2016年10月26日水曜日

子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人

親に手伝ってもらった夏休みの宿題が褒められたり、表彰されたりするっていうのは、笑い話になるけれど、日々の宿題を代わりにやるとなると、笑えなくなります。
もちろん、実際にこんなことをする人はいないんだろうけれど、これに似たようなことをやっている人はいますね。
子どもの課題を代わりにやっちゃう人。
子どもの課題を「やらなくていい」と取り上げちゃう人。
子どもの課題を「出した方が悪い」と言っちゃう人。


子どもは日々、課題と接しています。
それは、与えられる学校の課題がありますし、自ら向かっていく発達の課題、人間関係の課題などもあります。
どれもその子自身の成長に必要な課題なのですから、その子自身で乗り越えることが必要です。
いくら「自分がやった方が早い」「上手くできる」と思っても、手を出してはいけません。
その課題は、“その子”の課題であって、“私”の課題ではないのですから。


相談でいろいろな方のお話を聞いていると、課題の曖昧さを感じることがあります。
例えば、支援グッズを一生懸命用意する親御さんがいます(もちろん、それ自体は問題ないです)。
で、お子さんは〇〇という活動ができる、落ち着いていられる。
でも、それってその子が乗り越えたことになるのかなって感じるんです。
その子自身で、「ぼくは、課題に乗り越えられた」という気持ちが味わえるのかなって。


支援グッズは、本人が課題を乗り越えるために使う補助であって、周りがお膳立てするためのものではありません。
つまり、支援グッズから「この子が失敗しないように」という匂いが出ていたら、それは支援者自身が失敗を恐れている証拠であり、失敗に対する課題がある、まだ乗り越えられていないということ。
また、支援グッズから過剰さや見た目が匂ってきたら、それは支援者自身がどう見られているかに意識がある証拠であり、他人からの評価に揺らいでしまうことに課題があるということ、などが想像されます。


子どもの意思や課題と別のところで、「学校に行かなくても良いんだ」と主張する人は、その人自身が学校に良い思い出がなかった、辛い学校生活を送った、学校の中に課題を置いてきたというのもあります。
「無理に働かなくても良い」「一般就労より、福祉的就労の方にしなよ」と主張する人は、仕事の中に課題があるのかもしれません。
「社会の理解ガー」と主張する人は、自分自身が理解されていない現実の中に、「愛情ガー」と主張する人は、親との関係の中に課題があるようにも思えます。


他人の成長、発達を援助する人間だったら、まずは自分の課題をクリアしてから来てほしいと思います。
そうでないと、本人の課題と支援者の課題がごっちゃとなるからです。
せめて自分の課題くらいきちんと把握し、直視できるように、と思うのです。


いくら知的な遅れ、発達の遅れ、ヌケがあろうとも、子どもも別人格の人間です。
その子自身で課題と向き合い、乗り越えないと、いつまで経っても課題はクリアすることができません。
親や支援者は、課題で苦労する子の姿を見ないので、辛くはならないかもしれません。
でも、その子自身は、いつまで経っても課題が残ったままなので、ずっと課題を背負い生きていくのです。
支援者はいなくなっても、課題はなくなりません。


この頃、思うのです。
子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人は、敢えてそうしているのかなって。
混ぜることで、曖昧にすることで、自分自身の課題を直視しなくて済んでるんじゃない!?
結局、逃げてるのかなって。
やっぱり勇気ですよね、勇気。
自分の課題と向き合える人には、勇気がある。
勇気のない人は、自分の課題に向かっていける子を育てることはできませんよね。
私達が育てたいのは、自分自身で課題と向き合い、乗り越えていく人。

2016年10月23日日曜日

ヒトのみが時計を使う

道具を使う動物は、ヒト以外にもいます。
でも、そんな道具の中で、ヒトしか使わないものもあります。
それは時計です。


学習すれば、人の言葉がわかったり、電子機器を操作したりできる動物はいますが、時計は使いこなすことができません。
何故なら、ヒトだけですから、何時間も、何日も、何年も、何十年もの先を意識できるのは。
将来の展望を持ったり、計画を立てたりできる。
そして、その将来を意識し、今の自分の行動を選択することができる。
これこそが、ヒトのみが手に入れることのできた能力であり、脳力だといえます。


以前、私は、このような人達のことが嫌いでした。
「助けて欲しい」「アドバイスが欲しい」と言って、改善や成長できる方法を受け取ったのに、それをやらない人、やっても続かない人。
すぐに効果が見えないと、やめちゃう人、「やっても意味がなかった」と言う人。
でも、“人のみが時計を使う”という言葉が思い浮かんでからは、捉え方が変わりました。


このような人達は、心の問題ではなく、脳の問題ではないのか、そのように捉えるようになったのです(もちろん、甘えや怠け、誤学習の問題の人もいますが)。
つまり、未来を見通す脳力に原因がある。
それは、脳へのダメージや疲れかもしれないし、脳の未発達かもしれない。
脳の未発達は、高度な脳の部位自体の遅れ、他の部位との連携の不具合、もっと原始的な部位の不具合、発達の遅れorヌケがあるかもしれない…。
こんな風に、推測し、見立てを持つようになると、私のすべきこと、その人に伝えなければいけないことが変わるのです。


週に1回、セッションを受けても、相談してアドバイスをもらっても、根本的な変化はありません。
大事なことは、自分でも、家庭でもやってみることです。
コツコツ積み重ねていかなければ、実際に行動しなければ、受け身ではなく、自発的に行わなければ、能力、スキル、知識、成長、変化を得ることはできません。
日々、子どもたちや若者たちと接していますが、どんどん成長していくのは、コツコツ積み重ねていける人ばかりです。
「もう支援はいりません」と言って、社会に出て行った人達は、将来の展望、計画を自分で立てられる人ばかりです。


ですから、将来の展望、計画を持つことができ、それを意識して今の行動を選択できるのが最終目標だと考えています。
でも、その前段階に、自分でコツコツ積み重ねられる姿勢が必要であり、未来の見通しを持つ能力が必要です。
行動できない人、続かない人、未来のことを尋ねられると、「わかりません」「考えられません」と言う人は、未来を見通せる脳の状態になるための援助が必要なのだと私は考えるようになり、そのための行動をするようになりました。


「学校に行かなくてもよい」「嫌なことは、無理にする必要はない」などという声も聞かれますが、私はそう思いません。
確かに、学校に行かなくても、知識を得ること、社会性を養うことはできるでしょう。
しかし、例え学校に行くのが嫌でも(いじめ等の理由ではなく)、通うこと自体に脳を育てる意味があると思うのです、特に人間らしい脳の部分で。
「将来の展望、計画の見通しを持つことができ、今の行動を選択できる力を養う」というのは、学校という存在に凝縮されているとも思えるのです。


自分の資質を磨き、社会の中で活かす人、発達障害が治っていく人は、みなさん、自分で(大小関わらず)目標を立て、将来に向かって実直に歩んでいける人ばかりです。
つまり、そういう能力、脳力を子ども時代から養っていけた人ということだと思います。
「時計が使える脳の状態」というのが、養っていける準備ができた状態と私は捉えるようにしています。

2016年10月21日金曜日

好奇心が自発性の源

昨日、北海道では雪が降った。
いよいよ季節は、秋から冬へと移っていく。
動物にとって、厳しい季節の到来である。


もしヒトの祖先が“好奇心”を持っていなければ、今も私達は森の中で過ごしていたかもしれない、と想像する。
好奇心があったからこそ、森の外を覗いてみたくなった。
そして、森の外に出て行った動物たちがヒトへと変わっていった。


森の中にいれば、変わらぬ生活を送れたはず。
しかし、私達の祖先は自らの足で森の外に出た。
もしかしたら、森の外は危険だらけかもしれない、食べ物もないかもしれない。
それでも、未知への好奇心が彼らを突き動かした。


好奇心は、自発性のエネルギーであり、生きるエネルギーだと思う。
自発的に森を出た祖先は、自発的に歩き、自発的に食べ物を探し、自発的に眠る場所を確保した。
自発的な行動は、新たな環境で生きる知性を発達させる。
そして、祖先はヒトになった。


現代の私達にも、祖先の“好奇心”は引き継がれているのだと思う。
子どもを見ても、そう思う。
子どもは、自ら遊び、自ら遊びを考える、誰から教わることもなく。
子どもにとって、この世界は好奇心でできている。
だから、子どもは自発的に遊んでいる。
そして、遊びを通して、ヒトから人らしくなるための成長を遂げる。


ヒトは、未熟なまま産まれてくる、それぞれの環境で適応するために。
だからこそ、祖先は私達に“好奇心”を引き継いだのだろう。
好奇心は自発性の源であり、自発性は成長の源であるのだから。
ヒトは、成長が運命づけられている動物ともいえる。


このように考えると、「ヒトがヒトを成長させる」ということに疑問が湧いてくる。
ヒトは、もともとが成長する生き物ではないだろうか、と思う。
ヒトを成長させるためには、「自発性を育む」のではなく、「好奇心を育む」のではなく、「自発性を阻害しない」「好奇心を奪わない」というのが正しいのかもしれない。
自発性が乏しい子を見たら、好奇心が発揮できない“何か”を見つけようとする自分がいる。

2016年10月19日水曜日

意味付けがなされなければ、ハンカチはただの布きれ

「ハンカチは、ただの“布きれ”。ただの布切れが、ハンカチになるには、手を拭かなければならない」
こういった感覚がふっと浮かぶようでなければ、特に知的障害を持った自閉症の子ども達の支援は難しいといえます。


ある親御さんから、「外出するとき、度々、ハンカチを持っていかないんです」という相談がありました。
もちろん、当地のスタンダード、構造化支援をやってのことです。
外出準備の手順書を提示してもダメ。
「外出には、ハンカチを持っていきます」という絵カードもダメ。
外出準備の空間を仕切ってもダメ。
「私の構造化が悪いんでしょうか?」と来たもんだから、上記の感覚が呼び起こされます。


最初に働いた施設では、何か指導する際、オリジナルの課題分析シートが使われていました。
まあ、オリジナルといっても、目標となるスキルに必要な動作を分けて分析、評価するのは同じ原理です。
で、この課題分析シートを使っていると、これじゃあ、立体的な評価はできないと感じたんです。
だって、どこで、どの段階で躓いているかはわかるけど、何で躓いているかが見えてこないんですもん。
つまり、この子ができない理由は
◎ある活動の一連の流れ(順番)がわからないのか?
◎力の入れ具合、手や指などの身体の動かし方がわからないorできないのか?
◎そもそもの意味や意義がわかっていないのか?
同じ“できない”でも、その理由、躓いている部分は、人それぞれです。


特に私の担当は、重い知的障害を持った子、強度の行動障害を持った子の支援でしたので、ざっくりとした課題分析では、スキルの獲得や行動の改善は難しかったんですね。
ピンポイントで躓きを見つけ、複数ある場合は、1つ1つ虱潰しのように丁寧に支援していき、最終目標であるスキルの獲得、行動の改善を目指していました。
そんな中で気が付いたんです、モノは概念であることを。


私達は概念で捉えているから、ゴミ箱を見て、ゴミを入れるものだとわかる。
でも、具体的に捉える人にとっては、ただの箱であり、プラスチックの塊であり、投げると面白く転がるものであり、触るとザラザラしてて気持ちいいものであり、いろんなもの(ゴミ)が入っているおもちゃ箱みたいなものであり…。
具体的に捉える人は、具体的な経験により、そのモノを意味づけしていく。
ですから、モノを使った活動ができないのは、モノを適切に使えない&誤った使い方をするのは、そもそも意味づけの部分に違いがある。
その活動の順番がわかる、道具の使い方、身体の動かし方が身についている。
でも、そもそもの意味がわかっていなかったり、その人オリジナルの意味づけをしていたりすると、スキルの獲得や問題行動の改善が難しい場合もあるのです。


相談のあった親御さんには、家の中のタオルをすべて無くしてもらいました。
そして、お子さんにハンカチを携帯してもらうようにしました、家の中で。
この子は、食事の前、トイレの後、帰宅後に手を洗う習慣は身についています。
ですから、食事の前、手を洗いに行くと、おやっと思うんですね。
その瞬間に、親御さんがすっとハンカチを指さしする。
で、ぬれた手をハンカチで拭きます。
ハンカチの意味づけですね、その布きれは、『手を拭くもの』という。
この子は、数日後、自らハンカチを持って学校に行くようになったそうです。
布きれが、ハンカチに変わった瞬間です。
以降、家のタオルは元どおりの場所に掛かっています。


コップは水を飲むからコップになるのであって、歯ブラシは歯を磨くから歯ブラシになる。
りんごは赤いからりんごになるのではなくて、食べたらりんごの味がするからりんごになる。
こういった連想が見たモノから浮かんでくるようになると、具体的に捉える子ども達の躓き、違いが見えてくるかもしれません。

2016年10月17日月曜日

自閉脳を活かすために治します

自閉症は脳のタイプの1つ。
だから、受け入れるとか、受け入れないとかいう次元の話ではないと思っています。
それぞれの人、脳みそに合った学び方、情報処理の仕方、生活の仕方があるのだから、その方法を見つけ、カスタマイズしていき、どんどん成長し、発達し、幸せになっていけば良いだけの話。
「その人が持って生まれたものをどう磨き、どう活かしていくか」が支援の中核だと考えています。


「治す」という言葉を使うと、「自閉症は一生治りません!」「治す対象ではありません!」という言葉が返ってきます。
私も、同じ意見です。
そもそも脳のタイプを治すという意味が分かりませんし、治すのではなく、活かす対象だと私は考えています。
ですから、「治す」という言葉が指すものに違いがあるのだと想像します。


治す対象は、妨げているものです。
何を妨げているかと言いますと、その人が持つ資質を活かすのを、です。
いくら資質を活かそうとしても、自閉症の症状が重ければ、妨げになってしまいます。
ですから、症状が少しでも軽くなるように、身体を整えたり、発達を促したりします。
また自閉症の人に見られることが多いけれど、理由が“自閉脳だから”ではない睡眠の乱れや姿勢、運動の不具合があれば、それも治します。
もちろん、自閉脳ゆえの情報の取り違い&ヌケ、想像の違いから生じる誤認識、誤学習も治す対象ですし、問題行動も治さなければなりません。


資質を妨げるものを治しても、自閉脳はそのままです。
むしろ治した方が、自閉脳らしく、その人らしく生きられるはずです。
感覚過敏に苦しんでいる姿、変化にパニックになっている姿、コミュニケーションで困っている姿は、自閉脳を活かした姿だとはいえません。
「これこそ、自閉症の人の姿だ」と固定観念を持っていたり、自閉脳と症状を曖昧に捉えていたり、症状を軽減、改善する方法を知らなかったりするから、「治る」という言葉に拒絶反応を見せるのです。


個性という言葉はあまり好きではありませんが、その人の持つ脳の個性を活かすためにこそ、積極的に治していかなければならないのだと思います。
多くの人がイメージする『自閉症像』が重ならない姿こそ、自閉脳を一番活かしている姿だと思います。
「えっ、あなた自閉症だったの?」と周囲から驚かれたり、気づかれもしない状態というのは、まさに治ったといえる状態ではないでしょうか。


自閉症が治った状態と、自閉脳を活かした状態は両立すると思います。
自閉脳を活かすために、妨げになるような症状は治していく。
症状を治していくのは、定型脳、普通の人になるということではありません。
自閉脳のまま、その人らしく幸せになる方法なのです。

2016年10月16日日曜日

「医師を通さないと、支援が進んでいかないシステムだから、病院に行くだけ」

「自閉症は治りません」と医師は言います。
じゃあ、どういう気持ちで精神科薬を処方するんだろう?
治らないし、治す気もないけれど、薬を出す。
その目的は、症状の緩和や改善のために。
だったら、そこらへんの支援者とやってることは一緒じゃんって思います、民間療法、医師以外の支援者を下に見るけれど。


薬は症状を緩和したり、抑えたりしますが、薬自体にその人を成長させる力も、発達させる力もありません。
「これを飲んだら、勉強ができるようになります」「これを飲んだら、脳機能が、運動機能が発達します」と言うならば、それこそ怪しい。
ですから、良い薬を見つけるよりも、良い支援者を見つける方が、その人の人生にとっては大きな意義を持つのではないでしょうか。


医師しか認められていないことは、薬を処方することと、もう一つ“診断する”こと。
今の診断技術では、表に出た症状だけで診断するしかありません。
つまり、どう頑張っても、その症状を観た人間の主観と力量が影響してしまいます。
医師によって診断が変わったり、診断基準が変わったりすると、同じ人なのに別の障害名が付くのはその典型でしょう。
仰々しく「診断」なんて言ってますけれど、実状はざっくりカテゴライズしているだけ。
「あなたは自閉症ね」っていう診断からは、その人の成長と発達に繋がるアイディアは生まれません。


数年前、今でも超メジャーな支援者が私にこんな話をしてくれました。
「日本の医師会は、“診断”の権利を手放したり、開放したりしないでしょう。あいつらにとっては、特権の一つだから」と。
また併せて必ず入り口が医療となっている弊害や、支援&療育のない服薬の弊害、ざっくりした診断が意味を持たないことなどもおっしゃっていました。
「医師を通さないと、支援が進んでいかないシステムだから、病院に行くだけ」
本人たちから、親御さん達から、「病院に行っても、何も変わらない」「ただ話をしに行くだけ」「話すことすらない」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶ言葉です。
端的に言えば、その一言に尽きると思いますし、私もそのように説明します。


医師は治そうと思っていない。
医師は薬による症状の緩和と改善を目指している。
症状の緩和と改善だったら薬以外にも方法はあるし、成長と発達なら医療よりも優れた機関、人がいる。
つまり、特別支援の世界は医療を通るように道が設計されているだけで、医療を通ったから幸せな道に出るのではない。
幸せに向かう道は、人それぞれであり、その人の選択にかかっている。
そして今は診断の道を通らなくても、幸せになることができる時代である。


それにしても、大部分の医師とは異なり、始めから治すことを目的としないのは、どんな気持ちがするのだろう?
医師を志したときは、患者を治そう、救おうと思っていたはずなのに。
だから、極端に求めず、極端に優しく振る舞うのだろうか。
だから、周りができることをやりましょうなのだろうか。
だから、眼差しを患者の未来ではなく、自分の未来へと向けているのだろうか。

2016年10月13日木曜日

「全米No.1ヒット」というフレーズをまだ使い続けますか??ギョーカイさま

昔、映画のCMでよく流れていましたよね、「全米No.1ヒット!」「全米が泣いた!」というナレーション。
小学生だった私は、「なんで全米No.1がこんなにたくさんあるんだ」「全米が泣いたっていっても、アメリカ人がみんな泣くわけないし、お客さんに来てほしいからオーバーに言ってるだけでしょ」なんてツッコミを入れていました(笑)
そういえば、近頃、こういったCMを目にしなくなった気が…。
まあ、2016年の日本人には、ときめかないですよね、このフレーズ。
今時、「アメリカで認められたから、すごいに違いない!」なんて思う人間なんていないでしょう…あっ、まだいた…。


数年前に断捨離を終えた私は、実生活でも、仕事でも、SNSでも、ギョーカイ臭のする人とはつながりをもっていません。
でも、時折、ネット上で流れてくるのを目にしたり、いろんな人からタレこみがあったりするんですね。
そうしたら、まだ「全米No.1ヒット!」に浮かれてんの!?って思っちゃうんです。


アメリカから〇〇大学の△△教授がやってきます、ナントカ療法の創始者、第一人者が来日しますっていう文言。
まあ、事実だから良いのですが、そこまで有難かる必要ってあるのって思いますね。
確かに日本で、生で話が聴けるのは貴重なものかもしれない。
でも、次々、出てくるナントカ教授、ナントカ療法がすべて素晴らしいものなのかはわかりませんよね。
第一、素晴らしいと言っているのは、その国の人であって、日本人ではない(そもそも誰が言ってるん??)。
しかも、それこそ「全米No.1」の人物で、全州の学校や病院、福祉でやられている療法ならわかるけど、その国にいる支援者の一人であって、療法の一つでしょ。
これって国が違うだけで、日本でも同じことはある。
「近年、アメリカで注目を集めている療法です」なんていう陳腐なフレーズもあるあるだけど、なんか新しい療法が出てきたら、どんなもんかなって注目する人は一定数いるでしょって感じです。


だいたい「日本の子ども達を幸せにするために!」なんてことはないですよ。
当然、一番の目的はビジネスですし、呼んでるギョーカイの方も、「海外から講師を呼べるんだ我々は」って日本、その地域での価値を高めるためにやってる。
よくパンフレット、資料の最後に「(国の)〇〇支援事業」とか、後援のところに行政の名前が書いてますよね。
あれも自分たちの価値、存在のアピールのために後援を取り付けてるわけですね。


あと海外からの講師に限らず、日本人の講師の場合でも、講演会などが終わったあと、「大変勉強になりました」「参加者から大好評でした」「また来年もご講演頂きたいという声が多数です」なんていうお決まりのフレーズがありますよね。
あれって誰が言ってるのかなって思いますよ。
本当に受講者が言ってるの??
だって、前にも書いたけれど、その講演の内容が素晴らしいかどうかなんて、自分の場所に戻って、実際にやってみて、ポジティブな結果が見えないとわからないでしょ。
そもそも「先着順です」「定員があります」なんて注意喚起しているけど、当日になっても「定員に達しました」というアナウンスが流れないじゃん、この頃のギョーカイセミナー(ブ)
参加者だって、関係のある組織から〇名以上出すって決まりの中で選ばれた人や、「あ~あ、せっかくの休みで家のことしたかったのに」と心の中で思ってる親の会のさくらの人も多いし(ブ)


ギョーカイの価値観って、いまだに「全米No.1」というフレーズを使っておけば、お客さんがたくさん来るだろうって思ってる一昔前のCMって感じですね。
ギョーカイはヘンに欧米の大学、教授、療法を有難がる。
でも、その一方で日本の(ギョーカイ外の)新しい療法、アイディア、人間を受け入れないし、下に見る傾向がある。
そして、「素晴らしい」と言っているのはお客さんではなく、催している側ってのも同じ匂いがしますね。


私が思う素晴らしい講演会、講師って、お客さんが素晴らしいと言っているかどうか。
その中でも一番が当事者の人が「素晴らしい」「やってみよう」と言っているかであり、その次に保護者の人が同じように言っているかどうかだと思いますね。
自然発生的に口コミやSNS等で「〇〇という講演会が素晴らしかった」「早速、実践してみたら、ラクになった、できるようになった」というのが本当に価値がある素晴らしいもの。
よくネットで流れてくる感想でいやにべた褒めだなと思ったら、ギョーカイ人がギョーカイ人を褒めてるのだし、ギョーカイ外の参加者から「良かった」という感想ないよねってパターン。
「今日は〇〇県で、『×××××』というテーマで(←そもそも何言ってるかわからない題名)講師を務めてきました」とFacebookに挙げてるのもギョーカイ人、べた褒めコメントもギョーカイ人、“いいね”もみんなギョーカイ人(笑)


今の映画と一緒で、良い映画は観た人が自発的にSNSで広めます。
配給会社とズブズブのギョーカイ人が、いくら「素晴らしい映画です!」と言っても、それだけでみんなが観に行って、大ヒットするような時代じゃないんですね。
ですから、そろそろ「全米No.1ヒット」と言って喜んでる自分たちの姿が恥ずかしいことに気が付いた方が良いと思いますね。
余計なお世話かもしれませんが。
自分にとってのNo.1を決めるのは、本人であり、親御さんです!

2016年10月8日土曜日

近い将来、支援者が“親御さん”ばかりになるでしょう

これから10年もしないうちに、“支援者が親御さんばかり”という時代がやってくると予想しています。
児童デイのスタッフも、学校の補助員も、就労支援の支援員も…。


労働人口の減少と、障害者福祉、教育にかけられる予算の削減で、一人の人間が働いて生きていくには十分な対価を得られない仕事になるでしょう(もうなってるかっ)。
でも、仕事自体はなくなることはない。
そうなると、この仕事を求める人は、対価以外の部分でやってくる人になります。
そこで増えてくるのが、障害を持った子を育てている、または育てた親御さんということになると思います。
労働と対価の差を埋めるのは、個人の“想い”ですから。


ギョーカイは癒着が激しいので、「(客観的に見て)どの児童デイが良いと思いますか?」と訊かれることがあります。
まあ、私が親御さんの主体性を奪うことも、親御さん自体が覚悟をもって選択できないのも問題なので、私は明確な答え、意見は言いませんが、考えるヒントは言います。
見学に行く際、事業所内で見るポイント、そして、どの児童デイにも、“親御さん”がいるので、その親御さんではなく、その親御さんの子どもさんを見て、我が子もその子と同じようになりたいと思うか、どうかが重要だという話をします。
「あの親御さんの息子さん、娘さんのように、将来なってほしい」と感じるのなら、入って損はないと思います。
むしろ、その親御さんの振る舞い、考えから、大きなヒントがもらえるはずです。
しかし、その反対もあるわけで…。


この小さな地域で、15年以上、この業界にいると、どういった親御さんで、どういったお子さんなのかがわかるのです。
正直言えば、他人のお子さんの支援をやっている場合じゃないでしょ、相談に乗っている場合じゃないでしょ、と思うことも少なくありません。
仕事として他人様の支援、相談をやっている場合じゃなくて、まずあなたのお子さんの成長、幸せのために動いてほしい、と思うのです。
我が子が問題行動で、その子自身も、周りも、大変な思いをしているのに、どの口が、どの手が相談、支援しているんだ、と沸々したものが湧き上がってくることもあります。
だいたいそのような人は、我が子の課題を「〇〇の支援が悪い、理解がない」と言って他人のせいにするのが相場なので、沸点に達する場合もあります。


私は親御さんに求めるものが大きいですし、ギョーカイの支援者より、かなり厳しいと思います。
それは第一に、親御さんの持っているものが、子どもの成長と未来に影響するから。
また、このままの福祉制度、特別支援教育が未来永劫続くわけがないから。
しかも、近い将来、もしかしたら今の子どもが、まだ成人する前に、大きな変化が訪れるかもしれないから。
そして、冒頭で述べたように“支援者が親御さんばかり”という時代が来るはずだから。


親御さんが支援者になったとき、ただ「私の子も障害を持ってました」では、適切な支援はできないと思います。
しかも、親御さんの基準は、いくらあとから勉強しようとも、研修を受けようとも、“我が子”になるはずです。
良い支援、悪い支援は、我が子基準になってしまうのは当然だと思います。
ですから、我が子を育てる際、いろんな方法を知ってほしいですし、学んでほしい。
そして、自分自身の頭で考え、手を動かし、子どもに合わせた支援を作り上げる経験をしてほしいと思うのです。
それが我が子の成長、将来の可能性へとつながりますし、もっと先を見れば、その親御さんが支援者になったとき、これから生まれてくる子ども達の支援へとつながると考えているのです。


ギョーカイは、どうあがいても縮小していくしかありません。
そうなれば、全国に散らばる少数の本物の支援者、残党のギョーカイ支援者、パートの一つです支援者、大部分の親御さん支援者となるでしょう。
私は、ギョーカイが消え去ったあと、次に特別支援を支えていくのは親御さん達だと想像しています。
だからこそ、私は本人たちの発達援助と同じくらい、親御さん自身にも私の関わりを見てもらい、感じてもらい、考えてもらうことを大切にしています。


*一年前のブログ『引き継ぎが日本語でできるとは限らない』も近未来を想像したものです。
どちらかというと、“親御さん支援者”の次にくる未来だと思います。

この児童デイは「どんな療育をし、どんな未来を辿るのか」を玄関の張り紙から想像する

近所の児童デイの窓にデカデカと「スタッフ募集」という文字が貼られていました。
作るのはいいけど、スタッフの目途を付けてから開所しないの??って思いますね。
というか、経験、能力豊かで初日からバリバリ働けるような人が来る可能性は低いので、ちゃんと開所前に研修しなきゃまずいんじゃないのかな?
だって、「一人ひとりの特性に合わせた療育」「自立に向けての療育」と、こちらもデカデカと貼られているのだから。


ここがそうかはわかりませんが、だいたい運営母体は札幌とか別のところにあって、そっから支店長みたいに社員が送られてくる。
そして、ほかのスタッフは、現地募集ってパターンが多いですね、近頃できたところは。
だから、開業日がもともと決まっていることが多くて、人がいなくても開所ってなっちゃう。
私が親だったら、こういうところには預けませんね。
だって、療育で大切な「準備」「アセスメント」「見通し」の甘さが垣間見られるから。
それに、人が人を育てるわけだから、支援する側の人も育っていなければならないでしょ。
人がいないんじゃ、育てようもないんだし。


経営重視の事業所は、制度が変われば、運営も変わります。
近い将来、事業所の報酬は減らされるはずなので、採算が取れないところは撤退していくと思います。
または社員一人で、あとはパートのみってなるでしょう。
それか、元利用者さんを障害者雇用で雇うっていうパターンも、就労支援の方の補助、報酬で賄うってアイディア。
いずれにせよ、本物の児童デイしか残らない時代がきますし、その児童デイを利用するにも順番待ちがあったり、小学生まで、障害の程度がこのくらいというような条件ができたり、当然、利用者負担は増えたりするはずです。


大事なことは、この近未来を念頭に準備しておくことだと思います。
学校や児童デイで学んだこと、身に付けたことがあれば、家でもやってみる。
もし足りない部分があるとすれば、ブーブー言う前に、他の支援者や方法、アイディアを見つけ、家庭で解決、成長を目指していく。
良いか悪いかは別にして、親の行動力、向上心、覚悟、センスが問われる時代がやってくると想像します。


これからも発達障害と呼ばれる子ども達が増えていくでしょう。
その一方で、学校の教員数は減らされていきますし、ここ数年でも教員を志望する若者は減っています。
もうすでに教員免許を持たない人が、パートで補助職員をやっているのです。
増え続ける発達障害の子どもに対し、申し訳ないが専門的知識があるとは言えない人、経験のない人が指導し、補助する時代がやってきます。
これは、私がNCで見てきた風景と重なります。
スマホをいじりながら、何か本人のアクションがあったときにのみ動く支援者。
契約の時間になったからといって、子どもの指導の途中で帰る支援者。
人を育てる仕事が、子どもの未来を応援する仕事が、パートの一つになる時代が。


特別支援の世界でも、格差が広がっていくと予想しています。
お金がある家庭は、民間を利用し、支援量と質を確保していくと思います。
しかし、家庭の裕福度以上に、親御さんの姿勢が格差を生むと考えています。
「今の制度が続いていく」「支援者に任せて置けば良い」というような受け身では、子も、親も、成長を続けられないと思います。
「何か良いアイディアがあるかもしれない」「もっと改善できるかもしれない、成長できるかもしれない」と思い、頭と身体が前へ前へと動ける人が、どのような時代になっても成長を続けられる。
そして、社会の中で持てる資質を活かしていけるのだと思います。


「新しい児童デイができたバンザーイ」
「“スタッフ募集中”早く見つかるといいな」
では、いけません。
ちゃんとひっかかりを持ち、そこから近未来を想像することが大切だと思います。
ちなみに私は、そこそこの事業所がどういった経過をたどるか、将来どうなるか、という近未来を予想するようにしています。
これも関わっている人の未来を具体的に想像するためのトレーニングです。
できるだけ少ない情報量で、正確に予測できるのが私の目標。
未来を育てる人間が、正確に未来を予測できないのでは、生き残ることができないと思いますね。

2016年10月6日木曜日

ギョーカイ語を介さずに、その人と触れあえる支援

施設で働いていた頃、毎日、一人ひとりの利用者さんの行動記録を書いていました。
今はありませんが、「自閉症児施設」でしたので、自閉症の特性を意識して記述していく必要がありました。
またトレーニングでも、必ず「自閉症」という文字を書いて記録を書くこと、保護者や他の支援者に説明するときにも、同じように「自閉症」という言葉を使うことを指導されました。


そういった流れで、今の事業を始めてからも「自閉症」という言葉を使って説明したり、報告書等を作成したりしていました。
でも、いつからか「自閉症」という言葉を使わなくなり、「発達障害」という言葉を好んで使うようになりました。
それは、発達を後押しする方法を教えてもらったから、発達していく人たちを見たから、だと思います。
「発達の障害」とも読めるのに、「自閉症」という言葉よりも、発達に向かった“動き”を感じるのが面白いです。
「発達障害」という言葉に、「やりようがある」「変わるチャンスがある」「成長できる」という想いを乗せて使っていたような気がします。


ところが最近、「発達障害」という言葉を使うのも止めている自分がいました。
「どうすれば生きやすくなるか?」「どうすればより良い未来になるか?」が大事なのであって、その後押しをするのが自分の役目という想いがより強くなりました。
ですから、「ちゃんと眠られるようになったら、頭も、身体も、ラクになるな」とか、「コミュニケーションが“相手とのやりとりである”って実感できれば、学校でも良い関係性が築けるな」というように、ちょっとでもポジティブな変化が訪れたら良いなって単純に思い、行動する自分がいます。


「発達のヌケや遅れを発達させる方法を教わりました。自閉脳と相性の良い方法を勉強し、実践してきました。その中で、あなたのお役に立てるものがあれば、提供します」というシンプルな気持ちでいます。
私が持っているアイディアが誰かのお役に立てるのなら、その人が自閉症か、発達障害か、なんて関係ありません。
みなさんが求めているのは、生きやすくなる方法、成長できる方法であって、自閉症支援でも、療育でもないと思います。


このように自然と思えている私は、今、とてもスッキリした気持ちで仕事ができています。
自閉症や発達障害という言葉を使わずに支援していると、「人が人を支援している」というイメージが湧いてきます。
人が人を支援しているとき、その間には「自閉症」「発達障害」という言葉は不要なようにも感じます。
人と人とのシンプルな関係になれれば、真の協働が生まれてくるんだという実感があります。


「自閉症」や「発達障害」などの診断名、「視覚的構造化」「課題分析」「コミュニケーションカード」などのギョーカイ語を世間の皆さんに広めることは、人と人との間に余計なものを挟み、どんどん距離を離していくようなイメージしか湧いてきません。
ですから、私は目の前の人との間にギョーカイ語を挟まない支援をしていきたいと考えています。
「ギョーカイ語を介さずに、その人と触れあえる支援」が理想です。

2016年10月2日日曜日

言葉は鳴き声を含んでいる

耳の中に入ってくるメロディー 歌詞は明るいのに
伝わってくるのは 重くて 苦しそうな雰囲気
でも 今度のアルバムから聴こえてくる雰囲気には 
以前ほどの重さも 苦しさも 感じられなくなった
少し軽くなったような気がするし 少しラクになったような気がする
何かは分からないけれど 何かが変わったのは確かだと思う


言葉を獲得し ヒトは人になった
人は言葉を自由自在に操り 「お前たちとは違うんだ」と動物たちの前に線を描く
しかし 勝ち誇ったように掲げるその言葉にも ヒトが含まれている
私達の内から出てくる音は ヒトの鳴き声でもある


鳴き声には 感情の匂いがする
だから 同じ言葉に触れても 漂う雰囲気はまるで別のものになる
明るい歌詞で 暗い曲のように
言葉は変えられても 匂いは変えることができない


いつも美辞麗句を並べ 「当事者のため」「より良い社会のため」と言う支援者がいる
でも 私の内側から共感が生まれてはこない
なぜだろうと 自分でも疑問に思っていた
そして出た答えが その支援者の言葉の中に“悲しい鳴き声”が聞こえるから


「障害も素晴らしい個性です」と言って “治ることのない人達”という鳴き声が聞こえてくる
「当事者のために頑張ります」と言って “私のことを注目して欲しい”という鳴き声が聞こえてくる
「自立できるように支援します」と言って “どうせ無理”という鳴き声が聞こえてくる
こんな鳴き声が聞こえていた私は 発する言葉に嫌悪感を懐いていたに違いない


悲しい鳴き声の支援者は 明日を照らす支援はできない
相手の持つ悲しい感情と共鳴するから
明るい鳴き声の支援者が 目の前にいるヒトの前向きな感情に触れることができ 心地良いハーモニーを奏でられる


その人の言葉 文章 ブログ ツイッターから どんな鳴き声がきこえてくるのだろう…
自分にとって心地良い鳴き声を 聞き分けられているのだろうか?見つけられているのだろうか?