2017年4月27日木曜日

確認できるところから、そこにつながっている見えない部分を視る

相談者から「モロー反射が統合できていなくて…」「呼吸が深くできないんです」「背中が固くて困ってます」と言われれば、そこまで難しくはありません。
ですが、実際は漠然とした表現で、それぞれの言葉と概念に乗せて相談者の口から発せられます。
例えば、学校内での問題として、「授業に集中できない」「宿題をやろうとしない」「クラスの子の声、音にびっくりしてしまう」「学校に行いきたがらない」「文章問題がまったくダメ」「グループ学習が難しい」などがあります。
悩みの数は、相談者の数だけあって、その表現の仕方も、見る“眼”によって異なるのです。

そんな抽象的で、主観によって表現される相談に対してどう対応するか?
支援者には、大まかに分けて3パターンがあります。

まず、どんな相談がされても、いつも言うことがだいたい同じ、という支援者。
「そのままを受け入れましょう」「無理はさせない」「周囲の理解が大事」「子どもに寄り添いましょう」「視覚化して伝えましょう」など。
こういった支援者は、相談者の言葉の前に、自分の答えが決まっています。
つまり、相談者の悩みはどうでもよくて、「頼ってもらうことが嬉しい」「過去に自分が言ってもらいたかった言葉を言うことで、自分自身を癒したい」「主義主張が決まっている」というのが、背景にありますね。
このレベルの支援者は、支援者ではなく、自分が支援を受ける立場の人。

次に、相談者の言葉に対して、そのまま返答してしまう支援者。
問題の背景は別のところにあるのに、相談者の表現のまま、噛み砕くことなく飲みこんでしまう。
そうすると、対処療法にしかならず、根本に届く支援はできません。
対処療法に、対処療法を重ねていき、結局、行き当たりばったりの支援に。
一時的に解決したように見えるけれど、時が経てば、再び問題が出てくる。
このレベルの支援者は、勉強すれば誰でもなれるくらいの人。

そして、3つ目のパターンの支援者が、本物のプロフェッショナル。
治すことができる支援者です。
言葉で表現された相談内容を、言葉以外から読み解く支援者。
現在までの育ちの歩み、発達過程、将来の姿まで、表面に出ている部分から見えないものを辿ることのできる支援者こそ、専門家であり、お金を貰って良いレベルだと思います。
また、この支援者は「人を育てる」人だといえます。

対処療法はいくらやっても、対処療法にしかなりません。
言葉に言葉で対応しても、言葉以外は変わっていきません。
問題の根っこを掴み、そこから育てなおしていくことが、時間がかかるように見えますが、一番の近道だと思います。
この仕事を続けてきて思うのですが、発達障害の人達は支援が必要な人ではなくて、育ち直しが必要な人達である、と思います。
彼らが欲しいの支援ではなく、学び直す機会であり、抜けた育ちを埋める時間ではないでしょうか。
そのためにも、本人や家族の方達には、支援者を見る目を養っていただき、また自分たちも問題の根っこを掴む努力をしていただきたいと思います。

「自分に必要な学びは何か?」
「自分の歩みの中で、足りなかった発達段階は何か?」
支援ではなく、育ちを求める人が増えることが、治る人を増やすことにつながると思います。
私自身も、見えないものが視れる職業人になれるよう学び続け、自分を厳しく育てていかなければならないと考えています。

2017年4月25日火曜日

相談は大脳皮質から発せられるけれども…

「季節の変わり目に翻弄されて…」と、「新年度が始まったから、これを機に」ということから、この時期は相談が多くなります。
で、その相談のほとんどは、大脳皮質からの相談ですね。

人間関係の悩み、仕事の悩み、不登校やひきこもり状態の悩み、自分の思考の悩み。
「〇〇ができるようになりたい」「通常学級で学び続けたい」「問題行動を無くしたい」という願い。
いずれもヒトらしい、ヒト特有の、ヒトの悩みであり、願いです。

こういったヒトの悩みに対し、人は人として悩みを解決し、人として願いを叶えようとします。
しかし、大脳皮質から発せられた相談に、大脳皮質で応えようとしても、答えは出ないことがあります。
そうです、相談の根本は、もっと奥深くに存在しているのです。
社会を切り取り、問題を切り取り、捉えるのは大脳皮質で、表現されるのも、大脳皮質を通して。
ですから、大脳皮質の問題であり、大脳皮質にアプローチすることが解決につながると自動的に思ってしまうのです。

私のところに来る相談は、そのほとんどが直接的なものではなく、紆余曲折を経てのものです。
医師や保健師、相談機関、学校に相談し、それでも結果として表れてこない、違和感を感じる。
そういった場合、いわゆるセカンドオピニオンのように、私のところにいらっしゃいます。
大脳皮質で切り取り、処理し、表現した相談に対し、大脳皮質に対するアプローチを受けてきた。
しかし、問題の根っこは、そこじゃないんですよね。

習慣を変えるのは、難しいことです。
考え方を変えることは、とても難しいことです。
他人を、社会を変えることは、限りなく難しいことです。
でも、身体を動かすことは難しくない。
今日から、この瞬間からやろうと思えば、やれます。

身体からのアプローチの素晴らしいところは、すぐに、自分一人でできること。
しかも、大脳皮質同士のやりとりでは、お互いの概念の差によって、すれ違いが起きやすいけれど、「肩甲骨を動かしましょう」「呼吸が深くできるようにしよう」「このような動きをしてみて」など、とっても具体的で、「これならできるかも」という意欲につながりやすい。

「自分のありのままを受け止めましょう」と言われても、「はぁ~、具体的にどうしたらいいのさ。いつまでやればいいのさ」ってなりませんか?
そういったアドバイスって、どんな支援者でも、機関でも、書籍や講演会でも、繰り返されてきたことですね。
自分たちで「自閉症の人は、具体的に捉える人達なんです」と言いながら、抽象的なアドバイスを繰り返す支援者たち…。
身体アプローチの方が、よっぽど具体的で、自閉っ子に分かりやすい。
ですから、私は相談の際、その根っこを掴むことに力を注ぎますし、考え方、習慣、社会を変えるよりも、本人が容易にできることを勧めています。

それにしても、「社会を変える」っていうのは、悩んでいる本人の切り取り方、認知に合わせて、他人や地域、社会を変える、ということですので、つくづくおかしな、現実離れした方法だと思いますね。

2017年4月23日日曜日

なぜ、ギョーカイは身体アプローチを好まないのか

聴覚過敏の子に対して、いまだにイヤーマフと視覚支援、精神安定剤って・・・。
これは私が学生時代から行われていた3つ。
もう15年くらい経つのに、そこから抜け出せないのはどうしてでしょうかね?

イヤーマフや耳栓って言うのは、刺激を遮断しようというもの。
視覚支援と精神科薬は、不安になると、より刺激に過敏になるから、少しでも気持ちを穏やかにしようとするもの。
いずれも対処療法であり、本人の外側に存在するものですよね。
でも、聴覚過敏は、その子の身体、内側で起きている。
だったら、治療の対象は、その子の身体に決まっています。
とってもシンプルなことであり、どうして本人の外側でごちゃごちゃしているのかって感じです。

ギョーカイ人って、外でごちゃごちゃするのは好きだけれど、「身体を育てる」みたいなアプローチを好まない傾向があるように感じます。
私が見てきたギョーカイの世界では、こんな理由が考えられますね。

◎身体へのアプローチは、本人が主体であり、自分でも、家族でも、できちゃうから。つまり、ずっと支援できないのが嫌、「僕が支援したから、あなたは成長したんだよ、キリッ」ができないのが嫌。

◎カッコいい視覚支援やグッズは作っただけで(結果が伴わなくとも)、「すごい」と思われやすい支援者にとってインスタントな自己肯定感を高める方法だが、身体アプローチは本物の“うで”がいるし、時間がかかることもあるので嫌。

◎自分の持っている免許や資格に縋っている支援者は、それがなくてもできちゃう方法が嫌。

◎そもそも自分の身体、健康に無頓着な支援者が多い。ジャンクフードが好きな支援者、偏食、運動をしない、嫌いな支援者が多い(当社調べ)。

◎逆にゴリゴリ体育会系の支援者は、トレーニングをしても同じようにできるようにならないだろうと思って諦めているから、やること自体が嫌。自分の身体とこの子の身体はまったく別もの。身体同士の認識の開きが大きい。

◎自分が専門とする療法以外の方法はやりたくない。

◎人の支援ではなく、“発達障害の人”を支援したいから、THE療育みたいな方法以外、興味ない。

まあ、まとめると、愛着障害を持っている支援者という人達にとって、外でごちゃごちゃする方が、支援をやっている感もあるし、ある意味、やっているだけで「ちゃんと支援している」と見られやすいから、他人から見える支援の方が好みなんだと思いますね(視覚支援がウケたのは、愛着障害を持つ人が多いから←暴論)。
それに身体って、みんな持っているし、一見すると、発達障害の人達も自分と同じように動かせている。
だから、敢えてそこを取り上げて、アプローチしようとは思わない、またその重要さに気づきさえしない人が多いんだと思います。

もういい加減、対処療法でどうにかしようとする時代は止めにした方が良いと思うんです。
治らない時代は、対処療法で有難がられたかもしれませんが、今は身体を育てる素晴らしい知見、実践を行っているプロフェッショナルがいて、どんどん治っていく人がいるのですから。

もういい加減、自分の専門、枠組みの中で、どうにかしようとするのは止めた方が良いと思うんです。
こういった「治す実践」が行われているのに気が付いているはずなのに、「いや、あれは違う」「もともと発達障害じゃないしー」「エビデンスがー」などと、クダラナイことを言っていないで、本人のためにより良い方法をどんどん取り入れ、実践していけば良いと思うんです。
どうもギョーカイ人というのは、障害者萌えをしている輩が多い。
「障害者しか愛せません」「THE自閉症支援がやりたいんですぅ~」みたいなのが少なくないですね。
人を支援するのが支援者のはずなのに、障害を持っている人を支援するのが支援者だと勘違いしている人が、本人が歩む“人として”の発達、成長を阻害しちゃうんですね。

目の前に聴覚障害の子がいたら、その子の身体から、内側から発せられる苦しさに目を向け、それを治してあげたいと思うのが、人を支援する支援者ではないでしょうか。
「聴覚過敏か。よしよしイヤーマフをつけさせて、スケジュールを詳しくして、はっきり見通しを持ってもらおう」と思うこと。
この違和感、ズレに気づける人は、自分の身体がしっかりしている人だと思いますね。

そーいえば、昔、某有名支援者が当地に来て講演会した次の日から、(当時)養護学校の子ども達のほとんどがイヤーマフをつけるようになったという事件(?)出来事がありましたね。
アセスメントよりも、本人のニーズよりも、某有名支援者の「欧米ではイヤーマフを・・・」の方が強かった時代。
当然、いきなり耳につけるようになった物体を子ども達は外すし、投げるし、振り回すし・・・で、学校の先生たちが困っていましたが。
でも、何よりも困ったのは、「某有名支援者が言ったんですよー」と言って、先生たちの話を聞こうとしなかった親御さんだったと教えてくれた先生がいました。
身体が賢い人は気が付いてたはず。
対処療法&某有名支援者に熱狂していた時代がまだ続いているとは思いたくないですね。

2017年4月21日金曜日

発達は子どもの権利

昨日届いた花風社さんの新刊『人間脳の根っこを育てる』を読み、考えさせられたことがあります。
それは、本人の身体、動き、発達のレベルに合わない援助も、その人の主体性を奪うことになる、ということです。

先日、私はツイッターで「発達は子どもの権利。たとえ親であっても、その権利を奪ってはならない」とつぶやきました。
悲しいことに、子どもが「重いままでいい」「治らなくてもいい」「自立しなくてもいい」などと思っているのでは?と言動から感じてしまう人がいます。
悲しいことに、本人の言動、表現ではなく、大人が何を発達させるか、何を指導、支援するかを決めてしまう人がいます。
悲しいことに、本人のニーズから方法を導くのではなく、自分が指導、支援したい方法の中のみでニーズを満たさせようとする人がいます。
このような人達と出会うたびに、上記の言葉が溢れ出てくるのです。

大人が皆、受精した瞬間から発達の道を歩み続け、大人になったのと同じように、子どもたちもまた生物として発達の道を歩み続ける。
まだ目の前にいる子は発達の途中かもしれないが、発達のヌケや遅れを持っている子かもしれないが、発達の権利は他の誰のものでもなく、その子自身が持つものです。
周囲の人間によって「発達するかどうか」「何を発達させるか」「どう発達するか」を決めるのは、その子の主体性を奪うことになります。

子どもが発達するのは当たり前。
子ども自身が、発達したいところから、させたいように発達させていけば良い、そんな風に私は思うのです。
ですから、子どもに関わる者は、年齢や学年、周囲の想い、支援の得手不得手ではなく、その子の発達段階を大切にし、そこから始めていくことが、発達という子どもの権利、子どもの主体性を大切にする援助だといえます。

仕事の依頼や相談には、本人以外のニーズが含まれます。
当然、本人の周りにいる人達の想い、願いがそこにはあります。
しかし、それはあくまで本人以外のニーズです。
依頼の連絡をくれたのは家族かもしれませんが、私の仕事は本人のニーズを満たすための援助をすること。
ですから、本人のニーズと反するものであれば、「依頼は受けられません」と断ってきました。
それは本人の発達の権利、主体性を一番に考えると、心に決めたから。

でも、それだけでは不十分。
本人の表現するニーズだけではなく、本人の身体から、動きから発せられる発達レベルを的確に受け取り、発達段階に沿った援助ができなければ、それも上記の"悲しいこと"と同じように、子どもの権利と主体性を奪うことにつながる。
そのようなことを考えるきっかけを花風社さんの新刊からいただきました。

2017年4月20日木曜日

「人間脳の根っこを育てる~進化の過程をたどる発達の近道」(花風社)を読んで

最後に特別支援くさい本を読んだのはいつだったかな。
そんな風に思うくらい何年も、購入していないし、読んでもいませんね。
でも、花風社さんの本だけは、いつも新刊を心待ちにし、何度も読み返します。
それは、花風社さんから出版される書籍が実践的であり、今日からできることであり、治す本だから。
そして、発達障害の人を育てるための本ではなく、人を育てるための本だから。


今回、出版された書籍は、栗本啓司さんの3冊目になる『人間脳の根っこを育てる~進化の過程をたどる発達の近道 』という本です。
過去の書籍同様、著者の栗本さんが長年積み重ねられてきた実践、経験、知識が詰まっていますし、こういった視点を得ることで、多くの人達が遠回りせず、発達という道へと歩を進めることができます。


ギョーカイ本の多くが、著者自身、またそれを手にしたギョーカイ人が気持ちよくなるためのものとは異なり・・・
ギョーカイ本の多くが、大したネタでもないのに、いかにも素晴らしい独自の知識、知見のように表し、しかも小出し→「詳しくは、講演会、研修会、ライセンスを取ってね」とやるのとは異なり・・・
花風社さんの浅見さん、著者の栗本さん、二人のプロフェッショナルが、本気で発達障害の人とその家族のために、本気で発達障害を治し、自立した人生を歩んでもらうために生みだされた本だと、私は読みながら感じました。


これから仕事ですが、この本から教えていただいた視点「進化と発達の過程をたどる身体育て」を意識しながら接していこうと思います。
そして、何度も読み返し、周辺にある知識も深めていくことにより、無意識で発達援助ができることを目指していきたいと思っています。
大脳皮質のみに働きかける療育と同様に、立位からの身体アプローチで、その人は良いのだろうか?
その前の発達段階、発達のヌケの部分へのアプローチ。


発達障害の人を支援したがるギョーカイ人にない視点を栗本さんが持っているのは、栗本さんが実践家であり、人を育てる仕事をしてきたから。
人を大切にする方だからこそ、受精から始まる人の発達を大事にされ、そういった視点で発達援助をされているのだと思います。
だからこそ、発達障害としてギョーカイ人が臨むように育つのではなく、栗本さんが援助されている方達は人として育っていく。
当然、みなさん、人として発達し、治っていく。
だって、人の発達をたどる援助だから。


昨年、二人目の子が生まれ、間近で進化の過程と運動の発達を見ることができています。
また上の子の通う保育園は、生物の進化、特に脊椎動物の進化の過程で必要であった運動を取り入れた保育を実践しているところなので、人間脳の根っこを育てるという意味がより良く実感できます。
日々の子育てにも通ずるところからも、発達障害のままでいることを周囲から求められる支援ではなく、発達障害の子だって、人として発達する支援の方が発達の"近道"に違いないですね。


何度も読み返し、多くの人に紹介していこうと思う本でした。
今回も、栗本さんの叡智あふれる本を世に送りだしていただいた花風社さんに感謝です。
一人でも多くの方が手に取り、読み深めていただければ、今日から変わっていける人達が増え、未来の子ども達、親御さん達の道標になると思います!



2017年4月10日月曜日

私だったら、お土産は受け取らないな~

私が医師だったら、そして診断名をつける仕事をしていたら、本人や親御さんからモノは受け取らないですね。
「どこどこに行ったときのお土産です」とか、「お世話になっているので、皆さまでどうぞ」というくらいのものでも、ゼッタイに、私なら。
だって、身体的な障害とは異なって、発達障害の診断って人の意思が入りこめる幅があるんですもん。
当然、人が行うことですから、ミスも起きるでしょう。
また本人やご家族の状況、医師の考え、思いなどが、ある種の空気感を生むこともありますよね。


「スペクトラム」ということからも分かるように、自閉症、発達障害の人がピョンと離れて存在しているわけではなく、みんなつながっているわけです。
それに発達のヌケを埋めたり、成長したりすると、どんどん症状は良くなるし、治る人も出てくる。
これは当然の話というか、自然な話。
みんな生きているんだし、脳には可塑性という特徴があるんだもん。
ある有名支援者が「良くなることはなくて、悪くなるのが一般的。だから、現状維持できているだけでも儲けものだと思いましょう」と語っていましたが、学生時代の私でも、これが営業トークか、本気で言っているかは分かりませんでしたが、「現状維持のための支援」なんて馬鹿げていると思いましたよ。


学生時代と言えば、いろんな発達検査を見させてもらいましたが、こんなに検査者の意思が入るものなら、あんまり意味がないな、と思って見ていましたね。
あるとき、「今の行動を評価してみろ」と言われるから、見たまんま評価すると、「それは厳し過ぎる」って良い評価に変えられちゃった。
あとから聞いたら、前回、検査したときと同じだと、支援の効果が疑われるからだって。
だから、大きく成長はないけれど、ちょっと成長した感じにするのがミソらしいですよ、奥さん。


また話が逸れちゃいましたけど、とにかく私なら情が入りこまないような対策をする。
「重いように書いてください」という方も方だし、「重めに書いておきましたよ」という方も方。
子どもそっちのけで、大人同士がこういったやりとりをするのは憤りを感じます。
ペン先で、一人の子の人生を変えちゃうかもしれないことをやっているのです。
それに支援サービスの量、免除や補助とも関わってくる。


数年前、「耳が聞こえない」「目が見えない」って、実際とは異なる診断書を出して、不正をはたらいていた医師と患者が捕まったのもありましたよね。
実際よりも症状が重いように書いて、行政に提出したら、これも数年前の事件と同じ話じゃないですかね~。
「児相の評価と、ドクターの評価が違うんです」と言われる親御さんは結構います。
減らしたい方と増やしたい方のせめぎ合い。
まあ、だいたいは児相の方が、本人のことを客観的に見てますね、直接モノを貰っていない分(ブ)


"イシ"によって、実際と異なる診断、評価を受けることにどのような意味があるのでしょうか。
発達のヌケを埋め、成長し、良くなったり、治ったりした子は、むりくり診断基準の中に押し込めない方が良い、と私は思いますね。
治ったのなら、治った人生を歩んでいけばいい。
それなのに周りの大人が「ねえ、治ってないよね。治ってないって言ってぇ~~~」って、子どもの可能性を奪っているようにも見えます。


意思の入った診断書より、客観的な評価の方が、本人の、親御さんの頑張りへとつながると思います。
実際、手帳の再判定で「交付対象外」とされたご家族が目の色を変えて、将来のために一生懸命頑張るってことがありますから。


意思が入る余地があるものだったら、なるべく意思が入らないような対策を取る。
それがプロという者。
患者の好き嫌いがペン先に影響を与えるから、ゴマを摺って持ち上げたり、青くしたり、お土産を渡したり、言いたいことを遠慮したり・・・、結局、子どもではなく、大人の顔を見るようにさせちゃうんですね。
これじゃあ、良くなるもんも、良くなりませんわ!

2017年4月4日火曜日

私が新社会人だった頃の思い出話

入社式のニュースを見て、「若いな~」と思った今朝。
こういう風に思った時点で、自分が年を取ったことに気が付きます。
私も12年前は、新社会人。
まあ、3月から"研修"ということで働いてはいましたけれど。


大学の卒業式の日だけは休みを貰い(?)、参加。
周りはキラキラしていたけれど、すでにいろいろ目にしていた私にとっては、4月から先生になる仲間が別世界の人達に見えました。
でも、教師を目指して入学した大学。
今日晴れて卒業し、4月から教師になる同期たちから見れば、「お前の方が別世界の人間だぞ」と思われていたことでしょう。


別世界の人間と見ていたのは、同期たちだけではありませんでしたね。
学生時代、現役の学校の先生たちと関わることが多かったので、卒業前にあいさつに行くと、当然進路を訊かれます。
「小学校に行くの?特学?それとも養護学校?赴任地は?」
それに対し「先生にはなりません。施設職員になります、しかも入所施設」と言うと、だいたいの方が絶句。
施設名を言うと、「大丈夫なの?」と心配される始末。
同じ系列の施設の中でも、飛び抜けて大変&同じ法人の職員からも「あそこだけは行きたくない」という施設でしたから。


目的と覚悟を持って赴任希望を出した施設だったので、私はこのようなリアクションがきてもなんとも思いませんでしたが、「"あんなところ"は止めた方が良い」と言われた時には、仏の私もさすがにカチンときましたね。
それは私の進路が否定されたからではありませんよ。
それを言った先生は、「あんなところ」と言った施設に、学校の子ども達を入所させていたからです。
「"あんなところ"という場所に、何人、子ども達を入所させたんだ。自分たちが対応できなくなったからって、親御さんにプレッシャーを掛けて。"あんなところ"と思うのなら、しっかり教育しろよ」


卒業後、特別支援の教師となった友人に、このときの話をすると、学校内には施設を下に見る空気がある、と教えてくれました。
まあ、これは働ていて、私自身もヒシヒシと感じることでしたので、怒りの感情は湧いてきませんでしたが、これじゃあ、「教育と福祉の連携、協働」なんてムリムリと思いましたね。
学校の中には、福祉職員のことを「教員免許がなくてできる仕事」「高卒でできる仕事」と思う人がいる。
一方で、福祉職員も(私が現場で思っていたこと)、「日頃は下に見ているくせに、自分たちでどうしようもなくなったら、あとは福祉で」と無責任に、他人の人生を投げてしまう人達と思っていました。


あるとき、幹部の人と話す機会があって、同じように上記の話をすると、「小学校から高校まで12年間も、人も、金も、普通校の子どもたちよりも多く使って教育して、結局、問題行動が治らない、施設しか行き場所がない、なんて馬鹿げた話だろ、大久保君。アメリカだったら、そんな学校は訴えられるぞ」と言っていました。
今、思いだしながら文章を書いていますが、こういう人がまだ施設にいた頃は、施設の中にも本人の視点があった、と思いますね。
本人の視点がなくなったから、支援者、経営者のための施設、福祉になった・・・。
ああ、横道に逸れちゃいましたね。


思いつくままに文章を書いてしまい、まとまりの無いものになってしまいましたが、新社会人を見て、「若い」と思った時点で、自分もおじさんの仲間入りだということと、今はどうか分かりませんが、学校の中には福祉を下に見る人もいる。
一方で、福祉の方も、「俺たちよりも、人も、金も、職員の権利も、有休も、自由もある学校なんだから、しっかりやってくれよ、可能な子は福祉が必要ない子に育てろよ、福祉以外の選択肢を作れよ」と思うことがある。
そして、12年前、私に「あんなところ」と言った先生は、今では立派な管理職になられている。
まあ、生徒のことを威圧して言うことをきかせていた先生も、晴れて管理職試験に合格されたということが新聞紙上で分かり、さすが見る目があるね、道教委さまってことが言いたかったんですね、今日は(笑)

2017年4月2日日曜日

頑張る想いを奪うのではなく、頑張る想いに応えていく


通知表に書かれた『進級おめでとうございます』という担任の先生からのメッセージ。
「〇年生になったんだよ」と言い、誇らしげな表情で、私に見せてくれました。
取り組みを始めて、半年間。
本当に頑張ったと思います、本人も、親御さんも。
私も依頼されたことに応えられ、ホッとしました。
依頼は「このまま、通常学級で勉強がしたい」というものでした。


この半年間、本人にも、親御さんにも、私が多くの要求をしました。
成長、発達の妨げになるような要因を排除してもらい、「快食、快眠、快便」と規則正しい生活習慣に努めてもらいました。
また、勉強できる脳と身体作りのために、必要な遊び、運動を意識してやってもらいましたし、勉強の体勢ができたあとは、自分で勉強する習慣作り→単独での家庭学習を目指し、取り組みをしました。
あれだけ「支援級へ」と言っていた学校も、3学期になってテストの点数が上がったことと、家庭学習のドリルとノートを見て、冒頭のような判断へとなったのだと思います。


所詮、私は週に1回の人間です。
ですから、私は1つのきっかけにすぎません。
このご家庭の場合、本人も、ご家族も、「変わるための努力をした」そのことに尽きると思います。


今日で事業を起ち上げて5年目になります。
その間、いろいろな依頼がありましたが、ハナから他人に変えてもらおうと思っている人には、未来を変える力がない、と感じます。
そのような雰囲気があった方には、「依頼を受けることはできません」と断ったこともありますし、途中で止めたこともあります。
結局、自分の未来を変えるには、自分自身で行動するしかありません。
自分を発達、成長させたいのなら、自分自身の身体を通して刺激を受け取るしかないのですから。


今日、通知表を見せてくれた本人と親御さんの表情を見ると、事業が続く限り、本人とご家族の「頑張りたい」という想いに応えていきたいと改めて思いました。
障害があることが頑張らなくて良いということにはなりませんし、診断名をつけることで他人が、その人の「頑張る」を奪ってもいけないと思います。


私は、頑張る姿を間近で見させてもらい、心が動かされることがありますし、いつも以上に一生懸命に、また実力以上の力が引き出された経験もあります。
それは私がこういった仕事をしているからではなく、人と人との間で自然と生まれるものだと思います。
人は頑張る人が好きですし、頑張る人を見ると、自分も頑張ろうと思う、それが自然な姿です。
ですから、私が頑張りたい人の"頑張る"のきっかけになれれば、その人を理解したい、応援したい人が増えることにつながりますし、ひいては自閉症、発達障害の理解が広がることにつながるのだと思います。


今日もまだ寒い一日でしたが、小さな春を見つけました。
自然な色こそ、美しいですね。
5年目も、"治す"にこだわって仕事をしていきたいと思います。
励まし、お祝いのメッセージをたくさんいただけて嬉しかったです。
日々の精進を怠らず、一人でも治る人が増えるよう私自身も頑張っていきます。