自立が生き延びることにつながる我が子と、自立させないことが生き延びることにつながるギョーカイ

ギョーカイが嫌いなもの。
それは、親の持つ本能であり、主体性である。


親は、我が子に迫った危険をいち早く察し、その危険から我が子を守る行動をとる。
これは、高等な脳があるからではなく、経験したから成しえるものでもない。
親の持つ本能が発動したのだ。
同じように、我が子を自立させる、一人で食べ物を取り、命を永らえる方法を身に付けさせるのも、学習や文化の継承などといった薄っぺらい話ではなく、本能によるものである。


ギョーカイは言う。
「一生治りません。生涯に渡る支援が必要なんです」と。
これは、親の持つ本能の否定である。
親の本能は、我が子の自立へ向かって動き始めている、それは受精した瞬間から。
しかし、ギョーカイは言葉や文字などの人工物を使い、その本能を止めようとする、それが間違いだと学習させようとする。


いつしか自分の内側にある本能に蓋がされ、見て見ぬように、気づかないように、と学習した親、ギョーカイという文化に適応した親は、主体性を失っていく。
そう、主体性のはく奪こそ、ギョーカイの最終目的である。
親の主体性ほど、ギョーカイにとって邪魔なものはない。


親が主体的に行動し始めたらどうなるか。
我が子に必要な療育を選び、不必要な療育を捨てることになる。
そもそも巷にあふれる何とか療法は、一人の子の成長と発達を完全に満たすたすものではないのだ。
だから、どんな療法も、いつかは捨てられる運命にある。
この“捨てられる”ことをギョーカイは恐れる。
ギョーカイとは、使い続けられることで、生き延びる存在なのである。
だから、自分たちの行いの不完全さ、本能に反する動きを隠すために、親の主体性を奪おうとする。


親が自分たちに我が子を完全に預けてもらうことこそ、ギョーカイの繁栄に必要なことである。
不完全なもの、本能に反することをやり続けるために、その本能自体を野蛮なものと学習させ、主体性を取り上げる必要がある。
親には見て見ぬふりをしてもらいたいのだ。
「先生にお任せします」と言ってもらいたいのだ。


本能を発揮させる親は、ギョーカイの行いが、我が子の自立から遠ざけていることに気が付く。
「このまま、言いなりになっていれば、我が子は支援がないと生きられない人間になる。一生自立することができなくなる」
本能で行動できる親は、我が子が苦しむ様子を見て、「そのままでいい」「これも障害だから」などとは決して言うことはない。
自然と、その苦しみをとるために、行動しているものだ。
また、自立を阻むものから我が子から遠ざけ、できる限り、生きる術を教えようとする。


自立させることが生き延びることにつながる我が子と、自立させないことが生き延びることにつながるギョーカイ。
結局、ギョーカイのやっていることは、親の本能から子どもを自分たちの手の中に奪うことである。
親が主体的に、本能に従って行動すれば、そもそもギョーカイの存在価値などはないのだ。
我が子に発達の凸凹があれば、その凸凹に合わせて生きる術を教えるのが親であり、我が子を生き延びらせるために心血を注がせるのが本能である。


発達援助とは、親の本能に沿った子育ての姿である。
食べられない物ばかりだと、健康に支障がでる。
だから、偏食を治す。
二足歩行が難しかったら、移動するのにも、仕事をするのにも、不具合が生じる。
だから、前の発達段階からやりなおし、きちんと二足歩行ができる身体を育てる。
生き延びるために、自分の足で自立して生きていけるようにすることこそ、発達援助。
これは親の本能と同じ方向を向いている。
発達援助とは、治った時点で、その援助が必要なくなった時点で、完成を見る。


ギョーカイは、本能と真逆の方向を向いて行動している。
それが自分たちを生き永らせる道だから。
そのために、「一生治りません」と言い、生涯に渡る支援を親に飲みこませ、我が子を変えるよりも、社会や環境を変えるべきだと説く。


あなたの周りにいる支援者は、親の持つ本能と同じ方向を向いているだろうか。
そして、あなた自身、自分の内側にある本能にきちんと目を向けることができているだろうか、その本能に従って子育てができているだろうか。
そこに「発達障害だから」「自閉症だから」「重度だから」という言葉が入る余地はない。

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