できない理由は、できるまでやっていないから

近頃、下の子は、掴んだモノを床に落とします。
身近にあるモノを掴んでは落とし、掴んでは落としの繰り返し。
以前は落としたら、落としっぱなしで見ることはなかったけれども、必ず落ちたモノを確認するようになりました。
まだ生まれて9か月しか経っていない彼は、重力なんて知らないけれど、こうやって「物は地面に落ちる」ということを体験的に学んでいるのだと感じました。
ですから、止めることはしないで、本人が満たされるまで、とことん落とさせています。


上の子は、今週末に運動会があり、障害物競走では逆上がりをしなくてはなりません。
保育園で練習しただけではできなかった息子は、保育園から帰る途中や休日に公園へ行き、ひたすら鉄棒で逆上がりの練習をしました。
何度失敗しても、悔しくて泣いたり、怒ったりしても、私ができることはただ一つ。
とことん付き合うこと。
心の中では早く切り上げて帰りたい日もあったけれど、「できるまで付き合う」と決めたからには、本人が納得するまで見守りました。
決して運動神経が良いとは言えない子だけれども、3連休の間にできるようになりました。


私は子育てでも、仕事でも、とことん付き合うことを大事にしています。
本人が納得するまで付き合う、コツを掴みそうになったら継続できるよう後押しする。
例え約束の時間が過ぎたとしても、例え次の予定があったとしても、一度掴めたら放さない時期を生きる子ども達には、できるだけ付き合います。


こういった私の姿勢は、批判を受けることもあります。
「やりたいことばかりさせていたら、我がままになる」
「時間を守ることも大切だ」
「途中で止めれることも大切だ」
確かに、そういう力、姿勢を身に付けることも大事でしょう。
しかし、神経を育てるのに最適な時期があり、発達には順序があります。
我が身をコントロールするには、まず我が身という土台が育っていなければならないのです。


土台が育っていな子に、大脳皮質から押さえ付け、我が身をコントロールせざるを得ない状況を作るアプローチだったり、「見通し見通し」と言って、本人の主体性の入る余地のない他人が決めたスケジュールで予定を区切ったり…。
私の「とことん付き合う」という姿勢は、大脳皮質系のアプローチから見れば、専門性のない、それこそ、誰にでもできる方法なのかもしれませんが、人の発達を援助する姿勢で大切なことを守っていると考えています。
それは、本人の持つ主体性を奪わないこと、本人の持つ自分の発達のヌケに気が付く力と育て治す力を阻害しないこと。
その子自身で、伸びやかに発達するのを援助することこそ、発達援助だと考えています。


幼少期からスケジュールを守る、スケジュール通りに動けることを目指す必要なんてないと思います。
施設で働いているとき、「もっと遊びたいよな」「休憩したいよな」「ゆっくりお風呂に入りたいよな」なんて言いながら、その子のスケジュールを組み立てていました。
ギョーカイ真っ只中にいた頃は、まだ治るという方法を知らなかった頃は、幼少期からスケジュールに従える姿勢、他人からの指示に従える姿勢を育てることが、将来の適応力につながると信じていましたが、今思えば、あれは管理する側、支援者側の都合でしかないのです。
しっかり身体という土台が育ち、発達のヌケが埋まれば、自然と自らの意思で時間が守れる人になる、自分で選択し、行動できる人になる、というのは、発達援助を通して関わる子ども達から教えてもらっていることです。


このブログを書こうと思ったのは、週末に読んだ本がきっかけでした。
西川司氏の著書『向日葵のかっちゃん(講談社文庫)』です。
支援学級に通っていた少年と、転校先で出会った先生との成長の物語です。
少年を一変させた先生の姿勢は、まさに発達援助の姿勢。
実話を元に書かれた物語であり、発達の遅れやヌケが治った話ですので、子どもと関わる大人には大きなヒントを与えてくれる本だと思います。


下の子は、まだ言葉でのやりとりも、理解もしていない時期です。
でも、誰に教わったわけではなく、モノを掴み、指を放す動作を行う。
そして、モノは下に吸い寄せられていくことを体験的に知ろうとしている。
彼は、親が発達援助という仕事をしているからではなく、自分で自分を育てているのです。
上の子も、まだ文字を主にして学び、理解する段階ではありません。
彼も、下の子と同様に、体験的に学び、神経を育てています。


発達障害の子ども達は、受精から幼少期の間に、発達のヌケがあります。
ですから、言葉、文字を獲得する前、子ども達がどのように神経を育て、成長していくのか?
そこに発達援助の原形があり、本来の姿があるのだと思います。
発達が専門知識を持った人にしかできなければ、ヒトはとうの昔に絶滅していたはず。
日本において、早期療育が身を結ばず、どんどん自立から遠のき、ますます支援が必要な人として育っていくのは、ギョーカイの思惑にプラスして、文字を獲得した以降のアプローチ、大脳皮質に働きかけるアプローチに偏っているのも原因の一つだと考えています。


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