「諦め」という言葉を解き放つ

北海道は、一足早く夏休みが終わり、2学期が始まっています。
今年の夏休みは、例年以上に熱心な親御さんと、伸びたくってウズウズしている子ども達が多く、約1か月間、一緒に汗をかき過ごしました。
学校が始まった数日ではありますが、学校の先生から「〇〇くん、変わったね!」と言われた子が何人もいましたし、新学期が始まっても揺らぎが少なく、土台がしっかりしたような気がします。
お盆中も、お墓参りに行ってからセッション、親戚が集まっている中、自分だけ抜けてセッションなど、まさに「発達に夏休みも、お盆休みもない」といった感じでした。


夏休み中は、特にお盆休みなど、日頃いらっしゃるお母さんだけではなく、お父さんや親戚の方にもそばで様子を見て頂いたり、一緒に発達援助を行ってもらったりしました。
ですから、自然とお話をする機会が生まれます。


みなさん、変わっていく我が子、孫、甥っ子、姪っ子を見て、「こんな風にできるようになるとは思わなかった」と言うのです。
特に驚いたのが、みなさんの口から出てくる「諦めていたけれど」という言葉です。
「一人で外出を」「通常級で学ぶのを」「なんでも食べれるようになるのを」「普通の勉強をするのを」


孫や親戚の子に、自閉症、発達障害があるのを聞いて、祖父母や親戚の皆さんは、言葉に出さないにせよ、「諦める」という言葉が内側から湧き上がり、身体を駆け巡ったのだと感じました。
そして、その想いをずっと内に秘めていたのでしょう。
だから、諦めなくて良い状況を肌身で感じた瞬間、「諦めていたけれど」という言葉を解き放ち、パッと表情が明るくなったのだと思います。
我が子ではないとはいえ、やはりそこには無理があり、固さを生じさせていたのでしょう。


親戚の方達が「諦め」を連想するのは、単純に「障害」という言葉を聞いて、からかもしれません。
でも、私はそれだけではないと思うのです。
何故なら、発達障害が治っていくと、親御さんからも「諦めていたけれど」という言葉が、ポロッと零れ落ちるからです。
私は、今まで、親御さん達から出てくる「諦め」という言葉をたくさん耳にしてきました。


「我が子に発達障害があるとわかってから、『諦める』と向き合うのが親業であった」
そのような親御さんが多いのではないでしょうか。
「障害を持った子の子育ては大変じゃなかったけれど、諦めるという言葉を飲みこむのが辛かった」
そんな親御さんもいます。


普通、子育てをしていて、「期待」や「可能性」があることはあっても、「諦める」という言葉を連想することも、飲みこむことも、向き合うこともそうそうない。
じゃあ、それが「障害」という言葉であり、音であり、響きのせいか?
いや、「障害」という言葉を「諦め」という色で色付けしているのは、支援者であり、専門家という人たちだと思います。


親戚の皆さんは言っていました、「障害が分かってから、自分でも調べてみた」って。
学習会に参加された方もいました。
つまり、発信される情報が、「治らないよ」「一生涯の支援だよ」「大事なのは周囲の理解だよ」というものばかりという証拠。
これでは、おのずと「諦め」が充満してしまいます。


子どもを育てるということは、諦める数を増やしていくことではありません。
親になることは、諦めを受け入れることではありません。
ギョーカイは、諦める親ほど、障害に理解のある親だといいます。
でも、子育てとは、可能性を増やしていくこと。
身の回りのことができるようになることで、将来の自立の可能性が生まれてくる。
食べられるものが増えていくことで、生きていける場所や可能性が広がっていく。
勉強ができるようになることで、身体が丈夫になることで、しっかり弛緩する身体になることで、仕事、就職の選択肢が増えていく。


諦めることが子育てではなく、親になることでもない。
そんな当たり前のことが当たり前になるよう、内側に秘めた「諦め」という言葉を解き放てるような仕事もしていきたいと考えています。


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