2017年3月1日水曜日

万年野党(ブ)

スキャンダルや問題が起きると、俄然やる気を出す。
自分が攻撃されない立場で、ただ批判を続けているときが一番輝いて見える人たち。
それが万年野党の証ともいえますね。
自分たちが与党になった姿を想像させられない人達には、社会からの支持を集めることができません。


ギョーカイ人の言動、振る舞いを見ていると、「自分たちが与党である」と思っているのかな、と感じます。
確かにギョーカイ内では与党かもしれません。
でも、社会から見たら、あなたたちは正真正銘の万年野党なのです。


「社会の理解ガー」と言っているときというのは、彼らが輝いている瞬間でもあります。
社会を敵に見たて、「私達は、自閉症とその親御さんのために闘っている!」「社会という敵から、理解を手に入れるんだ!」という自分たちの姿に酔いしれているのです。


いつも思うのですが、「社会の理解ガー」という人達、もし社会が理解しちゃったらどうするのでしょうかね?
国民のほとんどが、自閉症、発達障害について知識をもっている。
街で、職場で、学校で、彼らを見かければ、「あ~、自閉症ね」「あ~、ADHDね」って、すぐにわかっちゃう時代が来たら…。
そんな時代がくれば、真っ先にいらなくなるのが「社会の理解ガー」と言っている人達ですよね。
だって、「私達だって自閉症、発達障害については知ってるよ。だから、専門家だったら、改善しろよ、治せよ」ってなるに決まっているからです。


そんな声が聞こえてくれば、スキャンダルがなくなったときの万年野党のように、一気に輝きを失います。
「ほら、社会は理解したよ、自閉症、発達障害について知識を持ったよ。次は、あなた達の力が試されるのですよ」
そうやって、ただ文句を言って酔いしれていればよかったときとは異なり、ぽんっと政権を渡されると、あたふたするのが目に見えています。
「社会の理解ガー」という声以外に、彼らに武器は持っていないのだから。
破れかぶれで、政権をとっても、次は「合理的配慮ガー」と声を上げ始めるかもしれませんね(ブ)


社会に子ども達を送りだす仕事をしている人間が、社会を敵に見立てて主張している時点で、完全にアウトだと思いますね。
そもそも社会を敵にしないと、自分たちが輝けない、価値が見えない、という時点で終わってます。
腕や実力がない人間が、何かを敵に見たてて存在意義を感じよう、自己責任から目を背けよう、とするのは、どんな世界でもよくあることです。
社会が理解したあとは、それこそ、今以上に腕と実力が問われる時代になるのです。
とにかく「理解ガー」と言っていれば良いだけの時代ではなくなるのです。


ギョーカイは完全に“終わり”という道へ歩み始めているのだと思います。
本来なら、腕の良い治す支援者が、少数精鋭でいればよかった。
でも、おのれの愛着障害故に、人を集め、組織を作り…そこには、腕の悪い支援者、人のためと言いつつ自分のために支援者をやろうとする人間まで集めてしまった。
そういった仲間を養うために、治す方向ではなく、「理解ガー」とやってきてしまった。


彼らが求めるように、社会が理解してしまったら、もう理解のための支援者は用済みになる。
そして、社会からの声、「治せない支援者は去れ」ということになり、ギョーカイはTHE END。
またそれとは別に、社会から「理解はいいから、まず治せよ」と言われてしまえば、おまんまの食い扶持が確保できずに、ジリ貧になり、ギョーカイはTHE END。
結末は一緒ですね。
違うのは、一気に潰れるか、じわじわと潰れるかの違いだけ。


あなた達が求めている社会、「自閉症、発達障害に理解がある社会」が本当にやってきても、ギョーカイのあなた達は大丈夫なの?
でも、もしかしたら、「自閉症、発達障害に理解がある社会」が来ないことを知ってて、「社会の理解ガー」ってやってるのかな?
もしかしたら、どっかの万年野党みたいに、パフォーマンスでやっているんじゃない?


正直なところ、私が「社会の理解ガー」を支持しないのは、また嫌悪感を懐くのは、彼らがパフォーマンスで「社会の理解ガー」とやっているように見えるから。
本気で、社会が理解すれば、自閉症、発達障害の人達が幸せになる、と思って行動しているのなら、まだ愛しがいのある人達だと思う。
でも、自分たちの宣伝と生きながらえるために、自閉症、発達障害の人達を使っているとしたら、それこそ真のバカ、救いようのないバカだと私は思うのです。

2 件のコメント:

  1. 「社会」の一員2017年3月12日 9:20

    辞書によれば「理解」とは、「物事に対してそれが何であるか、何を意味するのかを正しく判断すること」または、「物事のすじみちをとき分けること。内容・意味などをのみこむこと」とあります。私も障害を抱えるわが子も、「社会」と対して存在しているわけではなく、「社会」を構成するものとして存在しています。「社会」の最小単位が「家庭」です。家庭の中で、親も子も「お互いを正しく判断すること」は大切なことだと思います。「社会の理解」については、私たち家族とそれ以外のかかわりも「社会の理解」に含まれますが、一人ひとりが「社会」を構成しているわけですから、大久保さんのおっしゃる「社会の理解ガー」のご意見は、障害当事者であるわが子や私たち家族に対しても向けられているご意見として受け止めなければ・・・と思っています。「理解」と言う言葉の意味するところも、「社会」を構成している様々な立場の方々によって、それぞれの立場にあった意味づけがあるのを知りました。それは一様ではなく、それぞれに意味深いものがあります。人一人の力には限界があります。できる人が、できる事から始めていく・・・それでいいと思います。世の中には、「これが絶対正しい」というものはないように思います。大久保さんのおっしゃる「青の祭り」も、それならできる・・・という方々がやっていることだと思います。大久保さんは、大久保さんしかできないことをする・・・それでいいと思います。大久保さんのような活動はできないけれど、「青の祭り」になら参加できるという方は、そうしたかたちで活動すれば良いだけのことではないでしょうか。いろんなタイプの人がいて、みなそれぞれ興味の対象も違いますし、価値観もできることも違う・・・「社会」はそうした人達の集まりですから、いろいろあって当然だと思っています。私たち家族も「障がい者家族」として「社会」を構成しています。「社会」の中で、私たち家族ができることを考えながら暮らしています。支援も受けますが、私たちから「社会」働きかけていくこともできるはず・・・と思っています。でも、それは大久保さんと同じにはなりませんね・・・当然のことですが。

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    1. 「社会」の一員さんへ

      コメント頂き、ありがとうございます。
      何度も読み返させていただきました。

      私の読解力不足かもしれませんが、文面から伝えたいことを読み取ることができませんでした。
      それぞれができる活動を行う、それぞれの価値観、信念の元に。
      それで良いと私も思いますし、考えや意見が違えど、その人に対し、止める権利はないと思います。
      私の考え、意見と同じになる必要はないですし、私も「社会」の一員さんの考え、意見と同じになる必要はないですね。

      このように文面に対し、返信していると「社会」の一員さんが伝えたかった意図とかけ離れていくような気がします。
      あくまで、これは私の中の違和感でしかありませんが。
      もしかしたら、「社会」という文字に本当の想いが込められているように思えます。

      このブログか、過去のブログかはわかりませんが、また実生活の中で感じられているのかもしれませんが、自分たち障害を持った子の家族が孤立感や「社会」から乖離している印象を持たれたのかもしれません。
      ただ私は、障害を持った方も、ほかのマイノリティーの方も、社会を構成しているのは当然だと思っていますので、特別、意識するようなことはありません。
      ですから、社会を構成している人達が社会とつながる、という意味がわかりません。
      社会には、いろいろな人を受け入れる度量があります、特に今の日本には。

      ここからは、私の勝手な連想です。
      私には、どなたからコメントを頂いたのか、わかりません。
      私のブログは、SNSで拡散されることもありますので、たまたま見かけ、たまたまコメントをいただいたのかもしれません。
      ある意味、どんな内容でも書きこめるコメント欄であるのにも関わらず、「・・・」や遠回しな表現が目立ちます。
      もしかしたら、実際にお会いしたことのある方なので、気を使われてマイルドに表現されているのかもしれませんが。

      まあ、とにかくこういったコメント欄でも、想いがあるのにストレートに表現ができないというのは、そこに課題があるような気がします。
      いつも周囲の目、嫌われないように、と他人軸で生きられているのでは、と連想します。

      たぶん、啓発活動、青いお祭りに従事された経験のある、または従事している方ではないでしょうか。
      私のブログでは、啓発活動に対し、批判的なものが多いので、このブログもそうですが、そこにひっかかりを持ち、コメント記入に至ったのでは。

      信念を持って、啓発活動に従事しているのでしたら、それはそれで良いですし、わざわざコメントまで記入しないはずです。
      ということは、啓発活動にも、ご自身の中に揺らぎがあるような気がします。
      揺らいでいるところに、啓発活動の否定のブログ→自分の揺れとバランスをとるために「社会」に働きかけることも大事、とコメントされた。

      この文面からも、伝わってくる雰囲気からも、私と議論をしようという感じは受けません。
      ですから、ご自身のために書かれているコメントのような気がいたします。

      もし信念を持って社会に働きかける、啓発活動も行うというのでしたら、応援しています。
      今日よりも、明日が良い社会になるよう行動するのは、大人たちの務めです。
      しかし、より良い社会を目指す前に、目の前にいる子を幸せにする方が大事なことだと思います。
      目の前にいる子が幸せになれば、社会の中に幸せな人が1人増えることになります。
      そして、その子が大人になって、幸せな社会を作る方に変わるのです。

      子どもを育て、成長させるためには、親御さん自身が他人軸を脱しなけ
      ればなりません。
      信念のある人間を育てるには、芯のある人間が必要ですから。
      勝手な連想、失礼しました。

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