障害を意識しない日常と、障害を意識する非日常

「どう頑張っても、障害の診断はつきませんよ」と、私は言いました。
親戚で集まったときに、お子さんの障害の話になり、「どう見ても、障害はないよね」というのと、「障害はなくならないんじゃないか」という話になったそうです。
そこで「明日、訊いてみる」ということでの私の回答です。


つい先日、定期の医師の受診があって、そのときには「経過観察」と言われたそうなんです。
当然、障害を付けたい医師が、一度付けた診断名を取り下げることはなく、一生コンスタントに受診してもらいたいのだから、いつ、どんな状態、成長&発達を遂げたとしても、「経過観察」としか言いませんね。
一度付けたら、診断のお話は終了なんです、こういった医師の中では。
ですから、フツーの病気の受診と同じように「経過観察=治ってない=障害のまま」というように親御さんは思っていたそうです。


そんな一方で、親戚から「どう見ても、障害はないよね」という言葉を聞き、ハッとさせられる自分がいた。
「そういえば、気になっていた行動もなくなったし、感覚過敏も収まった。授業も落ち着いて受けることができるようになったし、成績も悪くない」
この親御さんの話では、我が子の障害を認識するのは、「定期受診のときだけ」ということでした。


診断を受けたあと、「次は、いついつに」というので、その予約通りにずっと定期で通院していた。
別に具体的なアドバイスが貰えるわけでも、問題や症状が良くなるわけでもないけれど、障害を持った子は受診するもんだ、と思っていた。
けれども、フツーに遊び、フツーに勉強し、フツーに毎日を過ごせるようになった我が子がいる。
障害を意識しない日常と、「障害があって」という非日常。


私が「もう治ったんですよ」と言うと、親御さんは大変喜んでいましたね。
でも、それよりも喜んでいたのは、その子自身でした。
「え~、ホントー!?うれしー‼」と言って、大喜びです。
その子自身が、以前感じていた辛さを感じていなくて、しかも障害を意識することなく毎日過ごしているのです。
これって治ったということだと思いますよ、診断基準を満たすかどうかを抜きにしても。


この子の反応を見てもわかるように、たとえ子どもだったとしても、「障害のままで良い」なんて思っていないんですね。
スペクトラムの障害だからこそ、いや、自分の内側にある発達する力を知っているからこそ、どんどん発達し、伸びていきたいと思っている、いわゆるグレーの先にいきたいと思っている。
自分ではない大人が決めたもので、そして自分の未来とは関係のない大人が、「あなたはここだよ」と決めた場所に留まっておくなんてできないんです、子どもは。


大喜びする我が子に、親御さんが「障害が治ったんだって。よく頑張ったね」と言っていたのが、とても印象的でした。
最初にお会いしたときから、「発達の遅れ&ヌケを埋めて、ターゲットの課題を克服し、そのあとは遅れていた勉強を取り戻します」という話をしていたので、改めて「治った」話はしていませんでした。
大事なのは、しっかり勉強できる体勢を整えることであり、他の子と同じような教育の場で成長が続けられること。
治る時代に、発達援助という仕事をしている者にとって治すのは当然の責務です。
ですから、必要なのは「今、治りましたよ」というメッセージよりも、「もう援助はいらない段階まで来ましたよ」「もう自分の足で歩いていけますよ」というメッセージだと思っています。


親戚のみなさんで話したというのは、そろそろ頃合いが良いという合図かもしれません。
もうちょっと一緒に学べば、一般的な家庭教師、塾等も利用できるはずです。
本州育ちの私にとって、桜は卒業を連想させるもの。
GWに満開を迎えた北海道の桜を見て、この子との間にも卒業の匂いを感じるのでした。


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