2017年12月31日日曜日

2017年は新たな縁が生まれた一年でした

2017年を振り返りますと、新しい縁に恵まれた一年だったと思います。
特に函館以外の方たちからの電話やメールが多かったです。
そして就学前、小学校低学年の子が多かったです。


みなさん、地元の支援者から繰り返される、すでに我が子の将来が決まったかのような言葉に、態度に、雰囲気に、疑問を感じ、傷つき、悩まれていました。
「専門家が言うことだから」といって、自分の内側から湧き出る感情を必死に抑えようとしている親御さん達も大勢いました。


しかし、「本当に自分が感じることは間違っているのだろうか」「本当に子どもが発達、成長する方法はないのだろうか」という親御さん想いが行動となって表れ、ネットを通じて縁を生んだのだと思います。
地元の支援者は無理だというけれども、それは知らないだけか、自分にはできないと言っているだけ。
別の地域に目をむければ、子どもの発達を信じ、後押しする親御さんがいて、実践家もいるのです。


幼い子の親御さんからの相談が増えるたびに、そしていろいろな地域の方からくるたびに、発達障害を持つ子ども達の未来は明るいと思います。
今までは、地元の支援者が子どもを、若者を、大人たちをグルグル巻きしておけましたが、もうそうはできません。
いくら「一生涯支援が必要です」と言っても、発達のヌケを育てなおし、発達の遅れを取り戻している子がいて、親御さんがいます。
発達障害が治り、自分の持っている資質を自分のため、社会のために活かし前向きに生きている大人たちがいます。
そういった姿が、地元では見えなくても、ネットを通して感じることができる今、親御さんの内側から湧き出る我が子への想いを「それは間違っていない」と後押ししているのです。


世の中で偉そうに、また子どもの未来が自分にはわかるかのように語る支援者は、普通に大晦日を過ごし、明日以降、正月休みを過ごします。
でも、その間も、親御さんは我が子の発達を後押しすることができる。
子どもの発達にお正月休みはありません。
今日、この瞬間も、よりよく発達、成長しようという動きが、その子自身の内側にはあるのです。
ですから、信じるべき指針は、その子自身の中と、一番そばにいる親御さんの中にあります。


時代は変わり、若い世代の親御さん達は、支援が当たり前に存在する中で子育てをされます。
なかった、足りなかった時代の方たちと比べて、1つ1つの支援、1人ひとりの支援者をよく見て考えられているように感じます。
そして自分の想いに沿うような支援が身近になければ、他から探すという積極的な姿勢も見られます。
金太郎飴のようなどこを切っても結局は同じ支援で、同じゴールでは満たされません。
別の地域に行ったり、ネットで検索し、注文したりするのが当たり前の時代です。


2018年も、こういった地元の支援の枠を飛び出した親御さん達が我が子の発達を後押しし、全国にいる親御さん達を励ますのだと思います。
私もこういった親御さん達と共に歩んでまいります。
新しい縁があった皆様、本当にありがとうございました。
是非、今度はそれぞれの地元で、それぞれの方たちが新しい縁を結び、その地域をかえていってもらいたいと思います。
そういった動きが全国でどんどん生まれてくれば、これから生まれてくる発達障害を持った子ども達の未来が明るくなるはずです!
親心を諦めさせる支援ならいりません!
みなさま、良いお年をお迎えください。

2017年12月27日水曜日

福祉と保険は似ている

「保険をかける」と言うと、最初からうまくいかないことを想定しているようで、自分が傷つかないように逃げ道を作るみたいに使われたり、捉えられたりすることがあります。
でも、本来は「うまくいかなかったときに備えて、別の手段を用意する」という意味で、私は積極的な言葉として捉えています。
万が一が起きたとしても保険があるから安心できる。
別の手段があるから、目標に向かって思い切って行動することができる。
保険とは、人に安心感をもたらし、積極性を生むものだと考えています。


私は、福祉も保険のような存在だと思っています。
福祉があることで、本人も、家族も、安心して生活することができる。
安心が得られるからこそ、積極的に挑戦してみようと思うことができる。
それは同時に失敗を味わえること、存分に試行錯誤できることにもなる。
福祉の世界で働いていたとき、自分たちの存在意義は、いかに安心してもらえるかだと考えていました。
あのときはまだ措置制度でしたので、子どもを預けていく親御さんの寂しさの中に安堵した感情をみつけますと、そこに自分たちが頑張らなければ、という想いが湧き上がってきたものでした。


福祉に関する予算が減ったり、福祉施設に対する風当たりが強かったりします。
しかし、ただ単純に提供されているサービスだけではなく、見えないところで安心を得ることに、そして積極的な姿勢を生むことにもつながっていると思います。
福祉は、安心して生活するために、行動するために必要な存在です。
ただ間違ってはいけないのが、福祉は備えであって、目的ではないということです。


私自身、何かあれば、福祉が必要になるかもしれませんし、将来、年を取ったら福祉を利用する確率は高いと言えます。
でも、将来的に福祉を利用するからといって、最初から福祉を利用することを考えて生きているわけではありません。
これは発達障害の子ども達も同じではないかと思うのです。


学生時代、学校の先生が言う「どうせ卒業後は福祉だし」と、親御さんが言う「福祉の中でかわいがられる子にしたい」という言葉に、いつも嫌悪感を懐いていました。
どうして福祉が目的地になっているのだろうか。
どうして本人ではない人間が、福祉という道を選んでいるのだろうか。
そして施設職員だったときも、施設に入れて親としての役目は終わったというような種類の安堵感には反発心を持っていました。


「福祉に入ってゴール」という姿勢は、その子の可能性、選択肢を消しているように見えました。
本当にこの子は福祉がゴールなのか?
別の選択肢はなかったのか?
将来的に利用するだろうけれども、今じゃないのではないか、早すぎるのではないか?
そう思うこともしばしばありました。
そういった経験が「福祉は目的にはならない」という想いにつながっています。


福祉を目指した教育、福祉を意識した子育ては違うと思います。
症状が強く、困難が多い子の場合、福祉以外の選択肢が描けないこともあると思います。
でも、最初から福祉をゴールに設定してしまったら、どんどん積極性が失われていきます。
結果が見えているのなら挑戦や試行錯誤することよりも、「今楽しければいい」「今ラクな方がいい」に気持ちが流れていくのは自然なことなのかもしれません。


教育も、子育ても、その子の資質を伸ばし、磨いていくことが中心なはずです。
それには挑戦することや積極的に行動することが大事です。
そのために、安心という福祉の存在がある。
だけれども、今の特別支援は、福祉に安心ではなく、ゴールを求めている。
だから、積極性がどんどん失われていき、挙句の果てには、子どもに消化試合のような時間を過ごさせてしまっている。


保険を使うことが目的になってしまったら、保険の持つ本来の意味、役割が果たせなくなってしまいます。
「掛け捨ては持ったいない」
「もらえるものは貰いたい」
「だから、どうにかして保険金を貰おう」
そんな姿勢からは、人間の持つ力強さ、可能性が出てきません。
どんどん卑屈になり、どんどん卑怯になるばかりです。
そのようなことが特別支援の世界でも起っているように感じてなりません。


保険金をもらうために保険に入らないように、福祉に入るために教育、子育ては行わないはずです。
実態よりも、より重く、より困難に見せるのは、保険金詐欺と一緒です。

2017年12月26日火曜日

特別支援学校の波と、その正体

「特別支援学校化」なんて書くと、「特別支援学校がダメだと言うのか!」「そこが必要な子もいるんです!」という声がやってきます。
当然、特別支援学校という学びの場が必要な子がいて、そこで成長していく子もいるでしょう。
そして、その陰には、児童、生徒のために一生懸命教育をされている先生たちがいるはずです。


今となっては、仕事で関わらせてもらう方達は知的障害がない人やあっても軽度の人ばかりになりましたが、もともとは知的障害も、特性も、重い子ども達の支援を行っていましたし、強度行動障害と言われる行動障害の中でも特に症状が深刻な人達の支援を行ってきました。
日々の学びの場としての支援学校の重要性と必要性は、子どもや先生との関わりにより見てきたつもりです。


子ども達が学ぶことのできる学校には、普通学級、支援学級、特別支援学校の3つがあります。
それぞれの場に特徴があり、それぞれの場に目的、意義があります。
同じ支援学級でも、学校によって、それこそ、担任によっても大きく異なりますが、普通学級で学ぶか、支援学級で学ぶか、特別支援学校で学ぶか、はより大きな違いがあると感じています。
大きな違いというのは、その子の人生に大きな影響を及ぼすという意味です。
ですから、それぞれが独立しており、それぞれの場所で、それぞれの強みを活かした教育がなされるべきだと考えています。


私が懸念していることは、特別支援学校の波が支援学級、普通学級へ押し寄せていることです。
私が見てきた中では、支援学級は完全に支援学校化しています。
支援学校の縮小版が支援学級みたいな感じです。
当然、特別支援学校の良い部分は取り入れるべきでしょうが、通ってくる子ども達のニーズは特別支援学校とは違います。
支援学級だから学べること、支援学級だから育つこと、それを目的に子どもも、親も通っているのだと思います。


特別支援学校の波は、支援学級を飲みこみ、普通学級まで来ているような印象を受けます。
どの場でも、その子に合った教育は大切でしょう。
しかし、その子に合わせて周囲の環境が変えられてしまうこと、その子に合わせて周囲の子ども達が我慢や譲ることを続けるのは違うと思います。
その子にとっては苦手な環境でも、別の子にとっては適した環境ということもあります。
その子が快適な学校生活が送れたとしても、別の子にとって苦痛になってはなりません。
お互いが歩み寄り、妥協点を見つけていくことは基本であって、大事なことですが、「ASDの子にとっては、これくらいしなきゃダメなんです!」という具合に特別支援学校基準で迫っていくのは、普通学級で学ぶ子ども達、誰にとっても良くないことだと思います。


全国には、「私の地域は違う!」というところもあるでしょう。
でも、敢えて私の印象を書きます。
特別支援の考え方、そこで培われてきたものは、どんな場所でも活かすべきだと思います。
でも、あまりにも「特別支援」が前面に出過ぎて、支援学級も、普通学級も、その特徴や目的、意義を見失うくらい波に飲みこまれてきている。
今、特別支援学校も、支援学級も、大きな違いがなくなってきてるように感じます。
具体的な教育の内容もそうですが、進路、それこそ、卒業後の生活においてです。


本当は、支援学級で学んだ子ども達が大人になったとき、もっと障害者雇用枠で働く人がいて、もっと一般就労する人がいて良いはずです。
しかし現実は、福祉事業所だったり、無職だったりします。
普通学級というか、大学にまで進学した人までもが、そういったところを利用している。


私は、普通学級、支援学級、特別支援学校、それぞれで学ぶことが違うように、進路も違ってくるのが自然だと考えています。
それぞれの場で、より良く学び、成長することが最も重要なことだと思います。
でも、それぞれの場の特色が消されてくると、障害を持っている子は皆、「特別支援」という一括りにされてしまう。
卒業後に違いが表れてこないとしたら、それぞれの学びの場の特徴が十分に活かされていないと言えます。


正直、卒業後の違いは、学校の違いではなく、家庭、親御さんの違いだと私は思います。
支援学校卒業で、今、一般就労している人は、幼少期から親御さんが頑張っていました。
大学まで行ったけれども、仕事に就いていない人、福祉事業所に通っている人は、やっぱり家庭でも特別支援でした。
学校の影響が小さくなるということは特色が失われつつある。
支援学校卒業の子達と進路が被ってくるとしたら、支援学校の波が浸食している…。


特別支援学校の波の正体は、福祉の波です。
かつては支援学校も、教育の場だった。
でも、完全に福祉の波に飲みこまれた。
「福祉でかわいがられる子をどう育てるか」「どうせ卒業後は福祉だし」
この波を支援学級、普通学級に及ばせてはなりません。
これが私がもっとも伝えたい「特別支援学校化」の意味なのです。

2017年12月25日月曜日

ある高等支援学校、現場の叫び

ある高等支援学校の先生が「もう辞めたい」と言っていました。
とてもじゃないけれど、授業ができる状態ではないそうです。
自分は何のために教壇に立っているのかわからなくなるくらいの状況とのことでした。


これが教師の経験、力量の問題だとしたら、「もう辞めたい」という発言に同情はできないでしょう。
しかし、私はその言葉に不憫な気持ちになりました。
まったく教科学習をしてこなかった、またはその力が全然ついていない生徒ばかり。
その一方で、関わりを多く求めてくる、良い関わりも、悪い関わりも。


小学校、中学校と支援学級で学んできた子ども達が、高校でも就職訓練だけではなく、より普通の高校のカリキュラムに近い形で学んでいきたいと思うことは自然なことであり、そういった希望に沿う学びの場が増えることは良いことだと思います。
普通高校には通えないけれど、特別支援学校は…という生徒のニーズに応えるべく、その中間に位置するような高校は増えてきています。
実際、どこの学校も、希望者、入学者が増えているそうです。


このような学校に入ってくる生徒たちの多くは、支援学級で学んできた子たちです。
支援学級ということですので、当然、教科学習もしてきたはず。
しかし、実態は基本的な学力が身についていない。
知的障害がない生徒もいますし、あっても軽度の子ばかりですので、まったく勉強ができない、身につかない子ということはありません。
じゃあ、どこに課題があるのか。


聞いた話ですし、実際に生徒を見たわけではないので、私が想像したことを書きます。
私が関わっている支援学級在籍の小学生、中学生に共通してみられるのが、学校で教科学習に力が入れられていないことが挙げられます。
その一方で、教師との関わりが強いというか、大人がキーになって動いている姿です。
同級生との関わり、集団での関わりへと発達しておらず、対教師、対大人で止まっている印象を受けることが多いです。
こういった子ども達が、普通高校と特別支援学校の中間に位置するような高等支援学校へと進んでいるのではないか。
そして、9年間で基礎的な学力を身に付けていないから、高校で授業をしても意味が分からない。
意味が分からないから授業を集中して受けられないし、少人数の中でより濃い先生との関わりをしてきたから、その関わりを高校の先生との間でもやろうとしているのではないか。
そう思うのです。


普通高校で学んでいくのは難しい。
支援学級在籍で通知表の評価がついていないので、普通高校を受験できない。
だけれども、まだまだ勉強がしたい。
そう思う生徒がいて、それを願う親御さんがいます。
実際に、教科学習をコツコツ積み重ねてきた子もいます。
しかし、そういう希望を持って進学した高校、そういった希望を叶えようとする社会と先生がいる中で、冒頭の学校のような授業が成り立たない状況が生まれている。
本当に残念なことです。
このままでは、支援学級が支援学校化したように、普通高校のカリキュラムに近い形の高等支援学校も支援学校と変わりがなくなってしまいます。


普通学級で学ぶのは難しかったけれども、しっかり9年間で学び、基礎的な学力、姿勢を身に付けている生徒が多ければ、そこまで大きな問題にはならないでしょう。
でも、実際は、しっかり学んできた生徒が一部。
これでは高い意識があっても、しっかり生徒を育てることができないと思います。
その無念さを冒頭の先生の言葉から感じました。


私は学校の基本は、教科学習であり、その力をしっかり養うのが一番の目的だと思います。
結局、小学校、中学校で、それができていなければ、新しい学び場ができたとしても、どんどん支援学校化していき、その先には教育ではなく、福祉化が待っているのだと思います。
「支援学級に在籍していた子にも、高校で教科を学ぶ機会を」という新しい芽は大切に育てていかなければなりません。
そのために私ができることは、しっかり学べるための発達援助であり、土台作りのお手伝い。
また、こういった実態を幼い子の親御さんに伝えていくことだと考えています。

2017年12月16日土曜日

『支援』という名の介護

『支援』という言葉は、支援者にとって便利な言葉で、親御さんにとっては厄介な言葉です。
支援者は子どもに関係することをやりさえすれば、「支援しました」と言うことができます。
そして親御さんは、我が子に何かしてもらうと「支援を受けた」と認識します。


親御さんの多くは、支援を受けたいと思っています。
その支援が何にかと言えば、子どもの発達や成長に対する支援です。
決して「ただ遊んでくれればいい」「ただ怪我がないように、見ててくれればいい」「ただお世話をしてくれればいい」と思っているわけではありません。
その支援に、学びや教育的な要素が入っていることを多くの親御さんは望んでいるはずです。
ですから、親御さんの思う『支援』とは、教育に近い支援です。


しかし、支援者が行っている支援、支援者が言う支援とは、必ずしも学びや教育的要素が入っているとは限りません。
むしろ支援者が「支援」と言うときには、介護に近いことが多いです。
彼らは何かを教えようとする際、「指導」という言葉を使います。
実際、自分たちがやっていることは介護なんだけれども、学齢期の子ども達や発達障害の人達に「介護」という言葉は使いづらい。
だから、便利な『支援』という言葉を使い、介護をしているのです。


子どもが部屋の隅で、一人で遊んでいる。
それを見守る支援者は、支援していると言う。
しかし、それは見ているだけで、教育的な要素はありません。
見守りという介護です。
パニックが起きたときに、静かな場所に誘導するのも、
トラブルが起きる前に刺激になりそうなものをすべて隠してしまうのも、
外での活動の際、本人が待たないように、事前にすべて手続きを終え、本人はただやるだけにしておくのも、
限りなく介護に近い支援だと思います。


構造化された支援というのも、実態は介護だというものもあります。
本人が迷うことがない完璧なスケジュールを組み立て、提示する。
本人は、それを見て、一日活動をこなしていく。
こうなると、それはスケジュールカードが行う声掛けであり、誘導になります。
スケジュールに選択や考える要素が入っていることや、時間の概念、自ら計画を立てる力を養うことへとつながっていることが大事です。


「〇〇はやってはいけません、バッテンです」「お友達と遊ぶときは、〇〇しましょう」という構造化。
これだって、それが提示されないとできないのなら、支援者が声がけ、指示しているのをただ視覚化しただけ、絵や文字にしただけにすぎません。
見えないルールを視覚化することにより、本人が理解できた。
そして、理解したことを身につけるところまでできて、その子の成長を支援したといえます。
つまり、構造化された支援も、本人の成長、発達に繋がっていないのなら、それは介護になるのです。


福祉リードで発展してきた当地の特別支援は、構造化された支援を好んで用います。
足りない人手を構造化に担ってもらえるからです。
構造化に介護をさせて、「支援しています、エッヘン」と口で言う。
ですから、『支援』という言葉は支援者にとって便利な言葉なのです。


支援者の言う「支援」とは、教育寄りの支援なのか、本人の発達と成長を後押しするものなのか。
はたまた教育的な要素が見当たらず、それは介護という言葉の言い換えなのか。
どちらの意味で、支援という言葉が使われているのか、親御さんには注視してもらいたいと思います。


親御さんは、ずっと発達と成長を後押ししてくれる、将来の自立につながる支援を受けてきたと思っていた。
しかし、実際は支援という名の介護だった。
それだと、本人の成長が乏しいばかりか、介護慣れした人間に育ってしまいかねません。
残念なことに、介護に近い支援をたくさん、それも早期から受け続けた結果、介護されないと生きていけない人になった方をたくさん見てきました。
長年培った介護慣れから脱するのは、相当難しいです。


親御さんも、子どもの頃から介護を望んでいたわけではありませんし、介護を受けさせてきたという認識はありませんでした。
ただ支援を受けてきた。
でも、その支援に発達、成長を促す要素は乏しく、本人が困らないように、転ばないように手とり足とりされていた…。


このように支援者の言う『支援』と、本人、親御さんが望む、イメージする『支援』とは違うことがあります。
現在行われている支援には、教育~福祉、自立~介護、社会~ギョーカイ、という具合に幅が相当あります。
ですから『支援』という言葉が出たとき、「支援」という言葉を使わなければ、何という言葉で表せるか、別の言葉を考える癖をつけてもらいたいと思います。

2017年12月15日金曜日

試行錯誤の中から、その子に合った方法が生まれる

「この子には、どんなことをやらせたら良いですか?」
発達のヌケを埋めるには、より良く成長するには、将来、自立するためには。
こういった質問をよく受けます。


子どもさんの雰囲気から、「〇〇をやったら良いな」なんて見えることもありますが、見えたものをそのまま伝えないようにしています。
特に、幼い子の親御さんには。
私のアイディアが合っているとも限りませんし、何よりも言われたことをそのままやってほしくないのです。


子どもが成長のために試行錯誤が必要なように、親御さんにも試行錯誤が必要だと思います。
支援者は、その子の人生の一部分にしか関われません。
しかし、親御さんは、その子が土台作りを行っている期間、一番傍で、一番長く関わる人になります。
ですから、子どもの変化に合わせて、その時々で良いと思う発達、成長の後押しができることが望まれます。
そのためには、親御さん自身が考え、実行できる力を養っていくことが大切です。


「どうして、そんなにポンポンと具体的なアイディアが浮かんでくるんですか?」
と訊かれることがあります。
そして、その言葉の裏には、「私にはできない」という雰囲気を感じます。
親御さんは、「専門家だから」「たくさん勉強しているから」などと思われているようですが、いくら勉強しても、知識を得ても、アイディアが浮かんでくるわけではありません。
やはり試行錯誤の結果だと思います。


私が、親御さんに唯一勝てることがあるとすれば、それは直接か関わってきた方の人数です。
年齢も、性別も、環境も、その人が持つ資質も、まったく異なる多くの人達と関わってきました。
それは、私の試行錯誤の歴史とも言えます。
本人が、親御さんが行ってきた試行錯誤をたくさん見させて頂きました。
ですから、直接的にも、間接的にも、多くの試行錯誤を経験してきましたので、アイディアが出てくるのです。
アイディアとは、まったく新しいものがポッと浮かんできたものではなく、経験の中からの組み合わせです。


親御さんは、私のように何百人もの方達の支援を経験する必要はありません。
他人の子のアイディア、具体的な方法を考える必要はないからです。
我が子の、特に土台を作る時期に、その子に合った発達援助ができれば良いのです。
そのためには、親御さん自身がいろいろと試行錯誤することが大事です。
試行錯誤した1つ1つが、お子さんにも、ご自身にも、成長の糧となります。


「我が子においては、他の誰よりも、私が一番試行錯誤をしてきた」
そういった経験と自信が、子どもの変化に合わせて、その時々でより良いアイディアと援助を生むのだと思います。
子ども時代、土台作りの時期、その重要な役割を担っているのは、他の誰でもなく、親御さんです。
「どんなことをしたら良いかわからない」というのは、ただ単に試行錯誤が足りないだけです。


親御さんが試行錯誤した結果、良い発達援助ができ、お子さんがよりよく成長できることが一番です。
でも、極端なことを言えば、結果が出ても、出なくても良いと私は思うのです。
子どもにとって、自分の親が一生懸命試行錯誤をしてくれた、一緒に成長しようと歩んでくれた、そのこと自体に価値があるのだと思います。
みんながみんな、伸びやかに、まっすぐに成長できるわけではありません。
回り道することもあれば、望んだ結果が出ないこともある。
しかし、子ども時代、一緒になって頑張ってくれたという想いは、大人になってからもずっと子どもの中に残り続けるはずです。


そういった想いが、ある意味、思い出がある人と、そうではない人との違いは小さくありません。
だからこそ、特に幼い子を持つ親御さんには、たくさん試行錯誤をしてもらいたいですし、借り物の子育て、療育に慣れて欲しくはないと思うのです。
自分が考えた方法が子どもに合わなければ、別の方法に変えればよいだけです。
もしかしたら、今、合わなくても、別のときに合うようになるかもしれません。
1つの試行錯誤は、1つの財産です。
それは次のアイディアにつながる財産であり、子どもの内側に思い出となって残っていく財産です。

2017年12月14日木曜日

その子に合った子育てをされている親御さんに共通してみられる子ども時代の雰囲気

お子さんの発達を上手に後押しできている親御さんというのは、先生から好かれるようなタイプじゃないことが多いような気がいます。
それは教室内で問題を起こす子という意味ではなく、先生の言ったことをうんうんと素直に受け取る子ではないという意味です。
反対に、先生のことをうんうんと素直に受け取り、従順な生徒のような雰囲気を持つ親御さんは、親子共々躓いていることが多いと感じます。


よく冗談で、「連れションに行くような人には、発達援助は難しい」と言っています。
つまり、自分よりも、他人に合わせて行動してしまうような人は、その子に合わせた発達援助ができないという意味です。
「お友達が通っているから、あそこの児童デイに通わせよう」などという親御さんの子は、まず伸びません。
隣の〇〇君が良かった方法が、自分の子には発達を妨げる可能性もあるからです。
自分の目や耳で良し悪しを感じなければなりませんし、「この部分を伸ばしてほしいから」というような目的がなければなりません。
ママ友でも、支援者でも、他人に委ねてしまう人はマズイです。


子育て中には、ママ友の話、同級生の様子、先生や支援者からの言葉、ネットなどからの情報などが次々にやってきます。
しかし、その1つ1つを真に受けていては、我が子に合った子育てはできません。
そうです、学校の教室のように、先生の話は1つの考え、意見くらいの認識でなければなりません。
すべて参考意見であって、採用するしないは、自分の頭で考え、判断する必要があります。
それができなければ、自分の子に合ったオリジナルの子育てはできません。
いつまで経っても、借り物の子育てをやっていては、発達も、成長も、伸びやかに進んでいかないのです。


子ども時代、教室で従順だった親御さんは、特定の支援者、療育にハマりやすい気がします。
あたかも学校の授業のように、教科書に沿って、先生の言うことをしっかり聞いていれば、良い点数がとれると思っている。
しかし、子育てに、発達援助に、教科書はありません。
隣の席の子と同じようなことをやっていても、うまくいかないのです。
子ども時代の担任の先生のように、支援者に対し、答えを言ってくれる人、言う通りにしていれば褒めてくれる人と思ってはいけません。


一人として、同じ発達の過去、現在、未来を持つ人はいません。
特に発達が凸凹している子は、一人ひとりの違いが大きい。
そういった子を育てるには、どれだけオリジナルな子育て、発達援助ができるかが重要になってきます。
ですから、親御さん自身にしっかりとした軸がなければなりません。
軸があるから、他人の意見を判断し、取捨選択することができる。
そういった取捨選択の積み重ねの中から、我が子に合ったオリジナルな方法が生まれてくるのだと思います。


言われたことに従順で、優等生な雰囲気を醸し出す親御さんは、子育てに悩まれていることが多いです。
それよりも「我が道を行く」というような雰囲気の親御さんは、上手に子育てをされている。
子どもの担任の先生や支援者たちから、あまりよく思われない親御さんの方が、良い子育てをされているのは、親御さん自身が従順な優等生タイプの子ではなかったからかもしれませんね。

2017年12月13日水曜日

我が子の発達、成長に再現性は必要なし

エビデンスのある療育をやっているはずなのに効果が見られないというのは、よっぽど腕が悪いのだと思います。
エビデンスというのは科学的根拠があるということであり、科学というからには再現できることが重要だからです。
効果を再現させることができないとしたら、その人の腕か、そもそもエビデンスが得られたという研究自体に問題があるのでしょう。


専門家と言われる人達は、「何度も研修を受けて、しっかり知識と技能を習得できなければ、きちんとした効果が出ない」と言います。
これが真実だとしたら、専門家がいなくなってしまいます。
効果を出していない人ばかりなのですから。
また別の言い方をすれば、そこら辺の支援者がせっせとその療育をしても、親御さんが家庭で療育をしようとしても「無駄だ」と言っていることになります。
多くの人達が、効果を再現することのできない療育とは、本当に価値のある手段だと言えるのでしょうか。


その療育の免許を持っているような専門家ですら、ほとんどの人が発達障害の人達のことを根本から発達、成長させ、自立させることができていない現状があります。
エビデンスのある療育と言っても、効果は時間も、場所も、スキルも、限定的なのです。
それに効果を出すためには、エビデンスが得られたという研究がそうだったように、当事者の人達を研究用のマウスのような統制され環境の中、条件をコントロールする必要があるのです。
「効果を再現するには、実験室のような条件と環境が必要」というのなら、それこそ、家庭や学校では行うことができません。


私は、この世にエビデンスのある療育など無いと思っています。
何故なら、同じ人間は存在しないからです。
例え同じ人間であったとしても、同じ状態でいることはできません。
受精した瞬間から人は発達を始め、死ぬ瞬間まで変化し続けます。
ですから、エビデンスの元になった対象者だって、その瞬間は効果が得られたとしても、次の瞬間、また同様の方法で効果が得られるとは限らないのです。
刻一刻と変化を続けるヒトに対してエビデンスを得ることは不可能だといえます。
どこまでいっても再現したことにならないからです。


エビデンスがある、つまり、どこかの知らない人で得られた効果を、我が子に再現させることにこだわることはないと思いますし、ほとんどの場合、できるはずがありません。
その人と我が子は同じではないのですから。
それよりも、目の前にいる我が子に効果がある方法を見つけ、考えれば良いのだと思います。
親御さんも、この手間暇を省いてラクしようと、エビデンスというインスタントな方法に飛びつくから、うまくいかないのです。


我が子の成長に、再現性は必要ありません。
そのとき、そのときで考えた方法で、発達と成長を後押しできたら良いのです。
おのおのが試行錯誤するからこそ、効果が生まれるのだと、私は考えています。

2017年12月12日火曜日

試行錯誤を生じさせない診断

「子どもが、診断を受けに行くことを拒んでいる」
「子どもが、自閉症と認めない」
このような話は、ずっと前からあって、今も時々、耳にします。


診断を受けるかどうか、診断名を受け入れるかどうかは、例え親であっても、他人がとやかくいう話ではありません。
本人がより良く生きるために、自分の意思で受けるものであり、受け入れるものだと思います。
それなのに、他人が本人の主体性を奪おうとするからトラブルが生じるのです。


今の世の中、ネットで調べれば、すぐに診断基準が出てきて、自分でも確認することができます。
極端なことを言えば、わざわざ病院に行って診断を受ける必要性はありません。
診断基準だって、脳波を取るとか、血液を採取するとかではなく、ぼやっとした性格占いみたいなものなのですから、自分で「自閉っぽいな」「ADHDっぽな」で良いのです、自分自身を知るだけなら。


結局、病院に行く、診断を受ける、というのは、公的なサービスを使うために必要なだけだといえます。
この公的なサービスも、本人が「この部分でサポートを受けたい」という意思があるのなら、トラブルは起きないでしょう。
本人と家族間でトラブルが起きる場合のほとんどは、家族が公的なサービスを受けさせたいと思っている。
もっと言えば、この子の子育ての主導権を、責任を自分たち以外に渡してしまいたい、という想いが滲み出てしまっている。
それを感じて、本人が「診断を受けること=諦めること」と捉える…。


「診断を受けたくない」という本人の言葉は、「自分の人生、諦めたくない」という言葉に聞こえることがあります。
診断を受けたあと、サポートを受けながら、より良い成長と生活が描けるのなら、このようなトラブルは少なくなるはずです。
しかし、不幸の垂れ流しを続けてきた一部の当事者と大部分のギョーカイのおかげも加わって、自閉症や発達障害が未来を遮断する言葉になってしまっています。
本来なら、自分の特性を知ることは、より良い未来を築くことへとつながっている。
自分を知るからこそ、より良い成長と明日に向かって選択ができます。
現在、病院で診断を受けることの第一の目的が、公的なサービスを受けるため、となっているのがおかしいのだと思います。


明日につながらない診断なら受けない方が良いと思います。
本人の中に試行錯誤が生まれないとしたら、それは未来の遮断、最期通告だといえます。
子どもが「病院に行かない」「障害を認めない」というのなら、本人は諦めを促されていると受け取っている可能性があります。


障害をその名の通り障害にしてしまっているのは、誰なのでしょうか?
障害ゆえの工夫、障害ゆえの試行錯誤。
これこそが、より良く生きるための診断だと考えます。
診断書がギョーカイへの通行手形、日本医師会の既得権益、そして子育ての免除になってはならないと、診断受ける受けないの話を耳にするたびに、私は思うのです。