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2月, 2017の投稿を表示しています

偽りの代弁者と真の代弁者

7年間という限られた月日ではあったが、寝食を共にし、親以上に長い時間を彼らと過ごした。 ほぼ毎日のように彼らと顔を合わせ、一緒に過ごしたが、一度たりとも彼らの口からこの言葉を聞くことはなかった。 「社会を変えて欲しい」 私がいた施設は、知的障害の重い人が多く、明確な言葉を発せられない人も少なくなかった。 だから当然、認知の面でも、言葉の面でも、「社会を変えて欲しい」という人がいなかった、とも言える。 でも、例え、重度の知的障害を持とうとも、強度行動障害があったとしても、明確な音声言語を持たなかったとしても、彼らの望みの中には、「社会を変えて欲しい」という想いがあったようには感じなかった。 彼らは、明確な意思表示をしなくとも、支援者に「一人でできるようにしてほしい」「わかりやすく伝えて欲しい」「行動障害を治してほしい」「少しでもラクになりたい」と日々、伝えてきていた。 重度の知的障害がある子も、一日中、支援者の手を借りて生活することは望んでいなかった。 できることなら、自分一人の力でできるようになりたい、という想いを持っていた。 強度行動障害の子も、好き好んで頭を床に打ち付けているのではなかった。 好き好んで、固執しているのではなく、やむにやまれぬ事情により固執し続けていた。 彼らの希望は、止められるのなら自傷も、他害も、固執も、大量の精神科薬も、やめたかったし、自分の生活は自分の力で行えるようになりたかった。 そして、穏やかな気持ちと身体で夜の眠りにつきたい、というものだった。 社会を本気で変えようとすれば、人の一生をかけても成し得ないものである。 「私の人生は辛かったけれど、社会が少しでも良くなったなら良かった」と言う子がいるだろうか。 そして、それを喜び、望む親がいるだろうか。 どの子も、社会が変わるために生まれてきたのではない。 自分の人生を輝かせるために、そして自分の資質をより良い社会へと活かすために生まれてきたのである。 「社会を変える」という主張を聞くたびに思う。 それは本人たちの言葉ではない、と。 「社会を変える」と言うのは、いつもきまって… 仕事の範囲を増やしたい人間 自分の中に“受け入れられた感”を持たずにきてしまった人間 自分自身に原因があることに気づけない、気づこうとしない、認め

不自然さからの開放

10年前だって、20年前だって、治る方法が分かっていれば、親御さん達は、そちらの方へとエネルギーを注いでいたと思います。 ただ知らなかったから、支援グッズを作ったり、地域を変えようとしたりしていただけでしょう。 どう考えても、我が子が苦しんでいたら、我が子にできないことがあったら、それをどうにかしたいと思うのが、自然な感情です。 それは動物を見れば、わかります。 動物は、我が子が苦しめば、寄り添い、その痛みを和らげようと行動します。 動物は、我が子にできないことがあれば、特に生きる上で必要な力は、何度も何度も教えようとします。 どちらも学習ではなく、内側から湧き出てくる行動、つまり本能がそういった行動に駆り立てるのでしょう。 支援グッズを作るのも、地域を変えようとするのも、人間特有の行動です。 本来なら、子どもがより良く変わるために動きたかった内なるエネルギーを、知識によって、専門家という社会的権威によってストップをかけていた状態、それが10年前、20年前の多くの親御さん達だったような気がします。 だから、不自然に見える親御さんが多かったのでしょう。 不自然と言えば、「社会を変える」「地域を変える」というのも、不自然な行動です。 何故なら、人間以外の動物は、環境を変えることをしないから。 動物は、環境を変えるのではなく、適応することを選択します。 「自閉症の人のために環境を変える」というのもそうですが、誰かを中心に周囲の環境を変えようとするのは、そもそも無理があります。 永遠に環境を変え続けることは不可能ですし、たった一人で生きているのならまだしも、周囲には、地域には、社会には自分以外の人が大勢いるのです。 また、どう考えても、周囲を変えるよりも、自分が変わった方が早いですし、効率的です。 動物(ヒトも含む)は、環境を変えるという選択は取りませんでした。 動物は、環境に適応することによって、長らく生き延び、繁栄を続けたのです。 私は、特別支援の世界に入っておよそ20年のときが流れています。 この20年間、不自然さと異様さを多く感じてきました。 その一つ、親御さんに付きまとっていた不自然さと異様さは、人間脳を知識と専門家でいっぱいにし、その下の脳の部位を抑え付けていた表れだったように思います。 動物とし

「治らない」という前提が変わったんだから、エネルギーを注ぐ方向も変えるべきじゃないの!?

「そういえば、どの子もたくさん支援グッズを持ち歩いていたね」 前回のブログで登場した親御さんと“治す”について話していたときに出てきた言葉です。 「今は治る時代になってきたんだね。あの当時は、お医者さんも、先生も、支援者さんも、みんな“治らない”って言っていたから、どの親御さんも必死で支援グッズを作っていたよね」 そうです、そうでした~。 あの当時は、自閉症は治らない障害でした。 3つ組はもちろんのこと、感覚過敏や睡眠障害は治らないというか、それがあるから「自閉症なんだ」と言われていましたね。 治らない障害だから… 「周りが支え、頑張るんだ!」 「歩けない子の車いすのような視覚支援を作るんだ!」 「自閉症の人が生きやすくなるような社会、バリアフリー化が必要なんだ!」 そうそうこんなことが声高々に叫ばれていた時代があったっけ。 不治の病的な立ち位置に置かれていた自閉症。 そんな中でも、「治るもんなら、治したい」という自然な感情を持っていた親御さん達はいましたね。 だからこそ、本当なら治すために使いたかったエネルギーを当地なら“視覚的構造化”という方へと注いでいたのでしょう。 じゃらじゃらとズボンから下がっていたCOMカード、事細かく示されていた一日のスケジュール。 「あんなに下げていたら、活動に支障が出るよね」ってくらい持ち歩いていた支援グッズは、行き場のないエネルギーの象徴だったように思えます。 今、思い返せば、異様な“熱”が当地を包んでいたように感じます。 本気でノースカロライナのような地域を目指していた“熱”。 治らない自閉症の人達が生きやすくなるには、地域自体を変えるべきだという方向へとエネルギーが進んでいた。 「どのお店にも、COMカードが置いてあったらいいよね」 「自閉症の人が働きやすいように、どの職場でも、スケジュールとカムダウンエリアは必須よね」 「聾の人の手話通訳のように、自閉症通訳者を公共施設に配置しよう」 ・・・(苦笑い) 治らない自閉症のために、私たちができること。 それは「十分な支援グッズを用意することだ」「地域を変えることだ」 そんな親御さんの想いと、自分たちの繁栄のために自閉症支援を広める必要のあったローカルギョーカイが手を組んだ。 そうです、治らない自閉症だった

「治す」という言葉を気にいってくれた親御さん

昨晩、久方ぶりにある親御さんとお会いしていきました。 「就職できるように頑張りたい」というお話があり、数年前まで関わらせてもらった方でした。 就職したときは、パートで「週20時間まで」という契約でしたが、そのあと、本人の頑張りが認められ、社員さんに登用されたそうです。 今は、しっかり週40時間、きちんと社会保険も、手当ても、有休もあり、その企業の一員として働いているとのことでした。 この若者は、あまりお金に執着がない方で、お小遣いも「いらない」というような人でしたが、「私が頑張って働くことで、税金を納められ、誰かの役に立てる」ということが意欲へとつながっているそうです。 就職して以来、本人とはお会いしていなかったので、この数年間の出来事を一気に話してくださいました。 そして、話は子ども時代へと遡っていきました。 保育園では、言葉を発することができず、いつも教室の片隅で固まっていたこと。 偏食がひどく、ほとんど食べられるものがなかったこと。 衣類へのこだわりがあり、いつも同じ服ばかり着ていたこと。 変化に弱く、新学期がくるたびに寝込んでいたこと。 小学校に上がっても、同級生との違いが大きくなるばかりで、「一生、この子の面倒を見続けないといけない」と夫婦で話していたこと・・・。 だからこそ、今の我が子の姿に感謝の気持ちでいっぱいになるし、「あのとき、諦めなくて良かった」と、しみじみと語られていました。 この親御さんは、いち早くギョーカイの支援が本人の成長と自立へとつながらないことを察し、ご自分で「働ける大人」になるために必要だと思うことをお子さんに教えてきた方でした。 ちょうどこの子が小学生くらいは、当地の視覚支援がイケイケドンドンの時期でしたが、そんなことには目もくれず、週40時間働ける身体作り、教科学習、「これからの時代はパソコンが使えた方が就職に有利」と言ってパソコンの勉強、自立のために料理、洗濯、掃除、買い物の勉強をやってこられました。 教え方も、周りがみんなSSTに、PECSに、構造化でしたが、ただ一緒に根気強く教え続けただけというもの。 でも、親御さんのこの粘り強く、我が子の未来を想う姿勢が、この子の未来を変えたのだと思います。 「就職してから一度も休まず働いている」と言ったときの親御さんの笑顔には、「自分たちが信

「理解」という言葉はクセモノ

「理解」という言葉は、相当なクセモノだと思っています。 ぱっと見て、ぱっと聞いて、悪い印象は受けません。 むしろ「理解することは良いことだ」という思いが湧いてくることもあります。 だから、すぅーっと心の中に入ってこようとします。 「理解しよう」と言われると、なんとなく「理解しなくていいじゃん」と言いにくいのが、この言葉の特徴でもあります。 「理解」という言葉には、『正しく知る』という意味がありますので、知らないよりは知ってた方が良い、という生きるための知恵が否定を拒ませます。 しかし、「理解しよう」を「理解して」という言葉に変えると、この言葉のもう一つの顔が出てきます。 そうです、「理解」という言葉には、「察してね」という意味もあるのです。 『他人の気持ちや立場を察する』 ですから「理解して」と言えば、私の気持ち、立場、状況を察して、となります。 自閉症、発達障害について『正しく知る』というのは、私も賛成です。 知ることによって、身近な存在に気がついたり、より良い方法へとつながるきっかけになったりするかもしれませんので。 同じ社会で生きる人達のことを知らないよりは、知っていた方が良いに決まっています。 ですが、もう一つの側面、「察してね」という意味では同意しかねます。 普通の生活をしていれば、あまり使わない「理解」という言葉ですが、ギョーカイ語かなって思うくらい特別支援の世界ではよく出てきます。 診断を受ければ、「家族の理解、周囲の理解が大切です」と言われます。 学校に行けば、先生の理解、同級生の理解となり、社会に出れば、職場の理解、社会の理解が「大切だ~」となります。 しかし、「自閉症は治りません」と言うその同じ口から出てくる「理解」という言葉からは、正しく知ることを謳っているようには聞こえないのです。 どうしても、「自閉症は治らないのだから、察しなさいよ、察してよ」と言っているようにしか聞こえません。 「社会の理解ガー」という言葉を聞くたびに懐く嫌悪感は、一見良いことを言ってそうで、実は「察してよ」と言っている点です。 「自閉症は治らないし、我々も治す気がないから(治っちゃったら仕事なくなっちゃうし)、社会の皆さん、察してください、大目に見てください、譲ってください、予算をください」という方が、まだ潔く

社会が理解しなければ、生きやすくならない!?

函館マラソンのエントリーが完了し、本格的に走る練習を開始しなければ、という気持ちになります。 例年の6割程度の積雪量だった函館は、歩道の雪もだいぶなくなりました。 雪解けの音が聞こえてくると、「走りたい」という気持ちが高まってきます。 雪が解けて聞こえてくるものと言えば、「社会が理解すれば、生きやすくなる!」という言葉ですね。 なんせ年に1度のお祭りですので、ここぞとばかりに自分たちの主張を訴えます。 今くらいがちょうど楽しい時期ではないでしょうか。 学祭でも、本番までの準備が楽しくて、一番の思い出になったりしますから。 当日は、関係者ばかりで、反省会のテーマは、「外部からの参加者をどう増やすか?」 で、「宣伝の仕方を改善しよう」「積極的に協賛者を集めよう」と意見がまとまり、「来年に向けて動き出そう」となるのが、お決まりのパターン。 「社会が理解すれば、生きやすくなる!」という主張を聞けば、多くの人は瞬時に「これは一部の団体のセールストーク」だと気が付くことができます。 まあ、そこまで思わなくても、違和感は感じるはず。 「社会が理解すれば、生きやすくなる」というのをひっくり返すと、「社会が理解しなければ、生きやすくならない」となります。 「えっ、自閉症って社会の誤解や偏見で苦しんでいる人達なの??」 「近頃で言うと、LGBTみたいな感じ~??」 いやいや、自閉症は脳の機能障害だし、発達障害は発達の遅れやヌケがある人達。 ひっくり返して矛盾があるということは、論理的な主張ではなく、主張のための主張ということ。 社会の理解と本人たちの“生きやすさ”が相関関係にないことは、治っている人達を見てきた人間にとっては当たり前で、みんなが知っていることです。 自立した生活が送れるのも、しっかり働けるのも、愛着障害が治るのも、感覚過敏が良くなるのも、社会が理解したからではなく、本人が成長し、発達し、治したから。 今よりも、障害に対する偏見も、誤解もあった時代でも、自立した人はいたし、治った人もいた。 そうこうしている間にも、今、同じ社会の中で、自立する人がいて、治る人がいる。 だからね、しょーもないセールストークしてないで治せよ、というか腐っても支援者だったら、本人たちのプラスになることやりなよ、今、生きやすくなることをしなよ、と思うの

ヒトという土台を養う機会

近所の公園で、工事が行われていた。 そこにあった大きなジャングルジムは、丸太と木の板の山になっていた。 昨年も、近所の別の公園で工事が行われた。 子ども達の遊んだ記憶がたくさん刻まれた遊具たちは、色鮮やかな遊具へと変わっていた。 新しい遊具を見ると、そこには子どもの発達を意識した仕掛けが施されていた。 現在を生きる子ども達に必要な栄養素が計算されている。 役目を終えた遊具たちのように、新しい遊具も“今”の子ども達の発達に寄り添っていくだろう。 しかし、子ども達の本能を満たすことができないと思う。 何故なら、とにかく安全なのだ。 どんどん高い場所へ登っていく。 高いところから飛び降りる。 不安定な場所を駆け上る。 こういった子どもの衝動を満たすための遊具は、どんどん消えていく。 安全な遊具で遊ぶ子は、遊具での動きを身に付ける。 正しい遊具での遊び方、身体の動かし方を学んでいるように感じる。 子ども時代に発達させたいのは、ヒトとしての身のこなし方。 そのために、子どもの内側から溢れ出る欲求を満たす動きが求められる。 子ども達の周りから、ヒトに還る機会、ヒトとして育つ機会が失われていく。 幼いときから、人でいるように求められる子ども達は、どのように発達、成長していくのだろう。 ヒトとしての土台を養う機会をどう作っていくか? 大人が真剣に考えていく必要がある。

胎内と誕生後で、2度進化の過程を辿る

「きみは、お母さんのおなかの中で、こんな風に泳いでいたんだね」 そんなことを言いながら、息子と一緒にお風呂に入る。 ついこないだまで、お母さんの胎内で泳いでいた息子。 今はお風呂の時間に、胎児に還る。 お風呂の中で脱力し、プカプカと身体を浮かばせる。 かと思えば、両手、両足を激しく動かす、身体をクネクネ曲げる。 きっと胎内で、こんな風に外に出るための準備をしていたのだろう。 胎内で過ごした十月十日は準備の期間。 その準備は、進化の過程を辿りながら行われる。 受精卵という細胞の段階から、魚類、爬虫類、哺乳類、ヒトと歩んでいく10か月。 そして、ヒトの状態で産まれ、文化、環境の中で人になっていくのが人間。 私もかつては胎内で過ごした一人。 だから、胎内での10か月を想像してみる。 受精卵の私は、プカプカと母親の胎内で漂っていたのだろう、上も、下も、前も、後もない世界で。 幾度となく、細胞分裂を繰り返していく中で、徐々に上下がわかり、回転を獲得。 回転やねじりが、背骨を動かすことへとつながり、魚類の段階へと進む。 魚類のように背骨で泳ぎの練習。 そうしているうちに、手足という末端ができてくる。 手足が動くようになれば、それを同時に動かして移動の練習、爬虫類のように。 そして、同時に動かしていた手足が、それぞれで動かせるようになり哺乳類の段階へ。 哺乳類の段階までくれば、あとは胎内の外へ出る練習を繰り返し、誕生の日を待つ。 誕生後も、進化の過程をもう一度繰り返すように感じる。 寝がえりは、魚類のようで、ずりばいは、爬虫類のよう。 はいはいは、哺乳類で、よちよち歩きは、ヒトのようだ。 胎内で細胞から魚類、爬虫類、哺乳類、ヒトという過程を辿って準備する。 そして、また誕生後も同じ進化の過程を辿る。 ということは、誕生後の進化の過程を見れば、胎内でどのように過ごしたかがわかるかもしれない。 また誕生後の進化の過程で不具合があれば、「胎内でのやり残し」というイメージで子どもを包み込み、「胎内の分と誕生後の分」と言って2つ分療育すると、発達の課題はクリアできるかもしれない。 「胎内と誕生後、2度、進化の過程を辿る」 最後に浮かんできた言葉は、これだった。