2018年4月20日金曜日

成仏系支援者

懐かしい歌声が聞こえてくるなと思ったら、息子が熱心に『ゲゲゲの鬼太郎』を観ていました。
近頃、夕方に再放送がやっていて、毎日、そして時々怖がりながら観ています。
私が子ども時代に観ていた話の再放送なので懐かしくもあり、そういえば、同じように妖怪や幽霊はいるのかな?死んだら魂が抜けていくのかな?なんて真剣に考えていたような気がします。


その当時から、もう30年くらい経ちましたが、未だに妖怪や幽霊は見たことがありません。
でも、この仕事をするようになってから、成仏できずに彷徨っている幽霊みたいな人達に出会うことがありました。
成仏系支援者の存在ですね。


成仏系支援者というのは、一見すると熱心な人であり、正義感の強いような人物です。
自分の主義主張をしっかり持っていて、その実現のために世の中に訴えかけます。
行動力もあって、いわゆる“良いこと”を言うので、好印象を持たれ、一定の支持者が周りにはいます。
しかし、その周りにいる人達の入れ変わりは激しい。
その理由は「信じるものは救われる」だから。


成仏系支援者は、悲しい人、辛い人、過去に傷を負った人が好物です。
現在進行形で生きづらい人に対して、「私は、あなたの気持ちがわかります」「私は、あなたを全面的に受け入れます」と、手を差し伸べてきます。
当然、今、辛い人は、その差し伸べられた手を温かく感じ、つないでいきます。
それが周囲にいる人達の中心になります。


このように書くと、良い支援者じゃないか、優しい支援者じゃないか、と感じられると思います。
でも、その裏の顔が出る瞬間があるのです。
それは周りにいる人の辛さが和らぎ、弱々しい存在でなくなると、急に冷たくなることです。
また、その支援者の主張と違う意見を述べると、あれだけ優しく、すべて受け入れるような雰囲気が出ていたのに、頑なに同意しなくなるのです。
成仏系支援者は、雨が降ろうが、やりが降ろうが、決して自分の主義主張を変えることはありません。


ここに成仏系支援者と、私が思う素顔があります。
成仏系支援者は、自分の過去に、自分自身の内側に、行き場のなくなった想いを持っています。
分かりやすく言えば、コンプレックスであったり、過去の自分への後悔や惨めさ、特に子ども時代に負った心の傷があります。
そういった行き場のない想いをはらすために、支援者をやり、主義主張を行っている。
落語家の立川談志さんが「落語は人間の業の肯定」と言っていましたが、それに近い印象です。
「支援は自分の業の肯定である」といった感じで、自分の過去の行い、過去の後悔や惨めさ、傷を肯定するために支援をやっているように見えます。


ですから、自分と同じような弱々しさ、生きづらさを持っている人を見ると、手を差し伸べたくなる反面、自らの足でより良い未来へ進んでいく人には興味がない、または拒否感すらある。
結局、そういった支援者の根本には、自分自身への支援がありますので、生きづらい人を見ては、「そうだ、私の過去は間違っていなかった」と肯定感を感じる。
その一方で、過去と決別し、未来に向かって歩んでいく人からは、未だに決別できずに、成仏できない思いを持っている自分が否定されているように感じてしまう。
なので、周囲にいる人達は、現在進行形で生きづらい人か、過去と決別できずにいる人ばかりですし、当の支援者本人も、強い主張の反面、弱々しさ、生きづらさを漂わせています。


優しい言葉をかけてくれるし、受け入れてくれる広さを感じるのに、他人の意見、特に自分の主義主張に触れそうな意見に関しては、頑として受け入れない固さを感じる。
それは主義主張を固めることで、なんとか心のバランスを保っているからです。
もし揺らいでしまったら、決別できない想いが出てきてしまい自分自身が辛くなってしまうのです。


自分自身で決別できない、処理できない想いを持っていると、周囲や状況、環境を変えることで正当化しようとします。
それに、自分の想いを周囲にいる人達の代弁という形で解き放つこともあります。
たとえば、自分が子ども時代、学校や教師に対するネガティブな感情、出来事があり、大人になった今もそれを引きずって生きている。
そうすると、生きづらい子ども達に対して「原因は学校だ」とやり、学校が悪いところだから、今、あなたは苦しんでいるんだ、と主張する。
でも、これは、今の子ども達を守りたい、救いたいからの言動ではなくて、昔の自分に対して、「子ども時代、僕は苦しんだけれども、それは学校が悪いからだよ」と伝えているだけ。
ある意味、自己治療であり、それによって成仏させようとしているんですね。


自分が子ども時代、親から愛情を感じられなかった、また恨むようなこともあった。
でも、その親に直接想いを伝えることができなかったから、今の子どもを代わりに使って、原因のすべてを「親が悪い」にしちゃう人もいる。
反対に、自分自身が惨めだったと思いたくないから、認めたくないからこそ、親は愛情がなかったわけではない→愛情を持っていたけれども、できなかっただけ→それは社会が母親に冷たかったから、制度を整えていない国が悪いから、と主張する人もいる。


つまり、本来支援者というのは、目の前の子どもや親御さんの課題を解決し、より良い未来に歩んでいけるように後押しするのが仕事です。
ですから、どんな手段や選択、道を通ったとしても、より良くなれば、それが支援者にとっても喜びになるはずです。
でも、やっていることといったら、受容と主張のみ。
受容するのは、その人に重なって見える過去の自分に対する肯定であり、受け入れです。
主張するのは、未だに決別できない想いを、今、苦しんでいる人の口を使って解き放っているのであり、環境を変えたり、主張に同意してもらったりすることで、自分自身の過去は間違えではなかった、辛い思いをしたのは自分のせいじゃなかった、と納得しようとしているのです。


受容も、主張も、本来、当事者の方達、家族の方達が行うものだと思います。
それを率先して支援者の立場の人間がやっているのが、そもそも違和感を感じます。
支援者だったら、具体的なアドバイス、後押しをするのが仕事。
よっぽど精神的に参っていなければ、第三者の知らないおじさんやおばさんに受け入れてもらっても嬉しくはないはずです。
主張だって、どなたかの依頼があって主張しているのか。
治す支援者が、「治らないなんて間違っている」「治っていくのが自然です」とやるのなら分かりますが、何も直接的なプラスになる支援ができていないのに、主張するだけというのもおかしなことだと思います。
ですから、こういった支援者たちを見ると、当事者の方達のためではなく、自分のために支援者でいるのだと感じます。


みなさんの周りにもこういった支援者はいないでしょうか。
生きづらい人が好き、過去に傷を負っている人が好き。
具体的な支援ではなく、受容と主張だけ。
自分の主義主張に触れようとすると、激しく抵抗する。
そして何よりも、支援者の明るさ、やさしさ、行動力に無理が見え、時折、悲しさ、生きづらさを漂わせいる。


そういった支援者というのは、成仏系支援者かもしれません。
成仏系支援者は、自分の中にある成仏できない想いと過去を持っていて、それを肯定するために支援者でいる。
だからこそ、治せないし、そもそも他人を治すことを目的としていない。
「良いこと言っているし、優しいんだけれども、それだけ」という支援者の裏の顔は、他人の不幸、生きづらさを自分の主義主張のために使っている人かもしれません。
こういった支援者は、妖怪や幽霊よりも怖い存在に思えますね。

2018年4月17日火曜日

オーブンレンジに記されていた注意書き

朝ランが心地良い気候になりました。
ほのかな温かさを感じながら走る朝は気持ちが良いものです。
朝日を浴びて、身体を動かすと、一日元気に過ごせますし、ごはんがよりおいしく感じ、より深く眠ることができます。
私は、食べること、走ること、寝ることが好きなので、狩猟採集民の血が色濃く流れているのだと思います。


働いてお金を得ることは、おいしいご飯を食べるためであり、大事な人達と共にその時間を過ごすのが、何よりの至福の時だと感じています。
食べることが好きな私は、料理も好んで行っています。
何を作ろうかと考えるのが面白く、どうやったら効率よく、さらにおいしくなるか、思いを巡らせながら手を動かすのも面白いですね。
健康を考え、油を減らしたいと思っていますので、最近はよくオーブンレンジを使って調理しています。


オーブンの中の焼き具合をチェックするときに、初めて気がついたのですが、サイドに注意書きがありまして、そこには「技術のあるサービスマン以外の人は“絶対に”キャビネットを開けないでください」と太字で強調されて書かれてありました。
確かにむやみに開けると、危険があったり、壊してしまうかもしれません。
でも、その何で?は書かれておらず、すぐ下にはカスタマーサービスの連絡先が書かれていたのでした。


支援者の中には、家庭で起きた問題を「自分のところで支援してどうにかする」という人がいます。
もちろん、根本から発達を促し、発達のヌケを育て直そうとする場合には、そういった別の場所での支援や療育が結果的に家庭での問題解決へとつながることもあります。
でも、基本的には問題が起きた場所に問題があるから問題が起きるわけです。


いくら別の場所でのイライラや不満、疲れが溜まっていたとしても、その場所が本人にとって安定した場所であり、そこにいる人との関わりが心地良いものであったとしたら、問題までに発展しないはずです。
ですから、最優先に変えないといけないのは、その問題が起きた場所であり、そこにいる人。
それなのに「うちの支援機関に来なさい」というのは、自分で原因を探らず、対処せず、「とにかくカスタマーサービスへ」と言うのと同じように感じました。
「素人がやると危ないぞ」というのを醸し出しつつ、自分のところへ誘いだす感じです。


オーブンレンジならカスタマーサービスで治せるかもしれませんが、家庭で起きた問題は支援機関では治せません。
「一緒に協力して問題解決へ向かって頑張りましょう」というのはただの営業トーク。
本気で解決しようと思ったら、家に行って支援するし、ダメ出しもします。
でも、それはやらないから意味不明です。


意味不明と言えば、「家事のできるひきこもりを目指す」と言う支援者に支持者がいること。
まあ、支援者がこのようなことを言うのはわかります。
障害を持った人をめんどりにしたいだけ。
でも、この表現はストレート過ぎるというか、正直過ぎるというか、表現があからさま過ぎる。
他のギョーカイ人は、もう少しうまい表現を使うので、その意図がわからず、支持する人達もいるのがわかるのですが、どうしてこの言葉に共感できるのか、私には理解できないのです。


ひきこもりの人の中には、発達障害を持っている人もいて、実際に家族の相談にのらせてもらったりすると、「せめて家事ぐらいしてほしい」と言われる場合もあります。
また、ひきこもりとは言わないまでも、自立して生活できるくらいまでの仕事を行っておらず、趣味と家の手伝いをして暮らしている人もいます。
でも、彼らだって、最初から「家事のできるひきこもり」を目指していたわけではありませんし、本人も、家族も、今の状態のままで良いとは思っていません。
それは社会だって同じです。


いわゆる知的障害のない発達障害の人達、軽度と言われている人達を支援対象にしたのは、彼らに学ぶ機会を保障し、しっかり学び、自立して生きていけるような、将来の社会を担っていくような人に育ってほしいからです。
どこの社会、国が、皆が働いて納めた税金を家事のできるひきこもりになってほしいと使うというのでしょうか。
特別支援の理念だって、そうだったはずです。
それを国の制度、理念、社会のニーズをぶっ飛ばし、「家事のできるひきこもりを目指そう」などと言う人がいる。
そのこと自体が、そういう考え、思想を持った支援者がいるのはわかるけれども、私には到底理解できません。


さらに、それを支持する人達がいることは、ただただ驚くばかりです。
本当に、自分自身が、自分の子どもが、家事のできるひきこもりになることを目指し、願っているのでしょうか。
やむをえず、また、せめても、という状態の人がいるのも分かります。
でも、心身の状態が安定したら、きっとその先を目指すはずです。
もし本気で、家事のできるひきこもりを目指している本人、家族がいるとしたら、その先が見えないくらい辛い状態の本人や家族が、私の見ぬところに大勢いるということなのでしょう。
きっと、こういった発言を堂々とできる支援者の側には、その支援者が治せない人達で溢れているのだと想像します。


私は料理以外にも、家事全般行います。
掃除だって好きです。
でも、家事だけやって、ひきこもっていなさい、と言われれば、日々辛くなっていくのは明らかです。
私は大事に育てられ、多くの学ぶ機会を得ることができました。
世界や歴史から見れば、恵まれた国で、恵まれた時代に生きていると思います。
たとえ、秀でた能力はなかったとしても、自分に与えられた資質を世のため、人のために少しでも活かしたいと私は考えています。
それは、どんな人も同じであって、そういった想いは内側に存在しているのだと思います。


だからこそ、社会の願いに逆行するのも間違いですが、一人ひとりの想い、資質を否定し、他人がこうあるべきだなどと言うのは大きな間違いだと思います。
幼いときから、一生懸命しつけをし、家事を教えていくのは、将来、家事のできるひきこもりになってもらうためではありません。
その子が将来、より良く生きられるようになるためであり、そして自分の資質を開花させ、社会のために活かしてもらうためです。


問題が起きたら、すぐに助けを求めるのではなく、その場で考え、対処し、行動する。
それでも解決できないときに、専門家に支援を求める。
でも、そのときも、自分の主体性を奪ったり、自分や家族、社会の願いに反する支援をしたりする人は選んではなりません。
自分で問題や課題を解決し、より良い人生を歩むための後押しするのが支援者です。
「あなたの問題、課題、人生をすべて請け負います」という人には気を付けましょう。

2018年4月16日月曜日

「頑張り続けることに疲れました…」

「ずっと頑張り続けることに疲れました」
このような相談を受けることが少なくありません。
不登校やひきこもりの方に多いですね。
また親御さんでも、同じようなことを言う方がいます。


そもそも頑張るのは、自分のためですから疲れれば休んで、元気になったら再び頑張ればいい。
そこに自分の意思があるはずです。
何か目標達成のために、自分の未来を変えるために頑張るのは、心地良い疲れを運んできてくれると思います。
でも、どうも心地良く感じていない、それが辛さとつながっている。
ということは、自分のためではなく、他人のために頑張っている。


その他人が、一番近く、愛情が欲しい人なのは想像するのも難しくないと思います。
頑張る、頑張らないにかかわらず、存在をそのまま受け止めてもらった感覚に乏しい人は、このように頑張る姿を見せることで認めてもらおうと、もがきます。
そのもがき続けることに疲れたというのが、頑張り続けることに辛さを感じている人だといえます。
よく彼らは言います。
「頑張れない、頑張っていない今の状態の自分には価値がない」と。


本人側の背景として、発達の遅れやヌケがあったために、うまく愛着が育っていかなかった、そこにもヌケがあるという場合もあります。
でも、そういった子の親御さんを見ると、「それ何の役に立つの??」みたいな民間の資格を取ったり、ナントカコーディネーターと名乗っていたり、ギョーカイ活動に熱心だったりする。
「私達も輝かなくっちゃ」「輝いている私を見て見て」と言って、Facebookにキラキラ、モリモリ写真をあげているタイプ。
そういうときに、私は思うんです。
あー、親御さん自体が心の底に寒々しさを抱えているのねって。


今でにも、いろいろな方に紹介したり、プレゼントしたりしたのが、花風社さんから出版された『愛着障害は治りますか?』です(kindle版も出ました!)。
この本を読んでから、改めて過去を振り返ってみると、愛着形成に課題を抱えた人が多かったこと、そして今も出会う方達の中に多くこういった課題を持っている人が多いことに気が付きます。
自分を高めるために、またその知識、技能をひと様に活かすために、いろんな資格を習得される方もたくさんいると思います。
でも、そういった人達の中に、頑張ることで自分の存在を確かめている人がいることを感じます。
自分自身のために資格を取り、「私を見て見て」という姿に、自分の寂しさを隠すように高価な物、派手なもので着飾る姿が重なります。


本来、ボランティア活動とは、自分に満たされ感があり、自分に心身の余裕がある人が行うものだと思います。
だけれども、ボランティアをする人自体が苦しそうだったり、援助が必要な状況だったりする人がいます。
誰でも他人から認めてもらうことは嬉しいことではありますが、それが目的でボランティアに従事するのは、それも一種の自己治療なのでしょう。
「嫌だ嫌だ」と言いながらも、講演会のサクラになったり、青いお祭りのボランティアを続けたりするのは、それによって満たしたい何かがあるから。
正直、ボランティアする前に、もっと我が子と向き合った方が良いはずです、という方が少なくありません。
ある親御さんは、「青い光を見ると、現実逃避できるのかな(ブ)」と言っていました。


「頑張り続けないと自分の存在価値がない」と思いながら生きるとは、どんなに生きづらいことかと思います。
それでは疲れ果てて、成長云々以前に、生活するだけで辛いことでしょう。
だからこそ、愛着についても治していく必要があるのだと思います。
で、下手くそな支援者は、「頑張らなくて良いんだよ」「あなたが生きているだけで素晴らしい」とやっちゃうから、何も育たず、変わらず、生きづらいまま。


「ありのままを受け入れる」というのは、主語が親でも、支援者でもありません。
「ありのままでも存在していいんだ」という感覚を本人が持てること、そこまで育つことだと思います。
子育てに悩み、苦しむ親御さんがいるのは、子の成長がわからない、先が見えないだけではなく、「頑張り続けないと、母親として、いや自分自身の存在価値が掴めないから」というのもあると思います。


頑張り続けることに疲れた子のそばに、自分自身を認め、受け止めて欲しい親がいる。
そして弱い立場の人を利用し、自分自身が必要とされることで、愛着不全を治療している支援者がいる。
問題の長期化の背景には、このような三者三様の寒々しさが隠れていることが少なくないと思います。

2018年4月15日日曜日

嫌われることを厭わない親御さんは治している

昨日のブログの最後に、支援者の多くが嫌われるのを怖がる傾向があることを書きました。
それで、ふと思ったのですが、嫌われることを避けたり、怖がったりしている間は、治らないし、治せないということです。


ある程度の年齢、キャリアになって、仕事上、自分のことを嫌っている人がいない、というのは、「真剣に仕事しているの?」「自分なりの信念、哲学をもって仕事をしていないの?」と感じます。
でも、特別支援の世界に入ってから、嫌われないようにしている姿をよく見かけるようになりました。
効率の良い仕事をするよりも、質の高い仕事をするよりも、嫌われない方が大事??と思うような人も少なくありませんでした。
あとから、その背景に愛着形成の課題があることや、支援者という仕事自体に愛着障害の人が多いことが分かりましたが、それまではただただ理解不能、ここは学校か!?というツッコミでいっぱいでした。


支援者の多くに愛着障害があり、嫌われたくない、嫌われることが怖い、という考えがある。
だからこそ、彼らの行う支援、SSTが、いかに好かれるか、いかに嫌われないようにするか、というような方向になってしまう。
だから、治せないし、社会の中では生きづらいまま、理解されないままになります。


で、今日のメインはギョーカイ話ではないので、この辺にして、親御さんの中にもこういった嫌われたくない人、嫌われることが怖い人が多い気がします。
教師や支援者に言いたいことがあっても黙っている人。
でも、本人以外の人には、「〇〇ってダメだよね」なんて言う。
私にも言ってこられる人がいますが、「じゃあ、直接、その方とお話しされれば」「じゃあ、そこを止めれば」と言っています。
だって、何か違和感を持ったまま、問題点に気が付いているのに、子どもをそこに通わせているのは、そっちも問題ですから。
子どもの大事な育つ時期にベストが尽くせないのは、子どもの未来への影響が決して小さくありません。
子どもが成人したあと、「小学校のあの先生が悪かった」「あの支援者の対応が良くなかった」など、いつまで経っても言い続けている親御さんも見かけます。


子どものため、自立のためと思えば、おのずと身体が動き出すのが自然だと私は思います。
でも、その動き出す身体を止めるものがあるとすれば、自分自身の中にある「自分が行動したことで嫌われたらどうしよう」という不安だと感じます。
未だに驚き、理解できないのですが、ママ友の子が通っている児童デイに、自分の子も通わせようとする人がいること。
子ども同士が仲良しなのかもしれませんが、それでも課題や伸ばしたい部分は一人ひとり違います。
結果的に同じ施設ならわかりますが、最初から同じところを選択する。
そして問題があれば、「あの施設はー」とやるだけで、辞めて、別の選択をすることがない。
「みんなが通っているから、うちも児童デイに通わせる」
「あの医師のところに行っても、何の意味もないけれども、申請書のために通い続ける」
「〇〇センターとうまくやっておかないと、あとあと支援が利用できなくなるかもしれないから、手伝いや講演会に参加する」
というのも同じだと思います。
だって、その視点が、子どもではなく、親視点だから。


子どものことを最優先に考えたら、おのずと意見を言わなければならない場面は出てきますし、闘わなければならない場面も出てきます。
特に一人ひとりの発達に大きな違いのある子ども達ですから、一人別の道を歩んでいくこともあるでしょう。
「うちの子には、こういう方法が合ってたよ。やってみたら?」
「あそこの支援を受けたら、問題が解決したよ。相談してみたら?」
と言われても、「うちの子の今の課題は〇〇だから」というように、子ども中心の軸をぶらすことなく、受け入れない、同意しない、という意思を出すことも必要です。
そうでなければ、常に周囲に流され、子どもにブレブレの歩みを後押ししてしまうことにもなります。


子どもを一人の社会人として送りだした親御さん、子どもの課題を解決し、子どもが治っていく親御さんを見ると、周囲に流されない人であり、嫌われることを厭わない人が多い気がします。
治している親御さんというのは、他の親や支援者、学校などに敵がいるものです。
それは「我が子のためにきちんと闘ってこれた」という表れだと感じます。
ですから、私は治していることよりも、そういった親御さん達の姿勢に尊敬の念を抱くのです。


よく「親の私達自身のことも大切にしなきゃね~」と言って、集まっている人達がいます。
もちろん、親も人間ですから、息抜き、休むことも必要。
でも、子育て中は、子どもが最優先だと私は思います。
それが嫌なら、子どもを作らなきゃいいのです。
ある日、突然コウノトリが運んできたわけではないのですから、子ども自身に主体性、選択する力がつくまでは、子を最優先にし、親が責任をすべて負うのは当然のこと。
だからこそ、子どもの今と未来を守るために、親は闘う必要があるのだと思います。
それがヒトの子育ての姿。


子どもは不思議なもので、年齢や発達段階、障害の程度に関わらず、親が自分のことを優先して考えてくれているか、どうかはわかるものです。
それが親子の間での愛着、信頼を育んでいく。
嫌われることを厭わない親御さんの子どもさんを見ると、しっかり愛着と信頼が育っているのがわかります。
ですから、そういった子どもさん達は、主体性、自発性があり、自らの意思で選び、自分の人生を力強く歩んでいっているのだと思います。


敢えて嫌われる必要はありませんし、嫌われるかどうかは相手の感情次第ですが、親御さんのこういった姿勢が子どもの土台作りに大きな影響を与えているといえます。
闘わなければならない場面で、しっかり闘えることこそが、みんな仲良くSSTよりも、より良く生きること、真実の社会の姿を教えるのだと思います。
嫌われるのが怖いと、社会が必要以上に怖く見えてしまいますね。

2018年4月14日土曜日

1%の真実

特別支援や障害者福祉に批判的な意見を述べることが多いので、私のことを「よっぽど嫌っている人」「恨みがある人」「全否定している人」と思っている人がいます。
でも、誰にとっても有害なものであり、無くなってほしいものだとは思っていません。
そういった教育や支援が必要な人はいますし、そもそも必要な人、必要な時期に積極的に利用し、より良い成長、生活、人生へと繋げていけば良いと考えています。
入所施設で働いていたときも、いろんな批判を受けることがあるけれども、入所施設、福祉があることで救われる人もいる、必要な人もいる、と感じながら仕事をしていました。
今は治りたい人、治したい人達と共に歩んでいますが、特別支援、福祉は大切なものだと考えていますし、一緒に働いた仲間たちや同じ志を持った人達がたくさん教育、福祉にいるのも事実です。


じゃあ、なんで批判的な意見を述べるのか。
そもそも私は批判的な意見とは思っていなくて、真実を述べているだけ、情報提供しているだけ、という認識です。
また、ある側面だけの情報を伝えるのはフェアではなく、卑怯だと考えています。
特に、情報の裏を読み解くことが苦手で、そのまま信じてしまう傾向が強い方達、初めて出会う障害、特別支援という不安で、手探りで、情報を欲している家族の方達に向けてブログを書いていますので、内容によっては厳しく、ネガティブな感情につながるような内容でも、きちんと記そう、それこそが誠意である、という想いでいます。
真実を伝えると、相手がショックを受けるから、そこには触れないでおこう、良い面だけを伝えようとするのは、結局、その人のためにならず、自分自身が可愛いがための行為だと思うのです。


ギョーカイ(ギョーカイは否応なしに嫌いですし、潰した方が良いと思ってますが)、支援者が発信している内容を見ますと、「同じ話を聞いたことがあるな」と思うことがあります。
つまり、ギョーカイであっても、障害を持った人を自己治療、食い扶持のために利用している支援者であっても、中には自立する人もいるだろうし、幸せな生活を送っている人もいます。
だから、「支援があって良かった」「特別支援によって成長、自立した」というのは事実。
でも、そういった良かった事実の裏で、選択肢が狭まった人、生きづらいままの人がいませんか?と感じるのです。


特別支援、福祉が、誰かの人生を良い方向へ後押しできた面もあれば、その反対もある。
それなのに、「〇〇療法、サイコー」「一生涯の支援がより良い人生につながる」などとばかりやるから腹が立つ。
「治るなんて言う方がおかしい」も同じ。
実際、ギョーカイ人、支援者、医師に、「この子は一生福祉、支援が必要」「言葉は出ない」「勉強は無理」と言われた人達が、普通学級で学べるようになったり、進学したり、一般人として就労したりしている。
少なくとも、ギョーカイの支援を受けてきた人よりも、成長、自立、選択肢が増えた人が多い。
だから、そのことを言って何が悪いんだと思います。
むしろ、こうやって可能性を広げ、自分の人生を謳歌できている人の話を伝える方が、本人、親御さんにとって力になるはずです。


反対に、暗くなるような話、ネガティブな情報であったとしても、その情報を知ることによって、より主体的に、現実をみて、人生を、選択肢を考えられるようになると思います。
「厳しい話だったけれども、聞くことができてよかった」と言われる親御さんは少なくありません。
ネガティブな情報を知ることが、ネガティブな未来になることとは違います。


自分が関わってきた100人に1人、1000人に1人の話を、あたかも全員が全員、そうなるが如く言うのはおかしなこと。
「その話、いつの話ですか?」と尋ねると、「え~と、10年前」というようなこともある。
「それって、何人ぐらいがそうなったんですか?」と尋ねると、「1人ですが…」というようなこともある。


1%の真実を99%の真実のように述べるのは、どこの世界にもよくあることですが、過大広告に気が付きづらい人、藁をも縋る想いで情報を得たい人の前でやってはいけないと思います。
みんな、そういった人達と関わっているという自覚があるのに、騙すようなことをやるもんだから、より卑怯だと私は感じるのです。
ギョーカイがある一面だけの話をするから、1%の真実のみを伝えようとするから、私はより別の側面、真実があることも伝えようと思います。


意図が伝わらず、離れていった人、怒り、顰蹙を買った人もいます。
でも、私は真実を伝えること、いろんな角度から物事を捉えられるよう情報提供することは、真摯に向き合う姿勢だと考えています。
たとえ、結果として同じ選択肢、道を選ぶことになったとしても、知らないで選択するのと、知ったうえで選択するのは、全然違うはずです。


親御さんご自身ではなく、子どもさんの人生に関わる選択という場合もありますので、あらゆる情報を知ったうえで考え、選択し、歩んでいった貰いたいと思います。
「これを伝えると、かわいそうだから言わない」は、とっても失礼なことです。
かわいそうと思うのは、本人ではなく、自分自身であり、自分自身の価値観だから。
伝えたあと、自分がどう思われるか、嫌われるかは、コントロールできることでも、すべきことでもありません。
大事なことは、本人の主体性を尊重し、自らの意思で選択してもらうこと。
それこそが、本当の支援といえるのではないでしょうか。
まあ、嫌われるのが怖い支援者の多くには難しいでしょうがね(ブ)

2018年4月13日金曜日

なければ、無い方が良い対象を強引に正当化する

障害も、発達の遅れも、感覚過敏も、無いなら無い方が良いに決まっています。
それなのに、一部(?)の支援者と親御さんが強引に正当化し、美化しようとします。
「障害は個性です」「特性は活かしましょう」と支援者が言う。
「障害を持った子が生まれて、私の人生は素晴らしいものになった」と親御さんが言う。
きっと私がその人達の子どもだったら、「お前のために、私の人生があるんじゃない」と憤るはずです。
一般の感覚、社会の感覚と同じように「治してほしい」と願うはずです。


でも、時々、そういった困難を持った本人の中に、「私は障害があって良かった」「私は不登校を経験できてよかった」と言う人がいます。
もちろん、その困難を克服し、治し、自分の強みまで磨き上げられた人がそういうのなら分からなくもありません。
しかし、そういった人だって、困難の真っ只中では「どうにかしてほしい」「ラクになりたい」と思っていたはずですし、もう一度、その困難な状態に戻るかと言ったら、うんとは言わないでしょう。
結局、今、そう思えている、ということ。


で、だいたい無いなら無い方が良いものを「あって良かった」と言っている本人というのは、周りの人間に洗脳されている人であり、「あって良かった」と言ってなきゃやってらんね~という状況の人です。
無理やり不自然な価値観を生みだし、それを丸飲みしようとしている。
「ただでも苦しい状況なのに、そんなの丸飲みしてさらに苦しくない?」と私は率直に思いますし、それ以上、苦しまなくて良いでしょと思います。
やるべきことは、苦しい状況を丸飲みし、受け入れてしまうことではなく、その状況を打破し、苦しみから抜け出すこと。
それを手助けするのが、支援者であり、家族の存在だと思うのです。


それなのに、苦しむ本人以外の人間が自己満足のための価値観を植え付けようとする。
特に子どもに対して行う場合は、教育でも、支援でもなく、ただの洗脳。
「きみの障害は個性なんだよ」「否定するものではないんだよ」「良い面もたくさんあるんだよ」
素直な子どもがそのまま受け取ってしまったら、彼らの発達、成長する動き、エネルギーを削ぐことにならないでしょうか。
それに今、自分が感じている生きづらさに対して大人は何もしてくれない、そのままでいろというのは、子どもに無力感を持たせるものにならないかと思います。


いじめはダメだけれども、それをきっかけに学校に行けなくなった子どもに対して、「学校に行かないことは悪いことではない」「学校はきみを守ってくれない危険な場所」「学校に行かなくても、立派な大人になった人は大勢いる」というのも同じだと思います。
いじめは嫌だけれども、学校に行きたいと思っているかもしれない。
感覚過敏が治り、刺激の影響が少なくなれば、みんなと同じように学びたいと思っているかもしれない。
そういった想いを、大人側の想いやコンプレックスから生まれた価値観で覆い隠してはいけません。


啓発活動がうまくいかないのは、こういった一般的な感覚から外れた価値観を押し売りしてくるからです。
個人で、またギョーカイ内、限られた集団の中で、その特殊な価値観を持ち、満足しているのなら、私は何も言うことはありません。
しかし、往々にして、その特殊な価値観を受け入れない社会を「理解がない」と批判する。


「障害、発達の遅れを治そうとしています。でも、治るまでに時間がかかることや協力、配慮してもらいたいことがあるので、理解してください」と言われれば、「そうか、協力できることはしよう」という人も増えてくる。
だって、無い方が良いものを無くしていく、と言っているから。
反対に、「無い方が良いよな」「その状態はまずいよな」と思うことを、いくら熱心に、お金と労力をかけてやっても理解されません。
啓発活動をやればやるほど、離れていく人が多いのは、その価値観が受け入れられないからですし、押し売りされているように感じるからです。


よくナントカ会といって集まっている人達というのは、そういった特殊な価値観を受け入れられる空間を味わっている場合が多いと感じます。
啓発活動が熱心な地域ほど、ナントカ会が活発。
それは自分たちの価値観が受け入れられないという熱量を身内で集まって発散してバランスをとっているのでしょう。
そもそも本人の生きづらさ、困難が克服できているのなら、啓発も、ナントカ会も、ニーズがありません。


特殊な価値観を生みだし、それを受け入れようと努力する時間があるのなら、その生きづらさの根本をどうにかした方が何百倍も良いはずです。
生きづらい状況を、「これが私の人生だ」と受け入れるよりも、どうにか良くはならないだろうか、少しでもラクになるように動こう、と思う方がより良い人生につながると思います。
またそれが支援者の役目だと思います。
それを一緒になって、というか、支援者が率先して「生きづらさを受け入れよう」と言うのはおかしなことです。
教祖様になりたい支援者が洗脳し、治すだけの腕のない支援者がそれを隠すために方便を使う。
それが、無いなら無い方が良いものを「あってよかった」なのでしょう。


最後に、こういった内容を書くと、「障害者を否定するのか」「マイノリティー、苦しむ人を否定するのか」と息巻く人がいるものです。
こういった人は大概読解力がない人か、障害と自分がくっついてしまっている人。
障害=自分、困難=自分と思うのなら、それこそ、洗脳されている証拠であり、身体や感覚が育っていないのでしょう。
それか、自分という存在を与えられるものか、得たものでしか感じることができない人。
「頑張っている自分しか価値がない」「何もしていない自分はダメな存在」と、常に「何かしないと自分の存在が認められない、評価されない」という強迫観念を持った愛着障害の人なのでしょう。
自分と障害、困難とがちゃんと分かれていないと治せないですし、治すための一歩が踏み出せません。
「治すなんて差別だー」は、自分という輪郭が掴めていない人の特徴です。

2018年4月12日木曜日

良い支援という理想郷を求めて

「良い児童デイ、知っていますか?」と尋ねられると、私は「知りません」と答えます。
何故なら、良い児童デイなどは存在しないからです。
これは当地の児童デイがろくでもないと言っているのではなく、また児童デイという存在意義が見当たらないと言っているのではありません。
児童デイを利用することで伸びていく子ども達はいますし、中には課題を的確に把握し、そこに対して適切なアプローチができる支援者もいます。
つまり、「良いか、悪いか」と見ることがおかしいのだと思います。
良い児童デイ、施設ではなく、子どもに合っているか、合っていないかであり、もっと言えば、その時々の子どもの課題、伸ばしたいところを親御さんが理解したうえで、それに適切なアプローチができる場所か、どうかなのだと考えています。


児童デイに限らず、「良い施設は?」「良い支援者は?」などと表現する方達がいます。
しかし、こういった発言が出ている段階では、子どもさんを治すことは難しいといえます。
実際、私が接してきた限りでは、まずうまくいっていない。
どうしてかと言いますと、良い支援を求めている時点で、他者に委ねようと身体が動き出しており、また支援、子育てに正解があるように錯覚してしまっているからです。
もちろん、自分ができない部分を施設、支援者に頼ろうと積極的に動かれている親御さんも中にはいますが、多くの方は理想を探しに行こうとする雰囲気が漂っています。


「自分はまだ知らないけれど、自分の地域にはないけれども、理想の支援があり、理想的な地域がある」
そんなまだ見ぬ理想郷を求めて、厳しいようですが、彷徨っている親御さんは少なくないように感じます。
これはギョーカイのセールストーク、理想の支援があれば、理想的な地域があれば、子ども達の生活、未来は輝けるものになる、というのを素直に字義通りに受け取ってしまっている影響もあるのでしょう。
でも、はっきり言って、そんな理想的な支援、地域などは存在しません。
もしそのようなものがあれば、全国から人が殺到するでしょうし、国を挙げて公的なプログラム、制度にするでしょう。
そんな現実がないのが、何よりの証拠です。
むしろ、ギョーカイの言う理想的な支援を受け続けた人ほど、人生の選択肢が狭まり、自由を謳歌できずにいます。
ギョーカイの言う理想郷は、ギョーカイにとっての理想郷であり、自分たちの鳥かごのことを指しているのです。


理想的な支援とは、作り上げていくものだと私は考えています。
理想的な支援がどこかにあるのではなく、自分たちで作っていく。
それが子育てであり、自立していくことだと思います。
万能な支援がないように、万能な支援者などいません。
一人ひとりの発達は異なりますし、その時々で必要な刺激、援助が異なるからです。
また発達、成長は多様であり、他人が関われるのは全体ではなく、部分です。
そして何よりも大事なことが、発達、成長する主体は本人ということ。
どんなに優れた支援者であっても、発達、成長する主体を代わってあげることはできないのです。


私はよく「支援者は使い捨てにするもの」と言います。
私の支援、援助が必要なくなれば、バサッと捨ててもらって結構です、と伝えます。
つまり、私が援助できることは、部分的で、一時的だということ。
ですから、私が真面目に仕事をすれば、必ず必要がなくなるときがきますし、それまでの間、私が持っているものの中から、自分に活かせるものを抜きとって、今後の人生に持っていってもらえれば良いのです。
そういった本人が主体的で、自分に合った支援を作り上げていこうとする姿勢があれば、自然と受ける支援は“良いとこ取り”になるのです。
「この部分は、この施設」「この時期は、この支援者」という選択の積み重ねが、その子にとって理想的な支援を作ることになり、また私達が生きる社会を理想郷にすることができるのだと思います。


「良い児童デイ、知っていますか?」と尋ねている時点では、治ることも、治すこともできません。
「我が子の〇〇という部分を育てたい」「〇〇という課題をクリアする後押しがしたい」
そういった考え、親御さん自体にも主体性があった上での「良い児童デイ、知っていますか?」なら、私は全力で協力しようと思います。
先進地域と呼ばれていた場所が、軒並み残念な場所になっています。
全国からくる相談を聞くたびに、驚くような支援、私が学生だった頃の支援が展開され、また有難がっているその地域の人達がいるという現実を知るのです。


今、地域の中で、自分の資質を活かして働いている人、自分の人生の自由を謳歌できている人、そして治り、普通の人として学生生活、社会人生活を送っている人は、みなさん、理想郷を求めて辿りついた人ではなく、自分で理想の支援を作り上げ、その場を理想郷にした人です。
ですから私は一人でも多くの方達に、まだ見ぬ理想郷がどこかにあるのではなく、自分たちで作り上げていくものだと知ってもらいたいと思うのです。
特別支援に関して遅れていると言われている地域にも、治っている人がいます。
治そうと思えば、どこに住んでいても治していけるのです。

2018年4月11日水曜日

不適応行動の意味

今も使われているかはわかりませんが、『不適応行動』という言葉があります。
いわゆる問題行動の言い換えです。
「問題」という言葉が「本人の問題」「本人が問題」という雰囲気をもろに出しますので、本人と家族への忖度であり、環境調整を支援の中心に据える集団の中で用いられていた言葉ですから、「あなた(支援する側)の支援が悪い」と言いたいがために、そういった言い換えがあったのだと考えられます。


こういったギョーカイ内の論理はどーでも良い話なのですが、「適応」という視点を持つことは大事だといえます。


ヒトは環境に適応することで進化し、生き延びてきました。
未熟な脳、身体で生まれてくることが、その人類の歩みを表しているといえます。
もし、まったく環境に変化がない世界だとしたら、柔軟に適応するための余地など残さない身体で生まれてくるはずです。
環境に適応できなければ、生きることも、自分たちの種を残すこともできません。
つまり、ヒトは環境適応を念頭に形作られており、柔軟に適応できるために繁栄してきた生き物だと考えられます。


このように考えると、子どもの発達は「環境への適応」と見ることもできます。
身体の形や機能など、基礎的な部分は受け継ぎ決められたものといえますが、どのように感覚を発達させ、どのように動きを発達させ、どのように知能を発達させるかは、環境によるところが大きいと思います。
環境が、その人のある部分の発達を促したり、抑制したりすることで、変化をもたらす。
ですから、より良く生きるとは、より多く、より高度に発達、成長することではなく、より環境に適した形で発達、成長することだといえます。


発達障害を持つ子ども達は、感覚や動き、認知に不具合があります。
感覚面に辛さがある子は、感覚面で環境との不適応を起こしているといえます。
その辛さを無くす方法には、二通りあります。
環境を変えるか、その環境に適応できるように育てるかです。
多くの特別支援は、本人に合わせて環境を変えます。
辛くなる刺激を統制することで、その場に適応できるように支援します。


もちろん、辛い刺激を制限し、心身を安定させることは大事であり、必要なことです。
しかし、環境を変え続けていると、その人工的な環境への適応が始まります。
その環境が居心地よくなりますし、目や耳がその環境に適した形で発達します。
それが進んでいくと、特別な環境ではうまく生活できるけれども、いったん外に出ると不適応を起こすようになります。
それを見て支援者が「ほら、環境調整が大事だ」と言いますが、自然な環境ではなく、特別な環境へと適応させてしまったともいえるのです。


子どもの育ちに関わる人間は、子ども達の生きる環境、将来、生きていく環境を念頭に置かなければなりません。
何故なら、ヒトは環境に合わせて発達する特徴を持っているからです。
特別支援、特に環境調整型の支援の弊害は、人工的な環境が、人工的な発達をもたらすところにあります。
本来、特別支援とは、将来、子ども達が生きていく環境に適応できるように育て、支援することが役割です。
しかし、一般的な環境に適応できない、不適応を起こしている子ども達、発達段階の子ども達に対して、適応できる環境を用意することは、根本的な問題の解決にはなりません。
そればかりか、ますます特別な環境でしか生きられなくなる人を作ることになるのです。


特別支援が、より専門的で、マニアックになっていくほど、ますます一般的な環境、将来、生きていく環境に適応できなくなる。
特別支援に熱心になればなるほど、一般的な環境で生きづらくなり、自立が遠のいていくのは皮肉なことです。
ヒトの歩みを考えれば、生きていく環境で不適応を起こしているのなら、そこで適応していけるような発達を援助していくのが自然な流れだと私は思います。


環境調整した中で、不適応行動を起こす子どもがいます。
支援者から見れば、環境調整の仕方が悪いということになりますが、子どもの視点に立てば、この環境が合わないという訴えです。
家庭や地域、社会の中で不適応行動を減らしていく、適応できるように成長していくのが望ましいことであり、目指すべき姿なのです。
特別な環境の中のみで安定しているのを喜ぶのは支援者だけ。
特別な環境が居心地悪くなり、不適応を起こすのは、ある意味健全なことであり、自立へ向かって歩みだした表れです。


目の前にいる子は、どこで適応し、どこで不適応を起こしているでしょうか?
その場所によって、適応の意味、不適応の意味が違ってきます。
将来、子どもに生きていってほしい場所、環境に合わせて、子ども自身も、子どもの脳も、身体も、感覚も育てていくことが大事だと考えています。

2018年4月10日火曜日

特定の療育への傾倒が自立を遠ざけていく

「うちの子には、〇〇療法が合っているんです」と話す親御さんの横で、目が笑っていない子が立っていたりする。
特定の療育が話題の中心になると、熱量が高いのはいつも本人じゃない人。
熱量のバランスが崩れている親子、支援者と本人というのはよく見る姿であり、往々にして本人が伸び切れていない状況があります。
こういったとき、私は「特定の療育への傾倒は本人を救うものではない」と思うのです。


特定の療育への傾倒は、親を救い、支援者を助ける。
そんな風に私は感じます。
特定の療育に傾倒することで、親は主体性を預けることができます。
本来、子を育てるとは、試行錯誤、選択の連続です。
その試行錯誤、選択には、自分の中に軸がなければできません。
その軸を特定の療育に移譲することで、主体的に行動しなくて済むようになります。


主体性がなければ、ただただ特定の療育を信じ、求めるだけで良くなるのです。
そこにセンスや腕、責任などの個人が問われなくなる"間"ができます。
熱心さが唯一の価値基準になる。
ただ一心に求めるだけで、特定の療育を信じあう集団の中では、子ども想いの良い親として振る舞うことができる。
そして、その集団の中では、自分の居場所が確保され、生きやすくなる。


特定の療育だけで、すべてが万々歳、自立して生きていける、ということはありません。
その限界には、特定の療育を提供する支援者だって気が付いています。
何故なら、あまたある療育方法のほとんどが対処療法であり、対処の連続は真の意味での自立を生まないからです。
対処療法は、対処し続けることで、自立“的”な生活を送る、というのが目標になります。
私達がイメージする『自立』は、根本から育ち、治すことでしか達成されません。


本人の自立が中心でないとしたら、支援者の見る向きは親となります。
『自立』は本人の言葉、『対処』は本人以外の言葉。
「私は自分のことを対処します」「僕はこれからの生活に対処していきます」とは言いませんので、対処療法の対処をするのは、親御さんになるのです。
よって、対処し続ける親御さん、対処を気に入ってくれる親御さんが、特定の療育を存続させる土台になります。
自分のところの療育に傾倒してくれる親御さんを支援者が励まし、褒めたたえるのは、自分たちを助ける存在だからです。


「私には〇〇療法しかありません」「〇〇療法じゃなきゃ嫌だ」
そんな風に訴える子どもはいません。
特定の療育にこだわるのは、親の趣味嗜好であり、子ども達にとってはラクになれて、より良く成長できる方法だったら、何でも良いはずです。
子ども達が求めているのは、自分にとって“いいとこどり”。
ですから、特定の療育にこだわる家庭の子ども達は、いつも息苦しそうに見えるのです。
特定の枠組みが、本人の発達、成長、可能性よりも小さい場合がたくさんあります。


特定の療育にこだわる親御さんのお子さんは、重い知的障害を持っていたり、明確な発信がみらえれないことが多いです。
またそうではない場合も、本人の主体性が育っていないことが多いといえます。
本人に主体性、選択する力、訴える力があれば、特定の療法にこだわる状況など生まれないのです。
本人が必要な方法を選び、合わなくなった方法は切り捨てていくからです。
それが自然な成長する姿であり、自立への道。
特定の枠組みの中に立ち続けることが、居心地悪くなるからこそ、自立への一歩を踏みだすことができるのです。


特定の療育への傾倒していくのは、自分の居場所を求めているのだと思います。
でも、特別支援の中に居場所を求めるのは、本人ではありません。
本人たちは、社会の中に自分の居場所を作りたいと思っているはずです。
特定の療育や支援者からの支援を受けているうちは、自立できません。
子ども時代は親が一番の支援者であり、成長するにつれて、一番の支援者が自分自身に移り変わっていく。
自立とは、自分で自分のことを支援できる状態を指すのだと考えています。
特定の療育に傾倒していけばいくほど、自立が遠のいていくのは、こういった理由があるからだと私は思うのです。

2018年4月9日月曜日

子どもの発達を止めるのは難しい

発達障害は、発達しない障害のことを表すのではないのですから、今、この瞬間にも発達しています。
特に神経発達が盛んな子ども達は、息をするように発達する。
ですから、子ども達の発達を止めようとするには、それなりの覚悟と労力がいるのだと思います。


子どもの発達を止めるには、刺激を与えないのが一番です。
神経発達の一番の栄養素が刺激だからです。
ひとたび、刺激が得られれば、待ってましたと神経が反応し、全身に電気が流れます。
そして繰り返し刺激が駆け巡れば、神経が伸び、繋がりが強くなっていく。
よって、大元の刺激を遮断するか、刺激が少ないような単調な生活、変化のない生活へと環境を調整するのが、発達を食い止めるには有効です。


「子どもの成長が見られない」「変化がない」と嘆く方がいます。
先に述べたように、子どもは息をするように発達するのですから、その人からは見えていないだけで、子どもの内部では神経が踊っている、ということもあります。
そんなときは、「まあまあ、もうちょっとお待ちになって」と言えば、私の仕事はおしまいです。


しかし、悲しいことに、「そりゃあ、そんな刺激のない生活を続けたら、無理もない」という場合もあります。
パニックを起こさないように、問題行動を起こさないように、が結果として、子どもから刺激を奪うことになる。
問題を起こす機会と発達を起こす刺激の物々交換です。
自分で交換しといて、あとから文句を言うのはよろしくありません。


また「子どもに変化が見られない」には、実は変化している、成長している、ということもあります。
一言で言えば、伸びる方向の違いです。
子どもの持つ躍動する発達を人工的な環境の適応に、特別な文化の学習に向かわせているのです。
社会に出る前の学び舎が、社会から陸続きではなく、分断されていると、その特殊な環境に適応しようと動き出します。
家と学校と児童デイで見せる顔が違う、というのは、それぞれの環境に適応するためにエネルギーを使っているとも言えます。
「場所場所で異なるルール、教え、文化を学ぶのを頑張っているよ。だから、神経の発達よりも、将来の自立よりも、こっちの勉強頑張ってる」という声が聞こえます。


社会では使えないSST。
助けるはずの構造化が必要なくなったけれども使ってます、からの特殊な手続きの習得。
良い行動にはご褒美、悪い行動には無視が、これまた特殊な手続きとなり、同時に支援者の価値観の学習になる。
子どもに変化がないのではなく、特殊な文化の学習に費やしているだけということもあります。
「息子さん、ちゃんと成長していますよ。〇〇という文化を学び、身に付けているでしょ」
親御さんはあっけにとられます。
学校に、児童デイに適応しているし、特別支援を、〇〇療法を学習している。
社会の基準、自立という目標、発達障害を治す、という視点で見れば、変化がない。
だって、それとは異なるベクトルに向かって成長しているのですから。


子どもの成長、神経の発達を止めようとするのは、とても難しいことです。
敢えて止めようとしなければ、止まりません。
ですから、「無理させない」「失敗させない」「変化させない」は、「ありのまま」よりも良くないといえます。
刺激や変化が統制された環境にいるよりは、何もしない方がよっぽど発達、成長する機会があります。
それ特別支援だ、それ〇〇療法だ、と言っていない時代の子ども達の方が自立していく人が多い。
逆を言えば、特別支援にどっぷり浸かっている人で自立していく人がほとんどいないということであり、それが何よりの証拠。
今みたいに、知的障害のない人がバリバリ福祉を利用しているのは、特別支援の産物とも言えます。
社会に出るための特別支援ではなく、社会と分断され、離れた特別支援は特別支援のための特別支援。
特別支援という文化への適応であり、学習になります。
変化、成長がないのではなく、特別支援という方向へ成長、発達しているということ。


特別支援を止めたら、成長、変化が見られることもあります。
「やっぱり合っていなかったんですね」と相談者から言われることもありますが、合う合わないではなくて、刺激を与えなかったら伸びるものも伸びないだけ、特殊な環境に適応し、学習していただけです。
子どもが伸びない、変化がない、というのは珍しいことなのですから、そういったとき、私は「お子さんが受けているのは、特別支援教育ではなく、特殊教育ですね」と言うのです。

2018年4月2日月曜日

時計の針を進める力

「今の日本はー」「今の世界はー」などと言う人がいますが、時間という縦軸で捉えると、少しずつですが確実に良い社会になっていますし、人類史上、一番良い時代を私達は生きているのだと思います。
飢えに苦しんでいる人もまだたくさんいますが、人類の歴史のほとんどは飢えとの戦いであり、今のように食料がある時代はつい最近の話です。
世界の平均寿命は延び続け、子ども時代に命を落とすものは減り、自らの命を全うすることのできる人達が大勢いる世の中。
争いによって命を落とす人も、争い自体も減ってきているのです。
ヒトが受精した瞬間から発達、成長へと進んでいくように、人類自体も少しずつですがより良い方向へと進んでいます。


私の中にはこういった考えがありますので、時計の針が進めば、より良くなっていくものだと思っています。
ですから、私が携わっている特別支援の世界もより良い方向へと進んでいく、変わっていくと思います。
一部の人間が自分たちの商売と愛着の埋め合わせのために、発達障害の人達をそのままにしておこうとしていても、社会のニーズと人類の歩みを見れば、より良い方向が治る方を向いているのが明らかです。
どんなに抵抗する人がいようとも、自然な流れ、治る流れは止められないはずです。


流れは治る方向へと進んでいますが、その時計の針をより早く進めている人達がいると私は感じています。
その人は自分が学び、深め、得てきた知見を伝えることで、時計の針を押しています。
その人は方々に散らばった知見を集め、縁を結び、一つの形として作り上げ、発信し、残すことで、
その人は自分の人生と真剣に見つめ、良かったことも、そうではなかったことも、向き合う勇気と力強さを発揮することで、
その人はより分かりやすく、より相手の心に直接的に語り掛けることができる資質を磨き、活かすことで、
その人は親としての本能とまっすぐな親心によって我が子を治し、社会に送りだすことで、時計の針を押してます。
こういった人達がいるおかげで、時計の針は5年、10年と早まっている、早めることができていると感じます。


人類の歴史から見れば、5年、10年などは一瞬といえます。
でも、今を生きる私たちから見れば、その5年、10年はとても大きな意味を持ちます。
5年早く時計の針が進めば、小学1年生の子が12歳になる頃に得られたであろう知見を今得ることができるかもしれません。
10年早く時計の針が進めば、これから10年の間に生まれてくる未来の子ども達が生まれ出た瞬間から治す道を歩むことができるかもしれません。
人にとって5年、10年はその人の人生に大きな影響を与えます。


自分の仕事を振り返れば、理想には程遠く、時計の針を進めるような活動はできていません。
かろうじて流れを感じ、その流れに合わせ、遅れないように必死についていっているという状態だといえます。
しかし、いずれかは治る方向へと進んでいる時計の針を押すような仕事をしたいと思っています。
たとえ1日でも、1時間でも、1分でも良いので、時計の針を進める動力になりたい。
それができれば、自分の命をきちんと使えたと感じられるような気がします。


本日より開業6年目に入ります。
10年一区切りと考えれば、折り返しに入りました。
自らの腕を磨き、一人でも多くの方達の治るための後押しをすることが中心のままですが、それと同時にどうすれば時間の針を進める仕事ができるかも考え、模索しながら走っていきたいと思います。
6年目のてらっこ塾もよろしくお願いいたしますm(__)m

2018年3月28日水曜日

「藤家寛子の闘病記」(花風社)を読んで

私は本を読むのが早いほうだと思います。
そして、花風社さんから新刊が出るたびに、すぐに読み始め、このブログを通して紹介してきました。
もちろん、今回の新刊2冊ともすぐに読みました。
でも、読んだ当日に、すぐにブログで書こうと思いませんでした。


時間をおいて、何度も読み直していたのもあります。
しかし、それが一番の理由ではなく、自叙伝のような個人的な内容、しかも決して良いことだけではない内容のものは、新刊でましたー、読みましたー、紹介しまーす、ではいけないと思うのです。
もちろん、私の個人的な考えであり、感覚です。
決してそれ以外の著者の方のものが軽いわけでも、軽い気持ちで紹介のブログを書いているわけでもありませんが、個人的な情報、また個人の歩みを記されたものに関しては、より重く受け取ります。
著者の藤家さんがポジティブな気持ちで書かれたのかもしれませんし、執筆はご本人が求めていた活動ではありますが、自分の歩み、自分の素を表すことに対して喜びだけではなく、葛藤や苦しみもあったと想像します。


闘病記ですから、苦しみや葛藤、失敗についても記されていました。
そこから得られたこと、また治った今だから気づけること、分かることを伝えてくれます。
どれも貴重なお話です。
また感覚面の違い、捉え方の違いについても、自分の目の前の子の世界を想像するヒントをもらえると思います。
きっと藤家さんも、今を生きる子ども達、親御さん達にとって、より良く生きるためのヒントや手助けになれば、という想いもお持ちだと感じます。
だからこそ、読み手は、情報やヒントのみを見るのではなく、藤家さんという人を見ることが大事だと思うのです。


藤家さんの人を見つめて、読み進めていけば、本当に伝えたいこと、そしてその情報やヒントの裏にある本質に気づくことができると思います。
一つの物語ではなく、一つのヒント集ではなく、人を読むことで、読み手の私達も病気に打ち克つ、治るという方向へ進んでいけるはずです。
経験や技術、知識よりも、人が重いと私は感じています。


読み進めている中で、記されている藤家さんの言葉に、眼も、手も、頭も、すべてが止まった一文がありました。
それは大学進学を希望した理由が述べられた箇所です。
こういった言葉が出るというのが、藤家寛子さんという人であり、他人が想像できないような辛い状況から脱し、治ることのできた根っこになっていると感じました。
この言葉、表現にすべてが含まれているように私は思いました。


「闘病記」は「就活記」とは違った意味の希望を感じられる本だと思います。
「この先もずっと辛いままだ」
そんな風に思い、光のない人生が永遠と続くように感じている方に、この本を読んでいただきたいです。
藤家寛子さんという人の存在を感じられれば、動き出す力が湧いてくるかもしれません。
人が何よりの希望だと思います。


「藤家寛子の就活記」(花風社)を読んで

26日に花風社さんから2冊の本が同時に出版されました。
著者は藤家寛子さん。
今まで歩んできた道をご自身で振り返りながら『藤家寛子の闘病記』『藤家寛子の就活記』という形で、今を生きる私達にメッセージを送ってくださっていました。


2冊同時出版でしたが、私は迷うことなく、「就活記」の方から読み始めました。
それは『30歳からの社会人デビュー』の先を教えてもらいたかったからです。
この本を読んだとき、私は「これは希望の本だ」と感動したことを覚えています。
藤家さんのブログ等で、この本が出版された以降のご活躍も存じ上げていたので、今のお仕事に就き、また働き続ける中で、どのようなことを感じ、考え、どう振り返られるのかを教えていただきたかったのが、その理由でした。


本の中でも、6年間勤めあげたことによる『自信』という文字が記されていました。
でも、その自信がその『自信』という文字以外、文章全体にも表れていたように感じました。
『30歳からの社会人デビュー』を読んで、希望を感じ、心を動かされたのは先ほど述べた通りです。
そして今回の「就活記」には、その希望にあふれるメッセージに自信がプラスされたと言いますか、私には自信から確信をもってメッセージを書かれたのでは、と感じました。
それだけご自身で語られているように、この6年間がとても大きいものだったと感じたのです。


私は「就活記」を読み進める中、「自信からの確信」という文字が浮かんできて、そういった視点になっていました。
よく「自信をつけさせることが大事」「自尊心を大切に」などと言われます。
しかし、「就活記」を読んでいる自分には、どれも薄っぺらい言葉にしか思えませんでした。
自信は与えられるものでもないし、自尊心はお膳立てされて得るものでもない。
自分自身で掴みとるもの。
そういった力強いメッセージが藤家さんの言葉から伝わってきました。


私は別に偉そうなことを言うわけでは決してありませんが、この6年間が藤家さんにとって、またこれからの人生において本当に大きなものになるような感じがしました。
社会の中で得られるものの大きさ、他人のために自分の力が活かせることの大きさ、そして自信を得ることがどれほど本人にとって大きなことか。
私は支援者という立場ですので、やはりその3つの手前までが自分の仕事であり、その3つを後押しすることが役割だと改めて思いました。


藤家さんが行ってきた試行錯誤、主体性のある行動とその結果は、すべて今のご自身とつながり、糧となっていると感じます。
『最後に』という章で書かれていたメッセージにエネルギーを感じ、心に直接的に届けられるような感じがしました。
藤家さんの今までの歩みから教わることは多いはずです。
でも、特別なことを言っているわけではありません。
最後に…今子育て中の親御さん、幼い子を持つ親御さんのそばに、この本があり、読むことができるということがどれほど素晴らしいことかと思いました。


2018年3月27日火曜日

子どもの支援よりも、私の支援

相談メールに真剣にお返事書いたらキレられました。
花粉症は治ったけれども、生き辛い春です…(笑)


このような反応は、メールでも、面と向かった相談でも、たま~にあります。
理由は簡単。
「相談」という形でやってはくるけれども、「相談なんですが~」と口では言っているけれども、アドバイスがもらいたいわけではないんですね、特に我が子に関して。
それよりも、自分がやっている子育て、支援、対応をそのまま「いいね!」って言ってほしい。
ただそれだけ。


だから、私がアドバイスしようもんなら、それがすぐに「否定された」という風に捉えちゃうし、もともと支援が欲しいのは子どもじゃなくて自分自身だから、自分自身に対するアドバイスなら聞く耳はあるけれども、子どもに関するアドバイスはパニックorスルー。
実際、子どもさんはもちろんなんだけれども、親御さんに支援が必要だ、という方は少なくありません。


親御さんが辛くなってしまう背景には、いろいろなものを感じます。
協力してくれる家族がいないことや親御さん自身に発達の課題があること。
頼った支援者が治せない人であったり、我が子よりも自分がしたい支援をするような人であったり…。
まあ、理由は様々。
でも、そこで「お母さんもお辛いですね~」とやっていてはダメだと思うのです。
「〇〇くんが自分自身で課題をクリアし、治していこうとするんだから、お母さん自身も課題解決に向かって動かなきゃ」と私は良く言います。


自分自身が辛いと、また余裕がないと、親としての本能が発揮できないんですね。
だって、親である前に、親になる前に、自分でいること、自分の身体、心、存在を守ることで精一杯だから。
目の前に子どもがいて、明らかに親なんだけれども、その親御さんが幼く見えることもあります。
子どもさんの横に、もう一人子どもさんが並んで座っているような感じ。
「この子を助けてください」と確かに言っているのに、途中から「私を助けて」という声が聞こえてくる。
私と顔を合わせた瞬間、泣き崩れる親御さんは少なくありません。
相当なプレッシャー、そして日々の生活の中に辛さがあるのだと思います。
だからこそ、支援者は治さなきゃならんのです。


親御さんが辛いままですと、自分が優先になり、自分にとって都合の良い支援者を求めてしまいがちになります。
我が子に対して厳しいことも言ってくれる支援者は避け、我が子も、自分のこともありのまま受け止めてくれる支援者を求めるようになる。
そして、支援者と親御さんが仲良しこよしで、子どもが蚊帳の外なんて風になるのは、みなさんも良く見聞きすると思います。
これでは、子どもさんの発達、成長を後押しすることができませんね。


ちなみに、こういった状態を私は「ホスト(ホステス)通い破産」と言っています。
ホスト、ホステスさんは、いつでもいい子いい子をしてくれる。
だって、お客様だから。
支援者も同じ。
親のことをお客様だと思っているからいい子いい子してくれるし、ありのまま受け止めてくれる。
その子のことを本気で、最優先に考えていたら、そんな無責任なことはできません。
課題があるから困っているんだし、課題をそのままにしても大丈夫なら支援者はいらない。
「ありのまま」なんて言う支援者は職責放棄で、親御さんをお客様として見ているんですね。
そしてまた支援者が醸し出すお客様扱いに違和感を持たない、反対に居心地が良くなってしまうのは自分が王子様、お姫様になりたいからであり、現実が辛い証のように感じます。
課題や問題が解決しないまま時間ばかり過ぎていくと、借金のように利子がついて、問題解決がどんどん難しくなっていくのも同じです。


現実が辛いままですと、青くなった建物を見て、気持ちよくなってしまいます。
親御さんの希望は、建物を青くすることではなく、我が子が課題をクリアし、より良く発達、成長していくことのはず。
建物がライトアップされていなくても、我が子が、家族が幸せなら良いでしょ。
それが青く照らされた建物をまるでシンデレラ城のように見えているとしたら、協力することでしてくれる支援者からのいい子いい子を得られ、気持ちよくなっているのです。


青いお祭りが一般の人の心に届かないのは、その言葉に乗ってくる気持ちが辛そうだから。
辛い人を利用し、辛い人を使って、自分たちのお客様開拓をしていても、そこに心は動かされません。
それよりも、自分自身の課題をクリアし、まじめに勉強、仕事をしている姿の方が多くの人の心を動かすことができます。
だからこそ、本人が辛いままもダメ、親御さんが辛いままもダメ。


親御さんが辛いままだと、自分の辛さをどうにかしようと動き始めてしまいます。
そこにちょうどホスト、ホステスさんのように、都合良くいい子いい子してくれる支援者という存在がある。
普通、いい子いい子してくれるのは家族か、お金を貰っている人だけ。
だから、他人であり、本人を支援するはずの支援者が、親御さんをいい子いい子するなんて異常です。
いい子いい子してほしいのなら、税金ではなく、自分のお金を使うのが筋。


子どもにとって必要なアドバイス、後押しをする。
耳の痛いことでも、その子のためならしっかり伝える。
たとえ御上の指示がなかったとしても、社会のルールを都合よく変え、社会のためにならない忖度をしてはならないのは、どこの世界でも大事なことだと思います。

2018年3月23日金曜日

詳細な記憶から曖昧な記憶への発達

記憶するのが得意な子がいました。
特に自分の興味関心のある分野に関しては。
幼いときから携わっていた支援者たちは、「将来は、〇〇系の大学に進んだらいい」「〇〇の研究者になって生きていくのがいい」などと、あたかも既に進路が決まったかのように言ってきたのでした。


でも、その子が進んだのは特別支援、そして福祉の道。
あれだけみんなで「大学大学」と言っていたのに、大学を受験する資格すら得ることができませんでした。
ただ詳細に記憶できたとしても、それだけでは大学生になれませんし、そもそも「詳細に記憶する」というのは、記憶の発達段階で言えば、最初の方なのです。


高校くらいまででしたら、詳細に記憶する力は武器になります。
これから試験の形式、求められるものもどんどん変わってくるでしょうが、現行の大学入試はより多くの知識を正確に記憶していることが有利だといえます。
しかし、大学に入ってからは別でと言いますか、大学以降、社会人になれば、ただ正確に記憶しているだけではより良い学びはできませんし、知識の分量よりも、それを基に何を考え、何を発想するかにポイントが置かれるようになります。


一般の学生でも入学後戸惑うのですから、大学に進学する、また進路として目指し始めた若者たちにはこういった違いを事前に説明することが大事だと考えています。
また同時に私の中では、詳細に記憶する段階から曖昧に記憶する段階へと発達を促していくことも大事だと考えています。


小さな子は、どんどん新しいことを記憶していきます。
まだたどたどしい言葉しか出ないような時期に、物や人の名前を覚えたり、歌を覚えて口ずさんだりする。
そんな姿を見て、「うちの子は天才かも」と思うのが、親の性。
そして年齢が上がっていくと、「どうしてこんなことも覚えられないの」「どうしてこんな点数なの」と言われるのが日常になり、記憶することに苦労するようになる。
でも、これは子どもの頭が柔らかくて、年を取るごとに固くなるからではなく、記憶の発達。
脳が成熟していけば、詳細に記憶するから、曖昧に記憶するへと発達していくのが自然なのです。


曖昧に記憶するというのは、ヒトに見られる特徴です。
他の動物は、詳細に記憶します。
それは写真で切り取ったように。
でも、写真で切り取ったように記憶するというのは、応用しづらい。
背景や場所、物が変わると、別の情報として捉えてしまいます。
ですから、詳細な記憶とは応用が利かないもの。
幼い子がどんどん記憶していくのは、他の動物のような詳細に記憶するという脳の発達段階であるという意味だと私は捉えています。


大学は専門バカが集まるところではありません。
私も15年くらい前は大学生でしたが、関わっている学生さんや大学の様子を見聞きすると、講義の風景も、求められる学生像、社会人像も、ガラッと変わっているように感じます。
ただ試験を受けて、レポートを提出して単位をもらう、はい卒業というのではなく、考えること、発想すること、そしてそのプロセスまでが評価され、高めていくことを求められる。


今の若者たち、子ども達が社会人として生きていく時代は、AIと共に生きていく時代。
いつの時代のお話ですかというような「得意なことを活かしましょう」「自閉症の人達は記憶力に優れている」「研究者向きです」などという支援者には、これからの若者たちに生き抜く力をつけさせることはできません。
まあ、始めから社会の中での自立を考えていないからこその発言でしょうが。
単純な記憶、詳細な記憶はAIに勝てなくなるのです。


自分で考える力、考え抜く力、新しいことを発想する力は、より多くの知識、情報を記憶することが土台になると思います。
ですが、ただ記憶量を増やしていくだけではなく、脳も育てていかなければなりません。
自閉症、発達障害の人の中には、詳細な記憶を得意とする人がいます。
でも、別の見方をすれば、記憶の発達段階が進んでいない状態と言うこともできます。
詳細な記憶の段階から曖昧な記憶の段階へ発達させること。
柔軟な発想には柔軟な身体が必要なように、曖昧な記憶には人間脳の土台となる爬虫類、哺乳類の脳をしっかり育てることだと考えています。


子どもから大人になる過程で、詳細な記憶から曖昧な記憶へと発達していく。
子ども時代に詳細な記憶という特徴を使い、知識、情報を増やしていく。
そして、貯めてきた記憶と曖昧な記憶という特徴を使い、自分で考え、考え抜き、新しい発想を生みながら社会の中で生きていく。
こういったことをイメージしながら私は若者たち、子ども達と関わっています。
社会を変えるよりも、社会の流れを読み、その中でおぼれないように、自力で泳いで進んでいけるように後押しするのが、ヒトを支援するということなのですから。

2018年3月20日火曜日

「障害」という言葉に引っ張られる、すり寄っていく

口癖のように、「この子はアスペルガーだから」と言う親御さんがいました。
友達とケンカしても「アスペルガー」
部屋の片づけができなくても「アスペルガー」
学校のテストの点数が悪くても「アスペルガー」
なんでもかんでも「アスペルガーだから」と言っているその言葉に、悪意や軽蔑といった雰囲気はありませんでしたが、長年言い続けていたためか、まるで日常会話に出てくる単語の一つのように自然と口から出ている印象でした。


お子さんにお会いすると、育て直しが必要な発達段階があることがわかりました。
でも、その抜けている発達段階も少しずつ育ってきている雰囲気がありますし、何より発達のヌケのわりに現実で困っていることが大きい気がしました。
ですから、最初に親御さんと約束をしたんです。
「アスペルガーと言うのをやめてください」と。


私は言葉や雰囲気に引っ張られることがあると考えています。
別の人ですが、「順調にいっていても、数か月ごとに落ちてしまう」という相談を受けたことがあります。
そして、その“落ちる”を掘り下げていくと、相談機関に行くと落ちることがわかってきました。
別にその相談機関がヘンなことをやっているというのではありません。
むしろ何もしていなくて、ただ相談が終わると次回の予約が決まるから通っていただけで、内容もただ近況を話すだけの雑談みたいなものだということでした。


「日頃、自分が障害を持っていることを自覚しますか?」という私の問いかけに、「できないことがあって落ち込むことはあるが、自覚することはほとんどない」という返事がありましたので、相談機関という雰囲気に引っ張られているのだと直感しました。
きっとこの方は、障害を自覚するために相談機関に行っている。
相談機関に行ったあと、落ちてしまうのは、日頃意識しなくなった“障害”が意識化されることで、その障害を持った自分という姿に近づいてしまうからだと考えました。


でうすから、「その相談機関に通う意義や必要性を感じられていないのなら、通うのを止めるのも一つの手だと思います」と伝えました。
そこから連絡が途絶えましたが、半年くらい経ったあと、「落ちることがなくなった」と連絡がきました。
もちろん、別の要因があったかもしれませんし、たまたまだったかもしれませんが、障害を持った自分ではなく、若者の一人として苦手なことにも挑戦しながら自分の人生を頑張っていこうとする意思が伝わってきました。


冒頭で紹介した親御さんは、あれから約束を守ってくださり、「アスペルガー」という言葉を言わなくなりました。
すると、子どもさんもすっかり落ち着き、心身共に成長されました。
親御さんも、「苦手なことが多い子だけれども、少しずつ育てていけば大丈夫」と思えるようになったと言っていました。
知らず知らずのうちに、「アスペルガー」という言葉に子どもも、親御さんも、すり寄っていっていたかもしれないと思いました。
学期ごとに「支援級を」と言われていたのですが、そのようなことは言われなくなり、担任の先生も変わっていったので、過去にそのような気になる子だったと思われていないはず、と親御さんは言っていました。


発達や成長、治る方向へと歩んでいる姿が見えているのに、治り切らない人がいる。
そんな人たちがいることに気がついたあと、あと一歩のところで何が覆いかぶさるのかと考えたら、その要因の一つに言葉があるように感じたのです。


治っている人、治り切る人の多くは、障害を意識していないように感じます。
障害を意識しながら治すというよりは、治すことにまい進していたら、いつのまにか障害が意識の外にいっている、というように見えます。
もちろん、障害という言葉を聞けば、また何かのきっかけに自分の障害が意識の上にあがることもありますが、その“障害”に引っ張られないと言いますか、“障害”が自分のコントロール下にある、といった感じです。
障害が消えてなくなるというのではなく、日頃、障害を意識することがないくらい生活できていて、時折、意識に上がってきたとしても引っ張られることなく、自分の中の一つとしてコントロールできている人が治った人のように思います。


治り始めたら、障害と距離を置くことも必要なのかもしれません。
厳密に言えば、「治らない」「生涯変わるものではない」という雰囲気を出す障害と言う言葉、人、環境から。
治り切ってしまえば問題ないのでしょうが、そういった雰囲気から影響を受け、再び「障害を持っている自分」へ、治らない方向へと後戻りしてしまう可能性もあると思います。


本人の周りに、どんな言葉、どんな人、どんな環境があり、どんな雰囲気を出しているでしょうか?
案外、治り切るか、どうかにかかわっているような気がします。

2018年3月16日金曜日

感覚面の課題へ直接的なアプローチ、間接的なアプローチ

「ティーチだって感覚過敏にアプローチする!」と言う人がいます。
確かに、感覚面の課題は自閉症の人達に多く見られることですし、生活の質や心身の問題と関係するところなので、大事な支援の一つとして位置づけられています。
ですから、「感覚過敏にアプローチする」というのは間違えではない。
でも、直接的なアプローチではないですよね。
間接的なアプローチで、少しでも軽減されることを目指しているのが実態だと感じます。


大雑把に言えばこうです。
感覚過敏は、本人が不安やストレスを感じている場面で症状が強くなる。
だから、視覚支援や環境を整えることで、本人の不安やストレスを減らし、その結果として症状が軽くなることを目指す、です。
本人が持つ感覚の課題を変えるのではなく、環境を変えるアプローチ。
当然、不安やストレスの原因は環境面だけの問題ということはありませんので、環境を変えることが、必ずしも本人の不安やストレスを軽減させるとは言えません。


見通しが持てたり、周囲の情報が整理され、理解できたりすることで、一時的に感覚過敏が収まったように見えます。
それを見て、「視覚支援、構造化が、感覚過敏にも有効だ」なんて思う人もいる。
しかし、環境などの本人の周囲を変えただけで、本人は変わっていなし、本人の持つ課題をどうにかしようとアプローチはしていないから、どこまでいっても感覚面の課題は治らない、持ち続けたまま。
本人が感覚面で苦しまないようにするには、ずっと環境を調整し続けないといけません。
ほら、環境調整だけの支援を受けている子は、ずっと感覚過敏を持ち続けているでしょ。


私は、常々言っています。
「環境調整には限界がある。だからこそ、身体を通して、発達のヌケを育て直しましょう」と。
耳栓も、イヤーマフも、視覚支援、構造化と同じ。
一時的な助けにはなるけれども、ずっと使い続けるには不便なもの。
できることなら、使わずに生活できた方が本人はラクだし、選択肢も増える。


相変わらずティーチ信者の多い当地。
「感覚過敏だって、良くなっているから!」と言われるが、良くなっているように見えるだけ、しかも一時的に。
視覚支援、構造化によって、感覚過敏が落ち着き、喜んでいるのは周囲の大人と支援者じゃないかな。
「ほら、見ろ、ティーチサイコー!私の支援サイコー」と言いたいだけにも見えますね。


私は、感覚過敏に苦しむ子ども達をそばで見てきましたし、本人たちの口からも「とても辛いもの」だと聞いています。
だからこそ、一番に「治したい」という想いが出ますし、本人に直接的なアプローチができる方法を選択しています。

2018年3月14日水曜日

眼の主体性、足の主体性、動きの主体性

お子さんの身体や発達に注目する親御さんが増えたと感じています。
いや、厳密に言えば、もともと「身体のしんどさをどうにかしてあげたい」「発達の遅れを取り戻させてあげたい」と、どの親御さんも思っていたはずです。
でも、特別支援をリードしていた人達が、「治らないから障害だ」「必要なのは支援と理解だ」とやるもんだから、優先順位が違っていただけ。


どの親御さんも、我が子の苦しむ姿、発達が遅れている姿を見て、「どうにかしたい」という気持ちを持たないわけはありません。
ですから、やっと「これが支援」と言われてきた方法が対処療法であり、心から求めていた我が子の身体と発達にアプローチするものではないことがわかった今、自然な想いがどんどん表に出てきたのだと思います。


親御さんが借りてきた想いではなく、自分の内側から出る想いを発せられるようになると、主体性が出てきます。
身体と発達は、他の誰のものでもなく、自分のものなのですから。
親御さんの主体性は、子どもの主体性とつながり、育んでいきます。
だから私は、お子さんの身体や発達を重視する親御さんが増えてきたことを喜ばしく思います。


身体を育てる、発達を促す、発達のヌケを育て直す、という営みには、本人と親御さんの主体性が必要です。
しかし、その主体性とは、人の持つ意思や態度、行動だけではなく、育てたい身体、発達段階の主体性のことも言う、と私は考えています。


眼を育てたいとき、眼の主体性を考えているのか。
足を育てたいとき、足の主体性を考えているのか。
爬虫類の動きを育てたいとき、爬虫類の動きの主体性を考えているのか…。


つまり、眼を育てたいときは、眼が見たいものがそこにあるのかが重要であり、足を育てたいときは、足が動き出したくなるような心地良さが必要ということ。
眼が見たいものがないのに、ただ訓練で動かしても、眼は育たないと思います。
爬虫類のような腹部を付けた両手両足での移動だって、そういった動きがしたくなるような仕掛けが必要なはずです。


いくら高いお金をかけようが、週に40時間お教室に通おうが、それがただの訓練で、動きの反復だとしたら、そこに身体の育ち、発達はないと思います。
それよりも、育てたい身体が自然と、自発的に、主体的に動き出すような環境を用意する方が良いのだと思います。


動物の進化、発達を考えれば、眼を育てたいからといって、「あっちを見なさい、こっちを見なさい」と親が子に訓練などさせません。
眼が見たいものを見ていたら、眼が育っている。
だからこそ、身体を育て、発達を促すには、主体性が引き出させるような刺激、環境を用意することも必要だと考えています。


身体や発達に注目する親御さんが増えた今だからこそ、「訓練や反復、経験させればよい」というイメージからもう一歩深くとらえてもらいたくて、私はいつも「身体、発達の主体性」という言葉を使ってお話ししています。
子ども達の周りに心地良い刺激、思わず動きたくなるような環境があることが、発達援助の始まりだと言えるかもしれません。

2018年3月13日火曜日

義務教育が終わった瞬間

義務教育が終わった瞬間、普通学級から支援学校へと進んでいく子ども達。
このような話を耳にするたびに、彼らにとっての9年間は、成長するための良い時間となったのか、と感じてしまう。


親御さんとしたら、できることなら普通学級で学んでほしい、地域の子達と共に成長してほしい、と願うのは自然な気持ちだといえる。
だが、本当に純粋な親心だけなのだろうか、と疑問に思うこともある。
そこに見栄やエゴが見え隠れする。
心からそれを願っていたのなら、苦手な部分、治さないといけない部分をそのままにはしていないはずだから。


支援者は、親の意向に賛辞を送り、「私も普通学級で学ぶ方が良いと思う」と言う。
そして学校に対し、配慮と支援を求める、学年や学校が変わるたびに。
でも、配慮や支援を求めること、認めさせることで、支援者の仕事は終わりなのだろうか。


義務教育の間は、学校の方も「うんうん」と聞くかもしれないが、受験や進路に関してそうはいかない。
当然、合理的な配慮は認められる。
しかし、義務教育が終わった瞬間、支援学校に行くということは、学校に求めていたのが配慮だったのか怪しくなる。
もし配慮があることで、普通学級で学べていたとしたら、受験や高校に対し配慮を求めればいい。
普通学級で学べるくらいの力があり、そこが本人にとってより良く成長できる場なら、そのまま普通校へ進めばいい。


本人が普通校ではしんどそうだから、親が不安で心配だから、といって支援学校を選択する場合もあるのはわかる。
でも、普通高校ではなく、支援学校へ進む人の大部分は、9年間でしっかりとした学びができなかった子と感じる。
もともと本人にとってベストな学び場が普通学級だったのか。
支援や配慮があったから、普通学級で学び続けられたのか。
学校に求めていた正体が、障害に対する配慮ではなく、本人、親に対する忖度ではなかったのか。


「できれば普通学級で」という親心もわかる。
普通学級に在籍していることで周囲からどう見られるか、どう見てほしいか、見てほしくないかという想い、また「もしかしたら、同級生と同じように変わってくれるかも」という期待があるのもわかる。
だからこそ、そばにいる支援者は、そんな親心を汲みつつも、客観的な評価をし、その子にとってより良い選択へ導くのが役割のはずだ。
あれだけ9年間、学校に支援だ、配慮だ、と言っていたのに、特別支援学校進学が決まった途端、蜘蛛の子を散らすかのように去っていく支援者たち。
そしてまた別の子を見つけ、学校に対し支援だ、配慮だとやる。
あれだけ学校に支援と配慮を求め、親御さんと共に「普通学級で学ぶのが良い」と推し進めていた責任は感じないのだろうか。


厳しいことを言うようだが、9年間、普通学級で学んでいたのに、義務教育が終わった瞬間、支援学校へ行くというのは、本人に力がなかったということであり、周囲の大人に本人にとってより良く成長できる場を提供できなかったという落ち度がある。
普通学級が良くて、支援学級、支援学校が悪いということではない。
本人に合った学ぶ環境で、より良く成長することが大事なのである。
支援や配慮も同様で、本人がより良く成長するためのものであり、そのために要求するものである。
しかし、高校に進学するだけの力がつかなかったとしたら、求めていた支援、配慮が障害に対してだったのか、いや、普通学級に在籍し続けることに対しての支援や配慮ではなかったのかと思えてくる。


自分が支援している子が、普通学級に在籍している事実は、支援者にとって一つの成果として評価される。
だが実状は、本人がより良く学ぶための支援、配慮ではなく、「合理的配慮」という名を利用した忖度である。
障害に対しては配慮と言うが、実力に対しての配慮は忖度であり、接待の要求である。
それは、その子の成長、将来のためになることなのだろうか。
支援の中心にその子がいるのだろうか。


毎年、この時期に感じることだが、支援と配慮だけでは進学できない。
やはり本人の発達と成長が不可欠である。
「だって、普通高校では中学校までと違って支援、配慮してくれないもんね」という言葉は負け惜しみに、そして「支援」「配慮」が「忖度」「接待」にも聞こえる。


極端な見方であり、厳しい意見かもしれないが、敢えて文章にした。
それは支援学校へ進むことになった子ども達の中に、入学式の日を迎え、ショックを受ける子がいるからだ。
9年間、学んできた環境との違い、そして大人たちからずっと言われ、信じてきた「あなたは普通学級で学ぶ子」という言葉に。
同世代の若者たちが新しい学び舎に心を躍らせる4月に、ショックを受ける姿は見ていてとても辛い。

2018年3月11日日曜日

生きる力とは、命を守る力

私は、子ども達が生きる力を培う、その後押しができているのだろうか。
いや、生きる力というよりは、自分自身で自らの命を守る力だ。


私達は、地震の多い土地で暮らしている。
これからも大きな地震がやってくるだろう。
地震以外の自然災害だってやってくるはずだ。
そんなとき、必要なのが、自らの命を守る力。


3.11のあと、地震や津波を想定した避難訓練、防災教育が意識的に行われるようになった。
もちろん、自分の住む地域で災害が起きたときに、どういった行動をとればよいか、事前に理解しておくことは大事だと思う。
しかし、それで十分なのだろうか?
私が子ども達に身に付けて欲しい力とは、防災に関する知識や行動なのだろうか?
こういった疑問を持ち続けていた。


3.11は、誰も想像できないことが起きた。
みんな、いつかは災害が起きることは知っていたのに、何かを考え、行動する時もないくらいの間に、多くの尊い命が失われていった。
震災を経験した方達の心の中には、今も救いたかった命がたくさんあるはずだ。


これから先も、自然災害を人間が完全に掌握することはできないだろう。
未曾有の災害のときには、自分の命を守れる人間は、自分しかいない。
だからこそ、子ども達には命の危険を察知し、その瞬間に命を守る行動がとれる人間に育ってほしいと思う。


それには、幼少期からの実体験が重要になる。
自然と同化し、いろんな遊びを通して、自らの身体と感覚を育て、研ぎ澄ましていく。
自然と対話し、身体と対話する営み。


自分の命を守るとは、動物の本能の現れだといえる。
そんな本能が発揮されるためには、人間脳より深い部分の育ちが必要。
受精し、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類へと進化する過程の中に発達のヌケがあれば、命の危険を察することができないかもしれない、瞬時に命を守る行動がとれないかもしれない。
ヒトになる前の段階を丁寧に育てていくことは、その子の命を守ることでもある。


子ども達の人生を考えたとき、3.11のような大震災に再び遭う可能性がある。
また震災、自然災害以外にも、事件や事故に遭う可能性だってある。
そんなとき、親はそばにいないかもしれない。
少なからず、私はそばにいない。
だから、そばに人がいなくても、自ら動ける人間に育ってほしい。
絶対に、支援者がいないと動けない人間にはしてはならない。


命を守るという本能に突き動かされるように、身に迫る危険を察知し、考える前に身体が動いている。
私が関わった子ども達には、そういった自らの命を守れる、生きる力を持った人に育ってほしいし、育てないといけないと思う。


勉強ができる、仕事ができる、きちんと生活できる、すべて大事なこと。
でも、生きるスキルを身に付けるよりも、まず生きることが大事。
生きる力とは、生きるためのスキルを習得することと、生きるための本能が発揮できる身体の状態まで育っていること。
私が行っている発達援助は、この両方の視点を持ち、それらを培う後押しができているのだろうか。
私は、子ども達の命を守るという責任を果たしているのだろうか。
この日を迎えるたびに自問自答している。

2018年3月9日金曜日

子どもの周りにいる大人も自制する力

教習所の教官から「一番おいしいところを味わわないと」と良く言われたものです。
あのクラッチとギアをつなぐ“半クラッチ”の状態を待てずに、すぐにつなげてしまう癖がありましたので、こうやって「じっくり動力が伝わるのを感じなさい」と指導されていました。
免許を取ったあとも、しばらくマニュアル車に乗っていたため、ギアを切り替えるときには、時々「一番おいしいところ」という言葉が聞こえてくるようでした。


この仕事を続けていますと、自分が直接援助するだけではなく、ひと様の支援、援助を拝見させて頂く機会があります。
そんなときもまた、時々ですが、「一番おいしいところ」という言葉が聞こえてくることがあります。
「今、まさに自分で感じようとしている瞬間なのに…」
「あの子は何もしていないように見えるけれども、試行錯誤しているのに…」
「発達課題をクリアしようと、自分で育て直しをしているのに…」
「この年齢で、きちんと失敗しておくことが今後につながるのに…」
そんなとき、周りにいる大人が待てずに、手や口を出してしまう姿。


主体である子どもの学びを待てない理由には、様々なものがあると感じます。
純粋な親心から思わず手や口が出てしまう人もいれば、「失敗経験はさせてはいけない」という思い込みから動いてしまう人もいます。
また自分自身が子の失敗する姿、困る姿を見ていられない、自分が否定されているように感じてしまうため、反射的に手助けして回避させようとする人もいます。
あと個の成長、学びよりも、学級経営を優先させてしまう教員のように、自分がやった方が早いから、あとあとめんどくさくないから、などといって手を出す場合もあります。


いずれの理由にせよ、大人と比べれば、まだ成長途中であり、知らない世界が多い子どもなのですから時間がかかることは当然ですし、たくさん失敗します。
見ていられないなと思うこともありますが、だからといって、大人が常に手や口を出していたら、学ぶ主体を奪いかねることになりかねません。
特に発達障害を持つ子ども達は、実年齢よりも前の段階に戻って、自ら育て直し、発達課題のやり直しをするものですから、周りの大人は待つことと、自制する力が求められます。


でも、いくら待つこと、自制することが必要だと分かっていても、ただただ見守り続けることは親御さんにとって不安だと思いますし、難しいことだと思います。
私だって、発達のプロセスと見通しが持てなければ、待つことは難しいです。
ですから、「もう少し待ってほしいな」と感じる親御さんには、未来の姿を、できればその姿が目の前に浮かんでくるくらいまでお話しするようにしています。


今、子どもさんが行っている言動の意味、失敗すること、試行錯誤する意義をお伝えする。
でも、それだけではなく、どうなったら育て直しが完了したのか、次の発達段階へ進んだのか、また今の学びがいつ頃、どんな形で実を結ぶのか、近い将来、どんな姿になっているのか、そういったこともお伝えする。
今の姿と未来の姿、その両方が掴めるようになると、親御さんに余裕が生まれ、子の学びを待てるようになり、そして味わえるようになります。


しかし、いくら待つことが大事だと言っても、問題行動は見守り続けてはいけません。
すぐに対処する必要があります。
この時期、いろいろなところで、今年度の評価がなされていると思いますが、「次年度への課題」などといって、問題行動が次年度に持ち越されることがあります。
「ちゃんとこの子の課題も見てくれている」と喜んでいる場合ではなく、それは問題の先送り。
時間が解決するんだったら、最初から医師も、支援者も必要ありません。
ちょっと話が逸れてしまいますが、年度が切り変わるから、担任変わるから、卒業するから、とまるでリセットするかのような態度の人を見るたびに憤りを感じます。
学年や学校は変わっても、子ども達の人生はリセットされるわけではないのですから。
仕事として教育、支援をしているのなら、「自分が担当している間に直してみせる」という気概がほしいものです。


前回のブログにも書きましたが、自制する力は大切です。
それは子どもだけではなく、子を見守る大人たちにも。
「ちょっと手を貸したいな」と思うのは自然な気持ち。
だからこそ、我が子の言動の意味、発達過程、未来の姿を知ることで、見通しと余裕が持てることが大事だと思っています。
子ども自身に、「一番おいしいところ」を存分に味わってもらうために。
学びと発達、学びと成長のつながる瞬間をです。

2018年3月7日水曜日

自我と自制

子ども時代に自制する力を養っておくのは大事なことだと思います。
ヒトは社会性の動物であり、集団を作って生きる動物です。
もし自分の感情、欲望のままに行動していたとしたら、集団、社会は成り立ちません。
たとえ社会ができたとしても、それは強い者が弱い者を支配する集団です。
そこに自由な雰囲気、個々が大切にされた空気感はありません。
ですから、友達と思いっきり遊ぶために、学校の中でより良く学ぶために、そして社会の中で自分の資質を活かして自由に生きていくために、自分の感情や欲望などを抑えられることが必要になってくるのです。


ヒトが他の動物と異なる点は、この自制心だと思います。
人間脳が自制する力の源。
しかし、人間脳がいきなり発達しないように、いきなり自制する力を育てようとしても無理があります。
人間脳の土台に、爬虫類と哺乳類の脳の発達があるように、自制する力の前に大事な育ちがあると私は考えています。
それは自我を育てること。


自分がどんなことが好きで、どんなことが嫌いか。
自分はどう思い、どう行動するか。
自分は他の人と分かれた異なる人間である。
そういったことが感覚で、肌身で理解できることが大切です。
そのために“自分を出す”時間、経験が必要になってきます。
“自分を出す”とは、「僕が〇〇したい」「私が〇〇と思う」ということです。


この“自分を出す”という育ちを飛ばし、自制心を養おうとしたら、どうなるのか。
それは動物のしつけであり、餌付けです。
上位の者が下位の者を押さえ付けるように、またアメとムチで相手の行動をコントロールするように。
私達が育てたい子ども達は、「僕は〇〇したい。でも、我慢する、相手に譲る」という姿ではないでしょうか。
「僕は〇〇したい」を飛ばしたり、否定してしまったら、ただただ我慢する、言われた通りに行動する、そんな動物のような子どもをつくることになります。


特別支援の世界は、どうも自制する力ばかり養おうとしていないか、自制できること=自立、ゴールと捉えているのではないか、と疑問に思うのです。
別の言い方をすれば、自分を出すことの否定、自我の否定です。
もちろん、不適切な行動は直さないといけませんし、自制できなければ、集団生活、自立は難しいことでしょう。
でも、自分というものをしっかり育て、捉えられるようになったあとに、自制があるのだと思います。


その人が自分を出すことが、あたかも問題行動であるかのように捉えるのも、不必要なものであるかのように捉えるのも、管理したい人間の目から見た捉え方。
自分を出す、ある意味、我がままになる時間と経験が、真の意味で自制心を育てる土台となります。
自分をしっかり出すことで、自分を知り、他人と異なる存在だと知る。
そして、しっかり出しきり、育てられたからこそ、他人も自分と同じように感情があり、欲望があることを理解できる。
だからこそ、自分は我慢できるし、譲ることだってできる。


「僕は、そのお菓子が食べたい。でも、今日は我慢するよ」
「私は一人でお使いに行くのが不安。でも、頑張ってみる」
「~する」のみで動物のしつけのように行動だけを身に付けさせるのではなく、「自分は〇〇だけれども、~する」というような人間らしい心を持った子に育ってほしいと私は思っています。
ですから、自我を育てる時間、自分をしっかり出す経験も、育ちの中で必要なことであり、大事な発達援助の一つだと考えています。

2018年3月3日土曜日

子どもの絵と発達

子どもさんが描いた絵は、たくさんのことを教えてくれます。
今、どれくらいの発達段階か。
今、どのように世界を見ているのか。
今、どのように自分の身体を感じているのか。
今、何を育てたくて、何に困っているか。


私は可能な限り、子どもさんが描いた絵を見せていただきます。
セッション開始前や本人と会う前に見せてもらうことで、子どもさんの発達のイメージを自分の中に描きます。
またセッションの経過とともに変化する絵を見て、発達の進み具合を確認し、新たな課題を教えてもらいます。


世界中、文化に関わらず、同じ年代の子は、同じような絵を描きます。
絵も心身の発達と同じように、みんな同じ表現、プロセスを経て発展させていきます。
ですから、脳と身体の発達が絵に表れるのです。
絵を見れば、だいたい定型発達の子どもでいうところの何歳くらいの絵なのかがわかります。


また脳と身体の発達段階だけではなく、その子が感じているものがストレートに表れます。
自分の外の世界をどのように捉え、何が見えているか、何に意識が向けられているかが絵に表現されますので、ここに一人ひとりの違いが出てきます。
同じように、自分の内面に関しても、どのように捉え、何を感じ、意識が向いているかが表されます。


子どもというのは、とても賢い存在であり、自分の状態、何が必要なのかを感じることができます。
自分の発達に必要な動き、遊びを自ら進んで行うように、絵にもしっかりそれを表現します。
背中を育てたい子は、背中を育ててほしい絵を描きますし、関節を育てたい子は、関節を育ててほしい絵を描きます。
ですから、私はそういった声を絵から聞き、実際のアセスメントや発達援助の参考にしています。
そして幼い子の場合、また言語面での発達に遅れがある子の場合、育てて欲しいこと以外に、感覚面や身体面、日常生活での課題や困っていることが絵に表れることもあるので、その辺は素早くキャッチできるよう心掛けています。


このように絵は、実際のアセスメントと発達援助を補助する情報を与えてくれるものです。
しかし、残念ながら参考にならない絵もあります。
それは描かされた絵、教えられた絵です。
一見すると上手で素晴らしい絵に見えるのですが、絵を描く“技術”として身につけ、描かれたものからは、本人の姿が見えてきません。
時々、「絵はこうやって描くものだよ」と教わったんだな、と感じる絵があります。
もちろん、絵を描く技術を教えるのも、それを学び、身に付けるのも悪いことではありません。
ただ私は美術の先生ではなく、発達援助に携わる者として、その子らしい自由な絵の中にヒントがあると言っています。


あと勘違いしていただきたくないのが、「絵が上手に描けるようにすることが、その子の発達を促すことになる」ではないということです。
たまに「じゃあ、絵の教室に通わせたら…」とおっしゃる親御さんもいますが、そうではないんですね。
あくまで絵に今の発達状態が表れるということであって、絵の練習をしたから発達するわけではありません。
まあ、絵を沢山描いたら、目や手の動かし方などは発達すると思いますが。
上手な絵が描けることと、絵が発展していく、変わっていくは違う話になります。
絵が発展し、変わっていくのは、心身が発達した証。
伸びやかに発達、成長した子は、伸びやかな絵を描くものです。


相談いただいたメールに、写真や動画、絵が添付されていることがあります。
もちろん、どれも貴重な情報に違いなく、有難いのですが、私にとっては絵が一番イメージの湧きやすいものになります。
写真や動画の方が情報量としては多いのですが、どうしても撮影者の陰が入るような印象なのです。
当然、親ですから少しでも良く見せたくなりますし、また想いが強い分、その想いが写真や動画に乗っかって編集される場合があるように感じます。
ですから、お子さんが自由に描いた絵が一番純度が高く、ストレートにその子の姿が表れると思います。


自分の子が今、どんな絵を描いているかに注目されるのも良いと思います。
また過去の絵と比べてみて、どのような変化があったのか、それも我が子の成長の歩みを教えてくれるものになります。
是非、お子さんの絵を見てください。
もし絵を全く描かないのでしたら、親子で一緒に絵を描き、楽しむことから始められたら良いかもしれません。

2018年2月27日火曜日

支援は、本人の想いと発達、成長と共に歩む

一時期、私は身体に障害を持った子ども達と関わっていました。
子ども達の多くは、車椅子や補装具を使っており、それがあることで彼らの生活、学びが保障されていることがわかりました。
彼らにとって車椅子は、必要な道具であり、必要な支援でした。
しかし、必要な道具であり、支援ではありますが、彼らにとってベストであるか、幸せで満足しているか、という視点に立てば、そうは思っていないと感じたのです。


車椅子を押していると、伝わってくるものがありました。
補装具で歩いている子や手すりを使って歩いている子が側にいると、そちらの方を向きます。
そして、じっとその姿を見て、目で追うのです。
また床に横になっているとき、自力では起き上がることができませんが、上半身に力を入れたり、手足を動かそうとしたりするのです。
そういった様子を見ていて、彼らは口で表現しないかもしれませんが、自らの力で立ち、移動したいと願っている、そう感じたのです。


前回のブログで、「配慮を求めるとき、自分で説明でき、認めてもらえる力を養う」ということを書いたところ、思いかけず多くの反響をいただきました。
私がこのようなことを学生さん達に伝えるようになったのは、ある学校で行われた支援ミーティングに参加したのがきっかけでした。
本人がより良く学ぶためのミーティングのはずなのに、話をするのが親であり、学校であり、相談機関の人間ばかり。
私はその様子を見ていて、これは違うと思ったのです。


支援を求める主体は、本人のはずです。
本人が「こういうところが困っている」「こんな援助があれば、私はより良く学べる」、そう主張するところから支援が始まっていくのだと思います。
しかし、いろんな場面で感じるのが、本人よりも先に周りが出発しているんじゃないか、ということ。
良かれと思って、また本人が困っているように見えるから、欲しているように見えるから、といって、本人が主張する前に、もしかしたらニーズを感じる前に、どんどん支援が求められ、用意され、展開されていることもあるように感じます。
本人が蚊帳の外にいる支援。
支援したい人が支援する支援。


本人の声をちゃんと聞いているか?耳を傾けているか?
周りにいる人間は、こういった問いかけを自分自身に行う必要があると思います。
私は車椅子を押しながら、彼らの声が聞こえたように感じます。
「できることなら、自分の足で立ち、歩いてみたい」と。


車椅子に乗っている子が、自分の足で立ってみたいと思うように、補装具を使って歩いている子は、いつか自分の足だけで歩いてみたいと願う。
それが自然な感情だと思いますし、ヒトの持つ発達、成長を志向する習性だと思います。
車椅子が必要な子に、車椅子という支援を行う。
これは当然であり、必要なこと。
でも、そのあと、車椅子という支援を受けているのだから、ちゃんと支援できている、満足しているだろう、と思うのは、本人の声ではないかもしれません。
車椅子ではなく、自らの足で立ってみたいと本人が思っているのなら、「あなたは車椅子のままが良い」と言うのは支援ではなく、押しつけになります。


支援者というのは、支援を提供した時点で完了したと思いがちです。
でも、支援の始まりが本人のニーズであり、求める主体が本人なのですから、支援に完了はないのです。
発達、成長を志向し、動こうとする力を持っているのがヒトです。
ですから、ニーズと発達、成長によって、求める支援、必要な支援は変わっていきます。
支援の完了は、自立できたときです。


これから、ますます「合理的配慮」の声が、あちらこちらで聞こえるようになると思います。
しかし、「合理的配慮」が新たな市場を狙った支援者の口実になる可能性もあります。
また一度認められた「合理的配慮」が、その場所で、その人との間で、まるで契約のように固定化されてしまう可能性もあります。
そうならないためにも、支援の始まり、主体は本人であること。
そして、ヒトは発達、成長を求め、その方向へと動こうとする生き物であることを忘れないようにしなければなりません。
支援は、本人の想いと発達、成長と共に歩むのです。

2018年2月23日金曜日

「合理的配慮と発達保障」(花風社)を読んで

今日は花風社さんの創立22周年の記念日です。
その記念日に、電子書籍「合理的配慮と発達保障」という新刊が出版されました。
これからも花風社さんから電子書籍での出版があるということでしたので、この機に私も、スマホとパソコンにアプリを入れました。


スマホで簡単に読めるので、今朝ダウンロードしてから空いた時間に少しずつ読み進めることができました。
今回のテーマは合理的配慮であり、この頃、いろんなところで耳にする言葉です。
でも、確かに言葉は良く聞くけれども、きちんと説明できる人が少ないかもしれないと思いました。


「これは合理的配慮です」と言われたとき、何でかを言語化できなくても、モヤッとすることがあると思います。
反対に、自分にとって必要な配慮であり、それを求めても、「その配慮は認められない」と言われることもあると思います。
そういったとき、この本で語られていることは、大きなヒントになるはずです。


私は、学生さん達との関わりの中で、「支援者に合理的配慮を説明してもらうよりも、自分の言葉と行動で配慮を主張し、認めてもらえるようになる必要がある」ということを伝えています。
確かに、支援者という立場を使い、説明していった方が、よりスムーズに認められることがあるかもしれません。
でも、高校、大学を卒業したあとは、自分で必要な配慮を求めていかなければなりません。
支援者がいないと配慮を求めることができなければ、いくら一般就労する力、自分自身で生活できる力があったとしても、支援から自由になれないのです。


ですから私は学生さん達に自ら説明し、配慮を求める力をつけてもらいたいですし、そのための良い機会が高校や大学、専門学校の中にあると考えています。
せっかくいろんなことを学ぶ機会が得られ、将来、自立して生きていける力を持った若者たちなのですから、社会の中で支援や福祉という枠にとらわれることなく、自由に自分の人生を謳歌してもらいたいのです。
そのためには、「合理的配慮」を自分なりに噛み砕き、理解する必要があると考えています。
当然、そういった若者たちを支援する立場の者も、明確に説明できるくらい学び、考える必要があると思います。


タイトルにもなっているように合理的配慮と“発達保障”がポイントだと思います。
合理的配慮は、本人の発達を保障しますし、そうして成長発達できる人がいることは、社会のためになります。
本人のより良い学びと人生のため、より良い社会のために、合理的配慮をしっかり捉え、自分の言葉で説明できることが大切です。
そのきっかけを貰える本だと感じました。
スマホがあれば、面倒な手続きもなく、すぐに購入し、読むことができますので、紙の本だけではなく、電子書籍もお勧めいたします!


2018年2月22日木曜日

強度行動障害の子に加算で、見えてきた本質

悲しいですね。
本当に悲しいです、怒りを通り越して。
児童デイを強度行動障害の子が利用すると加算されるのに伴って、そういった子がいないか、事業者同士で引っ張り合いが始まっているとのことです。


私も施設で、そういった子ども達の支援に携わっていましたが、本当に大変です。
もちろん、本人が一番大変。
だって、普通の生活を送ることすらままならないから。
起きて、ご飯食べて、学校行って、お風呂に入って、寝る…。
そういった日常生活一つ一つに困難が生じます。


それに自分を傷つける危険性がある、他人を傷つける危険性がある。
自分を傷つけることは、自分の命、生きるを傷つけることになります。
他人を傷つけることは、大事な家族に恐怖感を与えることになり、支援に携わる者を減らすことになります。
自分も、他人も、傷つけてしまうこと。
それは肉体的にも、精神的にも。
そして何より悲しいのは、自分で自分のことを、周囲の人間が自分のことを好きではなくなり、どんどん心が遠くなってしまうことなのです。
本人が一番辛いのに、誰からも愛されなくなって、自分でも愛せなくなってしまう。


施設のときは、24時間365日の体制で、常に職員が支援にあたり、医師などとも連携し、支援にあたっていました。
本気で行動障害を治そうとしたら、支援者も相当しんどいものがあります。
こういった体制の中、職員みんなで考え抜き、最後まで諦めないで支援を続けていった先に、ようやく本人の穏やかな生活が待っているのです。
行動障害で苦しむ本人を見ていたら、支援に携わる辛さよりも、その姿からにじみ出てくる苦しみ、悲しみを感じる方が辛いものです。
ですから、私達は、一日でも、一分でも、一秒でも早く、ラクになってもらいたいと願い、支援に携わっていました。


そういった子ども達を、自分たちの経営のために引き入れようとするなんて、言語道断だと思います。
施設で働いていたあの時の私たちのように、「絶対に治してみせる」という気概があって、その力もあるのなら、私は何も言いません。
でも、かたや「スタッフ募集。未経験者も歓迎。子ども好きな人集まれ」なんて言っちゃっている。
24時間体制で、施設で働いていた人間も大変だと思いながら、日々支援していたのに、こういった募集で集まる人、集めざるを得ない事業所に、何ができるというのでしょうか。


行動障害の子がいれば、周囲に危険が及ぶこともあります。
そうなれば、同じ場所を利用している子ども達を守らねばなりません。
そして、行動障害の子は、大人が付きっきりになり、他の子と空間が分けられるでしょう。
その子専用の場所ができ、他の子ども達との接点がなくなっていく。
ただただ時間が過ぎるのを待つだけの活動。
結果は見えていますね。
行動障害が治まるどころか、どんどん悪化していきます。
「時間が解決してくれる」などということはなく、早めに手を打たないと、ますます困難性が増していくのです。
それこそ、のんびり「いつか治まるだろう」と待っていたら、身を滅ぼしかねません。


行動障害は、本人も辛いし、周りにいる人間も辛い。
「行動障害も障害からくるもので仕方がないね 」みたいに言う人がいますが、たとえ、本当にそうだとしても、割り切れるものではありません。
行動障害はありのままにできないし、ありのままで幸せにはなれません。


自分たちにとって急場しのぎの「加算」に目がくらんで、一時期、収入が増えたとしても、行動障害の子がいる児童デイは、人が辞め、人が集まらないでしょう。
そして、そのしわ寄せは、利用している子ども達に、行動障害を持つ本人の生活と人生に向かっていく。
事業者は「や~めた」といって畳むことができますし、別の仕事を、人生を歩むことができます。
でも、成長と将来の自立のためにより良い放課後の時間、子ども時代の時間を過ごせなかった子、行動障害をそのままで、ありのままで時間だけが過ぎてしまった子は、簡単に辞めれないし、そのツケは自分たちで払っていかなければならないのです。


その子の分の加算はいただくけど、その子の生活、人生に責任は持たない。
そんな事業者がいないとも限りません。
だからこそ、私は怒りを通り越して悲しいですし、心から治ることが一番だと思うのです。

2018年2月21日水曜日

地域で顔色を伺う必要はない!

「いろいろ言われて嫌になりませんか?」と訊かれることがあります。
正直、メンドクサイなと思うことはあっても、それで気が滅入るみたいなことはありませんね。
直接、言ってきた人に対しては、きちんと自分の主張をし、闘いますが、それ以外はどうぞご勝手にです。


この事業を始めるとき、「どうして函館なの!?」ですとか、「手が出せないところからバックアップを貰っておくか、いっそのこと、最初から手を結んでおいて方が」などと言われたものです。
これは都市部に行けということではなく、函館は止めた方が良い、いばらの道しかないから、という意味です。


私は、母親から「あんたは、いつも大変な方の道を選ぶ」と半分飽きられながら、よく言われていました。
自分ではそういった意識はないのですが、より困難だと感じる方へと進みたくなるのは子ども時代から変わっていません。
小さいときから、他人とは違った経験がしたかったですし、そこに困難さ、大変さが伴わないとやる気が起きなかったのです。
子供時分からの性分というのは、大人になってもなかなか変わらないもので、親から言わせると、「相変わらず、大変な道を進もうとする」といった生き方なのだと思います。


結婚してから、妻に「あなたは大切に育てられてきたのがわかる」と言われたことがあります。
ひと様のおうち、家族のことは知る由もなく、自分にとっては自分の家族が当たり前だと思っていたので、そう言われて驚いた記憶があります。
確かに大切に育てられたと感じていましたが、それが特別なものという感じはありませんでした。


冒頭の話に戻りますが、私は何を言われようとも、ほとんど気にはなりません。
たとえ、ひどいことを言われたとしても、それによって自分の価値、存在意義が変わることがないからです。
それに自分には、どんなときも味方でいてくれるパートナーがいて、子ども達がいる。
そして、両親、兄弟は決して私を裏切らないという確信が自分の中にあります。
ですから、世の中、全部が敵になっても大丈夫だと思っています。


このように考えると、自分がより困難な道を進もうとするのは、両親から土台をしっかり育ててもらった証拠であり、今、信頼できる家族がいるからだと思います。
「失敗しても大丈夫」「何を言われても大丈夫」そのような実感があるからこそ、より困難な道へと進めますし、失敗しても起き上がれば良いと前向きになれる。


こんな私だからこそ、権威や役職などに影響されるのではなく、自分の勘や想い、家族を優先してほしいと思うのです。
この地域で暮らしていくには、「あの先生の話は聞いておいた方が良い」「あそことは仲良くしておいた方、つながっておいた方が良い」なんてこともあるかもしれません。
でも、自分に、我が子に必要性を感じない支援を続ける意味があるのでしょうか。
「もっと別の道が、方法があるのでは」という直感に蓋をするのは、我が子のためになるのでしょうか。
協力という名の搾取で、プライベートの時間に借り出される親御さん達もいます。
本人が率先して行っているのなら、何も言いません。
でも、目を付けられないように、気にいられるように、後々利があるかもしれないからといって、笑顔を作って協力しているというのなら、私の目にはその姿勢が卑しく見えます。


たとえ、学校から、地域の組織から、有名支援者から、ママ友から、目をつけられたり、嫌われたりしても、どうってことはないと思います。
それよりも大事なことは、自分自身が主体的に生きること、またそのような子に育てていくこと。
そのために他人の顔を伺い、媚びる必要があるのか、考えた方が良いと思います。


「あそこと敵対すると、後々、大変になる、この地域で暮らせなくなる」
そんなことを言われる方がいます。
しかし、それは作り話。
学校はいずれ卒業するし、相談機関、福祉機関に、そこまでの力も、権利もありません。
もし本当に住めなくなったのなら別の場所に移り住めばよいですし、そもそも支援を必要としないくらい治り、自立できれば、そんな人たちの顔を伺う必要はなくなるのです。
地域で自立して暮らしている人に対して、他人はとやかく言ってきません。
ですから、敵は外にいるのではなく、自分の内側にいる。
信頼できる人がいるのか、自分の選択と結果に覚悟と責任が持てているのか。
そこの問題が、外に敵がいるように見せるのだと思います。


私が立ち上げた事業に終わりがきたら、それは周囲の力が強かったからではなく、ただ単に自分の実力がなかったからだと思います。
未来は分かりませんが、敢えてこの地域を選んだことを後悔していませんし、その日が来るまで、全力で頑張っていきたいと考えています。
そして、どんな状況、どんな未来が来ても、私はより大変な道、困難な道を選び、そちらを進んでいくのだと思います。
たくさんの困難を楽み、味わえる人生こそ、私にとっては充実した人生!

2018年2月20日火曜日

私は対処療法の存在までは否定しないけどね~

ブログを書き始めてから、もうすぐ丸5年になります。
毎日、300前後のアクセスがあるのですが、時々、1000を超えるときがあって、「あ~、今日もどこかで燃えているな」って思います。
オープンの場で書いていますので、別にリンクに貼ったり、拡散したりするのは構いませんし、ネガティブに取り上げられても、どーってことはありません。
いろんな意見があるのが自然ですから。


しかし、仲間内で、見えないところで好きにやっていれば良いのに、「消せ」だの、「訂正しろ」だの言ってくる人もいます。
「好き勝手書きやがって」みたいなのもありますが、ブログを書いている人達は、みんな好き勝手書いているのではないのですか。
誰かにお伺いをかけて、何度も推敲と校正を繰り返し、アップされているのでしょうか。


私は、発達のヌケを育てなおすことが幸せになる近道だと考えていますし、発達を促していくのはその人自身であり、家族が主体となって発達を援助していくのが良いと考えています。
私がこういった信念をもって仕事をしているように、他の方達も、おのれの信念の元に仕事や子育てをされれば良いと思います。
信念をもって仕事、子育てをしていたら、自分と違う意見の人に、わざわざ消せとか、訂正しろとか言う暇がないはずです。


私は、治った人、治すアイディアを持った人との出会いから、今は「治す」を中心に捉え、仕事をしています。
でも、それ以前は、ずっと視覚支援、環境調整を学び、実践してきました。
それ以外にも、ABAやSST、PECS、感覚統合等、一通り勉強してきました。
そうやって一通りの対処療法を学び、実践、経験したからこそ、信念をもって治す道を進めていますし、同時に、必要なときには対処療法のアイディアも使っています。
治す路線の人が、対処療法を絶対に用いない、完全否定していないように、対処療法路線の人も神経発達を促したり、感覚過敏を治したりすれば良いのだと思いますし、それが本人と家族のニーズに応えることだと思います。


発達障害支援センターこそ、本人や家族のニーズに合わせて、その時々で、いろんなアイディア、選択肢を提供できなければならないし、それが大事な役割の一つだと思います。
しかし、実際は、その機関ごとに色が出ていることがあります。
その理由は、行政からの委託事業だから。
一般のイメージとしては、専門家や優秀な支援者が集められ構成された独立した機関と思われるかもしれませんが、それぞれ母体があるのです。
県に1つ、政令指定都市に1つ、という具合ですので、個人が手を挙げて、「私やりたいです」と言っても無理です。
その場所場所での力関係、政治があるのです。


もちろん、実際に支援センターで働いているスタッフの方達は、研修を積み重ね、優秀な人も多いはずです。
でも、元を辿っていけば、委託を受けた法人の職員ということもあります。
となると、それぞれの法人の色が出ることもあるのです。
「一生涯の支援をお任せください」と言っている一方で、「支援が必要なくなるよう自立を目指しましょう」とは言いづらい。
「〇〇療法が、障害を持った方達に最適な方法です」と言っている一方で、「治す方法もあります」とは言いづらい。
「まず自分のとこで、その成果だせよ」とツッコミが入るので。
こうなると、本人や家族ではない方を向いて仕事をしている可能性がないとは言えないのです。


スタッフの人数と、任されている範囲を考慮すると、あり得ない担当、仕事量だと思います。
それでいて、各都道府県にできてから時間も経っているので、結果が出てしまっている。
そして批判されることが多い。
しかし、委託事業であり、母体の存在を知れば、過度な期待はしなくて済みます。
専門家集団で、どんなニーズにも柔軟に応えるわけではなく、色があり、意向がある。
「ここの通所、児童デイ、病院が良いですよ」と言っても、基準があって、どこでもここでも勧めているわけではないのです。
だって、治る路線の私は絶対に勧められないから(爆)
発達支援センターに行けば大丈夫、何でも応えてくれる、ということはなく、支援サービスの中の人つであって、最後はやっぱり“人”なんだと思います。
合う人もいれば、合わない人もいる。
その時々でも、合う合わないは変わってきます。


生きている者は、常に変化していますし、特に子どもさんの場合、変化がより大きいと言えます。
環境調整や視覚支援、お薬、ICTが必要なときもありますし、神経発達を促すことが必要なときもある。
子どもの支援に必要性、緊急性があるときもあれば、親御さんへのサポートに必要性、緊急性があることもある。
常に変化し、移り変わるからこそ、その時々で柔軟に対応していくことが大事なのです。
ですから、自分の主義主張、意見、専門と違う人がいても、その存在まで否定する必要はないし、否定することはできません。
特に「神経発達を促す」「治していく」は、誰しも必要な時期があるから。


私は対処療法の存在を否定しません。
何故なら、その人、その家族によって、必要なときと場合があるからです。
ただ根っこから課題を解決していく方が近道だと考えているので、優先順位が低いだけです。
私は個人事業主で、誰かの意向や利害関係はありませんので、信念の元に、その人に合ったアイディアをその時々で提供しています。
もちろん、ブログも、信念をもって、これからも好き勝手書いていきたいと思います!

2018年2月19日月曜日

良い地域って何だろう?

以前、相談を受けていた方から、自分が、我が子が「こんな風に成長しました!」とご報告をくださることがあります。
ほとんどの方とはお会いしたことがございませんが、メールや電話から伝わってくる雰囲気から、本人も、家族も大変喜ばれている顔が、姿が見えてきます。


何よりうれしいのが、その結果ではなく、「自分たちで成長できた」という達成感と、「これからも頑張っていく」という自立心が感じられたときです。
私がしているアドバイスは、占いみたいなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦であります。
ですから、実際に考え、手と足を動かしたのは本人と家族であり、喜べる今はご自分たちで作ったものです。
私にできることは、一つのきっかけになること、行動を後押しすることなので、自分たちで動き出したのなら、それだけで良かったと思いますし、役目は果たせたなと思います。
さらに行動が、発達や成長を感じられる結果とつながったとなれば、それ自体が次の行動の後押しとなりますので、私が目指している“自立”が近づいたと言え、嬉しくなるのです。


こういった喜びのご報告とともに、「函館にいる人は羨ましい」というようなお世辞を頂戴することもあります。
しかし、上記で述べたように、喜ばしい結果を得られたのは、ご自身の、ご家族の行動と頑張りですし、第一、函館にいる人で大久保がいて良かったなんて思う人は皆無です。
利用してくださっている方達も、たまたま同じ地域に私がいただけであって、もし私がいなかったとしても、自分たちでできて、発達を促すアイディアを持った人を探し出していたと思います。
それくらい主体性と純粋な想いを持った人達だからこそ、治っていっているし、治ったのだといえます。
羨ましいどころか実際は、完全アウェーのブーイングの嵐の中、細々と活動しています( ;∀;)


私も起業当初は、「地域の一つの選択肢になりたい」と思っており、おこがましくも「地域を変えるきっかけになれれば」と言っていました、ごめんなさい。
でも、この仕事を続けていく中で、この地域に、選択肢を増やしてほしいというニーズはないし、選択肢を増やすことが地域を変えることにつながらないと考えるようになりました。


その人が治るか、治らないかというのは、地域に治す系の支援者がいるかどうかではないと思うんです。
結局、全国どこであっても、治したい人は治すし、治したくない人は治さないんです。
ローカルギョーカイにぐるぐる巻きにされる地域に住んでいたとしても治っている人がいる。
反対に、治る系の支援者がいても、それを選ばない人、選べない人がいる。
そして、自らの意思で対処療法を選ぶ人もいる。
どういった道を選ぶかも、一人ひとり違うし、違うのが自然。
だから、私は「治したい」「自分たちで主体的に育てていきたい」という人達の後押しすることが役割だと思うようになりました。


近頃、「良い地域」って何だろうと考えています。
いろんな専門の支援者がいる地域が良い地域なのだろうか?
福祉サービスが充実している地域が良い地域なのだろうか?
障害に理解がある地域が良い地域なのだろうか?
でも、いくら専門家がいっぱいて、サービスが充実していて、地域の人達に障害の理解があったとしても、本人、家族が幸せだと感じなければ、その人たちからは良い地域に見えないのではないかと思うのです。
つまり、「私の地域ガー」と言う人達は、良い地域に変わることを求めているのではなく、また良い地域だろうが、そうではないだろうが、自分が幸せになることを求めているのだと思います。


私は地域を変えることが、幸せな人達を増やすことだと考えていました。
しかし、幸せな人を増やすことが、地域を変えるのだと思うようになりました。
治りたい人が治っていける。
生涯に渡る支援ではなく、自立したい人が自立できている。
支援者に委ねるのではなく、家族が主体となって子育てしたい人が子育てできている。
そのような自分の希望に向かって歩める人がたくさんいるから、良い地域になっていくのだと思います。


全国から頂く相談からは、理想的な地域とは言えないものの、それぞれの地域で、個々に頑張っている姿が見えてきます。
その地域では少数派で、孤立しているかもしれませんが、ネット上ではつながっていますし、治りたいという輪は確実に広がってきているのを感じます。


治りたい人が、治った人、治すアイディアを持った人とつながっていく。
それは地域にとらわれる必要がないものです。
治りたい人から治っていくように、幸せになりたい人から幸せになっていく。
自分の希望に向かって歩めているのなら、その人にとっては良い地域であり、そんな人がたくさんいる地域は良い地域になっていくように感じます。
ですから、私は、自分が、希望される方がどこに住んでいようとも、治す後押しをしていきたいと思いますし、「もう函館にこだわる必要はない」と思う今日この頃です。
ブログの更新が止まったら、潰れたか、闇討ちにあったか、別の場所に行ったか、転職したか、と思ってください。

2018年2月17日土曜日

平成になれない先進地域

オリンピックを観ていると、10代の頃から海外に留学し、力をつけてきた選手がいることがわかります。
「自分を高められる場所があるのなら」「今よりも、より良い環境を求めて」という強い想いを持った若者たちが、日本にとらわれることなく、どんどん世界に出ていっている。
日本が劣っている、海外の方が素晴らしい、などとは思いませんが、自らの意思でより良い環境を求めていく若者の姿にたくましさと、明るい未来の日本を思い浮かべます。


一方、福祉の世界は相変わらず、時代が進んでいきません。
老舗の法人や手広くやっている法人などは、10年も、20年も前と同じ話をしています。
「〇〇という支援があれば、自閉症の人達は安心して生きていける」
「〇〇という療法で、問題行動は治まっていくのです」
「障害を持った人からではなく、こちら側から歩み寄ることが大事なんです」


一人一台スマホを持ち、平成も終わろうかというこのときに、何十年も前と同じことを言っている。
その理由はシンプルです。
一度、「〇〇という方法が一番です!最適です!」と言ってしまった以上、あとからより良い方法が出てきても、切り替えられないのです。


「いやいや、それは個人の問題、柔軟性の問題」などと言われそうですが、こっちはシンプルにはいきません。
何故なら、いろんなものを巻き込んでしまっているから。
まず当事者と家族ですね。
当時、「治らない」で、「支援も、サービスも、財源も、理解も足りない」から始まっていましたので、障害を持った人が、また家族が一生涯安心して暮らせるよう環境づくりを行ってきました。
そのため、一生涯ケアを受けられることがゴールであり、人生設計だったわけです。
ですから、今更、「神経発達を促す方法がありました」「一生涯の支援じゃなくて、本人の発達、成長を後押しし、自立を目指しましょう」とは言えないのです。
「この道が最高の道であり、私達がその先導者だ」と言ってしまったから。


また地域を巻きこんじゃっていますね。
「我が地域は、先進地域です」なんて言って、海外からも人を呼んじゃって、後援もたくさんお願いしたし。
税金もいっぱい使ったし、特に福祉が産業になっているような地域では、福祉を中心とした街づくりもしちゃっている。
それが突然、「いや~、どんどん自立する方法が見つかったから、ゆりかごから墓場までの支援も必要なかったんですよね、テヘッ」とは言えないし、金返せになる。


さらにさらに、そういった法人って、自分たちが推し進めてきた療法の当時のリーダー達と関係ができちゃっている。
高い旅費と高いコンサルテーション代を支払い続けてきた。
その当時の大先生に見て頂いていることで、お客様を集め、「私達が先進地域です、エッヘン」とやってこれてきた。
一方で大先生も、高額なお金と実績、講演のネタを作ることができた。
ちなみに何故、高額かって言ったら、元を辿れば、自分たちで稼いだお金ではなく、税金だから。
同じくらいの規模の一般企業なら、どんぶり勘定で、そんなに高いお金は出せないはず。
一度、ズブズブな関係が出来上がったら、なかなか切ることはできません。


10年前、20年前、「先進地域」と呼ばれていた場所が、軒並み、残念な結果になっているのは、当然なのかもしれません。
全国的に、右往左往していた時期に、いち早く手を挙げて、特定の方向へと推し進めることができた。
それには、ある程度、資金と影響力を持った規模と歴史、その地域での看板が必要だったわけです。
ですが、時代はスピードを上げて、大きな変化を遂げています。
それに対応するには、老舗であること、手広くやっていることがネガティブに作用します。


自閉症、発達障害が「治らない障害」「一生涯支援が必要な障害」ではなくなった今、いち早くそういった方向へとシフトできる人、組織が生き残っていくと思います。
「一生涯の支援」「障害に理解のある街づくり、社会のシステムづくり」には、大きな看板、大きな組織が必要でした。
でも、これからの特別支援は、発達援助は、本人が主体であり、家族が後押しするものになりました。
そうなれば、今までのような大きな看板、組織は必要なくなります。
個人と個人がつながれば良いのです。


私の父は転勤が多く、いろいろな土地で子ども時代を過ごしたので、なおさらなのかもしれませんが、生まれ育った土地に縛られる感覚が分からないのです。
「私の地元に良い支援者がいない」などと仰られる方がいますが、だったら、ほかの地域に行けばいいんじゃない、って思うのです。
生まれ育った地域が、一生涯、障害を持った人を抱える時代は終わったのですよ。
多くの人が一人一台、スマホを持っているのです。
新幹線だって北海道までつながったし、沖縄と北海道だって、飛行機を使えば一日で移動できます。
スマホを使って、我が子に、自分の感覚に、願いに合った支援者を探せばよいのです。
本やネット情報など、以前と比べて、多様になってきましたよ。
SNSやメールでもつながることができる。


「私の地域ガー」は、いつの時代ですかって感じですし、ある意味、主体性のなさからの発言だと思います。
地域のせいにしている暇があるのなら、自分でより良い方法、支援者を探した方が人生の時間を有効に使えるはずです。
ギョーカイの言う意味の「早期療育」には賛同できませんが、発達援助は一日でも早いほうが良いのです。


平成の若者たちが、より良い環境、自分を高めてくれる環境を求めて世界に飛びだしていくように、昭和の私達も地域を飛びだしていきましょう。
昭和の人間たちも、まだまだ負けてはいられないのです!(笑)

2018年2月16日金曜日

発達援助と家庭料理

幼い子の親御さん、特別支援の世界にまだ足を踏み入れていない親御さんには、支援者との関係について「家庭料理」という例えでお話しすることがあります。


料理のプロは、世の中にたくさんいて、和食が専門の人、中華が専門の人、洋食が専門の人という具合に、それぞれ専門があります。
支援者も同じで、いろんな専門の人がいて、その専門の中でも、うまい店もあれば、下手な店もあります。
「欧米で認められた療法です!」なんていうのもよくあるけれども、それは世界展開しているファーストフード店みたいなもので、その料理がおいしいか、日本人の舌に合うかは別問題。
自分の国だけではなく、各国の市場を舞台に商売しているっていう意味です。


支援を専門家に頼むっていうのは、外食するようなものです。
一般的な家庭では、毎日、外食しないように、毎日、専門家に我が子の支援を頼むっていうのは普通考えにくいことです。
当然、栄養、嗜好は偏りますし、子どもへの発達、成長への影響も少なくないといえます。


子どもの発達や成長を後押しする営みは、家庭料理のようなものです。
どんな材料で、どんな料理を作るか、家族が主体的に考え、選び、手を動かしていきます。
もちろん、親御さんの中にも料理の得意、不得意があるように、どうやって育てていけばよいか、どんな支援が子どもにあっているか、わからない人もいます。
そういったときに、料理教室に行ったり、レシピ本を読んだりすると思いますが、それにあたるのが専門家です。
相談に行ったり、勉強会に行ったりしながら、ときに、実際に支援するのをそばで見たりしながら、親御さんが腕を上げていく。
だって、子育て、子どもの発達、成長の後押しは、日々の積み重ねであり、家を巣立っていくまで続くから。


発達障害の子を持つ多くが、親になって初めて、障害と向き合い、支援者、専門家と呼ばれる人達と付き合います。
そのとき、勘違いする親御さんが少なくないと感じます。
「私じゃなくて、専門家がどうにかしてくれる、よりよく育ててくれる」
しかも、支援者側がそのように仕向けるので、余計、その方向に行ってしまいがちです。


「子どもは社会が育てていくものだ」
そのように主張する人もいます。
でも、発達障害の子ども達に関しては、発達のヌケという人間としての土台の部分に課題があるのですから、家庭生活が重要であり、親御さんの力が大きいと言えます。
その土台がしっかりしたあとは、社会が人を育てていくのだと私も思います。


定型発達の子どもが「習い事何しようか?」「どの学校に進学しようか?」というレベルではなく、様々な他人が様々なことを言ってきますし、その選択がモロにその子の人生に影響してきます。
普通、家庭料理に料理人がなんだかんだ言ってこないのに、「今日の味付けが悪い」「今晩のメインは中華にしろ」と言ってくるようなものです。
ですが、それを受けてしまう親御さんがいて、食べたくない料理を食べて続けているように、舌に合わない支援をずっと受け続けてしまう。


子どもの体調、様子を見て、料理や味を変えられるのが、家庭料理の醍醐味です。
子育ても、発達援助も、子どもの状態に合わせて、支援を変えたり、組み合わせをアレンジしたりしていくのが良いのです。
家庭料理の味が家々によって違うように、子育て、発達援助の仕方もオリジナルで良いはずです。
しかし、特別支援の世界は、「この療法が一番だ」「あなたの子に合っている」と言ってきます。
ですから、家でご飯を作るように、「私が決めます!作ります!」という姿勢でいて欲しいと思っています。


時々、外食するのは良いですが、基本的には自分たちでメニューを考え、料理を作っていく。
支援者はあくまで、よりよい家庭料理を作るためのレシピ本であり、料理教室の先生です。
たまに、「うちの包丁を使わないと、うまい料理はできないよ」と支援グッズを買わせようとする輩もいますが、そんなときは蹴っ飛ばすたくましさが必要です。
親御さん自体、腕を上げ、コツを掴んでいかないと、より良い子育て、発達援助ができていきません。


ですから、支援者側も、親御さん自体が自立していけるよう後押ししなければならないと思います。
同じ家族にストーカーのようにつきまとうのではなく、家族が試行錯誤しながら自分たちの味を作っていけるように導くのが、本当の専門家と呼ばれる人の役割のはずです。
より良い成果のために研究し、腕を磨いていくのが専門家の役割であり、それを参考に我が子に合った子育て、発達援助をしていくのが親の役割ですね。

2018年2月15日木曜日

自らが治し、発達、成長させる

怪我をすると、血が出ます。
血が出たあと、その傷口を消毒したり、縫ったりして処置するのは、人間だけです。
他の動物は、そんなことはしません。
じゃあ、他の動物は怪我が治らないのかといったら、そうではなく、自らの力によって傷を癒し、再生していきます。
中には、切断した身体の部分を自己再生する動物もいます。
ですから、消毒液や縫合糸に傷を治す力はありません。
自分を治す力は自分が持っているのです。
そういった意味では、人間が作った医療も、治すための後押しをしているのだといえます。


人間の発達、成長も、同じだと私は考えています。
自らの内側に発達する力、成長する力を持っている。
しかも、それは止まることなく絶えず動いており、環境により良く適応するといった方向へと進んでいるのだと思います。


そのように考えると、発達に遅れがある子ども達は、何らかの理由で自らが持つ発達、成長する力が阻害されている状態、発揮できていない状態と言うことができます。
発達障害の人達は、ヒトの中に組み込まれた発達過程の中に抜けている部分があることが中心的な理由になります。
しかし他にも、動物として基本的な食事、睡眠、排泄に問題があること、不適切な養育、環境からの過剰な刺激などの理由も考えられます。


行動障害に関しても、環境により良く適応しようと動いた結果だと考えると、2つの側面が見えてきます。
まずすぐに思いつくのが、誤学習です。
周囲の誤った関わり、メッセージにより、誤った環境に適応してしまうということです。
また、本人が情報の切り取り方を間違ってしまい、誤った風に捉え、それに適応していってしまうということもあります。


もう一つの側面は、本人が今の環境の中でラクになろうとして動いた結果が、周囲からは認められなく、行動障害に見られてしまうということです。
自閉症で、かつ行動障害を持つ人の多くに、感覚面の課題を持っています。
周囲から理解されない彼らの行動も、そんな感覚面の課題に対する対処であり、自己治療のような気がします。
経験が浅いときには、「どうしてそんな行動をするのだろう」と疑問に思っていましたが、彼らと寝食を共にする中で、「やらざるを得ないからやっている」「そうしないと、自分の精神、命が保てないからやっている」そんな風に感じるようになりました。


人間の社会では、医療が尊いものであり、限られた人間にしかそれを行う権利がないものです。
でも、医療は治す後押しができても、根本治癒を果たすことができません。
死んだ人間の傷口をいくら縫っても、死んだ人間にいくら薬を投与しても、治りません。
生きているから治るのであり、治す力を自らの内側に持っているから治るのだと思います。


動物はみな、自らの傷を癒す力を持っているように、自らを発達、成長させ、より良く環境に適応する力を持っているのだと考えています。
ですから、発達障害の子ども達と接する援助者ができることは、彼らの力が発揮できるようにしていくこと。
なんだかんだ専門的、高度な知識と技術などと言わずとも、阻害している要因をクリアにすれば、あとは自らの力で発達、成長していくはずです。
それ以降は、彼らが適応していこうとする環境を整えていけば良いだけです。
彼らの知的好奇心、試行錯誤、やり切る気持ちを満たせる環境です。


自閉症、発達障害の人たちへの支援を専門分野にしたことで救われた人もいると思います。
しかし、専門分野にした結果、余計に糸が絡まった、支援者が思い描く人工的な環境に適応してしまった、という人もいると思います。
治す力、成長、発達する力を持った彼らに、発揮できない状態をありのままに、「これが社会だよ」と人工的な環境を用意する。
これは、とっても勿体ないことだと思いますし、ヒトの視点が抜けた育ちだと思います。


医師に限らず、先生、支援者など、「私が治しますよ、育ててみせますよ」という人よりも、上手に子どもの力を引き出し、子ども自身で発達、成長できるように補助してくれる人を探すのが良いと思います。
頼った結果、状態がもっと悪くなる、新たな問題が出てくるのはもっての外ですし、本人も、家族も、主体性が失われていく、受け身になっていく、というのも御止めになった方が良いと思います。
背中を押してほしいのに、足を引っ張られるのは御免ですね。

2018年2月14日水曜日

行動障害と向き合うときに、仲間で掛け合っていた言葉

行動障害を持つ人達の支援をしているとき、一緒に働く仲間には2つのことを言っていました。
「“障害者”として、その人を見ない」と「粘る」です。


「“障害者”として、その人を見ない」というのは、障害特性や発達の具合を考慮しないということではありません。
多くの方は、感覚過敏など、感覚面に課題がありましたし、重い知的障害などの発達面の遅れが見られました。
ですから、どうしても「障害者」として見てしまいがちになります。
でも、そこで「障害者」と見てしまうと、無意識的に一歩引いてしまうのです。
「これくらいは許容範囲かな」「こっちが我慢すれば良いや」という具合に。


そうやって一歩引いてしまうと、一歩引いたところに、支援に関わっていた本人の世界の線が引かれていってしまいます。
行動障害を持つ方の多くは、重い知的障害も持っている人が多いので、そういった支援者の「一歩引く」という感覚が、ストレートに影響を与えてしまうのです。
言葉を獲得する以前の発達段階にいるのですから、そういった動き、雰囲気が彼らにとって世の中を読み解く“主”になっている。


一歩引くのが普通になると、また次の波がやってきたとき、さらに一歩引くことになります。
こうやって知らず知らずのうちに、支援する側が一歩ずつ下がっていくと、一般的な社会で生きていくことが難しくなっていきます。
ですから、障害者という眼鏡を外します。
20歳なら、一般の20歳の男性がこういった行動は許されるかという視点で見て、介入すべきでは、指導するべきではないか、と考えていく。
また、年齢の幼い子どもだったとしても、同じ年齢の子と比べてどうだろうか、もし親だったら将来のために注意しないだろうか、そんな風に考えていきます。
そうすると、無意識に一歩引くということがなくなりますし、障害のない子と同じように、将来の自立、社会で生きていくために、何を教え、何を注意しなければいけないのかが見えるようになります。


行動障害を持つ人の支援というのは、本人はもちろんのこと、周囲にとってもしんどいことです。
しかも、身に付けてしまった行動を角度を変えて、別の方向へと導いていくのは時間がかかることです。
途中で諦めたり、支援を止めてしまうと、ある意味、糸が絡まってできあがった問題行動が、さらに別の糸で絡まってしまう。
そうすると、どんどん問題が絡み合ってしまい、どんどん解決するのが難しくなるのです。
ですから、一度、その問題行動に取り組もうとしたら、その課題が解決するまでやり通すということが大事になります。
私も実際、支援に携わるときには、「自分たちがこの問題を解決しなければ、今後、解決して暮れる他の人が現れるわけはない」と思い、取り組んでいました。


「粘る」というのは、まさしく人を育てる基本だと言えます。
発達も、成長も、自立も、本人の試行錯誤の先にあるものです。
その試行錯誤には粘りが必要であり、粘れる子を育てるには、まず大人が粘れる身体と心を持っているかが問われると思います。
子どもの発達を後押しするのが上手な親御さんも、問題行動へと繋がる芽を摘むのが上手な親御さんも、妥協しない人であり、粘る人ばかりです。


行動障害への取り組みも、子どもを育てていくことも、何か良い支援、良い教材を与えれば、ポッと解決したり、できるようになったりするものではありません。
やっぱり人が育つには、発達、成長するには1つずつの過程があると思います。
その過程を一歩ずつクリアしていくスピードは個々によって違いますので、特に発達にヌケのある子達に携わる者は、じっくり粘れる姿勢が求められます。


近頃、粘れない人が多くなったような気がします。
それは生活スタイルが変わったからだと、私は思っています。
重いものを持つことが少なくなった。
部分的な遊びが増え、身体全体、また腰を使った遊びが少なくなった。
あと、まだ私が子ども時代は、学校や公共の施設には和式便所があったのですが、今は洋式ばかりになり、かがむ姿勢をしなくなったことも、粘れないことと関係しているのでは、と思っています。

2018年2月13日火曜日

激しい行動は、エネルギー、生命力の強さの表れ

行動障害を持つ人の中で、その頻度や強度が強い人は、強度行動障害になります。
私が働いていた施設は、強度行動障害支援事業を行っていましたので、その判断基準となる「強度行動障害判定基準表」を度々使っていました。
これをご覧になればわかると思うのですが、ひどい自傷、他害、激しいこだわり、器物破損など、行動障害と聞いて思い浮かべやすい項目から、睡眠、食事、排泄、多動など、よく「問題行動」と言われている項目など、全部で11項目について、どれくらいの頻度で見られるかで得点を付けていき、一定の点数を超えると、「強度行動障害」と判定されます。


よく勘違いされている方がいらっしゃるのですが、嫌なことがあったとき、自分の頭をポカッと叩く、これだけでは強度行動障害になりませんし、行動障害というのも難しいといえます。
何故なら、ポカッというくらいの力の強さでは、行動障害と表現できるものではないからです。
また、いくら自分を怪我させるほどの力の自傷だったとしても、他の項目、つまり、ひどい他害や激しいこだわり、睡眠や食事に問題がなければ、強度行動障害の基準を超えないのです。
具体的に記せば、激しい自傷が「一日中ある」で5点、でも、他に行動障害が見られないと0点で、合計が10点以上ないと強度行動障害になりませんので、その人は「激しい自傷がある人」になります。
強度行動障害の判定基準を超えるには、ただの自傷、他害、こだわりではなく、どれも激しくて、それも頻繁に見られるものが、複数ある必要があります。
ですから、強度行動障害と判定されるくらいになるまでには、相当難しいといえます。


私が施設で接してきたひどい強度で、それも頻繁に見られる人達。
そういう人達の多くは、糸が絡まりまくっている状態、そんな風に見えました。
始まりは発達のヌケや遅れだったのですが、それが人や環境の影響を受けながら、よりいびつな方へと形作られていった。
「もう少し早い段階で何かできなかったものか…」
「ネガティブな影響を与えた要因が一つでも少なかったら…」
ここまであらゆる面で、行動障害が現れなかったのに、と思うこともありました。


しかし今、「エネルギー」というワードを見聞きする中で、発達のヌケと環境のズレだけではなく、本人たちにも共通性があったような気がしてきました。
それは、みなさん、エネルギーに溢れていたということ。
もちろん、本人の持っているエネルギーが間違った行動の方へ向かってしまった結果、強度行動障害と言われるくらいまでになってしまったのですが、そのエネルギーが強かった人ばかりだったように記憶しています。
満ち溢れたエネルギー、生命力が自分や外に向かっていってしまった。
受け身のタイプの人や熱量が少ないような人は、行動障害がなかったように思えます。


そう考えると、不適切な方向へと向かわせてしまったエネルギーを、ちょっと角度を変えて、適切な方向へ進路を変えてあげられれば、自分や他人を傷つけるのではなく、助ける力になっていたかもしれないと思いました。
溢れ出たエネルギーが行き場を無くし、処理することができず、長年の間に身に付けてしまった不適切な行動を通して発散させていたような気もします。
ですから、周囲から見える不適切な行動も、本人からすれば、自己治療の一つだったのかもしれません。
もちろん、それを容認することはできませんが。


夏休みなどの長期休暇の際、帰省等で職員数に余裕があるときには、ゆっくり時間をかけて、行動障害の子と一緒に散歩、遠足に行っていました。
自然豊かな場所でしたので、近くの野山を歩き、たくさん汗をかく。
そうすると、その日に限っては、行動が落ち着き、表情も自然になるのでした。
特に運動や身体に関する知識があったわけではありませんが、「自然の中で運動は行動を落ち着かせる」、職員は経験の中でそう感じ、先輩から後輩へと代々受け継いできたのでした。


今、振り返れば、満ち溢れていたエネルギーを、その人が持っていた生命力を、服薬や様々な支援で抑えようとするのではなく、発散させる方法をもっと大切に、また価値あるものと捉えればよかったと反省しています。
元気のない行動障害の人っていませんでしたね。
みんな、力に溢れていました。
それが周囲に与える怖さにもつながり、作用して、職員に「抑える」を強く意識させたのかもしれません。
たとえ誤った使い方だったとしても、エネルギーがなければ、行動は起きない。
激しい行動は、エネルギー、生命力の強さが表に出た姿なのかもしれないと改めて思いました。

2018年2月12日月曜日

接待を求める人

突然、絡んでくる障害を持った子の親や当事者の人というのは、日頃から接待受けてます臭がプンプンしてきます。
見ず知らずの私に対しても支援者というだけで、自分の意見や要求が通る、横柄な態度をとっても許される、そんな風に考えているように思えてきます。
「支援者」という文字だけで甘えてしまうのですから、周囲にいる支援者というのは、たくさんいい子いい子してくれているのでしょう。


発達障害は親の育て方が原因の時代が過去にあり、今もそのように見られることがありますので、その揺り戻しとして丁寧に扱い過ぎる傾向があるように感じます。
「障害を持った子を持つかわいそうな親」などと、支援者側が勝手な価値観を持っていると、「心のケアが大事」などと、とにかく傷つけないように、親が気持ちよくなるように、と対応してしまう。
さらに「傾聴」なんて言われますから、親の言うことを「うんうん」と聞いてしまう。
耳を傾けて、しっかり聞くことと、親の言うことはすべて聞く(否定しない)は違いますよね。


しかし、こういった支援者の対応も、親御さん自体の揺らぎが収まってくると、違和感に感じてきます。
でも、そこで現実が改善せず、揺らいだままでいると、だんだん支援者の接待が親自身の癒しになり、甘えにつながっていくのです。
飲食店などでも、店員の対応が悪いと文句を言う人はいます。
こういった人間は、お店に行ってお客様扱いしてもらうことを求めているんですね。
つまり、実生活が満たされていない、実生活の中で自分の存在価値が見いだせない。
だからこそ、お店に行き、お客様扱いされることで、自己治療している。


「支援者なら何でも言うことを聞いてくれる」という誤学習は、支援者側の仕事の意味のはき違えと、親側の現実的な問題、下手くそな自己治療の結果だといえます。
現実が充実していればクレーマーにはなりませんし、逆言えば、クレーマーの多くは、現実世界に問題を抱えた人なんだと考えられます。
ですから、支援者ということだけで横柄な態度が取れる親というのは、実生活に、特に我が子の成長に関して不満や不安があるということであり、その周りにいる支援者も、その現実を変えられるくらいの力がない、また接待が支援だと勘違いしている、そんな姿が想像できますね。


一方、当事者の人の接待慣れというのは、親の接待慣れと比べて、説明がシンプルです。
以前は「自閉症の想像性の障害から」なんて、私も教科書通りな浅い解釈しかできていませんでしたが、そうではなく、ただ単純に住む世界が狭いだけ。
自閉症のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちも、学校を卒業し、社会に出ていろんな人と出会い、働き始めると、社会のルールや暗黙の了解、人との付き合い方が分かり、実践できるようになっていっていました。
ですから、障害特性ではなく、狭い世界で生きている、いろんな人と関わっていない、経験不足なのだと思います。
そういった当事者の人達の多くは、ごく限られた人の中で、特に支援者と利用者という関係性がある人の中で生活しているので、勘違いが続き、誤学習が進んでいく。


では、なぜ、支援者側は当事者の人に接待しがちなのか?
もし一般就労や社会の中で生きていけるように、と本気で考えていたら、接待などせず、社会の中でより良く生きていけるような接し方、指導をするはずです。
支援者という仕事は、障害を持った人がいて成り立つ仕事であり、利用回数によってお金が増えていく仕事です。
ですから、お客様扱いして、何でも要求を受け入れておけば、ずっと利用してくれる、そんな考えで接待している人もいるでしょう。
でも、私がシンプルに思うのは、結局、支援者自体が無理だと思っている。
「この人は一般就労は無理」「一生福祉の世界にいるだろう」「どうせ問題行動は治らない」
そんな諦めを含んだ「無理」が接待を後押しするのだと思います。
「今、問題が起きなきゃいいじゃん。だから、一般的に考えたら、おかしいし、ダメだけれども、うんうんと聞いて、その場しのぎをしておこう」って感じです。


突然、絡んでくる当事者の人は、だれかれかまわず、また時間も関係なく、接待を求めている傾向があります。
こういった様子から、エネルギーを持て余している姿が想像できます。
仕事をしていないか、福祉的な軽作業をしているのでしょう。
あり余った消費しきれなかったエネルギーを、自分が唯一できて、長らく受けてきた接待という下手くそな自己治療へと向かわせてしまう。


こうして考えてみると、やっぱり治ることが大切なんですね。
突然絡んできた相手に対して、一般的な、常識的な対応をすることで、接待しない人もいることを伝える。
でも、接待を求めてしまう根っこは、実生活の不満と不安とつながっている。
ですから、実生活、特に障害を持った本人がより良く発達し、成長することが、接待を求める気持ちを減退させ、同時に接待に向かわせたエネルギーを本人の未来への後押しに向かわせる近道です。


治ることは、治すことは、本人の自立とより良い生活だけではなく、迷惑をこうむる人を減らすことにもつながる。
そのためにも、支援と接待の違いを理解することが、本人、家族、そして支援者にとっても必要なことだと思っています。

2018年2月11日日曜日

多様性を認める社会に生きる上での最低限のマナー

SNSを利用されている方は経験があると思うのですが、いきなり見ず知らずの、しかもハンドルネームで突っかかってくる人がいますね。
私も年に1,2回は絡まれるのですが、その人達は障害を持った子の親御さんであったり、当事者の人っだったりすることがほとんどです。


最初の頃は、「自分の表現がまずかったのかな」「文章力の問題かな」なんて思っていましたが、いつも決まって一部分を取り上げて、また独自解釈をして、なんだかんだ言ってくるので、これは実生活の中で鬱積した感情を持った人が、自分で処理できずに、誰でも良いから他人を巻き込んで自己治療しているのだと思うようになりました。
私のブログを定期的に読んでくださっている方たちやツイッターをフォローされている方たちの中にも、「ここは違う意見だ」「この考えは間違っていると思う」「別の事実、見方もあるのでは」などと思って目を通されている人がたくさんいるはずです。
いつも、まったく同じ意見だということの方が不自然です。
でも、だからと言って、いちいち突っかかってはきません。


どうしても何か言いたくなるのは、自分の中に処理できていない、認めたくない感情があるからだと思います。
それが私の言葉によって呼び起こされる。
突っかかってくる人は共通して、まるで自分が一人言われているかのように捉えています。
たとえ自分の意見と違っても、自分が選択したことが否定されていたとしても、自分自身が納得して選択したのなら揺るがないし、スルーできるはず。
不特定の人に向けた文章を自分の意思で見て、「私のことが言われてる!」となるのは、元から自分の中にその感情、経験があるからに違いありません。
勝手に風呂場を覗き見しておいて、「なんだ、俺のタイプじゃないじゃん」って文句言っているようなものですね、その人にスケベ心があるから覗くのです。


やりとりを繰り返していると、よく「支援者なんだから、発言、影響力に気を付けろ」みたいなことを言われます。
たとえ私が支援に携わる仕事をしていたとしても、すべて正しいわけではありませんし、そもそも日本にいるたくさんの支援者の中の一人です。
影響力があるはずはありませんし、影響力があるように感じているのは、受け手の勝手な解釈だと思います。
こういった人は、多分、主体性のない人で、権威主義の人なのでしょう。
医師が言うから信じる。
先生が言うから信じる。
支援者が言うから信じる。
でも、実際は心から信じているようで、権威によって自分の素直な感情を抑え付けているのだと思います。
その実生活の反動で、見ず知らずの支援者に吐き出し、甘えているのだと感じます。


もともと論理的な主張ではありませんし、実生活の不満が解消されなければ収まらない感情なので、途中で議論がかみ合わなくなります。
そうなると、これまた決まって「藁をも縋る想いの人が騙される」と言った文言が出てきます。
いやいや、藁をも縋る人はあなたには関係ないし、一人の親が、一人の当事者の人が、それを心配し、それを自分の中の正義で正せと言うのはおこがましいことだと思います。


藁をも縋る想いで、周囲に相談できず、切羽詰まった感じの方から電話がくることもあります。
「もうどうしたら良いかわからない」と感情が乱れている方もいます。
そういった方から連絡が来れば、時間が許す限り、その人が落ち着くまで付き合ってきました。
それで私が終わったあと、「はい、相談料、10万円振り込んでください」と迫るのなら、それは詐欺まがいだ、これ以上、被害者が出ないように、と言われても仕方がないかもしれません。
でも、お金を要求したことはありませんし、壺などを売ったりしたこともありません。
お金を頂くのは、直接援助したときであり、それも依頼があったときのみです。
ですから、藁をも縋る想いの人にはできることを行っていますし、商売について文句を言えるのは、実際に利用してくださっている方達だと思います。
その人達が、「やっていることがおかしい」となれば、ただ潰れるのみです。
利用したこともないし、これからも利用することのない人が、商売について言ってくるのは、ただのクレーマーだと捉えられても仕方がないことです。
また脅迫まがいまでエスカレートしたら、クレーマーも業務妨害で罪に問われるので、お気を付けください。


精神科の服薬に関して補足すれば、医師の診察で処方されたのなら、服用すべきだと思います。
ただ医学の世界では、発達障害は治る障害ではないと言われていますし、発達の遅れにつながった神経発達を促す薬があって、それによって発達障害を治すといった治療をされていることを聞いたことがありませんので、精神科の薬を飲めば、発達障害が治っていくですとか、行動障害が治っていくといったものではないはずだと、臨床してきた立場からの考えを述べたまでです。
薬の力を借りつつ、その一方で、どう育て、何を教えていくか、という視点がなければ、根本から治っていくことがないと思います。
施設で働いていたときも、精神科薬に関して職員の判断でということはなく、減らすにしても、増やすにしても、必ず医師の指示を受けながら、また日々の様子を報告しながら、そして保護者の同意を得てからになっていました。
職員の判断で行ってしまったのなら、それこそ、その人に対する人権侵害になると思います。


昨日のブログを読んで、医師になってから言え、せめて薬剤師の資格を取ってからモノ申せ、と言っていた自称医療関係者もいました。
こういった人は、日頃、「患者さんの意思を尊重しながら」なんて顔でニコニコしていたとしても、腹の中では「素人の癖に、診察、処方に関してガタガタ言うな」と思っているかもしれません。
ほとんどの医療関係者は、このような発言をする人ではないと思いますが、もしかしたら、自分が受診する医師が、看護師が、薬剤師が、そうではないと言い切れません。
多くの親御さんは、医療関係者ではありませんし、医師と一対一で向かい合わなければなりませんので、自分の頭でいろいろと考えておくことが必要ないことだとは思いません。
医療の力を借りつつ、どうやって我が子を育てていくか、それを考えることは、医療関係者ではなくても、親なら誰でもやって良いことであり、必要なことだと思いますね。


多様性を認める社会は、自分と意見が違う人、嫌いな人も一緒に暮らす社会です。
ですから、そういった人達のことが気にいらなくても、否定や排除をしてはいけません。
直接、自分に関わるのなら、きちんと向き合い、主張すべきですが、そうでないとしたら、他人の権利を侵害していることになりかねません。
少なからず、親、また支援に携わる者たちがこういったことを知り、実行している必要があります。
そうでなければ、子ども達が多様性を認められる人には育たないと思います。
どうしても愚痴や文句があるのなら、見えないところでやる、他人を巻き込まずに自分で処理する、これは大人の最低限のマナーではないでしょうか。

2018年2月10日土曜日

医師だって治すつもりで処方してないですよ、精神科薬

ある時期から、入所してくる子ども達がみんな精神科で処方された薬を飲んでいるようになりました。
それまでのお兄ちゃん、お姉ちゃん達は、3歳、4歳などといった幼少期から服薬している子はほとんどいませんでしたし、精神科薬を飲み始めるのは、行動障害がひどくなったときから、といったものでした。
しかし、いつからでしょうか…あっ、早期診断、早期療育が言われ始めてからですね。
自閉症、発達障害と診断を受ける→精神科薬処方→服薬といった流れがポピュラーになったのは。


発達障害の人達にとって精神科薬は対処療法の一つです。
精神科薬に発達のヌケを育て直す作用はありませんし、そもそも処方している医師たちは、「発達障害は治らない」と言っています。
ですから、医師も治すつもりはないし、根本治癒を目指したものではありません。


あまりにも幼い子ども達が3歳とか、4歳とか、一般的に言ったら幼稚園の年少組、年中組のときから精神科薬を飲んでいる。
これは衝撃でしたし、みんなボーとしていたし、学校から帰ってきたら眠くて起きていられなかったですね。
学校の先生からも、授業中、上記のような状態があり、「学習が難しい」と言われたこともありました。
ですから、服薬しなくて済むように、と言いますか、もともと施設に入所したのですし、家で生活しているときのような対処は必要ないのですから、服薬中止の方向で支援を進めていきました。
まあ、その結果は予想通りと言うか、支援が整えば、落ち着くし、そうでなければ、いくら薬を飲もうが関係ない。
薬を飲むのと、飲まないのの違いは、副作用があるか、ないかでしたね。


ごく一般的な感覚として、幼稚園で遊んでいる子ども達が精神科の薬を毎日飲んでいるって、どう思いますか?
医療関係者じゃなくても、ヤバいっしょって思いませんか。
心身共に成長著しい時期で、神経発達の障害と言われている子が、今まさに人生で一番神経発達が盛んな時期を過ごしている。
そこに化学物質を入れる。


「これで感情の起伏が落ち着く」「これでADHDの症状が収まる」
そんなことを言われて処方される子もいるようですが、感情の起伏のない幼稚園児、走り回らない幼稚園児って、そっちの方が心配ですね。
たとえ、衝動的に手が出てしまう、走り回って目が離せないくらいの状態だったとしても、服薬で抑え付けても根本となる神経発達を促さないと、課題は先送りにしただけで、ずっと治っていきません。


そうすると、よくあるパターンで、対処的に始めた服薬が、小学生になっても、中学生になっても、大人になっても止められない。
だって、課題は残ったままだから。
そして、長い年月、服薬を続ければ、神経発達に影響がないわけはなく、服薬ベースの身体になり、脳みそになる。
だから、服薬を止めた途端、飲まないことの方への身体的、精神的ストレスが強くなり、大きく乱れる。
で、「やっぱり服薬は必要ですね」となり、薬を飲み続け、また飲み続ければ飲み続けるほど、利きも悪くなるから量は増えていくばかり。


よく考えてみればわかりのですが、問題行動があって服薬している人って、ずっと問題行動していませんか。
服薬のみで問題行動が治ったなんて、今まで私は見聞きしたことはありませんね。
ただ服薬の結果、問題行動ができないくらいまでの状態になった、という人達は見てきましたが。


まあ、ここまで医療関係者でもない私が、経験から好き勝手書いてきましたが、精神科薬は対処療法だとわかったうえで、納得して使っているのなら、それで良いと思います。
服薬することで、頭のざわつきがなくなった、整理して考えることができるようになった、という方達もいます。
それで勉強や仕事の効率が上がり、より良い生活が送られるのなら、現代医療の力を借りればよいのです。


ただ子どもの場合、神経発達が盛んである、心身共に発達、成長過程である、ということは考えなければなりませんし、どういったことに対処するために飲むのか、根本の発達のヌケ、遅れにはどうやってアプローチしていくのか、どうなったら服薬を止めるのか、その辺も当然、大人には考える責任があると思います。
初めは対処のつもりだったけれど、服薬ベースの身体ができあがってしまった、もう一生飲み続けなければならない、なんていうのは望ましいことではありません。
発達障害は精神障害ではないのですから。


「エビデンスが無い」ついでに、最後に見てきた事実をいくつか。
診療報酬は、診察<<<<<<<薬の処方。
どちらかというと、知的障害が重い子、意思表示が乏しい子が服薬している場合が多い。
問題行動がきっかけで服薬を始めた人は、ずっと飲み続けているし、ずっと問題行動が続いている。
一度飲み始めたら、抜くまでがとても大変、時間がかかる。
幼い子の場合も、服薬を完全に止めてから、その子が本来持つ子どもらしさが出てくるまで、数か月単位の時間がかかる。
1年以上飲んでいた子は、やっぱり年単位でかかるし、思春期以降、長年飲み続けてきた人は…以下自粛。


2018年2月9日金曜日

「幸せ」という言葉を使って伝えたいこと

ブログでこんなことを書くと、一気に宗教っぽくなってしまうんですが、「幸せに生きる」これこそが目指すべきゴールだと考えています。
「治りたい人」「治したい人」を後押しする活動を行っていますが、ぶっちゃけ治っても、治らなくても良いと思っていて、それよりも「ああ、幸せだな」と本人や家族が感じられたら、それこそが最も大事なことだと思うのです。
ですから、初めてお会いするときと、私の援助を終えるときには、特に強調して伝えますし、関わる過程でも「幸せ」という言葉を使います。


「幸せ」という言葉を使って、私が一番伝えたいことは、何かを得て幸せになるですとか、何かを達成して幸福感を感じるですとか、そういった類のことではありません。
私が伝えたいことは、自分の感覚を大切にする、中心に考える、ということです。


支援者から「この子は、無理せず、できることをやっていけば良い」「この子は、一生涯支援を受けながら生きることが幸せなんです」と言われて、そう思うのならそれで良いと思います。
でも、「ずっと支援を受け続けることが幸せなんだろうか?」「挑戦させないで、私達が転ばぬ先の杖でい続けることが、この子のためになるのだろうか?」、そんな疑問や違和感があるのなら、それは止めた方が良いと思うのです。


専門家が言った、周りに私と同じ考えの人がいない、そんな理由で、自分の感覚に蓋をする人が少なくありません。
精神科薬の服薬だってそうです。
親としては飲ませたくない、このままずっと飲み続けることがこの子の健康、発達に影響しないだろうか、副作用に苦しまないだろうか、そう思っていて、私にもお話しされる親御さんもいます。
でも、服薬を続けている。


朝、子どもを学校に送りだし、子どもは学校、放課後は児童デイで、夕方暗くなって帰ってくる。
親としてはラクだけれども、本当にこの子のためになっているのだろうか、そして、ほとんど顔を合わせない子育てって、家族での日々って幸せなんだろうか、療育よりも子どもと一緒に遊びたい、普通の家族のようにいっぱい思い出を作りたい。
そう思う人もいます。
子ども達が成人したあと、振り返ったら家族一緒の思い出があまりなかった、親としての達成感がなかった。


「支援を受け続けることが幸せだ」というのは、頭で覚え、考えた「幸せ」なんだと思います。
福祉の中で働いている今が幸せだと感じているのか。
そう感じられないとしたら、別の道があるはずですし、目指して動き出す必要があると思います。
常に今ある状況を「幸せかな?」と考える癖を付けた方が良いはずです。
本当は「快」と感じられるかが大事なのですが、「快」が良く分からない、という方が多いので、私は「幸せに感じるかどうか」という表現で伝えるようにしています。


「幸せ」でいえば、選択できることこそ、幸せだと私は考えています。
どんなに美味しい料理でも、どんな不自由のない生活でも、自分で何も決められない、というのは辛いことだと思います。
日本は、住む場所と仕事の選択の自由が認められています。
法律を犯さない限り、発言も、生活も、個人が決められます。
ですから、自分の感覚を大事にすると同時に、子ども達には将来の選択肢が増えるように、狭めないように育てていく必要があると考えています。


個人で選択できる自由があるのに、ここでしか生活できない、支援を受けないと何もできない、どっちかを選ぶのもサポートがいる、そんな状態では、子ども達は将来、選択の自由を謳歌することができません。
結果として、将来、選択できるものが減っていくのは仕方がないことです。
でも、最初から、どんどん選択肢を切り捨てていく、増やすようなことを目指さない、ではいけません。


いくら衣食住で満たされていても、そこに個人の選択の余地がなく、与え続けられた生活だったら幸せを感じられないはずです。
自分で選べるから幸せで、選べる選択肢があるから生活が、人生が豊かになる。
判断基準は、そこに「幸せに感じるか?」「快を感じるか?」
子育てのポイントは、この子が大人になったときに、より多くの選択肢があるようにする。
私はそのようなことを「幸せ」という言葉を使って伝えています。

2018年2月8日木曜日

教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく

長らく対処療法を推し進めてきた地域だからかもしれませんが、「絵を見せたら、パッと理解できた」「部屋を構造化したら、すぐに落ち着いた」みたいなのをイメージされている方達が少なくありません。
みなさん、すぐにパッと結果が出ることを求めているし、専門家の支援とはそういうものだと考えているように感じます。
ですから、「発達のヌケを育て直すには、家族が中心となって家庭でコツコツ積みあげていく必要があります」というような話をすると、「えっ」という表情をされますし、やっても続かない人が多いですね。
始めて一週間も経たないうちに、「大変です」「私には無理です」「先生、どうにかして」と言ってこられる方もいます。
対処療法しか知らず、対処療法慣れをしてしまった結果なのでしょう。


当地で言えば、視覚支援、構造化された支援が長らく、今も(?)中心でした。
「構造化された支援は、自閉症者の生活を豊かにする最適な方法である」
そんな風に押し進められ、今も信じている人がいます。
確かに、問題行動を起こしていた子が、生活が構造化されることによって落ち着きを取り戻すこともあります。
言葉で伝えてもなかなかわからなかったことが、絵に描いて伝えたら、「瞬時に理解できた!」ということもあります。
ですから、推し進めてきた側は「最適な方法」と言うし、見ている側は、すぐに結果が出るもんだから、「これこそが支援だ」と思う。
でも、大事な視点が抜けているし、隠されているんですね。
そうです、これってその場限りの対処療法だってこと。


視覚的に示したり、構造化して環境を整えたりすれば、理解できるし、落ち着くことだってできる。
でも、多くの人達が肌身で感じているように、場所や文脈が変わった途端、また元の状態に戻ってしまう。
推し進める側は、場所が変わってできなくなるのは自閉症の特性だと言い、そのためにもっと構造化が必要だと主張する。
それを聞いた多くの人は、場所が変わる前にできていたんだから、「その特性に配慮しろー」「できなくなった場所にいた支援者が悪い、構造化していないのが悪い」となる。
しかしながら、結局のところ、対処療法で対処していただけのことですから、根本的な課題にはアプローチしていないし、根本的に理解したわけでもありません。
むろん、発達のヌケは埋まっていきません。


施設に、強度行動障害バリバリの人が入所してくる。
暴れまくって、どうもこうもできない、生活自体がままならない。
その場合、最初は精神科薬を処方してもらって、まず精神を安定させる、支援が受け入れる状態にすることが多いですね。
精神科薬が利いていて、ちょっとした間ができているとき、私達は一気に支援を組み立て、何を教えて、何を補助するかを決定します。
あくまで精神科薬は一時的な補助であって、行動障害を治すのは支援であり、指導なのです。
根本にアプローチする支援や指導がなくて、精神科薬オンリー、また飲み続けるのは、ただの人権侵害だと私は思います。
問題行動が治るんじゃなくて、できないくらいの状態までにしてしまう。
だから私は、自閉症、発達障害の人が精神科薬を飲み続ける意味に懐疑的であります。


ちょっと話がずれてしまいましたが、つまり、対処療法はどこまでいっても対処療法であり、補助でしかないということです。
ですから、対処療法のみでは不十分であり、根本的なアプローチ、発達のヌケの育て直しも必要なのです。


いろいろな親御さんと接していると、上記のように「対処療法こそ、すべての問題を解決する」といったように考えている方もいますし、ご自身が愛着面、発達面、生活面で課題を抱えている方もいます。
昨日のブログで書いたように、これから発達障害を治すためのアプローチが基本となっていきますので、親御さんの主体性と継続する力が求められていきます。
すべての課題を自分で考え、乗り越えられる親御さんばかりではありませんので、課題が解決できるように、結果が出るまで辿りつけるように後押しするといった役割も必要になってくると思います。


発達のヌケの見立て、「対処」と「治す」のバランスをとる、というのは技術ですので、あまり難しいことではありません。
むしろこれからは、本人の持つ発達、成長する力を引き出すのと同じように、親御さんの持つ直感と育てる力、想いをどう引き出していくか、その点を重視し、できる支援者が求められるのだと考えています。


私は仕事をしていて、発達援助を学んでいて、支援者が教え、補助する時代は終わったと感じています。
教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく。
本人の治す力を引き出し、治ったあとは、その人の持つ資質の良い面が自然と引き出されていく。
親御さんが持つ治したい想いと直感、本能を引き出し、その力を発達援助に繋げていく。
これからの支援者という仕事は、「引き出しの多さと上手さ」だと私は思っています。

2018年2月7日水曜日

支援者は消えても、対処療法は残るからご安心を

対処療法を求め、広めようとする人たちの中には、「治す」が広まってしまうと、自分たちが推し進める対処療法が消えてしまうんじゃないかと危惧している人もいるようです。
でも、いくら「治す」が広まっても、対処療法がなくなることはないと思います。
幼少期や、今まさに問題が起きてしまっているときなどは、じっくり育て直すよりも、スピードが必要であり、対処で乗りきらなければならないことがあります。
また視覚支援や構造化、イヤーマフ、電子機器など、根本の育て直しにはつながらなかったとしても、より良く学び、生活できるアイディアは、時代が進もうとも活用されていくはずです。
ですから、「治る」が広まっても、対処療法は残っていくと思います。


近い将来、5年もすれば、「治す」は標準になると思います。
もしかしたら「治す」という言葉は使われなかったとしても、発達障害は神経発達の障害なのですから、「その神経を育てていこう!」「発達のヌケているところは刺激を与えて育て直していこう!」となるはずです。
治った人も珍しくなくなり、治すためのアイディアも溜まっていくはずですから、全国各地で神経発達を促すための試行錯誤が行われていくと思います。
対処療法や補助を利用し、今の生活の質を高めつつ、もう片方で発達のヌケの育て直しを行っていく。
それが近い将来の基本的な姿になると予想しています。


そんな近い将来は、求められる支援者の姿も変わっているはずです。
特定の対処療法しか引き出しのない支援者は必要がなくなります。
「根本から治す」と「対処する」の両方の視点がなければ勤まりませんし、これが最低基準になると思います。
このベースの上に、発達のヌケの見立ての質の高さ、一人ひとりに合わせた治すと対処の組み立てができるかが問われてくる。
「治す」と「対処」の絶妙なバランスが見える人、取れる人です。


そして、「根本から治す」を追い求めていくと、どうしても家族、家庭と突き当り、その力が重要になってきます。
発達のヌケを育て直すのは、家族が主体であり、家族の試行錯誤の中で育まれていくものです。
そうなれば、今のように支援者はいらなくなります。
正確な発達のヌケの見立てができ、一人ひとりに合った組み立てができる支援者が少数いればいいのです。
そういう人が後方から発達援助を後押しし、本人と家族が主体的に発達と成長の道を進んでいく。
ここまでくれば、学校の先生が今のように福祉ではなく、教育に専念できるはずです。


近い将来、支援者のほとんどは消えてなくなります。
残った少数の支援者達は、腕の良い人と、福祉の中で介護をする人です。
我が子に発達のヌケがある。
そのヌケと育て方を支援者がアドバイスする。
親御さんが主体となって育て直しを行っていく。
学校で、その子がより良く学べる方法を使い、学習を積み上げていく。
卒業後は、より良い社会を作る一員として飛び立っていく。
彼らが働いて納めたお金を使って、幼い子を持つ親御さんへの支援、福祉の力を必要とする人達へサービスを届ける。
こういった循環する自然な形の社会へ向かっていくのだと思います。


極端なことを言えば、私を含めた支援者という存在がいらなくなる社会を目指す。
家族が土台で、その上は社会が育んでいく未来。
障害を持った子の“人生”、我が子の自立と幸せを願う“親心”、みんなが汗水流して収めた“税金”を食い潰し寄生虫のような存在になってしまっている支援者には一日でも早く消えてもらわなければなりません。
そのために、私は今、治っていく人を一人でも多く社会に飛び立たせることに励んでいます。
時代が変われば、私の仕事も必要なくなる。
それで良いのです。

2018年2月6日火曜日

エビデンスが得られたとしても、治るを選ばない人、否定する人

「治るなんてインチキだ!」と言う人は相変わらずいます。
そして、その理由を「エビデンスがないから」と言う。
でも、治ることにエビデンスが得られたとしても、そういう人は「治る」を選ばないし、粗探しをしてでも否定すると思うんです。


何故なら、彼らが守りたいのは、エビデンス、科学的根拠ではないはずだから。
だって、そう言っている人の大部分は、親御さんだったり、支援者だったりするのです。
研究者だったらエビデンスにこだわるのもわかるけれど、申し訳ないですが、一般の親御さん、そこら辺にいる支援者がエビデンスを守ろうとする意義もなければ、私にはその意味がわかりません。
一般的な感覚なら、目の前にいる子が「より良くなる」それ以外の軸はないと思うんですね。


じゃあ、彼らが「治る」の何に恐れているのか。
それは、「発達障害になるのは誰のせいでもないが、発達障害が治らないのは親のせいであり、支援者のせい」、つまりこういうことだと思うんです。
結局、我が子の発達、成長よりも、自分が否定されることを恐れていて、そうなりそうなときのために「治らない。だって、障害だから」という逃げ道がほしいということなんだと感じます。


愛着の土台がしっかり育っている人は、他者から何を言われようとも揺らぎません。
ですから、自分の育て方を信じて進むことができるし、もし他者からの指摘が「そうだな」と思えば、柔軟に取り入れることができる。
指摘されること、否定されること=自分の存在自体が否定されている、ではない。
それが頭でも、身体でも、感覚でもわからない。
そういう自分の愛着に課題が残っている人が、治るを否定し、「治らないのは、あなたのせい」と言われるのを恐れているのです。


よく治るを目指している親御さんの中にも、「私が悪くて、なかなか治っていかない…」などと自己否定っぽく言われる方がいますが、たとえ治っていかなかったとしても、別に親御さんが悪いとか、悪くないとか、言っているわけではありません。
ただ単に治し方がずれているか、発達のヌケの部分の見立てが誤っているかです。
それを頭の中で自動的に「治らない=自分のやり方が悪い=自分はダメな人だ」と変換してしまっている。
やっぱり何でもすぐに自己否定と繋げてしまう人というのは、愛着という土台に揺らぎがあり、課題がある人なんだと思います。
そういった人にとっては、たとえ我が子だとしても、治らない方が安心でき、「みんな治らない」ではなく、人によって治るなどという違いが明確になることを恐れるのだといえます。


常識的に考えて、我が子が治って困る親も、関わっていた子が「もう支援はいらないよ。自分の力で生きていけるから」というように成長して困る先生、支援者もいないはずです。
本人が一番治ることを望んでいる。
じゃあ、治って困るのは、誰なのか?
それは自立しないでずっと支援を受け続けてくれることで商売になる人達と、自分を必要としてくれる弱い立場の人がいることで愛着を埋めようとしている人、自分自身の土台が不安定で、いつも指摘されることにびくびく恐れている人。
プライドが高い人、虚勢を張る人というのは、愛着という土台が脆いからこそなのだと思います。


発達障害になるのは誰のせいでもありません。
でも、治るか、治らないかは、本人と親御さんの力にかかっています。
だからといって、治らないのは、本人に問題があるわけでも、親御さんが悪いわけでもありません。
ただ発達のヌケの見立て、発達援助の仕方に問題があるのです。
その問題に気づかせ、後押しするのが、真の支援者の仕事だと考えています。


2018年2月5日月曜日

「治る」を強調しなくても良い時代へ

治らないと信じている人が、「発達障害は治りません!」と言うのを見ると、可笑しくなってしまいます。
だって、言っている本人が信じられていないんじゃんって思うからです。
治る治らないじゃなくても、自分が信じ、確信していることを、知らない他人が反対の主張をしていたとしても、普通は気にも留めませんね。


治らないと信じ、確信して子育て、支援されているというのなら、そのまま治らず、治さず、歩まれたら良いはずです。
治らないと思っていた子が治らなかった。
言っている通りになったのですから、それで良いじゃないですか。


でも、「治る」と言う人や、治った人を見かけると、どうしても何か言いたくなる。
それは、妬み、僻み、嫉みの表れであり、そもそも「治らない」を信じ切れていないということです。
だから、いちいち「治る」を否定してこようとする人は、必死さがある人ほど、「治らない」という主張が揺れているのです。
「治らない」という確信が持てないから否定しようとする。
本当は治ってほしいと願っているからこそ、必死になる。
治らない確信が持てている人は、わき目も触れずに治らない道を突き進むものです。


じゃあ、お前はどうして「治る」という言葉を使うんだ?
お前こそ、「治る」という確信が持てないから否定するんじゃないか?
と言われそうですね。
以前、「治す」という言葉を敢えて使って宣伝しているんだ、とズレた見解を示していたローカルギョーカイがいましたが…。


私が「治る」という言葉を使うのは、発達障害は治るし、治った人を見てきたからそう言うのが一番の理由です。
そして、発達障害という診断を受けた子の親御さんが、まず想う「治る方法はないだろうか」という願いをギョーカイに潰してもらいたくないからです。


ギョーカイが垂れ流す情報はもちろんですが、公的な機関でも「治らない」という情報で溢れています。
でも、「本当にそうだろうか」「治る方法があるのではないか」と想い続ける親御さんはいます。
そんなとき、「治る」という言葉と出会えれば、希望を持ち続けることができ、自然な親心とエネルギーをお子さんの発達、成長に注ぐことができます。


一年以上、探し続けて、やっと私とつながった方もいます。
しかし、別に私とつながらなくても良いのです。
治らないしかない世界と思っていところに、「治る」という言葉が存在することに気が付けば。
治る道があることを知れば、そのまま、突き進める親御さんもいますし、治るを軸に行動すれば、治す人、治った人と縁が結ばれていきます。
逆に言えば、治るという視点がなければ、治る人と縁が生まれません。


私が「治る」という言葉を使うのは、治る道があることに気が付いてほしいから。
別に、「治らない」と信じている人に、「治ります」と伝える目的も、考えを改めてもらう願いもありません。
繰り返しになりますが、治らないと信じている人の子が治らないのは当然ですし、お望み通りで良かったですね、と思います。


治りたい人、治したい人のために、「治る」という言葉を敢えて使っています。
でも、その必要も、あと5年もすれば、なくなると思います。
私が敢えて使わなくとも、全国に治った人が出てきて、どんどん社会の中で働き、活躍していくはずです。
また2000年代から、特別支援と名が変わってから、ブイブイ言わせていた専門家の先生方も、もうすでに時代のニーズと主張が合わなくなってきていますし、引退が近づいている年齢の方ばかりです。


これから生まれてくる子ども達とその親御さん達は、地域にいる治った人の姿を当たり前に目にするでしょう。
同時に、「治らない」と信じて歩まれてきた人の姿も目にするでしょう。
そうなれば、どの道を選ぶか明らかです。


「治る」なんて言葉を敢えて強調する必要がない時代が、一日でも早くやってくるよう私は治したい人の後押しを頑張る。
そして、子育て中の親御さんは、我が子を治し、社会の中で自分の資質を活かし、主体的な人生を歩めるよう育て、援助することが、それぞれの地域の後輩たちの希望の道をつくることになると考えています。
私は、治りたい人、治したい人とのみ共に歩いていきます。

2018年2月2日金曜日

「治ってほしい」と願わない親などいない

「発達障害は治りません!」
そう言う親御さんは、嘘をついていると思う。
そう言う親御さんは、他人に言っているようで、本当は自分自身に言っているのだと思う。


「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」
声を荒げながらも、心の奥底で「治ってほしい」と願っているはずだ。
だって、そうでしょ。
現代医学では「治せない」「治った子が一人もいない」
そのような病気、障害を持ったとしても、「もしかしたら、世界には治せる人がいるかもしれない」「今は無理でも、数年、数十年待てば、医学の力で治せるかもしれない」
そう思って、愛する我が子と懸命に生きようとしている家族はたくさんいる。


もし私の子に重い病気があり、私の心臓が必要だと言われたら、喜んで心臓をあげようと思う。
自分の命と引き換えに、息子の命が助かるのなら、息子の病気が治るのなら、我が身など惜しくはない。
それが自然な感情であり、親心。


施設で発達障害の子ども達と共に生活していたとき、自傷する子を見れば苦しくなった。
睡眠障害で一晩中寝られず、声を挙げていた子がいれば、「寝られなくて辛いよね」と一緒に朝を迎えた。
あのとき、私の中に治るという視点も、治すという方法もなかったけれど、こういった子ども達を見れば、いつか医療で治るようになってほしい、と思っていた。
今だって、他人様の子の発達援助に携わらせてもらっているが、いつも「治ってほしい」という想いでいる。
だから、「発達障害は治りません!」「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」と言っている親御さんは、嘘つきだと思う。
自分自身に嘘をついている。
本当は、誰よりも治ってほしいと願っているに違いない。


世の中には、症例がほとんどなく、不治の病と言われている難病の子ども達がいる。
大変な状況で生まれきて、「今日一日、一日が生きているだけで奇跡」という子もいる。
そういった子ども達、親御さん達が、希望を持って精一杯生きているというのに、何故、発達障害の子の親御さん達が諦めるのだろうか?どうして諦めることができるのだろうか?


発達障害は神経発達の障害だ。
彼らの身体の中には神経がないのだろうか?
神経がダメージを受けて、もう変化が起きないのだろうか?
いや、違う。
彼らの身体の中にも、発達する力を持った神経が全身にめぐらされている。
彼らの神経も、刺激を欲している。
治らないという人達だって、発達障害を持つ子ども達が成長する姿を目にしているし、成長すると思っているから教育、療育を受けさせているのではないか。


「神経が発達していかない」「神経が死滅していく」
そういう障害が、発達障害だとしたら、私も「治そう」などとは言わない。
でも、実際は私達と同じように変化する神経を持っている。
違いがあるとすれば、受精から誕生、現在までの成長過程の中に「発達の遅れやヌケがある」それだけである。


啓発活動の先頭に立ち、「理解をー」と叫んでいる親御さん達を見ると、悲しくなる。
本当は、社会が変わるなんて思ってもいないだろうに。
発達障害の人達が住みやすい世の中なんてこないことを知っているだろうに。
どんなに社会の、地域の理解がなかったとしても、我が子が発達、成長し、自立した生活が送られているのなら、それで良いはずだ。
社会が変わらなくても、我が子が治ればそれでいい、我が子が幸せならそれでいい。
そういうのが自然な親心。
啓発活動に傾倒していくのは、自分の純粋な親心を見ないようにするための己との戦いであり、治す方向へと向かえずに行き場を失ったエネルギーの消耗という苦肉の策である。


「発達障害は治りません!」
「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」
「治るとか言うのは、障害の理解がない!」
そう言って声を荒げるのは、「治る」という人、「治したい」と思う親御さんに対する否定ではなく、ちょっとでも気が緩めば溢れ出てきてしまう「治ってほしい」という純粋な感情を必死で否定しているのである。
叫ばないといけないくらい、叫ばないと保てないくらい、本当は治ってほしいと思っている。


私のところにくるメールの文面には、「治したい」「治ってほしい」そういった言葉が、想いが、親心が隠れることなく、堂々と溢れている。
実際のセッションを行えば、治すためのヒントを少しでも多く掴もうとする純粋な親御さんの目が、私を見ている。
「お金は関係ないから、治すためのアイディアを知りたい」と、離れた場所から私を呼んでくださる親御さん達もいる。


みんな親なら治したいと思う。
少しでも治っていくのなら、あらゆるものを投げうってでも掴もうとするのは自然な姿だと思う。
医師から、専門家から「治りません」と言われて、「はい、そうですか」とは普通ならない。
なるとしたら、その親御さん自体に主体性も、内部感覚も、乏しいのであって、まず親御さん自体が治らなければならないのだ。


自分に嘘をつくくらいだったら、「治りません!」と叫ばないとならないくらい辛いのなら、「私は、我が子に治ってほしいと思う!」と声を出せば良い。
他人がどうだとか、専門家がどうだとか、どうでもいい。
親として我が子にどうなってほしいのか、どうしたいのか。
大事なのは、ただそれだけ。
「発達障害は治らないから」と涙目になるくらいなら、そのエネルギーを我が子が少しでも治る方向へと使う。
その方が、我が子も、自分も、家族も、幸せになる。


自分自身に向けた嘘であっても、そばで聞いている人がいる。
それは、誰よりも幸せを願う我が子だ。
あなたは、我が子に向かって「治りません」という言葉を言うことができるのだろうか?