2018年2月21日水曜日

地域で顔色を伺う必要はない!

「いろいろ言われて嫌になりませんか?」と訊かれることがあります。
正直、メンドクサイなと思うことはあっても、それで気が滅入るみたいなことはありませんね。
直接、言ってきた人に対しては、きちんと自分の主張をし、闘いますが、それ以外はどうぞご勝手にです。


この事業を始めるとき、「どうして函館なの!?」ですとか、「手が出せないところからバックアップを貰っておくか、いっそのこと、最初から手を結んでおいて方が」などと言われたものです。
これは都市部に行けということではなく、函館は止めた方が良い、いばらの道しかないから、という意味です。


私は、母親から「あんたは、いつも大変な方の道を選ぶ」と半分飽きられながら、よく言われていました。
自分ではそういった意識はないのですが、より困難だと感じる方へと進みたくなるのは子ども時代から変わっていません。
小さいときから、他人とは違った経験がしたかったですし、そこに困難さ、大変さが伴わないとやる気が起きなかったのです。
子供時分からの性分というのは、大人になってもなかなか変わらないもので、親から言わせると、「相変わらず、大変な道を進もうとする」といった生き方なのだと思います。


結婚してから、妻に「あなたは大切に育てられてきたのがわかる」と言われたことがあります。
ひと様のおうち、家族のことは知る由もなく、自分にとっては自分の家族が当たり前だと思っていたので、そう言われて驚いた記憶があります。
確かに大切に育てられたと感じていましたが、それが特別なものという感じはありませんでした。


冒頭の話に戻りますが、私は何を言われようとも、ほとんど気にはなりません。
たとえ、ひどいことを言われたとしても、それによって自分の価値、存在意義が変わることがないからです。
それに自分には、どんなときも味方でいてくれるパートナーがいて、子ども達がいる。
そして、両親、兄弟は決して私を裏切らないという確信が自分の中にあります。
ですから、世の中、全部が敵になっても大丈夫だと思っています。


このように考えると、自分がより困難な道を進もうとするのは、両親から土台をしっかり育ててもらった証拠であり、今、信頼できる家族がいるからだと思います。
「失敗しても大丈夫」「何を言われても大丈夫」そのような実感があるからこそ、より困難な道へと進めますし、失敗しても起き上がれば良いと前向きになれる。


こんな私だからこそ、権威や役職などに影響されるのではなく、自分の勘や想い、家族を優先してほしいと思うのです。
この地域で暮らしていくには、「あの先生の話は聞いておいた方が良い」「あそことは仲良くしておいた方、つながっておいた方が良い」なんてこともあるかもしれません。
でも、自分に、我が子に必要性を感じない支援を続ける意味があるのでしょうか。
「もっと別の道が、方法があるのでは」という直感に蓋をするのは、我が子のためになるのでしょうか。
協力という名の搾取で、プライベートの時間に借り出される親御さん達もいます。
本人が率先して行っているのなら、何も言いません。
でも、目を付けられないように、気にいられるように、後々利があるかもしれないからといって、笑顔を作って協力しているというのなら、私の目にはその姿勢が卑しく見えます。


たとえ、学校から、地域の組織から、有名支援者から、ママ友から、目をつけられたり、嫌われたりしても、どうってことはないと思います。
それよりも大事なことは、自分自身が主体的に生きること、またそのような子に育てていくこと。
そのために他人の顔を伺い、媚びる必要があるのか、考えた方が良いと思います。


「あそこと敵対すると、後々、大変になる、この地域で暮らせなくなる」
そんなことを言われる方がいます。
しかし、それは作り話。
学校はいずれ卒業するし、相談機関、福祉機関に、そこまでの力も、権利もありません。
もし本当に住めなくなったのなら別の場所に移り住めばよいですし、そもそも支援を必要としないくらい治り、自立できれば、そんな人たちの顔を伺う必要はなくなるのです。
地域で自立して暮らしている人に対して、他人はとやかく言ってきません。
ですから、敵は外にいるのではなく、自分の内側にいる。
信頼できる人がいるのか、自分の選択と結果に覚悟と責任が持てているのか。
そこの問題が、外に敵がいるように見せるのだと思います。


私が立ち上げた事業に終わりがきたら、それは周囲の力が強かったからではなく、ただ単に自分の実力がなかったからだと思います。
未来は分かりませんが、敢えてこの地域を選んだことを後悔していませんし、その日が来るまで、全力で頑張っていきたいと考えています。
そして、どんな状況、どんな未来が来ても、私はより大変な道、困難な道を選び、そちらを進んでいくのだと思います。
たくさんの困難を楽み、味わえる人生こそ、私にとっては充実した人生!

2018年2月20日火曜日

私は対処療法の存在までは否定しないけどね~

ブログを書き始めてから、もうすぐ丸5年になります。
毎日、300前後のアクセスがあるのですが、時々、1000を超えるときがあって、「あ~、今日もどこかで燃えているな」って思います。
オープンの場で書いていますので、別にリンクに貼ったり、拡散したりするのは構いませんし、ネガティブに取り上げられても、どーってことはありません。
いろんな意見があるのが自然ですから。


しかし、仲間内で、見えないところで好きにやっていれば良いのに、「消せ」だの、「訂正しろ」だの言ってくる人もいます。
「好き勝手書きやがって」みたいなのもありますが、ブログを書いている人達は、みんな好き勝手書いているのではないのですか。
誰かにお伺いをかけて、何度も推敲と校正を繰り返し、アップされているのでしょうか。


私は、発達のヌケを育てなおすことが幸せになる近道だと考えていますし、発達を促していくのはその人自身であり、家族が主体となって発達を援助していくのが良いと考えています。
私がこういった信念をもって仕事をしているように、他の方達も、おのれの信念の元に仕事や子育てをされれば良いと思います。
信念をもって仕事、子育てをしていたら、自分と違う意見の人に、わざわざ消せとか、訂正しろとか言う暇がないはずです。


私は、治った人、治すアイディアを持った人との出会いから、今は「治す」を中心に捉え、仕事をしています。
でも、それ以前は、ずっと視覚支援、環境調整を学び、実践してきました。
それ以外にも、ABAやSST、PECS、感覚統合等、一通り勉強してきました。
そうやって一通りの対処療法を学び、実践、経験したからこそ、信念をもって治す道を進めていますし、同時に、必要なときには対処療法のアイディアも使っています。
治す路線の人が、対処療法を絶対に用いない、完全否定していないように、対処療法路線の人も神経発達を促したり、感覚過敏を治したりすれば良いのだと思いますし、それが本人と家族のニーズに応えることだと思います。


発達障害支援センターこそ、本人や家族のニーズに合わせて、その時々で、いろんなアイディア、選択肢を提供できなければならないし、それが大事な役割の一つだと思います。
しかし、実際は、その機関ごとに色が出ていることがあります。
その理由は、行政からの委託事業だから。
一般のイメージとしては、専門家や優秀な支援者が集められ構成された独立した機関と思われるかもしれませんが、それぞれ母体があるのです。
県に1つ、政令指定都市に1つ、という具合ですので、個人が手を挙げて、「私やりたいです」と言っても無理です。
その場所場所での力関係、政治があるのです。


もちろん、実際に支援センターで働いているスタッフの方達は、研修を積み重ね、優秀な人も多いはずです。
でも、元を辿っていけば、委託を受けた法人の職員ということもあります。
となると、それぞれの法人の色が出ることもあるのです。
「一生涯の支援をお任せください」と言っている一方で、「支援が必要なくなるよう自立を目指しましょう」とは言いづらい。
「〇〇療法が、障害を持った方達に最適な方法です」と言っている一方で、「治す方法もあります」とは言いづらい。
「まず自分のとこで、その成果だせよ」とツッコミが入るので。
こうなると、本人や家族ではない方を向いて仕事をしている可能性がないとは言えないのです。


スタッフの人数と、任されている範囲を考慮すると、あり得ない担当、仕事量だと思います。
それでいて、各都道府県にできてから時間も経っているので、結果が出てしまっている。
そして批判されることが多い。
しかし、委託事業であり、母体の存在を知れば、過度な期待はしなくて済みます。
専門家集団で、どんなニーズにも柔軟に応えるわけではなく、色があり、意向がある。
「ここの通所、児童デイ、病院が良いですよ」と言っても、基準があって、どこでもここでも勧めているわけではないのです。
だって、治る路線の私は絶対に勧められないから(爆)
発達支援センターに行けば大丈夫、何でも応えてくれる、ということはなく、支援サービスの中の人つであって、最後はやっぱり“人”なんだと思います。
合う人もいれば、合わない人もいる。
その時々でも、合う合わないは変わってきます。


生きている者は、常に変化していますし、特に子どもさんの場合、変化がより大きいと言えます。
環境調整や視覚支援、お薬、ICTが必要なときもありますし、神経発達を促すことが必要なときもある。
子どもの支援に必要性、緊急性があるときもあれば、親御さんへのサポートに必要性、緊急性があることもある。
常に変化し、移り変わるからこそ、その時々で柔軟に対応していくことが大事なのです。
ですから、自分の主義主張、意見、専門と違う人がいても、その存在まで否定する必要はないし、否定することはできません。
特に「神経発達を促す」「治していく」は、誰しも必要な時期があるから。


私は対処療法の存在を否定しません。
何故なら、その人、その家族によって、必要なときと場合があるからです。
ただ根っこから課題を解決していく方が近道だと考えているので、優先順位が低いだけです。
私は個人事業主で、誰かの意向や利害関係はありませんので、信念の元に、その人に合ったアイディアをその時々で提供しています。
もちろん、ブログも、信念をもって、これからも好き勝手書いていきたいと思います!

2018年2月19日月曜日

良い地域って何だろう?

以前、相談を受けていた方から、自分が、我が子が「こんな風に成長しました!」とご報告をくださることがあります。
ほとんどの方とはお会いしたことがございませんが、メールや電話から伝わってくる雰囲気から、本人も、家族も大変喜ばれている顔が、姿が見えてきます。


何よりうれしいのが、その結果ではなく、「自分たちで成長できた」という達成感と、「これからも頑張っていく」という自立心が感じられたときです。
私がしているアドバイスは、占いみたいなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦であります。
ですから、実際に考え、手と足を動かしたのは本人と家族であり、喜べる今はご自分たちで作ったものです。
私にできることは、一つのきっかけになること、行動を後押しすることなので、自分たちで動き出したのなら、それだけで良かったと思いますし、役目は果たせたなと思います。
さらに行動が、発達や成長を感じられる結果とつながったとなれば、それ自体が次の行動の後押しとなりますので、私が目指している“自立”が近づいたと言え、嬉しくなるのです。


こういった喜びのご報告とともに、「函館にいる人は羨ましい」というようなお世辞を頂戴することもあります。
しかし、上記で述べたように、喜ばしい結果を得られたのは、ご自身の、ご家族の行動と頑張りですし、第一、函館にいる人で大久保がいて良かったなんて思う人は皆無です。
利用してくださっている方達も、たまたま同じ地域に私がいただけであって、もし私がいなかったとしても、自分たちでできて、発達を促すアイディアを持った人を探し出していたと思います。
それくらい主体性と純粋な想いを持った人達だからこそ、治っていっているし、治ったのだといえます。
羨ましいどころか実際は、完全アウェーのブーイングの嵐の中、細々と活動しています( ;∀;)


私も起業当初は、「地域の一つの選択肢になりたい」と思っており、おこがましくも「地域を変えるきっかけになれれば」と言っていました、ごめんなさい。
でも、この仕事を続けていく中で、この地域に、選択肢を増やしてほしいというニーズはないし、選択肢を増やすことが地域を変えることにつながらないと考えるようになりました。


その人が治るか、治らないかというのは、地域に治す系の支援者がいるかどうかではないと思うんです。
結局、全国どこであっても、治したい人は治すし、治したくない人は治さないんです。
ローカルギョーカイにぐるぐる巻きにされる地域に住んでいたとしても治っている人がいる。
反対に、治る系の支援者がいても、それを選ばない人、選べない人がいる。
そして、自らの意思で対処療法を選ぶ人もいる。
どういった道を選ぶかも、一人ひとり違うし、違うのが自然。
だから、私は「治したい」「自分たちで主体的に育てていきたい」という人達の後押しすることが役割だと思うようになりました。


近頃、「良い地域」って何だろうと考えています。
いろんな専門の支援者がいる地域が良い地域なのだろうか?
福祉サービスが充実している地域が良い地域なのだろうか?
障害に理解がある地域が良い地域なのだろうか?
でも、いくら専門家がいっぱいて、サービスが充実していて、地域の人達に障害の理解があったとしても、本人、家族が幸せだと感じなければ、その人たちからは良い地域に見えないのではないかと思うのです。
つまり、「私の地域ガー」と言う人達は、良い地域に変わることを求めているのではなく、また良い地域だろうが、そうではないだろうが、自分が幸せになることを求めているのだと思います。


私は地域を変えることが、幸せな人達を増やすことだと考えていました。
しかし、幸せな人を増やすことが、地域を変えるのだと思うようになりました。
治りたい人が治っていける。
生涯に渡る支援ではなく、自立したい人が自立できている。
支援者に委ねるのではなく、家族が主体となって子育てしたい人が子育てできている。
そのような自分の希望に向かって歩める人がたくさんいるから、良い地域になっていくのだと思います。


全国から頂く相談からは、理想的な地域とは言えないものの、それぞれの地域で、個々に頑張っている姿が見えてきます。
その地域では少数派で、孤立しているかもしれませんが、ネット上ではつながっていますし、治りたいという輪は確実に広がってきているのを感じます。


治りたい人が、治った人、治すアイディアを持った人とつながっていく。
それは地域にとらわれる必要がないものです。
治りたい人から治っていくように、幸せになりたい人から幸せになっていく。
自分の希望に向かって歩めているのなら、その人にとっては良い地域であり、そんな人がたくさんいる地域は良い地域になっていくように感じます。
ですから、私は、自分が、希望される方がどこに住んでいようとも、治す後押しをしていきたいと思いますし、「もう函館にこだわる必要はない」と思う今日この頃です。
ブログの更新が止まったら、潰れたか、闇討ちにあったか、別の場所に行ったか、転職したか、と思ってください。

2018年2月17日土曜日

平成になれない先進地域

オリンピックを観ていると、10代の頃から海外に留学し、力をつけてきた選手がいることがわかります。
「自分を高められる場所があるのなら」「今よりも、より良い環境を求めて」という強い想いを持った若者たちが、日本にとらわれることなく、どんどん世界に出ていっている。
日本が劣っている、海外の方が素晴らしい、などとは思いませんが、自らの意思でより良い環境を求めていく若者の姿にたくましさと、明るい未来の日本を思い浮かべます。


一方、福祉の世界は相変わらず、時代が進んでいきません。
老舗の法人や手広くやっている法人などは、10年も、20年も前と同じ話をしています。
「〇〇という支援があれば、自閉症の人達は安心して生きていける」
「〇〇という療法で、問題行動は治まっていくのです」
「障害を持った人からではなく、こちら側から歩み寄ることが大事なんです」


一人一台スマホを持ち、平成も終わろうかというこのときに、何十年も前と同じことを言っている。
その理由はシンプルです。
一度、「〇〇という方法が一番です!最適です!」と言ってしまった以上、あとからより良い方法が出てきても、切り替えられないのです。


「いやいや、それは個人の問題、柔軟性の問題」などと言われそうですが、こっちはシンプルにはいきません。
何故なら、いろんなものを巻き込んでしまっているから。
まず当事者と家族ですね。
当時、「治らない」で、「支援も、サービスも、財源も、理解も足りない」から始まっていましたので、障害を持った人が、また家族が一生涯安心して暮らせるよう環境づくりを行ってきました。
そのため、一生涯ケアを受けられることがゴールであり、人生設計だったわけです。
ですから、今更、「神経発達を促す方法がありました」「一生涯の支援じゃなくて、本人の発達、成長を後押しし、自立を目指しましょう」とは言えないのです。
「この道が最高の道であり、私達がその先導者だ」と言ってしまったから。


また地域を巻きこんじゃっていますね。
「我が地域は、先進地域です」なんて言って、海外からも人を呼んじゃって、後援もたくさんお願いしたし。
税金もいっぱい使ったし、特に福祉が産業になっているような地域では、福祉を中心とした街づくりもしちゃっている。
それが突然、「いや~、どんどん自立する方法が見つかったから、ゆりかごから墓場までの支援も必要なかったんですよね、テヘッ」とは言えないし、金返せになる。


さらにさらに、そういった法人って、自分たちが推し進めてきた療法の当時のリーダー達と関係ができちゃっている。
高い旅費と高いコンサルテーション代を支払い続けてきた。
その当時の大先生に見て頂いていることで、お客様を集め、「私達が先進地域です、エッヘン」とやってこれてきた。
一方で大先生も、高額なお金と実績、講演のネタを作ることができた。
ちなみに何故、高額かって言ったら、元を辿れば、自分たちで稼いだお金ではなく、税金だから。
同じくらいの規模の一般企業なら、どんぶり勘定で、そんなに高いお金は出せないはず。
一度、ズブズブな関係が出来上がったら、なかなか切ることはできません。


10年前、20年前、「先進地域」と呼ばれていた場所が、軒並み、残念な結果になっているのは、当然なのかもしれません。
全国的に、右往左往していた時期に、いち早く手を挙げて、特定の方向へと推し進めることができた。
それには、ある程度、資金と影響力を持った規模と歴史、その地域での看板が必要だったわけです。
ですが、時代はスピードを上げて、大きな変化を遂げています。
それに対応するには、老舗であること、手広くやっていることがネガティブに作用します。


自閉症、発達障害が「治らない障害」「一生涯支援が必要な障害」ではなくなった今、いち早くそういった方向へとシフトできる人、組織が生き残っていくと思います。
「一生涯の支援」「障害に理解のある街づくり、社会のシステムづくり」には、大きな看板、大きな組織が必要でした。
でも、これからの特別支援は、発達援助は、本人が主体であり、家族が後押しするものになりました。
そうなれば、今までのような大きな看板、組織は必要なくなります。
個人と個人がつながれば良いのです。


私の父は転勤が多く、いろいろな土地で子ども時代を過ごしたので、なおさらなのかもしれませんが、生まれ育った土地に縛られる感覚が分からないのです。
「私の地元に良い支援者がいない」などと仰られる方がいますが、だったら、ほかの地域に行けばいいんじゃない、って思うのです。
生まれ育った地域が、一生涯、障害を持った人を抱える時代は終わったのですよ。
多くの人が一人一台、スマホを持っているのです。
新幹線だって北海道までつながったし、沖縄と北海道だって、飛行機を使えば一日で移動できます。
スマホを使って、我が子に、自分の感覚に、願いに合った支援者を探せばよいのです。
本やネット情報など、以前と比べて、多様になってきましたよ。
SNSやメールでもつながることができる。


「私の地域ガー」は、いつの時代ですかって感じですし、ある意味、主体性のなさからの発言だと思います。
地域のせいにしている暇があるのなら、自分でより良い方法、支援者を探した方が人生の時間を有効に使えるはずです。
ギョーカイの言う意味の「早期療育」には賛同できませんが、発達援助は一日でも早いほうが良いのです。


平成の若者たちが、より良い環境、自分を高めてくれる環境を求めて世界に飛びだしていくように、昭和の私達も地域を飛びだしていきましょう。
昭和の人間たちも、まだまだ負けてはいられないのです!(笑)

2018年2月16日金曜日

発達援助と家庭料理

幼い子の親御さん、特別支援の世界にまだ足を踏み入れていない親御さんには、支援者との関係について「家庭料理」という例えでお話しすることがあります。


料理のプロは、世の中にたくさんいて、和食が専門の人、中華が専門の人、洋食が専門の人という具合に、それぞれ専門があります。
支援者も同じで、いろんな専門の人がいて、その専門の中でも、うまい店もあれば、下手な店もあります。
「欧米で認められた療法です!」なんていうのもよくあるけれども、それは世界展開しているファーストフード店みたいなもので、その料理がおいしいか、日本人の舌に合うかは別問題。
自分の国だけではなく、各国の市場を舞台に商売しているっていう意味です。


支援を専門家に頼むっていうのは、外食するようなものです。
一般的な家庭では、毎日、外食しないように、毎日、専門家に我が子の支援を頼むっていうのは普通考えにくいことです。
当然、栄養、嗜好は偏りますし、子どもへの発達、成長への影響も少なくないといえます。


子どもの発達や成長を後押しする営みは、家庭料理のようなものです。
どんな材料で、どんな料理を作るか、家族が主体的に考え、選び、手を動かしていきます。
もちろん、親御さんの中にも料理の得意、不得意があるように、どうやって育てていけばよいか、どんな支援が子どもにあっているか、わからない人もいます。
そういったときに、料理教室に行ったり、レシピ本を読んだりすると思いますが、それにあたるのが専門家です。
相談に行ったり、勉強会に行ったりしながら、ときに、実際に支援するのをそばで見たりしながら、親御さんが腕を上げていく。
だって、子育て、子どもの発達、成長の後押しは、日々の積み重ねであり、家を巣立っていくまで続くから。


発達障害の子を持つ多くが、親になって初めて、障害と向き合い、支援者、専門家と呼ばれる人達と付き合います。
そのとき、勘違いする親御さんが少なくないと感じます。
「私じゃなくて、専門家がどうにかしてくれる、よりよく育ててくれる」
しかも、支援者側がそのように仕向けるので、余計、その方向に行ってしまいがちです。


「子どもは社会が育てていくものだ」
そのように主張する人もいます。
でも、発達障害の子ども達に関しては、発達のヌケという人間としての土台の部分に課題があるのですから、家庭生活が重要であり、親御さんの力が大きいと言えます。
その土台がしっかりしたあとは、社会が人を育てていくのだと私も思います。


定型発達の子どもが「習い事何しようか?」「どの学校に進学しようか?」というレベルではなく、様々な他人が様々なことを言ってきますし、その選択がモロにその子の人生に影響してきます。
普通、家庭料理に料理人がなんだかんだ言ってこないのに、「今日の味付けが悪い」「今晩のメインは中華にしろ」と言ってくるようなものです。
ですが、それを受けてしまう親御さんがいて、食べたくない料理を食べて続けているように、舌に合わない支援をずっと受け続けてしまう。


子どもの体調、様子を見て、料理や味を変えられるのが、家庭料理の醍醐味です。
子育ても、発達援助も、子どもの状態に合わせて、支援を変えたり、組み合わせをアレンジしたりしていくのが良いのです。
家庭料理の味が家々によって違うように、子育て、発達援助の仕方もオリジナルで良いはずです。
しかし、特別支援の世界は、「この療法が一番だ」「あなたの子に合っている」と言ってきます。
ですから、家でご飯を作るように、「私が決めます!作ります!」という姿勢でいて欲しいと思っています。


時々、外食するのは良いですが、基本的には自分たちでメニューを考え、料理を作っていく。
支援者はあくまで、よりよい家庭料理を作るためのレシピ本であり、料理教室の先生です。
たまに、「うちの包丁を使わないと、うまい料理はできないよ」と支援グッズを買わせようとする輩もいますが、そんなときは蹴っ飛ばすたくましさが必要です。
親御さん自体、腕を上げ、コツを掴んでいかないと、より良い子育て、発達援助ができていきません。


ですから、支援者側も、親御さん自体が自立していけるよう後押ししなければならないと思います。
同じ家族にストーカーのようにつきまとうのではなく、家族が試行錯誤しながら自分たちの味を作っていけるように導くのが、本当の専門家と呼ばれる人の役割のはずです。
より良い成果のために研究し、腕を磨いていくのが専門家の役割であり、それを参考に我が子に合った子育て、発達援助をしていくのが親の役割ですね。

2018年2月15日木曜日

自らが治し、発達、成長させる

怪我をすると、血が出ます。
血が出たあと、その傷口を消毒したり、縫ったりして処置するのは、人間だけです。
他の動物は、そんなことはしません。
じゃあ、他の動物は怪我が治らないのかといったら、そうではなく、自らの力によって傷を癒し、再生していきます。
中には、切断した身体の部分を自己再生する動物もいます。
ですから、消毒液や縫合糸に傷を治す力はありません。
自分を治す力は自分が持っているのです。
そういった意味では、人間が作った医療も、治すための後押しをしているのだといえます。


人間の発達、成長も、同じだと私は考えています。
自らの内側に発達する力、成長する力を持っている。
しかも、それは止まることなく絶えず動いており、環境により良く適応するといった方向へと進んでいるのだと思います。


そのように考えると、発達に遅れがある子ども達は、何らかの理由で自らが持つ発達、成長する力が阻害されている状態、発揮できていない状態と言うことができます。
発達障害の人達は、ヒトの中に組み込まれた発達過程の中に抜けている部分があることが中心的な理由になります。
しかし他にも、動物として基本的な食事、睡眠、排泄に問題があること、不適切な養育、環境からの過剰な刺激などの理由も考えられます。


行動障害に関しても、環境により良く適応しようと動いた結果だと考えると、2つの側面が見えてきます。
まずすぐに思いつくのが、誤学習です。
周囲の誤った関わり、メッセージにより、誤った環境に適応してしまうということです。
また、本人が情報の切り取り方を間違ってしまい、誤った風に捉え、それに適応していってしまうということもあります。


もう一つの側面は、本人が今の環境の中でラクになろうとして動いた結果が、周囲からは認められなく、行動障害に見られてしまうということです。
自閉症で、かつ行動障害を持つ人の多くに、感覚面の課題を持っています。
周囲から理解されない彼らの行動も、そんな感覚面の課題に対する対処であり、自己治療のような気がします。
経験が浅いときには、「どうしてそんな行動をするのだろう」と疑問に思っていましたが、彼らと寝食を共にする中で、「やらざるを得ないからやっている」「そうしないと、自分の精神、命が保てないからやっている」そんな風に感じるようになりました。


人間の社会では、医療が尊いものであり、限られた人間にしかそれを行う権利がないものです。
でも、医療は治す後押しができても、根本治癒を果たすことができません。
死んだ人間の傷口をいくら縫っても、死んだ人間にいくら薬を投与しても、治りません。
生きているから治るのであり、治す力を自らの内側に持っているから治るのだと思います。


動物はみな、自らの傷を癒す力を持っているように、自らを発達、成長させ、より良く環境に適応する力を持っているのだと考えています。
ですから、発達障害の子ども達と接する援助者ができることは、彼らの力が発揮できるようにしていくこと。
なんだかんだ専門的、高度な知識と技術などと言わずとも、阻害している要因をクリアにすれば、あとは自らの力で発達、成長していくはずです。
それ以降は、彼らが適応していこうとする環境を整えていけば良いだけです。
彼らの知的好奇心、試行錯誤、やり切る気持ちを満たせる環境です。


自閉症、発達障害の人たちへの支援を専門分野にしたことで救われた人もいると思います。
しかし、専門分野にした結果、余計に糸が絡まった、支援者が思い描く人工的な環境に適応してしまった、という人もいると思います。
治す力、成長、発達する力を持った彼らに、発揮できない状態をありのままに、「これが社会だよ」と人工的な環境を用意する。
これは、とっても勿体ないことだと思いますし、ヒトの視点が抜けた育ちだと思います。


医師に限らず、先生、支援者など、「私が治しますよ、育ててみせますよ」という人よりも、上手に子どもの力を引き出し、子ども自身で発達、成長できるように補助してくれる人を探すのが良いと思います。
頼った結果、状態がもっと悪くなる、新たな問題が出てくるのはもっての外ですし、本人も、家族も、主体性が失われていく、受け身になっていく、というのも御止めになった方が良いと思います。
背中を押してほしいのに、足を引っ張られるのは御免ですね。

2018年2月14日水曜日

行動障害と向き合うときに、仲間で掛け合っていた言葉

行動障害を持つ人達の支援をしているとき、一緒に働く仲間には2つのことを言っていました。
「“障害者”として、その人を見ない」と「粘る」です。


「“障害者”として、その人を見ない」というのは、障害特性や発達の具合を考慮しないということではありません。
多くの方は、感覚過敏など、感覚面に課題がありましたし、重い知的障害などの発達面の遅れが見られました。
ですから、どうしても「障害者」として見てしまいがちになります。
でも、そこで「障害者」と見てしまうと、無意識的に一歩引いてしまうのです。
「これくらいは許容範囲かな」「こっちが我慢すれば良いや」という具合に。


そうやって一歩引いてしまうと、一歩引いたところに、支援に関わっていた本人の世界の線が引かれていってしまいます。
行動障害を持つ方の多くは、重い知的障害も持っている人が多いので、そういった支援者の「一歩引く」という感覚が、ストレートに影響を与えてしまうのです。
言葉を獲得する以前の発達段階にいるのですから、そういった動き、雰囲気が彼らにとって世の中を読み解く“主”になっている。


一歩引くのが普通になると、また次の波がやってきたとき、さらに一歩引くことになります。
こうやって知らず知らずのうちに、支援する側が一歩ずつ下がっていくと、一般的な社会で生きていくことが難しくなっていきます。
ですから、障害者という眼鏡を外します。
20歳なら、一般の20歳の男性がこういった行動は許されるかという視点で見て、介入すべきでは、指導するべきではないか、と考えていく。
また、年齢の幼い子どもだったとしても、同じ年齢の子と比べてどうだろうか、もし親だったら将来のために注意しないだろうか、そんな風に考えていきます。
そうすると、無意識に一歩引くということがなくなりますし、障害のない子と同じように、将来の自立、社会で生きていくために、何を教え、何を注意しなければいけないのかが見えるようになります。


行動障害を持つ人の支援というのは、本人はもちろんのこと、周囲にとってもしんどいことです。
しかも、身に付けてしまった行動を角度を変えて、別の方向へと導いていくのは時間がかかることです。
途中で諦めたり、支援を止めてしまうと、ある意味、糸が絡まってできあがった問題行動が、さらに別の糸で絡まってしまう。
そうすると、どんどん問題が絡み合ってしまい、どんどん解決するのが難しくなるのです。
ですから、一度、その問題行動に取り組もうとしたら、その課題が解決するまでやり通すということが大事になります。
私も実際、支援に携わるときには、「自分たちがこの問題を解決しなければ、今後、解決して暮れる他の人が現れるわけはない」と思い、取り組んでいました。


「粘る」というのは、まさしく人を育てる基本だと言えます。
発達も、成長も、自立も、本人の試行錯誤の先にあるものです。
その試行錯誤には粘りが必要であり、粘れる子を育てるには、まず大人が粘れる身体と心を持っているかが問われると思います。
子どもの発達を後押しするのが上手な親御さんも、問題行動へと繋がる芽を摘むのが上手な親御さんも、妥協しない人であり、粘る人ばかりです。


行動障害への取り組みも、子どもを育てていくことも、何か良い支援、良い教材を与えれば、ポッと解決したり、できるようになったりするものではありません。
やっぱり人が育つには、発達、成長するには1つずつの過程があると思います。
その過程を一歩ずつクリアしていくスピードは個々によって違いますので、特に発達にヌケのある子達に携わる者は、じっくり粘れる姿勢が求められます。


近頃、粘れない人が多くなったような気がします。
それは生活スタイルが変わったからだと、私は思っています。
重いものを持つことが少なくなった。
部分的な遊びが増え、身体全体、また腰を使った遊びが少なくなった。
あと、まだ私が子ども時代は、学校や公共の施設には和式便所があったのですが、今は洋式ばかりになり、かがむ姿勢をしなくなったことも、粘れないことと関係しているのでは、と思っています。

2018年2月13日火曜日

激しい行動は、エネルギー、生命力の強さの表れ

行動障害を持つ人の中で、その頻度や強度が強い人は、強度行動障害になります。
私が働いていた施設は、強度行動障害支援事業を行っていましたので、その判断基準となる「強度行動障害判定基準表」を度々使っていました。
これをご覧になればわかると思うのですが、ひどい自傷、他害、激しいこだわり、器物破損など、行動障害と聞いて思い浮かべやすい項目から、睡眠、食事、排泄、多動など、よく「問題行動」と言われている項目など、全部で11項目について、どれくらいの頻度で見られるかで得点を付けていき、一定の点数を超えると、「強度行動障害」と判定されます。


よく勘違いされている方がいらっしゃるのですが、嫌なことがあったとき、自分の頭をポカッと叩く、これだけでは強度行動障害になりませんし、行動障害というのも難しいといえます。
何故なら、ポカッというくらいの力の強さでは、行動障害と表現できるものではないからです。
また、いくら自分を怪我させるほどの力の自傷だったとしても、他の項目、つまり、ひどい他害や激しいこだわり、睡眠や食事に問題がなければ、強度行動障害の基準を超えないのです。
具体的に記せば、激しい自傷が「一日中ある」で5点、でも、他に行動障害が見られないと0点で、合計が10点以上ないと強度行動障害になりませんので、その人は「激しい自傷がある人」になります。
強度行動障害の判定基準を超えるには、ただの自傷、他害、こだわりではなく、どれも激しくて、それも頻繁に見られるものが、複数ある必要があります。
ですから、強度行動障害と判定されるくらいになるまでには、相当難しいといえます。


私が施設で接してきたひどい強度で、それも頻繁に見られる人達。
そういう人達の多くは、糸が絡まりまくっている状態、そんな風に見えました。
始まりは発達のヌケや遅れだったのですが、それが人や環境の影響を受けながら、よりいびつな方へと形作られていった。
「もう少し早い段階で何かできなかったものか…」
「ネガティブな影響を与えた要因が一つでも少なかったら…」
ここまであらゆる面で、行動障害が現れなかったのに、と思うこともありました。


しかし今、「エネルギー」というワードを見聞きする中で、発達のヌケと環境のズレだけではなく、本人たちにも共通性があったような気がしてきました。
それは、みなさん、エネルギーに溢れていたということ。
もちろん、本人の持っているエネルギーが間違った行動の方へ向かってしまった結果、強度行動障害と言われるくらいまでになってしまったのですが、そのエネルギーが強かった人ばかりだったように記憶しています。
満ち溢れたエネルギー、生命力が自分や外に向かっていってしまった。
受け身のタイプの人や熱量が少ないような人は、行動障害がなかったように思えます。


そう考えると、不適切な方向へと向かわせてしまったエネルギーを、ちょっと角度を変えて、適切な方向へ進路を変えてあげられれば、自分や他人を傷つけるのではなく、助ける力になっていたかもしれないと思いました。
溢れ出たエネルギーが行き場を無くし、処理することができず、長年の間に身に付けてしまった不適切な行動を通して発散させていたような気もします。
ですから、周囲から見える不適切な行動も、本人からすれば、自己治療の一つだったのかもしれません。
もちろん、それを容認することはできませんが。


夏休みなどの長期休暇の際、帰省等で職員数に余裕があるときには、ゆっくり時間をかけて、行動障害の子と一緒に散歩、遠足に行っていました。
自然豊かな場所でしたので、近くの野山を歩き、たくさん汗をかく。
そうすると、その日に限っては、行動が落ち着き、表情も自然になるのでした。
特に運動や身体に関する知識があったわけではありませんが、「自然の中で運動は行動を落ち着かせる」、職員は経験の中でそう感じ、先輩から後輩へと代々受け継いできたのでした。


今、振り返れば、満ち溢れていたエネルギーを、その人が持っていた生命力を、服薬や様々な支援で抑えようとするのではなく、発散させる方法をもっと大切に、また価値あるものと捉えればよかったと反省しています。
元気のない行動障害の人っていませんでしたね。
みんな、力に溢れていました。
それが周囲に与える怖さにもつながり、作用して、職員に「抑える」を強く意識させたのかもしれません。
たとえ誤った使い方だったとしても、エネルギーがなければ、行動は起きない。
激しい行動は、エネルギー、生命力の強さが表に出た姿なのかもしれないと改めて思いました。

2018年2月12日月曜日

接待を求める人

突然、絡んでくる障害を持った子の親や当事者の人というのは、日頃から接待受けてます臭がプンプンしてきます。
見ず知らずの私に対しても支援者というだけで、自分の意見や要求が通る、横柄な態度をとっても許される、そんな風に考えているように思えてきます。
「支援者」という文字だけで甘えてしまうのですから、周囲にいる支援者というのは、たくさんいい子いい子してくれているのでしょう。


発達障害は親の育て方が原因の時代が過去にあり、今もそのように見られることがありますので、その揺り戻しとして丁寧に扱い過ぎる傾向があるように感じます。
「障害を持った子を持つかわいそうな親」などと、支援者側が勝手な価値観を持っていると、「心のケアが大事」などと、とにかく傷つけないように、親が気持ちよくなるように、と対応してしまう。
さらに「傾聴」なんて言われますから、親の言うことを「うんうん」と聞いてしまう。
耳を傾けて、しっかり聞くことと、親の言うことはすべて聞く(否定しない)は違いますよね。


しかし、こういった支援者の対応も、親御さん自体の揺らぎが収まってくると、違和感に感じてきます。
でも、そこで現実が改善せず、揺らいだままでいると、だんだん支援者の接待が親自身の癒しになり、甘えにつながっていくのです。
飲食店などでも、店員の対応が悪いと文句を言う人はいます。
こういった人間は、お店に行ってお客様扱いしてもらうことを求めているんですね。
つまり、実生活が満たされていない、実生活の中で自分の存在価値が見いだせない。
だからこそ、お店に行き、お客様扱いされることで、自己治療している。


「支援者なら何でも言うことを聞いてくれる」という誤学習は、支援者側の仕事の意味のはき違えと、親側の現実的な問題、下手くそな自己治療の結果だといえます。
現実が充実していればクレーマーにはなりませんし、逆言えば、クレーマーの多くは、現実世界に問題を抱えた人なんだと考えられます。
ですから、支援者ということだけで横柄な態度が取れる親というのは、実生活に、特に我が子の成長に関して不満や不安があるということであり、その周りにいる支援者も、その現実を変えられるくらいの力がない、また接待が支援だと勘違いしている、そんな姿が想像できますね。


一方、当事者の人の接待慣れというのは、親の接待慣れと比べて、説明がシンプルです。
以前は「自閉症の想像性の障害から」なんて、私も教科書通りな浅い解釈しかできていませんでしたが、そうではなく、ただ単純に住む世界が狭いだけ。
自閉症のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちも、学校を卒業し、社会に出ていろんな人と出会い、働き始めると、社会のルールや暗黙の了解、人との付き合い方が分かり、実践できるようになっていっていました。
ですから、障害特性ではなく、狭い世界で生きている、いろんな人と関わっていない、経験不足なのだと思います。
そういった当事者の人達の多くは、ごく限られた人の中で、特に支援者と利用者という関係性がある人の中で生活しているので、勘違いが続き、誤学習が進んでいく。


では、なぜ、支援者側は当事者の人に接待しがちなのか?
もし一般就労や社会の中で生きていけるように、と本気で考えていたら、接待などせず、社会の中でより良く生きていけるような接し方、指導をするはずです。
支援者という仕事は、障害を持った人がいて成り立つ仕事であり、利用回数によってお金が増えていく仕事です。
ですから、お客様扱いして、何でも要求を受け入れておけば、ずっと利用してくれる、そんな考えで接待している人もいるでしょう。
でも、私がシンプルに思うのは、結局、支援者自体が無理だと思っている。
「この人は一般就労は無理」「一生福祉の世界にいるだろう」「どうせ問題行動は治らない」
そんな諦めを含んだ「無理」が接待を後押しするのだと思います。
「今、問題が起きなきゃいいじゃん。だから、一般的に考えたら、おかしいし、ダメだけれども、うんうんと聞いて、その場しのぎをしておこう」って感じです。


突然、絡んでくる当事者の人は、だれかれかまわず、また時間も関係なく、接待を求めている傾向があります。
こういった様子から、エネルギーを持て余している姿が想像できます。
仕事をしていないか、福祉的な軽作業をしているのでしょう。
あり余った消費しきれなかったエネルギーを、自分が唯一できて、長らく受けてきた接待という下手くそな自己治療へと向かわせてしまう。


こうして考えてみると、やっぱり治ることが大切なんですね。
突然絡んできた相手に対して、一般的な、常識的な対応をすることで、接待しない人もいることを伝える。
でも、接待を求めてしまう根っこは、実生活の不満と不安とつながっている。
ですから、実生活、特に障害を持った本人がより良く発達し、成長することが、接待を求める気持ちを減退させ、同時に接待に向かわせたエネルギーを本人の未来への後押しに向かわせる近道です。


治ることは、治すことは、本人の自立とより良い生活だけではなく、迷惑をこうむる人を減らすことにもつながる。
そのためにも、支援と接待の違いを理解することが、本人、家族、そして支援者にとっても必要なことだと思っています。

2018年2月11日日曜日

多様性を認める社会に生きる上での最低限のマナー

SNSを利用されている方は経験があると思うのですが、いきなり見ず知らずの、しかもハンドルネームで突っかかってくる人がいますね。
私も年に1,2回は絡まれるのですが、その人達は障害を持った子の親御さんであったり、当事者の人っだったりすることがほとんどです。


最初の頃は、「自分の表現がまずかったのかな」「文章力の問題かな」なんて思っていましたが、いつも決まって一部分を取り上げて、また独自解釈をして、なんだかんだ言ってくるので、これは実生活の中で鬱積した感情を持った人が、自分で処理できずに、誰でも良いから他人を巻き込んで自己治療しているのだと思うようになりました。
私のブログを定期的に読んでくださっている方たちやツイッターをフォローされている方たちの中にも、「ここは違う意見だ」「この考えは間違っていると思う」「別の事実、見方もあるのでは」などと思って目を通されている人がたくさんいるはずです。
いつも、まったく同じ意見だということの方が不自然です。
でも、だからと言って、いちいち突っかかってはきません。


どうしても何か言いたくなるのは、自分の中に処理できていない、認めたくない感情があるからだと思います。
それが私の言葉によって呼び起こされる。
突っかかってくる人は共通して、まるで自分が一人言われているかのように捉えています。
たとえ自分の意見と違っても、自分が選択したことが否定されていたとしても、自分自身が納得して選択したのなら揺るがないし、スルーできるはず。
不特定の人に向けた文章を自分の意思で見て、「私のことが言われてる!」となるのは、元から自分の中にその感情、経験があるからに違いありません。
勝手に風呂場を覗き見しておいて、「なんだ、俺のタイプじゃないじゃん」って文句言っているようなものですね、その人にスケベ心があるから覗くのです。


やりとりを繰り返していると、よく「支援者なんだから、発言、影響力に気を付けろ」みたいなことを言われます。
たとえ私が支援に携わる仕事をしていたとしても、すべて正しいわけではありませんし、そもそも日本にいるたくさんの支援者の中の一人です。
影響力があるはずはありませんし、影響力があるように感じているのは、受け手の勝手な解釈だと思います。
こういった人は、多分、主体性のない人で、権威主義の人なのでしょう。
医師が言うから信じる。
先生が言うから信じる。
支援者が言うから信じる。
でも、実際は心から信じているようで、権威によって自分の素直な感情を抑え付けているのだと思います。
その実生活の反動で、見ず知らずの支援者に吐き出し、甘えているのだと感じます。


もともと論理的な主張ではありませんし、実生活の不満が解消されなければ収まらない感情なので、途中で議論がかみ合わなくなります。
そうなると、これまた決まって「藁をも縋る想いの人が騙される」と言った文言が出てきます。
いやいや、藁をも縋る人はあなたには関係ないし、一人の親が、一人の当事者の人が、それを心配し、それを自分の中の正義で正せと言うのはおこがましいことだと思います。


藁をも縋る想いで、周囲に相談できず、切羽詰まった感じの方から電話がくることもあります。
「もうどうしたら良いかわからない」と感情が乱れている方もいます。
そういった方から連絡が来れば、時間が許す限り、その人が落ち着くまで付き合ってきました。
それで私が終わったあと、「はい、相談料、10万円振り込んでください」と迫るのなら、それは詐欺まがいだ、これ以上、被害者が出ないように、と言われても仕方がないかもしれません。
でも、お金を要求したことはありませんし、壺などを売ったりしたこともありません。
お金を頂くのは、直接援助したときであり、それも依頼があったときのみです。
ですから、藁をも縋る想いの人にはできることを行っていますし、商売について文句を言えるのは、実際に利用してくださっている方達だと思います。
その人達が、「やっていることがおかしい」となれば、ただ潰れるのみです。
利用したこともないし、これからも利用することのない人が、商売について言ってくるのは、ただのクレーマーだと捉えられても仕方がないことです。
また脅迫まがいまでエスカレートしたら、クレーマーも業務妨害で罪に問われるので、お気を付けください。


精神科の服薬に関して補足すれば、医師の診察で処方されたのなら、服用すべきだと思います。
ただ医学の世界では、発達障害は治る障害ではないと言われていますし、発達の遅れにつながった神経発達を促す薬があって、それによって発達障害を治すといった治療をされていることを聞いたことがありませんので、精神科の薬を飲めば、発達障害が治っていくですとか、行動障害が治っていくといったものではないはずだと、臨床してきた立場からの考えを述べたまでです。
薬の力を借りつつ、その一方で、どう育て、何を教えていくか、という視点がなければ、根本から治っていくことがないと思います。
施設で働いていたときも、精神科薬に関して職員の判断でということはなく、減らすにしても、増やすにしても、必ず医師の指示を受けながら、また日々の様子を報告しながら、そして保護者の同意を得てからになっていました。
職員の判断で行ってしまったのなら、それこそ、その人に対する人権侵害になると思います。


昨日のブログを読んで、医師になってから言え、せめて薬剤師の資格を取ってからモノ申せ、と言っていた自称医療関係者もいました。
こういった人は、日頃、「患者さんの意思を尊重しながら」なんて顔でニコニコしていたとしても、腹の中では「素人の癖に、診察、処方に関してガタガタ言うな」と思っているかもしれません。
ほとんどの医療関係者は、このような発言をする人ではないと思いますが、もしかしたら、自分が受診する医師が、看護師が、薬剤師が、そうではないと言い切れません。
多くの親御さんは、医療関係者ではありませんし、医師と一対一で向かい合わなければなりませんので、自分の頭でいろいろと考えておくことが必要ないことだとは思いません。
医療の力を借りつつ、どうやって我が子を育てていくか、それを考えることは、医療関係者ではなくても、親なら誰でもやって良いことであり、必要なことだと思いますね。


多様性を認める社会は、自分と意見が違う人、嫌いな人も一緒に暮らす社会です。
ですから、そういった人達のことが気にいらなくても、否定や排除をしてはいけません。
直接、自分に関わるのなら、きちんと向き合い、主張すべきですが、そうでないとしたら、他人の権利を侵害していることになりかねません。
少なからず、親、また支援に携わる者たちがこういったことを知り、実行している必要があります。
そうでなければ、子ども達が多様性を認められる人には育たないと思います。
どうしても愚痴や文句があるのなら、見えないところでやる、他人を巻き込まずに自分で処理する、これは大人の最低限のマナーではないでしょうか。

2018年2月10日土曜日

医師だって治すつもりで処方してないですよ、精神科薬

ある時期から、入所してくる子ども達がみんな精神科で処方された薬を飲んでいるようになりました。
それまでのお兄ちゃん、お姉ちゃん達は、3歳、4歳などといった幼少期から服薬している子はほとんどいませんでしたし、精神科薬を飲み始めるのは、行動障害がひどくなったときから、といったものでした。
しかし、いつからでしょうか…あっ、早期診断、早期療育が言われ始めてからですね。
自閉症、発達障害と診断を受ける→精神科薬処方→服薬といった流れがポピュラーになったのは。


発達障害の人達にとって精神科薬は対処療法の一つです。
精神科薬に発達のヌケを育て直す作用はありませんし、そもそも処方している医師たちは、「発達障害は治らない」と言っています。
ですから、医師も治すつもりはないし、根本治癒を目指したものではありません。


あまりにも幼い子ども達が3歳とか、4歳とか、一般的に言ったら幼稚園の年少組、年中組のときから精神科薬を飲んでいる。
これは衝撃でしたし、みんなボーとしていたし、学校から帰ってきたら眠くて起きていられなかったですね。
学校の先生からも、授業中、上記のような状態があり、「学習が難しい」と言われたこともありました。
ですから、服薬しなくて済むように、と言いますか、もともと施設に入所したのですし、家で生活しているときのような対処は必要ないのですから、服薬中止の方向で支援を進めていきました。
まあ、その結果は予想通りと言うか、支援が整えば、落ち着くし、そうでなければ、いくら薬を飲もうが関係ない。
薬を飲むのと、飲まないのの違いは、副作用があるか、ないかでしたね。


ごく一般的な感覚として、幼稚園で遊んでいる子ども達が精神科の薬を毎日飲んでいるって、どう思いますか?
医療関係者じゃなくても、ヤバいっしょって思いませんか。
心身共に成長著しい時期で、神経発達の障害と言われている子が、今まさに人生で一番神経発達が盛んな時期を過ごしている。
そこに化学物質を入れる。


「これで感情の起伏が落ち着く」「これでADHDの症状が収まる」
そんなことを言われて処方される子もいるようですが、感情の起伏のない幼稚園児、走り回らない幼稚園児って、そっちの方が心配ですね。
たとえ、衝動的に手が出てしまう、走り回って目が離せないくらいの状態だったとしても、服薬で抑え付けても根本となる神経発達を促さないと、課題は先送りにしただけで、ずっと治っていきません。


そうすると、よくあるパターンで、対処的に始めた服薬が、小学生になっても、中学生になっても、大人になっても止められない。
だって、課題は残ったままだから。
そして、長い年月、服薬を続ければ、神経発達に影響がないわけはなく、服薬ベースの身体になり、脳みそになる。
だから、服薬を止めた途端、飲まないことの方への身体的、精神的ストレスが強くなり、大きく乱れる。
で、「やっぱり服薬は必要ですね」となり、薬を飲み続け、また飲み続ければ飲み続けるほど、利きも悪くなるから量は増えていくばかり。


よく考えてみればわかりのですが、問題行動があって服薬している人って、ずっと問題行動していませんか。
服薬のみで問題行動が治ったなんて、今まで私は見聞きしたことはありませんね。
ただ服薬の結果、問題行動ができないくらいまでの状態になった、という人達は見てきましたが。


まあ、ここまで医療関係者でもない私が、経験から好き勝手書いてきましたが、精神科薬は対処療法だとわかったうえで、納得して使っているのなら、それで良いと思います。
服薬することで、頭のざわつきがなくなった、整理して考えることができるようになった、という方達もいます。
それで勉強や仕事の効率が上がり、より良い生活が送られるのなら、現代医療の力を借りればよいのです。


ただ子どもの場合、神経発達が盛んである、心身共に発達、成長過程である、ということは考えなければなりませんし、どういったことに対処するために飲むのか、根本の発達のヌケ、遅れにはどうやってアプローチしていくのか、どうなったら服薬を止めるのか、その辺も当然、大人には考える責任があると思います。
初めは対処のつもりだったけれど、服薬ベースの身体ができあがってしまった、もう一生飲み続けなければならない、なんていうのは望ましいことではありません。
発達障害は精神障害ではないのですから。


「エビデンスが無い」ついでに、最後に見てきた事実をいくつか。
診療報酬は、診察<<<<<<<薬の処方。
どちらかというと、知的障害が重い子、意思表示が乏しい子が服薬している場合が多い。
問題行動がきっかけで服薬を始めた人は、ずっと飲み続けているし、ずっと問題行動が続いている。
一度飲み始めたら、抜くまでがとても大変、時間がかかる。
幼い子の場合も、服薬を完全に止めてから、その子が本来持つ子どもらしさが出てくるまで、数か月単位の時間がかかる。
1年以上飲んでいた子は、やっぱり年単位でかかるし、思春期以降、長年飲み続けてきた人は…以下自粛。


2018年2月9日金曜日

「幸せ」という言葉を使って伝えたいこと

ブログでこんなことを書くと、一気に宗教っぽくなってしまうんですが、「幸せに生きる」これこそが目指すべきゴールだと考えています。
「治りたい人」「治したい人」を後押しする活動を行っていますが、ぶっちゃけ治っても、治らなくても良いと思っていて、それよりも「ああ、幸せだな」と本人や家族が感じられたら、それこそが最も大事なことだと思うのです。
ですから、初めてお会いするときと、私の援助を終えるときには、特に強調して伝えますし、関わる過程でも「幸せ」という言葉を使います。


「幸せ」という言葉を使って、私が一番伝えたいことは、何かを得て幸せになるですとか、何かを達成して幸福感を感じるですとか、そういった類のことではありません。
私が伝えたいことは、自分の感覚を大切にする、中心に考える、ということです。


支援者から「この子は、無理せず、できることをやっていけば良い」「この子は、一生涯支援を受けながら生きることが幸せなんです」と言われて、そう思うのならそれで良いと思います。
でも、「ずっと支援を受け続けることが幸せなんだろうか?」「挑戦させないで、私達が転ばぬ先の杖でい続けることが、この子のためになるのだろうか?」、そんな疑問や違和感があるのなら、それは止めた方が良いと思うのです。


専門家が言った、周りに私と同じ考えの人がいない、そんな理由で、自分の感覚に蓋をする人が少なくありません。
精神科薬の服薬だってそうです。
親としては飲ませたくない、このままずっと飲み続けることがこの子の健康、発達に影響しないだろうか、副作用に苦しまないだろうか、そう思っていて、私にもお話しされる親御さんもいます。
でも、服薬を続けている。


朝、子どもを学校に送りだし、子どもは学校、放課後は児童デイで、夕方暗くなって帰ってくる。
親としてはラクだけれども、本当にこの子のためになっているのだろうか、そして、ほとんど顔を合わせない子育てって、家族での日々って幸せなんだろうか、療育よりも子どもと一緒に遊びたい、普通の家族のようにいっぱい思い出を作りたい。
そう思う人もいます。
子ども達が成人したあと、振り返ったら家族一緒の思い出があまりなかった、親としての達成感がなかった。


「支援を受け続けることが幸せだ」というのは、頭で覚え、考えた「幸せ」なんだと思います。
福祉の中で働いている今が幸せだと感じているのか。
そう感じられないとしたら、別の道があるはずですし、目指して動き出す必要があると思います。
常に今ある状況を「幸せかな?」と考える癖を付けた方が良いはずです。
本当は「快」と感じられるかが大事なのですが、「快」が良く分からない、という方が多いので、私は「幸せに感じるかどうか」という表現で伝えるようにしています。


「幸せ」でいえば、選択できることこそ、幸せだと私は考えています。
どんなに美味しい料理でも、どんな不自由のない生活でも、自分で何も決められない、というのは辛いことだと思います。
日本は、住む場所と仕事の選択の自由が認められています。
法律を犯さない限り、発言も、生活も、個人が決められます。
ですから、自分の感覚を大事にすると同時に、子ども達には将来の選択肢が増えるように、狭めないように育てていく必要があると考えています。


個人で選択できる自由があるのに、ここでしか生活できない、支援を受けないと何もできない、どっちかを選ぶのもサポートがいる、そんな状態では、子ども達は将来、選択の自由を謳歌することができません。
結果として、将来、選択できるものが減っていくのは仕方がないことです。
でも、最初から、どんどん選択肢を切り捨てていく、増やすようなことを目指さない、ではいけません。


いくら衣食住で満たされていても、そこに個人の選択の余地がなく、与え続けられた生活だったら幸せを感じられないはずです。
自分で選べるから幸せで、選べる選択肢があるから生活が、人生が豊かになる。
判断基準は、そこに「幸せに感じるか?」「快を感じるか?」
子育てのポイントは、この子が大人になったときに、より多くの選択肢があるようにする。
私はそのようなことを「幸せ」という言葉を使って伝えています。

2018年2月8日木曜日

教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく

長らく対処療法を推し進めてきた地域だからかもしれませんが、「絵を見せたら、パッと理解できた」「部屋を構造化したら、すぐに落ち着いた」みたいなのをイメージされている方達が少なくありません。
みなさん、すぐにパッと結果が出ることを求めているし、専門家の支援とはそういうものだと考えているように感じます。
ですから、「発達のヌケを育て直すには、家族が中心となって家庭でコツコツ積みあげていく必要があります」というような話をすると、「えっ」という表情をされますし、やっても続かない人が多いですね。
始めて一週間も経たないうちに、「大変です」「私には無理です」「先生、どうにかして」と言ってこられる方もいます。
対処療法しか知らず、対処療法慣れをしてしまった結果なのでしょう。


当地で言えば、視覚支援、構造化された支援が長らく、今も(?)中心でした。
「構造化された支援は、自閉症者の生活を豊かにする最適な方法である」
そんな風に押し進められ、今も信じている人がいます。
確かに、問題行動を起こしていた子が、生活が構造化されることによって落ち着きを取り戻すこともあります。
言葉で伝えてもなかなかわからなかったことが、絵に描いて伝えたら、「瞬時に理解できた!」ということもあります。
ですから、推し進めてきた側は「最適な方法」と言うし、見ている側は、すぐに結果が出るもんだから、「これこそが支援だ」と思う。
でも、大事な視点が抜けているし、隠されているんですね。
そうです、これってその場限りの対処療法だってこと。


視覚的に示したり、構造化して環境を整えたりすれば、理解できるし、落ち着くことだってできる。
でも、多くの人達が肌身で感じているように、場所や文脈が変わった途端、また元の状態に戻ってしまう。
推し進める側は、場所が変わってできなくなるのは自閉症の特性だと言い、そのためにもっと構造化が必要だと主張する。
それを聞いた多くの人は、場所が変わる前にできていたんだから、「その特性に配慮しろー」「できなくなった場所にいた支援者が悪い、構造化していないのが悪い」となる。
しかしながら、結局のところ、対処療法で対処していただけのことですから、根本的な課題にはアプローチしていないし、根本的に理解したわけでもありません。
むろん、発達のヌケは埋まっていきません。


施設に、強度行動障害バリバリの人が入所してくる。
暴れまくって、どうもこうもできない、生活自体がままならない。
その場合、最初は精神科薬を処方してもらって、まず精神を安定させる、支援が受け入れる状態にすることが多いですね。
精神科薬が利いていて、ちょっとした間ができているとき、私達は一気に支援を組み立て、何を教えて、何を補助するかを決定します。
あくまで精神科薬は一時的な補助であって、行動障害を治すのは支援であり、指導なのです。
根本にアプローチする支援や指導がなくて、精神科薬オンリー、また飲み続けるのは、ただの人権侵害だと私は思います。
問題行動が治るんじゃなくて、できないくらいの状態までにしてしまう。
だから私は、自閉症、発達障害の人が精神科薬を飲み続ける意味に懐疑的であります。


ちょっと話がずれてしまいましたが、つまり、対処療法はどこまでいっても対処療法であり、補助でしかないということです。
ですから、対処療法のみでは不十分であり、根本的なアプローチ、発達のヌケの育て直しも必要なのです。


いろいろな親御さんと接していると、上記のように「対処療法こそ、すべての問題を解決する」といったように考えている方もいますし、ご自身が愛着面、発達面、生活面で課題を抱えている方もいます。
昨日のブログで書いたように、これから発達障害を治すためのアプローチが基本となっていきますので、親御さんの主体性と継続する力が求められていきます。
すべての課題を自分で考え、乗り越えられる親御さんばかりではありませんので、課題が解決できるように、結果が出るまで辿りつけるように後押しするといった役割も必要になってくると思います。


発達のヌケの見立て、「対処」と「治す」のバランスをとる、というのは技術ですので、あまり難しいことではありません。
むしろこれからは、本人の持つ発達、成長する力を引き出すのと同じように、親御さんの持つ直感と育てる力、想いをどう引き出していくか、その点を重視し、できる支援者が求められるのだと考えています。


私は仕事をしていて、発達援助を学んでいて、支援者が教え、補助する時代は終わったと感じています。
教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく。
本人の治す力を引き出し、治ったあとは、その人の持つ資質の良い面が自然と引き出されていく。
親御さんが持つ治したい想いと直感、本能を引き出し、その力を発達援助に繋げていく。
これからの支援者という仕事は、「引き出しの多さと上手さ」だと私は思っています。

2018年2月7日水曜日

支援者は消えても、対処療法は残るからご安心を

対処療法を求め、広めようとする人たちの中には、「治す」が広まってしまうと、自分たちが推し進める対処療法が消えてしまうんじゃないかと危惧している人もいるようです。
でも、いくら「治す」が広まっても、対処療法がなくなることはないと思います。
幼少期や、今まさに問題が起きてしまっているときなどは、じっくり育て直すよりも、スピードが必要であり、対処で乗りきらなければならないことがあります。
また視覚支援や構造化、イヤーマフ、電子機器など、根本の育て直しにはつながらなかったとしても、より良く学び、生活できるアイディアは、時代が進もうとも活用されていくはずです。
ですから、「治る」が広まっても、対処療法は残っていくと思います。


近い将来、5年もすれば、「治す」は標準になると思います。
もしかしたら「治す」という言葉は使われなかったとしても、発達障害は神経発達の障害なのですから、「その神経を育てていこう!」「発達のヌケているところは刺激を与えて育て直していこう!」となるはずです。
治った人も珍しくなくなり、治すためのアイディアも溜まっていくはずですから、全国各地で神経発達を促すための試行錯誤が行われていくと思います。
対処療法や補助を利用し、今の生活の質を高めつつ、もう片方で発達のヌケの育て直しを行っていく。
それが近い将来の基本的な姿になると予想しています。


そんな近い将来は、求められる支援者の姿も変わっているはずです。
特定の対処療法しか引き出しのない支援者は必要がなくなります。
「根本から治す」と「対処する」の両方の視点がなければ勤まりませんし、これが最低基準になると思います。
このベースの上に、発達のヌケの見立ての質の高さ、一人ひとりに合わせた治すと対処の組み立てができるかが問われてくる。
「治す」と「対処」の絶妙なバランスが見える人、取れる人です。


そして、「根本から治す」を追い求めていくと、どうしても家族、家庭と突き当り、その力が重要になってきます。
発達のヌケを育て直すのは、家族が主体であり、家族の試行錯誤の中で育まれていくものです。
そうなれば、今のように支援者はいらなくなります。
正確な発達のヌケの見立てができ、一人ひとりに合った組み立てができる支援者が少数いればいいのです。
そういう人が後方から発達援助を後押しし、本人と家族が主体的に発達と成長の道を進んでいく。
ここまでくれば、学校の先生が今のように福祉ではなく、教育に専念できるはずです。


近い将来、支援者のほとんどは消えてなくなります。
残った少数の支援者達は、腕の良い人と、福祉の中で介護をする人です。
我が子に発達のヌケがある。
そのヌケと育て方を支援者がアドバイスする。
親御さんが主体となって育て直しを行っていく。
学校で、その子がより良く学べる方法を使い、学習を積み上げていく。
卒業後は、より良い社会を作る一員として飛び立っていく。
彼らが働いて納めたお金を使って、幼い子を持つ親御さんへの支援、福祉の力を必要とする人達へサービスを届ける。
こういった循環する自然な形の社会へ向かっていくのだと思います。


極端なことを言えば、私を含めた支援者という存在がいらなくなる社会を目指す。
家族が土台で、その上は社会が育んでいく未来。
障害を持った子の“人生”、我が子の自立と幸せを願う“親心”、みんなが汗水流して収めた“税金”を食い潰し寄生虫のような存在になってしまっている支援者には一日でも早く消えてもらわなければなりません。
そのために、私は今、治っていく人を一人でも多く社会に飛び立たせることに励んでいます。
時代が変われば、私の仕事も必要なくなる。
それで良いのです。

2018年2月6日火曜日

エビデンスが得られたとしても、治るを選ばない人、否定する人

「治るなんてインチキだ!」と言う人は相変わらずいます。
そして、その理由を「エビデンスがないから」と言う。
でも、治ることにエビデンスが得られたとしても、そういう人は「治る」を選ばないし、粗探しをしてでも否定すると思うんです。


何故なら、彼らが守りたいのは、エビデンス、科学的根拠ではないはずだから。
だって、そう言っている人の大部分は、親御さんだったり、支援者だったりするのです。
研究者だったらエビデンスにこだわるのもわかるけれど、申し訳ないですが、一般の親御さん、そこら辺にいる支援者がエビデンスを守ろうとする意義もなければ、私にはその意味がわかりません。
一般的な感覚なら、目の前にいる子が「より良くなる」それ以外の軸はないと思うんですね。


じゃあ、彼らが「治る」の何に恐れているのか。
それは、「発達障害になるのは誰のせいでもないが、発達障害が治らないのは親のせいであり、支援者のせい」、つまりこういうことだと思うんです。
結局、我が子の発達、成長よりも、自分が否定されることを恐れていて、そうなりそうなときのために「治らない。だって、障害だから」という逃げ道がほしいということなんだと感じます。


愛着の土台がしっかり育っている人は、他者から何を言われようとも揺らぎません。
ですから、自分の育て方を信じて進むことができるし、もし他者からの指摘が「そうだな」と思えば、柔軟に取り入れることができる。
指摘されること、否定されること=自分の存在自体が否定されている、ではない。
それが頭でも、身体でも、感覚でもわからない。
そういう自分の愛着に課題が残っている人が、治るを否定し、「治らないのは、あなたのせい」と言われるのを恐れているのです。


よく治るを目指している親御さんの中にも、「私が悪くて、なかなか治っていかない…」などと自己否定っぽく言われる方がいますが、たとえ治っていかなかったとしても、別に親御さんが悪いとか、悪くないとか、言っているわけではありません。
ただ単に治し方がずれているか、発達のヌケの部分の見立てが誤っているかです。
それを頭の中で自動的に「治らない=自分のやり方が悪い=自分はダメな人だ」と変換してしまっている。
やっぱり何でもすぐに自己否定と繋げてしまう人というのは、愛着という土台に揺らぎがあり、課題がある人なんだと思います。
そういった人にとっては、たとえ我が子だとしても、治らない方が安心でき、「みんな治らない」ではなく、人によって治るなどという違いが明確になることを恐れるのだといえます。


常識的に考えて、我が子が治って困る親も、関わっていた子が「もう支援はいらないよ。自分の力で生きていけるから」というように成長して困る先生、支援者もいないはずです。
本人が一番治ることを望んでいる。
じゃあ、治って困るのは、誰なのか?
それは自立しないでずっと支援を受け続けてくれることで商売になる人達と、自分を必要としてくれる弱い立場の人がいることで愛着を埋めようとしている人、自分自身の土台が不安定で、いつも指摘されることにびくびく恐れている人。
プライドが高い人、虚勢を張る人というのは、愛着という土台が脆いからこそなのだと思います。


発達障害になるのは誰のせいでもありません。
でも、治るか、治らないかは、本人と親御さんの力にかかっています。
だからといって、治らないのは、本人に問題があるわけでも、親御さんが悪いわけでもありません。
ただ発達のヌケの見立て、発達援助の仕方に問題があるのです。
その問題に気づかせ、後押しするのが、真の支援者の仕事だと考えています。


2018年2月5日月曜日

「治る」を強調しなくても良い時代へ

治らないと信じている人が、「発達障害は治りません!」と言うのを見ると、可笑しくなってしまいます。
だって、言っている本人が信じられていないんじゃんって思うからです。
治る治らないじゃなくても、自分が信じ、確信していることを、知らない他人が反対の主張をしていたとしても、普通は気にも留めませんね。


治らないと信じ、確信して子育て、支援されているというのなら、そのまま治らず、治さず、歩まれたら良いはずです。
治らないと思っていた子が治らなかった。
言っている通りになったのですから、それで良いじゃないですか。


でも、「治る」と言う人や、治った人を見かけると、どうしても何か言いたくなる。
それは、妬み、僻み、嫉みの表れであり、そもそも「治らない」を信じ切れていないということです。
だから、いちいち「治る」を否定してこようとする人は、必死さがある人ほど、「治らない」という主張が揺れているのです。
「治らない」という確信が持てないから否定しようとする。
本当は治ってほしいと願っているからこそ、必死になる。
治らない確信が持てている人は、わき目も触れずに治らない道を突き進むものです。


じゃあ、お前はどうして「治る」という言葉を使うんだ?
お前こそ、「治る」という確信が持てないから否定するんじゃないか?
と言われそうですね。
以前、「治す」という言葉を敢えて使って宣伝しているんだ、とズレた見解を示していたローカルギョーカイがいましたが…。


私が「治る」という言葉を使うのは、発達障害は治るし、治った人を見てきたからそう言うのが一番の理由です。
そして、発達障害という診断を受けた子の親御さんが、まず想う「治る方法はないだろうか」という願いをギョーカイに潰してもらいたくないからです。


ギョーカイが垂れ流す情報はもちろんですが、公的な機関でも「治らない」という情報で溢れています。
でも、「本当にそうだろうか」「治る方法があるのではないか」と想い続ける親御さんはいます。
そんなとき、「治る」という言葉と出会えれば、希望を持ち続けることができ、自然な親心とエネルギーをお子さんの発達、成長に注ぐことができます。


一年以上、探し続けて、やっと私とつながった方もいます。
しかし、別に私とつながらなくても良いのです。
治らないしかない世界と思っていところに、「治る」という言葉が存在することに気が付けば。
治る道があることを知れば、そのまま、突き進める親御さんもいますし、治るを軸に行動すれば、治す人、治った人と縁が結ばれていきます。
逆に言えば、治るという視点がなければ、治る人と縁が生まれません。


私が「治る」という言葉を使うのは、治る道があることに気が付いてほしいから。
別に、「治らない」と信じている人に、「治ります」と伝える目的も、考えを改めてもらう願いもありません。
繰り返しになりますが、治らないと信じている人の子が治らないのは当然ですし、お望み通りで良かったですね、と思います。


治りたい人、治したい人のために、「治る」という言葉を敢えて使っています。
でも、その必要も、あと5年もすれば、なくなると思います。
私が敢えて使わなくとも、全国に治った人が出てきて、どんどん社会の中で働き、活躍していくはずです。
また2000年代から、特別支援と名が変わってから、ブイブイ言わせていた専門家の先生方も、もうすでに時代のニーズと主張が合わなくなってきていますし、引退が近づいている年齢の方ばかりです。


これから生まれてくる子ども達とその親御さん達は、地域にいる治った人の姿を当たり前に目にするでしょう。
同時に、「治らない」と信じて歩まれてきた人の姿も目にするでしょう。
そうなれば、どの道を選ぶか明らかです。


「治る」なんて言葉を敢えて強調する必要がない時代が、一日でも早くやってくるよう私は治したい人の後押しを頑張る。
そして、子育て中の親御さんは、我が子を治し、社会の中で自分の資質を活かし、主体的な人生を歩めるよう育て、援助することが、それぞれの地域の後輩たちの希望の道をつくることになると考えています。
私は、治りたい人、治したい人とのみ共に歩いていきます。

2018年2月2日金曜日

「治ってほしい」と願わない親などいない

「発達障害は治りません!」
そう言う親御さんは、嘘をついていると思う。
そう言う親御さんは、他人に言っているようで、本当は自分自身に言っているのだと思う。


「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」
声を荒げながらも、心の奥底で「治ってほしい」と願っているはずだ。
だって、そうでしょ。
現代医学では「治せない」「治った子が一人もいない」
そのような病気、障害を持ったとしても、「もしかしたら、世界には治せる人がいるかもしれない」「今は無理でも、数年、数十年待てば、医学の力で治せるかもしれない」
そう思って、愛する我が子と懸命に生きようとしている家族はたくさんいる。


もし私の子に重い病気があり、私の心臓が必要だと言われたら、喜んで心臓をあげようと思う。
自分の命と引き換えに、息子の命が助かるのなら、息子の病気が治るのなら、我が身など惜しくはない。
それが自然な感情であり、親心。


施設で発達障害の子ども達と共に生活していたとき、自傷する子を見れば苦しくなった。
睡眠障害で一晩中寝られず、声を挙げていた子がいれば、「寝られなくて辛いよね」と一緒に朝を迎えた。
あのとき、私の中に治るという視点も、治すという方法もなかったけれど、こういった子ども達を見れば、いつか医療で治るようになってほしい、と思っていた。
今だって、他人様の子の発達援助に携わらせてもらっているが、いつも「治ってほしい」という想いでいる。
だから、「発達障害は治りません!」「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」と言っている親御さんは、嘘つきだと思う。
自分自身に嘘をついている。
本当は、誰よりも治ってほしいと願っているに違いない。


世の中には、症例がほとんどなく、不治の病と言われている難病の子ども達がいる。
大変な状況で生まれきて、「今日一日、一日が生きているだけで奇跡」という子もいる。
そういった子ども達、親御さん達が、希望を持って精一杯生きているというのに、何故、発達障害の子の親御さん達が諦めるのだろうか?どうして諦めることができるのだろうか?


発達障害は神経発達の障害だ。
彼らの身体の中には神経がないのだろうか?
神経がダメージを受けて、もう変化が起きないのだろうか?
いや、違う。
彼らの身体の中にも、発達する力を持った神経が全身にめぐらされている。
彼らの神経も、刺激を欲している。
治らないという人達だって、発達障害を持つ子ども達が成長する姿を目にしているし、成長すると思っているから教育、療育を受けさせているのではないか。


「神経が発達していかない」「神経が死滅していく」
そういう障害が、発達障害だとしたら、私も「治そう」などとは言わない。
でも、実際は私達と同じように変化する神経を持っている。
違いがあるとすれば、受精から誕生、現在までの成長過程の中に「発達の遅れやヌケがある」それだけである。


啓発活動の先頭に立ち、「理解をー」と叫んでいる親御さん達を見ると、悲しくなる。
本当は、社会が変わるなんて思ってもいないだろうに。
発達障害の人達が住みやすい世の中なんてこないことを知っているだろうに。
どんなに社会の、地域の理解がなかったとしても、我が子が発達、成長し、自立した生活が送られているのなら、それで良いはずだ。
社会が変わらなくても、我が子が治ればそれでいい、我が子が幸せならそれでいい。
そういうのが自然な親心。
啓発活動に傾倒していくのは、自分の純粋な親心を見ないようにするための己との戦いであり、治す方向へと向かえずに行き場を失ったエネルギーの消耗という苦肉の策である。


「発達障害は治りません!」
「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」
「治るとか言うのは、障害の理解がない!」
そう言って声を荒げるのは、「治る」という人、「治したい」と思う親御さんに対する否定ではなく、ちょっとでも気が緩めば溢れ出てきてしまう「治ってほしい」という純粋な感情を必死で否定しているのである。
叫ばないといけないくらい、叫ばないと保てないくらい、本当は治ってほしいと思っている。


私のところにくるメールの文面には、「治したい」「治ってほしい」そういった言葉が、想いが、親心が隠れることなく、堂々と溢れている。
実際のセッションを行えば、治すためのヒントを少しでも多く掴もうとする純粋な親御さんの目が、私を見ている。
「お金は関係ないから、治すためのアイディアを知りたい」と、離れた場所から私を呼んでくださる親御さん達もいる。


みんな親なら治したいと思う。
少しでも治っていくのなら、あらゆるものを投げうってでも掴もうとするのは自然な姿だと思う。
医師から、専門家から「治りません」と言われて、「はい、そうですか」とは普通ならない。
なるとしたら、その親御さん自体に主体性も、内部感覚も、乏しいのであって、まず親御さん自体が治らなければならないのだ。


自分に嘘をつくくらいだったら、「治りません!」と叫ばないとならないくらい辛いのなら、「私は、我が子に治ってほしいと思う!」と声を出せば良い。
他人がどうだとか、専門家がどうだとか、どうでもいい。
親として我が子にどうなってほしいのか、どうしたいのか。
大事なのは、ただそれだけ。
「発達障害は治らないから」と涙目になるくらいなら、そのエネルギーを我が子が少しでも治る方向へと使う。
その方が、我が子も、自分も、家族も、幸せになる。


自分自身に向けた嘘であっても、そばで聞いている人がいる。
それは、誰よりも幸せを願う我が子だ。
あなたは、我が子に向かって「治りません」という言葉を言うことができるのだろうか?

2018年2月1日木曜日

どうせ治らないのなら(ブログ700号目)

どうせ治らないんでしょ。
だったら、早期診断、早期療育なんてしなくていいんじゃない?
幼い子の手を引っ張って、長い時間、知らない大人たちのモルモットを見るような眼差しの中、過ごさせるのは、子にとっても、親にとっても、ただただ辛いだけ。
「ちょっと変わった子」「発達が遅い子」として、家族の自然な営みの中で、幼少期を送る方が幸せだと思うよ。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、支援者も、専門家もいらないんじゃないかな。
治せないけれども支援する。
治せないけれども専門家。
支援者は何を支援し、専門家は何を専門に研究しているのだろう。


支援者と介護者、ヘルパーの違いは?
発達障害の専門家と、発達障害マニア、オタクの違いは?
高齢者施設のスタッフたちは、お年寄りの話にきちんと耳を傾ける。
そして、お年寄りの意思を尊重する。
病気になれば、医師は治そうとする。
マニアだって、同じ愛好家仲間で盛り上がるだけ。
興味関心のない人に強要しない。
当事者と家族は、発達障害マニアではない。
だから、高齢者施設のスタッフの方たち、大部分のお医者さん達、「違いは?」といって同列で比べてしまってごめんなさい。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、本人がやりたいように、意思を尊重すればいいんじゃないかな?
というか、本人、家族の意思を否定し、それを超えた道を選ばせるのは、よっぽどのことがなければ、他人が行うこともできないし、その権利もない。
他人が代わりに判断し、選択するとしたら、その時点で、本人を、家族を、「意思決定ができない人」「自分よりも、誤った判断しかできない人」というように、下に見ているよね。
「一人ひとりを尊重し」てないし、「心から寄り添って」いない。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、エビデンスにこだわる必要はないし、認定資格だって必要はない。
治せないのに、どうして、そんなにも長期的に、多量の精神科薬が必要なのだろう?
どうせ治らないんだったら、精神科薬よりも、ミネラルをたくさん含んだ食物を口の中に入れる方が健康になれると思うよ。
エビデンスがあっても、なくても、結局は治らない。
エビデンスにこだわる人達というのは、「治らない」というエビデンスを一生懸命集めているのだろうか…。
どっかの誰かが作った認定資格を、お金を払えば取れる認定資格を、持っている人よりも、信頼できる人の方が何百倍も一緒にいて楽しい。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、療育も、投薬もやめて、今ある福祉サービスも全部なくして、そこに使っていた人とお金をすべて当事者の人達の生活のために使えばいい。
診断を受けたあとは、一生涯介助を受け、余暇活動を楽しんだり、健康的な生活を送ればいい。
刺激の少ないコロニーみたいなところで、みんな仲良く共同生活を送ればいい。
それか、一日一万円で、旅館暮らしもできる。


でも、嫌でしょ、そんな生活、そんな人生。
子ども達も、家族たちも、社会も、望んではいない。
だから、治そうよ。
「治らない」じゃなくて、治すために頑張ろうよ。
感覚過敏は仕方がないではなくて、その辛さ、どうにかならないか、少しでも治らないかと思いを巡らせ、行動に起こそうよ。
「行動障害にできることは限られている」といっちゃあ、おしめ~よ。
行動障害は、本人も、周りも、悲惨。
だからこそ、俺が治す、私が治す、でしょ。
今、治せなくても、きっと治してみせるという気概は持てるはず。
「そうならないために、事前の対応が重要でーす」
それができてたら、苦労はないし、そもそも、そんなこと言うヤツはいらない。


「治る」「治す」を否定し、バカにする人達。
だったら、まず自分の仕事を否定することから始めましょう。
そして、その言動は、自然に湧き上がる「治りたい」という当事者の人達の気持ち、「治ってほしい」と思う親心を否定していることに気がつくべき。


「治りたい」と思うから、人生前向きに、主体的に生きていける。
「治したい」と思うから、支援者が存在する。
「治る」は、生きる力。
その力を、あなたに否定する権利が、奪う権利があるのだろうか?