2017年5月26日金曜日

ただ単に努力不足、経験不足

みね子が「お給料減ったんだし、仕事も1割くらい手を抜こうよ」と言っていたら、幸子は焼き芋をご馳走しようとは思わなかったはずですし、最後の夏さんとのシーンに、観ているものが心を動かされることはなかったでしょう。


世の中、自分のせいじゃなくても、うまくいかないことなんて山ほどありますし、頑張ったことがすべて報われるわけではありません。
でも、だからと言って、頑張ること、努力することが無駄なのかと言ったら、そんなわけはなく、そのひたむきな行為自体に自分を成長させる力、自分の人生を豊かにする力、そして、周りで見ている人達をより良い方向へと動かす力があるのだと思います。


「みね子には、いつかビーフシチューを自分の力で食べて欲しいな」
「私も、今日一日、仕事を頑張ろう」
と、ドラマを観ていた人が思うのですから、実際、側にそのような人がいたら、もっと大きな刺激になるはずですし、こういった人が増えることで、社会をより良くすることにつながっていくと思うのです。


私はずっと「努力」という言葉の前に「無駄な」という形容詞が付くなんて思いもよらなかったですし、そういったことを言う家族や友人、先生などが側にはいませんでした。
ですから、社会に出て、というか、特別支援の世界に入って、努力を否定する人、努力に無駄な努力というものがあると思っている人、「努力しなくても良いんだよ」と他人様に言う人を見て、意味が分からなかったのです。
努力や頑張り、そして経験にやらなくて良かったことなどありません。
こんなことを、普通の人には言わないことを発達障害の人達に言うもんだから、ちょっとしたことでも頑張ろうとしない人、「頑張ろう」と言うと、「無理です」「怖いです」と言う人、そもそも経験不足の人が増えていくのも当たり前だと思います。


よく相談で、「仕事をしたい」という成人の方からのお話があります。
「じゃあ、どんな仕事がしたいですか?できそうですか?」と尋ねると、「わかりません」と言い、「こんな仕事は」と提案すると、それは無理、あれは無理、何々ができないから&苦手だから無理、と言われる場合が多いですね。
本人側の課題として、背骨が育っていないことなどがありますが、「見えないものは、ない」というのもありますから、経験不足の影響が大きいと思われます。


じゃあ、その経験不足は、発達障害だからかと言われれば、そうではなく、「環境の影響でしょ」というのが多い。
臆病な家族に、ギョーカイ支援者が、本人が得ようとする経験に待ったをかけてきた、そんな姿が見えるのです。
本人がアルバイトをしようとすれば、「まだ早い」とか、「難しいんじゃない」とか、「障害に理解のある(?)作業所の方が良いよ」とか言い、経験から遠ざけようとする。
また本人が頑張ろうとすることに、「そんなことをやっても意味がない」「無理しちゃだめだ」「ほかの部分で支障が出てくるよ」と、否定するようなことを言う。


そんなこんなで、頑張ったという経験、そして経験自体が、同世代の人達とは大きく違ってきます。
そんな中で、同じように本人が就職を希望しても、それは無理なお話。
だから、みなさん、実際に就職するまでには、学校を出てから何年も、同世代の人達がすでにやってきた経験を積む時間が必要だったり、まずは「頑張らなくいいよ」の支援から離れる必要があったりします。


自閉症の人の中には、「見えないものは、ない」という人が多いのですから、支援の方向性としては、経験させない、努力させないはあり得ません。
「見ないものは、ない」人だからこそ、見えるような機会を増やしていく支援が必要ですし、それが選択肢の幅、可能性の幅を広げることにつながるのだと思うのですが…。
アルバイトの経験もない、家で特にお手伝いもしていない、そんな状態の人が、いきなり一般就労は難しいですし、何がしたいか、何ができるかを想像するのですら難しい。
一方で小さいときから、障害云々に関わらず、同世代の子たちと同じような教え、経験、頑張るところは頑張らせる、としてきた親御さんの子は、一般就労している人が多いですし、そうではなくても、より自立的で、選択肢のある生活を送っている人が多いですね。


「無駄な努力」「無駄な経験」などという人は、結果が出ない努力や経験のことを指しているような気がします。
でも、結果と結びつけること自体がおかしいですし、大体そういうような発言をする人は、結果が出る前に努力を止めている人ばかり。
結果が出るくらい努力しない人に限って、そのようなことを言います。
または、努力の方向性が間違っていることに気がつけない人、気がついても修正できない人ですね。
ですから、努力の意味を教えていくことは大事ですし、その前提として小さいときから努力をさせること、また大人自身が努力する姿を子どもに見せることが大事だと思います。


数日前のブログにも書きましたが、丸投げする親御さんは、親御さん自身が努力しようとしない、また結果の出ることだけしかしたくない、という人が多いと言えます。
また商売のために、固定資産化を目指し、「頑張らせない」「経験させない」という支援者もいますが、支援者自身が愛着障害を抱え、幼きときから「親に好かれようとしても無駄だった」「愛情を受け取ろうと頑張っても、そんな親がいなかった」という無力感、喪失感、空虚感を持ち続けているからこそ、そのように努力と経験の前に「無駄な」という言葉が浮かんでしまうのでは、とも思います。


発達障害があるから、努力しなくても良いわけではなく、頑張らなくても良いわけではありません。
発達障害があるから、経験しなくてよい経験などないはずです。
努力の仕方や頑張りの方向性、経験の積み重ね方に支援が必要かもしれませんが、決して努力や経験自体を取り上げることが支援ではないですね。
「社会の理解ガー」ってやっても、家の中で悶々としてても、支援者の勧めるままに軽作業をしてても、就職先は降ってはきませんし、必要な力が身につくわけでもありません。


足りないのは、社会の理解でも、支援者の数、予算の額でもなく、ただ単に努力と経験だと思いますし、そのような人には直接伝えるようにしています。
また努力しない、できないのなら、努力している人、頑張っている人のことをとやかく言うんじゃない、とも併せて言うようにしています。

2017年5月25日木曜日

親が支援者になる必要はない

親御さんが、自閉症支援に熱心になると、子どもが伸びなくなって、自閉症支援を仕事にすると、子どもが自立できなくなる。
どこの地域にも、とりつかれたように自閉症支援をやっている親御さん、ギョーカイの片棒を担ぎ、ギョーカイ人から「頑張っている親御さん」と見られたい親御さん、そして挙句の果てに、児童デイや作業所を作る親御さん、っていますよね。
もうすでに、その“顔”が浮かんでいる方もいらっしゃると思います。


どうして自閉症支援を頑張ると、子どもが伸びなくなるのか?
それは、とっても簡単な理由。
だって、ギョーカイのやっている自閉症支援って、自分たちから完全な自立を目指した支援ではないから。
親と違ってギョーカイ人は、商売で支援をやっているのです。
そして、その多くの支援者は、愛着障害を持っている。
つまり、自分たちのために、自分たちの手の中で、一生過ごしてもらうための支援が展開されているのです。


このような自閉症支援をいくらマネしても、熱心に頑張っても、支援がないと生きていけなくなる人を育てるだけで、親としての役割であり、本能である「我が子の自立」は遠くなるばかりです。
自閉症支援に傾倒するということは、親ではなく、支援者になるということ。
別の言い方をすれば、子育てから仕事に変えること。
また子どもから見れば、親が減り、支援者が増えるということです。


そもそもThe自閉症支援の一つ、構造化された支援も、始まりは家庭での療育です。
親御さんに学んでもらい、支援者がサポートし、家庭での療育を頑張ってもらうために行われていました。
つまり、中心は家庭であり、やっていることは子育てだったんですね。
その子育ての仕方に工夫がいる。
それのアイディアが構造化された支援。
情報を整理し、わかりやすくすることで、自閉っ子により良く学んでもらおう、成長してもらおう。
そして、親御さんに子育てを頑張ったもらおう、という目的がありました。
決して、親御さんに子育てを頑張らなくて良い、療育は支援者が行うから、という話ではなかったのです。


ライセンスビジネスをけん引しているギョーカイメジャー達も、こういった歴史、事実は知っているのです。
そして、その当時の創始者たちに直接学んでいて、その人達の想いに触れているのです。
しかし、彼らは多くの支援者、親御さん達が知らないのを良いことに、自分たちの懐と自尊心を満たすために、支援者の大量生産を行っている。
それが2000年以降の出来事です。


そうして、親ではなく、支援者になった親御さんの子ども達が、どんどん成人し、その多くの若者たちが支援という枠の中で生きるしかなくなっている。
「支援を受けながら生きることが、子どもの幸せだ」というギョーカイキャッチコピーに何の疑問ももたずに、グレーの子はどんどん黒く、必要なところに支援ではなく、支援がないと生活できない人へと後押しすることとなる。


「完全に他人の手を借りず、自立している人間などいない」という屁理屈を言う人もいますが、本来、支援を受けながら生きることが、我が子の幸せだなんて思う親などいないのです。
多くの動物は、自分でごはんが食べられるよう、自らの足で自分の生活、人生を歩んでいけるよう子どもを育てようとします。
動物として、長い年月行なわれてきたこの営み、命の連鎖が、進化の過程で言えば、ほんの一瞬しか経っていない特別支援に負けるわけがないんです。


自閉症支援を頑張ってきた家庭と、子育てを頑張ってきた家庭。
どちらのお子さんが、社会の中で資質を活かせているか、より幸せな人生を送っているか、すでに結果が出ているはずです。
ですから、私は若い親御さん達に、「子育てを頑張ってください」「支援者になる必要はありません」と言っています。
発達のヌケや遅れを育て直すのも、動物としての子育てだと考えています。
構造化された支援も、より良く子育てを行ってもらうためのアイディアの1つ。
決して、親が支援者になってはいけないのです。


親としての幸せは、我が子が自立することであり、子どもの幸せは、親から自立できること。
本来、親と子が求める幸せは、同じはずです。
そうでなければ、長い年月、動物たちは命のバトンをつないでくることはできなかった。
動物としての本能、感覚を失った人、発揮できない人に根本から発達を促すことは無理だと私は思います。
だからこそ、親御さんには、親であることを大切にしてほしいのです。

2017年5月24日水曜日

「親御さんが障害を受け入れてくれなくて…」という相談

「親御さんが障害を受け入れてくれなくて…」といった相談が、支援者側から届くことがあります。
でも、これってどういう意味なのかなって思いますね。
親御さんが障害を受け入れるかどうかで、学校として、支援機関としてやるべきことが変わるのでしょうかね?


「何々障害」という診断名があろうとなかろうと、やるべきことは、その子が困っていることがあれば、それを解決するための援助をすることであり、発達のヌケ、遅れがあれば、それを育て直すお手伝いをすること。
何も難しく考えるようなことでもなく、苦しむ人がいれば、その苦しみから救おうとする、まだ成長途中の子どもを見れば、自立していけるよう導く、それが自然な振る舞いであり、先に生きる者としての役割、責務です。


ですから、支援者側から「親御さんが障害を受け入れてくれない」という訴えをする場合、そこには言い訳が隠れているような気がするのです。
うまくいかないのは、親御さんが障害を受け入れないからではなく、あなたに腕がないから。
治しやすいところから治すのが基本なので、「その治しやすいところが見つけられない」「気づかない」「治しやすいところすら治す方法がわからない」というのが、事実なのでしょう。


一方で、このような相談をしてくる支援者側にも同情すべき点もあります。
それは、親御さんが“障害を受け入れない”という点ではなく、何もしない、何もさせない、という点です。
障害云々というのは、人工的なお話であり、そっちの方が効率がいいから、便利だから、という話なので、どうでも良いのです。
しかし、我が子が苦しむ様子を見て、「同情するだけ」「何も手を打たない」というのはいただけません。
「このままでは自立できないかも」「将来困るかも」と思えば、自然と育てるという動きが湧き出てくるはずです。
それなのに、その動きが出てこない親御さんがいる。
これは問題だと思うのです。


私のところにも、こういった親御さんからの依頼がきます。
私に連絡した時点で“動き”なのかもしれませんが、実際は“丸投げ”という方もいます。
「私には専門知識がなくて」「支援は無理で」などと言われます。
でも、それは丸投げして良い、自分は何もしなくて良い、という話にはなりません。
子どもが困難を乗り越えられるよう親も一緒に努力をする、やれることをやる。
将来の自立のために、家事を教える、一緒に手伝わせる、家のお手伝いをさせる。
こんなのに専門知識はいらないのです。
親としての役割を果たすのに、支援者の力はいりません。


我が子の障害を受け入れるかどうか、診断を受けるかどうかは、どうでも良いと思います。
でも、我が子が困っていたら、このままでは自立できないと思ったら、何かやってほしいと言いますか、何か動きたくならないのかな、って思うのです。
冒頭の「親御さんが障害を受け入れてくれなくて…」という言葉の裏には、「親御さんが我が子が困っているのに、何もしないんです」という訴えも入っているような場合もあるのです。
「別に学校と同じことを、同じようにやらなくても良い。でも、何か我が子のために、家庭でも頑張ってほしい」
そんな声が聞こえることもあります。


私は、起業してから一貫して丸投げされる家庭には改善を求めますし、それでも変わらない場合は、依頼をお断りしています。
つい先日も、丸投げされるご家庭の支援を打ち切ったばかりです。
私は子育ての代わりをするつもりはありませんし、そんなつもりで起業したわけではありません。
私はあくまで補助であり、主体は親であり、その子自身です。
大事な我が子の子育てを他人に丸投げをする。
そんな姿勢、考え方に私は共感できないのです。


支援を受けて当たり前、支援が身近にあって当たり前。
そんな環境が、こういった丸投げを生んでいるような気がします。
「特別支援はやらなくて良いけど、子育てはしようよ。だって、大事な我が子だし、未来を作る人達だから」

2017年5月22日月曜日

社会を恨んでいる暇はないでしょ

有名人が「実は、私、発達障害でして…」と告白すると、「よく言ってくれた」「勇気づけられた」「私達の代弁者だ」なんて声が上がります。
でも、この人が告白しても、変わるのはこの人の仕事だけ。
この有名人には、今までとは違って発達障害関係のお仕事が増えるでしょうが、告白を称賛している人たちに仕事が舞い降りてくるわけではありませんね。
棚ぼたも、人を選びますから。


もし称賛したいのでしたら、その有名人の生き方ではないでしょうか。
どういう家庭で育ち、どのように学び、職を得、そしてその仕事を続けられているのか。
こういった生き方に、自分の人生をより良くするためのヒントがあるように感じます。
有名人が告白するかどうかより、自分の人生の方が大事ですよね。


私も、この仕事を続けていると、いろんな人にお会いしますが、どうも「自分の人生を一番に考えていないんじゃないの、この人」って方を見かけますね。
壇上に上がり、ずっと自分の苦しみ、社会の理解を訴える。
でも、その人は感覚過敏に苦しんでいる、二次障害に苦しんでいる。
「いやいや、社会に訴える前に、症状と病気、治しなよ」って、声には出さないが、聴衆の心の中でツッコミの嵐が起きる人。
社会を変えるより、自分の生活を変えなきゃねって感じ。


こういう人達を見ると、「責任転嫁したいだけじゃないの」って思ってしまいます。
無駄に敵を作り、社会を恨む。
私も実際、このような人に支援で関わることがありますが、はっきり言いますよ。
「社会を恨むのは、時間の無駄」
「社会を恨んでも、社会から理解を得られても、努力しない者は受け入れられないし、スキルがない者は仕事が得られないのは変わらない」
「社会は怖いところではなく、頑張る人に優しいところ」


結局、こういう人って、どうしたら良いか分からなくて迷っている人達。
だから、自分以外の“敵”が必要なんですね。
だから、有名人が障害を告白するのを見て、「自分以外にも苦しんでいる人がいることを知って安心したい」→「いじめとか、苦労話を聞きたい」→「社会の理解ガーってやってほしい」という感じに、「自分は悪くないんだ、仕方がないんだ。だって、〇〇が悪いから」と思いたいだけなのでしょう。
本当に、自分の人生を第一に考え、幸せになろうと思うのなら、社会を恨んでいる暇はないし、告白した有名人の生き方に注目するはずですね。


どうしたら良いか分からなくて迷っている人達に必要なのは、妄想の否定と、今日からできる具体的な方法です。
決して、彼らの好き放題、苦しみの垂れ流しができる場の提供ではないんです。
そして、自分以外の誰かが社会を恨むような言動をしているのを見て、ほっとしたり、「よく言ってくれた」と喜んだりするのは、「健全ではない」とはっきり伝えることが大事だと思うのです。
その心持ち、思考こそ、病であり、治すべき対象だと言うべきだと思うのです。


「苦しんでいる人達、少数派の人達が声を上げることで、社会を変えていく」なんて言われますが、私はそのようには思いません。
だって、昨日のNHKの特集を見て、一般の人は心を動かされたでしょうか。
社会を変える力を持つ人達、社会を変えていく人達というのは、苦しんでいる人ではなくて、苦しみを乗り越えた人だと私は思います。
乗り越えていない人、「まず自分自身が乗り越えてよ」と思われる人のメッセージは、人々の心を動かしませんし、社会を変えることはできません。


私は、いつまで苦しみの垂れ流しをお膳立てするんだろうと思うのです。
そんなことばかりしていたら、ますます一般の人達と心が離れていくばかり。
幸せになった人、克服できた人、治った人、そんな人のメッセージこそ、あとに続く者たちの希望となり、社会を変える道を照らすことになる。
だからこそ、自分の生活、人生、幸せを第一に考えないといけませんね。


どうも陰気くさい番組は嫌ですね。
まあ、本も、講演会も、人も、ですが。
お店も、照明が暗いお店を増やすより、どんなお店でも買い物ができるように治す方が、何倍も、何十倍も、ショッピングが楽しめると思いますがね。

2017年5月12日金曜日

「まずは二次障害を治してから、就労を目指しましょう」という決まり文句

いわゆる二次障害を持った成人の方は、支援者にこう言われる。
「まずは二次障害を治してから、就労を目指しましょう」と。


実際、私のところにも、支援者からこのように言われたという人が来ます。
そして、みなさん、支援者から「無理をしない」と言われれば、挑戦や新しい試みは行わず、「今は休むとき」と言われれば、ゆっくり休むことを行っていました。
当然、エネルギーのある10代、20代の若者たちは、「休め」と言われて休んでいるけれど、日々、変化のない、休むことだけの時間と生活に、息が詰まり、ふつふつとした思いが溢れ出してくる。


こういった生活が続くと、「他の人は働いている」「みんな、自分の生活を送っている」「それに引き換え、自分は…」となり、本当に心が病んできます。
支援者から言われた通り、しっかり休んだ人が、どんどん病んでいく。
これが笑えない現実です。
そうして、どんどん年齢が上がっていき、履歴書の空欄が広くなって、本当に働く機会が失われていくのです。
実際に働くために動き出したときには、福祉の道しか残っていない。
ギョーカイの目指す固定資産化は、ここに完成をみます。


私のところに連絡をくださる方達は、みなさん、「このままでは、一生望んでいる就労はできない」と気が付いた人であり、自分の内側から湧き上がってくる感情を抑えられなくなった人です。
このようにギョーカイの手の中から出ようと動き出した人は、みなさん、精神状態のどん底を抜け出し、快方へと向かっている方達ばかりです。
ですから、私は実際に就職に向けたサポートをします。


「二次障害が治っていないのに、どうしてそんなことをするんだ」
「そんな状態で動き出し、また状態が悪くなったらどうするんだ」
というような意見をいただくこともあります。
でも、そういう支援者の負け惜しみにかまっている暇はありません。
何故なら、就職活動、そして働くことこそが治療になると考えているからです。


私は、医師の「治った」という言葉ではなく、自分自身で「治った」「大丈夫だ」という感覚を持った人の方が正しいと考えています。
実際、そういう人達は、希望の進路に向かって歩みだすと、どんどん回復していきますし、治っていきます。
そういった姿を見てきました。
私は、「自分が社会の誰かの役に立っている」「今までの自分とは違う」「自分の人生を自分で決めることができている」、こういった想いを感じられることこそが治療だと思うのです。


結局、二次障害というのは、実態のないオバケのようなものです。
周囲から「怖い、怖い」と言われ、怖い何かがあるような錯覚を起こすようになっているだけです。
想像してみてください。
もし医師から「二次障害が治りました」と言われたら、支援者たちは、自分の希望する進路、就職に向けて全力で応援、サポートしてくれるでしょうか?
そうなる場合は、多くないと思います。
だって、支援者から完全に自立してもらっては困るから。
ずっと支援したいのが、支援者なのです。
だから、「二次障害が治りました。一般就労を目指します」と言えば、きっと支援者は「でもね、発達障害があるから」「障害の理解のない職場は難しいから」と、ストップをかけるはずです。
「二次障害」というオバケが消えたら、「一次障害」というオバケを出してきて脅かすだけです。


私は、支援者の言う「二次障害を治してから」は信じていません。
何故なら、支援者が本気で二次障害を治そうとしないし、治した実績を見たことがないからです。
それに働くうちに、一次も、二次も、どちらの症状も良くなる人、治っていく人、別人のように成長してく人をこの目で見てきたからです。


身体や精神状態が辛い人は、まずその症状を緩めていくことが大事です。
しかし、いつまでも療養していては、治り切ることはない。
私は、自分で「治った」「働いてみよう」と思ったときにこそ、動き出してほしいと思っています。
その内から溢れ出る想いに沿った生き方の方が自然であり、自然治癒力と発達する力を引き出すような気がするのです。


今まで、支援者から言われた通り、無理せず、挑戦せず、とにかく休む、ということを続けてきた人が、いつまで経っても、好不調の波から抜け出さず、気が付いたときには、選択肢が狭まっている、という姿を見てきました。
ですから、支援者の言葉よりも、自分の内側にある言葉に従ってほしいと思います。
治す力は、自分の内側にあり、社会の中にあるのですから。


支援者の言う「二次障害が治ってから」という“とき”は、本当にやってくるものなのでしょうか?

2017年5月11日木曜日

一次障害と二次障害は分けられるものなのだろうか

近頃、私はこう思うんです。
「一次障害、二次障害を分ける必要があるのだろうか」「分ける必要はないんじゃないか」と。


二次障害って、自閉症の人で言ったら、その特性からくる困難さとは違った別の問題のことを指しますよね。
で、認識としては、発達障害+鬱や睡眠障害、問題行動のある人って感じ。
「まずは二次障害を治しましょう」なんて、よく言われることで、二次障害のある人は、支援よりも先にそちらを治療してから、という決まり(?)、雰囲気みたいなのがあります。


でも、私も、発達障害だけではなく、そういった二次障害と呼ばれるものを持った人と接しているのですが、二次障害だけに焦点を当てた治療を受けても良くならない印象を受けます。
例え、鬱などの精神疾患の状態が良くなったとしても、どうも経過が不安定というか、また時間が経つと悪化する感じ。
結局、良くなった、悪くなったを繰り返して、何年も時が経つ、みたいなことが多いような気がします。


私は医師ではないので、そういった精神疾患の治療はできないため、こうするしかないのですが、反対に一次障害というか、発達の遅れやヌケを取り戻すような援助を続けていくと、精神面も、行動面も、安定していくような気がしています。
これは良く考えると、当たり前な話で、一次障害も、二次障害も、同じ人で起きている、同じ人の内側と繋がっている問題ですから。
成長する過程で残してきた発達のヌケを辿り、育てなおせば、発達の凸凹は埋まり、生きやすくなる。
当然、本来、その人が持っていた資質だって表に出てくるようになります。
そうなれば、資質を活かして、より良く社会とつながることだってできる。


私には、「二次障害」という概念が本人のためのものではないように思えるのです。
一次障害だってそうですが、その人にとっては明確な区別などなく、あるのは気持ちと脳と身体の不具合、違和感だけです。
それが良くなり、ラクになれば、良いのです。
ですから、「二次障害」という概念は、本人のためのものではなく、医師の側のもの。
悪く言えば、医療と福祉、教育の主導権争いの言葉のように見えなくもありません。
「二次障害」という概念があることにより、医療は福祉、教育からイニシアチブをとります。
そして、福祉は「二次障害」というワードを使って、「二次障害にならないように」と自分たちの支援の維持と拡充を図っています。
また何か事件やトラブルが起きたときに、その人から問題の所在を切り離すために「二次障害」が使われることもあります。


結局、発達のヌケを抱えてくる人はいても、二次障害を抱えて生まれてくる人はいないんですね。
ですから、発達のヌケを埋める援助こそが、根本から治す行為だと思うのです。
「一次も、二次も、明確に分けれるものではない、だって同じ人の脳、身体、心とつながり、そこで起きていることだから」
治療のために障害があるのではなく、障害があるから治療がある。
大事なのは、目の前にいる人の生身の身体で起きている苦しみに目を向けることであり、そして、その苦しみを「ラクにしてあげたい」と思う心と、そのための行為が必要なのだと思います。

2017年5月9日火曜日

「問題行動の原因は、不適切な支援にある」というメッセージがもたらした影響

そうそう、「適切な支援がないと、二次障害になる」というのと同じ類の言葉がありましたね。
「問題行動の原因は、不適切な支援にある」というやつ。
私が新人のとき、よく上司や先輩、お偉い先生方から言われたことです。
まだまだギョーカイとはナンタルモノカ、を知らなかったあまちゃんの私は、その言葉を信じ、問題行動と向き合うたびに、己の力の無さを悔い、勉強する動機づけにしていました。


「問題行動が起きるのは支援者のせいだ」というメッセージは、問題を起こしても辞めさせられることのない福祉の世界の人間にも影響を与えました。
それは、支援者、仕事人としてではなく、その人の持つ心にネガティブな想いを懐かせていたのだと感じました。
そして、このメッセージは「隠す」という方向へ、ヒトの心を動かすのです。


自分が接している人に問題が起きたとき、「これは自分の支援の至らなさだ」と自動的に頭に浮かび、次の瞬間、口でそのことを否定する言葉を発している、そんな感じです。
「調子が悪かったんだ」「過去の経験が影響して」「周囲がうるさかったから」…。
「問題は障害のせいではなく、自分の支援の至らなさ」
これを受け止められない心の持ち主は、自分以外の「何か」のせいにし、そしていつしか見ようとしない、問題自体を隠そうとしてしまうのです。


あるとき、学校から寮に戻ってきた子から、ただならぬ雰囲気を感じたことがありました。
でも、先生からの引き継ぎでは「特に変わりなく」で、連絡帳を見ても、良いことしか書かれていない。
その瞬間、わかったんですね、「悪いことはなかったことにしよう」としているって。


ここからは一般論です。
全員に当てはまる、といっているわけではありません。
こういう風に書かないと、「そんな人ばかりじゃない」「一生懸命頑張っている人もいる」などと、言ってくる人もいて、めんどくさいので。


学校という組織、文化、仕事というのは、リスク、問題を一番に嫌うように感じます。
これは学校の補助、ボランティア、教育実習、施設職員、学校の教師、現職を通して感じたこと。
理由は簡単。
損失だけではなく、「売り上げが少ない」「成果が足りない」というのでも責任が問われる仕事とは違い、問題が起きたときのみ、責任問題になる仕事だから。
つまり、問題を起こさなければ、クビにならない仕事であり、どうしても自分で責任を負おうとしなくなる。
自分のクビをかけて働こうとしている人間、問題が起きないように自己研鑽を積もうとする人間がいる一方で、普通の人達は責任回避というラクな方へと流れてしまう。
こういうのは、どんな仕事、場所でも同じだと思います。


このような文化、土壌のある学校に、「問題行動が起きるのは支援者のせいだ」というメッセージは、インパクトが強いものです。
学校で問題行動が起きれば、一大事です。
だって、それは教員の支援、指導の問題で、「あなたに責任がある」と言われてるのと同じだから。
ですから、記録として残る連絡帳、個別支援計画書、成績表等に、問題行動の記述は見当たらない。


「問題行動の原因は、不適切な支援にある」というメッセージは、問題の本質から目を逸らさせただけだった、と思うのです。
このように積極的に発信してきた当時の先導者たちは、我が子との間に負い目があり、自分の至らなさを受け止められない人であり、自分たちの組織を発展させていくために特別支援を広めることに突き進んでいた人たちのように感じます。
でも、彼らのやったことは、現場の職員を問題から遠ざけてしまうこと。


問題行動が、その人の外側のみで起っているわけなどないのです。
問題行動が湧き上がってくるのは、その人の内側からであり、その人の身体を通して行われること。
ですから、その人に無関係なことはなく、治すべき対象はその人の内側にある。
それなのに、外側にその原因を見ようとするから、問題はなくならないのです。
ギョーカイが問題行動を治せない理由は、ここにあります。


「想像力の障害」という特性は、問題行動の要因の大きな部分だと思います。
世の中の切り取り方、情報の取り方に影響を及ぼし、独特な解釈を生みますので、ツッコミを入れ、修正していく必要がある。
これは環境を変えることではどうにもならない。
そうです、治す対象は、その人の内側にあるから。
相手の表情が読めないことは人間関係のトラブルを生みますし、感覚過敏は他人との共有を阻みます。
これらも内側にストーリーの始まりがあります。


今ではその人の内側にある課題を育て、治す方法があるので、「問題行動の原因は、不適切な支援にある」という主張に耳を貸すものは少なくなります。
当時も、今と同じように、「問題行動は治す対象であり、変えるのは本人です。アプローチは身体からが近道で、育て直すのは発達のヌケなのです」と言われれば、もっと違った今があったように感じます。


問題行動は、環境がきっかけになることもありますが、変えるのは環境の方ではありません。
問題行動は治す対象であり、治すのは本人の内側にある。
そして、今はその原因となる特性を治すアイディア、方法があるのです。


問題が起きないように、起きないように、先回りしていた親御さん、いつも子どもとの間で緊張ばかりしていた親御さん。
そのような親御さんの姿を思い出すたびに、「問題行動の原因は、不適切な支援にある」という言葉が支援者、先生たちにだけではなく、親御さんにも大きな影響を与えたのだと思え、悔しくなるのです。


2017年5月8日月曜日

診断基準に書かれていない

自閉症の診断基準に、「二次障害があること」なんて記述はありませんね。
他にも、「支援がないと、安定した生活が送れない」ですとか、「一般就労はできない」「週40時間働くことができない」「通常級は無理」「集団は無理」「頑張るのも無理」「社会の無理解に苦しんでいること」なんていう記述もありませんね。


でも、ギョーカイは、あたかもそれらが自閉症の人の必須条件のように言います。
彼らが主張する「早期発見、早期療育」「支援があれば」「理解があれば」の根拠は、こういった二次障害を防ぐためであり、安定した生活を送るため、というもの。
でも、そんなのが自閉症の特性ではなく、自閉症の人、すべてに当てはまるわけはないのです。


じゃあ、彼らが支援によって、自閉症の人達を何から守り、何を手助けしようとしているのか?
そうなんです。
その“何か”なんて、元からないんです。
彼らは、自閉症の人達を守ると言いながら、守っていたのは自分たちの仕事であり、組織なんです。
確かに、二次障害を持つ人、一般就労が難しい人も、中にはいます。
でも、それは自閉症の必須条件ではないですし、避けては通れないことではないんですね。
それなのに、いつの間にか、自閉症とそういったネガティブな事象をくっつけ、「それから守るんだー」「支援が必要なんだー」「社会の理解が必要なんだー」としたのです。


よく考えてみてください。
支援を受けることによって「ネガティブな事象を避ける」ってオカシナ主張だとは思いませんか?
本来、支援を受けることで、「ポジティブな結果が得らえる」「ポジティブな方向へと進める」というのならわかるのです。
特別支援で言えば、支援を受けることで自立度が上がり、就職の可能性が広がり、進路の選択肢が増える、というのなら、私も「支援があれば良いな」「彼らの主張を応援したいな」と思います。
でも、彼らのやっていることは、本人と家族を怖がらせ、自分たちのやりたい方向へと引き入れているだけなんです。
「支援がないと、大変なことになるぞー」と言って、支援者という仕事を守っているんですね。


ですから、みなさん、騙されてはいけません。
仕組みは、霊感商法と同じで、「ほら、あなたには霊がついています。このままでは災いが生じますから、壺を買いましょう。はい、百万円」と一緒です。
違うのは、壺が支援で、百万円が税金、ということです。
そもそも二次障害は自閉症にくっついていません。


そういえば、昔、ギョーカイは「適切な支援がないと、二次障害になる」という強引な主張をされていました。
でも、二次障害を持つ自閉症の人達は、ギョーカイ支援者の側ばかりにいませんかね?
これは、あなた達がずーーーとやってきた視覚支援、ABA、早期発見、早期療育、そして「社会の理解ガー」が、不適切な支援だったという証明ではないでしょうか(ブ)


これらが実を結び、適切な支援になっていたのなら、二次障害の人は増えるのではなく、減っていくはずです。
二次障害にならないための支援が、二次障害が減らないばかりか、治らないし、増える方向へといっている。
これでは、社会は聞く耳を持ちませんし、手を貸しません。
社会のためになる仕事をしなくてはいけませんね、特定の団体を生き延びらせるために社会は存在していませんから。


社会が求めていることは、自閉症の人達にその資質を社会で活かせるようになってもらうことでしょう。
それこそが、社会のためになり、より良い方向へと進んでいくのです。
ですから、社会はそもそも防ぐ支援なんて求めちゃいない。
求めているのは、ポジティブな変化をもたらす支援ですね。


支援を受けることで、働ける可能性は減るし、二次障害も増えちゃうし、福祉資源も益々必要になっちゃう。
例え、支援によって二次障害にならなかったとしても、彼らの持てる力を活かせなかったことに対する社会的損失の方が大きいと私は思いますね。
ギョーカイが栄えて、社会が滅びる、なんてことはないようにしなければなりません。


2017年5月7日日曜日

グレーにしたあと、彼らは子ども達の人生を何色にしてきたのだろう

昨日、ブログで書いた「グレー」という文字を見て、この言葉はあこぎな商売の、あこぎな言葉だと改めて思いましたね。
だって、支援対象を増やしたいがために作りだされた概念ですから。
いちお診断基準というのがあって、それが満たされたら自閉症、満たされなければ自閉症ではないんですね。


10年以上前になりますが、就職面接のとき、「自閉症の特性がみられるけれど、診断基準を満たさない人のことを何というんだい?」と訊かれました。
私が「診断基準を満たさないんだから、その人は普通の人です」と答えたら…
「そうなんだよ。今のやつらは、自閉傾向、軽度発達障害、グレー、ボーダーとか勝手に名前を付けて、障害児を増やそうとしてるんだ」と怒っていました。
そういえば、昔は自閉傾向が多かったですね。
“傾向”って何だよって感じです。
“傾向”がまかり通ってしまうのなら、この世はみんな、「自閉傾向」であって発達障害ですね。


自閉傾向というのは、2000年より前からありまして、発達障害を専門にしている医師は少ないし、しっかり診断できるところも限られている、だけれども、この人は「支援が必要だろう」ということでつけられる場合があったようです。
また低年齢のときに「自閉症」とつけると、親御さんはショックだし、「成長すると変わるかもしれません」と言いつつ、濁した言い方をしていたというのもありましたね。
診断基準は曖昧で、主観の入る余地がありありなので、こうやって「傾向」で逃げていたんです。
症状も、知的障害も、重い子が主でしたから、「支援を受ける」ニーズから始まる言葉でした。


こういった使われ方をする場合もありますが、グレーとか、ボーダーとかになりますと、逃げよりも、商売の、それこそ傾向が強くなったように感じます。
2000年代、高機能、アスペルガーブームに乗じて、こういったギョーカイ人にとって都合の良い言葉が生みだされちゃったんですね。
特性がある子は、みんなグレーの中に入れちゃえって。


こういう風に、ギョーカイのやっていることに否定的な意見を述べると、どこからともなく湧いてくる人達がいますが、本当に彼らが言うようにグレーの概念が、その当時の子ども達を救ったんですかね。
診断基準は満たさないけれど、特性のある子に対して行ってきたことは、何だったのか?
結局、その子たちにTHE自閉症支援、「頑張らなくて良いんだよ」「社会の理解ガー」「二次障害は怖いよ」とやって、障害者枠での就労と生活にしただけでは?
本当は、一般就職ができ、一般の人と同じくらいの給料で、一般の人と同じくらい生活の選択肢もあったはずなのに。


グレーの子たちは、白い方向へと進みたかったはずですし、それを希望していました。
当初、「グレーの子たちにも適切な支援が与えられるようになって、将来の自立につながります!」と言ってませんでしたっけ。
でも、やったことはグレーの子を黒くしただけ。
当時、グレーとなった子ども達の多くは、いつの間にか、どこから見ても黒い大人になってしまいました。
本人も、親御さんも、「適切な支援」「ちょっとした支援」で救われ、成長し、自立できると思っていたのに。


グレーという診断を受けたことで受けられた支援、そして、その後の自立度と…
グレーという診断を受けないことで受けられていた同世代の子と同じ環境、そして、その後の自立度と
を比べてみると、どうでしょうか?
私はグレーという診断を受けなかった方が、本人が変わり、成長できる可能性も、将来の選択肢も広がったように思えますね。
だって、そういう人達を見てきたから。


「グレーという診断を受けれたことで、幸せな人生を送っています」と言う人達は、どれくらいいるのでしょうか?
いたとしても、それは診断を受けることで、「支援サービスが受けられた」「二次障害にならなかった」「周囲の理解が得られた」というギョーカイの言うメリットの受け売りでは?


確かに障害者枠での就労ができたかもしれないし、支援を受けた環境で生活できるかもしれない。
困ったことがあれば相談に乗ってくれる人が、私の言う辛さにいつも共感してくれる人が得られたかもしれない。
でも、本当は、それ以外の可能性があったのではないでしょうか?
別の選択肢、別の人間関係、別の生活、別の人生があったのではないでしょうか?


このような「私の人生のプラスになった」という話なら私は納得しますが、どうも「マイナスを防げた」という趣旨での発言ばかりが聞こえます。
これってギョーカイのセールストークですね。
ですから、「グレー」という言葉を見聞きする度に、あこぎな商売の、あこぎな言葉だと私は思うのです。


2017年5月6日土曜日

障害を意識しない日常と、障害を意識する非日常

「どう頑張っても、障害の診断はつきませんよ」と、私は言いました。
親戚で集まったときに、お子さんの障害の話になり、「どう見ても、障害はないよね」というのと、「障害はなくならないんじゃないか」という話になったそうです。
そこで「明日、訊いてみる」ということでの私の回答です。


つい先日、定期の医師の受診があって、そのときには「経過観察」と言われたそうなんです。
当然、障害を付けたい医師が、一度付けた診断名を取り下げることはなく、一生コンスタントに受診してもらいたいのだから、いつ、どんな状態、成長&発達を遂げたとしても、「経過観察」としか言いませんね。
一度付けたら、診断のお話は終了なんです、こういった医師の中では。
ですから、フツーの病気の受診と同じように「経過観察=治ってない=障害のまま」というように親御さんは思っていたそうです。


そんな一方で、親戚から「どう見ても、障害はないよね」という言葉を聞き、ハッとさせられる自分がいた。
「そういえば、気になっていた行動もなくなったし、感覚過敏も収まった。授業も落ち着いて受けることができるようになったし、成績も悪くない」
この親御さんの話では、我が子の障害を認識するのは、「定期受診のときだけ」ということでした。


診断を受けたあと、「次は、いついつに」というので、その予約通りにずっと定期で通院していた。
別に具体的なアドバイスが貰えるわけでも、問題や症状が良くなるわけでもないけれど、障害を持った子は受診するもんだ、と思っていた。
けれども、フツーに遊び、フツーに勉強し、フツーに毎日を過ごせるようになった我が子がいる。
障害を意識しない日常と、「障害があって」という非日常。


私が「もう治ったんですよ」と言うと、親御さんは大変喜んでいましたね。
でも、それよりも喜んでいたのは、その子自身でした。
「え~、ホントー!?うれしー‼」と言って、大喜びです。
その子自身が、以前感じていた辛さを感じていなくて、しかも障害を意識することなく毎日過ごしているのです。
これって治ったということだと思いますよ、診断基準を満たすかどうかを抜きにしても。


この子の反応を見てもわかるように、たとえ子どもだったとしても、「障害のままで良い」なんて思っていないんですね。
スペクトラムの障害だからこそ、いや、自分の内側にある発達する力を知っているからこそ、どんどん発達し、伸びていきたいと思っている、いわゆるグレーの先にいきたいと思っている。
自分ではない大人が決めたもので、そして自分の未来とは関係のない大人が、「あなたはここだよ」と決めた場所に留まっておくなんてできないんです、子どもは。


大喜びする我が子に、親御さんが「障害が治ったんだって。よく頑張ったね」と言っていたのが、とても印象的でした。
最初にお会いしたときから、「発達の遅れ&ヌケを埋めて、ターゲットの課題を克服し、そのあとは遅れていた勉強を取り戻します」という話をしていたので、改めて「治った」話はしていませんでした。
大事なのは、しっかり勉強できる体勢を整えることであり、他の子と同じような教育の場で成長が続けられること。
治る時代に、発達援助という仕事をしている者にとって治すのは当然の責務です。
ですから、必要なのは「今、治りましたよ」というメッセージよりも、「もう援助はいらない段階まで来ましたよ」「もう自分の足で歩いていけますよ」というメッセージだと思っています。


親戚のみなさんで話したというのは、そろそろ頃合いが良いという合図かもしれません。
もうちょっと一緒に学べば、一般的な家庭教師、塾等も利用できるはずです。
本州育ちの私にとって、桜は卒業を連想させるもの。
GWに満開を迎えた北海道の桜を見て、この子との間にも卒業の匂いを感じるのでした。


2017年5月2日火曜日

なじむ援助

療育の時間は、なじまなければなりません。
「さあ、療育の時間ですよ」というのは過ちであって、「さあ、先生が来るよ」というのは失敗です。
スペシャルな時間に対する身構えを、本人から、家族から感じた時点で、私の腕は至らないのだと反省するのです。


私は仕事をする際、なじむことを心がけます。
その人自体になじむ。
その人の生活になじむ。
その人の発達になじむ。
その人の過去と未来になじむ。
その人の家族になじむ。
少なくとも、これらから見て、私との時間、援助が異質な存在にならないようにしています。


援助とは、その人の持つ発達する力を後押するために行われます。
しかし、ただ後押しすればよいのではなく、“自然に”後押ししなければなりません。
異質なものに後押しされると、それは造りものの、恣意的な、ケバケバしい、なんだか心地の悪い、手で背中を押された感じが残ります。
その“感じ”が残っている限り、いくら自分の足で立てるようになろうとも、歩を進めようとも、自立している実感が持てずにいます。


援助がその人になじむと、日々の生活を送っている間に、流れるように発達していきます。
本来、生活の中に発達が存在するので、生活から切り離された発達とは不自然なのです。
遊びながら、生活しながら、人と関わりながら、発達する。
その生活の中の発達が、何らかの理由で阻害されているからこそ、発達の援助が存在するのだと思います。
発達援助とは、自然なものであり、生活の中にある発達を味わうために行われる営みだといえます。


私が“なじむ”にこだわる理由は、もう一つあります。
異質な援助は、それがなくなったとき、穴が空いた感じがします。
そうなると、「自分は支援を受けていたんだ」という気持ちをその人に、その家族に感じさせてしまいます。
本当は、自分の持つ発達の力が表に出ただけなのに、最後の最後で、とっても残念な想いを懐かせてしまいます。
発達は空くものではなく、重なっていくものなのです。


こういった援助をしているのは、プロとは言えません。
プロの仕事とは、自分が離れるときに、スッと存在が消えなければならないのです。
「そういえば、支援を受けていたな」と、ある時に思い出すことがある。
これなら、いちお合格です。
でも、目指すべきは、支援を受けていたことを忘れる、思い出すことのない、そんな発達援助であり、消え方なのです。
そのためにも、なじむことが重要です。


私との時間の中では見られないけれども、家の中で、遊びの中で、学校の中で、仕事の中で、成長が見られると、「なじんだ援助ができているな」とホッとします。
より良く遊び、より良く学び、より良く生活する。
1日、1週間、1ヶ月、1年という時間の中で、発達の歯車が回っている動きが見えたら、私は消える態勢に入ります。
私がいないときにこそ、発達する。
これが私の目指す“なじんだ援助”です。
援助は調和し、その人と溶け合わなければなりません。