治らない教

「治ります」と言うと、「インチキだ」「オカルトだ」「宗教だ」と返ってくる。
だから私は、そういった治らないを信じてやまない人達のことを「治らない教」の人々と呼ぶようになりました。
どうせ信じるのなら、治らないよりも、治るという方が良いと思うのですが…。
まあ、何を信じるかは自由です。


「治らない教」と呼ぶのは、ただの当てつけのようでもありますが、そう感じるようになったのには理由があります。


私のところに来る方たちのほとんどが、治らないことを前提とした支援を浴びてからいらしています。
ですから、自然な姿、力を見るためには、その支援を一度洗い流す必要があるのです。
洗い流してキレイさっぱりになると、その人の自然な姿が表れます。
それと同時に、動きが出てきます。


動きというのは、やり残していた課題への挑戦であったり、ヌケている発達段階を育て直したりする動きです。
私が促したわけではなく、誘導したわけではなく、その人自身で自然と動き出す、といった感じです。
そういった動き出しを見て私は、「そうか、この子には、こういったやり残しがあったのか」「こういったヌケがあったのか」と知ることができます。
ある子のセッションでは、この動き出しが確認できましたので、それを親御さんに伝え、「危険がない限り、〇〇の動きを止めないでくださいね」「2週間くらいしたら、変化が感じられると思いますよ」と言って終了になったケースもあります。


つまり、もともと本人の内側には、治る力があり、治ることを目指す動きがある。
その本来の動きが、治らないという前提と信念によって縛られている、というのが、私の実感するところです。
「障害だから治らない」のではなくて、治らないと思うから、治らないのであり、治せないと信じるから治せない、のだと思います。


「治らない教」の人達は、治すことを悪だと捉えていて、なおかつ、戒律のように治さないように、治らないように、と行動に気を付け、制限しているようにも見えます。
「余計なことをしなければ、自然と治る方向へ進んでいくのに」と思うことが少なくありません。
「敢えて治らないように支援しているんでしょ」と思うことだってあります。
構造化にせよ、ABAにせよ、SSTにせよ、それを教える誰かの考えと意思によって、向かう方向とゴールが決められます。
本人の内側には、治るというゴールに向かって進もうとする力がある。
でも、それとは別の意思が働き、制限や転換が求められている。
それこそが、治さない支援であり、「治らない教」の実態だといえます。


治すべき課題やヌケは、本人が教えてくれます。
そして、実際に治していくのは本人であり、親御さんです。
そうなると、私の仕事は、治らない前提の支援を一度取っ払い、治るという視点から見てみましょう、と本人、親御さんにお話しすること。
それと、動き出しから確認できた課題とヌケを言語化すること。
たったこれだけです。
あとは、発達状況の確認と、治す方法の調整くらいなものです。


「大久保さんのおかげで治りました」と言われることもありますが、このように私はまったく治していないのです。
だから、「治る」を信じる人達は、本人の内側にある治る力を感じ、大切にできる人達。
「治る」を信じる人から、教祖様のような支援者が現れないのは、そのためです。
一方で「治らない教」の人達が、支援者や「障害は治りません」という他者の言葉を信じているのを見ると、それこそ、自分以外のものを崇め奉り、その人の意思によって行動が決められている一種の新興宗教のように見えてしまうのです。

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