2018年4月20日金曜日

成仏系支援者

懐かしい歌声が聞こえてくるなと思ったら、息子が熱心に『ゲゲゲの鬼太郎』を観ていました。
近頃、夕方に再放送がやっていて、毎日、そして時々怖がりながら観ています。
私が子ども時代に観ていた話の再放送なので懐かしくもあり、そういえば、同じように妖怪や幽霊はいるのかな?死んだら魂が抜けていくのかな?なんて真剣に考えていたような気がします。


その当時から、もう30年くらい経ちましたが、未だに妖怪や幽霊は見たことがありません。
でも、この仕事をするようになってから、成仏できずに彷徨っている幽霊みたいな人達に出会うことがありました。
成仏系支援者の存在ですね。


成仏系支援者というのは、一見すると熱心な人であり、正義感の強いような人物です。
自分の主義主張をしっかり持っていて、その実現のために世の中に訴えかけます。
行動力もあって、いわゆる“良いこと”を言うので、好印象を持たれ、一定の支持者が周りにはいます。
しかし、その周りにいる人達の入れ変わりは激しい。
その理由は「信じるものは救われる」だから。


成仏系支援者は、悲しい人、辛い人、過去に傷を負った人が好物です。
現在進行形で生きづらい人に対して、「私は、あなたの気持ちがわかります」「私は、あなたを全面的に受け入れます」と、手を差し伸べてきます。
当然、今、辛い人は、その差し伸べられた手を温かく感じ、つないでいきます。
それが周囲にいる人達の中心になります。


このように書くと、良い支援者じゃないか、優しい支援者じゃないか、と感じられると思います。
でも、その裏の顔が出る瞬間があるのです。
それは周りにいる人の辛さが和らぎ、弱々しい存在でなくなると、急に冷たくなることです。
また、その支援者の主張と違う意見を述べると、あれだけ優しく、すべて受け入れるような雰囲気が出ていたのに、頑なに同意しなくなるのです。
成仏系支援者は、雨が降ろうが、やりが降ろうが、決して自分の主義主張を変えることはありません。


ここに成仏系支援者と、私が思う素顔があります。
成仏系支援者は、自分の過去に、自分自身の内側に、行き場のなくなった想いを持っています。
分かりやすく言えば、コンプレックスであったり、過去の自分への後悔や惨めさ、特に子ども時代に負った心の傷があります。
そういった行き場のない想いをはらすために、支援者をやり、主義主張を行っている。
落語家の立川談志さんが「落語は人間の業の肯定」と言っていましたが、それに近い印象です。
「支援は自分の業の肯定である」といった感じで、自分の過去の行い、過去の後悔や惨めさ、傷を肯定するために支援をやっているように見えます。


ですから、自分と同じような弱々しさ、生きづらさを持っている人を見ると、手を差し伸べたくなる反面、自らの足でより良い未来へ進んでいく人には興味がない、または拒否感すらある。
結局、そういった支援者の根本には、自分自身への支援がありますので、生きづらい人を見ては、「そうだ、私の過去は間違っていなかった」と肯定感を感じる。
その一方で、過去と決別し、未来に向かって歩んでいく人からは、未だに決別できずに、成仏できない思いを持っている自分が否定されているように感じてしまう。
なので、周囲にいる人達は、現在進行形で生きづらい人か、過去と決別できずにいる人ばかりですし、当の支援者本人も、強い主張の反面、弱々しさ、生きづらさを漂わせています。


優しい言葉をかけてくれるし、受け入れてくれる広さを感じるのに、他人の意見、特に自分の主義主張に触れそうな意見に関しては、頑として受け入れない固さを感じる。
それは主義主張を固めることで、なんとか心のバランスを保っているからです。
もし揺らいでしまったら、決別できない想いが出てきてしまい自分自身が辛くなってしまうのです。


自分自身で決別できない、処理できない想いを持っていると、周囲や状況、環境を変えることで正当化しようとします。
それに、自分の想いを周囲にいる人達の代弁という形で解き放つこともあります。
たとえば、自分が子ども時代、学校や教師に対するネガティブな感情、出来事があり、大人になった今もそれを引きずって生きている。
そうすると、生きづらい子ども達に対して「原因は学校だ」とやり、学校が悪いところだから、今、あなたは苦しんでいるんだ、と主張する。
でも、これは、今の子ども達を守りたい、救いたいからの言動ではなくて、昔の自分に対して、「子ども時代、僕は苦しんだけれども、それは学校が悪いからだよ」と伝えているだけ。
ある意味、自己治療であり、それによって成仏させようとしているんですね。


自分が子ども時代、親から愛情を感じられなかった、また恨むようなこともあった。
でも、その親に直接想いを伝えることができなかったから、今の子どもを代わりに使って、原因のすべてを「親が悪い」にしちゃう人もいる。
反対に、自分自身が惨めだったと思いたくないから、認めたくないからこそ、親は愛情がなかったわけではない→愛情を持っていたけれども、できなかっただけ→それは社会が母親に冷たかったから、制度を整えていない国が悪いから、と主張する人もいる。


つまり、本来支援者というのは、目の前の子どもや親御さんの課題を解決し、より良い未来に歩んでいけるように後押しするのが仕事です。
ですから、どんな手段や選択、道を通ったとしても、より良くなれば、それが支援者にとっても喜びになるはずです。
でも、やっていることといったら、受容と主張のみ。
受容するのは、その人に重なって見える過去の自分に対する肯定であり、受け入れです。
主張するのは、未だに決別できない想いを、今、苦しんでいる人の口を使って解き放っているのであり、環境を変えたり、主張に同意してもらったりすることで、自分自身の過去は間違えではなかった、辛い思いをしたのは自分のせいじゃなかった、と納得しようとしているのです。


受容も、主張も、本来、当事者の方達、家族の方達が行うものだと思います。
それを率先して支援者の立場の人間がやっているのが、そもそも違和感を感じます。
支援者だったら、具体的なアドバイス、後押しをするのが仕事。
よっぽど精神的に参っていなければ、第三者の知らないおじさんやおばさんに受け入れてもらっても嬉しくはないはずです。
主張だって、どなたかの依頼があって主張しているのか。
治す支援者が、「治らないなんて間違っている」「治っていくのが自然です」とやるのなら分かりますが、何も直接的なプラスになる支援ができていないのに、主張するだけというのもおかしなことだと思います。
ですから、こういった支援者たちを見ると、当事者の方達のためではなく、自分のために支援者でいるのだと感じます。


みなさんの周りにもこういった支援者はいないでしょうか。
生きづらい人が好き、過去に傷を負っている人が好き。
具体的な支援ではなく、受容と主張だけ。
自分の主義主張に触れようとすると、激しく抵抗する。
そして何よりも、支援者の明るさ、やさしさ、行動力に無理が見え、時折、悲しさ、生きづらさを漂わせいる。


そういった支援者というのは、成仏系支援者かもしれません。
成仏系支援者は、自分の中にある成仏できない想いと過去を持っていて、それを肯定するために支援者でいる。
だからこそ、治せないし、そもそも他人を治すことを目的としていない。
「良いこと言っているし、優しいんだけれども、それだけ」という支援者の裏の顔は、他人の不幸、生きづらさを自分の主義主張のために使っている人かもしれません。
こういった支援者は、妖怪や幽霊よりも怖い存在に思えますね。

2 件のコメント:

  1. 見ていて不覚にも笑ってしまいました、以前相談させていただいた件の職員がまさにそういう類いの人だったなぁと思いだしてしまって・・・。
    でもそれと同時に、こうやって笑えるくらい時、私の中でこの職員が浄化されていったことにも気づきました。

    確かにいつも一定数の支持者がいるけど入れ替わりが激しく、離れていくものは掌返しで、これでもかってくらい心をえぐる言葉で責める人でした。
    あの頃は、許せない・辛い・悲しいと憤りましたが離れたことで子供も親も心が解放されている事実(私だけでなく、多くの親御さんも言っていました)がある。

    優しく諭し(自己流の療育説法?)その信者には笑顔だったけど、目の奥は笑っていない人だったなーと思えば、早く気づけ離れることが出来たことは今思えばラッキーだったのでしょうね。

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    1. ねこさんへ

      過去を笑えるくらいにまでなることが、その過去との決別であり、未来へ歩みだした証だといえますね。

      「支援者」「専門家」なんて言われると、おおっと思うことがあるかもしれませんが、そういった人だって街を歩けば、フツーのおじさんであり、おばさん。
      世の中から見れば、ただの人であり、同じ時代をたまたま生きているだけの他人です。
      ですから、たまたま一時期縁があっただけで、嫌だったら離れればよいだけの話ですね。

      こうして、すでに離れて、笑えるくらい過去の人になったのですから、あとは思い出すことのないくらい、また見聞きしたとしてもスルーできるくらいになるのが、大事だと思います。
      子どもさんが発達のヌケが埋まり、より良く成長していくのに、過去の支援者はどうでも良いことです。
      未来の選択に、過去の支援者の顔を思いだす必要はありませんね。

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