支援者は公園一つに勝てない

ある成人の方が言っていました。
「雑談にはノッてくれるんですけれど、相談には乗ってくれないんです」と。
何かチャレンジしようとすると、「無理しないで」と言われ、ストップをかけられる。


「私は、何のために相談機関に通っているのでしょう?わからなくなりました」と言われたので、「それは、〇〇さんのためではなく、支援者のために行っているんですよ」と、私は言いました。
「一生治りません」という前提から出発したシステムでは、「相談して解決できた」という結果はど~でもよくて、とにかく「〇月〇日、〇時~〇時まで相談した」という事実のみが必要。
もちろん、誰にとって必要かといえば、相談に行った本人、家族ではなく、支援者側にとって。


支援機関というのは、無料で、対象者なら誰でも相談できる、という場所のことを指し、効果がある、問題が解決することをウリにしているわけでも、保証しているわけでもありません。
ましてや、支援者側も「一生治りません」と言い、その前提で仕事をしているのですから、何か効果を目的として通われるのでしたら、それは通う方にも、勉強不足という問題があります。


先ほどの成人の方に、私は言いました。
「“無理しないで”という言葉なら、医師免許も、教員免許も、資格も必要ないですよね。どうせだったら、よく知らない人間から言われるより、よく行くコンビニの店員さんから“無理しないで”と言われた方が、よっぽど心地が良いはずです」と。
それを聞いて、成人の方は笑っていました。


医師免許や教員免許、資格などを取得した人は、いくら私が「意味がない」と言っても認められないでしょう。
でも、実際、治らないと思っているんだし、治そうとは思っていないのですから、「じゃあ、なにをしているの?」という疑問が浮かぶのは自然です。
「無理しないで」という言葉に、専門性があるというのなら、どんな専門性があるのか訊いてみたいです。
支援者の「無理しないで」と、家族の「無理しないで」、友人の「無理しないで」、ご近所さんの「無理しないで」の違い(ブ)


私は、日々、発達援助という仕事をしていて思うんです。
私が行っている発達援助は、公園には勝てない、と。
公園には遊具があって、思いっきり走ったり、跳んだりできる空間があって、子どもたちや虫たちがいる。
セッションの中でも、一緒に公園に行くこともありますが、自分に足りない刺激、抜かした発達段階はわかっているんです。
自分に必要な遊び、動きを行い、自ら育て直しを行う。
だから、私はいつも「公園には勝てない」と思うのです。


私は教員免許を持っていますし、実際に勉強を教えたりもしますが、現場で指導をやられている先生方には勝てないと思っています。
他にも、スポーツにしても、趣味にしても、遊びにしても、地域にはそれを専門に指導されている方達には、到底勝つことはできません。
ですから、私の役割は、そういった学校での時間、地域にある習い事や公共機関、資源をより良く活用できる段階までの援助が仕事であり、そのために発達のヌケを育て直すお手伝いをしているのだと考えています。


私は、自分の仕事を「発達援助」と言っていますが、子ども達の発達を促し、育て直すことのできる人間は、地域にたくさんいる、と思っています。
発達援助は、免許や資格を持っている者だけが行えるのではなく、それこそ、本人と関わるすべての人ができると考えています。
そのため、発達のヌケが埋まってきた子には、どんどん地域の資源を利用してもらうよう伝えています。
最初は、私と一緒に勉強していた子が、民間の教育機関を利用できるようになったり、公園で遊ぶのもやっとだった子が、スポーツ教室に通い始めたり。
そうやって、その子が、そのとき、必要なものを、必要な場所で学び、成長していけば良いのだと考えています。


ギョーカイも、私と同じように、「地域資源を使おう」ということがあります。
でも、ギョーカイは、少しでも利用実績が稼げる場所を探しているので、本人を治して、地域の資源が利用できるようにするのではなく、本人は治らないまま、ありのままで、「私がプロデュースするから」と言って、その民間企業に入りこもうとする。
で、民間の習い事教室やスポーツクラブから鬱陶しがられる、というのが関の山です。


相談機関、支援機関に、半ば強制的に、またルーティンみたいに、ただ日課のように通っている人がいます。
「治りません」「治しません」と言っている場所に、何を求めていかれるのでしょう。
地域には、どっかの知らない他人よりも、温かい「無理しないでね」と声を掛けてくれる人がいます。
また地域には、免許や資格がなくても、あなたご自身の発達を援助してくれる人達がいます。


私も含め、支援者というのは、公園一つに勝てないのです。
「俺は医師免許持っているんだぞ」「有名支援者が認定している資格を持っているんだぞ」と、ふんぞり返っていても、学校の先生ほど、学力や姿勢、身体を育ててあげられませんし、習い事の先生ほど、技術や動きを身に付けさせてあげることはできません。
支援者なんて、ほんとちっぽけな存在で、支援において、発達援助において万能ではない。
だからこそ、支援者というのは、入り口の存在であり、困ったときの存在だと私は思うのです。


「ずっと支援、一生涯支援」というのは、何も問題が、課題が解決していないということじゃないですかね。
そんな支援を受け続けたいですか?

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