2017年1月28日土曜日

タバコの気配

私はタバコを吸わない。
だから、少しの匂いでタバコの存在に気が付く。


施設で働いていた頃だった。
帰省から戻ってきた子どもからタバコの気配を感じると、すぐに着替えてもらい、その日の入浴はいつも以上に気を使った。
私の個人的な嫌悪感からではなく、「この子をこのままの状態にしていては良くない」という感覚的な行動だった。


ご家庭に訪問したとき、子どもの目の前で、プカプカとタバコを吸っている親御さんに驚いたことがある。
20歳までタバコは吸えないようになっているのだから、子どもの近くでは吸わない方が良いのは明らか。
お子さんの発達について心配している一方で、その子の目の前でタバコを吸っている。
だから私は「お子さんの前ではタバコを吸わないようにしてください」と伝えた。
「なんで、そんなことも言われなきゃならないんだ」と顔には書いてあったが、「わかりました」と返事があった。


子どもは、昨日できなかったことが今日できたり、教わったことがすぐにできたりする。
これは急激に脳が変化している表れ。
ということは、未熟であり、未完成であり、未発達の脳の持ち主なのだ。
子どもの脳は、良い刺激だけではなく、悪い刺激にも影響を受けやすい。
だから私は、子どもの発達に悪影響を及ぼしかねないことは指摘させてもらっている、タバコ以外にも。


脳の機能不全の背景には、発達の遅れ、ヌケだけではなく、脳への悪影響、ダメージという場合も少なくない、と感じている。
子どもの脳から「〇〇をやめてって伝えて」という声が見えることもある。

2017年1月27日金曜日

「支援級へ」が雑過ぎ

この頃、支援学級への勧め方が雑になったような印象を受けます。
もうちょっと昔は、自分のクラスで頑張らせようとする先生も多かったし、塾や家庭教師、家庭学習などを勧めて、学校以外の機会で学力の遅れを取り戻させようとしていた気が…。
でも、近頃は、ちょっと学力で遅れが見られたら「支援級へ」となるし、授業中、フラフラや友だちとのトラブル、学校を休みがちも、全部「支援級へ」。


意地悪な見方をすれば、「多様な学び、ニーズ」という文言を利用して、ただ学級の人数を減らしたいだけじゃない、と思っちゃいますね。
「とにかく支援を受けましょう」という意味ではギョーカイの啓発活動は目的を達成してる。
だからこそ、学校のみなさん、「負けるなよ」「騙されるなよ」「教育をやれよ」「福祉になるなよ」と言いたいですよ。


事業名に「塾」という文字が入っていたり、事業の形態が家庭教師なので、「支援級を勧められました…」「通常学級で学ばせたいです」という依頼がコンスタントにきます。
私の個人的な意見としては、きちんと学力が身につくなら通常級でも、支援級でも、良いと思っています。
でも、実際にお子さんとお会いすると、通常級で学んでいった方が良いと思う子ばかりです。
だって、その子自身のニーズとして個別対応、個別支援が浮かんでこないから。


昨年、LDという診断を受けた子どもさんの相談がありました。
確かに、授業にはついていけてないし、テストの点数もよろしくない。
読むのも苦手だし、書くのも苦手。
でも、テストの答案に書いてあった「なまえ」の文字を見ると、きれいな文字で書かれていたんですね。
これって書くのが難しいんじゃなくて、書く練習が足りないだけじゃない。
そこから毎日、書く練習をしてもらいました。
同じように教科書や本の音読も。
そしたら、ちゃんと書けるようになったし、読めるようになった。
テストの点数も上がったので、それ以降、支援級の話はなくなったし、私の支援も終了です。


私が助言したことは、何も特別な内容ではありません。
字が書けないから、毎日、書く練習をした。
読むのが苦手だから、毎日、音読をした。
ただそれだけ、当たり前のこと。
それを診断基準を満たすからって「LD」とつけた医師も雑だし、「LDなら通常級は無理」と考えた教師も雑。
書く練習をしたけれども、それでも文字が書けない。
読む練習をしたけれども、それでも読むことができない。
いろんな個別な対応、工夫をしたけれども、やっぱりできない。
そこで、「もしかしたら、文字をきちんと捉えられていないかも」などと機能的な問題を疑う。
というのが、自然だと思いますが。


ギョーカイの啓発は、「支援を受けましょう」ばかり。
でも、強調するのは、もっと本質的な部分だと思うのです。
支援が必要な人と、そうではない人の違いこそ、社会に広く伝えるべきことでしょう。
そうしないから、医師も、支援者も、学校も、支援を利用することばかりに目がいってしまう。
さっきのLD(と診断を受けた)の子、お母さんが違和感を感じなければ、主体性がなかったら、そのままLDとして歩んでいったんです。
支援級に行って、本人のニーズとは異なった教育を受けていた可能性があったのです。
まだ子どもとは言え、一人の人間の人生を左右しかねない事象をみんな雑に扱い過ぎ(怒)


今までの経験から、勉強&練習不足以外にも次のような理由が考えられます。
乱れた生活習慣。
睡眠不足。
偏った食事。
テレビやDVDの観過ぎ。
長時間のパソコン、ゲーム、スマホ。
夫婦の不和。
落ち着かない家庭環境。
いじめ。
運動不足。
身体、動きの未発達、ヌケ。
たばこ。


学習に遅れ、集中力の低下、落ち着きの無さ、衝動的な行動などは、脳と関係していること。
脳を育む段階の子どもたちなら、良い影響だけでなく、悪い影響も受け取りやすいのです。
それくらいデリケートな脳をもつ子ども達。
①「子どもに悪影響を及ぼしていることはないだろうか?」と考え、それを絶つこと。
②「遅れを取り戻す方法、成長できる方法はないだろうか?」と考え、その方法を実践すること。
③そして、それでも課題が解決しないのなら、その子の機能的な問題に意識を向けていけば良いのだと思います。
①②をすっ飛ばすのは、雑な仕事だといわれても仕方がありません。


このブログに書いたことは、専門的な内容ではなく、自然に思い浮かぶ内容です。
ギョーカイの啓発のせいで、学校と親御さんが惑わされているだけです。
私が訪問し、偉そうに言うべき内容でも、お金を頂いてやる内容でもありません。
勉強に遅れが見えるのなら、勉強する。
一般的な勉強の仕方で成果が出ないのなら、その子に合わせて工夫する。
子どもに悪影響を及ぼすことは避け、より良く育つ環境を整える。
勉強ができる段階、準備ができていないのなら、その部分を補い、育てる。
「特別支援」という言葉が生まれる前から、親子の間で、学校と生徒の間で、自然にやっていたこと。
人工甘味料みたいなギョーカイの言葉に慣れてはいけません。

2017年1月19日木曜日

「腕を磨く」という意味の違い

「腕を磨く」という言葉から、「新しい技術を身に付ける」「身に付けた技術を向上させる」という風に連想する人が多い…ということに改めて考えてみて、気がつきました。
私は今までもっぱら「腕を磨く」=「視点を増やす」だと思って、支援者という道を歩いてきました。
だって、支援者は自分ではなくて、他人を支援する者だから。


技術は自分に属するものであり、視点は他人に属するものです。
技術が増えれば増える程、自分がより良く見られます。
視点が増えれば増える程、他人がより良く見られます。
いくら技術を持っていたとしても、他人のために活かせなければ、それはただの所有物にすぎません。
でも、視点が増えれば、その人を深く、立体的に捉えることができ、必要な援助の創造へとつながっていきます。


私は研修でも、専門書でも、そこから教わることが具体的になればなるほど、鬱陶しく感じ、自らボヤッと捉えるよう距離をおこうとします。
具体的な手順や方法などは、実際に人と対峙するときに邪魔になるのです。
同じ発達障害でも同じ人間はいないわけで、しかも、その瞬間瞬間で臨機応変な対応が求められる仕事です。
ですから、より具体的な方法が頭に残るということは、無意識に頭の中の方法へと引っ張られてしまう危険性が出てしまいます。
必要なのは、その方法のエッセンスであり、視点です。
エッセンス、視点を自分の中に取り入れることができれば、あとはその人に合わせて援助していくだけなのですから。


物と対峙する仕事の人間は、「腕を磨く」というのは、己の技術を高めること。
それがよい仕事へとつながるから。
しかし、支援者というのは、他人を支援する仕事なので、その他人のことを第一に考えなくてはなりません。
そのためには、その他人を知ること。
ですから、支援者の言う「腕を磨く」は、他人、もっと言えば、人を知るための視点を増やす営みのことを指すのだと私は思うのです。

2017年1月18日水曜日

アセスメントシートが生まれる意味

以前、アセスメントシートを作ったことがあります。
自閉症の特性とか、コミュニケーションとか、遊びとか…。
いろんな文献、研修資料から引っ張りだしてきて、自分たちの組織で使いやすいように、とアセスメントシートをせっせと作った覚えがあります。


アセスメントシートというのは、2つの側面があると思うんです。
それは「視点」と「均質」。
視点については、私の場合は親御さんを意識し、「こんな視点でお子さんを見てみてください」「私達は、こんな部分に注目して支援しています」と分かりやすく伝えることに重きを置いていました。


均質については、なんせ離職率の高い職場でしたので、どんな職員でもある程度はできるように、という目的がありました。
「最低限、ここくらいは見てくださいな」という思いと、外に対して「ちゃんと支援しているよ」と見せかけることが目的でした。
同じシートを使って、どの利用者さんも同じようにアセスメントしていたら、なんとなくやっているように見えますよね、実態はともかく。


本当にセンスがあって、良い支援者というのは、アセスメントシートなんていりません。
有名どころの療法では、必ずと言っていいほど、正式なアセスメントシートがありますが、それは下手くそでもアセスメントできたように感じさせるためのもの。
だって、アセスメントこそ、その人のセンスが問われる部分はないのですから。
そんな支援の入り口のところで、「この療法は、私には無理」と思われたら、その療法を学んでもらえないでしょ、使ってもらえないでしょ、資格取ってもらえないでしょ。


そもそもシートに書き出せるくらいで、アセスメントが終わるはずがありませんね。
生身の人間ですよ。
今、目の前にいるその人を構成しているのは、受精からの歩みであり、環境であり、学習です。
常に揺らぎ、変化が生じ、一瞬として同じ状態のない存在なのですから、いくら事細かく項目があったとしても、そのすべてを網羅することはできませんし、一瞬を切り取ったときから、すでに違う存在になっているのです。


「先行条件」が云々かんぬんっていうのもありますが、それくらい単純化しないと支援ができないという意味であり、ハードルを低く設定して多くの人に使ってほしいという意図が見えますね。
アセスメントシートは、アセスメントを単純化させ、普通の人を支援者にするためのアイディアです。
本来の意味の支援につながるようなアセスメントとはかけ離れたもの。
決してセンスのある支援者のためのものではありませんね。
ナントカ療法を教える側の人間は、いちいちアセスメントシートに書き込みません。
だって、シートができる前から、的確なアセスメントができ、良い支援ができたセンスのある人なのですから。


近頃、つくづく支援というのは、感覚が大事だと思います。
目の前で、その人と対峙した瞬間、その瞬間を的確に切り取れるというか、嗅ぎ分けられるような感覚。
頭で「コミュニケーションのレベルが」とか、「集中のレベルが」とか、「体調が」とか、「過去の経験が」とかやっていたら、支援まで進んでいきませんし、そうこうしているうちに別の存在に変化していますね。
それにその時々で、アセスメント項目の重み、意味合いは違ってきますし。
センスがある支援者とは、その瞬間瞬間を嗅ぎ分けらる感覚の持ち主であり、そこから過去からの物語、未来への物語が描ける人のことだと思います。


「この人、すごいな」と思う支援者って、いちいちアセスメントシートに書き込んで支援するような人ではないでしょ。
アセスメントシートに書いている瞬間、頭の中で考えている瞬間、その人は別の人へと変わっている。
だから、感覚的に掴むことと、過去~現在~未来の物語を描けることが的確な支援へとつながっていきます。
アセスメントシートに真面目に書き込んでいる支援者というのは、そもそも支援者に向いていないのです(ブ)

2017年1月13日金曜日

専門知識を増やすことに突き進んできた結果

ある支援者がこんなことを言っていました。
「この地域には勉強熱心な親御さんが多い。だから、親御さんが知っていることで、支援者が知らないということはあってはならない」と。


この発言を聞いて、みなさんなら、どのように感じるでしょうか?
自分が支援者という立場でしたら、「そうだよな。親御さんに尋ねられたとき、わかりません、とは言えないよな。当然、プロだったら、親御さんよりも専門知識が多くなければいけない」と思われるかもしれません。
自分が保護者という立場でしたら、「仕事としてやっている人間が、親よりも知らないなんてことはあり得ない。たくさん勉強して、専門家として頼れる支援者であって欲しい」と思われるかもしれません。


私は、と申しますと、この一言につきますね。
「くだらねー」
この支援者は、ビジネスの支援者であり、治せない支援者だとすぐに分かりましたね。
こんなくだらないことを堂々と言える姿から、この地域の問題が浮かび上がってきます。
この地域は、時間が止まったままです。
それは、この発言が表すように、支援者も、親御さん達も、誤った方向へと努力を続けてきてしまった結果だと言えるでしょう。


親御さんが知っていることを支援者が知らなくても、どーってことはありません。
そりゃあ、「自閉症って何ですか?」「発達障害って何ですか?」というようなレベルは問題ですよ。
でも、ナントカ療法のナントカっていう名称とか、方法とか、知らなくても問題ないでしょ、きちんと本人の課題をクリアし、成長を後押しし、治せれば。
親御さんと知識量比べをして、何の意味があるのでしょうか。


専門知識が増えれば増える程、良い支援ができるのなら、こんな簡単な商売はありません。
だって、とにかく勉強して、とにかく資格を取っちゃえばよいのですから。
でも、実際はそうではありませんね。
生身の人と対峙するのですから、感覚的な部分が重要になってきます。
また知識でなんとかしようとするのは、発達障害を根本的から理解していない証拠でもあります。
人間脳より深い部位と、生まれたあとだけではなく、生まれる前の物語が重要なのですから。


支援者とは腕がすべてであり、結果で評価されるものです。
腕を磨く過程で、専門知識が増えていくのは自然ですが、専門知識を増やすことが腕を上げることだと捉えているのはナンセンス。
こういったナンセンスな支援者たちが、ナンセンスな価値観を親御さん達に与え、結局、「知識は増えましたけど、子どもは変わりません」になるのです。
横文字&専門用語をたくさん知った親御さん達を増やして、どうするの?って感じです。
大事なのは、発達や成長を促すためのエッセンスであって、専門知識ではないんです。


この地域では、「よく勉強している先生」が良い支援者であり、「よく勉強している親御さん」が良い親御さんということらしいです。
いつの時代のお話ですかって感じですね。
こういう単純な思考が、時を止めている原因。
専門知識がなくても、子どもにポジティブな変化があったら、それで良いのです。


「親との協働」と高々に掲げながらも、「親御さんより知識がなくては」なんて考えている時点で矛盾していますね。
子どもを中心に、お互いが持つエッセンスを出し合い、より良い変化を起こすのが協働ではないか、と私は考えています。

2017年1月12日木曜日

相談の文面から伝わってくる美しさ

地元では人気のない私ですが(笑)、ほかの地域に住んでいる方から相談のメールや電話を頂くことがあります。
「ホームページを見て」ですとか、「ブログ、いつも読んでます」とか、そういったネットを通じて私のことを知ってくださった方達がほとんどです。
事業開始当初、「この地域で相談業務はやるんじゃね~」という横やりが入りましたので、表だって相談支援はしていませんが、ご縁があって連絡をくださった方達ですので、直接支援をしている方達と同じように全力で応えさせていただいています。
まあ、実際は「相談くらいでお金とるんじゃないよ」という想いがありますし、やはり直接関わること、そして本人にポジティブな変化が起きることが、この事業の中心ですので、それ以外でお金を頂くことは考えていませんでした。


相談にお応えしたあと、後日、「息子がこうなりました」「娘が成長しました」というような報告を頂くことがあります。
大変ありがたいことですし、日本のどこかに成長できた子どもさんと、それを喜ぶ親御さんがいることを感じられるので、うれしく思います。
それで、いつも「大久保さんのお蔭で」なんてことを言われますが、私にはそのような能力はないのです。


実は最近、ご相談のメール等がよく来るのです。
別に「迷惑だ」とか、「やめてほしい」とか言いたいわけではないんですね。
ただネタバレをしておいた方が良いのかな、って思って綴っているのです。


私が思うに、私に連絡をとった時点で、ほとんど課題は解決している、といえます。
何故なら、会ったこともない人間に、そして良く分からない怪しい事業をやっている人間に、飛び込みで直接連絡をとっているのです。
しかも、そのほとんどの内容が、大切な我が子に関することです。
知らない人に対する怖さ、不安と、少なからず相談することの恥ずかしさもあるのだと思います。
でも、それを乗り越えて、「我が子がより良くなるために」と、連絡をとる。
こういった強くてまっすぐな想いのある人のお子さんが、課題を乗り越えられないはずはないですし、成長できないはずもないのです。
ですから、私に相談したから、課題が解決したのではなく、親御さん自身が子どもさんの今と未来に真剣に向き合い、行動を起こしたから、課題が解決したのだと思います。


表現は適切ではないかもしれませんが、“しつこい”くらい連絡がくる方もいます。
でも、その“しつこさ”は嫌いじゃないですし、美しくも感じるときがあるのです。
だって、そうじゃないですか、しつこいというのは、それだけ我が子のことを想っているとも言えませんか。


「無料だから」「何か得られたら儲けもん」という卑しさや、「これ以上、訊くと迷惑になるかも」という遠慮は、電話口からも、メールの文面からも伝わってきます。
そして、それらは人間の部分がやっていること。
しかし、美しさを醸し出すしつこさの中には、もっと動物的な、野性的なヒトの姿を感じるのです。
「我が子を何が何でも自立させてみせる」
「我が子を何が何でも守ってみせる」
というような本能が突き動かしている姿が見えたとき、私の人間でない部分が共鳴するのだと思っています。


ブログの文面からもお分かりのように、迷惑なときは「迷惑」と言いますし、卑しさを感じる人からの相談はすぐに打ち切ります。
同じように失礼な人に対しても。
でも、そういった人はほとんどいなく、私も心から応じたいと思う方達ばかりです。
電話を掛けた時点で、メールを打って送信した時点で、子どもさんはすでに前へと歩き始めているはずです。


最後に、私がいつも「相談業務はインチキだ」という意味をお分かりいただけたでしょうか。
つまり、一部のカリスマを除いては、相談者の課題を解決するのは、相談機関の人間じゃないんですね。


相談機関の人間が、どんなアドバイスをしようとも、結果を大きく左右させることはありません。
他者からのアドバイスを聞いて、そのまま鵜呑みにして行動しちゃう人は、例えたまたまうまくいったとしても、すぐに別の課題にぶつかり、再び困ってしまいます。
そして、またアドバイスを貰いに…というような人は、そもそも課題を解決するのが無理な話。
反対に、他者からアドバイスを訊いても、自分の頭で考え、再構築し、良いエッセンスだけを抜き取れるような力を持つ人は、相談機関の人間云々に関わらず、課題を解決できます。
ですから、我が子の課題を解決するのも、より良い成長に繋げるのも、親御さん自身にかかっているのです。


時折、「相談業務やってます、エッヘン」「多くの相談者の課題を解決しています、エッヘン」という支援者がいますが、それは営業トークですし、ほとんどの相談機関の人間には占い程度の効果しかありません。
結局、占いと一緒で、相談者が何を得て、何を考え、どう行動するか、が未来を決めることなんです。

2017年1月5日木曜日

計画通りに舵が切られた「放課後等デイサービス」

私が学生の頃は、重宝されていました。
障害を持った子ども達の、また成人した人達の余暇活動支援においてです。
15年くらい前は、学校が終わると、ほとんどの子ども達が家で過ごしていました。
当然、働きに出ているお母さんは少なく、朝、学校に送りだしたら、子どもが帰ってくるまでに家事を済ませ、そこから寝るまでは付きっ切り、という家庭が多かったのです。


当時は、今のような放課後デイはなかったので、私達のサークルには依頼の電話がたくさんかかってきていて、学生ボランティアを集めても、集めても、足りないくらいでした。
私自身も、たくさん掛け持ちをし、4年生の頃には、月~日まで誰かしらのお宅に訪問し、家で過ごしたり、外出したりしていました。
交通費のみ、という面も大きかったかもしれませんが、1時間でも、2時間でも、一緒に過ごさせてもらうだけで、親御さん達からいつも感謝の言葉を頂いていました。
夕方に差し掛かったりすると、「夕ご飯、一緒に食べてって」と言われることも多く、学生の身としては温かい家庭料理を頂けることも、親御さん達からの有難いお返しの1つになっていました。


私が福祉施設で働き出して数年が経った頃から、児童デイができ始め、ここ数年で雨後の筍のように当地にも出現するようになりました。
学生時代の経験から、当時の親御さん達が望んでいたサービスがようやくできた、という思いで、喜んだというよりは、ほっとした気持ちになったことを覚えています。
それと同時に、「1日1万円」という事実にひっかかりを持ちました。
これは、10年くらいかけて数を増やす作戦だなって。


制度を作る人達は、いわゆるエリートと呼ばれるような人達です。
いくら10年前と言っても、超高齢化社会になることも、福祉予算がどんどん膨れ上がることも、国の制度もこのままでは立ち行かなくなることも、当然、理解していたはずです。
それなのに、出てきた制度は「1日1万円」
平日なら数時間ですし、休みの日でも8時間くらいなものです。
1日5名の利用があっただけで、5万円。
それが1ヶ月になると、5万×6日×4週で120万。
で、単純計算で年間1,440万円。
事業者からしたら、場所と人さえ確保できれば、十分利益が計算できる制度になっています。


地方でしたら、一軒家を借りても、そこまで経費はかかりませんし、職が少なく、無資格でも十分な給料を貰えるなんていったら、おいしい商売です。
事業者にとっては、大盤振る舞いの制度。
でも、社会は右肩上がりではないし、しかも、児童デイは国民全体が利用するサービスではない。
ということは、資源のない今は、とにかく種を撒き、たくさん芽を出すことが、ねらい。
でも、その芽が出たあと、しっかり種を撒く量をコントロールし、余分な栄養をとってしまう芽は摘んでしまおう、というところまで青写真はできていたのだと思います。
そして、とうとう摘み取りの時期がやってきたのです。


昨日、厚生労働省から放課後児童デイの運営に対する厳格化の方針が発表されました。
利益優先の事業者、ほとんどケアをしていない事業者、「覚悟しておけよ」という通知のようにもみえますね。
そもそも放課後児童デイは、障害のある子ども達のための制度。
事業者を儲けさせるための制度ではありませんね。
子ども達の学びや成長の機会を提供すると同時に、子ども達の将来を意識した制度です。
当然、制度を作った方からしたら、また社会のニーズとしても、より意義のある時間を過ごしてもらうことによって、将来の納税者、もしくはより支援を必要としない自立した大人になってほしい、という目的があります。
時々、勘違いされている方がいますが、お母さん方に働きに出てもらうための制度ではないのですね。
それは、働きに出ることで納めている税金の額と「1日1万円」を見比べれば、わかります。


昨日のニュースを見て、2017年はまさに時代が変わる分岐点だと思います。
4月から厳格化されていき、今まで以上に厳しい目で事業者の姿勢、力量、また利用している子ども達の成長が見られることでしょう。
不正を行っている事業所から、当然芽が摘まれていき、ある程度摘み取られたあとは、質の悪い事業所に手が伸びていくはずです。
10年かけて種を撒いてきたので、10年かけて芽を摘む作業が行われていくはずです。
そうなると、保護者の方の目も厳しくなっていくと思われます、支援の質と効果に。
「何が何でも児童デイ」「お金かかんないから児童デイ」とはならないはずです。
事業所の数も減ってきますし、より良い支援が行えない事業所以外は生き残れなくなるからです。


私は、今回の方針を歓迎しています。
それは改めて「子ども達が中心である制度」であること、「子ども達の将来の可能性を広げるための制度」だと表明されたからです。
その作用として、親御さん達の意識がさらに我が子の育ちと将来へと変わること、事業者のサービスの質が上がることを期待しています。
児童デイを利用する方は、今以上に、積極的に支援の内容と質、効果に注目し、子どもさんの未来のために活用しながら、主体的に成長へと繋げていってもらいたいです。
今頃、部屋に鍵を閉めて好きなように遊ばせていた事業所、構造化された支援と言いながら、狭い衝立の中で、ひたすらビデオを見せ続けていた事業所、「疲れていたから」と言って、ずっと寝かせていた事業所は、正月ボケから一気に目が覚めたはずです。

2017年1月4日水曜日

より良い社会を遺すのは、私達大人の「義」である

大晦日、被害妄想を膨らまし、ツイッター上で言いがかりをつけてきた人がいました。
私が「児童デイに1回1万円の税金が使われている」という情報をツイートしたことに対してです。
そのツイートを見て、脊髄反射を起こし、ありえない恐怖感を膨らましたのでしょう。
世の中に安心感を持てずに生き続けてきた姿が、やりとりの中から見えるようでした。


この人物の妄想と暴言は、ひどいものでした。
ですから、転載はしません。
ご覧になりたい方は、私のツイートを辿って頂ければ、と思います。


この人物の過去のツイートには、「役所で怒鳴り散らし、我が子の支援決定を取り付けた」というようなことが記されていました。
このツイートを見たとき、次のような連想をしました。


「役所で暴れ、支援決定を得た自分」
「私の児童デイ1回1万円のツイート」
「脊髄反射、自分が責められている」
「抑圧された生活」
「上下関係」
「上から押しつけられてきた人生」
「意思決定させてもらえなかった幼少期」
「頭ごなしに指示されることへの反発、抵抗」


そして、昨日、私は「役所で怒鳴り散らし、我が子の支援決定を取り付けた」ということに対し、以下のようなツイートをしました。


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こういう人間がいることも知ってほしい。
高齢者が増えたから、社会に理解がないから、必要な子ども、家庭に支援が届かない?
予算も、資源も、増えてきている。
でも、それに群り、たかる事業所と同じように、こういう親がいるのだ。


この1枠があれば、学び、成長できた子どもがいたかもしれない。
この1枠があれば、働きに出られた親御さんがいるかもしれない。
この1枠があれば、救われた家庭があったかもしれない。
障害児を持つ親だから何をしても良いのか?
福祉課の職員の前で怒鳴り散らしても良いのか?


こういう人間がいるから、本当に必要な人に支援が届かない。
こういう人間がいるから、「障害児の親ってメンドクサイよね」「関わりたくないよね」って思ってしまう人が出てしまう。
こういう人間がいるから、福祉資源を有効活用し、より良い我が子の未来を願う親御さんの足を引っ張るのだ。

どこの誰かわからない人間がどうなろうとも知ったことではない。
思春期の息子だったら顔写真を載せられることも、しかもそのツイート上で「高齢者はいなくなれ」というように呟いていることも耐えがたいと思うし、(明らかに)人権侵害。
被害妄想でいいがかりをつけてきたことに私怨を晴らしているわけでもない。

ただ知ってもらいたいと思って行っている。
私が(1月)1日にツイートしたものが、拡散して頂いた方達のおかげで、2000以上の目に触れている。
その2000の目でしっかり事実を見て、考えて欲しい。
これは障害者福祉に限ったことではないと思う。

私のツイートを見て、どう感じるのか、どう自分が行動しようとするのか。
この人間の周りは、死んだふりの人間ばかりである。
じゃあ、自分だったら?
同じように死んだふりをする?
児童デイを使っている人も、「当たり前」「金かかんないし」ではなく、もっと子どものために、と思えるのではないか?

子どもの未来のために、どんどん資源は活用してもらいたいし、もっと枠が増え、本当に必要な人が安心して使えるような社会になってほしいと思う。
でも、このままでは続かないのは目に見えている。
高齢者の方達と同じような状況に、近い将来なる。
そんなとき、一番辛い思いをするのは弱い立場の人。

もともと「利用しても、しなくてもよいや」「福祉課で暴れて、貰えたら儲けもんだ」というような人は、困らないのだ。
一番困るのは、本当に福祉の手が必要な人であり、それに支えられることで生活している人達。
そういう人たちが苦しむような社会、未来にならないために、自分はどう行動するのか?

K市役所障害福祉課の方には頑張って頂きたい。
「この家庭には必要がない」と判断したのだ。
もっと他に必要な家庭がある、と思ったはずなのだ。
いくら怒鳴られても負けてはいけない。
必要な家庭に支援を渡すのが、彼らの義を通すことなのだから。

一人ひとりが己の「義」を貫き通すことが、より良い社会を子ども達に遺すことになるのではないか。
子ども達の発達、成長に関わっている人間は、特に「義」を大切にできる人であって欲しい。
私達が子ども達を送りだそうとしているのは、社会である。
自分だけ良ければいい、という小さな世界ではない。

将来の社会を作っていくのは子ども達である。
その子ども達の育ちに関わる人間が、不義の人であってはならない。
見て見ぬふりをするような人であってはならない。
卑怯なまねをし、己だけの利を欲する人であってはならない。
「義を見てせざるは勇無きなり」
より良い社会を遺すのは、私達大人の義である。

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2017年1月1日日曜日

より良い社会を目指す方たちと共に

何年ぶりでしょうか、というくらい久しぶりに函館で新年を迎えました。
今朝は雲がかかっていて、綺麗に初日の出とは言えませんでしたが、雪もほとんどなく、穏やかな元旦でした。
妻が用意してくれたおせちをいただき、神社へ参拝。
昨年の感謝と、今年も温かく見守っていただけるよう手を合わせてまいりました。
大切な家族と一緒に新しい年を迎えられたこと。
この“とき”に感謝し、「有難い」と思った気持ちを大切に、今年一年も過ごしていきたいと思っています。


今日から新たな1年が始まりますが、1年というのはあっという間だと思います。
そして、あっという間の1年が積み重なっていくのが、人の一生。
小さいときから、私は「人の一生は短いな」と思っていました。
ときに、高齢になった自分の姿を想像し、「人生、あっという間だったな」と言うんだろうな、と思うことがありました。
その気持ちは、今も持ち続けています。


高校の野球部の監督が、「俺の人生の最後は、野球をやっていて良かったと思って死にたい」と話してくれることがありました。
だから、お前たちにも野球をやって良かったと思ってほしい、というのです。
その言葉は、今でも私の心の中に熱を持って生き続けています。


私は、この仕事をして良かったと思って最期のときを迎えられるのだろうか?
親から、ご先祖様から、数えくれない人達から受け継いだこの命をちゃんと使うことができているのだろうか?
一瞬一瞬を大切に、後悔なく、信念に向かって進むことができているのだろうか?
自分自身に問いかけます。


自分が生きた社会よりも、ほんのわずかでも良くなった社会を遺こし、後輩たちにバトンを渡したい。
それが親から渡してもらった命をきちんと使い、命をつなぐことだと思っています。
ですから、今年もより良い社会のために、己の信念を貫き、行動していきます。


人の一生は、誰にも分かりません。
また、発達障害の方達と関わる者としての時間も、あとどれくらい残っているかはわかりません。
だからこそ、今のこの瞬間も大切に生きていこうと思います。
より良い社会を目指す方たちと一緒に。
本年もよろしくお願い申し上げます!


てらっこ塾 大久保悠