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自分が支援者でいる間だけの支援

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何故、対処療法を学ぶのに何万も、何十万も、お金を出すんでしょうね。 「欧米で」「エビデンスが」「認定された」「上級レベルの」など、枕詞がつこうが、結局は対処療法にすぎません(こんな枕詞がつく支援者だって、そこら辺にいるただのオジサン、オバサンだし)。 そういった支援を受けることによって、ラクになるかもしれません、できるようになるかもしれません、問題がなくなるかもしれません。 でも、それは一時的であって、限定的なもの。 時間が経てば、また別の場面になれば、支援が必要になってくる。 だって、問題の根本にアプローチするわけではないので。 ギョーカイが対処療法に熱を上げるのは、別の言い方をすれば、問題の根本に手を伸ばそうとしないのは、治ってもらうと困るからでしょう。 支援の必要のない人になっては困るのです。 でも、まったく何もしないわけにもいかない。 だから、対処療法でやってる感じを出しつつ、障害者の固定資産化を目指していくんですね。 本当に、発達障害を持った子のことを思えば、その場しのぎの対処療法ではなく、問題の根本をどうにかしようとするはずです。 そういう私だって、一通り対処療法について学びましたし、仕事でそのアイディアをまったく使わないということはありません。 でも、問題の根本、ヒトとしての育ち、発達のヌケを埋める方が、近道だからそちらの方法を主としています。 結局、対処療法は対処療法以上になりませんし、ある団体、組織が決めた支援の仕方のままにやらなくても、その対処療法のアイディアの核が掴めていたら、それ以上、必要ないと思うんですね。 スケジュールの作り方、設定の仕方、工夫の仕方、提示の仕方とかよりも、「事前に伝える」「見えない予定を見えるようにする」くらいの把握でOKでしょ。 本人が欲している、気づいていない情報を伝えられればよいのであって、いくら特定の組織が決めた方法に則ってスケジュールが作れても、感覚過敏は治りませんし、発達のヌケは埋まりません。 「視覚支援があれば働ける」という主張を度々、耳にしますが、自立して働いている人たちは、視覚支援がなくても、働けるくらい治っている人ばかりです。 たとえ視覚支援が有効で、必要な人がいても、自分で視覚支援を作り、利用しています。 対処療法があるから働けるのではなく、働けるくら

子どもが変わるには、親が変わる必要がある

自分のお子さんが、構造化された支援を受ける、またはその支援グッズを使っているだけで、我が子の能力が高い、という錯覚をおこしている親御さんは少なくありません。 構造化されることによって学ぶ態勢が整い、結果として学習できる→成長ということはありますが、構造化自体に成長や発達を促す効果はありませんね。 構造化しても、学ばなければ、ただ「分かりやすくなった」でストップです。 数年前、上記のような親御さんからの相談がありました。 私は、「子どもが変わるには、親御さんが変わる必要がある」と考えていますので、構造化された支援を受けているからって成長するわけでも、能力が高いわけでもない説明をしました。 そして、親御さんが見ているお子さんと、実際のお子さんのギャップについて、あらゆる方法を使って伝えました。 依頼された「〇〇ができるようになってほしい」ということに関して、数ヶ月で達成、クリアしました。 もちろん、学校や家庭で使われていた構造化された支援は用いていません。 それは、その子の認知からいって理解できていませんでしたし、問題の根本は理解できていないことではなく、学べる段階まで至っていないことが大きな要因でした。 まずはこちらを解決、育てないといけませんでしたので、一見するとターゲットの行動とは遠いようなことをしながら支援を続けました。 その間、親御さんからは構造化された支援を用いないことに対する不満、思い描いている我が子の姿と私が指摘する子の姿のギャップに対する否定、そして結果として、何年も身につかなかったことができるようになってしまったことに対する戸惑いの感情が、にじみ出ていました。 依頼されたことが達成されましたので、私の支援は修了です。 数か月間の取り組みの報告書と、今後、こういった点に目を向け、発達のヌケを埋めていけば、成長できる可能性が高いことを示した資料をお渡ししました。 親御さんが気づき、変わってもらうことを願って。 先日、偶然、その子を担任している先生とお話しする機会がありました。 結果として、端的に言えば、親御さんは変わりませんでした。 今でも、構造化された支援が一番の方法であり、それのみで支援しているそうです。 先生の話からは、数年前の姿と変わっていないその子の姿が見え、残念な思いとともに、私の力量不足を感

確認できるところから、そこにつながっている見えない部分を視る

相談者から「モロー反射が統合できていなくて…」「呼吸が深くできないんです」「背中が固くて困ってます」と言われれば、そこまで難しくはありません。 ですが、実際は漠然とした表現で、それぞれの言葉と概念に乗せて相談者の口から発せられます。 例えば、学校内での問題として、「授業に集中できない」「宿題をやろうとしない」「クラスの子の声、音にびっくりしてしまう」「学校に行いきたがらない」「文章問題がまったくダメ」「グループ学習が難しい」などがあります。 悩みの数は、相談者の数だけあって、その表現の仕方も、見る“眼”によって異なるのです。 そんな抽象的で、主観によって表現される相談に対してどう対応するか? 支援者には、大まかに分けて3パターンがあります。 まず、どんな相談がされても、いつも言うことがだいたい同じ、という支援者。 「そのままを受け入れましょう」「無理はさせない」「周囲の理解が大事」「子どもに寄り添いましょう」「視覚化して伝えましょう」など。 こういった支援者は、相談者の言葉の前に、自分の答えが決まっています。 つまり、相談者の悩みはどうでもよくて、「頼ってもらうことが嬉しい」「過去に自分が言ってもらいたかった言葉を言うことで、自分自身を癒したい」「主義主張が決まっている」というのが、背景にありますね。 このレベルの支援者は、支援者ではなく、自分が支援を受ける立場の人。 次に、相談者の言葉に対して、そのまま返答してしまう支援者。 問題の背景は別のところにあるのに、相談者の表現のまま、噛み砕くことなく飲みこんでしまう。 そうすると、対処療法にしかならず、根本に届く支援はできません。 対処療法に、対処療法を重ねていき、結局、行き当たりばったりの支援に。 一時的に解決したように見えるけれど、時が経てば、再び問題が出てくる。 このレベルの支援者は、勉強すれば誰でもなれるくらいの人。 そして、3つ目のパターンの支援者が、本物のプロフェッショナル。 治すことができる支援者です。 言葉で表現された相談内容を、言葉以外から読み解く支援者。 現在までの育ちの歩み、発達過程、将来の姿まで、表面に出ている部分から見えないものを辿ることのできる支援者こそ、専門家であり、お金を貰って良いレベルだと思います。 また、この支援者は「人を育て

相談は大脳皮質から発せられるけれども…

「季節の変わり目に翻弄されて…」と、「新年度が始まったから、これを機に」ということから、この時期は相談が多くなります。 で、その相談のほとんどは、大脳皮質からの相談ですね。 人間関係の悩み、仕事の悩み、不登校やひきこもり状態の悩み、自分の思考の悩み。 「〇〇ができるようになりたい」「通常学級で学び続けたい」「問題行動を無くしたい」という願い。 いずれもヒトらしい、ヒト特有の、ヒトの悩みであり、願いです。 こういったヒトの悩みに対し、人は人として悩みを解決し、人として願いを叶えようとします。 しかし、大脳皮質から発せられた相談に、大脳皮質で応えようとしても、答えは出ないことがあります。 そうです、相談の根本は、もっと奥深くに存在しているのです。 社会を切り取り、問題を切り取り、捉えるのは大脳皮質で、表現されるのも、大脳皮質を通して。 ですから、大脳皮質の問題であり、大脳皮質にアプローチすることが解決につながると自動的に思ってしまうのです。 私のところに来る相談は、そのほとんどが直接的なものではなく、紆余曲折を経てのものです。 医師や保健師、相談機関、学校に相談し、それでも結果として表れてこない、違和感を感じる。 そういった場合、いわゆるセカンドオピニオンのように、私のところにいらっしゃいます。 大脳皮質で切り取り、処理し、表現した相談に対し、大脳皮質に対するアプローチを受けてきた。 しかし、問題の根っこは、そこじゃないんですよね。 習慣を変えるのは、難しいことです。 考え方を変えることは、とても難しいことです。 他人を、社会を変えることは、限りなく難しいことです。 でも、身体を動かすことは難しくない。 今日から、この瞬間からやろうと思えば、やれます。 身体からのアプローチの素晴らしいところは、すぐに、自分一人でできること。 しかも、大脳皮質同士のやりとりでは、お互いの概念の差によって、すれ違いが起きやすいけれど、「肩甲骨を動かしましょう」「呼吸が深くできるようにしよう」「このような動きをしてみて」など、とっても具体的で、「これならできるかも」という意欲につながりやすい。 「自分のありのままを受け止めましょう」と言われても、「はぁ~、具体的にどうしたらいいのさ。いつまでやればいいのさ」ってなりませんか?

なぜ、ギョーカイは身体アプローチを好まないのか

聴覚過敏の子に対して、いまだにイヤーマフと視覚支援、精神安定剤って・・・。 これは私が学生時代から行われていた3つ。 もう15年くらい経つのに、そこから抜け出せないのはどうしてでしょうかね? イヤーマフや耳栓って言うのは、刺激を遮断しようというもの。 視覚支援と精神科薬は、不安になると、より刺激に過敏になるから、少しでも気持ちを穏やかにしようとするもの。 いずれも対処療法であり、本人の外側に存在するものですよね。 でも、聴覚過敏は、その子の身体、内側で起きている。 だったら、治療の対象は、その子の身体に決まっています。 とってもシンプルなことであり、どうして本人の外側でごちゃごちゃしているのかって感じです。 ギョーカイ人って、外でごちゃごちゃするのは好きだけれど、「身体を育てる」みたいなアプローチを好まない傾向があるように感じます。 私が見てきたギョーカイの世界では、こんな理由が考えられますね。 ◎身体へのアプローチは、本人が主体であり、自分でも、家族でも、できちゃうから。つまり、ずっと支援できないのが嫌、「僕が支援したから、あなたは成長したんだよ、キリッ」ができないのが嫌。 ◎カッコいい視覚支援やグッズは作っただけで(結果が伴わなくとも)、「すごい」と思われやすい支援者にとってインスタントな自己肯定感を高める方法だが、身体アプローチは本物の“うで”がいるし、時間がかかることもあるので嫌。 ◎自分の持っている免許や資格に縋っている支援者は、それがなくてもできちゃう方法が嫌。 ◎そもそも自分の身体、健康に無頓着な支援者が多い。ジャンクフードが好きな支援者、偏食、運動をしない、嫌いな支援者が多い(当社調べ)。 ◎逆にゴリゴリ体育会系の支援者は、トレーニングをしても同じようにできるようにならないだろうと思って諦めているから、やること自体が嫌。自分の身体とこの子の身体はまったく別もの。身体同士の認識の開きが大きい。 ◎自分が専門とする療法以外の方法はやりたくない。 ◎人の支援ではなく、“発達障害の人”を支援したいから、THE療育みたいな方法以外、興味ない。 まあ、まとめると、愛着障害を持っている支援者という人達にとって、外でごちゃごちゃする方が、支援をやっている感もあるし、ある意味、やっているだけで

発達は子どもの権利

昨日届いた花風社さんの新刊 『人間脳の根っこを育てる』 を読み、考えさせられたことがあります。 それは、本人の身体、動き、発達のレベルに合わない援助も、その人の主体性を奪うことになる、ということです。 先日、私はツイッターで「発達は子どもの権利。たとえ親であっても、その権利を奪ってはならない」とつぶやきました。 悲しいことに、子どもが「重いままでいい」「治らなくてもいい」「自立しなくてもいい」などと思っているのでは?と言動から感じてしまう人がいます。 悲しいことに、本人の言動、表現ではなく、大人が何を発達させるか、何を指導、支援するかを決めてしまう人がいます。 悲しいことに、本人のニーズから方法を導くのではなく、自分が指導、支援したい方法の中のみでニーズを満たさせようとする人がいます。 このような人達と出会うたびに、上記の言葉が溢れ出てくるのです。 大人が皆、受精した瞬間から発達の道を歩み続け、大人になったのと同じように、子どもたちもまた生物として発達の道を歩み続ける。 まだ目の前にいる子は発達の途中かもしれないが、発達のヌケや遅れを持っている子かもしれないが、発達の権利は他の誰のものでもなく、その子自身が持つものです。 周囲の人間によって「発達するかどうか」「何を発達させるか」「どう発達するか」を決めるのは、その子の主体性を奪うことになります。 子どもが発達するのは当たり前。 子ども自身が、発達したいところから、させたいように発達させていけば良い、そんな風に私は思うのです。 ですから、子どもに関わる者は、年齢や学年、周囲の想い、支援の得手不得手ではなく、その子の発達段階を大切にし、そこから始めていくことが、発達という子どもの権利、子どもの主体性を大切にする援助だといえます。 仕事の依頼や相談には、本人以外のニーズが含まれます。 当然、本人の周りにいる人達の想い、願いがそこにはあります。 しかし、それはあくまで本人以外のニーズです。 依頼の連絡をくれたのは家族かもしれませんが、私の仕事は本人のニーズを満たすための援助をすること。 ですから、本人のニーズと反するものであれば、「依頼は受けられません」と断ってきました。 それは本人の発達の権利、主体性を一番に考えると、心に決めたから。 でも、それだけでは不十分。

「人間脳の根っこを育てる~進化の過程をたどる発達の近道」(花風社)を読んで

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最後に特別支援くさい本を読んだのはいつだったかな。 そんな風に思うくらい何年も、購入していないし、読んでもいませんね。 でも、花風社さんの本だけは、いつも新刊を心待ちにし、何度も読み返します。 それは、花風社さんから出版される書籍が実践的であり、今日からできることであり、治す本だから。 そして、発達障害の人を育てるための本ではなく、人を育てるための本だから。 今回、出版された書籍は、栗本啓司さんの3冊目になる 『人間脳の根っこを育てる~進化の過程をたどる発達の近道 』 という本です。 過去の書籍同様、著者の栗本さんが長年積み重ねられてきた実践、経験、知識が詰まっていますし、こういった視点を得ることで、多くの人達が遠回りせず、発達という道へと歩を進めることができます。 ギョーカイ本の多くが、著者自身、またそれを手にしたギョーカイ人が気持ちよくなるためのものとは異なり・・・ ギョーカイ本の多くが、大したネタでもないのに、いかにも素晴らしい独自の知識、知見のように表し、しかも小出し→「詳しくは、講演会、研修会、ライセンスを取ってね」とやるのとは異なり・・・ 花風社さんの浅見さん、著者の栗本さん、二人のプロフェッショナルが、本気で発達障害の人とその家族のために、本気で発達障害を治し、自立した人生を歩んでもらうために生みだされた本だと、私は読みながら感じました。 これから仕事ですが、この本から教えていただいた視点「進化と発達の過程をたどる身体育て」を意識しながら接していこうと思います。 そして、何度も読み返し、周辺にある知識も深めていくことにより、無意識で発達援助ができることを目指していきたいと思っています。 大脳皮質のみに働きかける療育と同様に、立位からの身体アプローチで、その人は良いのだろうか? その前の発達段階、発達のヌケの部分へのアプローチ。 発達障害の人を支援したがるギョーカイ人にない視点を栗本さんが持っているのは、栗本さんが実践家であり、人を育てる仕事をしてきたから。 人を大切にする方だからこそ、受精から始まる人の発達を大事にされ、そういった視点で発達援助をされているのだと思います。 だからこそ、発達障害としてギョーカイ人が臨むように育つのではなく、栗本さんが援助されている方達は人として育っていく。 当然、みなさん

私だったら、お土産は受け取らないな~

私が医師だったら、そして診断名をつける仕事をしていたら、本人や親御さんからモノは受け取らないですね。 「どこどこに行ったときのお土産です」とか、「お世話になっているので、皆さまでどうぞ」というくらいのものでも、ゼッタイに、私なら。 だって、身体的な障害とは異なって、発達障害の診断って人の意思が入りこめる幅があるんですもん。 当然、人が行うことですから、ミスも起きるでしょう。 また本人やご家族の状況、医師の考え、思いなどが、ある種の空気感を生むこともありますよね。 「スペクトラム」ということからも分かるように、自閉症、発達障害の人がピョンと離れて存在しているわけではなく、みんなつながっているわけです。 それに発達のヌケを埋めたり、成長したりすると、どんどん症状は良くなるし、治る人も出てくる。 これは当然の話というか、自然な話。 みんな生きているんだし、脳には可塑性という特徴があるんだもん。 ある有名支援者が「良くなることはなくて、悪くなるのが一般的。だから、現状維持できているだけでも儲けものだと思いましょう」と語っていましたが、学生時代の私でも、これが営業トークか、本気で言っているかは分かりませんでしたが、「現状維持のための支援」なんて馬鹿げていると思いましたよ。 学生時代と言えば、いろんな発達検査を見させてもらいましたが、こんなに検査者の意思が入るものなら、あんまり意味がないな、と思って見ていましたね。 あるとき、「今の行動を評価してみろ」と言われるから、見たまんま評価すると、「それは厳し過ぎる」って良い評価に変えられちゃった。 あとから聞いたら、前回、検査したときと同じだと、支援の効果が疑われるからだって。 だから、大きく成長はないけれど、ちょっと成長した感じにするのがミソらしいですよ、奥さん。 また話が逸れちゃいましたけど、とにかく私なら情が入りこまないような対策をする。 「重いように書いてください」という方も方だし、「重めに書いておきましたよ」という方も方。 子どもそっちのけで、大人同士がこういったやりとりをするのは憤りを感じます。 ペン先で、一人の子の人生を変えちゃうかもしれないことをやっているのです。 それに支援サービスの量、免除や補助とも関わってくる。 数年前、「耳が聞こえない」「目が見えない」って、

私が新社会人だった頃の思い出話

入社式のニュースを見て、「若いな~」と思った今朝。 こういう風に思った時点で、自分が年を取ったことに気が付きます。 私も12年前は、新社会人。 まあ、3月から"研修"ということで働いてはいましたけれど。 大学の卒業式の日だけは休みを貰い(?)、参加。 周りはキラキラしていたけれど、すでにいろいろ目にしていた私にとっては、4月から先生になる仲間が別世界の人達に見えました。 でも、教師を目指して入学した大学。 今日晴れて卒業し、4月から教師になる同期たちから見れば、「お前の方が別世界の人間だぞ」と思われていたことでしょう。 別世界の人間と見ていたのは、同期たちだけではありませんでしたね。 学生時代、現役の学校の先生たちと関わることが多かったので、卒業前にあいさつに行くと、当然進路を訊かれます。 「小学校に行くの?特学?それとも養護学校?赴任地は?」 それに対し「先生にはなりません。施設職員になります、しかも入所施設」と言うと、だいたいの方が絶句。 施設名を言うと、「大丈夫なの?」と心配される始末。 同じ系列の施設の中でも、飛び抜けて大変&同じ法人の職員からも「あそこだけは行きたくない」という施設でしたから。 目的と覚悟を持って赴任希望を出した施設だったので、私はこのようなリアクションがきてもなんとも思いませんでしたが、「"あんなところ"は止めた方が良い」と言われた時には、仏の私もさすがにカチンときましたね。 それは私の進路が否定されたからではありませんよ。 それを言った先生は、「あんなところ」と言った施設に、学校の子ども達を入所させていたからです。 「"あんなところ"という場所に、何人、子ども達を入所させたんだ。自分たちが対応できなくなったからって、親御さんにプレッシャーを掛けて。"あんなところ"と思うのなら、しっかり教育しろよ」 卒業後、特別支援の教師となった友人に、このときの話をすると、学校内には施設を下に見る空気がある、と教えてくれました。 まあ、これは働ていて、私自身もヒシヒシと感じることでしたので、怒りの感情は湧いてきませんでしたが、これじゃあ、「教育と福祉の連携、協働」なんてムリムリと思いましたね。 学校の中には、福祉職員の

頑張る想いを奪うのではなく、頑張る想いに応えていく

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通知表に書かれた『進級おめでとうございます』という担任の先生からのメッセージ。 「〇年生になったんだよ」と言い、誇らしげな表情で、私に見せてくれました。 取り組みを始めて、半年間。 本当に頑張ったと思います、本人も、親御さんも。 私も依頼されたことに応えられ、ホッとしました。 依頼は「このまま、通常学級で勉強がしたい」というものでした。 この半年間、本人にも、親御さんにも、私が多くの要求をしました。 成長、発達の妨げになるような要因を排除してもらい、「快食、快眠、快便」と規則正しい生活習慣に努めてもらいました。 また、勉強できる脳と身体作りのために、必要な遊び、運動を意識してやってもらいましたし、勉強の体勢ができたあとは、自分で勉強する習慣作り→単独での家庭学習を目指し、取り組みをしました。 あれだけ「支援級へ」と言っていた学校も、3学期になってテストの点数が上がったことと、家庭学習のドリルとノートを見て、冒頭のような判断へとなったのだと思います。 所詮、私は週に1回の人間です。 ですから、私は1つのきっかけにすぎません。 このご家庭の場合、本人も、ご家族も、「変わるための努力をした」そのことに尽きると思います。 今日で事業を起ち上げて5年目になります。 その間、いろいろな依頼がありましたが、ハナから他人に変えてもらおうと思っている人には、未来を変える力がない、と感じます。 そのような雰囲気があった方には、「依頼を受けることはできません」と断ったこともありますし、途中で止めたこともあります。 結局、自分の未来を変えるには、自分自身で行動するしかありません。 自分を発達、成長させたいのなら、自分自身の身体を通して刺激を受け取るしかないのですから。 今日、通知表を見せてくれた本人と親御さんの表情を見ると、事業が続く限り、本人とご家族の「頑張りたい」という想いに応えていきたいと改めて思いました。 障害があることが頑張らなくて良いということにはなりませんし、診断名をつけることで他人が、その人の「頑張る」を奪ってもいけないと思います。 私は、頑張る姿を間近で見させてもらい、心が動かされることがありますし、いつも以上に一生懸命に、また実力以上の力が引き出された経験もあります。 それは私がこういった仕事をしているから