スッと落ち着いて、晴れやかな顔をして元の生活に戻るんです。


この利用者さんは、日中、軽作業をしていました。
とっても仕事は丁寧なんですね、最後までペースは乱れませんし。
で、だいたい上記のような行動が起きるのは、寮にいるときなんですね、それも突然スイッチが入ったように。
となると、「仕事での我慢やストレスの爆発?」「寮でやることが明確じゃない?」「直前に注意されたり、制止されたり、要求が通らなかったりして?」「作業と寮の職員の対応が違う?」というようなことが思い浮かびますよね。
当然、ケース会議でも、そのような話は出ました。
でも、私は違うような気がしたんですね。
もっと根本的で、シンプルな理由じゃないのかなって思ったんです。
知的障害がとても重いっていうのもありますし、日頃、寝食を共にしていての雰囲気とでも言いますか…。


そんな風に考えていたら、“定期的”というのと、“対応されると落ち着く”というのと、“晴れやかな顔”っていうのが繋がったんですね。
きっとエネルギーバランスを調整していたんだなって。
つまり、自分の中に溜まっていたエネルギー、行き場のないエネルギー、発散できていないエネルギーを職員を押すことで消費していたのでは。
それで過去の資料を見返したり、運動した前後を確認したりすると、やっぱりねってなったんです。
そりゃそうですよね、同性代の人達はバリバリ働いて、バリバリ遊ぶ時期ですもん。
いくら本人が得意で、わかりやすい構造化がされていたとしても、軽作業くらいじゃ持っているエネルギー使い果たせないでしょ。
仕事が終わって寮に戻っても、ごはんの準備するわけではないですし、どこかに遊びに行くわけでもありませんし。
食事の時間を待って、お風呂に入って、あとは基本的に寝るだけの生活。
こんなんじゃ、きちんとエネルギーを使い切れませんね。


こういった施設職員時代のエピソードが蘇ってきたのは、相談してくださった方の息子さんも、成人後も安定した生活を送るためには、エネルギーについて考える必要がある子だからですね。
グループホームで「エネルギーが余ってるんで、ちょっと発散してきます」と言える子ではありませんし、自分で計画して実行できる子でもありません。
今は学校に行き、勉強、運動、実習、部活、行事などで、エネルギーバランスが保たれていますが、これがグループホームに入れば、同じようにはいきません。
となると、余ったエネルギーが頭の中をグルグルさせるのか、動きとして表に出るのか、ということもあります。
ですから、軽作業をするなら生活の場で発散できる方が良いですし、体力を使う仕事でしたら生活の場は整える重視の方が良いといえます。


現代社会の20代、30代の若者は、バリバリ働き、バリバリ遊ぶ世代です。
もっと遡ると、特に男性、オスは地上を駆け巡り、獲物を捕っていました。
ということは、若者はそれができるくらいの身体、エネルギーを持っているとも言えると思います。


アメリカの支援が羨ましいとは思いませんが、強度行動障害の人達が住むグループホーム(一軒家)を見学したとき、午前中から目一杯、庭のプールで遊んでいる姿を見たら、これは良いなと思いましたね。
精神病棟からどんどん受け入れてるグループホームでした。
代表の方に話を訊くと、とにかく減薬を目指しているそうです。
そのためのアイディアがプール活動ですし、ハイキング、ヨガなどの運動、また芸術活動です。
日本とは労働観が違いますし、もちろん住環境も違います。
私は「プールガー」「住環境ガー」と言うつもりはありません。
ただ自分で生活を設計し、組み立てることが難しい人の場合、エネルギーバランスについても周囲の人間が考え、整え、生活の中に組み込んでいく必要があると思います。
構造化された支援がどうのこうのとか、近くにどんなものがあるかとかも大事だとは思いますが、安定した生活、人生を送る上で、もっと根本的な部分に目を向けて進路を考えられるのが良いと考えています。

2016年9月14日水曜日

人当たりの良いヤブ医者が一番儲かるのと、ギョーカイの仕組みは同じって知ってましたよね??

昨日のブログを書いていて、ふと思ったのですが、もしかしたらギョーカイの仕組み自体をご存じない方がいるのかもしれませんね。
それだと、「支援者は一生懸命支援してくれる」「支援者は自立のために手助けしてくれる」「支援者は当事者のことを一番に考えてくれる」なんて本気で思う人がいてもおかしくはないですね。
いや、確かにいるんですよ、支援者の中にこのような人たちは。
でも、それは“支援者”だから、ではないんですよ。
それは、その“人”が一生懸命な人だから、志のある人だから、プロフェッショナルだから、なんです。
私の言っている意味は、以下の文章を読めば理解していただけると思います。


堤未果氏の新刊「政府はもう嘘をつけない」(角川新書)の帯に書かれていましたね。
「お金の流れで世界を見抜け!」って。
ギョーカイもお金の流れを読み解けば、その仕組み、成り立ちが見えてきます。
ギョーカイのお金ってどこから得ているのでしょうか?
利用者負担とか言われていますが、そのほとんどは税金ですね。
まあ、ライセンスビジネスとか、検査だけで〇万円ってところもありますが、それは民間会社の話です。
ちなみに、福祉サービスを使っていると、あまりお金がかかっていないような気がするかもしれませんが、実際、同じ業務を民間が100%利用者負担で、ってなったら、上記の民間会社のような利用料がかかるのですよ。
「タダだからイイや」って雑談をしに、相談機関に行ってはいけません。


ギョーカイの財布の中身の大部分は、税金です。
ということは、その税金が適切に使われているかを評価するのは、“行政”の仕事になります、“利用者”ではないのですよ。
税金が少しでも入ると、作成すべき書類が膨大になるのは、お役所の仕組みだからですね。
個別支援計画がどうだとか、施設の建物、人員が要件を満たしているかどうだとか、適切にお金が使われているかどうだとか、いろいろ行政に提出しなければいけません。
で、ここがミソです。
もし自分が行政の人間で、相談機関でも、児童デイでも、通所、入所施設でも、その機関を評価しなければいけないとなったら、どうしますか?


1つの機関から、膨大な報告書が届くのですよ。
1つ1つ丁寧に見ますか?
もちろん、紙面上の部分は、きちんと精査し、評価はできると思いますし、しなきゃいけません。
でも、紙面にかかれていないことまで評価しますか?
というか、労力を割いてまで、自分の足と目で現場を見ますか?
もっと具体的に言いましょうね。
その個別支援計画が、その場で行われている個々の支援&療育が良い支援か、意味のある支援か、そうではないのか、なんてことを行政の人の中でどれくらいの職員さんができるのでしょうか?
「この子のスケジュールの提示数は、半日でいいの??一日、行けるんじゃない」
「課題分析の評価、あまいんじゃないの」なんてね…(笑)
たとえ、できたとしても、各施設を利用している利用者さん、一人ひとりに聞き取りをし、評価するっていったら、それだけで1年が終わってしまいますよ、現実的ではありません。
しかも行政には、定期的な部署の異動のルールがあるのですし。


個別支援計画だって、膨大な数の提出書類の中の1つにすぎません。
それよりも、指摘するのなら、支援の専門家ではない人でも指摘しやすい部分を指摘するでしょ。
防火設備がどうだとか、提出書類がすべて揃っているかどうだとか。
だから、個別支援計画を1つ1つ丁寧に見て、その内容までなんて見ているとは考えにくいのです。
でも、立場上、その機関の支援が適切かどうかは評価しなければいけません。
で、見るのが、実績数です。
これって素人でも判断しやすいですよね。
昨年よりも、実数が伸びていれば、ニーズがある機関、頑張っている機関って形上は評価できますから。


「ふむふむ、他県の機関より実数が多いな」
「昨年よりも、利用者数が伸びてる。減ってないからOK」
「稼働率は100%に近いな」
「講演会や学習会、機関支援など、定期的に行われている」
「よし、適切な機関として評価しよう」
「(書類も揃っているし、実数も良いから、自分が“適切”と評価したあと、何かあっても自分の責任は問われないな。異動するまでの間、問題が起きなければOK)」
まあ、どこもこんなところでしょう。


ギョーカイが何を見て行政から評価されるなんてことは、百も承知ですね。
だから、せっせと実数を稼ぐのです。
だって、支援を受けにきた人が、1回で「もう大丈夫です」ってなったら、実数は1しかカウントされませんので。
できるだけ長く利用してほしいんですね、そういう評価の仕組みだから。
よって、「人当たりの良いヤブ医者が一番儲かる」仕組みと同じと言っているわけです。
実数を増やすには支援を延ばすか、利用者自体を増やすのです。
「生涯にわたる一貫した支援」って良い言葉ですね~。
ちょっと発達に遅れがってなったら、すぐに「きみは発達障害」って。
「自閉“傾向”」「“グレーゾーン”の子」って良い言葉ですね~。


ここまで読んでいただいた方には、私が支援者批判をしているように感じるかもしれません。
でも、それは問題の根本的なところで、私の考えとは違います。
この問題の根本は、支援者ではなく、このシステム自体です。
本来なら、その人の問題が解決し、成長でき、自立できたら、それが一番の評価になるはずです。
つまり、「利用しました」「はいっ、一回で解決です、自立です」がベストなのです。
ですから、実数ではなく、福祉サービスを使わず自立できた人の数、または福祉サービスを利用するにしても、全部が全部ではなく、部分的にもその人の持っている力を使い、より自立的に過ごせる場面が増えたという数が評価されるべきだと考えています。
もちろん、身体的な障害を持っている人とは同じようにはできないかもしれませんが、少なくとも発達障害の人達の支援に対しては、このような評価に変えていくべきだと考えています。
利用者の利益が、支援者のモチベーションと評価につながる仕組み。


しかし、最大の抵抗勢力がギョーカイなんですね。
だって、支援の質、自立度が評価の対象になれば、支援者の技量が問われます。
今のように「大卒一年目で相談業務やってます、エヘッ」なんて無理ですし、求人があったから児童デイで働いています、なんていうのも一瞬で淘汰されます。
それに当然、ウデが良い支援者がいて、どんどん自立させられたら、「こんなに予算出さなくてもいいよね」って判断されるこのご時世です。
だから、必死に「自閉症は治りません!」「生涯にわたる支援が必要なんです!」と訴えるのです。


こういった問題は、ギョーカイ内の志ある支援者たちは気が付いています。
私は異端児のような扱いをされていますが、同じ想いをもっている支援者たち、仲間たちがいるのです。
でも、その人たちがおのおのの場所で、本当の自立、利用者の最大限の利益を目指したら、冷や飯を食わされるのが現実です。
しかも、そういった支援者だって、働いて稼ぎ、生きていかなければならないのです。


だから、私は次のようなことを言いたいのです。
「もし身近な支援者が、あなたのために最大限支援してくれているのなら、支援者ではなくて、その“人”が本物なのです。
現場の職員は、日々、こういったジレンマと戦いながら支援しています。
こんなシステムでラクだ、良いなんて、思っている人ばかりではありません。
でも、人間は弱い生き物で、自分を優先させてしまうことが往々にしてあります。
だからこそ、当事者の人達、親御さん達には、支援者に頼り切るのではなく、「自分の一番の支援者は自分自身だ!」という主体性を持っていただきたいのです。
どんな支援を選ぶのか、どんな人を選ぶのか、どんな未来を選ぶのかは、一人ひとりの決断にかかっているのです」と。

2016年9月13日火曜日

学校には行かないけれど、児童デイには行きます

学校には行かないけれど、児童デイには行く。
このような子ども達の姿が珍しくなくなったと聞き、ガックリきましたね。
これで良しとする大人がいるという証拠ですから。

学校って不登校の“数”を減らしたいんですね。
教育委員会がうるさいですし、管理職は気になる数字ですし。
ですから、個別のアプローチをして何とか登校できるように促します。
でも、時間と労力がかかりますし、結果が伴わないことが多々あります。
そこで学校は通院を勧めるんですね。
だって、診断名が付けば、病欠扱いにできるから。
これが一昔前の手でした。

しかし、近頃では、病名ではなく、発達障害の診断を受けるように促すという新手が現れたんですね。
とにかく学校側は、「発達の遅れがあるかもしれません」「一度受診を」と言うんです。
親御さんは不登校で悩んでいる中、さらに「発達障害」と言われれば、びっくりしますよね。
それで、急いで病院へと向かいます。
病院に行けば、ほとんどの場合、ちゃんと発達障害の診断が出ます。
だって、ハナから学校が勧める病院は、発達障害が増えて欲しい系の病院だから。

発達障害の診断名がつけば、次に勧めるのは相談機関。
相談機関は、相談1回ごとに報告書の実数が増えて、万々歳です。
そして、児童デイという存在を伝え、手続きの仕方も丁寧に教えます。
で、自分のところと仲良しこよしの児童デイを勧めて、はいっ、完了。
仲良しこよしの児童デイさんは、コンサルテーションを頼んでくれますからね。
ここでも実数1ゲット!
いや、年に数回、支援ミーティングがあるから、その分、増えていきますね。
児童デイも、自己努力しなくても、お客さんが定期的にいらっしゃるので、こちらもOKです。

学校側も、「特別なニーズのある子」となれば、そこまで不登校に過敏になる必要はなくなりますね。
ギョーカイ連中も、「お母さん、児童デイは療育をやるんですよ」「児童デイに通えているだけでも、〇〇くんはとっても頑張っています」なんてお決まりのセリフを言えば、親御さんの心配は別のことへと逸れていきます。
これで、みんなが丸く納まりますね、本人以外は。

「学校行かないけれど、児童デイには元気に通ってます」と言われて、「それはよかったね、お母さん」じゃねーよ、学校、病院、相談機関、児童デイ!
本人にとっては、何のメリットもない診断名をつけられて、しかも、「障害」という状態ではない子に、「はい、スケジュール」「はい、視覚支援」じゃないでしょ。
「やっぱりコミュニケーションカードがあると、きちんと伝えたいことがわかりますね」って当たり前だろ、その子は障害を持った子ではないのだから。

診断って、福祉を使うためのもの?
診断って、問題の根本をあやふやにするためのもの?
診断って、行政に提出する実数を増やすためのもの?
診断って、ギョーカイが生き延びるためのもの?

学校には行かず、児童デイにだけ通い続けることが、この子の将来にとってベストの選択なのか、立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
児童デイって18歳になったら通えないよ。
そもそも「私は障害者です」と言って生きていくのかい?
子ども自身は、それで納得しているの?
このままでは、「不登校の理由は発達障害があるから」ってならないかい?
「当事者主体」「当事者のニーズに応える」と言いながら、いつもギョーカイの思惑に翻弄されるのが、子ども達、そして情報を持たない親御さん達です。

私は忌々しき事態だと思い、ブログに表しました。
これがまかり通る社会を今の子ども達、未来の子ども達に残してはいけないと思っています。

2016年9月8日木曜日

「とりあえずビール」みたいな「とりあえず特学」という掛け声

「学校の授業についていけなくなって…」
「じゃあ、特別支援学級ですね」
「クラスの友達とトラブルが絶え…」
「じゃあ、特別支援学級ですね」
「学校を休みがちで、不登…」
「じゃあ、特別支援学級ですね」

こんな話を聞くたびに、飲み会の「とりあえずビール」を連想してしまいます。
なんかあると、「とりあえず特学へ」って。
その学級でやること、やれることはないの??
一昔前の「特殊学級」から名称も変わり、勧める方も気持ちの上でのハードルが下がったような気もします。

同級生がたくさんいる教室では授業に集中できない。
教室内の刺激が多すぎて、それだけで疲弊してしまう。
一斉授業では、先生の言ってることがわからない。
だから、特別支援学級で学んだ方が良い、というのなら分かります。
「子どものより良い学び」と「将来の可能性の広がり」という核の上に、大人の事情が覆いかぶさるから嫌悪感につながるのです。

あと1人在籍数が増えれば、臨時の教員、補助員を雇える…っていうのは、学校の都合です。
通級より特学の方が入りこみやすい…っていうのはギョーカイの都合です。
担任の先生が「できれば特学に」って思うのは…わからなくもないです。
実際に仕事として通常学級の担任はしたことがありませんが、学生時代、2回、2ヶ月ほど、教育実習で入りました。
正直、40人学級の中での一人に個別対応は難しいです。
「一人の子に合った教育を」と思えば、残りの39人が…、「39人を中心に」と思えば、その一人の子が…ってことになります。

でもだからこそ、特別支援コーディネーターなんでしょうが、実力以外のところで担当が決まっていたり、反対に実力で決まっていても、「自分より年数の若い教師の言うことなんか聞かね~」という態度の教員がいたり、「不登校も、家庭のトラブルも、全部コーディネーターに渡しちゃえ」って手一杯にさせちゃったりするから、結局、担任は孤立するし、「できれば特学へ」って思っちゃうのでしょう。
とにかく人員の確保とか、行政に提出する実績数の確保とか、連携がうまくいかないとかは大人の都合だと思いますね。

あと許せないのが、現在、特別支援学級で学んでいる子達の学びをないがしろにしている感があること。
1人仲間が増えて、それですぐに先生が増えたり、クラスが増えたりするなら良いですが、そんなにスムーズに事が進むわけはありません。
生徒が1人増えるということは、刺激が増えるということですし、それに伴う環境の変化、授業の見直しは当然ありますし、先生との個別学習の時間も減る場合も出てきます。
子ども達は温かく迎えるかもしれませんが、「通級で頑張れる子は頑張ってよ」っていう意見が出るのも自然だと思いますね。
「みんな落ち着て学んでいたのに、1人増えてから…」なんて話は、珍しい話ではありません。
「通級で難しかったです。だから、特学に来ました」では、転籍する子の学びも、特学に在籍していた子の学びも守られていないのでは、と思っちゃうのです。

「養護学校(現特別支援学校)の方が、先生たくさんいるから、こっちにしました」なんて言う親御さんがいて、ビックリしたことがあります。
いやいや、お子さん、特学で学べるし、というか、頑張れば通級でも学べるし、学校は介護施設ではないし…。
より個別の教育が必要な子の分を貰ってないかいって思いましたね。

学校って、子どもが学ぶところだから、その子の学び方にとって、その子の未来にとってベターな選択をしてほしいですね。
大人は「とりあえずビール」と言いますが、子どもは「とりあえず好きなもの」を頼みます。
「とりあえず特学」の前に、何故、在籍学級で学べないのか、どうすれば学べるようになるのかを検討してもらいたいですね。
子どもの声を聞かずに、勝手に注文してはいけません。
子どもが食べなかった料理は、最後には大人が食べなければいけなくなりますから。

2016年9月7日水曜日

雰囲気を察した子、雰囲気を察してほしかった子

「みんなから“バカ”って言われる」
私からの質問に、頷くか、首を横に振るかだった子が、唯一、はっきり言った言葉でした。
この言葉には、この子の思いがギュッと詰まっていたんだと感じましたね。
だから、私はすぐにこう伝えました。
「みんなから“バカ”って言われて悔しいんだよね。本当は勉強頑張りたいんだよね。おじちゃんに任せて。〇〇ちゃんが学校でちゃんと勉強できるようになるための方法を知っているから、一緒にトレーニングしようね」と。
その子は、泣きながら何度も頷いていました。

小学生くらいの子ども達って残酷な面もあるし、大人の空気を察しちゃうところもありますね。
授業中、間違った答えを言ったり、テストの点数が悪かったりすると、すぐにバカだ、バカだと言いますし、大人たちの雰囲気を察し、「〇〇学級(支援級)に行けよ」なんてことも言っちゃいます。
実際に、この子も在籍クラスで同様の目に遭っていました。

担任の先生も、その子と話をしたそうです。
そして、その子から出た言葉が冒頭の言葉。
それを聞いた先生は、「それなら〇〇学級(支援級)で勉強してみたら」とその子に言い、親御さんにも言ったのでした。

同様の反応をしたのは、学校の先生だけではありませんでした。
どこに行っても、この子は「みんなから“バカ”って言われる」と言いました。
すると、医師も、相談員も、療法士も、みんな、特別支援学級を勧めました。
「このまま、辛い思いをさせてると、(でました!)二次障害になりますよ」
「授業についていけていないんだから、通常級は無理でしょ」
「将来を不安に思っているかもしれませんが、福祉がありますから」

この支援者たちのコメントを聞いて、私は違和感を持ちました。
どうして、この子のメッセージの奥にある気持ちを汲み取ろうとしないのかな?
どうして、この子がかわいそう、だから、その場から別の場所へ、なのかな?
どうして、誰一人、その学級で勉強できるように手伝うよと言ってあげられなかったのかな?
せめて、この子が今の学級で勉強したいという思いを察し、汲んでほしかった…なんて思うのです。

確かにあまり話をするのが得意ではない子です。
特に家以外で話をするときには、余計にしゃべれなくなります。
でも、この子が言った「みんなから“バカ”って言われる」っていうメッセージには、辛い思いだけではない思いも漂っていました。
子どもってみんな、勉強するのが好きなんだと思います。
それは知的障害のあるなしに関わらず。
「知りたい」「できるようになりたい」って欲求を持っているのだと思っています。

本当は勉強したいという思いを伝えたかった。
でも、大人たちの「通常級は無理」「特別支援学級へ行って」という雰囲気を察しちゃったのでしょう。
それで、やっと言えたのが、「みんなから“バカ”って言われる」という言葉だと、私は想像しています。
言葉で表せていないその子の“思い”に目を向けること。
そして、大人が先にメッセージを醸し出さないことが大切だと思った出来事でした。
お母さんも「人間脳を育てる」の本を購入されましたので、本人、親御さんと一緒に「学習できる土台」作りに取り組んでいきます。

2016年9月2日金曜日

障害者として見て欲しいの?障害者として見て欲しくないの?

一般の人達に受けが悪いのが、一部の発達障害の人が言う「私は見えない障害ですから」って主張。
「できそうに見えても、できなくて困っていることがあるんです」
「怠けているわけではないんです。支援が必要なんです」
と言われると、一般の人はそうかと思い、大目に見たり、手伝ったりしようとします。
でも、その一方で「あまり仕事をさせてくれない」「障害者枠ではなく、一般の人と同じように働きたい」「なんでも手を貸して、私を障害者扱いする」って言う人もいます。

ある企業の方が言ってました。
「障害があって大変なのだろうと思うのですが、どうしても都合が悪いときに“障害”って言葉を使っているように見えるんです」と。
雇う側は、その人に期待する仕事の種類、量、質があります。
期待に応えるために「こんな配慮があれば」と言うのなら分かりますが、「障害があるから応えられません」というのは受け入れづらい主張になりますね。

以前、私が関わっていた人で、周囲に障害のことを伝えず、一般の人として働いている人達がいます。
その中の一人の若者は、「私のこと、誰も障害者として扱わないのが嬉しい」と言っていました。
また、ほかの若者は、「苦手な仕事もあるけれど、同じお給料を貰っているのだから頑張る」と言っていました。
高校時代から関わっていた学生さんは、大学に入学する際、「障害のことは言わず、一人の学生として大学に行きます」と言って進学しました。
彼らの話を聞いていると、障害者としてではなく、一人の人間として成長し、社会に羽ばたいていくことを望んでいるのだと感じます。

発達障害は、発達しない障害ではありません。
ですから、私は彼らの持つ障害は、改善させる対象であり、治す対象であると考えています。
そのための発達援助こそが、支援者の求める支援ではなく、本人たちが求める支援だと思っています。
こういうことを言うと、当事者の人の中には障害がなくなることに拒絶反応を見せる人がいます。
でも、それって「一人の人間として勝負するのが怖いよ~」「できない理由の一つがなくなるのが嫌だよ~」とも見えるのです。

別に困難が改善し、障害が治ったと言える状態になったとしても、それまでの努力や頑張りはなくならないと思うんです。
周囲から「障害持っているように見えないね」って言われても、それは過去に困難や苦しみがあったということの否定ではありませんし、むしろ自分が頑張り、成長できたという証拠だと思います。
自分自身が一番、自分の辛さと頑張りを知っているのですから、「障害持っているように見えないね」という言葉や態度は、ポジティブなメッセージとして捉えた方が良いと思いますね。
そう言ってくれた人は、“障害”ではなく、“あなた”を見ているのですから。

2016年9月1日木曜日

自殺しようとする子がいたら…

まずは、大きな声で「バカ野郎!!」と言いますね。
「自殺なんか考えてるんじゃねー!」
「ふざけるのも良い加減にしろ!」
とにかく本気で怒るのが先だと思いますね。

今日、9月1日は子どもの自殺が最も多い日だと言われています。
ですから、いろんな人達が、そういった子どもに語り掛けます。
「辛いんだね。無理して学校に行く必要がないよ」
「私もずっと学校に行きたくなかった。学校に行かない選択肢だってある」
「学校がすべてじゃないんだ。学校に行かなくたって、生きていける」
「親御さんは子どもの変化に気が付き、登校のプレッシャーをかけないように」
などなど。

こういったメッセージを見るたびに思うんですが、これって自分が子どものときに掛けてもらいたかった言葉ですよね、ほとんどが。
これって今まさに自殺を考えている子に向けられるメッセージのはずですよね。
だったら、大人の役割として、まずやることは共感じゃないでしょ。
責任ある大人がやることは、「自殺なんてバカなこと考えるんじゃない!」という怒りのメッセージを伝えることではないかって思うんです。
そんな考えを持つこと自体を否定しなきゃだめでしょ、特に相手がまだ成長途中の子どもなんだから。

親御さんから「うちの子が、自殺しようとして」とか電話が来ることもあります。
あとから切った手首を見せてくる(敢えて言いますが)バカもいますし、何かあると「もう自殺しかない」とか言ってくるバカもいます。
そんな若者たちを目の前にしたら、私は心の底から「バカ野郎」って言いますよ。
そこに至るまでの挫折や辛さはあるでしょうが、それよりも伝えるのは「自殺は絶対ダメ」「そんな選択は許さない」っていうメッセージだと思うんです。
衝動的に行動した人もいれば、本気の決意をもって行動した人もいます。
だから、私は、というか責任ある大人は、本気で自殺を否定しなきゃいけないと思います。

共感や問題の解決は、あとからでもできます。
でも、自殺の否定をやっておかなければ、再び何かあったときに試みる危険性があります。
また、こうすれば周囲をコントロールすることができるというような誤学習、誤認識を生む危険性もあります。
実際、本気で自殺する気がないのに、繰り返す若者もいますので。

世界を見渡せば、生きたくても生きられない人達が今、この瞬間にも多くいます。
そして、日本にも病気などでなくなっていく命もありますし、祖父母やその1つ上の世代の人たちは、死と隣り合わせの中を必死に生きてきた人達なんです。
そういったことを教わるのも学校でしょ。
「学校に行かなくても働けるし、生きてもいける」というのは、行かなかったことによるデメリットをきちんと伝えていません。
行くことで得られるメリット、デメリット。
行かないことで得られるメリット、デメリット。
それを両方きちんと伝え、子ども自身が選択できるようにするのが支援でしょ。
子どもは染まりやすいですし、特に自閉っ子達はそのまま飲みこみやすい。
だから、発言には気を付けなければならないのです。

「死んだら、また生き返って人生をやり直す」なんてことを真顔で言う子もいます。
「それはマンガか、ゲームのやり過ぎで、もし生き返ったとしても、同じ課題は残ったまま。また同じ課題にぶつかったら死のうとするのかい?」なんてことを言ったことがあります。
ニュースでも悲しい報道がなされると、周囲が悲しんでいる様子が伝えられ、また専門家、コメンテーターの人達が「担任ガー」「学校ガー」「カウンセラーの配置」「学校システムの崩壊」「多様な学びを~!」と言います。
でも、誰一人、「自殺なんかしてバカ野郎」と言いません。
こういった不幸な出来事がもう起きないように、一人でも思いとどまれるように、「自殺を考えてる子、絶対にダメだ!私達は許さない!」というメッセージを送るべきではないでしょうか。
結構、思い悩んでいる子達は、このような報道をしっかり見ています。
そして、結構、真に受けている子も多いというのが、私の肌感覚です。

「学校のシステムが悪い」「私達(発達障害の子)には、現行の学校制度以外の多様な学びが必要だ」「だから、学校に行かなくても良い」などと、一部の人の主張をそのまま鵜呑みにして信じている若者も少なくありません。
でも、いじめの問題は、学校の問題ではなく、いじめる子の問題です。
学校のシステムを変える前に、いじめる子をどうにかするのが大人の仕事です。
長期休みのあと、朝起きれないのは、夏休み中、生活が乱れているっていう原因もあります。
基礎基本である生活リズムを整えてから、もう一度考えるべきです。
嫌かもしれないけれど、学校に行くからこそ、養える成長があり、将来に活きる学びがあるってことも伝える必要があると思います。
声高々に主張する大人たちの中には、主張ありきの人も少なくありません。

自殺を試みた若者に私が必ず言うのが
「死んだとしても、絶対に線香をあげになんか行かない」
「涙の一滴も流さないし、共感もしない、かわいそうだとも思わない」
「〇〇のことは大バカ野郎と言うし、一生許さないから」
大人が本気で「No」と言うことが、誤った選択を思いとどまらせ、未来の希望の芽を守り、育てることだと考えています。
だから、私は今、悩んでいる子ども達にこう言います。
「自殺なんか考えるんじゃねー!バカ野郎!!」