2018年4月26日木曜日

「診断できる医師がいない」という訴え

特別支援が始まった当初は、「診断できる医師がいない」とよく言われていたものです。
でも、あれから10年程が経ち、そういった声はあまり聞かれなくなったように感じます。
診断できる医師が増えたという理由からかはわかりませんが、診断を受けた人はたくさん増えました。
現在は昔のサザエさんの歌のように、「あなたもASD、私もASD。こだわるものまでおんなじね」みたいな感じがします。


ASDをはじめ、発達障害の診断を受ける人達が増えました。
当時の人たちから言えば、望んでいた状況に近づいたといえます。
でも、診断を受けた人が診断を受けることによって、自立できるようになった、自分の人生の選択肢が増えた、というような状況になったかといえば、そうとは言えない実態があるように思えます。
特に、以前はそれこそ診断できる医師がいなかったために、診断を受けることの少なかった高機能の人達は、診断を受けることで得られたラクと、その反面で失った選択肢、自立があるように見えます。


では、何故、診断を受けられる人が増えたのに、自立していく人が増えていかないのか。
それは「診断=サービスを受ける手形」になっているという実態があるからだと思います。


そもそも診断とは、自分自身をより良く理解し、成長や自立、選択肢や可能性を増やしていくことが一番の目的であるといえます。
特別支援が始まった当初に診断できる医師を求めていた人達だって、「はい、あなたは自閉症ですね」「あなたはADHDですね」という診断名のみが欲しかったのではなく、どういう特性があるのか、そしてそういった特性に対してどのような対処、方法、支援を行っていけば良いのか、まで診てくれる医師が増えて欲しいと言っていたはずです。
しかし、現状はそこまで診てくれる医師が少なく、診断書を書いて終わり、という話をよく見聞きします。


全国からくる相談メールには、面白いくらい同じことが書いてありまして、診断してくれた医師に行動の原因や特性の背景、どうやって育てていけば良いかを尋ねても返ってくるのは「自閉症だから」と「支援サービスを受けて」の二つ。
確かに、感覚過敏も、こだわりも、問題行動も、大雑把に言えば、その根のどこかに「自閉症だから」というのがあるのでしょうが、それで事足りるなら、ぶっちゃけ医師以外でも言えます。
ある有名支援者が「日本で診断の権限を医師会が手放さないのは、それが利権になっているからだ」と、憤慨しながら言っていましたが、そう言われても仕方がない現状もあるのだと感じます。


ですから、診断の実態が「サービス利用の手形」みたいになっているため、学校や民間の支援者がこぞってアセスメントを行っているのです。
また、そこで新たな利権みたいになっていて、ライセンスが必要なアセスメントだったり、いろんなアセスメントシートから付け足しして独自のアセスメントを作ったりして、何万も、何十万も徴収する。
これってすべて利用者負担になりますし、子どもさんだったら診断を受ける負担、アセスメントを受ける負担が大きいといえます。
で、すべて終わって着いた先が、「一生涯の支援」だったら、なんだそれってなりませんかね。


この頃は、何かあるとすぐに「診断受けたら」「薬飲んだら」と言われるそうです。
実際に関わっている子どもさんも、相談を受けた親御さんのお子さんも、普通級にいるのですが、学校の先生からそう言われたそうです。
そして、親御さんが同意しないと、「前の学校で担任してた子はすぐに受診した」「あそこの病院に行くと、すぐに診断が受けれる」なんて言う。
このように、身内以外の人間が言うのも、また軽々しく言うのも、診断という現状があらぬ方向へ歩を進めていることを教えてくれていると思うのです。


支援者の中にも、「この子には支援が必要。だから、診断を受けた方が良い」なんて言う人もいます。
また、「合理的配慮が求められるから」「金銭的にも支援が受けれるから」「働けなくても、福祉がみてくれるから」なんて言う人もいます。
確かに、診断があることで様々なサービス、支えを得ることができます。
でも、こういったサービスは、本人をラクさせようというのが目的ではなく、本人の可能性をより広げるものであり、また福祉は個人ではどうしようもない状況になったときの支えがその役割です。
なので、サービスを利用するが先にある診断も、支援したい他人が発端である診断も、違うと私は考えています。
というか、民間で支援している私から言えば、診断あるなしは関係なく、治せるなら治せ、ですね。


綺麗事と言われるかもしれませんが、診断も、本人がより良い成長と人生を送るための手段、選択肢の一つだと考えています。
よく医師も、支援者も、「診断はゴールではなく、スタートです」と言いますが、スタートしたあとの道が決まっている、というのはおかしいと思います。
診断というスタートを切ったら、線路が敷かれていて、その線路を進んでいく。
進んでいった先はギョーカイに続き、ゴールが一生涯の支援…。
障害名をオープンにしている人の多くが福祉的就労で、一般就労している人の多くがクローズで就職した人というのは、診断を受けることで得られたものと失ったものを考える事象だといえます。


10年前よりも、診断できる医師は増えたし、診断を受けた人も増えた。
でも、その人の可能性、選択肢を最大限増やすことにつながっているかと言ったら、そうとは言えない現実もあります。
診断を受けることで幸せになれなかったとしたら、それはまだ支援や制度、社会の理解が足りないからなのでしょうか。
私個人としては、診断受けて、アセスメントも受けて、支援サービスを受けて、結局、治らない、一生涯の支援、というのは、本人の幸せとは違う方向へ進んでおり、間違った流れだと考えています。


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