好奇心が自発性の源

昨日、北海道では雪が降った。
いよいよ季節は、秋から冬へと移っていく。
動物にとって、厳しい季節の到来である。


もしヒトの祖先が“好奇心”を持っていなければ、今も私達は森の中で過ごしていたかもしれない、と想像する。
好奇心があったからこそ、森の外を覗いてみたくなった。
そして、森の外に出て行った動物たちがヒトへと変わっていった。


森の中にいれば、変わらぬ生活を送れたはず。
しかし、私達の祖先は自らの足で森の外に出た。
もしかしたら、森の外は危険だらけかもしれない、食べ物もないかもしれない。
それでも、未知への好奇心が彼らを突き動かした。


好奇心は、自発性のエネルギーであり、生きるエネルギーだと思う。
自発的に森を出た祖先は、自発的に歩き、自発的に食べ物を探し、自発的に眠る場所を確保した。
自発的な行動は、新たな環境で生きる知性を発達させる。
そして、祖先はヒトになった。


現代の私達にも、祖先の“好奇心”は引き継がれているのだと思う。
子どもを見ても、そう思う。
子どもは、自ら遊び、自ら遊びを考える、誰から教わることもなく。
子どもにとって、この世界は好奇心でできている。
だから、子どもは自発的に遊んでいる。
そして、遊びを通して、ヒトから人らしくなるための成長を遂げる。


ヒトは、未熟なまま産まれてくる、それぞれの環境で適応するために。
だからこそ、祖先は私達に“好奇心”を引き継いだのだろう。
好奇心は自発性の源であり、自発性は成長の源であるのだから。
ヒトは、成長が運命づけられている動物ともいえる。


このように考えると、「ヒトがヒトを成長させる」ということに疑問が湧いてくる。
ヒトは、もともとが成長する生き物ではないだろうか、と思う。
ヒトを成長させるためには、「自発性を育む」のではなく、「好奇心を育む」のではなく、「自発性を阻害しない」「好奇心を奪わない」というのが正しいのかもしれない。
自発性が乏しい子を見たら、好奇心が発揮できない“何か”を見つけようとする自分がいる。

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