なじむ援助

療育の時間は、なじまなければなりません。
「さあ、療育の時間ですよ」というのは過ちであって、「さあ、先生が来るよ」というのは失敗です。
スペシャルな時間に対する身構えを、本人から、家族から感じた時点で、私の腕は至らないのだと反省するのです。


私は仕事をする際、なじむことを心がけます。
その人自体になじむ。
その人の生活になじむ。
その人の発達になじむ。
その人の過去と未来になじむ。
その人の家族になじむ。
少なくとも、これらから見て、私との時間、援助が異質な存在にならないようにしています。


援助とは、その人の持つ発達する力を後押するために行われます。
しかし、ただ後押しすればよいのではなく、“自然に”後押ししなければなりません。
異質なものに後押しされると、それは造りものの、恣意的な、ケバケバしい、なんだか心地の悪い、手で背中を押された感じが残ります。
その“感じ”が残っている限り、いくら自分の足で立てるようになろうとも、歩を進めようとも、自立している実感が持てずにいます。


援助がその人になじむと、日々の生活を送っている間に、流れるように発達していきます。
本来、生活の中に発達が存在するので、生活から切り離された発達とは不自然なのです。
遊びながら、生活しながら、人と関わりながら、発達する。
その生活の中の発達が、何らかの理由で阻害されているからこそ、発達の援助が存在するのだと思います。
発達援助とは、自然なものであり、生活の中にある発達を味わうために行われる営みだといえます。


私が“なじむ”にこだわる理由は、もう一つあります。
異質な援助は、それがなくなったとき、穴が空いた感じがします。
そうなると、「自分は支援を受けていたんだ」という気持ちをその人に、その家族に感じさせてしまいます。
本当は、自分の持つ発達の力が表に出ただけなのに、最後の最後で、とっても残念な想いを懐かせてしまいます。
発達は空くものではなく、重なっていくものなのです。


こういった援助をしているのは、プロとは言えません。
プロの仕事とは、自分が離れるときに、スッと存在が消えなければならないのです。
「そういえば、支援を受けていたな」と、ある時に思い出すことがある。
これなら、いちお合格です。
でも、目指すべきは、支援を受けていたことを忘れる、思い出すことのない、そんな発達援助であり、消え方なのです。
そのためにも、なじむことが重要です。


私との時間の中では見られないけれども、家の中で、遊びの中で、学校の中で、仕事の中で、成長が見られると、「なじんだ援助ができているな」とホッとします。
より良く遊び、より良く学び、より良く生活する。
1日、1週間、1ヶ月、1年という時間の中で、発達の歯車が回っている動きが見えたら、私は消える態勢に入ります。
私がいないときにこそ、発達する。
これが私の目指す“なじんだ援助”です。
援助は調和し、その人と溶け合わなければなりません。

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