子育てに、素人がいて、専門家がいる不自然さ

初めてお会いする親御さんからは、このような言葉が発せられます。
「私のような素人ではうまくいかなくて…」と。
いつも私は、この“素人”という音に、人工的で、不自然な響きを感じます。
どうして親御さんが“素人”なのでしょうか。
そもそも子どもを育てるのに、素人も、玄人もないと思うのです。


素人発言をする親御さんは、お子さんが幼いときから専門家と呼ばれる人達の間を通ってきた人が多いのです。
専門家と関わればかかわるほど、親御さんが素人になっていく。
とっても皮肉なことです。
本来と正反対に進むわけです。
ということは、「早期発見」「早期療育」が親から主体性を奪い、専門家が専門家という地位を人工的に作るための手段と言えましょう。


初めて出会う障害を持った我が子。
その障害と多く向き合い、支援してきた人間が、親として自立した子育てができるように支援していく。
当然、親御さんの子育てを導く方向は、我が子が生き延びられるための道であり、自らの足で生きていける道。
それなのに、決まって手引きするのは、支援者の作る籠の中。
だから私は、親御さんの口から出る“素人”という音を聞くたびに、自分の体内に異物が入ってきたような感覚になります。

私は仕事をするとき、子育てを仕事に、商売にしてはならないと心に決めています。
子育てをする親御さんを後押しするのが私の仕事。
そのため、私がお子さんのどこを見ているのか、何を確認しているのか、何を目的とした言動か、どういった意味があるのか、伝えるようにしています。
そして、どのような変化が、どんな言動になって表れるか、成長や発達が確認できるポイントも伝えています。
こうすることで、私が持っている視点を親御さんに渡すことができます。
親御さんに持っている視点をすべて渡しきれば、私は役目を終えられます。


近頃、「発達障害を治してもらえるのでしょうか?」と、連絡がくるようになりました。
そういった場合、「治すためのアイディアと、治った人を知っていますが、私が治すことはできません。治すのは本人と親御さんです」と返答しています。
ここで「私が治します」と言えば、私が専門家になり、親御さんが素人になります。
ここで「私が治します」と言えば、私が治す人になり、親御さんが治してもらう人になります。
私は一生涯の支援などできませんし、他人の人生を食いつぶすことで自分の人生を成り立たせようなどというさもしい考えなど持ち合わせていません。


子どもを育てるのに、特別な場所、特別な道具、特別な人、特別な資格がないとできないと言うのなら、そこに存在するのは自然な営みの子育てではなく、世の中にある商売、商品の一つとしてのパッケージングされた子育てなのでしょう。
巷にあふれる療育がストーリーを生まないのも当然なのです。

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