2017年10月10日火曜日

聞きたいのは、エビデンスではなく、エピソード

親御さんは、エピソードトークが始まると、真剣な眼差しに変わり、一言も聞き逃さないようにと耳を傾けられます。
親御さんとお話しして感じるのが、我が子の話と同じくらい、またはそれ以上に、他人のエピソードを知りたがっていること。


我が子と似ている子が、どのように成長していったのか。
どういった取り組みをして、どのように変わっていったのか。
そして何よりも、治った人とその家族のエピソードを聞きたいと思われている。


この仕事をしていると、支援者側の人達から「論文を書いたら良い」と言われることがあります。
「支援級から通常学級へ転籍できた子のケースを」
「取り組みの結果、症状が治まった人のケースを」


確かに、助言をくれた人たちのように、論文を書くことは、治った人達の姿を多くの人達に知ってもらうための手段の一つだと思います。
それによって、新たな縁が生まれ、私がお手伝いできる人が増えたり、「治る」という道があることに気づいてもらえるかもしれません。
しかし、私は、そういった話を貰うたびに、嫌悪感しか出てこないのです。


私は『事例』という言葉が嫌いです。
事例研究、事例発表、事例検討…。
事例という言葉で表された瞬間、その人の命の躍動感を奪うような気がするのです。
大事な一人の人間が、情報の一つになってしまう。
その人の持つ主体性を、事例を扱う人間が奪っていくような気がしてならないのです。
事例の多くは、事例を扱う人間のための“道具”になる、とすら思っています。


私は、主体性のある、本人にとっても、家族にとっても、大切な“人”の支援をしています。
論文を書くために、事例として研究するために、おのれの立身出世のために、この仕事を始めたのではありません。
一人ひとりの人と真剣に向き合うために、この仕事を始めたのです。
だから、その一人ひとりを事例の一つとして情報にしてしまうことなどできません。
ましてや、「あなたを、あなたをお子さんを事例として論文を書かせてほしい」などという言葉は私の内側から生まれてはきません。


論文を書くというのは、エビデンスを示すための方法でしょう。
でも、親御さん達が聞きたいのは、エビデンスがあるという情報ではなく、その人の息吹を感じられるエピソード。
だから、私はエピソードを大切にします。
エピソードを伝えることは、人と人とを繋げること。
成長する姿、治った姿、社会の中で資質を活かしながら生きる姿は、本人の目標になり、希望となる。


他人の子のエピソードですが、感動して涙を流す親御さんもいます。
また、違うご家庭でエピソードを話させてもらったことを報告すると、「喜んでもらえたのなら良かった」と言われたり、その親御さんに「大丈夫だから」と伝えてね、「私も応援している」と伝えてね、とさらに伝言をもらうこともあります。
論文になったケース事例は、このような人と人とをつなぎ、人の心を感動させることはできないでしょう。
論文になって喜ぶのは、承認欲求を満たしたくて仕方がない人だけです。
だから、私は人の顔が見える範囲でエピソードをお話しします。


エビデンスがあるけれど、良くならないし、成長しないし、治らない。
そんな人が大きな顔をして支援者をやっている。
大きな顔に集まってくる親御さん、支援者というのは、ただその人の顔が大きくて目立つから集まってきているのでしょう。
結局、エビデンスなんか見ていない。
だから、彼らの発する言葉は、人を感動させない。
人の心を動かさないから、マニュアルを求め、マニュアルがないと何もできないのです。


論文を書いた方が多くの人に伝わるかもしれません。
でも、それはただの情報を拡散しただけに過ぎず、私のやりたい人の心が動くような発達援助ではありません。
だから今日も私は、人の心を動かせるような発達援助を目指します。

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