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私の価値はご縁によるもの

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昨日までに、すべてのご家庭へ報告書を発送することができました。 子どもさんの一日、一時間、一分は、かけがえのない時間であり、その瞬間に発達の息吹が詰まっていると思っています。 ですから、できるだけ早く、特にこのお正月休み、冬休みを親子の育み合いのより良い時間にしていただきたいと願っていますので、「どうにか年内に。いや、絶対に完成させる!」という思いで報告書を作成していました。 12月中旬くらいまでは余裕があったのですが、気がついたら大晦日って感じで、ブログを書いています。 2018年の始まりは、福岡出張で、最後が北海道の旭川。 ありがたいことに、函館以外のご家族、支援者から声をかけていただくことがあった一年でした。 依頼してくださることは大変嬉しかったのですが、そのたびに「どうして私なのだろうか」と思うのでした。 私は、今まで出会った子ども達や家族から教わったこと、素晴らしい実践家の皆さんから教えてもらったことを自分なりに咀嚼してお伝えしているだけです。 私自体に、何かスペシャルなものがあるわけではありません。 ですから、わざわざ交通費や宿泊費を負担して頂いてまでも、私がお伺いする価値があるのだろうか、と悩むことがありました。 実際、「ご家庭でできることがあります」「私を呼ばなくても、方法はあります」「小田原の方が近いですよ」「同じお金で、鹿児島に行けます」などお伝えし、ご依頼を取り下げていただいたご家族もいました。 改めて、こうして一年を振り返ってみますと、自分に価値があるから依頼があったわけではないのだと感じます。 そして、訪問したご家族、相談のやり取りをさせてもらったご家族が、みなさん、我が子を治し、より良い育みをされているから、私に依頼があったのだと思いました。 みなさんがどんどん治し、子どもさん達が伸びやかに成長していく姿を見せてくれるから、「じゃあ、うちも相談してみようか」となるのでしょう。 なので、私が持っているのは、素晴らしいご家族との縁だと考えています。 いろんな縁や経験、知見をいただいた一年でした。 いただいたものを、また次の人へ、新たなご家族へ、少しグレードアップしてお渡しするのが、私の役割のような気がしています。 私に依頼、仕事が来るのは、我が子の将来を世界のだれよりも真剣に考え、より良い子育

内側に流れている時間がズレている

「学校の授業に集中できない」 「指示されたこと、やらなければならないことを、すぐに忘れてしまう」 「人の話を聞くことができない」 こういった状態像を報告すれば、すぐに発達障害、ADHDの診断名が付きますね。 それで、お決まりの服薬が始まります。 集中力の問題で、診断を受け、それから相談に来られる方は少なくありません。 「うちの子、集中できないんです」 「注意散漫で困っています」 と親御さんは言われるのですが、子どもさんは横でゲームに没頭しているんですね。 相談の間中、ずっとゲームしていますので、「お子さん、集中力あるじゃないですか」と言うと、ゲームに関しては、自分が好きなことに関しては、と返ってきます。 ゲームに集中するのが、「好きだから」と捉えている限り、一生答えは出ませんね。 じゃあ、授業が面白くなれば、集中するのか、と言ったら、そうではありませんし。 第一、興味関心の問題だとしたら、服薬する意味がなくなってしまいます。 こういった子ども達の多くは、ゲームが好きだからやっているのではなく、ゲームに主体、身体、生活が浸食されてしまっているんです。 発達の物語を見ても、特に発達のヌケが見当たらない。 親御さんからも、遺伝的な雰囲気を感じない。 でも、本人はADHD。 そうなると、環境要因が匂います。 私は、子どもさんに訊きますね、「ゲーム、面白いの?」と。 すると、ほとんどの子どもさんが「わからない」と答えます。 わからないけれども、やっている。 本人たちも、どうして、こんなにもゲームをしているか、わからなくなっているんですね。 それくらい、圧倒されてしまっている、生活の一部になってしまっている、ということなんです。 ゲームをすること自体は、悪いことではないのかもしれません。 でもね、700万年の人類の歴史の中で、こんなに強い光、スピードの速い刺激は存在しなかったのです。 700万年中、699万9980年くらいは、自然界になかった刺激。 それに対応できるだけの脳も、身体も、まだ進化していないといえます。 ですから、まず第一に、「ゲームのやり過ぎが、人体に影響しているんじゃね」と思わなくちゃいけません。 タブレット、動画、DVDも同じです。 目から、耳から入ってくる刺激に対し、子どもの感

『藤家寛子の減薬記』(花風社)を読んで

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先週に引き続き、花風社さんから藤家寛子さんが書かれた新刊(Kindle版)が発売されました。 今回の内容は、薬。 長年、薬を服用されてきた藤家さんが減薬を遂げるまでの出来事、内面の変化。 それがリアルに伝わってくる文章でした。 文章の中には、具体的な薬の名前が出ていました。 出てきた精神科薬を見て、正直、私は驚きました。 もちろん、どのくらいの量を飲まれていたかまではわかりませんが、出てくる薬の名前は、私が施設で働いていたとき、強度行動障害を持った方、しかも、みなさん、重度、最重度、測定不能とまで言われるような知的障害を持たれた方が日常的に服薬されていたものでした。 薬の管理と服薬の介助は、職員である私達が行っていましたので、「あの薬を藤家さんも飲まれていたのか」と思うと、驚くばかりでした。 藤家さんが服薬されて体験されたこと、感じられたことは、当然、施設にいた方達も同じように体験され、感じられていたと思います。 もしかしたら、彼らのみせた激しい行動、気分の上下も、副作用の表れだったかもしれない、と感じました。 すべてがすべて、彼らの特性であり、強度行動障害ゆえ、だったとは言えないかもしれません。 服薬の種類や量が変わったとき、彼らはそれまで以上に不安定さをみせることがありました。 しかし、それが副作用かどうか、薬の変化から起きたものなのかを証明することはできませんでした。 何故なら、薬を体内に入れた本人しか、その感覚はわからないからです。 ましてや、薬が変わるということのほとんどは、本人の状態や行動障害がネガティブな方向へ進んだからであり、それらを落ち着かせるために処方がされたのです。 薬の変更後の“荒れ”は日常であり、医師からも「ある程度、飲み続けないとわからないから」と言われますので、ときが過ぎるのを待つわけです。 一方で、薬の変更後、すぐに激しい行動が収まることもあります。 でも、その場合の多くは、激しい行動と同時に、覇気、精気まで失うのです。 行動障害が収まったのではなく、行動障害が起こせなくなるから収まった、というのが実態だと思います。 そのため、「覇気や精気、気力が失ってしまいました。これでは学校や作業、日常生活に支障が出ます」と報告しますが、「じゃあ、元の激しい行動のときに戻っていいの?」と返って

『藤家寛子の沖縄記:治ってよかったの旅』(花風社)を読んで

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昨晩、更新された藤家さんのブログを拝見し、新刊が発売されたことを知りました。 そして即効で購入! Kindle版、電子書籍の良い面は、このように読みたい本を、出版された瞬間に読むことができることですね。 全国どこにいても、「時間の差が生まれない」というのは、「住んでいる場所に関係なく治していけるんだ」という花風社さんのメッセージを連想します。 一方で、今回の新刊は、「時間の差」「時間の移り変わり」を強く意識する内容でした。 今年の5月に沖縄に行かれたときのお話を軸に、最初に沖縄に行かれたときのお話、学校時代、闘病していた頃のお話、作業所から一般就労、そして現在のお話とを結びながら、私達読者に「時間の差」を感じさせてくれます。 時間の差とは、つまり、治っていくまでの経過、治ってからも、さらに治り続けていく時の流れです。 私も、ある程度の経験を積みましたので、どのくらいで変化が出てくるか、どのような順序で発達していくのか、本人の発達の流れを見て、将来の姿をイメージすることができます。 そういったお話を、親御さんにしますと、皆さん、喜ばれ、希望を感じられる方もいます。 でも、その喜び、希望は、朝の占いで「今日の〇〇座が一位!」というレベルなのです。 私が、今後いくら経験を積み、発達の流れが読めるようになったとしても、朝の2分間の占いから脱することはできません。 私には、ご本人や親御さんに、心からの希望を与えることはできません。 しかし、それができるのは、当事者の方の声であり、体験であり、その人が一生懸命歩まれてきた時間の流れなのです。 特に治っている方のお話は、今まさに治る道を歩まれている子ども達、親御さん達の内面、内側に届く希望です。 だからこそ、今回も私は藤家さんの本を読まれることをお勧めします。 藤家さんの本、文章、メッセージは、内側を響かせるパワーを持っているから。 藤家さんの本は、すべて読みましたし、持っています。 最初の頃の本と比べると、文章から伝わってくる雰囲気が全然違います。 文章からも、治っていることが伝わってきます。 しかも、どんどんまろやかに、伸びやかに、楽しさが伝わってくる文章に変わっています。 それは、今もなお、治り続けているから、そしてご自身の資質が磨かれ、それを人生、社会のためにどんどん

未発達ゆえに、十分な発達の保障がされなかったゆえに

友人から、「教室の中には発達障害の子がいっぱいる」という話を聞きました。 他人の感情が読めない子。 離席や衝動的な行動が目立つ子。 ボーとしていて集中できない子。 一つひとつ指示がないと動けない子。 確かに症状や様子を聞けば、発達障害が疑われますし、ギョーカイ系の医療機関にかかれば、すぐに診断名もつくでしょう。 でも、私は「未発達な子ども達」のように感じます。 どちらかといえば、遺伝的な要素よりも、後天的に、育つ環境の中で、発達障害になっていったという雰囲気を感じます。 就学前の子ども達の中にも、夜の10時、11時になっても起きている子ども達が増えているそうです。 子どもは、夜になれば、起きていたくても起きれないのが自然なのに。 まだ言葉がはっきりしていない時期からタブレットで動画を何時間も観て過ごしている子どももいます。 食事も、食べたくないものは食べない、また食べなくてもいい、という家庭が普通になっている。 こういった話を聞くたびに、子どもの発達する権利は守られているのだろうか、と思います。 「寝られない子」ではなく、「寝れない子」 「食べられない子」ではなく、「食べない子」 「タブレットの刺激に圧倒されている子」ではなく、「タブレットが好きな子」 私が、子どもの神経発達について指摘すると、こういった言葉が返ってきます。 あたかも、それがその子の「個性」であるかのように。 大人の中には、寝られない人もいるし、食べられない人もいます。 四六時中、タブレットを見たり、スマホをいじったりしている人もいます。 もちろん、大人であっても、それは不健康な状態といえますが、大人ならなんとかやり過ごすことができます。 しかし、それが子どもとなれば、しかも、乳幼児となれば、影響の大きさは比べものになりません。 ある程度、神経発達が完成し終わった大人と、今まさに神経発達をしている最中の子ども。 人類の歴史の中で、たった数年、数十年の間に生まれた刺激に対し、適応できるだけの身体にはなっていないのです。 不登校の子ども達の相談もよくきます。 学校の人間関係、トラブルなどが理由として挙げられ、それに対しカウンセラーが、教員が、学校が、家庭が話し合いを続けたりします。 そして、それでも解決の糸口が掴めなければ、医療機関

支援者が評価されるとすれば、2つしかない

「早期から療育してきたのに…」「何年間も、療育機関に通ってきたのに…」、一向に改善がみられない、課題が解決しないままでいる、といった場合があります。 その理由は、そこの療育が、子どもさんに、子どもさんの発達のニーズに合っていなかっただけ、というシンプルなもの。 しかしかながら、親御さんの中にはそう思わない人が少なくなく、「我が子の障害が重いから、改善や解決が見られないんだ」「ゆっくりしか成長できない子なんだ」と捉えるのです。 子ども自身、発達障害があろうがなかろうが、発達、成長する力を持っています。 ですから、基本的な栄養や睡眠、心身の安全が守られていれば、自然と伸びていくもの。 支援者が仰々しく、「私達の支援でここまで伸びた」なんて言うことがありますが、本人の発達の流れから見れば、ただ単に本人の持っている発達の力で進んだだけ。 支援者が関わろうが、関わらまいが、「それくらいは伸びるよね」というのが少なくありません。 第一、週に数時間関わっただけで、良いも悪いも、変化を与えられるわけはないのですから。 支援者が評価されるとすれば、2つしかありません。 本人の発達を堰止めているものを取り除いたとき。 具体的に言えば、発達のヌケを埋める、本人の誤学習をぶった切り、修正する。 もう一つは、本人の持っている発達の力、スピードよりも加速させれたとき。 「発達の流れからいって、自然とこれくらい発達するだろうな」という地点より先に、より早く進んだ場合、良い後押しができたと評価されて良いと思います。 つまり、あの支援者と関わって、「止まっていた発達が動き出したな」「発達の大きさ、スピードが変わったな」という実感を得られなければ、あまり意味がない、ということ。 「公的な機関だから」「有名な先生だから」「一回通ったら、途中で止めにくいから」「どうせ無料だし」というのは、言っちゃあ悪いけれども、親御さんの趣味嗜好。 療育を受けるのも、支援を受けるのも、子どもが主体であるのですから、子どもにとって効果があるかないか、可能性を広げるものか、という視点で考えなければなりません。 「療育に通って効果が得られないのは、我が子が重いから」というのは、支援者にまんまと洗脳されてしまっています。 「障害が重いから効果が出ない」のでしたら、支援者も、療育も

心地良いリズムを作っていく

一生懸命、子どものために情報を集めたり、試行錯誤されたりするのと、子どもにあれもこれもさせるのは、ちょっと違う話だと思います。 「早く治ってほしい」と願うのは自然な感情だといえますが、植物が水や肥料をあげ過ぎると枯れてしまうように、子どもも多すぎる刺激は、却って良くないこともあるのです。 子どもが起きている時間は、「なにか発達に繋がるものを」というように、いろんな活動をされる家庭があります。 そういった想いを持たれるのは自然だと思いますが、いつしか「そう動かなければ、うちのこは治っていかない」というようなプレッシャーを自らにかけている親御さんも少なくないように感じます。 そういった親御さんに対し、私は空白の時間の大切さを伝えています。 何もしない時間、していない時間というのは、外から見える世界です。 子どもの内側に目を向ければ、脳内のネットワークを繋げている時間であり、刺激によって起きた興奮を静め、次の発達に向けて整え、準備している時間だといえます。 特に幼少期の子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですので、特別なことをしていない時間だったとしても、内側では神経が伸びたり、繋がったり、整理したりしているのです。 ですから、空白の時間、刺激が少ない時間を過ごすのは、決して無駄な時間ではなく、むしろ、今まさに神経発達が行われている瞬間と言うこともできます。 また、空白の時間は、子どもが自ら主体的に、自分に必要な刺激、動き、遊びに向かっていける時間だといえます。 どんなに頑張っても、子ども本人になることはできません。 なので、どうしても、良かれと思ってやっている活動、与えている刺激、環境も、本人が求めているものとズレが生じてしまいます。 本人が今、求めている発達刺激と、こちらが与えようとしている発達刺激とのズレです。 そのズレを埋めるのが、空白の時間であり、その空白の時間を使って、本人が主体的に、自由に自らを育てていくのだと考えています。 子どもを治すため、より良く育てるために、日々頑張られている親御さん達の中から、「もう限界です」「私には無理です」という相談を受けることがあります。 お話を伺うと、親御さんがヘトヘトであり、子どもさんもヘトヘトという場合が多いのです。 こういった親御さん達は、能力や頑張りが足りないのではな

言語発達とリズム

「言葉の遅れ」と一言で言っても、その状態には幅があります。 まったく言葉を発しない、発声のみの状態から、言葉は話すけれども、単語レベルだったり、語彙が少なかったり、心情などの抽象的な概念の表現ができなかったり…。 当然、状態によって、背景や課題が異なりますから、ざっくり「言葉の遅れ」などとはいわず、詳しく確認する必要があります。 同時に、言葉に関して、どのような流れ、変化があったかを確認することも必要になります。 例えば、ずっと言葉を発しない状態が続いているのか、それとも、同世代の子ども達と比べて、1,2年の遅れはあるものの、ゆっくり発達、変化が見れれているのか。 ある程度の段階まで順調に発達が見られていても、ある段階にきたら、そこで急に止まった、なんてこともあります。 でも、大事なのは、変化があるか、あったのか、です。 変化が見られたなら、そこに発達の芽があるということ。 ゆっくり発達しているのなら、方向性は間違っていないので、あとは加速させる後押しを考えれば良いだけです。 以前、関わったご家族から「言葉が出るようになりました!」というお話を聞くことができました。 まだ幼い子どもさんだったのにもかかわらず、専門家からは「言葉の遅れがあるのが自閉症だから」ということで、言葉が出るのを望むよりも、代替手段を使ってコミュニケーションすることを勧められたとのことでした。 で、ご縁があって、相談に乗らせていただいたのです。 その子とお会いしたとき、確かに言葉は発していませんでした。 でも、多分、この子は言葉が出るんじゃないか、と思ったのです。 「もう少ししたら、しゃべると思いますよ」とも言いました。 その理由は、私が話している言葉の理解があったこと。 そして何よりも、「あー」とか、「うー」といった発声の段階ではありましたが、節が見られたことが大きな理由です。 節、つまり、リズムですね。 ただ「あー」とか、「うー」とか伸ばすだけだったり、空気を吐くに近いような短い音だけだったりすると、まだ言葉が出るのは先かな、と思いますが、そこに長短や強弱、リズムが出だしたら、そろそろ言葉が出るな、言葉の準備を頑張っているな、と思います。 どうして「節」「リズム」が言葉が出る予兆になるのか、と言われたら、経験則に基づくというのが正直な

発症する前に治す時代

仕事の関係で、また我が子の学校行事等で、幼稚園や保育園、学校へ行くことがあります。 そういったとき、感じるのが、定型発達と言われている子ども達の発達の課題。 特に、身体面、運動面で課題がある子、まだ未熟な子があっちも、こっちも、といった感じです。 私も子育てしていて思いますが、自然に任せておけば、勝手に発達していく、だいたいの発達課題をクリアして育っていく、というのは難しい。 遊びがどんどん乏しくなっていると感じます。 まだ私が子どもの頃なら、放課後も時間がいっぱいあったし、遊ぶ場所もたくさんありました。 公園の遊具だって、今みたいに守られたものではなく、スリルやワクワクがあったものでした。  虫もたくさんいたし、川とか、木登りとか、あまり何々してはいけない、どこどこにいってはいけない、なんてことはなく、自由な時間を謳歌することができました。 そういう中で、当然、私の中にもあった発達の課題はいつしか育まれ、クリアされていったのだと想像します。 一方で、今の子ども達は忙し過ぎます。 学校も、小学校一年生から15時近くまで授業があるし、みんな、習い事で忙しい。 結局、親も忙しいから、子どもも習い事や学童で時間を埋めているのでしょう。 チコちゃんに怒られそうですが、ボーと生きる時間が、子ども達の脳を育む時間だったりすると思うのです。 創意工夫、身体が遊び道具の遊びから、インスタントで、部分的な遊びへの変化。 子ども達の遊びが乏しくなれば、当然、発達課題のやり残しが出てくるし、刺激の乏しさが脳の偏りを作ります。 また、食事もどんどん貧しくなっています。 長年、浴び続けてきた農薬と化学肥料により、土の栄養が貧しくなったから。 当然、その土から育った作物は、昔のような栄養素を蓄えていません。 野菜を食べても、得られたのは水分のみ、なんてことも。 栄養の偏り、乏しさは、子ども達の心身の発達にダイレクトに影響します。 私達、親世代の体内にも、いろんな要素が蓄積されているでしょう。 環境面のリスク因子を体内に貯め込み、それを子どもの世代に渡してしまったのは確かです。 そう考えると、子ども達の世代、そしてその次の子ども達の世代へと移っていくたびに、発達の課題やリスクを持った子が増えていくのは、想像に難しくありません。 き

情報提供しているだけ

「出張に行った、行く予定」に対して、「売名行為だ」「自慢している」と言われました。 生きづらーい(;´∀`) 出張に行ったのも、行く予定も事実だし、何よりも道外に出張に行ったからといって、偉くもなんともない。 徒歩圏内で相談、発達援助を行うのも、飛行機に乗って相談、発達援助をするのも、何ら違いはありません。 やることは一緒。 むしろ、我が子のために、今後のより良い子育てのために、時間とお金をかける親御さんの方が何百倍も偉い。 だって、それだけ真剣に子どもと向き合い、今という時間を大切に感じているのだから。 世の中にはエラソーなことは言えるのに、行動できない人がたくさんいる。 だからこそ、私は行動できる人を尊敬するし、その人の願い、要望なら全力で応えたいと思います。 出張の話をしたのは、全国に同じ想いをしている親御さん達がいることを伝えたかったから。 時々、ブログに載せる子どもさんの話も、親御さんの話も、そう。 治る人、治った人、治るための知見やそれを持っている人は増えてきたけれども、まだまだ多数派にはなっていないし、まだまだこういった事実を知らない人が大勢います。 治る道を歩みだした人だって、身近に共感してくれる人がいなくて、孤独感を持ちながら進んでいる人だっています。 だからこそ、私が関わらせてもらった子どもさん、親御さんで、ヒントになるエピソード、励まし、希望になるエピソードがあれば、それを紹介させてもらっています。 私が関わった人達のエピソードを載せるのは、ただ単純に知っているからです。 知らないことはブログに書けません。 しかも、私が関わったから良くなった、治ったなんてことは思ってもないですし、そんなはずはありません。 何度も言うようですが、私に治す力はありませんし、治すのは本人であり、家族です。 本人が発達のヌケを育て直す行動をし、家族がそれを後押しするための行動をしたから、治ったのです。 今までにも、いろんな方達の育み方、発達のヌケの育て直し方を一緒に考え、伝えてきました。 でも、治らなかった人、治っていない人もたくさんいます。 「ああすれば、根っこが育っていき、伸びやかに成長できるのに」 「ここから育てていけば、ラクになるのに」 私がそう思っても、やるかやらないかは、本人、家族が決めるこ

支援者に手柄などあるわけがない

数年に渡って、一人の若者を鳥かごの中に押し込めようとしていたのにも関わらず、本人が仕事を始めると、「あなたは自立できる人だと思っていた」と言ってしまう、あまちゃん県の支援者。 散々、人権侵害してきたし、同県のギョーカイ人達がひどいことを行ってきたのを見聞きしていたのにも関わらず、そこで本人のことを守ろうともしなかった、「それはおかしい!」と同県のギョーカイに抗議をすることもしなかった。 本当に、この若者のことを信じ、自立できるような人だと思っていたのだったら、必死に守るし、一緒に闘うはず。 言葉なんて、あとからでも、なんとでも言えます。 100万歩譲って、本当に可能性を信じていたとしても、ボーと見ているだけだったら、それは同県のギョーカイと同じ。 身近に、自分を助けてくれる人、応援してくれる人、そして何よりも一緒に理不尽と闘ってくれる人がいなかった、その孤独感、喪失感を想像したことがあるのか、と言いたい。 行動が伴って初めて、言葉に信用が生まれるもの。 本来なら、「申し訳なかった」と謝り、自分の見る目の無さ、ウデの悪さ、行動に移せなかった卑怯者の心を悔やむのが、ヒトとして、ひと様を支援する者として自然な姿。 自らの過ちに気が付くからこそ、今までの己の支援、同県のギョーカイのあり方から、切り離すことができる。 そして、より良い支援、支援のあり方へと変わっていくチャンスを得る。 本人が変わったのに、支援する側が変わらない、というのはあり得ないこと。 結局、こういった支援者の変わり身、手の平返しは、あわよくば自分の手柄にしたい、という想いの表れです。 あまちゃん県に限らず、こういった類の話は、よくあることです。 だって、私だって、何度も経験しているから。 あれだけ「この子が、一般就労を目指すって(笑)」「IQが上がるわけないでしょ」「感覚過敏は治らないの、それが障害だから」と言っていたのにもかかわらず、治ったり、一般就労したりすると、「うちの支援が良かったから」「うちの学校の教育が良かったから」と言う。 しかも、それを対外的にも言ってしまう。 学校見学のときの実績として、講演会のネタとして。 「てらっこ塾??そんなのやめちまえ」と言っていたのにね。 ギョーカイというのは、一般就労した人、自立した人、治った人の話を欲してい

治したいと思うのは、誰か?

支援者や学校の先生からも相談や助言を求められることがあります。 自傷や他害などをどうにかしたい。 対処療法ではなく、根本から育てていきたい。 そういった熱い想いをぶつけてくれます。 根本から解決したい、育てていきたい、というのは、親御さんに近い視点です。 ということは、それだけ目の前の子どもとしっかり向き合えている証拠。 だからこそ、私はそういった支援者、先生たちを応援したいと思います。 でも、治すのは支援者でも、先生でもありません。 治すのは、本人であり、家族。 発達の土台、根本を育てようとすればするほど、家庭に突き当たるのです。 自然な家庭での営み、子育ての中に、根っこを育てる舞台がある。 いくら療育機関や学校で解決しよう、治そうとしても、時間も、環境も、日常の部分であり、断面でしかありません。 発達とは、本人の主導で育まれていくもの。 「さあ、療育の時間です」という具合にはならないのです。 生活の土台、生きる土台である家庭の中で、やりたいときに、やりたい育ちをとことんやり尽くすことによって、発達が満たされていきます。 安心した雰囲気の中、本人のペースで発達が育まれていく。 発達のヌケは、支援機関に通う前に、学校に入学する前に、できているものです。 なので、やっぱり支援機関も、学校も、“治す”にふさわしい場所ではありません。 発達のヌケは、ヌケが生じた環境で育んでいくのが良いといえます。 ですから、支援者や先生が、根っこに注目し、それを掴もうとすると、家庭と繋がっている。 家庭での育みがなければ、いくら外で頑張っても、課題の解決には至りません。 脆弱な土台の上に、何かを建てようとしても、不安定で、すぐに崩れてしまうからです。 相談やアドバイスを求められる方達の悩みの本質はここ。 結局、問題行動も、発達の課題も、根っこから育てなければ、という想いを抱いている。 でも、自分たちが関われるのは、生活の一部。 だから、どう頑張っても、自分たちの関わりが根っこを養う力までに及ばない。 支援者や先生が頑張れば頑張るほど、その支援、指導が、上辺へのアプローチになってしまい、バランスを崩すことに繋がるというジレンマを抱えている。 案外、何もしない同士の方が、子どもは安定しているもの。 家庭という土台

個人が、個人で治していける時代へと移り変わる時期

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相談にいらっしゃる方達から、「どうして、同じ地域に大久保さんのような人がいるのに、支援機関の人達は教えてくれなかったのでしょう」と言われることがしょっちゅうです。 いつものことですから、私は「組合に入っていないからでしょうね」と答えています(笑) 支援センターとは、公的な機関であり、その地域の資源でもあります。 だから、本来は「この地域には、こんな資源、サービス、人がいて、現在の相談内容からしますと、こういった選択肢が考えられます」と提示すること、そして相談者の意思と選択を尊重した上で、相手の機関とつなぐことが役割だと思います。 最初から、紹介するところ、除外するところを決めておいたり、支援者側の都合で勝手に相談者の選択を誘導したり、決めたりするのはもっての外。 なんとか“センター”というくらいですから、地域という円の中心に存在していて、相談者の利益につながるような情報とアイディアと結びつける。 でも、実際は、地域という円ではなく、自分たちを中心とした円を勝手に引いてしまい、そこに入る組織と入らない組織かを見定めている。 青いお祭りは、いわゆる踏み絵です。 だから私は、誘われても「NO」と言い続けた。 結局、自分たちで引いた円の中に入った組織、人間だけで、パスを回し続けます。 障害者支援とは、利用すればするほど、儲かる仕組みだからです。 ちゃんとパスを返してくれる組織にだけ、パスを出す。 一つの機関で抱えていたら、その機関のみしか、回数が増えていきません。 ましてや、自分自身で解決したり、家庭での取り組みだけで治ってしまったら大変です。 だからこそ、お互い裏で悪口を言いながらも、支援機関、支援者同士で繋がりを持つ。 だからこそ、相談者に提供する情報は、支援者が事前に選別しているのです。 事業を起ち上げた当初、「あそこには挨拶行っといた方が良い」「あっちとは敵対しない方が良い」「あの人とはつながっておいた方が良い」などと言ってくる人達がいました。 その人達は親切心で言っていたのかもしれませんが、私には意味が分かりませんでした。 私が組織の中にいる人間なら、そういった振る舞い、行為をすることが、組織に適応し、地域に適応することへとつながったのかもしれません。 でも、私は事業を起ち上げたのです、独立したのです。

地域が問われない時代、問われるものは?

スマホを使えば、簡単に情報が得られる時代です。 ですから、治したい人、一生涯の支援ではなく、育んでいきたい人にとっては、良い時代になったのだと思います。 以前ですと、地域によって違いがありました。 どういった資源があり、どういった学校、支援者がその地域にいるかが、子ども達、親御さん達に大きな意味をもたらせていたといえます。 「先進地域」などという言葉が使われたことが、それを物語っていたと思います。 でも、今は「先進地域」などと言われません。 何故なら、先進的な“地域”はなくなったから。 あるのは情報であり、その情報を得ているか、どうかの違いになりました。 地域に関係なく、治したい人が治していける時代になったのは歓迎すべきことだと思います。 特に、成人した方達にとって、「地域が問われなくなった」というのは素晴らしいことです。 自らの意思と主体性で支援を、生活を、人生を選択できるようになったのです。 昔のように、障害を持った人を地域の支援者、支援機関が結託して鳥かごの中に押し込めようとしても、「こんな支援、方法がある」「全国には、違った選択をし、自立できた人もいる」と闘うことができます。 そして全国の心ある人達と繋がることで、自分の身を守ることができるようになったのです。 どんなに辛い状況だったとしても、主体性を失っていない限り、自ら治していけるし、治すアイディア、育むアイディアを持っている人と繋がることができます。 ですから、どんな地域に住んでいようとも、たとえ味方が周りにいなかったとしても、応援してくれる人を求め、全国に心と身体を動かすことができるのです。 若者や成人した人達にとって、素晴らしい時代になったと言えますが、子どもにとってはそうとは言えない現実があると思います。 何故なら、自分以外の意思と選択に左右される可能性があるから。 つまり、親御さん次第で、大きく変わるということです。 情報を自由に選べるということは、偏りが生じるのです。 情報がたくさんあるからこそ、親御さんの選択によって近道にもなれば、遠回りにもなる。 ある意味、迷子になる子が出てくる時代。 地域に固定されていた時代、左右されていた時代は、みんな同じ方向に進むので、良い結果、残念な結果というゴールは違いますが、その子だけ迷子になる可能

先輩たちが歩んでこられた途中から、堂々と子育てを始めれば良い!

『 一般の教科書』と『特別支援学校・知的障害者用教科書』 というブログに対する反響が続いていまして、わざわざメールで感謝の言葉をくださる方もいらっしゃいます。 それだけ存在を知らなかった人が多かったということだと思います。 メッセージをくださる方達の様子をお聞きすると、どうも都会だから知っている、地方だから、小さい学校だから知らない、ということはなく、学校、それこそ、担任の先生たちの考え方が大きいような印象を受けました。 どんな背景があるにせよ、「その教室内で教科書がどのような扱われ方をしているか?」は、その学校、教室、先生の教科学習に対する考え方が表れていると思います。 どう考えても、プリントのみで、教科書の内容を網羅することも、教科書で得られる知識、学力を身に付けることも難しいでしょう。 いつも批判され、この地域では存在しない事業となっているので、たまに感謝の言葉を頂くと嬉しく思いますが、せっかく情報が得られたのですから、その情報を活かし、お子さんのために時間を使ってもらいたいな、と思っています。 「情報を得ながら、子育てをしていく」というのは、すでに一般的になっていますし、必要なことだと思います。 子どもの数は減る一方ですし、核家族化なんて、わざわざ言われもしなくなりました。 おばあちゃんと地域にいた先輩ママ達が、スマホに替わったのです。 「今の親はスマホばかり」と言う人たちもいますが、スマホに頼らざるを得ない現実もあるのだと思います。 遠くの親戚より、近所の知らない他人より、スマホが助けてくれる時代。 スマホが助けてくれる時代を生きているのですから、上手に利用すれば良いと思います。 特に、発達障害の子ども達の育み方は、大いに利用すべきだと思います。 治った子の親御さん達、治ってきている親御さん達の子育てにはアイディアが詰まっています。 もちろん、そのまま真似をしても、うまくいくことはないでしょうが、我が子の子育てを考えるきっかけになります。 そして、我が子に対する育みに、より多くの時間を注ぐことができるようになります。 情報を得ることは、時間を生みます。 例えば、今回の教科書の話。 これを知るだけで、知らなかったときよりも時間を有効に使うことができるのです。 「うちの子、学力が身についていかないな」 「

自然治癒力に期待し、沿う仕事

相談を受けた親御さんが仰っていました。 「公的な機関は、すべて行きました」と。 役所の相談窓口、保健所、児童相談所、教育相談所、支援センター、子育てセンター、学校のコーディネーター、カウンセラー・・・。 考えらえるところはすべて行き、相談されてきたそうです。 でも、誰一人、訊きたいことに答えてくれる人はいなかった、と。 親御さんは、お子さんの生きづらさを解決したかったのです。 親としての心構え、対応の仕方を知りたかったのでも、考え方を改め、悩む気持ちを抑え込む方法を知りたかったのでもありません。 親の代わりに支援をしてくれる場所、その利用手続きの仕方を知りたかったわけでもありません。 一緒に悩みを共感してくれること、そういった仲間、居場所を作りたかったわけでもありません。 子どもの生きづらさの原因を知り、そこへのアプローチを、どうやって育てていけばよいか、育んでいけばよいかが知りたい。 その想いを持ち続けた結果、私との縁が生まれました。 本人とお会いし、発達のヌケ、未発達の部分を確認。 そして、親御さんと一緒に、受精から今までの物語を紡いでいきました。 その物語を聞き、最後に親御さんは「数年間、ずっと靄がかった中を生きてきましたが、一気に晴れた気がします」と言っていました。 一回目の相談を終えたあと、次にお伺いすると、親御さんも、子どもさんも、一気に変わっていました。 間隔も短かったですし、具体的な発達援助のアイディアは1つ、2つと言ったところでした。 でも、これだけ一気に変わった。 ですから私は、このご家族には、「生きづらさには、原因がある。根っこがある。そして育てる方法がある」ということを知る、というのが、一番の望みであり、発達援助だったと思いました。 別のお子さんですが、最初の面談のとき、「ぼく、ふつうになりたいんです。ふつうになれますか?」と言ってくる子がいました。 私はすぐに、「ふつうになりたいんだ。いいね。おじちゃんが、普通になるお手伝いするよ」と返すと、ガラッと表情が変わり、子どもらしい笑顔が出るようになりました。 まるで、抑え込んでいたものが一気に飛びだしてきたみたいです。 あとから親御さんに聞いた話では、ずっと「普通になりたい」という気持ちを抑え込んできたそうです。 先生や支援者などに

習い事ができるようになったら、卒業!

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私の援助を卒業した子と、久しぶりにお会いする機会がありました。 子どもの1年、2年はとても大きなもの。 見違える程、たくましく成長した姿から、会わなくなってからの時間に流れた本人の頑張りを感じました。 このご家族と初めてお会いしたときから、私はこう言っていました。 「〇〇くんは、社会や地域の中で育ち、成長していく子。だから、地域の資源が利用できる、社会の中でより良く成長できる段階までお手伝いします」と。 当初の親御さんの希望、依頼内容とは異なりましたが、本人と接し、本人の気持ち、可能性を確認したあと、「地域の習い事に通えるくらいまで育ったら、卒業」と決め、それに向けて発達援助を行いました。 実際に本人と関わらせてもらったのは半年もありませんが、本人も、親御さんも、私も、発達のヌケ、課題の根っこをしっかり捕まえられたという実感が得られてからというもの、加速度的に成長のスピードが高まっていきました。 まさに発達はドカン! 本人が自分の変化、自信を感じ始めたタイミングを見て、地域のイベントに参加。 いろんな子ども向けのイベントに参加するうちに、友達ができ、これをきっかけに興味が広がる。 興味が出たものに関して、個人でやっている教室があり、そこに見学→通うようになりました。 今では、苦手だった運動に関する習い事もやっているそうです。 一般の習い事に通えるようになったとき、親御さんは本当に喜ばれていました。 まさかこんな日がくるとは思わなかった、と言います。 学校では教科学習の時間10分。 親御さんが「勉強は…」と言うと、「この子達には自立できる力を養うことが大事」と、身辺面と体力面、一人で過ごせる余暇ばかりのカリキュラム。 だから、同世代の子どもと同じような姿は想像できなかった、と言っていました。 私は、「最後のところは、社会が治す」と信じています。 それは、社会に出て、働き始めると、どんどん治っていく若者たちを見てきたから。 支援者に「まだダメだ、まだダメだ」と止められていた人が、その手を振り切り、社会に飛びだしていくと、一気に治っていきました。 社会には治す力がある。 いや、「社会にこそ、治す力があるのだ」と、そういった若者たちの姿から思うようになりました。 支援者、専門家に治せる部分は、社会と比べれば、ご

『一般の教科書』と『特別支援学校・知的障害者用教科書』

教科書が貰えない問題に対して、多くの反響がありました。 ブログのアクセス数も多かったですし、SNSやメール等で感想や経験されたこと、各地域の実態などを教えてくださった方たちがいました。 ほとんどの方達の反応は、「あり得ない!」という驚き、怒り、呆れでした。 昨日のブログで、私は意味が通るからと思い、「教科書」と記していました。 でも、よく考えたら、「教科書」という表現だけでは、普通級の一般的な教科書だと捉える方がいると思いました。 特に、まだ就学前の子ども達の親御さんは。 実は、教科書には、一般の教科書(私達が使い、イメージする教科書)と、特別支援学校・知的障害者用教科書(通称☆本:ホシボン)があるのです。 というか、多くの人は知らないですよね。 私だって、大学の講義で存在は知りましたが、実物は見たことがありません。 学生時代は、支援学校で補助をし、施設職員時代では子ども達を学校に送り、支援学校教員として働き、そして今、家庭支援事業を行っている。 でも、一度たりとも、見たことがないのです。 そして使った、使っているという声も聞かない。 私が実物を見たのは、盲学校の拡大教科書と点字の教科書のみ。 でも、それだって、普通の教科書を拡大したり、点字にしたりしていたものですから。 ですから、私にとっては、ツチノコみたいなもの(←昭和) ということで、教科書には、普通の教科書を分かりやすくした特別支援学校・知的障害者用教科書があるのです。 しかも、その特別な教科書は、☆の数によって難易度が異なっており、「☆」「☆☆」「☆☆☆」という具合に小学生版は3段階、つまり、3種類の教科書があります。 ちなみに、中学生版は「☆☆☆☆」の1種類。 私も、この事業を始めて、「教科書をくれない、やらない」「自分で買えと言われる」という相談を受けるようになってから調べ、びっくりしたのが正直なところ。 だって、こんなに丁寧に種類を分けて作られている教科書があるのです。 普通級の子は、選択肢がないのに。 だから、初めに思ったのが、どうしてこんなに配慮されて作られた教科書があるのに使わないんだ、しかもその存在すら見えてこないんだ、という疑問と憤りです。 改めて教科書を使わない、渡されもしない、というのは、どういうことなのか考えてみます。 ま

学校に教科書がないわけはない

公立の小学校、中学校の教科書は無償です。 無償の教科書を、「支援学級の子だから」ということで、最初から数に入れない、購入しないということはないでしょう。 特にこのご時世、「障害があるから、その子たちの分は購入しませんでした」なんてことはあり得ないし、教育委員会もツッコミを入れられるようなリスクは取らないはず。 ということで、子どもに教科書が渡されない、というのはおかしいですね。 学校教育法附則第9条には、特別支援学校、支援学級において、適切な教科書がないなど、特別な場合には定められた教科書以外の使用が許されることもある、と記されています。 教科書を使わなくても良い教育と、「教科書を購入しない」「教科書は必要ない」は別の話だと思います。 実際のところ、教科書を使わない学校もありますが、教科書自体はある、というのがほとんどのはず。 施設で働いていたとき、支援学校に通っていた子ども達も教科書ありましたもん。 毎年、卒業式の日に、1ページもめくられていないままの教科書6年分、持って帰ってきてましたから。 「教科書をくれない」という話は、当地の相談でよく聞きます。 いやいや、教科書使わないんだったら、何を勉強しているのって訊いたら、当地御自慢の構造化支援。 ブースの中で、ワークシステムを使い、簡単な計算、文字のプリントをやる。 いやいや、より良く学ぶための構造化された支援なのに、構造化された支援を使うことメインじゃん、6年間、ひらがな、足し算引き算でおしまいですかってことも。 どうして教科書をくれないのか尋ねると、「知的障害があるから」「発達障害があるから」と返ってきます。 知的障害も、発達障害も、教科書で学べない根拠にはなりませんね。 中には、教科書で学ぶことが難しい子もいるでしょうが、支援級にいる子全員が、ということはないでしょう。 教科書で学べる子もいれば、教科書以外で学んだ方が良い子もいる。 それが普通です。 教科書をくれない、使わないという学校とはやりあってきましたが、明確な根拠を述べられるところはありませんでしたね。 先ほど述べたように、「障害があるから」の一点張り。 で、そういうところに共通してみられるのが、教科書を使っている子がいない、ということ。 教科書で勉強できる子、勉強した方が良い子もいるのに、そ

「頑張ったから」ではなく、適応を望まない心身が『二次障害』という表現をしているのだ

私が出会ってきた人達の中に、頑張ったために心身を病んだという人はいなかった。 心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。 「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。 おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。 細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。 環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。 より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。 受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。 「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。 「〇〇ができるようになりたい」 「この目標を達成したい」 これらも、高度な環境適応といえる。 頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。 絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。 頑張ることは、心地良い。 頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。 だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。 支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。 支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。 信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。 「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」 しかし、現実は違う。 ただの偏見、ただの解釈の誤りである。 頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。 環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。 ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。 だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。 だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。 「普通になりたい」と子どもが言う。 「仕事して自立したい」と若者が言う。 すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事して

「選ばせない」じゃなくて、「選ばれよう」でしょ

「てらっこ塾を利用するな」「あんな、おかしい人間の支援なんか受けるな、相談するな」「治るなんて、詐欺に決まっている」と、支援者たちが言うのは、何とも思いません。 「あなたの子は、一生涯支援が必要です」 「頑張らせると、二次障害になりますよ」 「普通級には行けません。良くて支援級です」 「知的障害がなくなることはありませんよ」 そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。 一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。 縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。 そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。 これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。 支援者たちが、そのように言うのはわかります。 自分達を守るために仕事をしている人達だから。 でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。 「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。 もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。 でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。 だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。 「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。 来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。 止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」 意味不明ですね。 本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。 この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。 教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。 たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。 身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通

我が子と一緒に歩む道は、どこか懐かしさを感じるもの

虫歯ではなく、麻酔をかけるわけでもなく、歯垢を取るだけなのに、どうしてこんなにも通わないといけないのでしょうかね。 100歩譲って、上の歯と下の歯で2回に分けるならまだしも、上の歯を3回に分け、下の歯を3回に分ける。 どうして一気にできないのか尋ねると、「歯に負担がー」と、それ以上、ツッコミを入れさせませんよ、というような定型文が返ってくる。 歯の負担というけれども、通う方の負担はどうでも良いのか。 結局、「患者さんのために」と言いながら、回数を稼ぎたいだけでしょ、と思ってしまう。 自営業だから、なんとでもなる、時間の融通が利く、と思っているのかもしれませんが、自営業は働いてナンボの世界。 働かない時間は、無収入。 だから、毎日、せっせと働いています。 訪問するお宅が、函館だろうが、泊りがけで伺う場所だろうが、一発勝負と思って仕事をしています。 発達のヌケを探り、その子の物語を完成させる。 発達のヌケの育て直し方と、そのご家庭の雰囲気、流れにあった育み方を提案する。 限られた時間で、これらすべてをやりぬくことが、私に依頼してくれた方への誠意だと思っていますし、子どもの貴重な発達の時間を守ることだと考えています。 なので、「上の歯、三本でおしまい。また来週」みたいな支援を見ると、つまんない商売してんじゃねーよ、と思ってしまいます。 お金は後からでも稼げばいいですが、時間というのは後からどうしようもありません。 ですから、私が帰ったあとから、すぐに本人が、家族が動き出せる形まで持っていく必要があります。 いや、理想で言えば、一緒にお話しし、考えている最中から、本人、家族の意識や気持ち、雰囲気が動き出している状態です。 私が確認し、見たて、提案する。 それを本人、家族が受け取り、「はい、ありがとうございました」では、つまらんのです。 私はきっかけの一つであり、本人と家族がより良い未来に向かって歩みだす後押しの一つにすぎません。 私がいくら限られた時間の中で、一つの形を作ったとしても、動きが生じなければ意味がないのです。 そういった意味で、私自身が問われます。 家族の流れに沿った発達援助ができているか、を。 家族の流れに沿いながら仕事ができていると感じられるのは、親御さんから次のような言葉が聞かれたときです。

親が治るから子も治る、子が治るから親も治る

エビデンスにこだわる人というのは、エビデンス以外の世界を想像できない人なのだと思います。 エビデンスに忠実というよりは、エビデンスのような記号的で、揺らぎや想像、解釈の余地がないものに、すがらざるを得ない脳みその持ち主なのでしょう。 そういった意味で、その人自体が実生活の中で生きづらさを抱えている。 ましてや、子育てといった原理原則が存在せず、余白こそが主戦場となる営みに対し、恐怖すら感じているかもしれません。 ですから、子どもの発達、成長よりも、子どもの健康、幸せよりも、エビデンスを取る。 いや、取るしか選択肢がないのです。 エビデンスの外を想像できないから。 揺らぎや想像、解釈といった流動的なものが脳内に侵入してくるのを防ぐために。 目の前にいる我が子よりも、どっかの誰かが唱えたエビデンスを取る、ということは、その親自身、発達障害を持った人だと想像できます。 当然、親の特徴は子どもに遺伝しますから、子どもが発達障害の場合、親にもその要素が大なり小なりあるといえます。 なので、エビデンスしか信じられないというような特徴が前面に押し出ている人以外でも、何かしら発達の課題を持って生きていると考えられます。 エビデンス原理主義のような極端に特徴が出てしまっている場合は、自ら治す方向へと踏みだすことはできませんし、もし踏みだしたとしても、治るまで歩き続けることはできないでしょう。 当然、子どもは治らない。 しかし、こういった極端な家庭でなくとも、発達障害を持つ子の親御さんは、自身の発達と向き合い、治していくことが重要です。 何故なら、治るとは親子の協働作業だからです。 発達障害が治るには、子どものみが頑張れば良いのではありません。 子どものみが発達援助を受け、それで治っていく、という話は聞きません。 親御さん自身が、自分の発達の課題と向き合い、治そうとする、治っていく。 そうすることで、子どもが治っていく。 子どもの発達に注目することで、自分の発達の課題に気が付く。 子どもの発達を促す試行錯誤が、自分の発達を育て直すアイディアへと繋がる。 ですから、子どもが治ると、親も治る。 親が治ると、子どもが治る。 このような歯車が回りだすと、家族が一緒に治るまで到達するのです。 親御さん自身に発達障害があり、生

「できない現実」と「できるはず」の狭間に生きづらさが存在する

私はいつも「この子の、この家族の未来が少しでも良くなってほしい」と想い、仕事をしています。 実際に子どもと関わるときも、親御さんと発達援助の方法を考えるときも、いただいたメールに返信するときも。 「ちょっぴり成長できたな」「こうして子育てしていけばいいんだな」「気持ちがすっきりした」「少し元気が出た」 受け取り方は人それぞれでも、何か前に進む力の一つになれれば、私は嬉しく思います。 発達障害の方達と接していると、皆さん、治りたいという想いを持った人達なんだと感じます。 身体、機能障害の方達とは異なり、なんとなく、漠然とした、言葉で表せないような違和感や生きづらさを抱えている。 その掴めそうで掴めない、見えそうで見えない存在から解放されたいという想いをひしひしと感じます。 ですから、現状維持や保護された環境に身を置くと、皆さん、どんどん病んでいくのだと思います。 親御さんの中には、今はしゃべらないけれども、知的障害があると判定されたけれども、コミュニケーションが成立していないけれども、「この子は、ちゃんと理解していると思う」「この子は、普通級で学んでいける」などとおっしゃる方達がいて、十中八九正しかったりします。 こういった親御さん達は、感じることができています。 我が子の漠然とした違和感と、治る未来を。 生きづらさとは、感覚的なもの。 もちろん、何かができない、うまくいかないという行動の結果から生きづらさを感じます。 しかし、単に「〇〇ができない」のではなく、「〇〇ができると思えるんだけれど、できない」というギャップ、違和感に生きづらさを感じているのだと思います。 だからこそ、支援が一番に向かう先は、本人の気持ちであり、違和感からの解放。 治りたい本人がいて、治したい親がいる。 なので、その気持ちに添うのが支援というもの。 「少し治ったな」「一歩でも、治る方向へ進んだな」 そんな感覚を得られることが、支援の存在意義だといえます。 世の中に、治る人も、治る知見も、増えてきました。 それを見て、必死になって治そうとする人も出てきました。 しかし、中には気持ちを横に置いた、発達援助をされている人がいるような気がします。 発達援助と名を変えた行動変容。 「ここに発達のヌケがあるから、こういった動きを続けよう」

「見えないものは、ない」は障害特性?先天的な障害?活かすべきもの?

「見えないものは、ない」というのは、自閉症、発達障害の人達に多く見られることです。 ですから、「想像力の障害」という言葉で片づけられ、それが障害特性で、それこそ、変わらない部分で、支援や配慮が必要なものとして捉えられます。 でも、本当にそうなのでしょうか。 「見えないものは、ない」人達と接して感じるのは、情報処理の問題ということです。 定型発達と言われる私達だって、見えていないものは、どう頑張っても見えません。 でも、この部分において日常生活での問題にならないのは、見えないものを想像して補っているからです。 じゃあ、どうやって見えないものを想像しているのかといったら、複数の情報を同じテーブルの上に乗せ、過去の経験や体感などを駆使し、「多分、こうだろう」と想像している。 で、もちろん、外れることもあるが、想像はだいたい合っている。 だから、見えるものと、見えていないものを総合しながら、人と付き合ったり、仕事をしたり、生活したりしている。 ちなみに、子どもが面白い、突拍子もない想像をするのは、まだ経験が少ないのと、複数の情報を同時に処理する力が育っていないなど、まだ脳(特に大脳皮質、前頭前野)が育つ過程だから。 自閉症、発達障害の人達は、定型発達と情報処理の仕方が異なると言われます。 確かに、情報処理の仕方が違うな、というのは、この「見えないものは、ない」からも感じますが、それは独特な情報処理の仕方を持って生まれたというよりは、成長の過程の中で作られた処理形式、脳の使い方のようにも思えます。 例えば、感覚面に発達の遅れ、未発達があれば、特に視覚情報などの偏った情報しか入ってこなくなって、視覚に頼った情報処理の仕方ができてしまう。 例えば、爬虫類の脳や哺乳類の脳など、脳の表面よりも深い部位に発達のヌケや遅れがあれば、ヒトの脳の部位に発達の遅れが見られ、結果的にいろんな情報を整理、統合することが難しくなってしまう。 よく「自閉症の人は視覚的な情報処理が得意なので、その得意なことを活かしましょう」などと言われます。 でも、本当に得意なことで、生きていく上で武器となるような特性だとしたら、世の中の自閉症の人達はこんなに困っていないはず。 だから、得意と言うよりは、仕方なく、そうなるしかなかったというのが本当のところだと思います

流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません

新規や出張支援を利用される方から、「事前に記入しておくアンケートはありますか?」と尋ねられることがあります。 療育機関や相談事業所などでは、そういったアンケートの記入が一般的なのでしょう。 でも、うちにはアンケートはありませんし、今後も作るつもりはありません。 だって、実際にお会いするから。 だって、一緒に作り上げていこうと思っているから。 アンケートとは、効率化の象徴のように思えます。 事前に情報を集めておくことで、ポイントを絞って準備ができるし、支援ができる。 より少ない労力で、その時間を収め、次から次へとさばいていく。 労力は少なく、利益は多く。 もちろん、効率的に仕事をするのは当たり前のことだと思いますが、療育に、いや、人を育てるのに、この考え方はそぐわないと思います。 きちっとしたアンケートが渡されると、記入する方は「ちゃんとやってくれる事業所だ」「事前に聞いてくれるなんて熱心だ」というように感じる方もいると思います。 しかし、私はそうは思いません。 「あなたの声を聞きますよ」と言っているようで、枠が決められているから。 「自由になんでも」と言いながらも、誘導している主は、本人でもないし、親御さんでもない。 子育てに効率化が侵入するのも悲しいですが、知らず知らずのうちに支援する側と支援される側の関係が出来上がっているのも悲しいといえます。 アンケートを書いてもらった支援者側は、どうやって、それを利用するのか、支援に繋げるのか、私にはわかりません。 と言いますか、私はアンケートを貰っても、そこから支援を組み立てていくことはできません。 何故なら、アンケートとは切り抜きだから。 その子のある部分の切り抜きであり、親御さんの見立て、想いの切り抜きであり、時間の切り抜きです。 アンケートに、我が子のすべてを記入することはできません。 また記入を求められた部分が、その子の発達のヌケ、課題の根っこであるとも限りません。 アンケートとは、作った人の視点が入るもの。 やりたい支援、得意な支援に引っかかる部分が項目になっていることもあります。 ですから、人為的な切り取りになってしまい、本当にその子が必要な援助が届かないこともあるのです。 それに、アンケートを書いた時点と受け取った時点、実際に支援する時点は、

本人の前に立つ支援者、本人の後ろに立つ支援者

下手くそな支援者というのは、本人の前に立つ。 うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。 これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。 「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。 スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。 ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。 ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。 そういった人達は、身体が賢い人達です。 頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。 あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。 一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。 親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。 公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。 でも、子どもの前に出てはいけないのです。 私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。 しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。 「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。 発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。 私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。 何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。 だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。 生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。 発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。 子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。 向かいたい方

親子の育み合いに誘うために

「それは、何回くらいやればいいですか?」 「一日、何分ですか?」 「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」 具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。 以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。 でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。 一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。 「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。 それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。 発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。 あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。 子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。 創造すること、クリエイティブな営みです。 もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。 もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。 我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。 親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。 あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。 発達援助の核として、「心地良い」があります。 本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。 そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。 発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。 親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。 そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」とい

諦めさせるのは、支援じゃない

繰り返される激しい行動障害を目の当たりにすると、どこから支援していけばよいか、わからなくなり、いっそのこと、逃げ出してしまいたい、と思うことが多々ありました。 でも、施設職員を続けていく中で、気が付かされることがありました。 「この子達は、逃げだしたくても、逃げ出すことすらできない」のだと。 職員の入れ替わりは頻繁でした。 3年も続けていれば、ベテランみたいな役回りと扱いになります。 それだけ辞めていく人が多かった。 新人が入ってくれば、「この子は、いつまで持つか」なんていう音のない言葉が漂っていた。 次々に、職員は辞めていく。 でも、利用者の人達は、そこに居続ける。 本来なら、行動障害が収まり、生活が整い、自立するための力を養って、家庭や地元に帰っていくのが社会的な役割だったのに…。 施設職員として数年が経ったとき、気が付いたのです。 職員は辛くなったら、辞めることができる。 同じ福祉だとしても、ここ以外の場所はあるし、仕事を選ばなければ、いろんな選択肢がある。 でも、この子達には選択肢すらないのではないか、と。 当然、施設ですので、物理的にも逃げれないようになっています。 しかし、そもそも彼らに選択肢はなかった。 家庭や前の施設から離れた方が、心身が安定し、良かったと思える子達もいました。 でも、誰一人、望んで、自らの意思と選択で来た子はいなかった。 いくら措置制度から、契約制度に変わったとしても、子ども達の手の中に選択肢があったわけではなかったのです。 この子達に選択肢がなかったことに気づいてから、「逃げだしたらいけない」と、私は思うようになりました。 できることは少ないかもしれないが、しっかり向き合い続けようと決心したのです。 すると、以前は頭の中が真っ白になっていた大変な状況に、ある言葉が浮かんでくるようになりました。 どんなに激しい行動障害を持っていたとしても、「生まれたときは、強度行動障害ではなかった」という言葉です。 赤ちゃんのとき、幼児のときは、強度行動障害じゃなかったのなら、何かやりようはあるんじゃないか、環境によって行動障害が作られたのなら、環境によって良くしていくことができないだろうか。 そんな風に考えるようになりました。 そこから退職するまでの間、一度たりとも「逃げ出す」

『自傷・他害・パニックは防げますか?』(花風社)を読んで

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花風社さんの本が出版されると、私は必ず読みます。 本の中に、知識や情報だけではなく、希望が詰まっているからです。 私は今、発達援助で関わっている子ども達、若者たち、大人たちに不便なところは治ってほしいと思っていますし、開花した資質を自分の人生と社会のために活かしながら自立してほしいと願っています。 これは親御さんの想い、願いと同じだと思います。 だからこそ、「本人と親御さんのより良い明日と人生のために」という想いがあっての本ですから、素晴らしい著者の方達の知見だけではなく、そこに希望も感じるのです。 希望を感じない知見は、ただの自己満足であり、読み手の着想を生みません。 受け取った人の中でアイディアの自由な発展に繋がる動力は、花風社さんや著者の方達の希望という力だと思っています。 私は、多くの読者の方達と同じように、花風社さんの本から希望を感じます。 でも、それだけではないのです。 私は、新刊を手にし、読むたびに、希望だけではなく、後悔の気持ちに苛まれるのです。 新刊を読み、新しい知見、素晴らしい知見と出会うたびに、「これで、もっとその子に合った発達援助ができるかもしれない」と思い、「ああ、あのとき、あの子に、この知見があれば…」と思います。 私の言う「あのとき」は、施設で働いていたとき。 特に、栗本さんが著者である本が出版されるようになってからというもの、後悔の気持ちは強くなるばかりです。 施設で働いていた私は、対処療法しかできませんでした。 苦しむ彼らを見て、ただただ一緒に悲しむことしかできませんでした。 投薬の量が増えていく場面に立ち会い、彼らの想い、願いを代弁することができませんでした。 あのとき、言語以前のアプローチを知っていれば…。 あのとき、心身をラクにする方法を知っていれば…。 あのとき、四季を上手に乗り越えるアイディアを知っていれば…。 そして今回の新刊で教えてもらった身体作り、対応法を知っていれば…。 そうすれば、対処ではなく、育むことで、彼らの発達を支援できていたかもしれない。 そうすれば、彼らも、支援者も、お互い傷つかずに良い関係が築けていたかもしれない。 読み進める中、当時関わっていた子ども達の顔を思いだす頻度は、今回が一番多かったように感じます。 基本的に入所施設の職員の役

「行政に訴えてやるぅ~」と言うだけの人は大概、睡眠に問題あり

「治る」という言葉を発すると、ああだこうだ言ってくる人達がいます。 「医学的にー」とか、「脳の機能障害だからー」とか、いろんな理由を言ってきますが、結局、「治る」という言葉を使われるのが、「嫌だ」ということ。 たった一言で済む話なのです。 それを言葉を塗りたぐって、ダラダラと文字をつないでいく。 シンプルな表現ができないのは脳の無駄遣いであり、脳も、身体も育っていない証拠ですね。 中には、「消費者庁が」「弁護士が」「厚生労働省が」などと言ってくる人もいます。 もうそのネタは飽きましたね。 私のところに監査や指導が入るなら、「そのとき、その人にきちんと説明します」と言っています。 だけれども、事業を始めて6年半。 一度も、そういったことはありません。 つまり、言葉で脅しをかけているつもりなのでしょう。 言葉で脅しをかけているつもりなら、それは想像力の問題がある人だとわかります。 本当に脅しをかけるのなら、行動が伴わなければなりませんし、そのためには行動できる身体と、情報を整理し、計画を立て、実行できる脳みそが必要です。 それがないから、安易に言葉で脅そう、脅せるはずだなどと考える。 こういった人には、相手が見えていないし、相手の周りにいる人、支持する人達の姿が見えていない。 「自分が嫌だと思うから、みんなも嫌だと思う」という思考は、問題です。 「自分が嫌だと思うから、行政に訴えれば、聞いてくれる」と思うのは、妄想です。 今回は「治る」に関してですが、これが「自分が好きだから、きみも僕が好き」となればストーカーになり、独りよがりの正義を振りかざせば、迷惑者、犯罪者になる。 想像力の問題は、妄想段階ならまだマシだが、行動と結びつくと大問題になるのです。 だから私は、想像力の問題は重く捉えます。 どんな小さな芽だろうとも直言しますし、できるだけ早く想像力の土台から育て直していきます。 「行政に訴えてやる」と言ってくる人には、共通する部分があるように感じます。 そういった人はみんな、睡眠に問題を抱えている。 SNSの更新時間を見ても深夜ですし、脇が甘い人になると、自分で睡眠薬を飲んでいることまで呟いている。 結局、寝れないから妄想するし、寝れない身体だから頭がグルグルするし、想像を外す。 健康体の人から見れば、

支援者の多くは、「今」を切り取っているだけ

「この子は、治りますか?」と、尋ねられることが多いです。 でも、私は未来を視ることができませんので、「治る」とも、「治らない」とも、言い切ることはできません。 ただ、その可能性の大きさ、今後の成長の様子、大人になったときのスタイルは、想像できます。 こういったことを想像するのは、何も難しいことではありません。 言語化できなかったとしても、親御さんの多くは、我が子の未来を直感的に捉えることができています。 違いがあるとすれば、それは、いろんな方たちの人生を見させて頂いたかどうか、です。 支援者の多くは、「今」を切り取ります。 当然、医師や支援者の前にいるのですから、今、何らかの課題を持っているのは確かでしょう。 でも、その課題が、この先もずっと続くとは限らない。 むしろ、今の課題は治る途中経過だったりする。 その流れを掴めない人には、「この子は、高校くらいになれば、普通学校に行きますね」「この子は、将来、働いて自立しますね」「この子は、治る子ですね」という言葉が、戯言にしか聞こえません。 医師も、支援者も、出会った専門家たちも、みんな気づかず、むしろ否定的な見解を述べるばかりだった。 でも、最後の最後まで、我が子の未来、可能性を信じたのは、親御さんだけだった、ということは、よくある話です。 これを「単なる親バカ」「独りよがりの想い」と捉える人もいるでしょう。 しかし、こういった親御さん達には、本当に見えているのです、我が子の未来の姿が。 何故なら、流れの中で、我が子を見ているから。 ちゃんと受精、誕生、現在までの我が子の物語を捉え、描けている親御さんには、今後の流れる先が分かる。 だからこそ、ただ一人になろうとも信じられるし、その流れを見て、上手に軌道修正もできる。 私は、いつも思います。 どうして流れを見て、支援できないのだろうか。 どうして今を切り取っただけで、未来の姿を決め付けることができるのだろうか、と。 支援者と意見がぶつかるのは、いつもここです。 発達のヌケが埋まっての「今」とヌケが埋まっていない「今」では意味合いが違います。 今までの発達のリズムとスピードを見れば、今、重度かどうかは、将来の決定因子にはなりません。 問題行動のある子の今を切り抜けば、自立は不可能かもしれませんが、問題

「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」

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先日、私よりも年齢が上の方の発達援助に行ってきました。 依頼の電話をくださったのは、その方の親御さんです。 発達援助の始まりは、その人の物語を掴むことからですので、数十年間に渡る物語を本人と家族の方達との会話から一緒に辿っていきました。 そして課題の根っこを見たて、今日からできることをお伝えしてきました。 すると、親御さんは涙を流し、「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」と言ってくださったのです。 「もっと早く出会いたかった」というのは、年齢を重ねたご家族だけではなく、成人していない子の親御さんも、就学前の子の親御さんも、そう言われます。 それは、私に会いたかったというよりは、「表面の課題ではなく、根っこを教えて欲しかった」「具体的な育て方を知りたかった」という意味だと感じます。 皆さん、お子さんの年齢に関わらず、「できるだけ早く」「もっと早くに」と思われるのです。 「早くに出会いたかった」と親御さんに言わせるのは、何でしょうか。 迷っていた過去、右往左往して動けなかった自分、遠回りしてしまったという後悔もあるかもしれません。 でも、お話ししていて一番に感じるのは、「なんだ、療育じゃなくって、子育てだったんだ」という気づきです。 発達援助に特別な技術や知識はいりません。 だって、子どもの発達を後押しするというのは、子育てそのものだから。 発達とは育んでいくものです。 特に受精から言語獲得する前の段階の育みは、家族の中で営まれます。 そんな自然な現象を何故見失うようになったのか。 それは、子育てを否定する言葉の数々。 「療育」「支援」「連携」「〇〇療法」…。 テレビ業界の言葉が、日常会話で使われるようになったように、特別支援ギョーカイの言葉が子育てを浸食したのです。 主体を自分たちに移し替えるために、「子育て」を「療育」にした。 発達のヌケの育て直しは、いつからでも行えますし、成人した方達もどんどん発達し、治っている姿があります。 でも、そのスピードで言えば、子どもには敵いません。 同じ子どもでも、神経発達が盛んな時期というのがあります。 また少しでも早く発達のヌケを育てておいた方が、その上に重なっていく発達のデコボコも、それに伴う困難も小さくすることができます。 「過去の苦労も愛おしい」などと

疑い尽くした先に、その子の本質がある

「うちの子、睡眠障害があるんです」と、相談がある。 それで、詳細にお話を聞いていくと、寝る前にゲームをやっていることがわかる。 「じゃあ、そのゲームの刺激が眠りを遠ざける可能性もあるので、寝る前は止めるようにしたり、時間をずらしたりするのは、どうですか?」と提案すると、「ゲームは本人のこだわりだから」「禁止すると、怒るから」と返ってくる。 この子は、本当に睡眠障害があるのかもしれません。 でも、その結論を出す前に、やるべきことがあるのではないか、と思います。 他にも似たケースがあって、「授業中、ボーとして、注意散漫だ」という子の相談がありました。 ADDの診断を受けていましたが、話を聞くと、朝食を食べずに学校に行っているという。 脳を動かすエネルギーが足りなければ、頭が働かず、ボーとするのは当たり前だと思います。 発達障害の前に、ヒトであり、動物なんですから。 水分摂って、陽にあたっていれば生きていける植物とは違う。 衝動的に手が出てしまう子の話を聞けば、甘いお菓子ばかりを食べている。 何年も引きこもっている人の相談に伺えば、カップ麺とコンビニ弁当しか食べていないという。 快食、快眠、快便は、基本中の基本。 発達障害とか、知的障害が重いとか、まったく関係がありません。 施設に子どもが入所してきたとき、まず最初に整えていくのが、この快食、快眠、快便です。 ここがクリアされない限り、特に強度行動障害の人達の支援は始めることができません。 だから、上記のようなケースの相談があるたびに、本人ではなく、周囲が障害、困難さ、生きづらさを決めてしまっている、と感じます。 本来なら、やれることがあれば、それをすべてやってから、受診なり、支援なり、相談を受けるべきだと思います。 上記のようなケースの中には、そのまま、つまり、やれるべきことをやりつくす前に、医療、支援者と繋がったばっかりに、その子の本質的な問題として投薬、治療、支援が行われてしまった人がいます。 寝る前に何時間もゲームをしたり、布団に入ってからもテレビをつけ続けていたりしているのを伝えず、ただ「眠れない」「睡眠が乱れている」だけが伝わる。 そうすると、睡眠薬が処方される、「9時になったら寝ます」という絵カードが提示される、9時までに布団に入れたら、ボーロが貰えるという

「全員、治らない」と、どうして言えるのだろう

もう過去の話になりますが、自閉症、発達障害の人たちは、「脳の機能障害」と言われている時代がありました。 2013年5月に「神経発達の障害」と改訂されたのですから、もう5年以上前のお話になります。 でも、いまだに「脳の機能障害」と言い続けている人がいます。 しかも、発達障害が治らない根拠として、それを用いているのです。 まあ、100歩譲って、「脳の機能障害」でもいいです。 しかし、じゃあ、なんで「脳の機能障害」なら、治らないといえるのでしょうか? 機能障害とは、損傷とか、機能不全の状態のことを表しています。 発達障害は、脳に損傷ができたためになる障害ではありませんので(だって、先天的な障害なんでしょ)、脳に機能不全の状態の箇所があるということ。 脳に機能不全の箇所があるのなら、その状態を回復させればよいのです。 というか、専門家なら、医師なら、その方法を研究し、目指すのが当たり前。 欠損した脳を回復させるのは難しいでしょうが、機能不全の状態を回復させるのは不可能ではないはずです。 だって、脳の素晴らしい性質である「可塑性」があり、病気や交通事故で脳に損傷した人たちには、当たり前のように昔からリハビリが行われているのですから。 必要な刺激を与えることで、脳の機能不全を改善しようとするのは自然なことで、可能性のないことだとは思えません。 現に、発達障害の子ども達も、ずっと赤ちゃんのような発達段階のままということはなく、定型ではなくとも発達し、成長するのですから。 排せつや身辺処理、勉強や運動など、成長とともにできるようになっている姿は、ただ単に適応や暗記しているだけではなく、発達している、発達する可能性があることを示しています。 だったら、脳の機能不全の部位だって、その状態のレベルだって、発達のスピードだって、一人ひとり同じなわけはないのですから、「発達障害」というラベルが同じでも、みんながみんな、治らない、治る可能性がないとは言えないのです。 「脳の機能障害」だから発達障害は治らない、というのは答えになっていません。 それは発達障害が治らないんじゃなくて、脳の機能不全の状態を回復させるアイディアを持っていない、という意味。 むしろ、発達障害、本人の問題というよりは、専門家の方の問題ではないでしょうか。 そもそも誰が最

身体と選択の育ちが主体を育み、主体の育ちが想像力の育ちと繋がっている

この仕事をするまで、「主体性」なんて考えることはなかったですね。 自分に主体があるのは当たり前ですし、自分以外の人だって、それぞれ主体を持っている。 自分に主体があるから選択し、行動することができる。 他人にも主体があるから、その選択、行動を侵すようなことはしてはならない。 そんな風に思っていました。 でも、この主体が「わからない」人がこんなにもいるのか、と感じるのが、この仕事を始めてから続いています。 「自分と同じように、他人にも主体がある」という視点がない人は、自分の脳内のみで物事を完結させます。 また、自分から見える他人の行動のみで、物事を判断します。 だから、平気で他人に対し、自分の価値観を押しつけてくるし、自分と異なる意見や考えを理解することができません。 これは、想像力の問題。 そんな想像力の土台になっているのは、感覚、内臓、身体、動きなど。 一言で言えば、自分という主体がちゃんと育っていないということです。 自分が分からずして、他人の視点を想像することはできません。 はっきりしない自分が、想像力の問題の正体です。 それを、いつまで経っても「それが障害特性ですから」というレベルから抜け出せない人が、「理解をー」と叫び、応用の利かないパターンで想像力を補うことを教えます。 でも、これは想像力の問題を補っているのではなく、当然、想像力を育てようともしていません。 ただのその場しのぎであり、支援者が「ちゃんと支援やってますよ」とアリバイを作っているだけ。 真の支援者、専門家だったら、想像力を構成する神経発達に目を向け、その発達自体を促せなければ責務を果たしているとは言えないでしょう。 他人の主体を侵すまでに至らなくても、主体が乏しいと感じる人は、親御さんの中にもいます。 その人の物語を辿っていくと、主体を育てる機会の乏しさと突き当たります。 親が常に先回りしていた子ども時代。 自分の意思よりも、親の意思が優先された子ども時代。 親が思い描く姿になることが、自分のすべてだった人が大人になり、子どもを授かると戸惑います。 また、子ども時代の親の意思というよりも、環境、空気感を読み、自ら主体を無くしてきた人もいます。 それが主体性のない支援者であり、有名支援者、エビデンスなどの言葉に従ってしまい、自らの意思

想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか? そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。 それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。 「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。 というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。 本来なら、見向きもされないのが普通です。 でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。 何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。 つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。 昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。 天使なんかであるものですか。 発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。 特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。 相手の気持ちを想像することの欠如。 自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。 社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。 支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。 でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。 治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。 自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。 そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。 様子を見たいから、相談に行ったのでは