2017年9月29日金曜日

発達障害が治ったあと、不安定になる親御さん

子どもさんの発達障害を治すことは、親御さんの心を晴れやかにする、と思っていた。
しかし、差し込んだ光に向かって歩み始められる人もいれば、そうではない人も少数ではあるがいる。
相談時、親御さんの心を覆っていた雲は、発達障害が治っていく我が子の姿を見ることで徐々に消えていくが、いざ「もう治りましたね」と言われると、急に雲行きが怪しくなる。


どの親御さんも、始めの雲は「我が子」からできた雲。
我が子の苦しむ姿が、学びが積み重なっていない姿が、将来の姿が、雲となって親御さんの心を覆い、その雲を晴らそうと、「治ってほしい」「治してほしい」と言う。
だから、治り始めると雲が薄くなっていき、治りかけの頃には最初の雲がほとんど見えなくなる。


「空も晴れてきたので、この辺で失礼します」と、次の場所へと私が立とうとすると、「また雲が出てきました。雨も降ってきそうです」と言う親御さんがいる。
「おかしいな」と空を見上げると、確かに雲が空を覆っている。
でも、その雲は、最初の雲とは違う。
そう、親御さん自身から出た、いや、親御さんが出した雲だ。


親御さんの中には、我が子の発達障害が治る、と急に不安定になる人がいる。
最初は、私もどうして不安定になるのか、わからなかった。
治ってほしかった我が子が治ったのだから。
私との関わりの中で依存が生まれ、「ここからは一人で子育てを頑張ってください」ということに不安を感じたのかもしれないと思った。
でも、私は最初から「ずっと支援する気はない」と言い、親御さんにこそ、自立と主体性が大事だと伝えてきた。
一人ひとりの親御さんを見ても、ちゃんと子育ても、発達援助もできる方達ばかり。
じゃあ、そんな方達の中から、いざ発達障害が治ると不安定になってしまう人が出てくる理由は…。


近頃、私はわかった。
我が子の発達障害が治って不安になっていないんじゃないことを。
その雲の正体は、不安ではなく、ラクだったのだ。


親御さんは、「治ってほしい」と言う。
それは本心だと思う。
でも、その一方で、「治らない方がラクだ」という思いがあるように感じることがあった。


「支援級では、一日たった10分しか勉強する時間がないんです」と不満を言っていたはずなのに…
「我が子をギョーカイのメンドリにはさせない」と息巻いていたはずなのに…
「一般の人達と同じように働いて、自立できる大人を目指す」と希望を言っていたはずなのに…
「じゃあ、発達のヌケが埋まりましたから、そのための準備へ移りましょう」と言うと、気持ちが不安定になり、足が止まってしまう親御さんがいる。
そんな姿を見るたびに、ギョーカイの洗脳の怖さを知る。


ギョーカイの行う早期診断も、早期療育も、療育&支援自体も、本人たちにとっては、そこまで大きな影響を与えない。
それは、それまでどんな支援、道を辿っていたとしても、不自然な支援、療育を止めれば、自然な発達、成長が見られるし、発達援助で発達の遅れやヌケを埋めていけば、ガラッと変化が見られるから。
しかし、親御さんはそうはいかない。
ギョーカイの敷いたレールの上を長く歩けば歩くほど、身体がラクを覚えてしまう。
「自分が決めなくて良いラク」「責任を転嫁できるラク」「他人から、制度から守ってくれるラク」「子育ての代わりをやってくれるラク」…。


私の仕事は、「発達障害を治すまで」と思っていたため、治ったあとのことは、その家族の問題と捉えていた。
発達障害が治ったあとは、その家族家族の子育てだから。
だが、治ったあと不安定になる親御さんは、その子の発達、伸びを阻害するような要因になることがある。
発達障害になるのは誰のせいでもないが、発達障害が治らないのは、親御さんのせいであることが多い、と私は感じている。
だから、本人の発達障害を治すだけではなく、親御さんのラクも治す必要がある、と考えるようになった。


ギョーカイの真のターゲットは、子どもではなく、その親御さんである。
親御さんに「支援を受けることがラクだ」と思ってもらうことが、最大の目的であり、自分たちを存続させる方法である。
だから、長く支援を受けてきた人ほど、親御さんの身体にラクが沁み込んでしまっている。
一方で、大きくなってから診断を受けた、ギョーカイと関わることを避けてきた親御さんは、我が子が治り、自分の心を覆っていた雲の隙間から陽が差してきた瞬間、「ここからは私が子育てを頑張ります!」といって歩んでいく。


子どもの課題が解決したあと、このように親御さんの課題が表面化する場面に遭遇することがある。

2017年9月26日火曜日

選択肢のある人生を歩めるために

「発達障害を治すことが目的じゃなくて、幸せになることが目的です」
私は、この言葉を親御さんに繰り返し言いますし、伝えています。


「えっ、発達障害って治るんですか!?」なんて驚くのは、勉強不足であり、時代遅れ。
「治りません」と言い続ける人は、もはやその人のイデオロギーか、治らない方がラクだから、そう言っているんだろう、と解釈します。
私達が生きている今は、治す実践をされている方がいて、治っている方達がいます。
治せる時代になっていて、これからは治すのが援助の標準にならなくてはいけません。
ですから、私は“治す”を仕事にする一人だからこそ、“治す”を目的、ゴールにしてはならない、と考えています。


冒頭のようなことを言いますと、「どういったことが幸せか?」と尋ねられます。
私は、幸せを「選択できること」と捉えています。
発達障害を治すのは、その子の人生の選択肢を増やすための援助であり、自ら選択できるようになることが理想的な姿だと思っています。
何を食べ、どこに住むのか。
どういった仕事をし、誰と生きていくのか。
こういった1つ1つの選択を自分自身でできることが幸せであって、特に子ども達の育ちに関わる場合には、将来の選択肢を増やせるような成長、発達の促しをしなければならない、と考えています。


このような考えに行った根っこには、施設職員だったときの経験があります。
激しい行動障害が治り、落ち着いた我が子を見て、「この子は、ここに来るのが幸せだった」「ここで暮らすのが幸せなんだ」と言われる親御さんがいました。
このような発言を聞くたびに、経験が浅い20代の私にも、この言葉が本心ではなく、エクスキューズでしかないことがわかりました。
また、例え親御さんはそう思ったとしても、「本人たちは絶対に幸せだと思っていない」と確信できました。


何故なら、誰一人、自ら選択して入所した人がいないから。
それは、入所の経緯から考えても、本人たちに選択する力が乏しかったことからわかります。
私が働いていた施設に限らず、「利用者の幸せを追求する」など理念を掲げているところは多々ありますが、入所者の方が「退所したい」といえば、それをかなえてくれるのか、そもそも選択肢を与えているのか?
いくら個人の幸せを高々と掲げようとも、選択肢のない生活の中に、個人の幸せはないはずです。
同時に、選択できたとしても、その人に選択する力が育っていない、また選択しようとしても、それが叶えられる状態に本人がないということも、結果的にその人の人生から幸せを遠ざける、と考えるようになりました。


発達障害を治すのは、未来の、そして自分の人生の選択肢を増やすために行うのです。
私が関わっている子ども達の中には、支援級から通常学級へ転籍する子達もいますが、その子の親御さんには「通常学級に行くために、発達障害を治すのではありません」と言っています。
子ども達が支援級で学ぼうとも、通常級で学ぼうとも、どちらでも良いのです。
障害者枠で働こうとも、一般枠で働こうとも、どちらでも良いのです。
それが、本人の選択だったら。


本人が「支援級で学びたい」と言うのなら、それで良いと思います。
でも、本当は通常級で学びたいと思っているのに、それができない、というのがよくありません。
将来、その子が選択する場面になったら、きちんと選択肢がある状況で、本人も選択する力と主体性があり、どれを選択しても良い状態にしておく。
将来、「選択肢がこれしかありません」「あなたが選びたい選択肢は、今の状態、力では無理です」というのは避けなければなりません。


発達障害を治すのは、今、ラクになること。
でも、その先には、選択肢の広がりがあります。
発達障害を治した人達が、生き生きとして見えるのは、ラクになったことが大きいと思います。
でも、それ以上に、人生の選択肢が増え、自ら選択していける喜びを感じているからではないか、と思っています。
ギョーカイのメンドリから、ギョーカイの鳥籠の中から、敷いた線路の上から飛び立った人が言っていました。
「籠の中にいたときよりも、大変なことや辛いこともある。でも、自分で自分の人生を選べるのが幸せだ」と。


自分の選択で生きていけるからこそ、人は幸せを感じられる。
いくら物質的に恵まれていても、なに不自由なく生活できても、周りが常にいい子いい子してくれて、転ぶ前に配慮してくれたとしても、選択肢のない人生は幸せを感じられない。
だからこそ、発達障害は治す、その子が選択肢のある人生を歩めるために。

2017年9月21日木曜日

責任を味わう

若い世代の方達とお話をしていると、「責任を取らずに、ここまで来たのかな?」と感じる人たちがいます。
いざ、自分で責任を取らないといけない場面がやってくると、その責任の取り方を知らない。
何故なら、彼らは支援、配慮という名の“接待”を受けてきたために、常に責任は誰かが肩代わりしてくれていた。
または、「障害ガー」「社会の理解ガー」ってことで、周りにいる大人すら責任を取らなかった。
そんな姿が、過去が見える人もいます。


責任を取らずに歩んできた彼らも、自分がしたことの“結果”は見てきました。
でも、その結果は、純粋な結果ではなかったのです。


障害の有無に関わらず、成長する過程の中で、多くの失敗をします。
自分がしたことの失敗という結果を見ること、体験することで、失敗という概念を理解し、試行錯誤という生きる力を身に付けていきます。
たくさん失敗したことがある子の方が力強いのは、たくさん試行錯誤をしてきたからだといえます。


しかし、支援という名の接待を受けてきた子たちは、そもそも失敗の経験が多くありません。
それは、定型発達の子たちと同じように失敗したとしても、失敗という純粋な結果を見せてもらえなったと言い換えることができます。


配慮がなされることで、どっかのVIPですか並みに、どこに行っても、並ばなくても良いし、着いた瞬間に始められて、しかも他から影響を受けないような特等席が用意される。
支援がなされることで、失敗しそうになったら、すぐに手が差し伸べられるし、たとえ失敗しても、大きな失敗ではないように見せる支援が展開される。
中には、「一緒に責任を取る」という訳のわからない支援がなされ、本人の代わりに支援者が誤ったり、後始末をしたりすることもある。


情報処理の仕方、世の中の切り取り方、捉え方に違いがある自閉脳の人達に対し、支援や配慮は結果の姿を歪ませることもあります。
本当は、自分がやった行いで、他人を怒らせてしまった。
でも、本人が見えないところで、「あの人は、自閉症という障害があって」「悪気はないんだ、特性でもあるんだ」と説明し、本人が気づかないうちに責任をうやむやにしてしまう。
そういった支援や配慮を想像できなかった場合、本人に残るのは、自分に対し怒ってきた他人の姿だけ。
自分に責任があるのに、「あの人は怖い人だ」なんて誤って捉えてしまうこともあります。


また仕事場で、本人ができなかった分の仕事を支援者が代わりにやったりする。
実習なんかの場合には、「本人の自尊心、達成感を大切にする」というこれまた訳のわからない支援が展開され、賃金が減らされることなく、きちんと仕事をした人と同じ分のお金を貰う。
これでは、働く姿勢は養われません。
できなかった分、賃金が減らされるという結果を得ることで、真面目に働くことの大切さ、仕事ができるようになるための試行錯誤が生まれます。


遅刻したら、その分、給料を減らされるのは、その企業がブラック企業だからではありません。
授業の単位を落とすのは、その学校に、先生に、障害の理解がないからでも、配慮が足りないからでもありません。
接待慣れした人は、原因を自分の外に見ようとします。
今まで支障がなく、エスカレーターのように進めていたのは、気が付かないところで配慮や支援がなされていた場合もあります。
「自分は何でも出来るんだ」という誤解は、接待が作りだしたものといえます。


良い年齢の若者が、目の前に“責任”がやってくると、ボーと立ち尽くしたり、誰かの支援をただただ待つ、そして、その人が解決してくれるのを待つ、という姿を見ることがあります。
世の中の切り取り方、捉え方に違いがある人達だからこそ、きちんと結果を見せること。
配慮や支援という名で、結果を歪ませてはいけません。
例え失敗した結果だったとしても、それを直視できるようになれば、試行錯誤へとつながり、生きていく力を身に付けていくことになります。


野生の動物を見ても、親が獲物を捕ってくるのは幼いときまで。
ある段階まで成長すれば、子どもに狩りをさせます。
子どもに来る日も、来る日も失敗をさせ、どうすれば獲物を捕れるのか学ばせます。
これこそ、試行錯誤の始まりです。


人間は、野生の動物のように獲物を捕りに行くことがほとんどなくなりましたが、生きていくうえで試行錯誤する力は大切であり、試行錯誤するからこそ、成長できると思います。
だからこそ、試行錯誤につながる「責任を取る」という経験を子ども時代から積んでいってほしいと考えています。
「責任を取る」という音の雰囲気が良くないので、私は「責任を味わう」と言っています。


責任をしっかり味わうことがなく、大人になった若者たちを見ると、障害以外に配慮を受け、支援を受けたことの寂しさを感じるのです。

2017年9月19日火曜日

できない理由は、できるまでやっていないから

近頃、下の子は、掴んだモノを床に落とします。
身近にあるモノを掴んでは落とし、掴んでは落としの繰り返し。
以前は落としたら、落としっぱなしで見ることはなかったけれども、必ず落ちたモノを確認するようになりました。
まだ生まれて9か月しか経っていない彼は、重力なんて知らないけれど、こうやって「物は地面に落ちる」ということを体験的に学んでいるのだと感じました。
ですから、止めることはしないで、本人が満たされるまで、とことん落とさせています。


上の子は、今週末に運動会があり、障害物競走では逆上がりをしなくてはなりません。
保育園で練習しただけではできなかった息子は、保育園から帰る途中や休日に公園へ行き、ひたすら鉄棒で逆上がりの練習をしました。
何度失敗しても、悔しくて泣いたり、怒ったりしても、私ができることはただ一つ。
とことん付き合うこと。
心の中では早く切り上げて帰りたい日もあったけれど、「できるまで付き合う」と決めたからには、本人が納得するまで見守りました。
決して運動神経が良いとは言えない子だけれども、3連休の間にできるようになりました。


私は子育てでも、仕事でも、とことん付き合うことを大事にしています。
本人が納得するまで付き合う、コツを掴みそうになったら継続できるよう後押しする。
例え約束の時間が過ぎたとしても、例え次の予定があったとしても、一度掴めたら放さない時期を生きる子ども達には、できるだけ付き合います。


こういった私の姿勢は、批判を受けることもあります。
「やりたいことばかりさせていたら、我がままになる」
「時間を守ることも大切だ」
「途中で止めれることも大切だ」
確かに、そういう力、姿勢を身に付けることも大事でしょう。
しかし、神経を育てるのに最適な時期があり、発達には順序があります。
我が身をコントロールするには、まず我が身という土台が育っていなければならないのです。


土台が育っていな子に、大脳皮質から押さえ付け、我が身をコントロールせざるを得ない状況を作るアプローチだったり、「見通し見通し」と言って、本人の主体性の入る余地のない他人が決めたスケジュールで予定を区切ったり…。
私の「とことん付き合う」という姿勢は、大脳皮質系のアプローチから見れば、専門性のない、それこそ、誰にでもできる方法なのかもしれませんが、人の発達を援助する姿勢で大切なことを守っていると考えています。
それは、本人の持つ主体性を奪わないこと、本人の持つ自分の発達のヌケに気が付く力と育て治す力を阻害しないこと。
その子自身で、伸びやかに発達するのを援助することこそ、発達援助だと考えています。


幼少期からスケジュールを守る、スケジュール通りに動けることを目指す必要なんてないと思います。
施設で働いているとき、「もっと遊びたいよな」「休憩したいよな」「ゆっくりお風呂に入りたいよな」なんて言いながら、その子のスケジュールを組み立てていました。
ギョーカイ真っ只中にいた頃は、まだ治るという方法を知らなかった頃は、幼少期からスケジュールに従える姿勢、他人からの指示に従える姿勢を育てることが、将来の適応力につながると信じていましたが、今思えば、あれは管理する側、支援者側の都合でしかないのです。
しっかり身体という土台が育ち、発達のヌケが埋まれば、自然と自らの意思で時間が守れる人になる、自分で選択し、行動できる人になる、というのは、発達援助を通して関わる子ども達から教えてもらっていることです。


このブログを書こうと思ったのは、週末に読んだ本がきっかけでした。
西川司氏の著書『向日葵のかっちゃん(講談社文庫)』です。
支援学級に通っていた少年と、転校先で出会った先生との成長の物語です。
少年を一変させた先生の姿勢は、まさに発達援助の姿勢。
実話を元に書かれた物語であり、発達の遅れやヌケが治った話ですので、子どもと関わる大人には大きなヒントを与えてくれる本だと思います。


下の子は、まだ言葉でのやりとりも、理解もしていない時期です。
でも、誰に教わったわけではなく、モノを掴み、指を放す動作を行う。
そして、モノは下に吸い寄せられていくことを体験的に知ろうとしている。
彼は、親が発達援助という仕事をしているからではなく、自分で自分を育てているのです。
上の子も、まだ文字を主にして学び、理解する段階ではありません。
彼も、下の子と同様に、体験的に学び、神経を育てています。


発達障害の子ども達は、受精から幼少期の間に、発達のヌケがあります。
ですから、言葉、文字を獲得する前、子ども達がどのように神経を育て、成長していくのか?
そこに発達援助の原形があり、本来の姿があるのだと思います。
発達が専門知識を持った人にしかできなければ、ヒトはとうの昔に絶滅していたはず。
日本において、早期療育が身を結ばず、どんどん自立から遠のき、ますます支援が必要な人として育っていくのは、ギョーカイの思惑にプラスして、文字を獲得した以降のアプローチ、大脳皮質に働きかけるアプローチに偏っているのも原因の一つだと考えています。


2017年9月18日月曜日

世の中で、唯一、働かないことを推奨してくる大人が側にいるのだから

「忙しいよ~」「辛いよ~」「休みたいよ~」と言う人に限って、あまり働いていない(ブ)
本当に忙しく働いている人は、そんなことは言わず、言う暇もなく、黙々と働いているものです。
「忙しいなう」「休みたいなう」と呟くくらいなら、その時間を休めばよいと思いますね。


このような人は、いくら仕事の量が少なくとも、「忙しい」とか、「休みたい」とか言うでしょう。
きっと彼らは、仕事のことをただお金を得るための手段としか考えていなく、中には仕事をすることが罰のように捉えている人もいます。
だから、「少ない労働で、多くの賃金」を目指している。


「仕事は、お金を得るために行うものである」というのは、真実だと思います。
しかし、それは表面的な捉え方。
仕事を通して成長し、より良い人生と社会のために自分の持っているものを活かす。
それこそが、本来の仕事の意味だと考えています。


成人した方達とお話をしていると、仕事は「お金を得るための手段」という面でしか捉えていない人も少なくありません。
また成人したら「仕事はするもの、すべきもの」という捉えでしかない人もいます。
こういう人は、総じて労働意欲が乏しい。


医師も、支援者も、成人した発達障害の人に対しては、働くことを勧めません。
自立してもらっては困るからです。
そのため、「二次障害ガー」と脅す一方で、「一生涯の支援が必要だ」と説き、働かなくても生きていける方法を教えます。
支援サービスの受け方、障害者年金の額と貰い方、そして、「最後は生活保護を申請すればいいんだから」と言うのです。
結局、生活保護を受けて生きることを勧めるのなら、就労支援はいらないし、早期診断、早期療育もいらない。
そういったサービスを作るんだったら、そういった心持ちで支援者がいるのなら、支援者、支援機関はいらなくて、初めから国が手当てを出し、丸抱えしていくシステムにすれば良いのです。


本人が持つ想像に関する特性と、労働を勧めない支援システム、労働意欲の乏しい支援者が折り重なると、「仕事はお金を得る手段」「仕事は罰のようなもの、できればやらない方が良い」という労働観が本人の中にできあがります。
こうなってしまうと、親御さんがいくら焦っても、就職しようとしませんし、就いたとしても続きません。


仲間集団を作ることが苦手な自閉症の人にとっては、仕事が大事な集団の場になるといえます。
人と関わることで気が付くこともありますし、集団で協働することにより、学ぶことも多くあります。
また何よりも、仕事が社会との接点となり、人生を豊かにすると思います。
友だちはいなくても構いませんが、人と関わる場面は生活の中に必要です。
ですから、仕事とは「お金を得るための手段」という表面的な理解だけではなく、こういった意味、意義があることを伝えていかなければならない、と考えています。


就労のための教育というと、体力や忍耐力、職業スキルやコミュニケーションスキル、ソーシャルスキルが注目され、重点的に行われますが、その子の中の労働観を養っていくことも大事だと思います。
労働観が確立していなければ、医師や支援者が働かない道へと手をこまねく間をまっすぐ歩くことができません。
世の中で、唯一、働かないことを推奨してくる大人が側にいる“特別”な道なのですから。


私は、子どもたちとの関わりの中でも、労働観を養ってもらおうと考えています。
ですから、学校へ通う意義、勉強する意義から一緒に考えるようにしています。
答えは一つではないと思いますが、学校に行くのも、勉強するのも、同級生と活動するのも、自分のためであり、自分以外の誰かのため、という意義に気が付いてほしいと思っています。


支援級の子が、交流学習や通常級への転籍となると、「支援級の方がラクでいい」「勉強したくない」「一日、遊んでいたい」と言うことがあります。
これは支援という名の接待につかってしまっている証拠でもあり、将来の「働かなくていいよ」という手招きに乗っかってしまう危険性あり、というサインです。


本来、子どもは好奇心の塊であり、まだ見ぬ世界への憧れ、自分自身が成長する喜びをより強く感じる時期にいるのです。
なので、その自然な動きが見られないのなら、周りにいる大人の責任です。
ここで周りにいる大人が改めなければ、働くことに意欲が持てない大人を育てることになる。
働く大人になるか、ならないかは、高等部になってからではなく、小学校に通い始めるくらいの頃から続いているのだと思います。


年少の子の若い親御さんに、私がお話ししていることでした。

2017年9月13日水曜日

支援者は公園一つに勝てない

ある成人の方が言っていました。
「雑談にはノッてくれるんですけれど、相談には乗ってくれないんです」と。
何かチャレンジしようとすると、「無理しないで」と言われ、ストップをかけられる。


「私は、何のために相談機関に通っているのでしょう?わからなくなりました」と言われたので、「それは、〇〇さんのためではなく、支援者のために行っているんですよ」と、私は言いました。
「一生治りません」という前提から出発したシステムでは、「相談して解決できた」という結果はど~でもよくて、とにかく「〇月〇日、〇時~〇時まで相談した」という事実のみが必要。
もちろん、誰にとって必要かといえば、相談に行った本人、家族ではなく、支援者側にとって。


支援機関というのは、無料で、対象者なら誰でも相談できる、という場所のことを指し、効果がある、問題が解決することをウリにしているわけでも、保証しているわけでもありません。
ましてや、支援者側も「一生治りません」と言い、その前提で仕事をしているのですから、何か効果を目的として通われるのでしたら、それは通う方にも、勉強不足という問題があります。


先ほどの成人の方に、私は言いました。
「“無理しないで”という言葉なら、医師免許も、教員免許も、資格も必要ないですよね。どうせだったら、よく知らない人間から言われるより、よく行くコンビニの店員さんから“無理しないで”と言われた方が、よっぽど心地が良いはずです」と。
それを聞いて、成人の方は笑っていました。


医師免許や教員免許、資格などを取得した人は、いくら私が「意味がない」と言っても認められないでしょう。
でも、実際、治らないと思っているんだし、治そうとは思っていないのですから、「じゃあ、なにをしているの?」という疑問が浮かぶのは自然です。
「無理しないで」という言葉に、専門性があるというのなら、どんな専門性があるのか訊いてみたいです。
支援者の「無理しないで」と、家族の「無理しないで」、友人の「無理しないで」、ご近所さんの「無理しないで」の違い(ブ)


私は、日々、発達援助という仕事をしていて思うんです。
私が行っている発達援助は、公園には勝てない、と。
公園には遊具があって、思いっきり走ったり、跳んだりできる空間があって、子どもたちや虫たちがいる。
セッションの中でも、一緒に公園に行くこともありますが、自分に足りない刺激、抜かした発達段階はわかっているんです。
自分に必要な遊び、動きを行い、自ら育て直しを行う。
だから、私はいつも「公園には勝てない」と思うのです。


私は教員免許を持っていますし、実際に勉強を教えたりもしますが、現場で指導をやられている先生方には勝てないと思っています。
他にも、スポーツにしても、趣味にしても、遊びにしても、地域にはそれを専門に指導されている方達には、到底勝つことはできません。
ですから、私の役割は、そういった学校での時間、地域にある習い事や公共機関、資源をより良く活用できる段階までの援助が仕事であり、そのために発達のヌケを育て直すお手伝いをしているのだと考えています。


私は、自分の仕事を「発達援助」と言っていますが、子ども達の発達を促し、育て直すことのできる人間は、地域にたくさんいる、と思っています。
発達援助は、免許や資格を持っている者だけが行えるのではなく、それこそ、本人と関わるすべての人ができると考えています。
そのため、発達のヌケが埋まってきた子には、どんどん地域の資源を利用してもらうよう伝えています。
最初は、私と一緒に勉強していた子が、民間の教育機関を利用できるようになったり、公園で遊ぶのもやっとだった子が、スポーツ教室に通い始めたり。
そうやって、その子が、そのとき、必要なものを、必要な場所で学び、成長していけば良いのだと考えています。


ギョーカイも、私と同じように、「地域資源を使おう」ということがあります。
でも、ギョーカイは、少しでも利用実績が稼げる場所を探しているので、本人を治して、地域の資源が利用できるようにするのではなく、本人は治らないまま、ありのままで、「私がプロデュースするから」と言って、その民間企業に入りこもうとする。
で、民間の習い事教室やスポーツクラブから鬱陶しがられる、というのが関の山です。


相談機関、支援機関に、半ば強制的に、またルーティンみたいに、ただ日課のように通っている人がいます。
「治りません」「治しません」と言っている場所に、何を求めていかれるのでしょう。
地域には、どっかの知らない他人よりも、温かい「無理しないでね」と声を掛けてくれる人がいます。
また地域には、免許や資格がなくても、あなたご自身の発達を援助してくれる人達がいます。


私も含め、支援者というのは、公園一つに勝てないのです。
「俺は医師免許持っているんだぞ」「有名支援者が認定している資格を持っているんだぞ」と、ふんぞり返っていても、学校の先生ほど、学力や姿勢、身体を育ててあげられませんし、習い事の先生ほど、技術や動きを身に付けさせてあげることはできません。
支援者なんて、ほんとちっぽけな存在で、支援において、発達援助において万能ではない。
だからこそ、支援者というのは、入り口の存在であり、困ったときの存在だと私は思うのです。


「ずっと支援、一生涯支援」というのは、何も問題が、課題が解決していないということじゃないですかね。
そんな支援を受け続けたいですか?

2017年9月12日火曜日

人は反射のみで生きているのではないのだから

行動に注目し、行動を変えることを中心に置く支援者というのは、支援者自身の評判がすこぶる悪いことがある。
それは、きっと彼らが“心”を対象から外すからだろう。


その人の気持ち、感情は、外から見ることはできない。
だから、目に見える、外から確認できる行動のみを支援の土台にあげよう。
そういった姿勢が、彼らが冷たい人間で、それこそ、心のない人間のように映してしまう。


彼らが支援のテーブルの上から外すものは、“心”以外にもある。
それは“身体”である。
心を支援の対象から外したのと同じように、身体も、彼らにとっては伺い知れぬものとなるため、除外の対象となる。


彼らは、目に見える“動き”が大好物である。
しかし、 その動きの土台となる身体を大切にしない、または、ないがしろにすることが、行動変容というアプローチの限界を生みだしている、と個人的には思う。
人間性は置いておいて、行動変容を中心にしつつ、効果のある支援ができる人というのは、“動き”とその土台である“身体”を引き離さない、という特徴があるように感じている。


「何か偉そうだ」「上から目線だ」「平気で失礼な態度をする」
そんな風に言われる支援者というのは、行動変容系に多い気がする。
それは、心を外し、身体を外した結果なのだろう。
心と身体性が乏しければ、相手との心地良い交流を生むことも、距離を取ることもできない。
また何よりも、アプローチする際、心が使えない分、相手の身体性が掴めない分、上下関係を作るしか指導を成り立たせるものがなくなってしまう。


行動する主体は、本人である。
本人が変えるから、行動は変わる。
だが、本人がしたい行動と、変えさせたい行動が、いつも一致しているとは限らない。
「なんで、あんたの言う通りに、私の行動を変えなければならないんだ」
というのは、本人の持つ主体性に、無礼な手が触れた瞬間に起きる。
そんなとき、無礼な手を無礼じゃないように見せる方法は、ただ一つ。
「私が上で、あなたが下」という文句。
触れても問題ないでしょ、言うこと聞きなよ、行動変えな、というような態度でくるから、主体性のある本人や家族は、こういった当たり前のように上下を作ろうとする様子に、不快感を示す。


刺激に対し、反射のみで生きる生物にとっては、心を排除し、身体性を排除し、行動のみにアプローチしたとしても、うまくいくのかもしれない。
しかし、人間は反射から無意識の動き、意識する動きへと発達していく。
人間は主体的に動くことを目指し、発達、成長していく生き物である。
だからこそ、人工的な上下関係を築き、一方的に行動の変容を迫るアプローチというのは、不自然であり、限定的であり、違和感をもたらす。


「行動変容こそが、唯一無二の支援である」と主張する人に、心を感じず、不健康で、上から目線の人が多いのは、このアプローチの持つ特徴と相性の良い人物だからかもしれない。
主体性を持つ、意識的な動きの段階まで育った本人、主体性を育てたい親と支援者が、行動変容系から距離を置くのも、よくわかる。
個人的には、発達の視点が乏しいアプローチは好みではない。

2017年9月6日水曜日

支援を商売にするためのテクニック

このブログは、支援を商売としている方達にも見て頂いています。
ですから、今日は、その方達のために、私が5年間、商売をやってみて分かったテクニックをお教えしようと思います。


支援というのは、実態があるものではありませんので、どう親御さんに、と言いますか、親御さんの頭の中に支援をイメージさせるかがポイントになります。
そもそも、その子に良い変化が見られたとしても、それが支援の効果なのか、それともいろんな経験をしたからなのか、自然な成長、発達の結果なのか、たまたまなのか、もともと調子がよくなかったのが良くなったからなのか、はわかりません。
つまり、支援というのは、他人からの働きかけの一つに過ぎないのです。


名人と呼ばれるような人でしたら、その名人の働きかけ一つで、流れを良い方向へと一気に変えられるかもしれませんが、ほとんどの支援者にはそんなことできません。
まあ、働きかけの一つとして良い刺激、きっかけになることもありますが、それだけではなく、ほとんど意味がないこともあれば、逆にマイナスに作用することだってあります。


前置きが長くなりましたが、このように実態が掴めない支援というものを、特に親御さんに良い感じでイメージしてもらい、利用し続けてもらうには、テクニックが必要になってきます。


まず簡単なテクニックが、『支援している様子を見せない』ということです。
親御さんは、我が子の発達には直感が働きますので、これは意味がある、ないを瞬時に判断することができます。
そのため、セッション後に、口頭や紙面で仰々しく支援について伝えれば、何か素晴らしいものを受けられたというイメージを懐いてもらいやすくなります。
日頃から持っている資格の話をしたり、専門用語を使ったり、自分の功績などをアピールしていれば、さらに信じてもらいやすくなるでしょう。


他にも簡単なテクニックとしては、『支援グッズを持ちこむ』ことです。
間違えても、家にあるものでセッションをしてはいけません。
「私にもできるかも」と思われてしまうからです。
自作の支援グッズ、一般のお店では売っていない道具などを使えば、それだけで「特別なもの」感が出てきます。
「自分に持っていなものを持っている」というのは、支援というものも特別なものに見せるテクニックです。
オリジナルの支援グッズを使う→支援する→持って帰る、というのを繰り返せば、それだけで支援の時間は特別な時間になります、もちろん、効果のあるなしに関わらず。
あと、やたらと発達検査、アセスメントするのも同様の効果があります。


あとは、ギョーカイの先生方もよく使われている方法で、みなさん、ご存じの方も多いとは思いますが、『家庭での支援に制限を加える』というテクニックです。
「失敗させてはいけません」「二次障害ガー」「(私の)支援の効果がわからなくなるので」「お母さんも同時に支援しちゃんと、本人が混乱してしまうので(?)」という文句で、家庭での子育ての足止めをします。
そして、家庭で行う子育てや支援に、一つ一つアドバイスという難癖をつけ、ああでもない、こうでもないとやるのです。
よく「スケジュールを作ってみたのですが、これで良いでしょうか?」などと訊いてくる親御さんに、「ここを直した方が良い」というやつです。
スケジュールなんて、本人がわかれば良いのですから、それを支援者に訊くのは…以下略。


このようにテクニックを並べてみますと、親御さんからどう主体性を奪うのか、また支援者自身が主導権を取り、先導するかがポイントだといえます。
ちなみに私は商売ベタですので、本人が嫌がらなければ、毎回、セッションの様子を親御さんに見て頂きます(もちろん、毎回、報告書も提出します)。
「私は、ここを確認していました」「こんなことをポイントに援助しています」と伝えますし、私の働きかけで良くなかったものは、「こんな点が失敗でした」と伝えるようにしています。
また家にあるもの、家の周りの環境を使って取り組みを行うようにしています。
そして、私がいないとき、日頃の生活の中で発達援助をしてもらうようにお願いしています。
そのため、毎月のように「もう大丈夫です」「私達で頑張っていけそうです」と言って、私のセッションを必要としない方が出てきます。


年々、卒業までの期間が短くなり、年単位で利用継続している方がどんどん少なくなっています。
だから、商売としてはうまくありませんね。
でも、発達の主体は本人ですし、発達援助をするのは親御さん、発達とは特別な時間があるのではなく、日々の生活の中に自然に存在するもの、という考えが変えられませんので、どうしても本人も、親御さんも、一日でも早く卒業してもらいたいと思ってしまうのです。
私はきっと商売人に向かないのでしょう。


あくまで支援を商売にしている方達に向けて書いた情報提供です。
間違っても、自立させない支援者、治さない支援者、当事者の人達をメンドリに仕立てる支援者を見抜くために使わないでくださいね(笑)

2017年9月5日火曜日

治らない教

「治ります」と言うと、「インチキだ」「オカルトだ」「宗教だ」と返ってくる。
だから私は、そういった治らないを信じてやまない人達のことを「治らない教」の人々と呼ぶようになりました。
どうせ信じるのなら、治らないよりも、治るという方が良いと思うのですが…。
まあ、何を信じるかは自由です。


「治らない教」と呼ぶのは、ただの当てつけのようでもありますが、そう感じるようになったのには理由があります。


私のところに来る方たちのほとんどが、治らないことを前提とした支援を浴びてからいらしています。
ですから、自然な姿、力を見るためには、その支援を一度洗い流す必要があるのです。
洗い流してキレイさっぱりになると、その人の自然な姿が表れます。
それと同時に、動きが出てきます。


動きというのは、やり残していた課題への挑戦であったり、ヌケている発達段階を育て直したりする動きです。
私が促したわけではなく、誘導したわけではなく、その人自身で自然と動き出す、といった感じです。
そういった動き出しを見て私は、「そうか、この子には、こういったやり残しがあったのか」「こういったヌケがあったのか」と知ることができます。
ある子のセッションでは、この動き出しが確認できましたので、それを親御さんに伝え、「危険がない限り、〇〇の動きを止めないでくださいね」「2週間くらいしたら、変化が感じられると思いますよ」と言って終了になったケースもあります。


つまり、もともと本人の内側には、治る力があり、治ることを目指す動きがある。
その本来の動きが、治らないという前提と信念によって縛られている、というのが、私の実感するところです。
「障害だから治らない」のではなくて、治らないと思うから、治らないのであり、治せないと信じるから治せない、のだと思います。


「治らない教」の人達は、治すことを悪だと捉えていて、なおかつ、戒律のように治さないように、治らないように、と行動に気を付け、制限しているようにも見えます。
「余計なことをしなければ、自然と治る方向へ進んでいくのに」と思うことが少なくありません。
「敢えて治らないように支援しているんでしょ」と思うことだってあります。
構造化にせよ、ABAにせよ、SSTにせよ、それを教える誰かの考えと意思によって、向かう方向とゴールが決められます。
本人の内側には、治るというゴールに向かって進もうとする力がある。
でも、それとは別の意思が働き、制限や転換が求められている。
それこそが、治さない支援であり、「治らない教」の実態だといえます。


治すべき課題やヌケは、本人が教えてくれます。
そして、実際に治していくのは本人であり、親御さんです。
そうなると、私の仕事は、治らない前提の支援を一度取っ払い、治るという視点から見てみましょう、と本人、親御さんにお話しすること。
それと、動き出しから確認できた課題とヌケを言語化すること。
たったこれだけです。
あとは、発達状況の確認と、治す方法の調整くらいなものです。


「大久保さんのおかげで治りました」と言われることもありますが、このように私はまったく治していないのです。
だから、「治る」を信じる人達は、本人の内側にある治る力を感じ、大切にできる人達。
「治る」を信じる人から、教祖様のような支援者が現れないのは、そのためです。
一方で「治らない教」の人達が、支援者や「障害は治りません」という他者の言葉を信じているのを見ると、それこそ、自分以外のものを崇め奉り、その人の意思によって行動が決められている一種の新興宗教のように見えてしまうのです。

2017年9月2日土曜日

症状の集合体が『障害』になる

私は、治るを信じ、治すことが使命だと思い仕事をしていますが、私が直接かかわっている人の中にも、「本当に治るのだろうか」と思っている人はいます。
例え友達の紹介で話を聞いていたとしても、HPやブログを読んでいたとしても、「治らないから障害なのだ」という摺りこみから離れられない人がいても不思議ではありません。
ですから、お子さんを治すための発達援助を行うのと同時に、私が言う「治す」「治る」という意味をきちんと伝えるのも責務の一つだと考えています。


「障害」と聞くと、何か固定されたものがあるような印象を受けます。
しかし、診断基準を見てもらえば分かるように、症状がある一定以上集まったとき、その人に「障害がある」としているのです。
身体障害の人とは異なり、発達障害には具体的な症状があるわけではありませんので、一言に自閉症、発達障害と言っても、一人ひとりが全然違うのです。
治らないと思っている方には、症状の集合体が自閉症であり、発達障害であるというお話をします。


症状の集合体が"障害"なのですから、症状が減れば、"障害"には当てはまらなくなるということになります。
ですから、支援の考え方はとってもシンプルなもので、この症状の中で治りやすいものから治していく、というものになります。
例えば、聴覚過敏があって学校や生活に支障があるのでしたら、聴覚過敏の根っこを掴み、そこから育てなおしていく。
聴覚過敏が治れば、集中して勉強ができるかもしれない、学校に行くのがそこまで疲れなくなるかもしれない。
以前よりも余裕ができた分、また新たな取り組みや学びができるかもしれません。
そうやって芋づる式に、症状が治っていけば、いつの間には診断名が付かない状態まで治っているようになります。


発達障害を治すというのは、このように障害と呼ばれる症状の集合体の中から治しやすいところを見つけ、そこから一つずつ治していくことを言います。
なにか「発達障害を治す」というと魔法をかけたり、信仰的に聞こえたりするかもしれませんが、障害という塊で見るのではなく、症状の集合体と見てアプローチするということです。
治すための発達援助をしていて面白いのは、最初は治しやすいところを見つけ、一つずつ治していくのですが、一つ治ると別の症状も連なって治ることが多々あるのです。
こういった様子を見ると、成長はスモールステップではなく、始まったら一気に階段を駆け上がるようなものだといえます。


自閉症、発達障害は、スペクトラムです。
別の異次元に存在している人達ではなく、定型発達と呼ばれる私達と同じ連続体の中にいます。
私達だって症状を持っていますので、違いがあるとすれば、その症状の数と濃さです。
素晴らしい実践家の方たちによって、個別の症状を治す方法が明らかになっていますので、自分にある症状、我が子にある症状を一つずつ治していけば良いのです。
そして、その一つずつ治していく積み重ねが、障害と呼べない状態にまで成長、発達することであり、そこまで来れば、本人も生きやすく、より豊かな自分の人生を歩めるようになると思います。


治すというのは、障害を一気に治すという意味ではなく、症状を一つずつ治していった結果として障害が治っている、という意味です。
治るのを信じる人と信じない人の違いは、根本である自閉症、発達障害とはどういった障害であるか、という点での認識の違いがあるように感じています。

2017年9月1日金曜日

ライセンスビジネスが抱える矛盾

私は、有名支援者が「いいですか、日本の皆さん。これからはライセンスの時代ですよぉ~」と言い始めた瞬間、この療法を学ぶ気がなくなったといいますか、熱が一気に冷めました。
まあ、それよりも前から、「支援は“個別化”が基本です!」と言っているのに、どうして何度も、何度も、講座やトレーニングを受けさせようとするのか、わかりませんでした。


ギョーカイ支援者は、お題目を唱えるように、「知識や技能は、常に更新し続けないといけない」と言って、せっせと国や法人のお金で受講していましたが、真新しい情報が出ることはなく、いつも決まって同じ話。
今考えると、ギョーカイ人は仲間内で「参加しない」という抜け駆けを作らないように、お互いを牽制していたのかもしれません。


まあ、それから数年が経ち、本格的にライセンス制度が始まりますと、参勤交代ルールで定期的に講座を受講しなければ、ライセンス取得も、ライセンス継続もできない、というようになり、講座の内容云々よりも、元締めがつくったポイント制という仮想コインをゲットすることが目的になってしまいました。
当人たちが気が付いているのか、どうせ自分の懐からお金を出すわけではないし~と思っているのかはわかりませんが、〇万円する受講料、旅費、接待費(×参勤交代回数)は、元をたどれば、皆さんから集めた税金ですから、日本で働いて納めた税金が欧米の自閉症の人達と支援者のために使われているということにもなります。


まあ、欧米の支援、支援者にお金が流れようとも、それで彼らの生活を日本の私達が支えようとも、日本の自閉症、発達障害の人達のためになれば、問題はないと私も思いますよ。
でも、ここでひっかるのが「個別化」という原理原則。
つまり、何とか療法のやりかた、ルールを学んだあとは、実際に接する人に合わせて個別化するのが基本ということ。
彼らも言う通り、スペクトラムの人たちなのですから、症状も多様であり、常に変化します。
だから、マニュアルなんか作っても意味がないのです、目の前の人に合わせて変えられなければ。


ここまで読んだ方の中には、ピンとこられた人もいらっしゃると思います。
そうです、彼らは矛盾を抱えている。
「スペクトラムの人達」「個別化が大事」と言っている同じ口で、ライセンスが大事と言っているのです。
ライセンスビジネスを成り立たせるには、“枠”が必要になります。
枠がなければ、みんなが好き勝手に「〇〇療法をやっています」と言えちゃうから。
またライセンスを認定する側が受講者に教える際、“型”がなければ、別の言い方をすれば個別化OKにしてしまったら、そもそもライセンス意味なくね~ってなっちゃいます。
個別化で良ければ、わざわざ特定の療法の認定書をもらう必要はないってことになりますし、基礎基本を学べば、あとは個別化しましょう、で良いはずなのです。


こういったギョーカイの姿を見ると、まるで千葉にある東京のようです。
夢の国だったら、多くの人が夢を見られる料金設定にすれば良いはず。
でも、実際はライセンス料が乗っかるから、なんでもかんでも、金額が夢の国になるのです。
園内を歩くキャラクターが有名支援者であり、その周りを囲んで写真を撮って喜んでいるのが、愛を欲している支援者たち。
Facebookなどで、有名支援者を囲んで、いい年齢の大人がみんなでポーズ撮っているのを良く見ますよね。
彼らは夢の国にいるから気が付いていませんが、あれを見た普通の人達は、ただただ引くだけ。
ナントカ療法のライセンス証は、例えるならロゴの入ったパスポートですかね。


支援と言うのは、個別化してナンボです。
特定の療法で、すべてが万々歳ということはありません。
だって、スペクトラムだから。
そう、ギョーカイ人も言っているのに、個別化と相性の悪いライセンスビジネスに熱を上げる。
また、支援の目的は「自立」なのに、同じように彼らも言っているのに、ライセンス制度は、生涯支援者自身を自立させない仕組み。
有名支援者から自立できない支援者に、当事者の方の自立支援ってできますかね?
もっといえば、欧米の元締めから自立できない、お金を持ってこい、と言われ、自立どころか主従関係を結んだ有名支援者に、自立した次世代の支援者を育てることができますかね?


私が、「ライセンス、ライセンス」と騒がしくなってから、ギョーカイの推奨する支援は死んだと思ったのは、彼らが矛盾を抱えているからです。
資格制度、ライセンスビジネスは、「個別化」と「自立」という支援の中核と矛盾する形なのです。
いろんな療法を学ぶのは大事なことですが、原理原則を学べば良いだけのお話。
それ以降は、目の前にいる人に合わせてアレンジする。
そして、支援者から自立できるように、支援者が必要なくなるように支援するのが、真の支援です。
私は、原理原則である「個別化」と「自立」を追及する現実の世界の支援者でいたいと思います。