2016年11月23日水曜日

書店全体から見た“障害児教育”のコーナー

階段を上って、専門書のコーナーに向かう。
馴染みの棚の前に立ったときに、私は気が付いた。
「そういえば、久しぶりにここに来たな」と。


数年前までは、よくここに来ていた。
新しい書籍が並べてあれば、手に取り、中を確認。
知識の更新とともに、療育の流れ、支援者の流れを感じていた。


いつからか、新刊を見ても、手を伸ばさなくなった自分がいた。
中身は分からない。
ただ、タイトルと誰が書いたかを見えば、私にとって、いや、私が関わらせてもらっている人達にとって、必要な書籍かどうかは見えてきた。


目的の書籍がない限り、“障害児教育”のコーナーには行かなくなった。
答えは、この棚の外にある、と感じたから。
心理学、生物学、脳科学、人体、進化、健康、歴史…私をワクワクさせた。
それと同時に、日々の仕事に活きるヒントが手の中に集まっていた。


手の中に集まったヒントを眺めていると、「自分は人を育てる仕事をしているんだ」という声が聴こえてくる。
障害児教育の棚の前をうろうろしていた自分は、人を育てる仕事はしていなかった。
ただ自閉症支援に携わっていた人間だった。
自閉症支援という狭い世界の中をうろうろ歩き回っていた人間だった。


障害児教育のコーナーは、書店全体から見れば、とても狭い空間。
その狭くて小さな空間では、障害者としての成長、より良い生活、幸せになれるヒントが得られるかもしれない。
でも、私が日々、関わらせてもらっている人達が求めているものは、そこにはない。
「障害者として」ではなく、「人として」の成長、より良い生活、幸せになるヒントだから。


いろいろな支援や療育を受けていても、良くならない人がいる。
良くならないということは、そこには答えがないのかもしれない。
20代の私のように、障害児教育の棚の前をうろうろしているのかもしれない。
いくら片っ端から手にとっても、そもそも答えがない場合もある。
障害児教育の大前提は、障害を持ち続けていることだから。


この頃、思うことがある。
人としての発達、成長を援助できる支援者というのは、決して障害児教育の棚の前だけにいるような人間ではないことを。
答えが見つからないのなら、そもそもそこには答えがないのだ。
ギョーカイの常識の外に、人としての幸せがある。

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