見えない障害を敢えて周囲から見えるようにしたいのは誰?

自分の障害をクローズで、仕事の面接に行く人は少なくありません。
そして受かり、そのまま仕事を続け、社会の中で生活している人達がいます。
一方、自分の障害を相手先に伝え、支援者が入り、配慮事項を確認したうえで面接を受ける人もいます。
で、そういう人は、クローズの人とは異なり、ほぼ100%障害者枠が決まっており、障害者として雇われます。
それなのに、なかなか仕事が続きません。
「支援があれば」といって、支援を増やしてきたのに。
「理解があれば」といって、啓発活動をしてきたのに。
あとは、何が足りないというのでしょうか??


成人の方達から多く訊かれるのが、この障害をオープンにするか、クローズにするか、ということです。
私は、オープンにした場合とクローズにした場合、どのようなことが起こりうるかを一緒に考えます。
すると、ほとんどの方が「クローズで面接を受ける」と言われます。
そのような様子を見て、みなさん、働きたいのであって、障害者として生きたいのではないと感じます。


自閉症やLD、ADHDなど、発達障害の人達は、「見えない障害」と言われています。
そんな「見えない障害」の人達のことを見えるようにしようとするのが、啓発活動に熱心な人達だと思います。
この熱心な人達を見ていますと、見えない障害を敢えて見えるようにすることのニーズは、どこにあるのだろうか、といつも疑問に思うのです。
本当に、発達障害の人達は、周囲から見えていない自分の障害を見えるようにしてほしいと願っているのでしょうか?
私にはそう思えないのです。


もし私に障害があったとして、周囲が気づいていないとしたら、そのまま気づかないままで良いですし、敢えて気づいてもらおうなどとは思いません。
周囲とのズレや困難があったとしても、周囲に気づいてもらうよりも、その困難を解決したい、それが一番の望みになるはずです。
困難があれば、その困難が解決できるのが一番ですし、就職できていなければ、就職できるよう努力したいし、努力の後押しをしてもらいたい。
これは、私が関わらせてもらった成人の方達の想いと同じだと思います。


つまり、就職するのにオープンにした方が良いと考える人は、オープンにしなければ、周囲の配慮がなければ、自分は就職できないし、この人は就職できないと考えているのでしょう。
自分の、また本人の可能性、成長する力を信じられていない人だといえます。
また、なにかあったとき、「障害があるから許してね」と言いたい人なんだと思います。
私が相談を受けた人達の中で、オープンにこだわる人は逃げ道を求める傾向が強かったといえます。
障害を一つの逃げ道のように使おうとする人は、どっちにしろ、仕事は続きません。


ギョーカイが行う啓発活動は、新規のお客様を開拓しているだけです。
本当に、本人たちのことを考えれば、そんな啓発活動をしている暇はなく、一人ひとりの困難を解決し、自立できるよう成長と発達を後押しするのに忙しいはずですから。
また、啓発活動に熱心な当事者の人というのは、障害者として見られたい人であり、障害も、困難も、現状も、すべてひっくるめて受け止めて欲しい人のように見えます。


自分の障害に気が付いていない人が、発達障害という存在を知り、自分を理解し、より良い未来へと歩んでいけるきっかけになるような啓発なら意味のあることだと思います。
しかし、ほとんどの啓発活動が、社会に向けて「発達障害の人をそのまま受け入れてほしい」という流れです。
そのまま受け入れて欲しいと考えているのは、ギョーカイと一部の当事者の人だと思います。
当事者の人の多くは、困難を解決したいのが一番であり、働けるのなら一般の人と同じように働きたいと望んでいると思います。
好き好んで、有期限で、低賃金、出世もなくて、責任ある仕事を任されない障害者枠で働きたいとは誰も思いません。
「障害者枠ではなくて、一般枠で働きたい」
「障害者枠で働く現状が悩みです」
「責任ある仕事がしたいです」
そのような悩みをおっしゃる方が多いですから。


見えない障害を敢えて周囲から見えるようにしたいのは誰でしょうか?
「障害がある」と周囲に見せたあと、治る道を進み、治ってしまうと、「偽物」「治ってはいない」「そんなはずはない」と言われる。
だったら、見えない障害と呼ばれる障害だからこそ、そのまま周囲に気づかれることなく、治る道を目指していけば良いのだと私は思います。
啓発活動は、障害が見えて欲しい人が中心になって行うものであって、すべての人の想いを代弁しているのではないのです。

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