2016年12月30日金曜日

不満を持たれるような事業所を遺しているのは誰か?

サービスに不満があっても
子どもがイヤイヤ通っていても
全然支援してくれなくても
ただ部屋に鍵をかけて、見ているだけでも
ただ時間つぶしをしているだけでも
成長どころか、むしろ問題が増えても
スタッフが素人でも
通ってくれれば、1万円が入る仕組みになっているのです、児童デイは。
もちろん、より良い支援を、より良い時間を、と考え、技術とサービスの向上に努める児童デイはたくさんあります。
でも、それは個人という“人”がそうしているのであって、仕組みがそうなっているわけではありません。


お子さんが通っている児童デイの不満を言う人がいます。
「でしたら、通わなければいいじゃないですか?」というのが、私の意見です。
だって、お子さんの大事な時期、大事な時間なのですよ。
いくら放課後の数時間だったとしても、その子にとっては学びと成長の時間です。


私がこのようなことを言うと、「そもそも児童デイに期待していない」「怪我さえしなかったら、それで良い」「子どもが楽しんでいるようだから」などと返ってくることが多いですね。
児童デイは自腹で1万円を払っているわけではないので、「まずいけれど、使えるもんは使っとこ」という感じでしょう。
「放課後も、将来に向けてより良い時間を過ごしてほしい」と仕組みができ、予算がつき、広がってきた児童デイも、結局、誰の時間を良くしたのか、って感じです。


あと多いのが、「家で過ごせないから」という意見。
だから、不満があっても児童デイに通いますっていうのです。
でも、だったら、家で過ごせるようにするのが優先事項じゃないですかね。
家で過ごせない子が、児童デイに通ったからって家で落ち着いて過ごせるようになるわけではありません。
家で過ごせない子が、年齢を重ねていったら、どうなるでしょうか?
いつかは家で過ごせない“子ども”が、家で過ごせない“大人”になるのですよ。
卒業後、みんながみんな、グループホームや入所施設に入れたらよいけれど、もし通所施設しか利用できなければ、どうしますか、家での時間を。
休みの日だってありますよね。
ですから、児童デイの不満を言っている場合ではありません。


子どもの大事な時期、時間を不満があるような場所に通わせないでほしい、というのが私の願いです。
それは我が子にとっても、後輩たちにとっても良くないことなのですから。
冒頭で述べたように通い続けることで、事業所には1回1万円が入ります。
この1万円が入り続ける限り、事業所は続いていきます。
どんなサービスをしようとも、ただ見ているだけでも、事業所はやっていけるのです。
つまり、不満を持たれるような事業所を生き延ばしているのも、サービスが向上していかないのも、実は不満を持ちながらも利用している人がそうさせているともいえるのです。
いくら利用者の内側に不満があろうとも、事業者にとっては通う=支持されている、ということになってしまうのです。
後輩たちに、不満を持たれるような児童デイ、福祉資源を遺しているのは誰なのでしょうか?


児童デイだけではなく、就労支援、相談支援の事業所など、「無料だから」と言って、不満があるのに通い続けている人がいるから、どんどん質の低下を招いているのだと思います。
不満があるのなら、私にではなく、直接、言葉に出して、態度に出して、行動に出して表現しなければいけません。
一人ひとりがはっきり「支持しない」と表明する必要があるのです。
それが特別支援の質の向上へとつながり、未来の子ども達へのより良い支援へとつながっていくのです。
あなた達が嫌うギョーカイを生き延びさせているのは、不満を持ちながらも利用し続ける人達です。
ですから、もともとギョーカイを嫌い、ギョーカイと距離を取り、ギョーカイを潰そうとしている私に不満を言っても、何も変わらないのです。


不満があるということなので、利用していても、当然、お子さんの成長は期待できないでしょう。
それに親御さんが裏腹な態度をしているのでは、お子さんはまっすぐ育ちません。
そういうのが、分かりづらいのが、自閉っ子の脳みそでしょ。
混乱しちゃうのが、自閉っ子の脳みそでしょ。
誤って理解し、記憶し、実践しちゃうのが、自閉っ子の脳みそでしょ。
親御さんが内なる基準に沿って選択ができない、行動に移せない、いくら嫌な相手でも、いくらダメだと分かっていても「NO」が言えない、態度に出せないというのは、自閉っ子にとっては困るのです。


税金を使うことがダメだと言っているわけではありません。
でも、使うからには、良いものを遺してほしいと思うのです。
それは我が子の成長のための時間を、将来のための時間を。
そして、これから生まれてくる後輩の自閉っ子達のために、地域に良い資源を。
大人が「ダメなものはダメ」とはっきり伝え、行動することが、自閉っ子を育て、事業所を育てるのです。
一人ひとりにできることはあります、社会を良くするためにできることが。

2016年12月28日水曜日

「児童デイをやりませんか?」と言われて

児童デイと言えば、「一緒に児童デイ、やりましょう」とか、「大久保さんも、児童デイを起ち上げられたら」とか言われることがあります。
また「見学に来てほしい」とか、「アドバイスください」などというのもあって、実際に伺ったこともあります。
でも、児童デイを起ち上げる気もないし、(今のところ)業務提携した児童デイはありません。


児童デイをやりましょう系の人達は、だいたい顔に『金』の文字が書かれています。
人と建物さえ確保できれば、簡単に儲けられる、というのが頭にあるのでしょう。
そうですよね、1日1万円の公金で、オープンすればお客さんの方からやってくる状態ですから。
商売すること自体は悪いとは思いませんが(私も商売してますし)、商売する気で児童デイをやるなら、ちゃんと商売の勉強されてからお越しくださいね、って感じです。
ただ単に、私の経験、私の名前、私のお客さんを当てにしてすり寄ってくる人が多すぎです。
「支援は大久保に任せておいて、自分はお金儲けを…」というのがバレバレ。


そうは言うものの、今の事業を起ち上げる前は、児童デイの形態も考えなかったわけではありません。
一緒にやろうとする仲間もいたので、どうしようかなって思うこともありました。
でも、私は経営者にはなりたくなかったし、組織を作るつもりもなかった。
ただ「自閉症の人と直接向き合って支援がしたい」という想いが強かったのです。


私は経営の勉強などしたことがありませんし、商売はズブの素人です。
それに組織を作れば、人を育てなければなりません。
この仕事をしていて思うのですが、支援者を育てるなんていうのは無理な話です。
育ててもらおうなんて思っている人は、ハナから育たないし、自分で育っていこうと思う人しか育っていかない、と考えています。
だいたい支援というのは、センスです。
いちいちアセスメントシートを取りだしてアセスメントしているような人に、支援者は向いていないのです。


人と人とが向き合う仕事なんです。
同じ人でも、同じ状態ということはありません。
刻一刻と変化しますし、その人の持つ資質や成長する力、課題や未来の姿などは目に見えないものです。
常に変化し、目に見えないものを援助する仕事である支援者は、勉強して、資格を取ってうまくなるようなものではありません。
もちろん、知識と技能を獲得していくことは大事ですが、それ自体が目的ではなく、センスを磨くことが目的だと思います。


私は経営の素人で、支援者を育てることは無理だと思っています。
ですから、児童デイを起ち上げるつもりはありません。
業務提携した児童デイがないというのも同じ理由で、私がポッと行ってアドバイスしたり、実践したりしても、ただのモノマネにしかなりません。
「こう実践していたから」「こうアドバイスされたから」といって、常に変化し続ける子どもさんに同じ支援していたらダメでしょ。
私も日々支援していますが、訪問するまでは「こんなことをしよう」と頭にあっても、本人と会った瞬間に内容を変えたり、順番を変えたり、実践していく中で本人の反応を見て変化させます。
まあ、当然といえば、当然のことなのですが。
私は間接的にだったとしても、子どもさんのマイナスになるようなことはしたくありません。
あとは、見学した児童デイで「我が子を通わせたい」と感じたところがなかったのも大きな理由ですね。

2016年12月27日火曜日

見えるものにこだわりだしたら、賞味期限が近いぞ、支援者は

スーパーに行くと、山積みされたチキンが置いてありました。
つい2日前までは、「クリスマスチキン☆」なんて言われてもてはやされていたのに、今は値引きのシールが貼られ、賞味期限を待つばかり…。
中には、「お正月のご馳走に」なんて顔(いや、足?)で並んでいるのもあるけれど、どう見てもクリスマスの売れ残り。
いくらパッケージを変えても、賞味期限が迫っているのは変わりがありません。


特別支援の世界に入って15年くらい経ちますが、支援者の賞味期限がわかるようになりました。
だいたい支援者っていうのは、見えるものにこだわりだしたら、賞味期限が迫ってきてるんですね。
例えば、やたら魅せる支援グッズを作りだしたり、なんでもかんでも資格を取りだしたり。
他にも、高価な専門書や支援器具を集め出したり、やたら著名な支援者と知り合いになろうとしたり。
Facebookでどんな人が友達か、何人友だちがいるか、「いいね!」の数なんかにこだわりだしたら、もう賞味期限はすぐそこまでの5割引シールです。
で、自分で専門用語や資格、グッズを作りだしたら9割引シールで、それに万単位のお金を取りだしたら廃棄商品状態で、もう支援者ですらなくなります。


一方で、鮮度の良い支援者というのは、見えないものにこだわる人だと思います。
子どもの成長や未来、発達課題や気持ちなど。
変化として確認することはできるけれど、それ自体は見ることができません。
でも、本人の生活、人生にとってはとても重要な意味があるもの。
この見えないものを援助するのが支援者の役割であり、存在意義なんです。
だからこそ、見えないものにこだわる人が支援者であり続けられる。


しかし、見えないものにこだわり続ける、というのは、大変なことでもあります。
だって、見えないのですから。
子ども自身も、親御さんも、他の支援者も、見ることができません。
ですから、支援者自身に揺らぎが出るのです。
「自分の支援が正しいのか?効果があるのか?」
実際に、親御さんや他の支援者から言われることもあります。
で、大半の支援者というのは、資格や肩書なども見えるもので、相手、または自分自身の心をねじ伏せようとする。
揺らぎへの抵抗が見えるものへのこだわりとして表れるのだと思います。


見えるものというのは、ラクなんですね。
「私の支援は効果がありますよ」と見せるのも、取得するのも(だいたいはお金があれば手に入れられるので)。
ですが、ラクな分、ハマりやすく、またハマればハマるほど、子どもから、支援者の役割から遠ざかっていく。
支援者の役割は、子どもの成長、発達、課題を援助することですからね。
子どもさんにとっては、資格があるかどうかよりも、治す支援者が良いに決まってます(もちろん、親御さんにとっても、社会にとっても)。


支援者は、見えないものにこだわり続けなければいけません。
そして、こだわり続けるには、見えるものに逃げないためには、信念が必要だと思います。
私の支援者としての信念は、「その人の内側に成長する力、発達する力、解決する力がある」というものです。
ですから、私の支援は、「邪魔をしない」「阻害しているものを取り除く」「持っている力を引き出す、加速させる」になります。
そのために日々、必要な知識、技能を身に付ける努力をしていますし、信念があるので揺らぎに動じず、支援者としての役割を見失わなくて済むのだと思います。


本物の支援者は、みなさん、信念を持った人ですし、見えないものにこだわり続けている人です。
また他人から見えない場所で、おのれの腕を磨くための努力が続けられる人。
信念を持たない人、失った人から、揺らぎ、見えるものへと心が奪われ、支援者としての賞味期限が近づいていきます。
こういった支援者は、まるでスーパーに山積みされたチキンのようです。
信念がないので、新年が迎えられずにオサラバです。
チキンなので、ギョーカイと闘うことができず、支援者としてはレイムダック、死に体ですね(ブ)

2016年12月23日金曜日

福祉の世界で感じた体育会系のノリ(ブ)

小学生のとき、地域のサッカークラブに入っていました。
中学校にはサッカー部があったのですが、一度見学したら入部したい気持ちがなくなったのです。
雰囲気が合わないと感じたから。
どうも私は体育会系の雰囲気が合わないというか、嫌いなようです。


身体を動かすことは好きだったので、体育会系の匂いが少ない陸上部に入り、高校は憧れの高校球児に。
高校野球といえばバリバリの体育会系ですが、私が入学した高校は同好会の雰囲気があったので、入部を決意しました。
で、3年間、野球部で目一杯スポーツを楽しみ、大学では体育会系の匂いを嗅ぐことなく、4年間を過ごしたのです。


長く避けてきた体育会系の匂いを再び嗅ぐことになったのが、社会人になってからです。
配属された施設の扉を開けた瞬間、そこはまさに体育会系の匂い。
部室のような淀んだ空気に、職員から漂う体育会系の雰囲気。
心身共にタフさが求められる施設だからこそ、こういった人員が求められるのだ、と解釈していました。


私も働き出して数年が経つと、後輩たちも大勢入ってきます。
すると、体育会系の雰囲気を持った人が多い多い。
どうして体育会系ばかり?と思っていたら、その答えを教えてくれた後輩がいました。
「専門学校でも、福祉系の大学でも、就職先が決まらない学生の中で、「とにかく体力だけあります!」みたいな学生がいたら、福祉施設を勧めるんです、担当教官も、就職担当の職員も」
これを聞いて、なるほどと思いました。


私は教育大だったので、福祉の世界はぜんぜん知りませんでした。
でも、気が付けば、福祉施設には保健体育の免許を持つ人が少なくない。
私のような特別支援の教員免許と同じくらいいる。
つまり、保健体育の教員は、小学校や特別支援学校、中学高校の主要五教科の採用と比べて、かなり採用枠が少なく、免許を持っていても、よっぽど優秀な人でない限り教員として働くのは難しい。
そうなると、福祉が就職候補に上がってくる。
だって、教員免許ほど、潰しが利かない免許はないから(ブ)
ほとんどの教員は、教員以外で働くのは難しい人ばかり(ブ)(ブ)
だから、体育会系の人が福祉の世界に集まりやすいのだと思いました。


上を見ても、体育会系ばかり。
下を見ても、体育会系ばかり。
そりゃあ、いくら療育の考えが入ろうとも、ノリは体育会系から変わらない。
自分たちが知っているのは、先輩からのしごき、監督からの理不尽な懲罰、とにかく耐えれば&鍛えれば身につく、という受けてきた指導。


よく福祉事業所で、職員からの虐待の話が出てきますが、あれは本人からしたら指導しているつもりでいるのが多いと思います。
だって、きちんとした指導方法なんて知らないし、モデルになるのは部活の先輩と監督くらいだから。
「遊びのつもりで」とか、「スキンシップで」とか、「利用者さんには愛情を持って接してきました」なんてコメントする職員もいますが、あれは全部体育会系のノリで利用者さんと関わっているだけ。
それが社会一般では認められない行動だし、外から見れば虐待、イジメにあたることに気が付いていない。
だって、体育会系のノリでは許されてきたことだから。
こういう社会一般の常識は上司が指導するはずなんだけど、上司も体育会系だったりすると、一緒に楽しんじゃうバカもいるのです。


障害者福祉の世界にいましたが、そこにいたのは兄弟に障害を持った子がいた人、自分がしてほしかった支援をすることで、過去の自分を癒そうとする人、弱い立場の人と関わることで、自分の存在意義を確かめようとする人、そして体育会系の人ばかり。
志をもって福祉の世界に進んできた人も少なからずいますが、そういった人は長く施設にはいないのです。
大学時代、飲み会でバカ騒ぎしている学生を横目で見て、「私は、こんなつもりで大学に入ったんじゃない」と嫌悪感を懐きませんでしたか?
あのときと同じ気持ちになるのです、福祉の世界にいると(ブ)
ですから、志ある者は福祉の世界に入ると、すぐに出たくなるのです。

2016年12月22日木曜日

私の周りにいる皆さまへのお願い

私が『てらっこ塾メソッド』なるものを発表したら、止めてください。


この世に完全なるオリジナルのものなどは存在しません。
それはただ私が過去に学んだこと、教わったこと、知ったことを寄せ集め、勝手に名前をつけているだけです。
目新しいものではなく、あたかも価値のあるようなものに見せかけるためのテクニックの一つなのです。
現状がうまくいっていない人に「もしかしたら、このメソッドがあれば、現状を変えられるかも」と淡い期待を持たせ、ひっかけるためのものなのです。


第一、どんな人にも効果のあるメソッドなど、存在するはずがありません。
一人として同じ人間はいません。
特に発達の凸凹が大きい発達障害の子ども達を一色単に、またはいくつかのカテゴリーに分けられるなんてことはあり得ないのです。
いくら文明が進化し、時代が進もうとも、人を育てるためのマニュアルはできません。
いつの時代も、人を育てるのは個別の試みであり、アナログの作業なのです。
その原理原則から離れるのが、メソッドの発表です。
ですから、メソッドの発表を始めたら、「こいつは金儲けに走った」と捉え、叱ってください。


私が仲間を集め出したら、止めてください。


それは自分自身の心を満たそうとするための行為です。
群れを作る際、自分より優位な人ばかりを集める人はいません。
どこかで「こいつよりも、自分の方が優れている」という思いが持てる者を集め、群れを形成するものです。
つまり、自分より劣っていると感じる人達を周りに置くことで、「自分ってすごいかも」という優越感を持とうとしているのです。


仲間を作ると、優越感を得られますが、一方で群れを維持するために養う必要がでてきます。
当然、腕の悪い仲間もいます。
群れが大きくなればなるほど、腕の悪い仲間が増えていくわけで、その分のお金が必要になります。
そうなると、私は直接的な支援以外でお金を稼がなければなりません。
私のような商売の素人でも思いつく方法は、きっとグッズを売りだすか、ライセンスビジネスでしょう。
ライセンスビジネスは、すぐに合格してもらっては困りますし、受講者同士で競争心をあおった方がより長く儲けられるので、レベルを何段階か作り、更新制にするはずです。
経費を考えれば、ほとんどかからないのに、アセスメントや受講、また更新手続きに万単位のお金がかかるのは、そういった仲間を養うための経費が含まれているのです。


SNSで集合写真をアップし始めたら、支援者としての終わりの始まりです。
集合写真のど真ん中に陣取り始めたら、末期症状です。
既に支援者としての寿命はつきています。
何故なら、支援者とは中心に立ちえない存在だからです。


支援をする際、中心にいるのは、常に子どもです。
子どもが持つ資質、子どもの内側にある伸びたい力を援助するのが役割。
人生の主人公は、その子であり、伴に歩んでいくのは、家族、パートナー、友人。
そこに、いつまでも支援者の場所はないのです。
支援者は役割を終えたら、すぐにその子の人生からフェードアウトしなくてはいけません。
それが“自立”であり、親御さんと社会が求めていることだから。
集合写真の中心にいたら、フェードアウトしにくくて仕方がありません。
支援者とは、常にすぐにフェードアウトできる位置にいなければいけません。
ですから、仲間を集め出したら、それは自分自身の支援を始めた証拠です。
ひと様を支援するから支援者なのです。
支援者の役割を放棄した私には、支援者を辞め、まずは自分自身を治すよう忠告してください、子どもさんと親御さんの迷惑になりますから。


私が奇抜な格好をし始めたら、止めて下さい。


子どもを支援するのに、奇抜な格好は必要ありません。
子どもは、ラクにしてくれる人、発達と成長を援助してくれる人を求めているのです。
奇抜な格好をするのは、自分のことを特別な存在で見て欲しい、という欲求の表れです。
または、カリスマ性を持たせるためのキャラづくりです。
キャラがはっきりしている方が、本物を見抜く目を持たない人にとっては目立つ存在に映ります。
「カリスマ先生に任せている」という安心感と、「カリスマ先生に任せているんだから」という責任転嫁でラクをしたい人をひっかけるためのものなのです。
支援者がカリスマかどうか、本物かどうか、は子どもの変化のみによって決められるのです。
ですから、奇抜な格好をし始めたら、「そんなことに割く時間があったのなら、腕を磨くために時間を使え」と叱ってください。


もし、皆さまからお叱りを受けたあとも、私の行動が改まらなかったら、どんどん批判し、この事業を潰してください。
今まで私が批判し続けてきたギョーカイと同じように、子ども達、親御さん達、社会の足を引っ張りたくはないのです。
これが最後のお願いです。

2016年12月8日木曜日

愛着障害と支援者

今日の午前中は、頭の中からこの言葉が離れませんでした。
「愛着障害と支援者」
今朝、このことについて考えるきっかけをいただいたからです。


私は、愛着障害を持つ支援者は嫌いです。
というか、愛着障害をまったく持たない人はいないので、自分のそれに気が付いていない支援者が嫌いです。
なぜなら、子どもに自分自身を重ねちゃうから。
なぜなら、私に寄りかかってくるから。


自分の愛着障害に気が付いていない、または意識が及んでいない支援者というのは、自分がしてほしい(してほしかった)支援、言ってほしい(ほしかった)言葉を子どもに行おうとします。
本当は自分自身の内なる声なのに、あたかも目の前の子どもから発せられているように感じてしまう。
よりリアルに感じられるので(もともと自分の内なる声だから)、その子の状態、発達段階、ニーズが目に入らなくなっちゃうんですね。
見ているのは自分自身ですから。
これじゃあ、子ども側のニーズと自分が行いたい支援の間で不一致が生じてしまいます。


また、「その支援、子どものニーズに合っていない」「こっちの支援のほうが良いのでは」などと他の人から言われると…
自分の支援が否定された→自分(過去も)否定された→(私はこんなにも子どもの気持ちがわかるのに←いやいや、それはあなたの内なる声だから)あなたは子どもの気持ちがわからない支援者だー、となってメンドクサイことになります。
全然、話し合いにならないんですね、支援ミーティングとかでも。
途中から感情論みたいになって、純粋に子どもの話ができなくなってしまう。
いつの間にか、支援者自身の話みたいになっちゃうことが多々あります。
より良い支援を作り上げるのではなく、自分の支援、というか、自分自身を認めてもらうことがメインに。


このように、自分自身の愛着障害に気が付いていない支援者というのは、子どもの支援をやっているようで、自分の愛着障害を癒そうと動いてしまっていることがあります。
そうなると、ひと様の支援なんてできないですよね。
たまたま自分のニーズと、子どものニーズが一致すればよいでしょうが。


あと、私自身が困るのは、支援者同士だったはずなのに、途中から寄りかかってくることです。
「私は、あんたの支援者じゃねー」というヤツです。
普通の大人同士、ビジネスパートナー同士だったら、「やらんだろう!」というのを平気でやってきます。
失礼な態度、目的が“反対”になっちゃってる意見、支援の話と言いつつ自分の話を一方的にして聞いてもらおうとする、なんでも認めてもらおうとする、称賛を受けたいなって態度をする、注目を集めようとわざと場にそぐわない行動をする…。
私は「支援者のマスターベーション」と呼んでいるのですが、目的のわからない不必要な支援ミーティングを度々開き、お互い称賛しあうってヤツも、一種の甘えであり、愛着障害の表れだと思っています。
まあ、「私を使って自分の回数券を切ろうとするんじゃない」って思いますね。


ひと様の支援を行う者は、自分自身の愛着障害に気が付いてほしいし、意識してほしい、と思います。
また、その愛着障害について、自分自身で乗り越えようと行動できる人、そして乗り越えられる人が、より良い発達援助ができるようになるのだと考えています。

2016年12月6日火曜日

そろそろ「早期療育」の結果が出る頃では?

そういえば、そろそろ“早期療育”の結果が出てもおかしくない頃ですね。
私が学生だった頃、「早期療育で、子どもの将来が変わってくるんですぅ~」「日本でも早期療育を~」なんて言われ始め、実際にせっせと診断し、せっせと療育をやっていましたから。
もう15年くらい経ちますので、成人している人達もいるはずです。


「早期療育のおかげで、私は一般就労できました!」
「早期療育のおかげで、息子は支援者の手を借りず、自立して生活できています!」
という言葉は聞こえてきませんね。
私が知る限りでは、早期療育を受けてきたお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、どっぷり支援に浸かってしまっている。
自立どころか、支援、または支援者から抜け出せなくなっている人ばかりです。


確かギョーカイ連中が「早期療育をー」と叫んでいたとき、「将来の自立につながる」と言っていました。
でも、全然自立してないじゃん。
むしろ、どっぷり浸かって、「支援がなきゃダメ」みたいな体になってるんじゃん。


何を始めるにも、「まずはソーシャルストーリーを書いてからじゃないと~」とか、「活動のスケジュールを用意して~、手順書も、COMカードも」とか、「問題が起きたから、〇〇さんに相談しなきゃ~」とか…。
本人もそうだし、親御さんもそう。
あることが当たり前になって、ないと不安になる。
これでは、どんどん可能性は狭まるばかりで、ギョーカイの言う「自立」ではなく、本当の「自立」は遠のいていきますよね。
これがギョーカイが訴えてきた早期療育の結果なんです。


ギョーカイが早期療育をして何を得たか?
そう、長く付き合えるお客さんですね。
早期療育とは、自分たちが支援で関われる期間を伸ばし、他の機関、人達にお客さんを奪われないようにするための(姑息な)アイディア。
簡単に言えば、親も、子も、よく分かってないうちに唾をつけておこう、ということ。


「子どもの将来、支援がなくとも、支援が必要でもより少なく生きていけるように」が早期療育の目的であり、社会全体にとっても意義のあることなのです。
それが、自分たちのギョーカイを永らえるためしかなっていなかったとしたら…言語道断ですね。
こんなことをしていたら、社会からそっぽを向かれ、結局、自分たちの首を絞めるだけ。
まあ、そもそもギョーカイという小さな世界の尺度だけで生きている人達には、社会のニーズには応えられないか(ブ)
最初から彼らに“自立のための”早期療育は無理な話だったのです。


いま、社会の中で活き活きと生活している若者たちをみると、みなさん、早期療育を受けてこなかった人ばかりです。
というか、受けていたとしても、療育から離れていって、どっぷり浸からなかった人たち。
ですから、将来の自立に必要なのは早期療育ではないんですね(もちろん、早期からの発達&成長は必要ですよ)。
いくつになっても、発達するし、成長します!


今思うと、ギョーカイが言っていた「早期療育」の意味に気づけるかどうかが、運命の分かれ道だったような気がします。

2016年12月2日金曜日

支援者ってキモチワルイ仕事だなぁ~

支援者って、つくづくキモチワルイ仕事だと思います。
だって、親でなければ子でもない、親戚でなければ友達でもない赤の他人が、「支援」の名のもとに他人の生活の中に入りこんでいくのですから。


私が支援を受けるんだったら、「ほっといてくれよ」「なんで、あんたに相談しなきゃならないんだよ」「どうして、私が困っている前提なんだよ」って思うはずです。
もし自分から望んで支援を受けたとしても、相談することの恥ずかしさ、嫌悪感はあるはずで、できれば早く課題を解決して「この人とオサラバしたい」と思うでしょう。
決して「ずっと支援を受け続けたい」とは思いません。


「生涯に渡る支援」という言葉を耳にすると、これは当事者の口から出た言葉ではないと思うのです。
できれば、「支援を受けずに、自らの足で歩きたい」と思うのが、自然な感情だと思います。
それは重い知的障害、行動障害を持った人達と接しても、「決して望んで支援を受け続けたいんじゃない」という想いは伝わってきます。


じゃあ、この「生涯に渡る支援」は、誰の言葉なのか?
それは、(大部分の)支援者の言葉であり、(一部の)親の言葉であるのだと思います。
支援者は、支援し続けることで、仕事も、立場も、充足感も、得られることができます。
また、親は「生涯に渡る支援」という言葉があるおかげで、自分の負い目、自分の子育てから目を背けることができます。
厳しいことを書くようですが、「生涯に渡る支援」という言葉は、そんな両者が生みだし、好んで使ってきた言葉だと思っています。


でも、この「生涯に渡る支援」という言葉は消えていくはずです。
たとえ消えなくても、使う人は少なくなるはずです。
何故なら、支援者の手を借りずに、また借りたとしても、そこから自立し、社会へと羽ばたいていった人達がたくさん出てきたのですから。
そんな姿を見て、自分の本心に蓋をしなくて良いことに気が付いた当事者の人達は、これから自立への想いを益々強くしていくでしょう。
また障害の程度に関わらず、「我が子には自分のことは自分でできるようになってほしい」「できれば他人の手を借りずに自らの足で歩んでほしい」と願う自然な想いに、親御さん達も突き進んでいくでしょう。
そういった想いがある人からは、出なくなる言葉です。


「生涯に渡る支援」という言葉は、支援者を選ぶ上でキーワードになります。
自立させる支援者と、自立させない支援者。
当事者側に立った支援者と、支援者側に立った支援者。
腕で勝負している支援者と、口で勝負している支援者。


「生涯に渡る支援」という言葉には隠れている文字があって、それは「生涯に渡る支援(がしたいよ)」という部分。
「生涯に渡る支援がしたいよ」という支援者に、大事な我が子を預けたいと思いますか?
というか、我が子がそれを望んでいると思いますか?
それくらい信頼できる人間なのですか、支援者という肩書がなくても。
街で会えば、大半がただのオジサン、オバサンです(ブ)


支援者は、キモチワルイ仕事だという自覚がないといけないと思います。
そういった自覚がないから、ズケズケと土足でひと様の心の中に入ろうとする。
そういった自覚がないから、いつまでも支援者と当事者の関係を続けようとする。
動物界に協力する者はいても、支援する者はいない。
だから、支援者とは不自然な存在であり、人工的な存在。
だからね、できるだけ短い期間、人生の一時だけで良いんです、関わるのは。
「生涯に渡る支援」という言葉は、不自然なのです、当事者の内側から湧き出た自然な言葉ではないのです。