社会が理解しなければ、生きやすくならない!?

函館マラソンのエントリーが完了し、本格的に走る練習を開始しなければ、という気持ちになります。
例年の6割程度の積雪量だった函館は、歩道の雪もだいぶなくなりました。
雪解けの音が聞こえてくると、「走りたい」という気持ちが高まってきます。


雪が解けて聞こえてくるものと言えば、「社会が理解すれば、生きやすくなる!」という言葉ですね。
なんせ年に1度のお祭りですので、ここぞとばかりに自分たちの主張を訴えます。
今くらいがちょうど楽しい時期ではないでしょうか。
学祭でも、本番までの準備が楽しくて、一番の思い出になったりしますから。
当日は、関係者ばかりで、反省会のテーマは、「外部からの参加者をどう増やすか?」
で、「宣伝の仕方を改善しよう」「積極的に協賛者を集めよう」と意見がまとまり、「来年に向けて動き出そう」となるのが、お決まりのパターン。


「社会が理解すれば、生きやすくなる!」という主張を聞けば、多くの人は瞬時に「これは一部の団体のセールストーク」だと気が付くことができます。
まあ、そこまで思わなくても、違和感は感じるはず。
「社会が理解すれば、生きやすくなる」というのをひっくり返すと、「社会が理解しなければ、生きやすくならない」となります。
「えっ、自閉症って社会の誤解や偏見で苦しんでいる人達なの??」
「近頃で言うと、LGBTみたいな感じ~??」
いやいや、自閉症は脳の機能障害だし、発達障害は発達の遅れやヌケがある人達。
ひっくり返して矛盾があるということは、論理的な主張ではなく、主張のための主張ということ。


社会の理解と本人たちの“生きやすさ”が相関関係にないことは、治っている人達を見てきた人間にとっては当たり前で、みんなが知っていることです。
自立した生活が送れるのも、しっかり働けるのも、愛着障害が治るのも、感覚過敏が良くなるのも、社会が理解したからではなく、本人が成長し、発達し、治したから。
今よりも、障害に対する偏見も、誤解もあった時代でも、自立した人はいたし、治った人もいた。
そうこうしている間にも、今、同じ社会の中で、自立する人がいて、治る人がいる。
だからね、しょーもないセールストークしてないで治せよ、というか腐っても支援者だったら、本人たちのプラスになることやりなよ、今、生きやすくなることをしなよ、と思うのです。


雪解けとともに聞こえてくる「社会が理解すれば、生きやすくなる!」という言葉。
「社会が理解してくれなくても、生きやすい人、生きやすくなる人はいる」という事実の前では、むなしいセールストークにしか聞こえません。
だから、社会の人達の心に届かないのです。
真実の言葉は、ひっくり返しても、人の心に届く言葉。
一方通行の言葉ではなく、双方向の言葉、循環する言葉です。


ギョーカイの言葉が社会に届かないのは、ギョーカイからの言葉がいつも一方通行だから。
社会の言葉を聞いていないのです。
社会の声は、自立できる人、働ける人を育て、問題を起こす人は治せ、というもの。
「社会が理解すれば、生きやすくなる!」というのは、自閉症、発達障害の人達ではなくて、我々(ギョーカイ)が主語になっている。
社会の理解という言葉を盾に、講演会、研修会を開いて儲かるのは支援者、合理的配慮、早期療育を受け入れさせ、それで儲けるのも支援者。
自分たちが支援できる機会、入りこめる機会を得たいがための主張はいけません。
だから、いつまで経っても啓発イベントにはならず、関係者が行う関係者のためのお祭り、言うならば、青い学祭(ブ)


始まる前に言ってしまって申し訳ないのですが、関係者しか集まらないのは宣伝の仕方が悪いからではありませんよ。
ましてや予算が少ないから、でもありません。
ボランティアの数が足りないから、でもありません。
そもそもの主張「社会が理解すれば、生きやすくなる!」がギョーカイからの一方通行だから、社会の人達は耳を貸さないのです。
そして、治った人達を見てきた人間、治そうと支援している人間は、青い学祭から距離を置くのです。
ということで、今年も私は目の前の人が少しでも生きやすくなるために、目の前の人の成長と発達のために時間を使おうと思います。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1369】心から治ってほしいと思っている人はほとんどいない