2018年5月25日金曜日

その答えは、特別支援の中にあるのか?

始めた当初は、本人や親御さんの相談のみを想定していたのですが、現役の教員や支援者、相談機関の人達からもメールが届きます。
中には、実際にお会いしてレクチャーしてほしい、といったお話もあります。


支援者側の人達との交流が増えていきますと、私が若いときの悩みと重なることがあります。
自分の支援がしっくりしていない感じがする。
自分がしている支援は、本当に本人たちのためになってるのだろうかという迷いがある。
その答えを必死に探そうとするが、今いる職場にも、特別支援の世界にも見当たらない。
昨日のブログで、『迷子になっている特別支援』と表現しましたが、その中にいる想いのある支援者たちも迷子になっているような気がします。
私も20代の頃は、迷っている自分を打ち消すかのごとく、あらゆる療育方法や研究、新しい知識を得ようと、いろんな人や場所を訪ねていました。


私もたくさん悩み、迷ったからこそ、言えることがあります。
それは特別支援の中に答えはないこと。
こんな言葉を伝えると、みなさんは驚かれます。


多くの人達は、自分がより良い支援ができない理由を「勉強不足」「専門性の未熟さ」と捉えます。
確かに、この仕事は生身の人間と真剣に向き合う仕事ですから、幅広い知識と深い技術が必要です。
でも、いくら特別支援の知識や技能を増やしていったとしても、その人の発達を後押しすることはできません。
何故なら、例えると、発達は木の幹であり、特別支援は枝葉だから。
枝葉だけを育てようとしても難しい。
枝葉に問題があるのなら、その幹から観ていき、治していかないと、より良い枝葉には育っていかないのです。


今の特別支援は、知識偏重型で、ある程度の知能を持った人にしか使えないものばかりです。
見方によっては、支援する側がかっこよく見える作りになっています。
つまり、特別支援をしたい人のための特別支援。
ちゃんと障害を持った人がいてくれて、それを特別支援する俺、みたいな。
これまた私がよく言う言葉ですが、「特別支援がしたい人は、治せない人」ということ。
障害を持った人前提でしか支援していない人が、障害以外にアプローチはできないのです。


発達障害とは、枝葉の違いを指していっている言葉だと思います。
花が咲かない枝があるのなら、それは幹から枝が伸びていく過程を観る必要がありますし、幹がしっかり育っているかを確認する必要があります。
そして枝葉の違いの根っこは、まさしく幹にあり、根にある場合が多い。
ですから、いくら枝葉をいじくりまわしても、その木の持つ花を咲かすことができないのです。


いつから特別支援は、見える部分、見せる部分ばかりに気を取られるようになったのでしょうか。
700万年のヒトの進化の歩みをみれば、たかだか数十年の特別支援、専門知識が根本から逆転させるような何かができるはずもありません。
特別支援があれば、専門性があれば、と求めますが、大前提であるヒトの発達を抜かしては何の効果もありません。
子ども達の発達を後押しし、治している人は、ヒトの発達を大切にしている人です。


自閉症の人達を別の惑星から来た人かのように表現される時期がありました(本人がわかりやすく伝えるための表現で使っている場合ではなく)。
でも、自閉症の人は異星人ではなく、同じヒト。
違いがあるとすれば、発達過程の中にヌケや遅れがあるということ。
どうも支援者の中には、ヒトではなく、障害者の支援がしたい人がいるように感じます。
「私、人好き合いが苦手で」なんて言っている人が、障害者支援を望んでやっていたりする。
この時点で向いてないし、自己治療のために弱者だと捉えている障害を持った人達を使っているのだから辞めた方がいい、と私は思います。


ヒトの発達という視点を抜かしては、支援することも、治すこともできません。
今の特別支援の中で、ヒトの発達を大事にしている方法、支援者はどれくらいいるのでしょうか。
私には、障害好きによる見せるための特別支援ショーに見えることも正直あるのです。
だからこそ、心ある支援者、先生たちには、人を育てるプロになってもらいたいと思うので、特別支援の中だけではない世界に目を向け、ヒトを核に学んでいってほしいと考えています。

2018年5月24日木曜日

♫迷子の迷子の特別支援

世の中に、『褒め方』を本気で勉強したい人はどれくらいいるのでしょうか。
心が動かされ、思わず出る言葉が本当の褒め言葉でしょ。
「今日は褒めてやろう、へっへっ」と思って意図的に褒めるのは調教と一緒。
曲芸したイルカに餌をあげるのと同じように、褒め言葉というものを与えているだけ。


時々、本屋で「子どもの褒め方」「部下の褒め方」なんてタイトルを目にすることがありますが、あれを買う人がいるのかなって思いますね。
自分の親の本棚にそんな本があったら、ぐれますね、私なら。
まあ、買う人がいても、問題の根っこは違うはず。
子どもが勉強しないのは、うまく褒められないからではなく、部下が育たないのは上司の自分の褒め方が悪いからではなく、本人の問題。
その本人の問題だと認識がある人は、「褒め方」を切り口に改善を図ろうと考える人であり、本人の問題だと認識がない人は、ただ自分の思い通りにその人をコントロールしたいだけの人。
まあ、ほとんどの人は、褒め方の本を見ても、「そこじゃないよな」って手を伸ばさないと思いますね。


でも、不思議なことに、「褒め方」の前に、「自閉症児の」とか、「発達障害の人のための」とかいう文字が付くと、手に取る人が増えてくる。
書いてあることは、一般向けの「褒め方」の本と大きく変わらないのに。
違いがあるとすれば、「視覚的に伝えましょう」と「何を褒めたか分かるように具体的に伝えましょう」くらいなものです。


もうほとんど行くことはないのですが、書店の特別支援コーナーを見ると、特別支援が迷子になっているのがよくわかります。
それと商売臭が強くなったのも感じます。
ブームだからって、今のうちに儲けとこ、というのが見え見えです。
なんでも、タイトルに障害の文字をつけりゃいいのかって思わないですか、みなさま。


私も、マラソンが趣味だから「自閉症児のためのマラソン練習法」なんて本を書いたら売れますかね。
一般ランナーと同じような知識と情報にプラスして、「練習のスケジュールは視覚的に示してね。休憩も大事なスケジュールですよ」とか、「始まりとゴールは明確に伝えましょう」とかですかね。
あと喰いつきの良い「自己肯定感」なんて文字もいれて、「自分で振り返るために記録をつけましょう。それを見て達成感、自己肯定感が育ちます」と入れれば完璧です。
これだけだとページ数が稼げないので、後半部分にエクセルで作った記録を書きこめるワークシートを入れて、1,780円ってとこでしょうか。


心の澄んだ人は、または不安が強い人は、特別支援の出版物が増えること=理解が進んだ、方法論がたくさん出てきた、と映るでしょうが、私なんかは、みんなが微妙にタイトルだけいじくって似たような内容の本ばかりを作るから数だけ増える、と思ってしまいます。
THE特別支援の本がたくさん出るようになったけれども、自立し、治っていく人は比例して増えていないでしょ。
まあ、最初から治らない前提、一生涯の支援前提で書かれている本ばかりですから、いくら増えても、読んでも…。


「褒め方」もそうですが、他のSST(ソーシャルスキルトレーニング)に関する出版物でも、対象は「発達障害の人」になってはいますが、そのほとんどが知的障害のない人向けですよね。
ある有名な療育方法の総本家の人に尋ねたことがありますが、「私達のアイディアは、他の療育と互換性があり、良いものはどんどん取り入れていくが、知的障害のない人にしか使えないような方法とは組む気はない。私達はあくまでも、すべての自閉症の人達に有効なアイディアを目指していく」と言っていました。
つまり、特別支援の大前提は個別化であり、一人ひとりに合わせたアプローチなのに、マーケティングされちゃっている。


どんどん出版される本の多くは、文字が読めて、字が書けて、ある程度の学力と知識を持ち併せているのが前提になっていて、それ以外の人が対象から外れている。
まあ、出版する側は、発達障害の人全員に使ってもらいたいと思っているかもしれませんが、実際、この内容を理解するには難しい人ばかり、というのが多い。
中には、定型発達の子でも難しいんじゃないかな、これって実際の場面で使える知識かな、というものも少なくありません。


特別支援の大前提が個別化ですし、発達障害は神経発達の障害であり、知的障害のある人のことのみを指すのではありません。
それなのに、できる人が限られた内容で、神経発達を促すような話のものはほとんどないのです。
知的障害のない人のための本なら、特別支援コーナー以外で探した方が専門的な情報、知識が得られると思いますね。
特別支援の人が書いたSSTの本よりも、現在、社会で成功している人が書いた本の方がよっぽど社会性の富んでいると思うのは私だけ!?


どんどん発達し、成長するアイディアの詰まった本なら、その本や出版社さんの本だけ買えば良いと思います。
手を替え品を替え、タイトルをいじくって似た本ばかりが出版されるのは、特別支援が進む道を見失っている証拠です。
これぞという道がわからなくなっているから、発達にアプローチしない知識偏重のものばかりになっている。
知識偏重になるのは、それを手に取る親御さんや支援者たちを意識した作りになっているから。
本気で、本人のためを思った本だったら、本人たちが分かりやすい、またやりやすい、そして一番大事な個別化、自分たちでカスタマイズしやすい内容になっているはずです。


一冊本を買ってきて、それを読んだからって身につくわけではありませんね。
実践することが大事ですし、自分で試行錯誤しなければ、本当の力はつきません。
知識を知るのと、育てるのは違います。
「人前で上がらない方法」という本を読むだけで、人前でのしゃべりがうまくなるわけではありません。
それと同じこと。
特に、ヒトの発達は丁寧に、地道にやるしかないのですから、インスタントな方法などありません。
インスタントなタイトルのインスタントな本を買って安心してしまうのは、参考書を買ってきただけでなんかやった気になっている受験生に似ていますね。
手を動かし、自分の頭で考え、深めていかなければ、知識は知恵に変わっていかないのです。

2018年5月23日水曜日

アセスメントから生まれた言葉を方法論に転用して商売にする

前回のブログに対する反応を見ていますと、もしかしたら他のスキルに関しても、ご存じない方が多いのかな、と思いました。
ソーシャルスキル同様に、コミュニケーションスキルですとか、余暇スキル、職業スキルなんていう言葉があって、それに対するアプローチみたいなのもあるような感じがしますが、そんな特定のスキルだけをピンポイントに当てて伸ばすような方法ってないですよ。


ヒトの発達は特定の部分だけが伸びたりするのではなく、全体的な発達の中で、つまり、様々な発達が繋がり合って伸びるものです。
時期によっては、特定の領域がググッと伸びるということもあるでしょうが、その背景には土台となる発達過程があるものです。
受精から胎児期、出生後のヒトの発達の姿を見れば明らかなように、細胞が組織化され身体ができ、内臓や感覚器が育ち、動きの発達に繋がっていく。
そして運動を通して、神経がより良く育っていき、言語や知能を発達させていく。
こういった複雑で、繋がり合う発達というものを、どうして「〇〇スキル」といって取りだすことができるのでしょうか。
本当に、特定の能力、スキルを伸ばそうと思ったら、全体的な発達を促すしか方法はないのです。


じゃあ、コミュニケーションスキルだ、職業スキルだ、というのは、どこから発生したものなのか。
ここがポイントですね。
ナントカスキルというのは「アセスメント」を作ったために、生まれたものだといえるのです。


『社会性の障害』という言葉が診断基準から生まれたように、『〇〇スキル』はアセスメントから生まれました。
よくいろんなところで実施される診断とは違う評価です。
本人の能力を見て、課題を見つけるために、様々な検査が行われます。
「お子さんはコミュニケーションの面で苦手さが見られますね」というやつですね。


私個人的な考えとしては、アセスメントというものは、どこかの誰かが勝手に言葉をつけて、勝手に区分けしたものという捉えです。
人間の能力をいくつかの項目で表せるはずがありませんね。
何かの目安にはなるでしょうが、具体的なアプローチにはつながりません。
だって、発達は複雑で、繋がり合うものだから。
例えば、「言語理解が弱い」と出たとしても、じゃあ、言葉がけをたくさんすれば良いか、なんて単純な話にはなりません。


なぜ言葉の理解が弱いのかには、注意の向け方の課題があるかもしれないし、聴覚の発達に課題があるかもしれない、そもそも言葉を捉える認知の面で遅れがあるかもしれない。
そして、いくつも考えられる要因は連動し合っているし、そのすべての課題をクリアしていかないと、真の意味での成長とはいえないはずです。
で、すべての要因の根っこを辿っていくと、ヒトが辿ってきた進化と発達の過程へとつながっている。
だから、ヒトの発達、その人の発達を丁寧に辿り、育て治していくことが、土台から、全体的に発達を促していくことに繋がるのです。


まあ、アセスメントというのは、支援者にとっては何かやっている感がありますし、受け手の本人、親御さんにとっても何かやってもらっている感が得られるくらいなものです。
よくセンスの良い親御さんが、「検査してもらって、評価表ももらったけれども、それをどう活かすのか見えない」と言われます。
「あなたのお子さんは言語理解が弱い」から、じゃあ、どうするのって感じ。
時々、ご丁寧に「視覚的に伝えると理解しやすい」などと対処方法も一緒に書かれているいることがありますが、それって育てる方法ではないし、支援の仕方。
幼児期、学齢期の子ども達が主にアセスメントを受けるのですから、対処じゃなくて、育てる方法が知りたいよねって普通は思いますね。


〇〇スキルなんて勝手にくり抜いて、命名しているのは、支援者側の都合です。
本人や家族にとっては、自分の一面を知るきっかけにはなると思いますが、厳密なものでなければ、そこだけ取りだして育てられるものでもありません。
名前を付けた分だけ仕事は増えるし、名前を付けた分だけ飛びつく人もいる。
で、治らない。
何故なら、その人を部分的に切り取っても、全体的な視点がなければ、真の発達が見られないから。


もともとあるのは一人の人間であったはずなのに、それを勝手に能力というものさしで線を引く。
線を引けば、その人を知る上で見やすくなることもあるけれども、それだけでは具体的な発達援助にはつながらない。
で、線を引くだけならまだしも、その命名したスキルを「伸ばします」「アプローチする方法です」と商売にしちゃう人達が出てきてしまったのが、今の特別支援という商売なのだといえますね。
本屋をのぞけば、棚いっぱいに「〇〇スキル」「〇〇アプローチ」のオンパレード。
じゃあ、我が子を自立するように育てようと思ったら、その全部の本を買わなきゃいけないの、そのすべてのスキルを実践しなきゃいけないのって思いますね。


ヒトの発達を特別支援の商売のタネにしてはいけないと思います。
発達障害は、その自然なヒトの発達過程の中にヌケや課題があるということなのですから、特に言葉を獲得する以前の発達段階を育て直すアプローチ以外は、部分的な効果、場面限定の効果にしかならないですね。
アセスメントから生まれた言葉を方法論に転用して商売にする。
だから、そこから出てくるのは売る側が売りたい対処療法ばかりになってしまいますね。


対処療法も、仕事を増やすタネ。
おーい、やっているのは支援者の仕事を増やしてることばかりじゃないか。
支援者が支援を増やしていってどうする!?
支援者というのは、支援がいらなくても生きていけるようにするのが仕事。
よりシンプルに、より自分たちで、が目指すべき姿です。

2018年5月21日月曜日

「社会性の障害」のみを切りぬく不自然さ

「SST(ソーシャルスキルトレーニング)の指導をお願いできますか?」
「息子に対するSSTがうまくできなくて…。(私の)やり方が悪いからだと思うんです」
こんな依頼や相談を受けることがあります。
子どもが対人面で、また学校や地域などの集団の中でうまく振る舞えなかったり、トラブルが起きてしまったりすると、すぐに「社会性の障害」という文字が浮かび、その指導へと向かおうと気持ちが動く。
これは情報が増えた現在だからこその姿だと思います。


実際にお会いしたり、行っているSSTを拝見させていただいたりすると、SSTに問題は見当たらないことが多いです。
そこら辺の支援者よりも、丁寧に準備し、指導されているように感じます。
親御さん達がよく勉強され、我が子のためにと頑張る姿が見えると同時に、知識が増え過ぎて反対に見えなくなっているのだと思うのです。
ある程度やってみて効果がなければ、「我が子に合わなかったんだ」と別の道を探すのが自然だと私は思います。
でも、「自分のやり方がまずいんだ」と思ってしまうのは、「この方法を言われた通り、きちんとやれば効果がある」という情報が頭の中を占拠しているからなのでしょう。


私なんかは、いろんな宗派のあるSST、療育方法はただの道具だと思っていますし、どちらかというと、本人ではなく、支援者側が無理やり、人工的に区分けしたものだと考えています。
そもそも「社会性の障害」なんていうのは、診断するために作られた言葉であり、療育するために生まれた言葉ではありません。
だって、おかしいと思いませんか。
一人の人間の社会性の部分だけを切りぬいて療育しようなんていうのは。
どうやって、その子の社会性の部分、課題へと、ピンポイントでアプローチできるのでしょう。


社会性、対人面のスキルとは、知識なのでしょうか、情報なのでしょうか。
発達障害の人達は、その知識、情報が足りないから、適切に振る舞えないのでしょうか。
だとしたら、知的障害の有無で、社会性が身につくかどうかが決まってしまいます。
でも、現実には、知的障害があったとしても、人間関係を築き、適切な振る舞いができる人が大勢います。
反対に、大学まで出るような能力を持ちつつも、トラブルや人間関係を築き、維持することができない人もいます。
つまり、社会性とは、ソーシャルスキルとは、知識でもなければ、情報でもない。
巷に溢れる「上司に好かれる〇〇テクニック100」みたいなハウツー本に書かれているテクニックがあるのではなく、問われるのはその人、人間だと思います。


ヒトは、集団で生活するようになったあと、社会性の部分が進化、発達したのですから、社会性の土台はヒトの発達過程にあるといえます。
言葉も、文字も持たない遠いご先祖様たちが、社会性の部分を育んでいった。
きっと子ども達は、自然の中を駆け巡り、遊びを通して社会性を発達させてきたのでしょう。
お教室に通って、絵を見せられたり、「この場面ではどう振る舞ったらよいでしょうか」なんて模擬の劇をやったりはしていないはずです。
ちゃんと座ってお話を聞けたら、食べ物を与えてた、なんてこともなかったでしょう。


社会性も、その人の一部であり、発達過程の中で育んでいくもの、という視点で見ると、理解しやすくなります。
発達障害の人は、その発達過程にヌケや遅れがあるのですから、当然、社会性の部分にもヌケや遅れがあるのも不思議ではありません。
ですから、特に言葉を獲得する以前の発達段階のヌケや遅れを育てなおしていくと、自然と社会性の部分でも良い変化がみられてきます。


他人との距離感が分からないから、「両親は一番親しい人のグループ。親戚のオジサンは、二番目に親しい人のグループで、学校の親友は…」なんて、一個ずつ知識として教えるよりも、そもそも他人との距離感の前に、自分の身体の範囲が掴めているの?という部分に課題があったりすることもあります。
自分の範囲がしっかり捉えられるようになれば、他人との距離が掴めるようになり、その他人が別の存在であると理解できるからこそ、他人の存在、言動を尊重することへつながっていきます。


ちなみに、人間関係の距離を知識で教えようとするなんて不可能です。
両親だから、なんでも打ち明けられる人、一番親しい人とは限りません。
人間関係は流動的ですし、いくら親戚でもセクハラ親父は親しいグループには入りません。
つまり、社会性を知識で教えようとすれば、関わる人の数、出くわす場面の数だけ教える必要があります。
ですから一言で言えば、支援回数を効率よく、ほぼ永久に増やすためのアイディア。
そのために、勝手に「社会性」の部分を切り取って、SSTという新しい商売を生みだしただけです。


いくらSSTを極めようとしても、極められるものではありません。
部分的に、人によっては効果がある人もいますが、それで万事解決ということはないのです。
だから、繋ぎ止めておくために「ちゃんと形式の則れば」「資格を取れば」「講習を受ければ」としているだけ。
支援者と、親御さんの腕の差なんてないと思います。
よくあるSSTのマニュアル読んでも、曖昧なことしか書いてないでしょ。
あれは、どうにでも解釈できるようにしているのです。
そうすることで、効果が出ない場合の問題を、その方法、療法ではなく、支援者の腕の問題にすり替えているだけです。
ですから、冒頭の親御さん達のように、「自分のやり方が悪いからかも」と思ってしまう人が出てきてしまいます。


「あの先生が指導すると、あの教室の中では、きちんとできるのに…」というのは、親御さんのやり方だけの問題とは言えません。
もちろん、親御さんと本人との間にズレがあり、うまくいかないこともあります。
でも、別の見方をすれば、「あの先生との間だけしか成り立たないソーシャルスキル」「あの教室の中だけのルール」ともいえます。
私が実際にお会いする方達の多くは、SSTの問題でも、社会性の問題でもなく、発達の土台のヌケや遅れが対人面、集団の中でのズレを生じさせているのでした。
ですから、一見関係ないような部分を育てていくと、人間関係や振る舞い方が集団に馴染んでくるようになります。


最後に、20代の頃、受けたSSTの研修でのお話。
その療法の第一人者の有名支援者が受講生のSSTを評価する形式です。
で、どう見ても内容に大差がないし、実際に子どもさんに指導しているのではない模擬指導なのに、その講師の総評に大きな違いがありました。
片方は医師で、片方は学校の先生。
どっちがべた褒めされ、どっちがケチョンケチョンにされたかは、もうお分かりですね。
こういった立場の違いで評価を変えるのが社会性、ソーシャルスキルだと思っているからこそ、堂々とSSTサイコー、SSTで社会性の問題はすべて解決できると言えるのだと、そのとき、私は思ったのでした。

2018年5月10日木曜日

同世代の子と比べるのは、いけないこと!?

あれは何なんでしょうね。
「我が子に発達の遅れがあるかも」と思い、相談にきた親御さんに対して、支援者たちが言うセリフ。


「〇〇ちゃんは、のんびりやさんの性格かもしれませんね」「子どもの成長は一人ひとり違うから、焦らないでね」というどうにか個性の範疇にねじ込もうとする系の発言。
「愛情をたっぷり与えて育てていけば大丈夫」「まだ何かが言える段階じゃないから、様子を見ましょう」という良いこと言っていそうだけれども、結局、相談に来る前と何も変わってないよね、いや、むしろ来ただけ疲れるし、余計モヤモヤするよ系の発言。
「他人の子と比べるのはよくありませんよ」「その子の良い面を見ていきましょう」という親の直感全否定で、かつ考え方を変えましょうという精神修行かって系の発言。


私は、親御さんの直感ってとても鋭くて、そこら辺の支援者が太刀打ちできないくらい的を得ていると思っています。
確かに、支援者や専門家と比べて、知識やその状態を表す言葉は持ち合わせていないこともあるけれども、「うちの子、何か違う」「このままにしていたら、今後問題が大きくなる」というような直感というのは、親御さんの強みであり、活かすべき力だといえます。
それに真摯に耳を傾けなくて、何が“支援”者だと思います。


親御さんが、我が子に対する違和感を強めていくのは、同世代の子どもと比べたとき。
「あの子は、もうあんなことができるのに、うちの子はまだできない」
そういった積み重ねが、直感を確信に変えていきます。
そして確信から行動へと移っていく。
だから、他人の子と比べるのは悪いことではないと思います。


でも、なんだか特別支援の世界にはルールがあるのか、他人と比べることがタブーみたいになっています。
もちろん、その人間の価値などは比べられるものではないですし、比べるものでもありません。
比べるのは、同世代の子との発達です。
定型発達と比べると、どのくらい差があり、遅れているのかを観るのは、子どもの優劣を決めるわけでもなく、その子の発達を援助するには必要なことです。
ほとんどの親御さんは、我が子の優劣を見ているのではなく、他の子との発達の違いを見ています。
その理由は、子どもの課題にいち早く対処するためであり、子どもを守るため。


親御さんとお話をしていると、冒頭のような発言をされて、ネガティブな気持ちになった方が多いことがわかります。
発達の遅れを疑ったこと自体が、疑った自分自身が否定されたような気持ちになった。
発達の遅れがあるのも含めて我が子なのに、なんだか子ども自体が否定されたように感じた。
中には、こりゃあ、専門家は当てにならないと、自分で動かなきゃダメだと思った方もいました。


障害を受け入れられない、認めたくないという段階の親御さんに対しては、寄り添うことや心のケアも重要でしょう。
でも、親御さんによっては、「子どものために動きたい」とすでに向かっている方もいます。
そういった親御さんにとっては、支援者の優しい(?)言葉が却って傷つけることも、子育ての力を削ぐこともあります。
大事なことは、親御さんの直感を活かし、エネルギーを子どもさんの発達の後押しへと導くことだと思います。


枕詞のように「同級生と比べてはダメなんですけど…、うちの子は幼くて、〇〇ができなくて」と言われる親御さんがいます。
そういったとき、私は「比べることは悪いことではないですよ」と言っています。
だって、同世代の子達と比べるのが、発達の違いを知るきっかけですし、発達援助の始まりでもありますから。
それに親御さんがいの一番に訴える部分と言うのは、お子さんが感覚的に一番訴えてくる部分であり、いろんな課題につながっている大元の根っこという場合が多いですので。


「大人になると、そういった凸凹、違いは気にならなくなるから」という人もいますが、だからと言って、発達の遅れやヌケをそのままにしておいても良いということにはなりません。
第一、今、子どもの生活する場は、学校であり、同世代の子ども達との集団の中。
そういった中で経験し、刺激を受け、成長していくのですから、そして大人になっていくのですから、同世代の子の発達とズレている部分があれば、そこを補い、育てていくのは当然のことだと思います。
その方法を具体的に示せるのが専門性であり、支援者の役目。
ヘタな慰めならしない方がマシですし、そもそも親御さんに対して失礼なことだと思います。


心に寄り添い、慰めるのは、家族や大切な人達の間で行われるのが自然なことです。
お金を払って、税金を使って、形式的に慰めるのは不自然。
お金貰って仕事として支援している身なら、発達を促し、治す具体的な方法の一つや二つ、さっと出てこなければ、特にこれからの時代の支援者はダメだと思いますね。

2018年5月9日水曜日

特別支援から子育てを取り戻す悲しさ

他人様の子を預かって、子育てをしているのなら分かります。
でも、目の前にいるのは我が子。
それなのに、なにか他人様の子を育てているような余所余所しさや緊張した雰囲気が漂っている。
そんなご家族と関わらせてもらうことがあります。


これは子育てが、特別支援になった弊害だと思います。
特別支援は新しい言葉ですが、その概念は何も珍しくも、新しくもないものです。
特別支援は、端的に言えば、一人ひとりに合った教育なり、援助なり、環境づくりを行うということ。
このようなことは、ずっと昔から家庭の中で、学校や古くは寺子屋のようなところでも行われていました。
そして今も、障害のあるなしに関わらず、また子ども、大人に関わらず、家庭や職場、学校や習い事、部活動などで自然と行われているのです。
一人ひとりをよく観て、その人に合った方法で教えていく、伝えていくというのは、人を育てる基本中の基本だといえます。


私の仕事の始まりは、その家庭の中に流れている緊張感を弛め、子育てを特別支援から取り戻すことという場合もあります。
何故なら、親御さんの緊張感はお子さんに伝わりますし、そうなると、自然な交流が生まれなくなるからです。
お子さんの発達を促し、育てていくのは私ではなく、親御さんなのですから、そのご家庭に、親子間に自然な空気感が流れていることが重要です。
大人の側が何か特別なことをしようと身構えると、子どもは瞬時に察し、受け入れるために構え始めてしまいます。


すべての動物がそうであるように、また我々の進化の過程を振り返るとわかるように、発達は自然の中で育まれ、自然な関係性、空気感の中で営まれてきました。
知識や技能の伝達は、文字や言葉など人工的なもので行われてきましたが、発達は自然の中で行われるものなのです。
私達は、発達に遅れやヌケのある子ども達に対し、特別な知識や支援を伝えたいのではありません。
彼らに必要なのは、その発達の遅れやヌケを育て、発達の遅れを取り戻すことであり、そのヌケを埋めることです。
ですから、人工的な支援ではなく、自然な環境、関係性、雰囲気が必要なのです。


家庭の中に自然な雰囲気が漂い始めますと、障害や症状の重い軽い、お子さんの年齢に関わらず、伸びやかに成長が始まります。
まるで、自然の中を駆け巡り、自由を手に入れた動物のようです。
そこに生命力と躍動感を感じます。
遅れやヌケを一気に取り戻そうとする子ども達もいます。


お子さんの姿から解放感を喜ぶ空気が見えますと、私の仕事は次の段階に進みます。
その子の内側から湧き出ている伸びようとする力が、何に対して、どこに向かおうとしているのかを親御さんに伝えます。
そして、私は陰になり、徐々に姿、存在感を消していく。
親子の間に自然な空気が流れ、満ち溢れてきたら、私の役割はおしまいです。
特別支援が子育てに戻ったとき、発達の遅れやヌケは障害ではなくなっていく。


一緒に子育てのひと時を関わらせてもらった親御さんが、最初の険しかった表情が和らぎ、力の入っていた身体が弛み、そして「子どもと関わるのが楽しい」「成長する姿を見るのが喜び」と言われることがあります。
私はその姿と出会うたびに喜びを感じます。
でも、それと同時に悲しみも、怒りも感じるのです。
なぜ、最初に出会った専門家たちは、この親子から子育てを取り上げたのだろうか、と。


彼らがちゃんと言ってあげれば良かったのです。
これから行っていくことは、特別なことではなく、子育てである、と。
子どもを育てるとは、一人ひとりをよく見ること。
そして遅れているところ、気になるところがあれば、それをゆっくり丁寧に育てていけば良い。


子育てを特別支援にし、特別支援で生きるすべを教えようとする。
使えるサービスや診断基準に、特性よりも、どうやって発達を促していけばよいか、具体的な方法の方が重要なはずです。
「子育てが楽しい」と言う親御さんを見て、親御さんは特別支援がしたかったわけでも、支援者になりたかったわけでもないと感じます。
ただ普通に子育てがしたかっただけ。
育てにくいところ、発達の気になるところがあれば、そこを後押しするアイディアがほしいだけ。


専門家にとって、その子は障害児の一人であり、その親は障害児の親の一人。
でも、その親子からすれば、この世に唯一の人。
「一人ひとりをよく見る」と言いながら、障害児の一人としてしか見ていないのは誰なのか。
親も、子も、生まれたときはお互いを自然に見つめ合っている。

2018年5月8日火曜日

親御さんの勘違い

失敗するのが怖いからなのか、支援は完璧にやらないと問題が起きてしまうと考えているからなのか、親御さんの中には、我が子にピタッと合った支援を考え、完璧に準備し、思い描いた結果を出す、みたいに思っている人が少なくないように感じます。
機械を相手にしているのではないのですから、完璧なプログラミングをして、適切な結果を出すみたいに考える必要はありませんし、できるはずもありません。


子どもは生きていますし、自分の意思もあります。
常に動き、変化する存在ですから、いくら完璧な支援をしようとしてもズレは生じますし、思い描いた結果など出るはずもありません。
ただ私たちにできることは、彼らの発達、成長の後押しをし、より良い方向へ導くお手伝いをすることなのです。


そもそもそこら辺にいる支援者だって、完璧な支援をしているわけでも、できるわけでもありません。
一回で、ピッタリ合った支援をしているのではなく、何度も軌道修正しているのです。
ですから、親御さんは良いと感じたこと、我が子に必要だと思うことをどんどんやれば良いのだと思います。
ある程度やってみて、子どもが伸びたなと思えば続けたり、バリエーションを持たせたりすれば良い。
効果がないな、悪い方に向かっているなと思えば、止めれば良い。


極端なことを言えば、親御さんが良いと思ったことを全部やったら良いのです。
その中で、一つでも、二つでも、本人のためになったらそれで万々歳の気持ちで良いと思います。
何も百発百中みたいな支援をする必要はありません。
だって、それが普通の子育てだから。
みんな、完璧な結果を求めて習い事を決めているわけではないし、日々の声かけ、接し方を決めているわけでもないはずです。
結構、直感や何となくで物事を決めたり、その場の感情で物事を言っていたりする。
なぜ、発達障害を持った子の子育てだと完璧さを目指すのか。
なぜ、普通の子育てではなく、療育や支援を目指すのか。
実際に接していると、そんな疑問が浮かんでくる親御さんがいます。


きっと支援者の言葉に、頭でっかちになっているのだと思います。
彼らは「自閉症の子に失敗経験をさせてはならない」「その子に合った支援ができれば、問題行動は起きない」など、テキトーな理想論を語っていますが、それは自分たちの推し進める支援に振り向かせるための営業トークです。
親御さんにプレッシャーを掛けて、自分たちに依存させようとしているか、そもそも効果のない支援を押し売りしているのを隠すために大きなことを言っているかです。


よく考えてください。
失敗しない動物はいませんし、失敗から学ぶから成長するのです。
失敗する経験がなければ、そもそも自分が正しい行動をしているのか、何のために行動しているのかがわかりません。
ただただ誰かに言われた通りに動いているだけになります。
まあ、そういった人を作りたいのがギョーカイ系支援者の目指すところなので、そういってるのかもしれませんが。


でも、私達が育てたい未来の大人たちは、自分の頭で考え、行動できる人。
そのために失敗から学び、起き上がれる人を育てるのであって、「ASDの子は失敗すると、その活動自体をしようとしなくなるから、失敗させないようにする」などは違うと思います。
失敗すると、その活動を拒否するようになるのであったら、必要なのは失敗する機会を避けていくことではなく、失敗と向き合えない脳と身体をラクにすること、そして発達させ、育てていくことではないでしょうか。


失敗なんて生きていれば、その辺にゴロゴロ転がっているようなものです。
そういった怖がる必要のないものを、あたかも大ごとかのようにするのは支援者側の戦略であり、そうかなと感じるのは親御さんの勘違いです。
どうも支援者から「完璧な支援」というプレッシャーを受け続け、それに捉われて、子育て自体を苦しいものに感じている親御さんが多いような気がします。


「なんで、すぐに分かるんですか?」などと訊かれることがありますが、それは私が今までにたくさん失敗したからであり、一般的な親御さんよりも浅いけれども、広くいろんな方達と接してきたからです。
それに、直接お金をいただいて援助をしているのですから、下手くそで回数を稼いだりしてしまえば、詐欺になってしまいます。
ですから、理想は利用回数一回で終わる仕事であり、そのために精進し、ピンポイントな援助ができることを目指しているのです。


商売として支援者になろうと思っていないのでしたら、ここまで目指す必要はありません。
それよりも、完璧な支援というプレッシャーに押しつぶされ、我が子と関わることが辛くなり、何も行動に起こせなくなる方がよくありません。
特別な支援などというものが存在しているのではなく、そこにあるのは親子の自然な営み。
そんな風に思えるご家族が増えていくことを願っています。
何故なら、それが一番伸びやかに発達し、成長していく形だからです。

2018年5月7日月曜日

支援者の勘違い

この仕事を始めて6年目に入りましたが、「最初の支援者があなたです」というような方は一人か、二人ぐらいなもので、あとの方達は、みなさん、誰かしらの支援や助言を受けてきています。
まあ、それは当然と言ったら当然であって、公的な機関でうまくいっていれば、わざわざ私のところまでやってくる必要がないのですから。


過去に受けてきた支援や、各地の支援機関の現状、学校の先生の様子等をお聞きすると、10年前、20年前とは異なり、言うことが専門家らしくなったと感じます。
特別支援以前の支援者たちは、ただその人の人生哲学によって日々接しているという雰囲気がありました。
そのときから比べれば、どの支援者も勉強されており、多くの知識を持っていることが伝わってきます。


では、たくさん勉強し、知識を持った支援者が増えたのに比例して、本人たちの成長や可能性が増えたかというと、そうとは言えないと思います。
むしろ、特別支援以前の支援者の方が、人を育てるのはうまかった、と感じることさえあります。
とにかく、増えた知識が活かされていないと思うのです。


いろんな支援者、支援機関のお話を聞くと、どうも支援者の多くは勘違いしているのではないかと思います。
本人や親御さんよりも、知識を多く持っているのが支援者であり、専門家だという勘違い。
支援者が特別な知識や技能を与えることが支援だという勘違い。
いつから支援者は学者になり、仕事が講釈になったのでしょうか。


その支援や療法がその子に合う合わないは別にして、そんな伝え方ではうまくいかないと思うことばかりです。
支援者が持っている知識を右から左に渡すような伝え方では、いつまで経っても、その子に合った支援はできません。
知識の受け渡しは、その瞬間瞬間の支援にしかなりませんし、第一、本人や親御さんが個別化し、アレンジできる生きた力がつきません。
また、本人や親御さんに代わって支援を組み立て、実行していくのでは、考え工夫する力がつかないばかりか、本人たちの試行錯誤する機会すら奪ってしまいます。


どうして支援者は、本人や親御さんが自立できるように育てないのだろうか、と私は思うのです。
自分は、その子のどこを観て、何を感じ、どう援助していくのか、そこを教えずして、自立も、より良い成長もないと思います。
ですから、私は自分の見る世界を本人や親御さんに伝えます。
知識や療育の形式など、いくら持っていたとしても幸せにはつながりません。
必要なのは自分自身で支援できる力であり、それこそがその時々で合った支援と自立した人生につながるのです。


いつまで経っても、自立できない人ばかりなのは、支援者の勘違いだといえます。
支援者とは知識をたくさん持った人のことを言うのではなく、支援すること自体が役割でもありません。
自立を支援するのが役割です。
そのために、本人も、親御さんも育つ後押しをする。


自分が得た知識や経験を血肉にするのは、敢えて言う必要もないくらい職業人としては当たり前のこと。
そうやって見えるようになった世界を、より分かりやすく本人や親御さんに伝え、自分たちの力で支援できるようになって、初めて仕事をしたということになると私は考えています。
「ああ、息子のこんなところを観ているんですね」
「この行動の意味は、そんな風に捉えることもできるんですね」
そのような視点の共有によって、本人だけではなく、親御さん自身も成長していくのだと思います。


私は、特別支援という言葉が、勘違いを誘発したのだと思っています。
本人と親御さんにとって、発達障害の歴史、グレーゾーンや診断基準の話、なんとか療法の正しい手順などは、どーでも良いことなのです。
自分の、我が子の人生を豊かにし、可能性を広げるには、自分自身で支援を考え、成長し、治していけるように育つことが必要です。


ある意味、そのときの支援方法を伝えるのはラクなことです。
人を育てるのには時間と労力がかかります。
でも、その手間をお金を貰って仕事をしている人間が惜しんではなりません。
今はその手間をラクしようとするコンビニ支援が溢れているように感じます。
発達を援助する、自立を援助する、それこそが本人たちが求めていることだと思いますし、自分の役割だと考え、私は仕事をしています。

2018年5月6日日曜日

支援者の中に答えはない

誰しも、「自分の育て方が良かったのだろうか」と立ち止まり、悩むことがあります。
そんなとき、自分のもがき苦しむ姿を感じ、「ああ、自分は親なんだ」と認識するのだといえます。
子のために、もがくから人は親になり、他人の子のために、もがくから先生は教師になる。
ただ食事の用意をし、寝る場所を確保するのみでは、共に生活する者。
ただ知識の伝達をするのみでは、先に生きる者。
他人のために、もがき苦しむくらい悩むからこそ、親は親になり、教師は教師になる。
だから、もがき苦しむ姿を見て、他人が余計な手を出してはならないのです。


こういった仕事をしていますと、「こんな風にやってみたんですけど、合ってますか?」と尋ねられることがあります。
「子育てに正解、不正解がある」
「その正解、不正解を他人が持っている」
「支援者、専門家は、親の自分が知らない答えを知っている」
そんな風に思う時点で、いろんなことを想像してしまいます。


支援者の中には、親御さんに子育てではなく、支援を求める人がいます。
「こういった支援が必要です」
「この方法を使って教えれば、理解できます」
その言葉を信じ、一生懸命支援者の示す支援を行う親御さん達。
でも、支援は発達の根本にアプローチするわけではありませんので、なかなか良い結果が出ません。
そうすると、親御さんは落ち込みます。
「私の支援が悪かった」
「私の理解が足りなかった」
「だって、支援者が言うには、ちゃんと支援すれば良くなるって言ってたから」


支援者の中には、支援を通して親御さんと本人をコントロールする傾向があります。
それは支援者の持つ愛着の課題と、支援を受け続けることで儲かる仕組みがあるからです。
インチキ宗教と一緒で、結果が出ようが、出まいが、自分の示す支援をやってくれれば、それでいい。
良いことが起きれば、「それは一生懸命お祈りしたから」で、悪いことが続けば、「まだまだ信仰心が足りない」というやつです。


支援者の示す支援をやってみて上手くいけば、「ほら、私の言った支援をしたからでしょ」となり、親御さんはどんどんその支援者、支援に傾倒していくようになる。
反対に上手くいかなければ、「ほら、やり方が合っていないからだ」「もっと勉強しなきゃ」となり、講演会や研修会へ導かれ、必死に結果を出そうと傾倒していくようになる。
だから、結果はどっちに転んでも良いのです。
こうやって、知らず知らずのうちに「子育てに正解、不正解があって、支援者がそれを知っている」という思考が築き上げられていく。
「そもそもその支援方法自体が合っていない」という選択肢を隠してあるところがミソです。


ちなみに支援者バージョンの洗脳が、ライセンス制度です。
「〇〇療法をきちんと習得するには、講習に参加が必要です」
講習に参加したあと、実践でうまくいければ、「やっぱり資格を取ったからだ」となる。
で、うまくいかなければ、「レベル2も取りましょう」「はい、わかりました」となる。
これの繰り返し。
洗脳する側の支援者は、資格の名前を変えるのと、研修の内容を少し変えるのをやるだけ。
喰いつく人を集めれば、あとは勝手に洗脳されていくので、人を集めがメインになります。
ですから、洗脳系ビジネスの教祖様はFacebookの友達の数が千人単位。


私に答えを訊いてくる親御さんというのは、支援者の洗脳を受けた人が多いといえます。
また親御さん自体に、洗脳を受けやすい器質があります。
子どもが親の顔を伺うように、支援者の顔を伺っている。
顔を伺うのは、誕生後すぐの子どもにとっては大事な生存戦略。
でも、その生存戦略を残したまま、大人になっている。
自らの足で行動し、自らの意思で選択していく経験が乏しかった雰囲気を感じます。
こうなると、子を育てる不安、さらに発達障害を持っているという不安が、支援者への傾倒、支援への傾倒を後押ししてしまいます。


支援者に答えを求めている状態では、子どもはより良く育っていきません。
何故なら、子どもの顔よりも、支援者の顔をよく見るようになるからです。
テストの答えのように、子育ての方法は一つではありません。
子どもは生きていて、常に活動し、成長しています。
その時々で、より良い方法は違うのです。
ですから、親御さんに求められるのは、しっかり子どもを見ることであり、その変化に注目すること。
支援者の顔を見ている間に、ある意味、別の子に変わっているといえます。
週に1回、月に1回の支援者に、その変化は見えていませんし、変化した瞬間、アプローチを変えることはできません。


支援者の口から出たアイディアが、家につく頃には合わなくなっていることさえあります。
だからこそ、親御さんがそのときの子どもさんの姿に合わせて子育ての仕方を変えられることが大事なのです。
そのためには、支援者から受けた洗脳を解く必要がありますし、親御さん自身に主体性を持ってもらう必要があります。
赤ちゃん時代の生存戦略からの脱却、発達です。


子育ての善し悪しとは、結果論だと思います。
他人が子どもの成長する姿を外から見て、良い悪いと言っているにすぎません。
それに第一、子どもの内側には自らを発達させ、伸ばす力があります。
子どもの持てる力を発揮できるような環境作りと後押しが、ヒトの子育てだといえます。


子どもが伸び伸びと成長している親御さんというのは、子どもさんの顔を誰よりもよく見ている親御さんです。
「子どもの中に真実がある」といった信念も感じます。
問題が起きれば支援者を頼りたくなるのもわかります。
でも、治せる支援者は、結局、その子の中に真実を見ようとします。
ノウハウや経験、知識を内側にたくさん持っていたとしても、その子の内なる声に耳を傾けなければ、治すことはできません。


支援者が自らの手の中に答えがあるように見せるのは洗脳です。
本物の支援者は、子どもさんのどこを見ているかを伝え、親御さん自身に真実の見つけ方を教える支援者のことを言うのだと思います。
そして、親御さんが子のために、もがき苦しむ時間を奪うことなく、大切にする。
親が親になり、対処ではなく、じっくり子育てが行えるようになる時間を待つ人なのです。

2018年5月1日火曜日

『感覚過敏は治りますか?』(花風社)を読んで

「感覚過敏」と聞いて、すぐに思いだす子がいます。
縁あって就学前から関わっている子でした。


その子の口癖は、「あの音なんだ?」でした。
ちょっとした音が聞こえると、近くにいた大人に尋ねたり、自分でその音がした方向へ行ったりして確認していました。
その行動は、就学後まで続いていました。


あるとき、突然、それまで見られていた「あの音なんだ?」がなくなり、音を恐れるようになりました。
それを見た親御さんは聴覚過敏が強くなったのだと思い、イヤーマフを購入した方が良いか、相談されたのでした。


私は幼少期から関わらせてもらっていたその子の姿から「聴覚過敏」という言葉は連想できませんでした。
むしろ興味関心の方だと捉えていました。
ですから、興味関心が満たされたからといって、いろんな音が認識できるようになったからといって、急に恐怖感まで振り切るものなのか、疑問に思ったのです。


そんな疑問を持っていたとき、その子が耳に物を入れようとするのを見かけました。
最初に耳の内部の病気を疑いましたが、そうではありませんでした。
で、私はもしかしたら、と思いました。


そう、その「もしかしたら」がきっかけでした。
学校で耳栓をつけるようになったのです。
しかも、親御さんに報告がなく。
理由としては、授業中、いろんな音に反応し、集中できないからだと、あとから説明がありました。


報告がなかったのはもちろんのこと、発達、成長が著しい子どもさんに、大人側の理由から刺激を統制するのはひどいことだと思いました。
本人が耳から入る刺激が辛くて、どうにかしてほしいと訴えるのならまだしも、「気になる」というレベルです。
発達障害のあるなしに関わらず、まだ未経験が多く、狭い世界で生きている子どもにとっての世の中は気になることに溢れた世界だといえます。


ちょうどその頃、高機能ブームの波が当地にも来ていまして、またちょうど運よく(悪く)、高機能ブームの中心にいた有名支援者が度々来ていました。
当時、養護学校に通っていた生徒さんが突然、みなさんイヤーマフをつけだしたのを見て、「どうしたんだ」と思ったら、その方がいらした直後でした。
あれだけ「個別化が大事」「一人ひとりをよく見ることが大切」と言っていたのに、受け取った側がみんな同じ支援。
自閉症の人の中には、聴覚過敏や視覚過敏を持つ人が多くいることは知っていましたが、ある日を境に、みんながみんなイヤーマフに、サングラスという姿に、支援の答えは持ち併せていませんでしたが、違和感だけはっきり持っていたことは覚えています。


今朝、朝ランのときに五稜郭公園を通りましたが、桜が満開になっていました。
そして、そんな満開の桜のように、発達障害の人達が悩み、生きづらさを感じる感覚過敏に対し、希望の花を咲かせてくれるような本が届きました。
花風社さんから出版された新刊『感覚過敏は治りますか?』です。
今回も、著者の栗本啓司さんが貴重な知見を教えてくださっています。


私は、この本を開いた瞬間、「生きている知見」という文字が浮かんできました。
この「生きている」には、2つの意味があります。
それは、栗本さんの知見はまだ完成したものではなく、これから益々発展し、より良いものへと変化していくであろうという意味の生きているです。


栗本さんの著書や講演に参加させていただくと、知見の深さと広さ、思い浮かべることのないような知識と知識の繋がり、経験と知識の繋がりを感じ、毎回、驚き、ただただ納得するばかりです。
しかし、それだけではなく、栗本さんの知見に触れさせていただく次の機会には、さらに前回よりも研ぎ澄まされており、再び驚くのです。
それを私は必死に噛み砕き、自分の血肉にしようと試みますが、またより純度の増した知見がやってくる、といった感じです。
私は、特に栗本さんの著書は皆さんにお勧めしていますが、過去の三冊の著書よりも、もっと素晴らしい知見が私達の日々のアイディアを刺激してくれると思います。


もう一つの「生きている」は、より実践的という意味での生きているです。
栗本さんのお話を聞いていると、人を大切にしているのがよくわかります。
今回の著書に記されている文字にも、日々、どういった姿勢で人と向き合っているのか、そしてその人の姿が見えてくるようでした。
自分の知見を披露しよう、高度な知識を与えてやろう、などの雰囲気はまったくなく、本当に一人ひとりに良くなってもらいたい、ラクになってもらいたい、自分の人生を豊かに生きていってほしい、という想いを感じます。
そういった姿勢と想いが文字に含まれているので、栗本さんの知見は、それを受け取った人を通して、すぐに実践されていくのだと思います。
アレンジしやすく、また治っていく人が多いのは、そんな文字に込めた栗本さんの生きている熱があるからなのだと私は考えています。


以前に、時計の針を進める仕事についてブログに記しました。
まさに今回の新刊は時計の針を進める本だといえます。
きっといつかは、本の中に記されていた方向で感覚過敏への支援、援助が進められるようになるのだと思います。
でも、今回の新刊が世に出たおかげで、その未来が10年、20年早く訪れたような気がします。


「感覚過敏は治りますか?」という親御さんの問いかけに、今までずっと「それが自閉症だから」という答えしか返ってきませんでした。
しかし、「感覚過敏は治りますか?」に対して、栗本さんは明確に回答してくださっています。
長らく「それが自閉症だから」「それが特性だから」という言葉で止まっていた時計が進み始める音が聞こえます。
私達は、ある意味、10年後の未来を手に入れることができたといえます。
その未来を手に、今を生きる人達、そしてこれから生まれてくる子ども達のために活かしていくことが大切だと思います。


是非、感覚過敏に悩まされている方だけではなく、発達障害を持った子を育てている親御さんに読んでいただきたいです。
どうやって育てていけばよいか、どこから育てていけばよいか、の大きなヒントが得られると思います。
私は、今後もこの仕事を続けている限り、今回の著書も何度も何度も読み返すはずです。
きっと10年後、20年後の人たちも、同じように読み返す本になると思います!