2017年11月29日水曜日

社会の中で学級会は行われません

学校のクラスの中でトラブルが起きれば、学級会などで話し合いの機会が設けられる。
最初から「クラスの仲間と仲良くする」というゴールが設定されていて、その終着地点に向かって、あーすれば良い、こーすれば良いと進んでいく。
そういった様子を見て、「クダラナイ」と傍観している子がいれば、「〇〇くんは、どうしたら良いと思う?」などと指名されたりする。
ゴールは決まっているし、「全員でそのゴールまで向かう」というルールも決まっている。
全員一致で、「みんな仲良く!はい、おしまい、ジャンジャン」が学校の文化。


小学校の低学年くらいは、本気で「クラスのみんなと仲良くするにはどうしたらよいだろうか?」と考えますが、学年が上がるにつれて、自分たちが求められているゴールが決まっていることに気が付いてきます。
だから、高学年子たちは、早くゴールまで到達しようと阿吽の呼吸で、みんなが模範解答を述べるようになります。
同時に、めんどくさくなりそうな子とは、最初から距離を置こうと思うし、上辺だけ仲良いふりをし始めます。
これが学校という文化の中で適応する方法だから。
私はというと、同級生よりは早い段階で、この学校ルールに気が付いていました。
何故、そう言えるのかというと、学級会が始まった時点で答えが決まっているのに、「どうしてみんなはクドクドと回り道する発言をするのだろうか」と思っていたからです。
ズバッと模範解答を言って、早く終わらせようとしてばかりいる子でした。


社会人になって、すぐに福祉施設で働き始めました。
職員に人権のない職場ではありましたが、職員同士仲が良く、職員間で悪口を言うようなことはなかったです。
しかし退職して、学校で働き始めると、同僚の悪口ばかりで、その違いに驚きました。
でも、一緒に授業をしたり、会議をしたりする場では、そんなそぶりは見せず、むしろお互い信頼しきっている仲間のように振る舞っているのです。
学校の文化なんて、とうの昔に必要がなくなり、忘れていたことだけれども、まさか30になって思い出すとは思いもよらなかったです。
そして、あのとき、学校の先生が教えていた文化は、クラス内でうまく立ち振る舞うためのルールではなく、職員室でのルール、職場での適応の仕方を教えていたのだと思いました。


「嫌いな人とも仲良くする(振る舞う)」は、組織の中で必要なことなのかもしれません。
特に、自らの主体性を発揮しづらいような職場は。
小学校のクラスの担任が管理職に変わり、同級生が同僚に変わった感じです。


多くの方達が指摘されているように、自閉症の人達と学校の文化は相性が悪いといえます。
学校のルールと社会のルールが同じではないことに気が付かないことがあります。
学校で教わった文化を、年を重ねていっても引きずっている人が多いです。


学校の中では「みんな仲良く」が求められますが、社会の中ではそんなことは求められていません。
この部分で求められていることがあるとすれば、自分が嫌いな人の存在を否定しないこと。
好きな人と嫌いな人が同じくらいいて、その他圧倒的多数は自分が知らない人であり、好きでも嫌いでもない人。


久しぶりに啓発ネタを昨日、一昨日と書きましたら、普段の倍ほどアクセス数が上がりました。
もしかしたら、啓発熱心系の人達が、攻撃されないクローズのSNS上で慰め合っているのかもしれませんが、意外にも、私が書いたような事実を支援者から、家族から教えてもらっていない人、また気が付いていない人が多いのかもしれません。


その気が付いていない当事者の人が、気が付いていても敢えて伝えていない支援者が、もしくは学校の文化「みんな仲良く」が社会にも適応すると思ってしまっている支援者が、啓発活動に傾倒していくのだと思います。
ですから、啓発活動が実を結ばなくて、良く分からない方向へと向かってしまう。
良く見る啓発活動は、圧倒的多数の無関心な人達に向かって展開されています。
その中から好意的に思ってくれる人が出てくる確率は、宝くじにあたるようなものです。
世の中の圧倒的多数の人は、発達障害に特別の興味も、関心も、好意というか感情も持たないのです。
建物が青くなっていても「今日は何の日だろう?」と思う人はほとんどいなくて、せいぜい「青いな」「普段と違うかな」「いつもは何色だっけ」くらいしか思わないのです。


そして最悪なのが、嫌っている人にも近づいていこうとすること。
これは「話し合えば、最後には分かり合う」というようなお決まりの学級会パターンを引きずっている証拠。
嫌いな人はどこまでいっても嫌いであり、興味関心のない人は、いつまで経っても好意を向けてくれない。


社会の中には、いろんな人がいる。
自分と意見の合わない人、感情的に嫌いな人もいるけれども、その人の存在を否定しないでいる。
それが社会のルール。
こういった社会のルールを知っていれば、啓発活動というのは、発達障害に興味関心のある人、好意的な感情を持っている人に向けて行うのが良いのだといえます。
興味関心のある人に、よりよく知ってもらう。
好意的な感情を持つ人に、応援者になってもらう…。
まさに今、私は上杉謙信の心情です。
まあ、すぐに塩は捨てられそうですけどー。


もし当事者の方で、このブログをご覧になっていたとしたら、学校のルールが社会に当てはまらないこと、違いがあることを知っていただきたいと思います。
また、こういった真実を教えていない親御さんがいらっしゃいましたら、子どもさんにも明確に伝えられた方が良いと思います。
学校文化に引きずられて、それが足かせとなり、うまく社会に出ていけない、適応していけない成人の方たちがいますので。
支援者は担任の先生ではありません。

2017年11月28日火曜日

啓発が進めば、分断が進む

ある啓発活動に熱心な当事者の人に、「一般の人の理解が進めば進むほど、発達障害の人と関わろうとする人と、関わりたくないと思う人とがはっきり分かれてくる」というお話をしました。
理解が広がっていくからこそ、分断される。
これは当然のことです。
「理解する」と「受け入れる」はイコールではありません。
理解したからこそ、近づきたくないと思う人もいるのです。


よく「自分たちが子どもの頃も、発達障害の人はいた。今振り返れば、クラスのあの子がそうかもしれない」という話をする人がいます。
そして決まって、「その頃は、そういう子も一緒に遊んでいたし、受け入れられていた」と続き、「今の社会は、寛容さがなくなっている」などと展開されます。
で、オチが「少数派の人たちが生きやすくなるような社会を目指す」…。
こういったお決まりの話が、発達障害の人達の誤学習の元になるのでしょう。


啓発活動に熱心な当事者の人の多くは、「理解=受け入れられる」という誤学習をしているように感じます。
ですから、なおのこと、その人の周りで一緒に活動している支援者に嫌悪感を抱きます。
何故、真実を教えないのだろうか、と。


特に自閉症の人は、見えないものを想像することが苦手であり、物事を一つの側面でしか捉えられないことがあります。
だからこそ、支援者という仕事があって、その見えない部分、見落としている側面を伝えるのが役割のはずです。
それなのに、「理解=受け入れる」とは限らない、という定型発達の人がすぐに気がつくであろう真実を伝えずにいる。
私には、敢えて真実を伝えていないようにも見えます。
「新規の顧客開拓には、当事者を使うのが一番だ」
そんな薄汚い考えが透けて見えることもあるのです。


啓発活動の壇上に上がる当事者の人で、「仕事は充実してるし、お金もあって、恋人もいて、今度の正月休みは海外旅行に行きます!人生サイコーだぜ~~~」みたいな人はいません。
というか、そういう人にはオファーはいきません。
みんな生きづらい人ばかり。
というか、生きづらいからこそ、理解が進めば、受け入れられると信じているのだといえます。


そう、生きづらいからこそ、今の生活が充実していないからこそ、啓発活動に傾倒していくのです。
だからこそ、再三言うようですが、この誤学習を解くために、理解が進むからこそ、離れていく人もいるし、嫌だと思う人もいる、という真実を伝える必要があると思います。
そして、今、その人が置かれている状況、啓発活動にしかエネルギーを向けられない状況を改善すべく最優先で支援していかなければならないのです。
今、生きづらい人には、啓発活動ではなく、その生きづらさを改善する直接的な支援が必要です。


学校や職場の中でトラブルが起きたり、自分が注意されたりすると、「勘違いされた」「ちゃんと理解してくれなかった」と憤る当事者の人もいます。
そして啓発活動の人と同じように、「もっと理解してもらわなきゃ」と言います。
確かに、知識の面で理解が足りない場合もあると思います。
しかし、知識があるから好きになるわけでも、優しく接してくれるわけでもありません。
好意的に思っている人は、おのずと知識を得ようとします。
ですから、障害を知ったうえで、あなたのことが好きではないのかもしれませんし、周囲の知識量以前の問題として、単純にその場で求められている基準に達していないのかもしれません。
こういった場合、いくら支援者が入り、特性や配慮事項の説明をしたとしても、溝は埋まるばかりか、却って離れていくのです。


好意的な人もいれば、嫌悪感を懐く人もいる。
そして、避けていく人、無関心の人もいる。
これが真の多様性のある社会の姿です。
どうも啓発活動を頑張れば、好意的な人ばかりの社会になる、またそうなることを願っているように見えます。
もし、本気でそう思っている、そう信じている人がいるとしたら、それは誤解です。
一緒に啓発活動をしている支援者が言わないのなら、私が言います。
啓発活動をするからこそ、避ける人も増えていくのです。


理解しない人、無関心な人が悪いのではなく、それが自然な成り行きなのです。
「理解しない人がまだいるから、もっと啓発活動を頑張らなきゃ」は、負のサイクルの兆候。
それでも啓発活動を頑張りたいというのなら、それはその人の人生です。
ただ私は、生きづらさを他人が、社会が解決してくれるとは思いません。
自分の生きづらさを解決するのは、その人自身だと考えています。

2017年11月27日月曜日

見えない障害を敢えて周囲から見えるようにしたいのは誰?

自分の障害をクローズで、仕事の面接に行く人は少なくありません。
そして受かり、そのまま仕事を続け、社会の中で生活している人達がいます。
一方、自分の障害を相手先に伝え、支援者が入り、配慮事項を確認したうえで面接を受ける人もいます。
で、そういう人は、クローズの人とは異なり、ほぼ100%障害者枠が決まっており、障害者として雇われます。
それなのに、なかなか仕事が続きません。
「支援があれば」といって、支援を増やしてきたのに。
「理解があれば」といって、啓発活動をしてきたのに。
あとは、何が足りないというのでしょうか??


成人の方達から多く訊かれるのが、この障害をオープンにするか、クローズにするか、ということです。
私は、オープンにした場合とクローズにした場合、どのようなことが起こりうるかを一緒に考えます。
すると、ほとんどの方が「クローズで面接を受ける」と言われます。
そのような様子を見て、みなさん、働きたいのであって、障害者として生きたいのではないと感じます。


自閉症やLD、ADHDなど、発達障害の人達は、「見えない障害」と言われています。
そんな「見えない障害」の人達のことを見えるようにしようとするのが、啓発活動に熱心な人達だと思います。
この熱心な人達を見ていますと、見えない障害を敢えて見えるようにすることのニーズは、どこにあるのだろうか、といつも疑問に思うのです。
本当に、発達障害の人達は、周囲から見えていない自分の障害を見えるようにしてほしいと願っているのでしょうか?
私にはそう思えないのです。


もし私に障害があったとして、周囲が気づいていないとしたら、そのまま気づかないままで良いですし、敢えて気づいてもらおうなどとは思いません。
周囲とのズレや困難があったとしても、周囲に気づいてもらうよりも、その困難を解決したい、それが一番の望みになるはずです。
困難があれば、その困難が解決できるのが一番ですし、就職できていなければ、就職できるよう努力したいし、努力の後押しをしてもらいたい。
これは、私が関わらせてもらった成人の方達の想いと同じだと思います。


つまり、就職するのにオープンにした方が良いと考える人は、オープンにしなければ、周囲の配慮がなければ、自分は就職できないし、この人は就職できないと考えているのでしょう。
自分の、また本人の可能性、成長する力を信じられていない人だといえます。
また、なにかあったとき、「障害があるから許してね」と言いたい人なんだと思います。
私が相談を受けた人達の中で、オープンにこだわる人は逃げ道を求める傾向が強かったといえます。
障害を一つの逃げ道のように使おうとする人は、どっちにしろ、仕事は続きません。


ギョーカイが行う啓発活動は、新規のお客様を開拓しているだけです。
本当に、本人たちのことを考えれば、そんな啓発活動をしている暇はなく、一人ひとりの困難を解決し、自立できるよう成長と発達を後押しするのに忙しいはずですから。
また、啓発活動に熱心な当事者の人というのは、障害者として見られたい人であり、障害も、困難も、現状も、すべてひっくるめて受け止めて欲しい人のように見えます。


自分の障害に気が付いていない人が、発達障害という存在を知り、自分を理解し、より良い未来へと歩んでいけるきっかけになるような啓発なら意味のあることだと思います。
しかし、ほとんどの啓発活動が、社会に向けて「発達障害の人をそのまま受け入れてほしい」という流れです。
そのまま受け入れて欲しいと考えているのは、ギョーカイと一部の当事者の人だと思います。
当事者の人の多くは、困難を解決したいのが一番であり、働けるのなら一般の人と同じように働きたいと望んでいると思います。
好き好んで、有期限で、低賃金、出世もなくて、責任ある仕事を任されない障害者枠で働きたいとは誰も思いません。
「障害者枠ではなくて、一般枠で働きたい」
「障害者枠で働く現状が悩みです」
「責任ある仕事がしたいです」
そのような悩みをおっしゃる方が多いですから。


見えない障害を敢えて周囲から見えるようにしたいのは誰でしょうか?
「障害がある」と周囲に見せたあと、治る道を進み、治ってしまうと、「偽物」「治ってはいない」「そんなはずはない」と言われる。
だったら、見えない障害と呼ばれる障害だからこそ、そのまま周囲に気づかれることなく、治る道を目指していけば良いのだと私は思います。
啓発活動は、障害が見えて欲しい人が中心になって行うものであって、すべての人の想いを代弁しているのではないのです。

2017年11月24日金曜日

関わってきた人の数が多くなれば、言葉が重くなる

学生時代、大学院の先輩が「私達は障害児教育のエリートなんだ」と言っていました。
障害児教育という専攻の課があり、そこで学べて、その免許、しかも1種免許が取れる大学で学んでいる。
だから、私達は障害児教育におけるエリートであり、リードしていかなければならないんだ。


「社会人経験がなく、狭い世界に籠っていると、人は妄想の中で都合の良い世界を作り上げるものなんだな~」
そのとき、私は思いました。
こういった生活は4年間で十分で、一日も早く社会に出たかった私は、他人とは違った職場を選び、そこでしかない実践と経験をしようと考えました。


相談支援をやっている人で、「なんか具体性がないな」「的のずれた発言しかできないな」と思うと、直接的な支援をやったことがない人だったり、限られた経験しかない人だったりします。
どんなに良いことを言っていたとしても、実践経験のなさは、その言葉の軽さとなって伝わってきます。


学生時代の院生のように、あたかも自分が特別支援を背負っているみたいな上から発言する人には、「今まで、何名くらいの方の支援、教育に携わってきましたか?」と言って、伸びた御鼻を折らせて頂くこともあります。
学校の先生だったとしても、担任し、直接関わる子どもの人数は、1年間で数名程度です。
ですから、20名、30名に対する教育の経験のみで、発言されている場合があります。
とても高い位置からご発言されているなと思った先生に訊いてみると、「普通級で3名の子の担任をしたことがある」という方に驚いたこともあります。


素晴らしい実践家の方は、やはりその数が違います。
特に発達障害と言われている方たちといいますか、人と関わる仕事をしている人は、どれだけ多くの方達と関わったかが問われます。
特別支援教育の先生は、仕事の性質上、何百人もの子ども達と直接関わることは難しいですが、その中でも重みを感じる発言ができる先生というのは、学校以外の場所でも、障害を持った人と関わっている場合が多いと感じます。
学校の中のみであるとか、施設の中のみであるとか、限られた場所で、限られた人としか関わっていない人からは、なかなか素晴らしい実践家は生まれないと思います。


親御さんに「どういった支援者が良い支援者と言えるか?」と質問されることがあります。
良い支援者を一言で表現することは難しく、本人によっても違いますので、なんとも言えませんが、次のようなお話はします。
「10名の手術をしたことのある医師と、100名の手術をしたことのある医師、どちらに手術してほしいでしょうか?」
その支援者のセンス、腕、考え方というのもありますが、関わった人の数が少ない支援者というのは、引き出しが少ない。
1名しか関わったことがなければ、その1名がその人の中の発達障害者になり、特別支援になる。
親御さんもそうですが、1名を深く知ることができますが、それだけでは職業人としての支援者にはなれません。


親御さんは、我が子1名を誰よりも深く知ることができれば、良いのだと思います。
しかし、我が子が将来、どのような成長を遂げ、大人になるか、人生を歩むかは、実際にそのときにならなければわかりません。
ですから、いろんな人と関わったことのある支援者を上手に利用する。
そのためにも、より多くの人と関わったことのある支援者を求めるのが良いのです。


私は、下は幼稚園に入る前のお子さんから、上は50代の方まで、幅広い人達と直接かかわる機会がありました。
そういった関わりの中で常に大事にしてきたことは、その人の“物語”をしっかり見て、記憶していくことです。
どれだけ自分の中にその人の物語を入れられるか、それが次に出会う人のためになる。
そう信じてきました。
私が直接関わる人同士がつながることはありませんが、その人の辿ってきた物語が誰かの物語とつながることはあります。


本人やご家族に、私が過去に出会ってきた方のお話をすることがあります。
そして、その物語が、本人の成長や意欲、家族の希望や目標としてつながっていくことがあります。
ですから、どれだけの人と関わってきたのかは重要だと思います。


優れた実践家は、圧倒的に関わってきた人の数が違います。
各地域に、素晴らしい実践家と呼ばれている人達がいると思いますが、その人がどういった仕事をしてきたのか、それこそ、その支援者の物語を知ることが、良い支援者、耳を傾けるべき支援者かどうかを教えてくれると思います。
お勉強すれば、誰でも素晴らしいアドバイスの一つや二つはできます。
でも、その言葉の重みが違うのです。
その重みを感じられるようになることが大事なのです。


ちなみに私は、1000名の方と直接関われて、やっと一人前になれると思っています。
まだ道半ばです(;´∀`)

2017年11月23日木曜日

「その当時、そんな道はなかった」

親御さんの多くは、「支援を受けることが、この子の成長と自立と生活のためにつながる」というところから出発されるように感じます。
親御さんご自身が経験してこなかった世界です。
知識を集めるところから始めなければなりません。
子ども時代にはなかった概念、サービス、選択肢なのですから、自分以外の“専門家”が必要で、どうにかしてくれる、助けてくれると思うのが自然だといえます。


この出発点は、皆さん、同じですが、徐々にそれぞれの道へと分かれていかれます。


まずは、そのまま突き進まれる方。
私はよく「支援の量と、お子さんの成長と自立と生活の質は比例するわけではない」と言っていますが、「いろんな支援を、より多く受けさせることが、この子の幸せになる」と思い、信じ続けられている方たちがいます。
今日は療育機関に行って、明日は病院に行き、支援ミーティングをやって、夜は余暇活動の準備で、週末は親の会、学習会…。
「我が子のためになんでもやりたい」という想いとエネルギーに共感いたしますが、家族全体が疲れて見えることが少なくありません。


また、お子さんが親御さんの想いほど伸びていない、むしろ、こんがらがっているということもあります。
その理由は、端的に言えば、子どもが見えていないから。
子どもの成長と状態を見て、その時々で取捨選択をしなければならないのにも関わらず、あれもこれもと集めることに終始ししてしまった結果、必要のあるものもないものもごちゃまぜ状態になり、子ども自身がこんがらがってしまっている。
支援者は、親御さんはお客様であり、いっぱい利用してくれることが有難いですから、「頑張ってますね、お母さん」「その想い、行動力に、私達の方が頭が下がります」なんておべんちゃらを言いますが、親御さんにそれを真に受けてしまう状況があり、真に受けて育て直す発達のヌケをお持ちなのだと思われます。
いつしか、我が子のために頑張っている親御さんが、頑張っている自分のためにいる親御さんに変わっているなんてこともあります。


支援に対し、疑問が芽生えてくると、分かれ道が出てきます。
このまま支援を受け続けても、希望していた将来に近づいていけない。
または、もう無理かもしれない、そもそもが無理だったかもしれない。
疑問が無念な思いと結びついてしまうと、その無念さが別の果てしない夢へと誘います。
「変わるのは、子ども達ではなく、社会の方なんだ」
発達の遅れ、障害を指摘されて一番に啓発活動に向かう親御さんは、ほとんどいません。
一生懸命、良い支援を、より良い成長を、と頑張ってこられた親御さんが、途中から啓発活動へとのめりこみ始める姿も見てきました。
どう考えても、社会を変えるより、我が子を変える方が確実な方法です。


支援の限界を悟ったとき、啓発には向かわず、「ありのまま」への道に進む方もいます。
「障害なんだから仕方ないんだろ」
特性も、誤学習も、未学習も、不適切な養育も、すべてみんな障害のせい。
そう考えることで、消化できない無念さを宙に浮かしているように見えることもあります。
最初から、親御さん自身に人として問題や課題のある方もいます。
しかし、「障害なんだから」という親としては投げやりな態度に、無念さの反動を感じることがあります。


「とにかく支援を受けることが必要だ」から、そのまま、特別支援の世界に突き進むか、途中で疑問に感じるかが分かれ道。
そして、特別支援に対する疑問から、啓発へと進むか、ありのままへと進むかが分かれ道。
以前は、大雑把に言って「特別支援に染まる」「啓発という現実逃避に向かう」「ありのままを求める」の3つの道で落ち着かれる方がほとんどだったように感じます。
でも、ここ数年で、この3つ以外の新たな道へと進む方が増えてきたと思います。
それが「治す道」です。


すでに成人されている方の親御さんとお話ししたとき、3つの道以外に、今は治る道があることを伝えました。
すると、「そんな道があることを知っていたら、絶対に治る道を選んでました。治る道が一番良いに決まっています」と、ぼろぼろと涙を流されました。
この親御さんは、特別支援の世界に対する疑問を持ちながらも、そのまま突き進んでいかれた方でした。


現在、社会の中で資質を活かし、自分らしく生きている発達のヌケや遅れがあった方達。
その当時、道はなかったけれど、自分の信念の元に子どもを育て、歩まれてきた親御さん達。
そして、全国で優れた実践を行われてきたプロフェッショナルの方達。
そういった方達が一歩ずつ足を下ろしてきた後に、新たな道ができたのだといえます。


狭い特別支援のムラの中のみに居場所を作るのではなく、
社会を変えるという果てしない夢を追うのではなく、
「ありのまま」を自分にも、他人にも、社会にも強要するのではなく、
発達のヌケや遅れを育て直し、治しやすいところから治していく道。
新しくできた道の存在を知り、そのあとを歩く人が増えていけば、道は固くなり、広くなっていくはずです。
私は、治る道を進もうとする人とともに、歩んでいこうと思いますし、子育てが始まったばかりの親御さん達に、純粋な親心のままで良い道があることを伝えていきたいと考えています。

2017年11月22日水曜日

突然の指摘に、迫りくる選択と手続きの中で

先月くらいから、以前、就学時健康診断について書いたブログのアクセスが増えています。
特に今月は、ほぼ毎日、誰かしらが読まれています。
この時期は、全国各地で行われているのでしょう。
先日、息子も就学時健康診断を受けてきました。
生まれてから同じ月日を過ごした子ども達ではありますが、この6年間をどう過ごしてきたのかが随所に表れていたように感じました。


私のブログに辿りつくということは、発達の遅れが指摘された子の親御さんが多いものと想像します。
実際に相談に来られる方たちの中にも、「就学時健康診断で指摘されて」という親御さんがいらっしゃいます。
どの親御さんも、我が子の障害を受け入れるかどうか以前に、初めて障害の存在を知り、そうかと思えば、選択を迫られています。
「支援学級を希望されますか?通常級を希望されますか?」
「お子さんの場合は、支援学級での教育が適していえます。つきましては、なるべく早く診断を受けに行ってください。医療機関で診断を受けたあとは…」
同じように、驚きと戸惑いと不安がごちゃ混ぜになった感情の中、ネット上に情報を求められた親御さんが、今日もどこかにいるのだと思います。


「障害についてわからない」
「どんな教育が良いのかわからない」
「障害を持った人の大人の姿がわからない」
みなさん、「わからないことだらけです」とおっしゃいますが、それは当然のことです。
翌年の4月から特別支援を受けるなら、すぐに動き出さなければなりませんから。
親御さんご自身の気持ちと向き合う暇はなく、やらねばならないこと、選択しなければならないことをこなしていくだけで、すぐに年が明け、入学の時期になってしまうのですから。


「障害を持った子は、放課後、児童デイに通うらしい」
そんな情報を得た親御さんは、いろいろと見学に行かなきゃ、申し込みをしなきゃ、とさらに自分の気持ちと向き合う時間を後ろにやり、翌年の4月に向けて突き進まれます。
当然、福祉の仕組み、特別支援の実態などを知る由もなく、支援を受けることが普通であり、良い支援を受けさせることが、この子にとって良いことになる、そんな思考を作り上げてしまいます。


突然の指摘に、迫りくる選択と手続き。
そんな中で、ゆっくり自分の気持ちと向き合う時間がないかもしれません。
でも、 ご自身の内側から湧き出てくる自然な感情と向き合うことが重要だと思います。
すると、親としてどうしたいのかが見えてくるはずです。
そして、与えられた選択肢以外の選択肢が見えてきます。


「障害を指摘されて、子どもが私の手から別のところに離れていった気がしました」
そんな風におっしゃった親御さんがいました。
これこそ危険なことなのです。
障害という未知のものと出会い、我が子が自分の経験した世界とは別の未知の世界へと歩みだすような感覚。
しかし、障害を指摘された前後で変わったのは親御さんの心情であって、その子自身ではありません。
「こんな風に成長してほしい」
「こんな大人になってほしい」
その気持ちのままで、子育てを続けられればよいのです。


障害があるから特別支援教育を受ける、支援サービスを受ける。
今は、それ以外の選択肢もあります。
発達に遅れがあるから、それに応じた教育、支援を受ける、だけではなく、発達に遅れがあるから、その遅れを育て直す、という選択肢もあるのです。
育て直しは、今日から、親御さんが家庭の中でできるものなのです。


「就学時健康診断で障害を指摘されました…」という親御さんに、「だったら、その発達のヌケ、遅れを育て直しましょう」とお話しすると、大変驚かれます。
そして、多くの親御さんが涙を流されます。
本当は、ご自身の自然な気持ちに添った選択肢がないものか探し、求めていたのだと思います。
突然の指摘に、迫りくる選択と手続きのときだからこそ、一度立ち止まって、本当に求めているものを選んでいただきたいです。
そのために私は、「治す」「治る」という選択肢があることをもっと発信していきたいと考えています。

2017年11月12日日曜日

障害者をメンドリに仕立てる土壌の正体

福祉施設で働いていたときも、支援学校で働いていたときも、同僚の人達は一生懸命で、「利用者、生徒のために頑張りたい」という人ばかりでした。
現場の職員の中に、「この子の障害は重いままで良い」「問題はそのままで、成長しない方が良い」と考えている人はいませんでした。
それは当たり前のことで、支援者は問題がなくて、自立的に生活できる人の方がラクですし、教員は子どもの成長を願う人が就く仕事ですから。


しかし、このように障害を持った人をメンドリにしようとは思っていない現場の職員たちも、知らず知らずのうちにメンドリ化の土壌を育みます。
それは、障害を持った人と関わる仕事を求める人の中には、身内に障害を持った人がいる人が多いこと、愛着障害を持った人が多いことが関係しています。
障害を持った身内(その多くは兄弟児)がいる職員と一緒に仕事をしていますと、どうしても手を貸し過ぎる傾向があります。
そういった様子からは、子ども時代、手を貸すことを求められ、また手を貸すことで家族から有難がられていた姿が見えます。
口では「自立」と言うものの、先に、先にと自然に動き過ぎることがあるため、結局、その人を自立から遠ざけてしまう、介護慣れさせてしまいます。


同様に、愛着障害を持った職員は、自分を頼ってくれる人がいることで自分の存在価値を感じようとする傾向がありますので、その子が自分の手から離れようとすると、急に気分が落ち込んだり、そうさせまいとしたりします。
ですから、これまた無意識のうちに自分の側にい続けてくれることを求め、結果的にメンドリとして籠の中に閉じ込めてしまうのです。


他にも、特に教員は、子どもが障害を持っているから自分が先生であり、その子が生徒になりますので、支援級から普通級へ転籍するのを嫌がったり、自分の力量不足や課題の多いクラスを受け持った場合には、一人ひとりに合わせて伸ばしていくよりも、その日一日を無事に終えられるよう学級適応を目指した指導になってしまったりすることもあります。
福祉の場合は、志を持って就職した人よりも、「仕事がなくて」や転職組が多いですから、もともと知識を持っていない、障害=介護だと思っている、問題なく静かにしててくれればよいと思っているなど、結果的に大人しいメンドリを求めて仕事をしてしまいます。


このように直接かかわる現場の職員は誰も最初から障害を持った人をメンドリにしようとは思っていませんが、結果的にメンドリを求めてしまう土壌があります。
一方で直接かかわらない管理職や相談職の人達は、意識の中にメンドリがあるように感じます。
それは個人の問題もありますが、それよりも制度の影響が大きいといえます。
より重い人により多くのお金が、利用回数に応じてお金が増えていく制度になっています。
成果は問われていませんし、数値として出る障害ではありませんので、支援者側のさじ加減で重くも、軽くもできてしまいます。
管理職は、ある意味、ブラック企業みたいな職場を任されていますので、どんどん自立させて、どんどん新しい人を受け入れるよりも、同じ人で、できるだけ大変じゃない人に長く利用してもらいたい。
だから、軽い人は重いように評価し、自立できそうな人は「もう少し支援が必要」と評価する。
同様に、相談職の人達も、猫も杓子も発達障害の時代で、一人が抱えている担当者数が多すぎる状況ですから、新規は受けたくないですし、一方で回数は稼がないといけませんので、同じ人を継続支援にしてしまう。


管理職や相談職の人というのは、もちろん、身内に障害を持った人がいる人も、愛着障害の人も、仕事がなくて&転職組も多いですが、それよりも制度からの影響で、メンドリ化しているように感じます。
猫も杓子も「発達障害」と診断するのも、「早期療育!」と言って早くから唾をつけておこうとするのも、治せないし良くならないから啓発活動、ライセンス活動に傾倒していくのも、愛着障害と制度が混ざりあった姿なのかもしれません。


特別支援の世界に入って15年くらいですが、最初から障害を持った人のことを「お金」としてしか見ていない職員はいませんでした。
むしろ、ほとんどの職員は良い人で、熱心な人ばかりでした。
しかし、良い人だからこそ、といいますか、良いだけの人が多いために、「障害者の楽園」みたいな方向に進みがちですし、都市部以外のところに支援校や福祉施設があることが多いので、村社会で、公共事業みたいになってしまう。
成果は評価に入らない制度が、「自立しない方が良い、お得」という価値観の形成を後押しし、愛着障害を持つ職員と合いなって多くのメンドリを育てる方へ向かうこととなります。


このことに気づかず、どっぷり支援の中に浸かってしまう親御さんは、いつの間にか、自立よりも、しっかり支援を受けられることを目指してしまいます。
結果として、支援者にとって良いメンドリになることが、良い人生につながると錯覚してしまうのです。
また、ずっと利用してもらいたい支援者側と、責任を持ちたくない、もうすべて任せてしまいたい親御さんが、同意の上でメンドリにしてしまうこともあります。


メンドリとして育った人は、他の誰かが食する卵を産むことはできますが、自らの羽で飛べることを忘れ、それができなくなってしまうのです。
ですから、特別支援の世界にはメンドリを育てる土壌があることを知ったうえで、本人、家族自らできることは行い、そして足りない部分、できない部分を教育、支援で育んでいくのがメンドリではなく、社会に羽ばたく人を育てることにつながると思います。


2017年11月10日金曜日

親御さんは、治ってほしいから早期療育に行く

幼い子の親御さんは、みなさん、「治る」を求めていらっしゃいます。
最初から「一生涯の支援」なんて求めてはいないのです。
改善ではなくて、治るが希望です。


「治したい」というのは親として当然の想いです。
そんな当然の想いをもって、早い時期から療育を求めていきます。
ですから、早期療育というのは、治したいという想いを持った親御さんが受けに行くものです。
しかし、早期療育をおこなう方は、親御さんと同じ想いを持ち併せてはいません。
むしろ、親御さんの希望とは正反対の方を向いているのです。


私のところにいらっしゃる親御さん同様、発達障害を治したいと思い、また治ることを期待して早期療育を受けに行きます。
幼い我が子を抱きかかえ、いろんな時間と引き換えに療育機関に行く。
そして辿りついた先が、期待していたもの、希望したものではなく、一生涯の支援コース。
障害があるのだから、より多く支援を受けることこそが、親にできることであり、この子の幸せにつながる…。
そんな風に囁き、特殊な価値観に誘導していくのです。


一生涯の支援が決まっているのなら、年端もいかない子を抱きかかえ、いろんなものを投げ打って、早期療育とやらに行くでしょうか?
親御さんは早期から療育を受ければ、症状は治っていくし、将来の自立につながると思っています。
それなのに、何をやるかと思えば、絵カードの使い方の練習、ごく限られた場所でしか意味をなさないSST…。
これって支援者が支援しやすいような“植え付け”を行っているだけでしょ。
早期から支援を入れておけば、あとあと支援がラクっていうのでしょ。
早い時期からメンドリにしておこうっていうのでしょ。


早期療育というのは、治す方を向いていないといけません。
支援導入期ではなくて、この子が生を受けたそのときから今までにやり残してきた発達のヌケを育て直す時期だと思います。
早期から発達のヌケを育てなおしてきた。
それでも埋まらないものがあれば、そこは上手に支援を受けながらより良く成長と生活の充実を目指していく。
それが自然な姿、流れだと思うのです。


幼い子の親御さんは、いろんな面で余裕がありません。
そんなとき、親なら誰でも思うし、願う「治る」だけをもって早期療育の扉を開けてしまいます。
扉を開けた瞬間から走りだし、気が付いて振り返ったときには、すでに扉が見えなくなっていた…そんな家族の姿も多く見てきました。
ですから私は、幼い子の親御さんとお会いすると、情報提供をしています。
福祉は慈善活動ではないことを。
支援者はマザーテレサではなく、普通の人間であり、労働者であることを。
そして、早期療育の中に「治す」という選択肢は用意されていないことを。
診断の扉を開けても、療育の扉を開けても、相談の扉を開けても、就労の扉を開けても、結局、建物の中ですべてつながっている。


現在、早期療育を受けてこなかった人の方が自立した人生を送っている、そんな状況が生まれているのです。
早期療育とは、早期から支援しやすい人、支援を受け続けてくれる人を作るために行われているものと言われても仕方がない状況です。
わざわざ余裕がない時期に受けに行くものではないのです、早期療育とは。
だって、療育する人間が一生涯支援が必要だって言っているのですから。
幼いときだからこそ、家でできる育て直し方があるのです。


一年前に書いたブログ→『そろそろ「早期療育」の結果が出る頃では?』

2017年11月1日水曜日

一回目の個別相談会を行いました

今日は一回目の個別相談会でした。
朝から断続的に雨が降り、自分の日頃の行いの悪さを恨んでいましたが、5組のご家族の方達に来ていただきました。
年代も、悩まれていることも、育てたいところも、皆さん、それぞれでしたが、「我が子のためにできることをしたい」「自分たちでしっかり育てたい」という強い想いを感じました。
このような強い想いを持ち続けていれば、子どもさんはより良く成長できると思いますし、このような親御さん達が増えていくことが、地域と社会を変えていくことにつながると思いました。


この相談会には、私のスケベ心があります。
相談にいらした方達の中から、実際の発達援助の利用につながれば良いと思い、またそれを目的としています。
個人事業主は、ボーと指をくわえて待っていれば仕事がやってくるわけはありませんので、いろいろな手段で、お客さんを獲得していかなければなりません。
そうやって試行錯誤しながら5年間、過ごしてきました。


しかし、この相談会にはビジネスの側面だけではない目的もあります。
それは土を耕すということです。
私は、この地域に「本人と家族主体の発達援助」という土壌を作っていきたいと考えています。
「福祉がどうにかしてくれる」「専門家に任せておけば安心」というような長年に渡って培われてきた土壌を変えたいのです。


もちろん、私一人にできることは限られていますし、一変させるような実力はありません。
相談会でも、親御さんのお話を聞いて、100%の答えをお返しすることはできません。
ですから、家庭でできる発達援助を“一緒に考える”というスタンスになります。
相談にいらした方が、診断された瞬間から延びる特別支援のエスカレーター以外の道があることを知ってもらえれば、一番の目的は達成だと考えています。


「そうか、発達の遅れやヌケは、家庭でも育てていけるんだ」
「発達障害は治しやすいところから治していく、治るものなんだ」
そのような事実を知ると、「治ってほしい」と自然な親心が、子どもの発達を後押しする力になると思います。
「発達障害は治らない」「一生支援を受け続ける必要がある」「怒ったり、頑張らせてはならない」「社会の理解があれば、生きやすくなる」そんな情報しかない状況が、本人と家族を迷わせ、誤った選択へと導くのです。


「ネットで見て、来ました」という方達がいました。
私の事業のホームページは、「函館 発達障害」でも、「函館 発達相談」でも、函館のあとに発達障害に関連するワードをいれれば、1ページ目に出るようになっています。
検索画面1ページ目に並ぶのは、10の選択肢。
どこを利用したいのか、どこを選ぶのかは、一人ひとりの考えと意思になります。


大事なのは、「治ってほしい」という自然な親心に、「治りたいんだ、治したいんだ」という自然な想いに沿った選択肢が存在すること。
そのために相談会を通して「本人と家族主体の発達援助」という土壌を作っていきたいと思っています。
そして、いつの日か、家庭で当たり前のように発達の遅れやヌケを育て直すようになり、それによって治っていく子ども達、若者たちが、地域の中で資質を活かしながら、より良い人生と社会のために生きていく。
そんなことを目指し、夢見ながら、本業の収穫だけではないことも行っていくつもりです。
次回は、11月15日(水)!